歳の暮にあたり

2012-12-30 16:11:24 | その他


あれやこれやとやっているうちに、月日はあっという間に過ぎてゆきました。
お読みいただいて有難うございました。

なかなかものごとは予定通りにはゆきません。
「日本家屋構造」の紹介、「構造編」を年内に終えるはずでしたが、あと2回分ほど残ってしまっています。

来年も、建築をめぐり、思うこと、是非紹介したいこと、などなど、
原点に立ち返る( radical な)視点を忘れることなく、書いてゆくつもりでおります。
お読みいただければ幸いです。
コメント (2)
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この国を・・・・40:続々・福島の現情

2012-12-23 18:12:06 | この国を・・・
28日の東京新聞社説:TOKYO Web:へリンク。
同じく筆洗へ。
もってまわった言い方はしていません。論理明快。
毎日新聞夕刊の特集記事 Web 版もどうぞ。
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
昨日のの冷たい雨のあとの冷え込みで、今朝はあらゆるものが凍てついていました。
隣地の柿の木は、渋柿で多分蜂屋柿ではないかと思いますが、他の柿がとっくに枝だけになっているのに、まだ干し柿のようになって実をつけています。
あたりに餌がすくなくなったのでしょう、鳥たちが集ります。
今朝は、メジロの群れ。辛うじて撮れました。
柿にぶら下がって突いているのもいます。何羽いるでしょう。



[追記追加 24日 1.25][文言追加 24日 9.07]

昨日(22日)、「伝統木構造の会」の講習会、増田一真氏の話を聴きに行ってきました。
かなり多くの方がたが集っていました。
おそらく、古より長い時間をかけ、そして営々として、日本という環境に即するものとして、先達達が築き上げてきた木造建築、その技術・技法では、現在建物がつくれなくなっていることに対する苛立ち、憤り、
そしてその「現実」にどのように対処したらよいか・・・、それが多くの方がたがお集まりになっている理由ではないかと思います。

その対処法の一つが「構造解析」「構造計算」に拠る方法。
建築基準法が細かく「構造計算」法を規定しているのならば、その計算法に拠って、これまでの建物づくりの方法の妥当性を立証しようではないか、という対処法:方策であると言ってよいでしょう。

日本で、建物の「構造解析(建物に生じるであろう諸種の力に拠る「挙動」の様態の解析、それを数値にて示す)」、それに基づく「構造計算(構造解析によって「得た」挙動に「適応する」部材の仕様を数値で設定する)」が「学」として論じられるようになったのは、そんなに昔のことではなく、せいぜい150年程度しか経っていません。
そして、実際に、建物づくりに深く関係するようになったのは、特に、第二次大戦後の70年足らずです。
もちろん、これらの「学」は、当初は西欧からの輸入です。

西欧で、建物・構築物を、事前に「構造解析」「構造計算」を行って設計するようになったのは、19世紀(1800年代)半ば以降です。しかし、それ以前に、19世紀の初頭、1801年に、I 型の鋳鉄製の梁を使った建物がつくられています。これについては下記をご覧下さい。
   鋳鉄の柱と梁とで建てた7階建のビル・・・・世界最初の I 型梁
今の人には、何故、「学」が存在しないのに梁を I 型にする方策が考え出されたか、不思議に思われる方が多く居られるかもしれません。
ものごとは「学」があって初めて「正しく」考えることができる、それが「科学的な所作である」と思っているからです。
   正確に言うならば、そのように「教えられてきている」からです。
これらの「学」は、鉄やコンクリート(鉄筋コンクリートも含みます)が構築材料として使われだしてから生まれた学問です(初歩的ないわゆる「力学」はありました)。
ところが、これらの「学」が確立する前に、西欧では、多くの、今から見ても感嘆すべき構築物が鉄やコンクリートでつくられています。それについても以前紹介しています。
そして、「学」が確立し、「権勢」を振るうにつれ、これらに匹敵する構想の構築物が減ってくる傾向が見られることについても、触れてきました。

「先ず『学』ありき」となってしまってから、人びとの構想力、想像力、すなわち創造力が萎縮したからではないか、と私は考えています。

日本の建物づくりの場面でも同様です。
むしろ、日本の場合は、それ以上に悪しき事態が起きました。
「学」の「権威」をもって、それ以前の建物づくりの技術を支えてきた人びとの考え:技術・技能を、「非科学的である、として全否定した」のです。
これについても、以前から、折に触れて書いてきました。
数百年も建ち続けている建物が目の前にあるのに、それとまったく同じものでさえ、現在は建てることができないのです。

そういう事態にどう対処したらよいか、というのが今回の講習会の主旨であったろう、と思います。
講習会の中で、「最も進んでいるという立体解析法」の話がありました。
立体である構造物を、「これまで、その挙動の解析が分っている(と思われている)要素で構成された立体」に置き換え(これをモデル化と称します)、数値解析しようというものです。
   註 「思われている」と言うのは、私の解釈です。
      関わっている方がたは、「分っている」と思い込んでいます。
その際、たとえば、棒状の材同士が交叉する箇所について、それが木材のように弾力性のある場合については、バネのような弾力があるものと仮定してその交差点の強さを仮定します。その「仮定」については、その部分を(だけを)実物大につくって力を加える実験を行い確かめるようです。
そして、そういった「仮定(の集積)」の下で、力が加わったとき、モデルがどういう挙動をとるか、それを計算する、それが立体解析と考えてよいでしょう。
そして、その結果、立体構築物を構成している各要素・部材が適切であるかどうか、判定する、というわけです。

立体解析法の「手続き」を聞くと、ものすごく「精密である」、ゆえに正しい、と思いたくなるのが、今の世の人びとの「人情」というものでしょう。
   ただし、「実際の事象」を「厳密に反映している」という証は何処にも示されていません。[文言追加 24日 9.07]
   ここで留意しなければならないのは、
   その「解析法」は、世に存する構築物すべてを説明できなければならない、ということです。
   説明できない事例が一つでもあれば、それをして「すぐれた論・理論・解析法」などと称してはならない、 
   ましてや、すべての事象を、それで律しよう、などと思ってはならない、  
   これは、物理学の世界ならば、「常識」ではないでしょうか。
   私は、「龍吟庵・方丈」を、この「解析法」で説明していただきたい、と考えています。
   この建物は、壁がまったくありません。そして、室町時代の末の建設ではないか、と考えられています。
   それ以来、倒壊することなく、建ち続けてきた建物です。
   もしも、解析できない、建ち続けてきた理由を説明できないならば、
   それは「理論」ではない、と言うことです。[文言追加 24日 9.07]
   この点について、「厳密と精密」ご参照下さい。[追記]

立体解析法に拠らない普通の構造計算書でも、何々の数値が基準の数値よりも大きい、ゆえにOK、という箇所がいろいろとあります。
OKなんだ、これでいいんだ、よかった・・、などと思うわけです。

ちょっと待ってください。
その「基準」とは、いったい何なんですか?
それは、実験やコンピュータを駆使した解析で得られた数値です。
それを聞くと、何となく安心してしまいます。

でも、更にちょっと待ってください。
実験や解析で得られた数値が妥当である、事実を反映しているのだ、との判断は、いったい、どのように為されたのでしょうか?
実は、科学的と言われる諸種の判断の、その最終の判断は、そういった諸種の解析データなどを眺めての、「そのデータを収集した方がたの『判断』に過ぎない」、という事実が見過されている、というのが私の考えです。
簡単に言えば、
「かくかくしかじかの諸種のデータを見たところ、私は、これはこういうことであると見なしている」ということに過ぎない、ということです。
ところが、それを外に向けて言うときに、その「主語」、すなわち、「判断をした主体」が消され、あたかも「神の啓示」であるかの如くに語られるのです。
「学」に携わっておられる方がたは、数値解析的操作に関わっているうちに、あたかも自らが神であるかのような錯覚に陥っていってしまっているのかもしれません

今日(23日)の毎日新聞の朝刊に、次のような記事が載っていました。


なぜ、福島のある地域が居住不可能になっているか。
それは、原発事故によって降り注いだ多量の放射性物質が大地に浸みついてしまっているからです。
この放射性物質、それは、人工的に生まれてしまった物質、それまで、自然には存在しなかった物質です。
その発する放射線の強さについて、「安全性の基準」が数値で示されています。
しかも、その数値が、何度も変っていることは周知の事実です。
ここにおいても、誰かの判断で、その数値が示されているはずです。
その判断は、その方(がた)の「(直観的)判断」です。
ここで、直観的に括弧を付したのは、直観と言っても、それは、その方の「実体験・実経験」に拠ったものではないのは確かだからです。
「直観」というのは、人が、その日常の体験・経験、生活の中で身に付けるもの。
たとえば、セシウム137で囲まれたなかで暮し続けてきたことのある方は、居られないはずです。
したがって、示されている安全基準数値なるものは、言ってみれば、「虚言」:内容の伴わない言葉:に等しいと言ってもよいのです。[語句改訂:戯言⇒虚言、妄言でもいい 24日 17.05]
つまり、この安全基準数値なるものを、あたかも「神の啓示」であるかのごとくに示す、のは間違いであり、提示者は名乗るべきである、というのが私の考えです。

この記事にある、後世への歴史資料として、「責任者」として関係者の名前を襖に書き残している方は、きわめて scientific な考えをお持ちの方だ、と私は感動しました。
この方は、「科学者」の「科学的発言」に対して、人間の理に拠って疑い、憤っているのです。
   もっと端的に言えば、
   自らの「判断したこと」の起した結果は、「自然が想定外の状況を惹き起こしたから」という「理由」をあげて
   そのときの自分たちの「判断」に誤りがあったわけではない、と「科学者」たちは開き直っている、
   それを言うならば、
   先ず「私は、自然界の『動き』のありようについて、まったく無知であった」と、語るべきではないか
   更に言えば、
   「自然を凌駕できる、などと思っていたのは、浅はかであった」と語るべきではないのか、[追記]
   と、自らの体験・経験を拠りどころに、問い詰めているのです。
   その発言には、根拠があるのです。[追記 24日 1.25]
はたして、建築に関わっている方がたに、この方と同じ「理」があるでしょうか。「利」が先に立っていなければ幸いです。


ところで、政治家は、盛んに「経済の再生」を叫んでいます。
どうも、それは、企業が儲かるようになることを意味しているようです。そうなれば、庶民の生活もよくなる、ということらしい。そうなった験しはない・・・。
「経済」の語の漢字の語源については、以前記しました。
「リベラル21」の記事で、松野町夫(翻訳家)氏が、英語の economy の語源について書かれていますので、その部分を転載させたいただきます。

   明治以降、「経済」はエコノミー(economy) の訳語があてられ、economy の意を含むように変わっていった。
   世界大百科事典によると、economy の語源はギリシア語 oikonomia にあり、
   これは oikos(家)と nomos(慣習、法)からなる合成語で、家の管理・運営のあり方、家政を意味している。
   このように economy は当初、家を単位とする規定であったが、
   その後、ひとつは都市国家社会を単位とするように拡大していった。
   このように拡大すれば economy は経世済民の「経済」と同じ意味となる。
   つまり、経済や economy の原義は、政治に関連する事柄をさしていた。
   経済=economy=政治。


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「日本家屋構造」の紹介-18・・・・「天井」の構造

2012-12-21 14:39:12 | 「日本家屋構造」の紹介


[末尾に追録追加 17.30 ][次回の予定:訂正 22日 9.00][追記 24日 1.06]

今回は、「天井」について。
天井と言っても、今では設計する方が少なくなったと思われる竿縁天井(さおぶち てんじょう)、格天井(ごう てんじょう)の解説です。
   日本の建物の天井のつくりかたの特徴は、下から仕上げ材を張る、打ち付ける、というつくりでないこと。
   簡単に言うと、重力に逆らわない方法を採る。
   多分、「踏み天井」:床を張る→下側が天井になる、ということからの発想でしょう。
   この方法は、下向きの姿勢で作業ができ、楽で安全で、確実なのです。

十七 天井

第一 天井各部の仕方
第五十六図天井各部の仕口を示した図。
図のは、稲子張天井(いなご ばり てんじょう)の図。
本稲子(ほん いなご)のときは天井板の部分を决り欠いて、竿縁(さお ぶち)の間ごとに幅4~5分×深さ1分くらいの蟻型切欠きをつくり、次の天井板の上端から、竹でつくった稲子を差し込む。
天井板が薄いときは、付稲子を使う。付稲子は、図のように、6分角×3寸程度の材に幅5~6分深さ1分5厘の切り欠きを設け、板に膠で取付け、次の板の上端から稲子を差し込む。
図のは、本稲子を取付ける仕方、図のは、天井板の張り方を示す図。
   稲子は、この部材が昆虫のいなごに似ていることから呼ばれた名前に漢字を当てたのではないでしょうか。
   なお、稲子の材料は、竹にかぎりません。
図のは、廻縁(回縁)(まわり ぶち)の隅の部分の仕口で、目違いを設け、下端(見える部分)を留めで納める方法。丁寧な仕事では、これにを追加し、裏面で鼻栓を打つ。
図のは、平の柱廻縁(回縁)を取付ける仕口、図の(き)は同じく廻縁(回縁)を間仕切の隅の柱襟輪欠きで取付けるときの仕口を示す。
   の字に「たいら」と読みが付せられていますが、この場合は「ひら」が適と思われます。

   以上は、竿縁天井のつくりかたの解説です。
   天井板は、相互を突き付けるのではなく、端部を重ねてゆく張り方をします:羽(刃)重ね。
   木材の収縮を考慮したものと考えられます。
    ⇒材自体に手を加え、重ねないで済む方策が合決り(あいじゃくり)。
   ここでは、羽(刃)重ねの部分の構造と、壁際に設ける廻縁(回縁)の取付けについての説明が書かれています。
   ただ、この第五十六図は、分りにくい点がありますので、下記書籍から当該箇所の図を転載します。
     玉置豊 次郎 監修 中原 靖夫 著「工作本位の建築の造作図集」(理工学社 1995年刊 第9版)
    
       なお、右側の図は、「日本家屋構造」所載の上掲の図が元図のようです。

     同書には、竿縁天井の構造について、更に分りやすい図がありますので、以下に転載させていただきます。
     はじめに、竿縁天井の全体図。
    

     次に稲子のいろいろ、その詳細。
    

     次は廻縁(回縁)の取付け法。
    
     同じく廻縁(回縁)の取付けにあたっての留意点。
     柱に、何故襟輪欠きで取り付けるのか、その理由が説明されています。
    

次は格天井(ごう てんじょう)の構造について。
解説文が長いので、解説図を別ページに分けます。 


第二 格天井
第五十七図は、折上げ格天井格縁(ごう ぶち)の構造を示した図。
格縁および廻縁(回縁)の断面は正方形で、一辺を柱の径の1/2とする。ただし、建物が広く、柱が太い場合には、柱の径の 3.5~4/10 とすることがある。
図のは、平亀の尾:平の部分の折上げの断面図を示す。
高さは、廻縁(回縁)上端より格縁4本半分上った位置を天井面とし、出は格縁4本半分を、図のように格縁の外側の位置とし、格縁の内側から水平面を若干とり、その位置から垂直線を下ろし、一方、隅から45度の線を引き、その交点を中心として円を描き、それを天井の曲面とする。
   註 折上げ天井を設計したことがありません。
     この部分の解説は、文だけでは意味不明のため、図を私が「勝手に」推測して訳してあります。
     誤まっていたら、ご指摘下さい。
図のは、折上げの隅の部分:隅亀の尾の製図法を示した図。高さは平亀の尾と同じで、出はその裏目(曲尺の裏側の目:√2倍の目)の長さとなる。右側の平亀の尾の曲面をなるべく細分して点をとり、それを隅に写して作図する。
図の丙は格縁の木口:断面図。一辺を6等分して、その下角の1分分に図のような面を刻む。また子組を嵌め込むときは、その組子の大きさは、高さは幅の1/3とし、厚さは1/6とする。組子の明きすなわち内法は格縁の5/6とする。
   この部分、「直訳」です。図がないのでよく分りません!
図のは、猿棒天井(元は猿頬天井)の(猿頬)竿縁の断面。一辺が柱の径の1/3の正方形の3/6を下端として、高さの1/2まで図のように面を取る。
   この断面の形が猿の顔・頬に似ていることから猿頬と呼ぶようになり、人によっては猿棒と称したようです。
   なお、竿縁の形状は、ここに紹介されている断面でなければならない、というわけではありません。
   いろいろな形状があり、端的に言えば、設計者の任意です。
   他の寸法なども同じです。
   ただ、学習の方法として、「定型」から出発し、その定型の「意味」を会得し、その後「任意に」展開する、
   という過程が大事だ、と私は思っています。

他の部材は、以下のようにつくる。
廻縁(回縁)は、その上端の裏側にあたる部分を少し斜めに下げ削り、板の矧ぎ付け(相手への密着具合)をよくする。
   廻縁(回縁)の部屋内側の上端の稜線部が天井板と密着する、隙間ができにくくする工夫。
   まったく平滑な面にすることは難しいが、角を出すことは簡単だし、万一、稜線が不陸でも、
   容易に板に馴染むのです。稜線部に力が集中するからです。

天井板のの削り方には、の部分の厚さ1~2分、重ね8分程度に削って重ねる方法と、板上端から下端角まで斜めに削り落す辷刃(すべり は)と呼ぶ方法があり、これは屋根の裏板や部屋内の羽目板などで使われる。
   
   今、折上げ格天井を設計する機会は先ずないと思いますが、分りやすい折上げ天井の製図法が、
   先の玉置豊 次郎 監修 中原 靖夫 著「工作本位の建築の造作図集」(理工学社)に載っていますので、
   以下に転載させていただきます。つまるところ、図学の学習です。
   

追 録 [17.30 追加]
竿縁小屋梁、床梁などから吊木で吊ります。その吊り方についての解説図を、「木造の詳細 2 仕上げ編」(彰国社)から転載します。
   
   左側がいわば正統な方法です。
   天井板の継目(重ね目)は吊木の列の位置になります。
   吊木寄蟻の蟻型の元はの厚さ分引いた位置になり、板の上端の位置で横栓を打ち竿縁に密着させます。
次に、竿縁天井は、竿縁の割付とともに、天井板の割付が結果に反映します。
   そこで、天井板の割付法を、前掲の「工作本位の建築の造作図集」から転載させていただきます。
   
   この図は、上の図の「吊り方-2」を使っている例です。
   「吊り方-2」は、いわば、竿縁を「化粧材」として扱う方法です。
   本来の「竿縁」は、天井板を受けるいわば「構造材」です。
   「光浄院客殿」では、どうなっているか、分るところまで調べてあらためて報告いたします。[追記 24日 1.06]

次回は、突然ひるがえって! 水盛り遣り方地形(地業)の話になります。 
これは間違いでした、その前に「出入口上などの板庇」「雨戸の戸袋」の構造の解説があります! [訂正 22日 9.00]  
コメント (1)
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この国を・・・・39:続・福島の現情

2012-12-18 11:14:24 | この国を・・・
21日の毎日新聞夕刊、澤地久枝さんへのインタビュー記事にリンクします。[21日 17.55]

国家の権力を制限し、国民の権利を護ることが、憲法創設の精神であると明言したのは、明治憲法創設に関わった伊藤博文である、とのこと。
私は知りませんでした!
「憲法」という概念が、何故生まれたかを考えれば、当然ですね。
国家権力が横暴だったからこそ生まれた概念。
憲法を「改正」したい、と言う人たちは、このことを知っているのか。
そのことに触れたコラム:東京新聞・12月20日付「筆洗」を、冒頭に追記・転載します。
[20日 17.34]


  現ではなく現と書いています。現だと、どうしても視界から人が消えてしまう。

自民党の圧勝で、すぐさま喜んだ人たちがいます。電力会社の団体の「電気事業者連合会」や「経団連」・・・・・・などなど。原発再稼動ができそうだ、と喜んでいるらしい。そして株価が上がり喜んでいる人もいる・・・。

また、当選した議員の7割を超える人たちは、端的に言えば、憲法9条を廃棄し、他国と戦うことを是としたいらしく、そしてまた、原発再稼動を願うのも同じく7割を超える、と言います。

この方たちは、大半が昭和20年より後、いわゆる「戦後」の生まれ。すなわち、変えたいと願う憲法の下で育ったということ。
これまた、私には理解不能。そのどこが「不満」なのだろう、と思わざるを得ないからです。
   もしかして、《隣りの車が小さく見えます》の CM の下、偏差値を競って育ち、
   「軍事力」も含め、何でも隣(国)より「大きいことがいいことだ」と思うようになってしまった・・・。?
   
   関連して、19日の「リベラル21」の記事
   「『海征かば水漬く屍』を2度と許すまい・・・少国民世代こそ憲法9条の『語り部』になろう」をお読み下さい。
                                                 [追加 19日 9.42]
彼らはまた、原発の生む電力の下で育ったはず。
そして、福島で何が起きたかも知っているはず。
にもかかわらず、再稼動を願うのはなぜか。これも理解不能。
おそらく、福島の原発被災地域の人口など、都会に比べれば、ものの数ではない、大したことじゃない・・・と見なしている
私は、そう思わざるを得ないのです。

今日の東京新聞の Web 版に、注目すべき記事がありましたので、転載させていただきます。
福島原発事故収拾のための人手が足りない、という内容です。
何ということか、危険手当も廃止になっているという。事故は、去年の今日「収束」したからなのだそうです!
どうも、もう済んだこと、去年のこと、として、放って置かれている、というのは間違いではないようです。

電気事業連合会も経団連も、再稼動は願っても、この「事態」について何ら行動を見せていない。
何の利にもならないからでしょう。まことに合利的です。

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この国を・・・・38:福島の現情

2012-12-15 09:28:02 | この国を・・・
今年は、神社の大銀杏が、もう葉を落としてしまいました。



原発を稼動させないと、日本の《経済》は破滅する、《景気》は更に悪くなる、日本は沈没する・・・、と広言する《政治家》や《経済人》がいます。しかも声高に・・・。
しかし、《経済》が《好調》で、《景気がよかった》・・とき、いわゆる「ホームレス」の方がたが、街に、河原・・・にあふれていました。そして今もまったく変りはない・・。

更に福島の周辺では・・・。

福島の立ち入り禁止区域で、殺処分の指示を拒否し、400頭以上の家畜の飼育を続けている方が、東京の町ゆく人たちに次のように呼びかけている、という記事が昨日(14日)の毎日新聞に載っていました。
福島を蹴飛ばし、犠牲の上に成り立つ皆さんの暮しはこのままでいいのか
原発がなきゃ仕事がないって言うけど、何もかも無くした福島を見てほしい
この方のことは、かつて東京新聞などでも紹介されています。

世の中では、まるで何ごともなかったかのように、福島が放って置かれている、というのは私の変らぬ実感でもあります。

先日いただいた福島・いわき の知人からのメールに、次のような一節がありました。

・・・・・
今日から我家の屋根瓦の葺き替えです。
放射能汚染直後でしたら洗浄で洗い落とせたかも知れません。
瓦の中に放射性物質が染み込んでいて、表面を洗い流しても数値が下がりませんでした
やっと瓦屋さんが来てくださり、葺き替えとなりました。
室内、ロフト天井面で0.14μシーベルト(昨年の今頃の測定値は0.17位でした)
から0.10μシーベルトまで下がりました。
屋根から降ろした瓦の山に線量計をかざすと0.3μシーベルトありました。

以前は線量計であちこちを計測し、言いようの無い不安な日々でしたが、
そのストレスを避けるためか、私達も含め皆計測することを止め、
考える事をしないようになってきています。


街は、廃炉や除染の為か 県外ナンバーの車が多く見受けられます。
又、災害復旧(まだまだ)でトラックが多く、幹線道路は渋滞します。
会津、二本松から いわき へ移り住む方々の応急仮設住宅が今も建設され、
仮設と別に災害公営住宅(津波や全壊、大規模半壊等方々用の)が1500戸が建てられるようです。
まだまだ落ち着く日がくるのは先のことのようです。
・・・・・

この部分を紹介させていただきたいとお願いしたところ、こころよく承諾いただきました。その旨の返信にも、次のようにありました。

・・・・・
夏に 浪江 の家屋調査に伺った家は、昨日まで生活していたそのままでした。
そのまま埃がかぶっていて、タンスなどからそのつど必要な衣類が持ち出されているようでした。
きれいに引っ越し荷物をまとめた家ではありません。
当時の急いで避難された様子がすぐわかりました。
又、食べ物があったからか、けものが入った形跡がありました。
建物の外からは判らないですね。

同じ夏、いわきの住宅団地(いわきニュータウン)で20区画程度の土地分譲がありました。
面積は80坪~150坪、警戒区域内の方々の申し込みが多く、150坪の土地に10数倍の倍率、80坪は当初0でした。
楢葉、双葉、大熊、浪江の方々には150坪でも小さいのかも知れませんね。
まだまだですね・・・。
・・・・・

これは、無人地域に隣接する福島のなかでも比較的「安全」と見なされている町 いわき での話なのです。
こういう状態を知ったならば、原発を稼動して《景気》をよくしようなどと言えるはずはない、それがあたりまえ。

停止中の原発がある各地では、稼動しないと仕事が無くなる、地域が衰える・・・と《経済人》や《政治家》と同じことを言う方がたが、まだたくさん居られるようです。
無人になり荒れはてつつある福島の町や農地や山林・・・そして放って置かれた動物たち・・を、想像できないのかもしれません。
そう言えば、現場からの帰りに通り過ぎた東京の街は、「節電」などはとうの昔に忘れてしまったのでしょう、これでもかとばかりに輝いていました。

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「日本家屋構造」の紹介-17・・・・「床の間」まわりの構造

2012-12-13 00:07:24 | 「日本家屋構造」の紹介
少し時間が空きすぎてしまい、恐縮です。



今回は、「日本家屋構造」所載の「床の間」まわりの構造の紹介です。

「床の間」も、見かけることが少なくなりました。
「和室」というと「床の間」が付きものであるかのように思われているようです。
しかし、それは、武家階級の人びとが、住まいには必ず「上級」、「格上」の、「当家の主人の格を示す室」を設けるものだ、そのモデルは寺院の客殿、後のいわゆる書院造だ、といういわば「思いこみ」がつくりだした習慣にすぎない、
「床の間」をつくるようになったのには、別の意味・意図があった、と私は考えています。
それについてはあらためて書くこととして、武家階級の住まいを受け継ぎ、明治期の人たちがあたりまえのものとしてつくっていた「床の間」のつくりよう、それが今回の内容です。

十四 床の間
第一 床の間各部のつくり

第五十三図は、床の間各部の仕口を示す。
図のは、床柱への各部:床框(とこ がまち)、畳寄(たたみ よせ)、落掛(おとし がけ):の取付け方を示した断面図である。
図のは、見付面(みつけ めん)を丸太のままとした床柱(とこ ばしら)で、足元を畳面から柱径の2.5~3本分だけ平らに鉋で削り木目(杢目:もくめ)を表す場合で、これを竹の子目と呼んでいる。
   見付(みつけ)面:正面から見える面。これに対して、奥行方向を見込(みこみ)と呼んでいる。
このような床柱を使うとき、落掛木口(こぐち)を1分5厘から3~4分ほど柱の面上に表わす仕上げ法があり、これを切目胴付(きりめ どうつき)と呼ぶ。
   註 竹の子目の柱は、一般的ではない。
図のは、落掛床柱への仕口を示す。
落掛は、長押の上端から柱径の1.5~3本程度上がった位置に設け、端部を箱目違いに彫り、大入れ遣返しで嵌め、固定するために一方の仕口上部にを打つ。
    遣返し:やりかえし 通称「行って来い」
     「一つの木を他の木に穿ちたる穴に差込み、更に反対の方向に、少しくいざらすことをいう。
     二本の柱の間へ、横木を差込むときなどに、遣返しをなす。例えば、床の間の落掛けの如し。
                                         (「日本建築辞彙」新訂版による)
図のは、床框への取付け方を示す。
は、漆塗った框の場合で、その木口を三角に刻み、その部分を大入れとして嵌め込み、裏側からを打って固定する。
は普通のの場合。木口曲折(かねおり:90度)の目違いを刻み、大入遣返しの間に取付ける。
床の間の床面を板仕上げとする場合は、床框の片側に図のように小穴を决り(しゃく り)、板の裏面に2寸角ほどの吸付桟を2箇所設け、床框吸付桟引独鈷で欠き合わせ、目違いを立て、下端からシャチで締める。
粗末な仕口では、吸付桟の木口に蟻をつくり、框に寄蟻で取付けることもある。
   註 文のまま現代語で写しましたが、前段の部分、図がないのでよく分りません。
     また、寄蟻方式の場合、「寄せるためのゆとり」が取れるのかどうか、これも不明です。
     どなたか、ご教示いただけると幸いです。
     私は、こういう工作の設計をしたことがありません。

次は、床の間の脇に付きものののつくりについて

十五 棚
第一 床脇棚のつくり
第五十四図 其一
は、床脇の(一般的な)構成を示す。は、下から、地袋(ぢ ぶくろ)、違棚(ちがい だな)、袋戸棚(ふくろ とだな)からなる。
それぞれの位置・高さは以下の通りで、図はそれを示している。
違棚下棚板上端は、地袋板上端袋戸棚板下端間の高さの1/2。
   下板下端上板上端の高さは、柱の径程度。
   の厚さは、柱径の2~2.5/10程度。
   筆返し高さは、板厚の1.5倍、の木口から厚さほど。
地袋板(地板とも言う)と袋戸棚の厚さは、柱径の3/10。
棚板の木口を取付けるには、壁の中に板受け木を設け、受け木につくった穴に板を嵌め込んで釘打ちとする。板受け木は、と同じようにに差して固定する。
床脇の形状には各種あるが、地袋、違棚、袋戸棚で構成するのが一般的である。
床の間にはを設ける場合と蹴込床(けこみ どこ:階段様のつくり、第五十四図 其二参照)があるが、があるときは床脇を設け、蹴込の場合は同じく蹴込とするのがよい。
また、袋戸棚の前の天井は、鴨居の上に台輪をまわし、鏡天井とするのが普通である。
   鏡天井:一枚板(鏡板と呼ぶ)の天井。
   註 ここに紹介されているのは、床脇の一意匠。

次は、床脇のうち、違棚について

第二 違棚
第五十四図 其二は、違棚の各部の納めかた。
図のは、筆返の取付け法。図のように蟻型を刻み嵌め込む。棚板の木口には、木目が縦となるように別材を嵌める。この折付けを壁の方から見た図がである。この、木口の納め方を、燕蟻(つばめ あり)と呼ぶ。
   燕蟻端燕(はし つばめ) 端嵌めの訛ではないか。
      板の反りを防いだり、あるいは数枚の板を矧ぎ合せたとき、木口に板を嵌め込む方法を端嵌めという。
      古代寺院の扉などがその典型。
      この端嵌めが訛って端喰みと呼ばれるようになる。
      端燕は、この端嵌めの特殊な形:正面からは隠れて見えない。
図のは、違棚間の束柱蝦(海老)束の取付け方と立てる位置を示している。
図の上が正面にあたり、棚板の端からの径分引いた位置にを立てる。
の角には几帳面(きちょう めん)を設けるのを常とし、の大きさはの径の1/7とする。
   几帳面几帳の柱の角に使われることが多かったことから名付けられたとされる。
       下図は、「日本建築辞彙」所載の几帳面の図。
       
   几帳を立てて、(とばり)を掛けたもの。昔、部屋の仕切りに使った。(「新明解国語辞典」)

今回の最後は、欄間付書院のつくりについて
付書院はともかく、竹の節欄間は、最近つくることはまずないでしょう。

十六 欄間及び書院
第一 竹の節欄間(たけのふし らんま)及び付書院(つけ しょいん)
第五十五図は、廊下などの欄間に装飾的に設けられる竹の節欄間
竹の節欄間の木割は以下の通り。
束柱の径は、本柱の7分角。
   高さは、の径の3/10を一節として、その9.5個分とし、
   その一つ分を下の節とし、その4.5個分を中央の胴とする。
   上の節は1個分、その上の3個分は兜巾(ときん 頭巾とも書く)にあてる。
   欄間の上部の横木:玉縁の大きさは、高さを一節分、幅はその2倍。
   は、高さを束の径の6/10ぐらい、幅をその1.5倍とする。
   二本のの間隔は材の幅程度とする。
   の交叉部は合欠きで組む。
   の深さはの径の1/12程度で、図のように彫る。
図の縁側床の間と直角に設ける付書院を示す。
付書院の柱は、本柱の7/10角。地覆(ぢ ふく)は高さは敷居の高さに同じ。
   腰長押の高さは付書院の9/10、外の出は高さの1/5とする。
   地板(ぢ いた)の厚さは本柱の3/10。
   付書院中鴨居は高さを本柱の4/10として、
   付書院の面内に納める。
   鴨居の高さは本体の鴨居と同じ。
   台輪の高さは本柱の5/10、幅は柱面から高さの1/4外に出す。
   書院の高さは、内法高さを5等分して、その一つを地板の上端、上部は、中鴨居の下端までを一つ分、
   したがって、中障子の高さは三つ分となる。
付書院縁側への出は、本柱外面~付書院柱外面を1尺3寸程度とするのが普通であるが、側面を板壁とする場合は、7~8寸とすることがある。

以上で今回の紹介は終りです。
ここに紹介されているのは、木割も含めて、あくまでも一形式です。そして、その通りにつくって、いいものが誕生するわけでもありません(むしろ、見るに耐えないものになってしまうのがオチです)。
ここに紹介されている基となった実例は、関西地域に多数遺っています(関東地域、特に東京では、「日本家屋構造」紹介にそっくりの例が、多少ですが遺っていると思います)。
関西に在る事例を観ると、それは、寺院に限らず町家、農家などでも観られますが、これらの「意匠」は、単に「形式」「様式」として付加されたのではなく、それぞれ、ある意図の下に考案されたものであることがよく分ります。
更に言えば、これを生みだした人たちの創造力は、現代の建築家たちを数等凌駕していることも分ります。
そういう「伝統」を何処に置き忘れてきてしまったのでしょうか。

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理解不能・・・・ものを吊下げるアンカーボルト!

2012-12-06 10:33:05 | 構造の考え方
先回の記事に、注目すべき東京新聞社説を追加・転載しました。[6日 18.25]

前線が通過する前の朝陽の差す今朝の谷向うの風景。


「日本家屋構造」の紹介の続き、編集が遅れています。
その間に、笹子トンネル事故への感想。

笹子トンネルは、今の現場へのルートの手前、東京寄りにあります。
トンネルは1977年の完成とのこと。最初の建物の竣工が1983年、現場への往復によく使っていました(今は、車での東京横断は疲れるだけなので鉄道を使っています)。
鉄道:中央東線は、日本の鉄道の中でもかなり早い頃の建設で、甲州街道(国道20号)に沿ってごく自然なルートを採っています。だからカーブが多く、急な坂道を避けるためにトンネルが多い。トンネルも無理をしないルートを採り、当初のものは石積や煉瓦積。鉄道の笹子トンネルは、戦後に増設されたのを含め2本ありますが、当初のは煉瓦積のようです。

中央線から、中央道がよく見えます。中央線と比べると、まさに近代土木技術による建設。
特に目に付くのが長大で巨大な鉄骨(立体)トラスの橋桁。中には100m近い距離を飛ばしているようです。
いつも、部材がスレンダーだな、近代初頭なら、そして、建築でやったら、こうはゆかないだろうな、と思いながら見ています。
と同時に、いつも、あの巨大な橋桁の塗装の補修は大変だろうな、と思ってもいました。実際、褪めて塗り替えた方がよさそうに見える箇所がたくさんあります。

そんな時に起きた事故。
最初はどういうことか分らなかった。崩落というので、トンネルの壁が崩れた、何故、と思ったら違っていた。天井が落ちたという。
これも最初はどういうことか分らなかった。天井がある、とは思っていなかったからです。
詳細を知るに及んで、今度は、目を疑いました。
天井を吊るために、鉄骨をトンネル本体にアンカーボルトで留めてある。それが落ちたらしい・・・。
アンカーの字義は錨。船を繋留するための用具。
基準法仕様の木造建物や鉄骨造の建物を基礎(多くの場合はコンクリート製)に固定するのが通常のアンカーボルト。
私は、物体をコンクリート製の構築物に吊下げるためにアンカーボルトを使う例があることは知りませんでした。そして、トンネルのコンクリートの壁にアンカーボルトを据え付けるのは大変だったろうな、と思いました。
鉄骨建築の基礎のアンカーボルト据付の精度を確保することは、地上でさえ難しいことだからです。
と思っていたら、なんと、このアンカーボルトは後付けなのだという。後付けなら、たしかに寸法を採るのは簡単です。

機械の据付けにもアンカーボルトを使いますが、その場合、後付けの方法がよく採られます。言ってみれば、機械の横ずれを防げばよいからです。
後付けは、ドリルで孔を穿ち、そこへ直の(棒状の)ボルトを埋め込む。
叩き込んで先を拡げる方法(木造の場合の地獄枘のような方法)が普通でしたが、近年、ケミカルアンカーと称する接着剤を使う方法が増えています。
どうやら、このトンネルでは、天井吊下げのために、ケミカルアンカーを使っていたらしい。

上から重さが掛かる地上ならともかく、引きぬく力がかかる天井に使う、この「発想」が、私には皆目理解できませんでした。理解不能!
   基礎に植えられたアンカーボルトに引き抜こうとする力が掛からないわけではありません。
   しかしそれは、常時ではない。起きることもある、程度です。
   吊るす場合は、常時、引き抜く力が掛かっているのです!!
建物の基礎に設けるアンカーは、コンクリートに埋る部分を、棒状ではなく、L型あるいはU型に加工します。簡単に抜けないようにするためです。天井なら当然そうするだろう、だから施工が大変だったろうな、そう思った。
しかしそうではなかったのです。

私は、以前から、土木構築物の構造計画は、建築の構造計画よりも一歩先に進んでいる、と思っていました。図体の大きさに見合って、全体を見渡す目がすぐれている、そう思っていたのです。
ところが、今回の事故で一変しました。
現代技術は、近代初頭の技術よりも、衰えている。これは、土木界でも同じだった!

近代初頭、鉄やコンクリートなどの新しい材料が使われだした頃、人びとは、ものごとの当否を、それぞれの感性で判断した
幸か不幸か「学」が発展途上?だったからです。
しかし、現在は、「学の成果」に依拠すれば何の問題もない、として一切を疑わなくなってしまった!
今回の場合、引張れば簡単に抜けることを承知の上で(もしかしたら、承知していなかった?)、接着剤が防いでくれる、と判断した。
おそらくその「判断」は、接着剤の試験データに拠ったものと思われます。
容易に引き抜くことができる形状を、モノを天井に吊る際に使う、つまり、下から垂直の孔を穿ち、そこへ真っ直ぐな棒を差込み、その先にモノを吊せば、当然、棒は簡単に抜ける、それを防ぐにはノリで接着すればいい、そういう「発想」を平気でする、そして何ら疑わないことに、私は驚きました
   小さなものを吊るすときに使う先がフックになっているヒートンという金具があります。
   これには、埋まる部分にネジが切ってある。それは、相手に密着するためです。
   ネジがあるのとないのとでは、吊るすことのできる物体の重さに大きく差が出ます。
   ネジの方法は、木材や鉄材では可能ですが、コンクリートには使えません。材質が緻密でないからです。

多分、いろいろな場面で、同様なことが起きている、そしてこれからも起きるだろう、そんなふうに感じています。
考えてみれば、いや、考えて見るまでもなく、原発安全神話もこの一つ。


どうしたらこういう状態を抜け出せるのか。
人びとの持つ感性を信じること、人びとの感性を埋没させるような動きから撤退すること、
そして、多くの実体験の機会に恵まれるようにすること、ではないかと思っています。
   たとえば、建築の仕事の場合で言えば、ソフトに頼らないこと!
   先ず手仕事:手描き、見よう見まねの手描き、次いで習熟したらソフト、
   この手順が必要なのではないでしょうか。
   何のことはない、これは、はるか昔、ものごとの修得について、世阿弥が語っている要諦です。
   

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この国を・・・・37:利と理

2012-12-01 17:45:06 | この国を・・・
関連する最新の東京新聞社説を TOKYO Web からコピーして、最後に続けて転載します。とにかく、「主張」が明快です。[6日 18.25]
   ******************************************************************************************

今日の天気は変りやすく、通り雨が止んで虹が見えたかと思うと、昼の一時、今度は霰が降りました。終りの頃は雪が混じっていました。低気圧が去るときの現象らしい。気温は4度。今年の冬は厳しそう。
写真は、庭の一角に少し積ったガラス玉のような霰。


次のコピーは11月29日付の毎日新聞朝刊茨城版に載っていた記事です。



東海村は、原発を含む原子力開発関連機関:施設との共存を掲げてきた村長が、福島原発事故を契機に、方向を改め、脱原発の先頭に立っている村です。
そのため、原子力開発・原発との共存派が多数を占める村議会とは対立しています。
察するところ、記事は、この議会多数派側の「反・脱原発」のための「見解」表明の集会であったようです。
ここで述べられた見解は、「原発廃止は地球温暖化対策や経済振興にプラスである」という以前からある原発推進の理由と大きく変っていないように私には見えます。
そしてそれはまた、原発再稼動を願う経済界の方がたの意見とも通じるところがあります。

この中で「目新しい」意見は、南相馬市内でのボランティアの経験に触れ、「事故の収束をきちんとしてほしいという人はいるが、原発を『要らない』という発言は耳にしたことがない」という女性の発言と、
ドイツの首相が「エネルギー革命のコストを過小評価していた」という「研究者」の発言。
前者の発言は、もしも、「被災者の方がたに『要らない』という発言がない=原発容認」と考えているのならば、被災・避難者たちに失礼千万の話です。
後者は、「それゆえにドイツは脱原発から後退したかどうか」については触れていない点がミソ。コストがかかるから、簡単には「脱」などできないよ、と言いたいのかもしれません。

折しも選挙、これとまったく同じ「論理」、すなわち「再生可能エネルギーの技術は開発途上だ、再生可能エネルギーはコストがかかる・・・」として、脱原発に否定的な主張をする政治家も居られます。「脱」などという「できないこと」を言うのは精神論に過ぎない、再生可能エネルギー技術の誕生まで、稼動はやむを得ない、・・・という論も未だ・・・。
共通するのは、廃棄物処理について言及しないこと。
その技術が存在しないのに稼動してきた、そのことには一切触れていないこと。
稼動必要の「論理」と矛盾しています。


では、ドイツではどのようにしていち早く脱原発に舵を切ったのか、そのあたりについて、集めておいた新聞記事などがありますので、あらためて紹介しようと思います。

要点は、「倫理」ということのようです。人としてあるべき理。
時間は順不同ですが、以下に紹介します。
はじめは、今年2012年8月の東京新聞の社説を TOKYO-Web から。



次は、昨年、2011年10月の毎日新聞の記事。
福島の事故後、直ちに「脱」を「決断」したドイツで、いったい何が主に問われたか、についての解説。
その「決断」は、事故後日本の政府が行なった「決断」とは格段の差があります。
日本では、先ず「利」・・・。



おしまいに、この毎日新聞の記事にあるドイツの研究者、ミランダ・シュラーズ氏の活動にも触れている一週間前の東京新聞の社説です。
これは TOKYO Web のコピーです。



ドイツの大電機メーカーも、即座に原発製造から撤退しています。
日本のメーカーは、日本でダメなら輸出しよう・・・。どこもかしこも「利」の世界。



コメント (2)
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