建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

The Last of the Great Aisled Barns-1

2010-09-28 19:21:42 | 建物づくり一般
25日に日帰りで岐阜に行ってきました。ブログが縁で、岐阜県建築士会の研修会で「日本の建築は、壁に依存してこなかった」という話をさせていただいてきました。
近くなったとはいえ、日帰りはさすがに疲れました。

ボーッとしながら見ていた書棚に、標記の書物がありました。正式の標題は“Silent Spaces"。
The Last of the Great Aisled Barns はその副題です。出版社は Little,Brown and Company 1994年刊。
ある写真家( MALCOLM KIRK という方です)が西欧と北米で見出した Aisled Barns の数々。
Aisled Barns とは、「側廊のあるがらんとした建物」というような意味になろうか、と思います。

「側廊」とは、日本の「下屋(げや)」「庇・廂(ひさし)」にあたる部分。つまり、 Aisled Barns とは、「上屋+下屋」「身舎(母屋)+庇・廂」構造の(大きな)建物と解釈してよいと思います。
したがって、 Aisled Barns には、大きな納屋、家畜小屋などとともに、教会堂も含まれます。
下の写真は、この書物の表紙に載っている建物。教会なのか納屋なのか、ちょっと分りません。
   註 車両の座席の「通路側」も Aisle です。



ところで、CDをお送りした方から、到着した旨の連絡とともに次のような「ご要望」が書かれたメールをいただきました(当初お送りした12名の方で、到着した旨の連絡を直ぐにいただいたのは女性の方3人全員。1週間経った今日、男性はまだ2人ほど音沙汰がありません。男はそんなに忙しい?!ある女性曰く、もしかして、カタログ請求と同じ感覚かも・・・。)。

  ・・・・
  自分は木造住宅を中心に設計業をしておりますが、いつも小屋組の架構に悩んでいます。
  ・・・この悩みは自分だけでなく多くの未熟な設計者が持っているのではないでしょうか。
  それで「小屋組架構」をテーマにしたカテゴリーがあればと勝手に考えている次第です。
  一般的な架構法や、いろんな建物の小屋組を、先人達が到達した考え・解決した手法を
  解説していただけたらなあと空想しております。
  ・・・・
若い方なのではないか、と思われます。そして、はっと思い至りました。かつて、私も、同じようなことで困惑したことがあったことを。

学生時代、いわゆる「平面計画」、簡単に言ってしまえば「間取り」「用」の良し悪しをいろいろと指示はされても、それをどうしたら「形」にするのかは、まったくと言ってよいほど、何も教示されなかったからです。
すべて設計者の《個性》:個人的設定:に委ねられてしまっている。
つまり、「形」設定の「論理」が示されない。
「間取り」「用」と「形」の間には、冷たい冷たい溝がある。
おそらく、今でもそうでしょう。 
  
  私の学生時代、どちらかというと「用」が重視された。切羽詰っていた時代だからです。
  大分前に、西山卯三氏と丹下健三氏の「論争」があったことを紹介しました。
  言ってみれば「用」派と「形」派の「論争」です(下記)。
  http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b5a67ec08d6e1846269fc5e2c03aa961
  しかし、今は《豊か》になった。だからでしょう、「用」より「形」。
  世の中には人の目を剥くような「形」が「評判」になる。
  設計者も、それを目指してシノギを削る・・・。
  そして、昨今、私の目には「目に余る」形だらけ・・・。

しかし、そのような学生時代の「環境」は、まことに皮肉なことですが、
「建物をつくるということは、どういうことなのか」私に考える機会、契機を与えてくれたのです。

本当は、もっと早く、その点について考えたことを書くべきだった、と今思っています。
そこを端折って、住まいの原型はワンルームの一つ屋根、だとか、居住するための必要十分条件、・・・などと言っても、靴の下から足の裏を掻くようなじれったさをどうしても拭いきれないはずだ。そう思い至ったのです。
私は少しばかり《省エネ》に過ぎた・・・・。

先の「ご要望」は、小屋の架け方についてのもの。
しかし、それもまた、この「原点」に帰らなければ話ができないのです。そして、原点からその話に到達するには、かなり時間がかかると思います。しかし、端折るわけにはゆかない・・・。

そこで、しばらく、今の私の考え方の基になっている「建物をつくるということ」についての私なりの考えを書くことにします。
ただ、毎回それではくたびれます。そこで、しばらく、先の Silent Spaces の紹介と半々で行こうかと思っています。

「伝統を語るまえに」

2010-09-22 19:06:14 | 日本の建築技術


キバナコスモス。今年は猛暑だったせいで、よく咲きませんでした。これは昨年の今頃の様子。

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先般、標記の講習会、無事に終わらせていただきました。
正式な標題は
「伝統を語るまえに:知っておきたい日本の木造建築工法の展開」

かなりの方が、「伝統を語るまえに」という文言に引っ掛かったようです。
私は、配布資料の最後に、その理由を書きました。いわば「あとがき」です。
その全文を下に転載します。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

おわりに

この講習会の標題は「伝統を語るまえに」です。
なぜ、このような標題にしたか、最後に説明させていただきます。

私は、建築基準法が支配する現在の建築界に、往年の日本の建築技術に関心がある方がたが多く居られることに安堵しています。
その方がたが現行法令の規定に悩まされていることも知っています。

しかし、最近、現行法令に、往年の建築技術の仕様:「伝統工法」の仕様:を規定として追加してもらおう、というような動きがあることを知りました。
一方で、限界耐力計算等で、往年の建築技術を現行法令下で実現する:法令をクリアできる・・・などという動きがあることも知っています(下註参照)。
しかし、私には、これはまったく理解できないのです。

なぜ、現行法令とは基本的・根本的に思想がまったく異なる技術を、現行法令下に添わせようとするのか、論理的に全く矛盾するからです。
理(すじ)が通らないではありませんか。

一方で、インターネット上には、いわゆる「伝統工法」を標榜する設計者や工務店のHPやブログが多数あります。
そこで目にしたのは、「伝統工法」の解釈が、実に多種多様であるという事実でした。

最も多く見かけるのは、無垢の木材、それも大寸の木材を「表し」で、つまり真壁でつくるいわゆる飛騨・高山の「民家」風のつくりをもって「伝統」とする例です。
そこから、往年の建物は無垢の大寸の木材を使っていたという誤解、あるいは、大寸にすることで強度が上がり現行法令の規定を充たすという誤解があることを知りました。

すでに見てきたように、住宅の建築で大寸の木材を使うようになるのは明治以降です。
人びとは、言葉の真の意味で、きわめて合理的です。
たとえば、大黒柱は施工上必要だから大寸なのであり、必要がなくなれば大寸の柱を使わなくなることを今井町の豊田家、高木家の例で観てきました。
大黒柱に「意味」を与えるのは、後世の人であることに留意する必要があります。
多くの事例で見たとおり、柱径は4寸2~3分が普通なのです(註 仕上り寸法)。

あるいはまた、手の込んだ継手・仕口を使うことをもって「伝統工法」とする方がたも居られます。
しかし、これも諸事例で観てきたように、多くの例は、きわめて簡単で仕事が容易な、しかし目的を十分に達することのできる継手・仕口を使っていることも見てきました。

浄土寺浄土堂然り、東大寺南大門然り、古井家、箱木家然り、龍吟庵方丈、光浄院客殿然り、そして椎名家、北村家、広瀬家、富沢家、島崎家・・・然り。
手の込んだ仕口を使った豊田家、高木家にも、そうする合理的な理由がありました。
これも考えてみれば当たり前です。

人びとにとって、と言うより、私たちすべてにとって必要なのは、所与の目的を、もっとも簡単にして容易に、しかも確実に達することだからです。
そうであるとき、不必要な材寸の木材を使い、わざわざ手の込んだ仕事をするわけがない。手の込んだ仕事=結果のよい仕事では必ずしもないのです。
よい結果をできるだけ合理的に得る、これがかつての工人たちの基本的な考え方であることを知る必要があります。
先の諸事例が、それを見事に示しているではありませんか。

私は、これらの事例から、その形や形式・技法そのものではなく、その背後にある、それをつくった人びと・工人たち、そしてそれでよしとした往年の人びとの「考え方」をこそ学ばなければならないと考えています。
現代風に言えば、ハードもさることながら、それを生んだソフトが重要である、ということです。

「伝統」はファッションではありません。
「伝統」とは、まさに「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐ所のもの」なのです。

半年の間、ありがとうございました。不明な点は、随意・随時、お尋ね下さい。 

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

  註 配布資料の別のところで、限界耐力計算法等の「限界」についてふれていますので、
     その部分を以下に転載します。

     大工・棟梁たちは、木材が一本ごとに性質が異なるのが当然と考えています。
     木材は自然のもの、人間同様各々が異なっていて当然、それをどのように使うかが
     大工・棟梁の普通の技能と考えられていたのです。

     現在「限界耐力計算」法など、木造建築にかかわる種々な計算法が出現しています。
     しかし、いかなる計算法であれ、
     接合部ごとに、使われている各材料の特徴をすべて数値化しないかぎり、
     つまり、アバウトな数値に基づくかぎり、
     いかに演算が精密であろうが、対象とする架構の実体には対応していません。

     簡単に言えば、直観による工人の判断は、計算を超えて優れていたのです。
     本来、科学:science は、通常の感性が基本です。

このことを、もう少し詳しく説明します。
構造計算のためには、材料の諸性能を数値化する必要があります。
鉄やコンクリートは、その性能に大きなバラツキはない、つまり、ほぼ一定と見なすことができますが、木材はそうはゆかないのです。

たとえば、同じヒノキであっても、その強度自体、きわめて大きなバラツキがあります。その他の性質についても同様です。そこは、まったく人間と同じなのです。

現在の建築基準法では、たとえば強度について、これ以上低いものはないであろうと思われる数値にするように規定しています。一定の値にしないと計算ができないからです。しかし、それは、木材の実相とは大きく異なります。

ですから、本当に、実相に合うように計算するには、毎回(建物ごとに)、使用する木材すべてについて、性能の数値化をしなければならないのです。
そんなことはやってられない、というわけで、アバウトな数字で計算する、それが現在の木造についての構造力学であり、建築法令なのです。

したがって、計算は如何に精密であろうとも、実相に合わないことをやっていることになります。
計算が如何に正確で詳しくとも、意味がないことをやっている、ということ。

算数の問題で、計算は正しくなされているが、計算式をつくるにあたってミスがあったならば、それは正解にはならない、というのと同じことです。

この事実について、建築の専門家でさえ、気付いていない、忘れている、ということを、一般の方がたに、是非知っておいていただきたい、と常々私は思っています。

一方、すぐれた工人:大工・棟梁は、木材は一本ごとに性質が異なるということを知っていたがゆえに、その「事実」に従い、「直観」でことにあたっていたのです。実に科学的:scientific ではありませんか。

所感・・・・ある棟梁を偲ぶ

2010-09-21 07:39:51 | その他


八月の初め、私もお世話になった棟梁が亡くなられた。各界に顔の広い方だった。
葬儀は密葬で行なわれ、いずれ「偲ぶ会」を開くとのことだった。
その「偲ぶ会」の案内が、先日送られてきた。
読んで、私は仰天した。

私は、てっきり、棟梁のかつての仕事場:加工場:かどこかで、そこで永らく棟梁を支えてきた多くの職方も集まって偲ぶ、そんな会の姿を想像していた。
なぜなら、彼らがいなければ棟梁だって仕事ができなかったはずだし、彼らだって棟梁に鍛えられた数々の想い出があり、いろいろ想うことがあるはずだ、と思ったからである。

まったく違っていた。
そういった方がたはきわめて出にくいに違いない、多数の、棟梁に「世話になった」、あるいは棟梁を「利用した」人びとが集まって、新宿の高級ホテルで開くのだそうである。

仰天するのは私の勝手である。ただ、そういう「世界」に私が馴染めないだけのこと。
しかし、私はそこに、今の建築界の縮図を見る思いがした。

私は、遠くで静かに偲びたい旨、返信の葉書に書いて、欠席することにした。

事務的なお知らせ・・・・CDの発送について

2010-09-19 20:05:35 | その他
CDご所望の方へ

「伝統を語るまえに」の資料を納めたCDは、明日クロネコ宅急便で発送させていただきます。
恐縮ですが、着払いとさせていただきます。ご了承ください。

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下の写真は、アメリカ・オンタリオ州での納屋(多分家畜小屋)の建て方を移したフィルムからのもの。
1918年のことです。建物の長さは134フィートあった。40メートルです。
こういう建て方があたりまえであったアメリカで、2×4工法がどのような過程で主流になっていったのか、興味が湧きます。
写真は“The Barn”(New York Graphic Society Ltd)から。


コメント (1)

観察、認識、そして「分る」ということ:余録・・・・すべてがわたくしのなかのみんなであるやうに・・・・

2010-09-17 16:00:16 | 論評


芒(すすき)より一足早く、荻(おぎ)の穂が風になびいています。8月の10日頃からというもの、猛暑に参って草刈をしなかったため、伸び放題、荒れ放題。
当地に「荻平(おぎだいら)」という地名があります。終戦後開拓された土地のようです。多分、かつては草原様の場所だったのでしょう。東京の「荻窪」も、そういうところだったらしい。

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[転載文の脱落部補完 17日 23.51][註記追加 18日 10.56] 

先回、宮澤賢治の「春と修羅」の序を転載いたしました。

あの中で、私が最初に惹かれたのは、
  ・・・・
  (すべてがわたくしのなかのみんなであるやうに 
  みんなのおのおののなかのすべてですから)
  ・・・・
そして
  ・・・・
  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  ・・・・
のところでした。

彼が、万物に万物と同じ地平で接している、接することができる、一方向では決して見ない、そのことが、この一節でよく分ります。

ふと考えました。
かつて、人びとは、当たり前のこととして、この「心境」でものごとに接していたのではないか、と。
当たり前ゆえに人びとは何も言わないけれども、彼は、あえて、それを顕在化させて言ったのだ、と。

多分、彼の生きた「時代」がそうさせたのかもしれません。「科学」「科学的(思考)」が脚光を浴び始めた、そういう時代。

以前にも紹介しましたが、「月天子」という詩では、次のように語っています。

  私はこどものときから
  いろいろな雑誌や新聞で
  幾つもの月の写真を見た
  その表面はでこぼこの火口で覆はれ
  またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
  後そこが大へんつめたいこと
  空気のないことなども習った
  また私は三度かそれの蝕を見た
  地球の影がそこに映って
  滑り去るのをはっきり見た
  次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
  最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
  盛岡測候所の私の友だちは
  --ミリ径の小さな望遠鏡で
  その天体を見せてくれた
  亦その軌道や運転が
  簡単な公式に従ふことを教へてくれた
  しかもおゝ
  わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
  遂に何等の障りもない
  もしそれ人とは人のからだのことであると
  さういふならば誤りであるやうに
  さりとて人は
  からだと心であるといふならば
  これも誤りであるやうに
  さりとて人は心であるといふならば
  また誤りであるやうに
  しかればわたくしが月を月天子と称するとも
  これは単なる擬人でない

       [一部が脱落していました 補完しました 17日 23.51]

太陽が地球のまわりをまわっているのか、その逆か、と問えば、今では、小学生、ことによると幼児さえも、地球が太陽のまわりをまわっている、と訳知り顔に言うでしょう。

私は不思議に思う。それを平然として、あるいはむしろ当然のこととして黙ってみている大人たちを。
なぜなら、その子どもたちの「知識」は、自らが自らの「観察」から得た「認識」によるものではないからです。

私たちの時代、このように、自らの「観察」を「省略」して、誰かのつくった「知識」を「集める」ことが、「学ぶ」ということと同義になってしまっている・・・
大人だってそうだ・・・。

「日の出」「日の入」「日没」・・・という語を使い、日常の「感覚」と「知識」との「落差」を問題にせずに、「適当に」済ませている。だから、耐震と言い、断熱と言い、はたまた立っていても倒壊と言い、・・・それに慣れっこになってしまう・・・。


宮澤賢治は、そういう時代の始まりを感じとっていたのではないか、と思っています。


   註 「春と修羅」には、宮澤賢治自らの推敲による別の版があります。

      それでは、上に転載した箇所は、次のようになっています。
       ・・・・
        けだしわれわれがわれわれの感官を感じ
        やがては風景や人物を信じるやうに
        そしてただ共通に信じるだけであるやうに
        記録や歴史あるいは地史といふものも
        それのいろいろの論料といつしょに
        (因果の時空的制約のもとに)
        われわれが信じているのにすぎません
        ・・・・

      普通はこちらの版が紹介されているかもしれません。[註記追加 18日 10.56]     

観察、認識、そして「分る」ということ-4(了)

2010-09-13 12:26:30 | 論評
東京・上野での講習会、昨日で終わらせていただきました。約半年、随分早く過ぎたように思います。

生物多様性・・ではありませんが、いろいろな考えの方がたがおられます。それは当たり前です。
ただ、ことを「多数決」で決める、つまり、ある考え方の「派閥」の人数を増やせば勝ち、などと思うようになったら間違い、だと私は思っています。
私が書いているのも、そんなことは目的ではありません。
世の中ではこのように言われているけど、(本当は)こういうことがあったんだ、
一般にこういう考えが《当たり前》《常識》になっているけれども、こういう点でおかしいのでは・・・、ということを書き連ねているだけです。

もちろん、いやそうではない、人びとは「指導」しなければ何をするか分らない、と思う人もいてもおかしくはありません。自分が《神》になりたい方がたです。まさに「多様性」です。
ただ、その「意向」を、数をたのみに人に押し付けよう、などと考え、あるいは行動するのは、もってのほかです。


簡単に言ってしまえば、私たちそれぞれが自ら考え、自らものごとに接する、そのことに対して、制約になる、妨害になる、あるいは禁止する・・・そのようなことは何人もしてはならない、誰もそんなことをする「権利」など持っていない、ということです。

それでは、「まとまるものもまとまらない」、と思う方も居られるでしょう。
どうしてそんなに「気が急く」のでしょうか。
皆が、自ら考え、自らものごとに接する・・・つまり、「観察、認識」を繰返す。そしてそれぞれがそれぞれなりに「分る」、これが「日常化」したとき、自ずと「結」は見えてくるはずです。
「理想」に過ぎますか?


折しも、9月21日は、宮澤賢治の命日だそうです。



上の図版は、「校本 宮澤賢治全集 第二巻」(筑摩書房)に載っている「春と修羅」初版本の函と表紙。

宮澤賢治は、この「春と修羅」の「序」で、次のように書いています(そのとき、宮澤賢治28歳)。
はじめてこの「序」に接したときの新鮮な衝撃は忘れられません。私の硬い脳、思考形式を揺さぶったのです。

その全文を、同書から、以下に転載します(原文は縦書きです)。


       序

  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と硬質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつゞけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケッチです

  これらについて人や銀河や修羅や海胆は
  宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
  たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
  記録されたそのとほりのこのけしきで
  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
  ある程度まではみんなに共通いたします
  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)

  けれどもこれら新世代沖積世の
  巨大に明るい時間の集積のなかで
  正しくうつされた筈のこれらのことばが
  わづかその一点にも均しい明暗のうちに
    (あるひは修羅の十億年)
  すでにはやくもその組立や質を変じ
  しかもわたくしも印刷者も
  それを変らないこととして感ずることは
  傾向としてはあり得ます
  けだしわれわれがわれわれの感官や
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  おそらくこれから二千年もたつたころは
  それ相当のちがつた地質学が流用され
  相当した証拠もまた次次過去から現出し
  みんなは二千年ぐらゐ前には
  青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
  きらびやかな氷窒素のあたりから
  すてきな化石を発掘したり
  あるひは白堊紀砂岩の層面に
  透明な人類の巨大な足跡を
  発見するかもしれません

  すべてこれらの命題は
  心象や時間それ自身の性質として
  第四次延長のなかで主張されます

     大正十三年一月廿日  宮 澤 賢 治


       註 「論料」には「データ」とルビがふってあります

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    東京・上野での講習会「伝統を語るまえに」のためにつくった資料、大半はすでにブログで触れたことですが、
    ご希望があれば、CDにしてお送りさせていただきます。
    言ってみれば、私家版日本建築技術史みたいなものです。A4版両面にして120枚ほどになります。
    コメントに送付先・連絡先をお寄せください(コメントは公開しません)。
    ただ、正誤を確認中ですので、しばらく時間をいただきます。

観察、認識、そして「分る」ということ-3

2010-09-08 20:51:07 | 論評
ようやく、書くゆとりができました。どこまで書いたか忘れてしまいそうでした・・・。



今日は久しぶりの雨。朝降り始めた頃の「遊水地」?屋根から雨落溝に落ちた雨水は、初めのうちは溝内で浸みこみますが、それを越えた分の雨水は一旦この小さな池に。そこから浸透管で地下浸透。ここ一月雨がなかったので、池の水も緑色になっていた。ヒメスイレンの葉も少し傷んでしまった。しかし、主の蛙クンは元気。二匹います。一匹だけ顔をだしていました。

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[註記追加 9日 08.38][註記追加 9日 08.51][文言変更 9日 13.26]

さて、「品質確保法」では、「住宅の品質の確保」のため、「住宅の性能」を次の九つの事項にまとめています。
①構造の安定に関すること、②火災時の安全に関すること、③劣化の軽減に関すること、④維持管理への配慮に関すること、⑤温熱環境に関すること、⑥空気環境に関すること、⑦光・視環境に関すること、⑧音環境に関すること、⑨高齢者等への配慮に関すること。

ここで気をつけなければならないのは、「住宅の『品質』」「住宅の『性能』」という言葉です。
『品質』とは、「(良・不良が問題になる)品物の性質」(新明解国語辞典)のこと。したがって、「住宅の品質」とは、簡単に言えば、その住宅が良品か不良品か、ということになり、一応納得のゆく文言です。
問題は「住宅の性能」の方。

『性能』とはどういうことを言うのでしょうか。
法令の施行にあたって、この点について、明確な説明、解説があったようには、私は記憶しておりません。

建築関係の用語には、「断熱」「耐震」など、最近のCMでも使われないような「誤まったイメージを与える」語がきわめて多く見られますが、「住宅の性能」もその系譜に入るのではないか、と私は思っています。

   註 「断熱」の語の字義は、「熱を断つ」ということ。
      したがって、「断熱材」とは「熱を断つ(ことのできる)材料」
      建築関係者には、そういう材料があると思っている人がかなり多い。

     「耐震」の語の字義は、「地震に耐える」ということ。
      一般の人が、「耐震建築」とは「いかなる地震にも耐える建物」と理解して当たり前。
      建築関係者は、「この程度の地震には耐える(はずだ)」という意味に使う。
      そこで齟齬を来たす。

      「科学的である」ことを標榜する割には、建築関係者は「科学的ではない」語、文言を平気でよく使う。

      最近のCMのように、「これは、使用者の(個人的)用語です」という「ことわり」が必要なのかもしれない。

本当のことを言えば、これら九つの「性能項目」は、何のことはない、現在の「建築にかかわる研究者」の「主たる研究分野」に過ぎない、それを列記しただけだ、と思っています(ないのは「歴史」分野だけ・・・。まことに象徴的です)。

私は、私が理解している「性能」という語の意味から見て、これらの項目を「住宅の性能」と呼ぶことに多大な疑義を感じます。
もっとも、法令案を審議する国会で、そういう疑義・異議は、まったくなかったように思いますが・・・。

いったい、「性能」とはどういう意味か。
「広辞苑」の最新版から引用すると次のようになります。
  ① 本来的に備わっている精神的・身体的な能力。
  ② 機械などの性質と能力。

一版前の「広辞苑」では
  ① 精神的および身体的な行為をする能力。
  ② 機械などの性質と能力。

「新明解国語辞典」では
  (機械などの)使用目的に合うように発揮される能力。

当然ながら、建築法令のいう「性能」は「広辞苑」の示す①ではないことは明らかです。「広辞苑」の解釈をとれば「機械などの性質と能力」、「新明解国語辞典」の解釈ならば「使用目的に合うように発揮される能力」ということになります。

問題は、「(機械などの)「性質と能力」あるいは「(機械などの)使用目的」を、「日本住宅性能表示基準」ではどのように見ているか、どのように定義しているか、つまり、どのようなものとして考えているか、にかかってきます。

しかし、この点についても、明確な解説は示されていない。何となく「性能」で片づけている、としか思えません。
あえて言えば、「性能」という「聞こえのいい」言葉を使った、「断熱」などと同列の、建築系の人びとに多い用語法の「典型」の一つに過ぎない。

本当は、「性能」の中味、何をもって「性能」と言っているのか、開示する必要があるのです。しかし、ない。


ところで、自動車のカタログに、「自動車の性能」という言葉が出てくるでしょうか。
自動車の場合、「性能」は、「エンジンの性能」、「ブレーキの性能(制動距離で表示)」「燃費性能」・・・などと「分けて」使われています。
すなわちこれは、辞典が言う「性能」が、その通りに使われていることになります。「自動車の性能」という言い方はされていないのです。
ましてや、自動車業界に「日本自動車性能基準」なんてものはない。そんなことを言ったら、完全にコケにされるでしょう。

   註 コケ:虚仮
      ①事実の裏付けが無く、空虚であること。②ものの見方・考え方などに、大事な点で
      何かが一本抜けていること(人)。[新明解国語辞典]


当たり前です。

「品質確保法」が唱える九つの項目の「住宅性能評価」が「すべて高い」ものは品質がよい、との「論」になぞらえて、これらの「エンジンの性能」・・・の「すべてがよい」車は「よい車」だ、と自動車の世界では言うでしょうか?
そんなことはありません。

「エンジン性能」がずば抜けてよいからと言って、自動車レースに出る人はそれを重視するかもしれませんが、その人でさえ、それを搭載した自動車が「普遍的に」「絶対的に」最も優れている、とは言わないでしょう。当たり前です。
どういう「エンジン性能」の車を選ぶかは、車を選ぶ人の「解釈」あるいは「意志」に委ねられているのです。
つまりそれぞれの項目の「性能」の評価は、人により異なる、それで当たり前、「絶対」は、ない。

では、「日本住宅性能基準」が挙げている上記の項目は、自動車のカタログに載っている諸種の「性能」と同じレベルの「概念」でしょうか?

これを知るには、この「日本住宅性能基準」をつくった人たちが、「住宅とは何か」、この点についてどのように考えているかを知らなければ分りません。
どこかに、そもそも「住宅とは何か」、解説してあるか。
まったく、どこにもありません。
そこに、突如として、先の9項目が「日本住宅性能基準」として出てくるのです。
「住宅とは何か」なんて、そんなこと当たり前のことではないか、と思ってでもいるのかもしれません。

しかし、その9項目を見ると、本当に「住宅とは何か」考えているのか、疑いたくなります。
簡単に言えば、「当たり前」と考えているにしては、イイカゲンです。

もっと端的に言いましょう。
仮にこれら9個の項目の性能が最高の成績だったならば、その住宅は、住宅として最高の品質の住宅である、と一般の人びとを思わせてしまってもおかしくありません。
もちろん、そんなわけが、あるはずがありません
。しかし、そう考えているらしい。

9個の項目の性能が最高だったならば、その住宅は最高の住宅なのか、そうでないのか、その「答」を、こういう基準の策定者は、少なくとも「例示」しなければなりません。
それは、この「性能表示制度」を、その真意を、広く知らしめるための最低の「義務」です。
しかし、まったくされていない。

むしろ、9項目を充たすことが、よい住宅の条件である、かのような「イメージ」を広めてしまっている。言うなれば、「誤解」、誤った理解を世に広めている。私はそのように思っています。
別の言い方をすれば、これは「思考統制」です。

   註 たとえば、学校の教科すべての試験が満点ならば、その人は「最高の品質の」人間か?
      世の中にはそう思うような人が増えているのは確か。
      「住宅性能・・・」などというのを編み出す「頭脳」の持ち主は、
      多分、そういう考えに慣れ親しんだ人に違いない。[註記追加 9日 08.38] 


次の問題、この「制度」のおかしな点は、それぞれの項目ごとに、「数値化」した評点を与え、ランク付けすることです。

何度も書いてきたことですが、そして当たり前すぎるほど当たり前なことですが、
数値化というのは、数値化できるもの、数値化できるように「操作された」もの、しか数値化できません。
数値化されないもの、できないものは捨象されてしまうのです。
簡単に言えば、「存在する」が数値化できないから「存在しない」と見なす、ということです


   註 建築関係の研究は、その多くが、「数値化できるもの」に限られている、
      あるいは、「数値化できないもの」は見捨てている、と言ってよいでしょう。

たとえば、①の「構造の安定に関すること」で言えば、その「判断基準」は、建築基準法の構造規定値をどの程度充たしているか、というもの。

この前提は、「法令の規定を充たす⇒構造が安定する」という「信念」に基づいている。
規定の何倍かを充たせば、性能評価がレベルアップ。

もっとも、そうやって、法令規定よりも大きな力をかけたら、十分耐えるべく「計算され」施工された「壊れることがない」はずの、つまり「品質が高い」はずの「長期優良住宅」が、「品質が低い」はずの建物より先に倒壊してしまった、というのが例の倒壊実験の結末。
さすがに責任を施工に押し付けることは出来ず、この現象に対して2000頁を超える一大報告書が出た。そしてここでも、お得意の「用語法」が使われる。両方「倒壊していた」という日本語の常識を疑うような結論が出た。
これもまた「これは、使用者の(個人的)用語です」という「ことわり」書きを付けなければならないような「倒壊」という語の使い方

   註 「倒壊」とは、「建造物が倒れてつぶれること」(新明解国語辞典)。
      立っているかぎり、「倒壊」とは普通は言わない。
      あの実験では、弱いはずの建物は、ずっと立っていた。
      こういう例を見ると、「明解建築用語辞典」でも編みたくなります・・・。

この「事件」は何を意味しているか。
きわめて簡単です。
これが町場の仕事だったならば、設計・施工に問題があったという「結論」が出たにちがいありません。
しかし、これは、「斯界の偉い方がた」が「監修」して設計・施工された建物。
だから、この「現象」は、たとえ「斯界最高の人が計算し設計した」場合でも、「計算はあてにならない」ことがある、という「事実」を示しているのです。

一方、わが国に厳然として数百年存在し続けている建物は、いずれも建築基準法違反の建物。
そのため、「数百年安定している」にもかかわらず、無視されます。
「数百年安定している」建物が多数あるにもかかわらず、その「歴史的事実」をまったく説明できない「理論」に基づく「建築基準法」とは何ものなのか。

今、「説明できる」理論構築を、懸命になってやっているところだ・・・、という強弁が聞こえてきます。最近の「伝統的木造構法の実物大実験」がそれです。

しかし、それを言ったらオシマイよ・・・。
それは、現状の「理論」が、そして「建築基準法」は、「歴史的事実」さえも説明できないイイカゲンなものだったということの立派な「証」であり、そしてまた、あなた方が、貴重な「歴史的事実」を見てこなかったことの「証」なのだから(あなた方はいったい、どこの国に暮しているのだろう?)。
それをして、「理論」と言うのがおこがましい。

「わが国に厳然として数百年存在し続けている建物」が、この「日本住宅性能基準」に照らし合わせるならば、先ず「構造の安定」で「最低」の評点をもらう、それは、限りなくおかしい、と思うのが当たり前。
普通は、そのとき、「理論」そのものを疑うもの、しかしそうではない・・・!




このような「評価項目」を並べて、それぞれに「評点・評価点」を与え、ランク付けをする・・・、こういう「発想」は、そういう「評価をする人」自身が、そういう人生を送ってきた、
そしてその結果、
(ようやっと)「人びとを見下すことのできる地位」に就いた、そこで、今度は人びとすべてをその「ランク付け」の世界に浸してやろう、と考えているのではないか?
と私などは思いたくなります。
つまり、先回書いた「偏差値」「ランク付け」に染まってしまい脱け出せない「エリート」の方がた。もちろん、私の世代にも、その「先がけ」の人たちはいますが・・・。


いちばん困ってしまうのは、数値化できる=分った、と思い込むことです。
逆に言うと、数値化できない=いいかげんで、存在してはならないもの、という理解になってしまうことです


大事なのは、世の中には数値化できないものがある、
しかも、そういう事象・現象の方が、数値化できるものよりもはるかに多い、という事実を認識することです。
こういう点では、物理学者の方が数等分っている。
分っていない典型が建築関係の研究者。あいかわらず数値化こそすべて、という考え。それは、「数値化教」とでも言うべき信仰に近い


かつての人びと、いろいろな「学問」「学」が存在しなかった頃に生きた人びとは、
自らの日常のいろいろな事象の観察を通して、いろいろな「事実」を認識し、それに基づき行動をしていた、
と考えてよいでしょう。
建物づくりにおいても、同じです。
自然界を観て、そしてまたいろいろな試行を繰り返すなかから、「どうすればよいか」を見つけ出し、建物づくりがうまくなった。
誰かに教えられてそういう「知見」を得たのではありません。
もちろん、そういうこともあったでしょうが、その際でも、教えられる側に「意志」がなければ定着しません


つまり、人びとは皆、日常的に「観察」と「認識」を積み重ね、ものごとが「分る」ようになっていったのです。
そして、実は、いわゆる「学」も、そこから始まった、という歴史的事実をも私たちは知らねばならないと思います。
なぜなら、現在に暮す私たちは、得てして、先ず「学」ありき、になってしまい、自らの「観察」~「認識」そして「分る」という過程を省略しがちになっている
ように思えるからです。

ですから、「住宅性能表示」「住宅性能評価」などの設定は、ますます、私たち自らの「観察」、「認識」そして「分る」という営みを、法律の名の下で、認めない・否定することに連なるきわめて怖ろしいことなのです。
なぜこうまでして人びと自らの思考を消したがるのでしょう。

   註 それとも、「法律」がすべての尺度であって、日常の暮しでは、
      その尺度に合っているかどうかを「観察」し、その尺度との差を「認識」し、
      自分がいかに「法律」に適合するか、しないかが「分る」、それでいいのだ、
      というのが法治国家である、とでも言うのでしょうか。[文言変更 9日 13.26]

      たしかに私たちの中にも、「学」や「法」を先ず「観察」し、
      「学」や「法」を「認識」することをもって、「分った」とする方がたも居られます。
      その人たちには、目の前の事象は見えない。見たくないのです、きっと・・・。[註記追加 9日 08.51]


私はこのように思いますが、皆様はどのようにお考えですか。
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一休み:暑い!

2010-09-02 19:19:25 | その他


当地ではすでに3割ほど稲刈りが終わってます。ただ、暑いのでペースは遅いようです。

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[ケンプラッツ リンク先表示変更 4日 22.10]

次回の講習会は会場の都合で12日。配付資料の編集は今週中が締め切り。ただいま制作中・・・・。
それゆえ、シリーズ「観察、認識、そして『分る』こと」の「その3」は、少し遅れます。

ケンプラッツに、「例の倒壊実験」の「その後」についての続報・詳報が載ってます。
下記をご覧ください。[リンク先変更 4日 22.10]

http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20100831/543093/


「・・・真相(1)」に対して、かなりのコメントがあったようです。
その中の一つに、
「やたら専門用語を並べた報告書だが、実際の現象は単純な話だ。
限界耐力を超えた倒壊実験で、足元を固定しない方が建物の崩壊を避けられた、
というごく当たり前・・・」
というのがあるとのこと。私は読んでませんが・・・。

「当たり前」と思う方がいるというのは心強いですね。
だって、どう考えたって、つまり、実験しなくたって、当たり前なんですから。
電車の中で、両足を床に接着剤で固定し、つり革やつかまり棒につかまらないで立っていたら、急ブレーキがかかったとき、いったいどうなります?想像するだけで怖ろしい。
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