建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

地震と「場所」

2010-07-27 02:38:08 | 地震への対し方:対震
[誤字等訂正 27日10.50][文言追加:11.40]
25日、26日と久しぶりの雷雨。25日は北西から、そして26日は北東からの襲来。
2日とも大雨・洪水警報が出ましたが、この地区では居住地の浸水・洪水は先ず起きない。幸いなことに、そういう場所を避けて人が住んでいるからです。[文言追加:11.40]

26日の毎日新聞に、「ちゃんと調べている方がおられるのだ」ということばが思わず口をついて出た貴重なデータが紹介されていました。
下の「阪神大震災による死者の発生地点と旧河川跡を重ねた地図」です。
立命館大学の高橋学氏(環境考古学)が作成されたもの。



私も、被災が、元来人が住んでいなかった東海道線よりも海側の地区に於いて激しい、と見ていましたが、そのことについて、詳細な調査が行われていたわけです。
しかし、このようなデータは、震災後出された「報告書」にはまったくありません。

一言で言えば、旧河川敷のような土地は、被災しやすい場所だ、ということ。記事にもありましたが、古人はそういうところには住まなかった。
東海道線のルートは、明治期の鉄道敷設では多い事例ですが、人が居住可としてすでに住み着いていた地区を避けて、空いていた場所でかつ市街に近いところ、したがって市街地の縁に設定されたのです。簡単に言えば、「人の住めない(と人びとが判断していた)」場所に敷設した。

現在、耐震補強が盛んに言われています。
幸か不幸か、茨城県の学校の耐震補強化率は、全国で上から45番目。

現在の耐震補強の指針について、私はかねてから疑問を抱いています。
先ず、一律に震度6弱の地震に対して「耐」震にする、ということのおかしさ。
なぜなら、一方で、「揺れやすさ」地図がつくられているからです。
耐震補強の怪-1参照)。
そこでは、それぞれの地域の地形・地質によって、揺れやすさが大きく異なることが示されています。つまり、地震の程度は、地域によって異なり、一律ではない、ということです。
耐震補強の「目安」としている震度6弱の地震とは、場所によらず、「一律に、震源上端深さ=4kmで、M6.9の地震が起きた場合の想定震度」を言っています。
そのような地震が起きたならば、ほとんどすべての場所が「震度6弱」以上の揺れを受けることになるというのです。
  
そう仮定すると、そのような巨大地震が、頑強な地盤のところでも起きるというわけです。頑強な地盤がどのような過程でできあがっているか、それゆえ、そういうところでは、地震はどのように起きるか、そういったこととは一切関係なく「震源上端深さ=4kmで、M6.9の地震」が起きるという想定。
これは scientific と言えますか?
つまり、場所によっては、「震度6弱」以上の地震は起きないところもあるはずです。

   註 そういうと、「もしも起きたらどうするのだ」、だから「安全側」で考えているのだ、と言うでしょう。
      だったら、「揺れやすさ」地図は、何のためにつくった?

次に現在奨められている「耐」震補強の具体的な諸例の「ひどさ」。
これは、偉い人たちが、「人は耐震のために一生を過ごせ」と考えていると見てよいでしょう。古人ならば、たとえ「耐」震を考えたとしても、こんなことはしなかった。「耐」震が人生の目的であるとは考えないからです。
古人は、「人生」を完遂するために地震に対した。それは「耐」震ではなかったのです。
これから何世紀か後、発掘された「現代の建物」遺構をみて、未来人は、何と思うでしょうか。人は毎日地震のことばかり考えて暮していた?!

本来、都市計画とは、そのような場所は居住地として不可、ということを明確に指示し、建築法例とは、そういう場所には建ててはならないこと、を明確に指示すべきで、そういう場所にも人が住める、そういう場所ではベタ基礎にせよ、などというのは、本末転倒の指示と言ってよいでしょう。

茨城県の耐震化率が下から3番目というのは(上から45番目は下から3番目でした、訂正)、未だ、不要なことに支出をしていない、建物の監獄化が進んでいない、ことを意味し、だから、むしろ「幸」なのです。

   註 こんなことを言うと、地震で被害にあったらどうするのだ、と言われるでしょう。
      私は、個々の事例について詳細に考えるべきであって、
      一律の指針で進めるのは間違いだ、と言っているのです。
      一律の指針で耐震補強を行なった建物が被災したらどうするのだ、と言いたいのです。
      私には、補強の結果、かえって危なくなった建物が多いように思えるからです。
      そのとき、いままでに経験したことのない地震だった、などという言い訳は、もう結構です。
     
      そしてまた、建築構造に関わる方々から、何の「意見」も出ないことを不審に思っています。
      すべての建築構造に関わる方々が、
      今進められている「耐震補強」が妥当・正当だ、とお考えなのでしょうか。
                                       [誤字等訂正 27日10.50]
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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-8(了)・・・・「住まいの原型」の記憶

2010-07-23 16:44:00 | 「壁」は「自由」な存在だった
暑中お見舞い申し上げます。
エアコンなしで過ごしています。時折り吹いてくる風が、幸い熱風ではないので、気持ちいい・・・。



出雲平野の散村。北と西に防風林(左が北)。防風林で囲まれた一郭がすべてが「住まい」。「住まい」の中にいくつかの「建屋」がある。
道の右側、下から3戸目では、目下「囲い:防風林」の造成中。この段階では、まだ、建屋だけが「住まい」かもしれない。( Architecture without Architects より)
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回のなかほどで、次のように書きました。

  ・・・・
  考えてみれば、一体化だとか立体化だとかいうのは、
  現代の、「ものごとを分解して理解に到達する」という考え方に
  「毒されてしまった」私たちが、私たちだから言う「言い草」なのです。
  あるいは、「ものごとを分解すれば理解に到達する」と主張する人たちに、
  「それは違う」と言わざるを得ないときに、やむを得ず言う言葉なのです。

  「古井家」をつくった人たちをはじめ、
  古来の「知見の蓄積」に基づき「住まい」をつくる人たちにとって、
  つくる建屋は、「あたりまえのように、一体化・立体化されている」のです。
  ・・・・

しかし、書いた後、もしかしたら、何を「一体化、立体化されている」というのか分らない、と思われる方がたくさん居られるのではないか、ということに思い至りました。
何故なら、私たちのまわりは、最近とみに、「一体化、立体化されていない」建物で溢れかえっているからです。

人は、身のまわりにあるものに「慣れて」しまいます。とりわけその数が多ければ多いほど、それで「当たり前」と思ってしまうのです。これは怖いことです。

私の知るかぎり、かつては、私たちの身のまわりにある「もの」たちは、私たちのそれぞれがつくりだしたもの、探し出したもの、選んだもの、言い換えれば、私たちが私たちの感性で「よし」としたものたちでした。つくる人たちも、私たちと同じ感性の持ち主だった、ということです。

ひと昔ほど前に、「私つくる人、私食べる人」というコマーシャルフレーズがありました。これはまことに象徴的に「現在」を現しています。私たちは、いつの間にか、否応なく、「つくる人たちのつくるもの」だけに囲まれるようになってしまったのです。
つくる人たちが、私たちと同じ感性の持ち主であった時代、取り立てて問題はありませんでした。そのときは、身のまわりのものに慣れてしまっても問題はなかった、むしろ、お互い、「その先」が見えた。だから、さらなる「展開」もあり得た。
けれども、現在は違います。私たちの身のまわりには、私の言い方で言えば、「部分・要素」の「足し算」でつくられたもの、それだけのものだらけなのです。

何故こうなってしまったのか。
その原因は、「建物」「空間」を言葉で表現することが難しい、ということに尽きるでしょう。
建物を説明するとなると、どうしても、「間取り」:平面の話、「架構」:その平面を覆う骨組の話・・・という具合に分けて書くことが多くなります。
たとえば、川島宙次氏の著された貴重な「滅びゆく民家」でも、「間取り・構造・内部」「屋根・外観」「屋敷まわり・形式」の三部構成になっています。
したがって、ある一個の住居を「全体として理解する」ためには、読者は、その住居の間取り、構造、・・・などの個別のデータを知り、自らがそれらを「総合して組み立てる」作業をしなければなりません。
この「作業」は、慣れた人には何ということもありませんが、不慣れな人には大変な作業です。
ところが、多くの専門家は、特に研究者に多いのですが、これらのいわば「便宜的腑分け」の項目個々についてのデータは蓄積するものの、「全体」との関係について考えることを怠るのです。
端的に言えば、これらの「個々の項目についての専門家」が現われる。別の言い方をすれば、「全体を考えること」は「専門外」になる。

   川島宙次氏の書が貴重である、という私の判断は、氏が、「全体」をよく観ているからなのです。
   たとえば、建築計画の専門家は、間取りやその変遷については語っても、間取りと構造の関係については
   語らない、と言うより「語れない」。
   構造の専門家は、間取りに無関係に構造について語る。その例が耐震補強。
   ・・・・
   川島氏にはそういうことはない。

そして、「個々の項目についての専門家」が、こともあろうに、「全体」にかかわることにまで関わってくる。たとえば、住まいの根幹は《断熱》であるかのようにそればかり強調する「専門家」がでてくる。・・・それによって生まれたものが私たちのまわりを埋め尽くす。私たちは、それが「当たり前だと思ってしまう」。このいかんともしがたい悪循環・・・。

   過日の講習会「伝統を語るまえに」の後の懇親会、簡単に言えば飲み会で、「伝統木構造の会」の会員で、
   国交省の「伝統的構法」の検討委員会に「実務者(設計者)」として参画されている方から、
   「興味ある」話をうかがいました。
   委員会では、「それでは『実務者』のご意見をうかがいます」と問われるのだそうです。
   この方の言われたのは、意見を言っても言っただけで(向うの立場では、聞いただけで)、
   「結果」つまり「まとめ」では、「実務者」の意見も検討した結果・・・云々、となることへの「怒り」でした。
   これは、同じく「実務者」として参画されている「大工棟梁」もそのブログで同じようなことを書かれています。

   私は、その話を聞きながら、別のことを考ていました。
   質問を発している方は「委員会」を取り仕切っている方で、論理的にいって、
   「実務者」ではない。つまり「非・実務者」。
   では「非・実務者」とはどういう方々か?
   それは、いわゆる「学識経験者」「有識者」。
   「学識経験者」「有識者」とは、先ほど書いた「個々の項目についての専門家」にほかなりません。
   例えば構造の専門家。
   構造は専門だが、その間取りとの関係についでは専門ではない(知らない、関心がない)という方々。

   この委員会は、たしか、「伝統的構法の設計法」「伝統的構法の性能」を検討する委員会であったはずです。
   こういう性格の「委員会」を「非・実務者」が取り仕切るというのは、一体どういうことなのだろう?

   考えてみれば、明治に「学者」「研究者」が誕生して以来、「個々の項目についての専門家」
   すなわち「非・実務者」こそ多数生まれましたが、
   「全体に眼を遣れる専門家」はきわめて少なかったことに思い至ります。
   そういう方々の考えは、「多数」の弁舌によって消されてしまい、
   そしてその「多数」の「非・実務者」によって「実務者」に課せられたのが現在の建築法規である、
   という歴史的事実を忘れてはならないはずです。

   「伝統的構法」の検討委員会はメンバーが多少替ったようです。
   しかし、「非・実務者」が取り仕切るという「構図」は変っていないようです。
   それはすなわち、「下々はお上に従え」という「構図」は変っていない、ということです。
   私たちは、それにも慣れてしまった?!


前書きが長くなりました。

これまで、いくつもの事例を紹介してきました。
いずれも、現在の建築法規の規定には反する事例ばかりです。
そして、そのどれも、壁は自由に扱われています。壁は、柱間の充填材にすぎない、ということです。
そしていずれも、百年~数百年健在です。

それらに共通する特徴をまとめると、次のようになるように思います。

① その地の風土・環境に適応した暮し方に合う空間をつくることに徹している。 
② 規模の大小にかかわらず、きわめてシンプルな形(先回の言葉で言えば「一つ屋根」)にまとめている。
③ 空間の分割:間取りと架構が対応している。
④ 不必要に大寸の材料は使わない。たとえば、基準柱間6尺5寸で、柱は5寸弱角。
⑤ 風土・環境に適応した材料の使い方を工夫している。
⑥ 使う材料も、空間の分割と対応している(材長は架構の区画と一致)。
  すなわち、柱列から持ち出した位置で材料を継ぐようなことはしない。
⑦ 材相互の接合:仕口、材の延長:継手は、いずれも簡潔な手法を採る(「原理」には忠実である)。
⑧ 建物の架構全体を、竹ヒゴ細工の虫かご、鳥かごのような立体に組上げている。
⑨ 組まれた立体は、礎石の上に置かれただけである。
   註 実際は礎石の上で組み立てるが、結果としては置かれた形となる。
⑩ ①~⑨は、見かけの形は違っていても、一般庶民、上層階級を問わず同じである。
 

では、現在、私たちのまわりにたくさんある「住宅」を見てください。

その多くは、規模が小さいにもかかわらず、複雑な形をしている筈です。
多分それは、ほとんどがいわゆる住宅メーカーの「作品」ですが、個々の「作品」の「アイデンティティ」を際立たせる一つの手段として、「格好よい形」にしているのです。そして、注文する側もまた自分の「好み」の「形」を選択する。・・・
そこでは、その建つ「地域」はどこでもよく、「形」と「間取り」と「架構」とは「関係ない」のが普通です。

そのなかでも著しいのは、間取りと架構の不一致。とりわけ、注文に応じる場合、そのほとんどで、2階と1階の間仕切位置が一致していません。

そしてまた、多くは、「構造用教材」所載の軸組工法モデルを具現化した例がほとんどで、柱から持ち出した位置で簡単な継手で継いで金物を添える方法。端的に言えば、材寸は出たとこ勝負。プレカット工場に「機械的に」お任せ。

したがって、いずれも私の言う「部分の足し算」による建物、「一体化・立体化」とは無縁。

そして、そういう「部分の足し算」的建物が、基礎に金物でがんじがらめに結び付けられる。何故か?地震により建物に生じる水平力を、スムーズに地盤に伝えるためだそうです(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/05257b17a8877ce16db40233141e1805参照)。


では「伝統的構(工)法」を尊重する方々なら、先に挙げた「特徴」を、きちんとわきまえているのでしょうか。
必ずしもそうではありません。
その方たちの多くは、「伝統的」と言われる「形」に惹かれているようで、その背後に隠れている「考え方」には思いを馳せない。もちろん、すべての方がそうなのではないでしょうが・・・。

たとえば、聞こえてくる話によれば、メンバーチェンジした国交省の「伝統的構法」の検討委員会の「設計法」検討部会では、「実務面での緊急性を考えて、町家型、田の字プランの住宅に限定」して実験などを行ない、仕様などを決めるのだそうです。
首をかしげるのは、私だけなのでしょうか。
これでは、その先に見えてくるのは、見かけは「伝統的」風だけで、巷にあふれる建物群と変りはないものがつくられてしまう事態であることは容易に想像できます。「論理」は従来と何ら変っていないからです。世の中は「伝統《風》」の復権を望んでいるのでしょうか?

   註 この委員会が、「設計法」「性能」の検討会、と言うのも、気になります。
      「設計法」とは何を指すのか、定義が不明確だからです。
      設計とは、建築法令に「適合する」ように、各部の「性能」を規定すること?
      早い話、「性能」とは何を指すのか、それさえも不鮮明です。
     

では、先に挙げた「特徴」をもつ建物は、なぜ生まれ得たのでしょうか。

それは、人が住まいをつくる(居住空間を求める)際の「基本的な原理」に則っていたからだ、と私は考えています。人びとは、太古以来のこの原理を記憶していたのです。

人が「住まい」を構えるとは、どういうことなのでしょうか。
必要な諸室の数を揃えることですか?

これについてはすでに何度も触れてきています。住まいの原型は、先ず、自分(たち)が、「安心して籠れる場所・空間を確保する」ことです。したがってその原型は「一室空間」です。このことについては、下記で例を挙げて書きましたので、ここでは説明を略します。
   日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住まい

同じようなことを、帝国ホテルの設計・施工で F・L ライトの右腕として活躍した遠藤新 も言っています(下記)。
   日本インテリへの反省・・・・遠藤新のことば 


「住まいは本来がワンルーム」という考え方を採るならば、敷地の大小にかかわらず室数を同じにする(敷地が小さいときは室の面積を縮小して室の員数だけを揃える)などという愚行はしないはずなのですが、現実はそうではない。
現在「当たり前」になっているこの「考え方」は、実は、戦後の「建築計画学」の置土産なのです。「住居」に関わりながら、「住まいとは何ぞや」という根本、本質を考えなかったからなのです。

   蛇足
   学生の頃、「矛盾論」を読みかじったわが師は、
   「本質」などという存在しないものに拘るな、とのたまわれたのを昨日のように覚えています。
   生活と空間の「矛盾」から、新しい「住まい」「暮し方」が生まれる、と言うのですが・・・・。
   これも昨日のように覚えていること、
   或る公営住宅の2DKで、その住人は、DKではなく南の六畳間で食事をしていた。
   それを見て、わが師いわく、「まだそんな《後れた》生活をしている」と。
   この方は、私の反面教師の一人、この方の考え方との「矛盾」が、私をつくった・・・。
   私が、進んだ形だとか、進化とか言わず、進展とも言わず、進展・展開と記すのも、そんな経験からなのです。

つまるところ、かつて人びとは、人それぞれの置かれている状況の下で、そのとき必要と感じた空間を、自らの感性によって望み、工人もまた人びとと感性を共有していた。
その感性の拠りどころ、それは、「人にとっての空間の意味についての認識」です。
そして、つくるとき、最初に、「できあがった空間」全体をイメージしていたのです。
当然ながら、そこでは「架構」も読み込まれているのです。そうでなければ、組み立てられない・・・。
今でも、自分でつくるとなると、このようなイメージを描く筈です。ことによると、そのために必要なスケッチを描くかもしれない(頭の中だけで済ますこともあるでしょう)・・・。そうしなければつくれない。

人は「空間」を離れて存在し得ません。「空間」は、魚にとっての水と同じなのです。
ところが、あるときから、人と空間を切り離して、別々に語り、後になって二つを「くっつける」ことが当たり前になってしまった。
それどころか、そうすることが「科学的」であるかにさえ思うようになってしまった。
今の多くの建築に関わる「学」や「研究」は、先ずほとんどすべて、この「分離」「乖離」の下で成り立っています。
その観点で語られる空間は、もはや「人のいる空間としての建物」ではないのです。

かつての人びとには、そのような分離・乖離した見方は存在しなかったのです。
何故ならば、「それでは人が人でなくなる」「俎上の魚になってしまう」ことが分っていたからです。私はそう思っています。

このことを、次の文言は、私のようにくだくだとではなく、きわめて簡潔に、ものの見事に語っています。
「・・・・うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり・・・・」 (道元「正法眼蔵」)
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閑話・・・・「建築」とは何なんだ?!

2010-07-19 12:52:48 | 建物づくり一般
[事実誤認部分 訂正 20日 17.36][変換ミス訂正 21日 12.42]

昨日は講習会「伝統を語る前に」で話をさせていただいてきました。それにしても、いつものことながら、上野公園の人出には驚きます。ただでさえ暑いのに、人ごみはそれに輪をかける・・・。いつのまにか、お上りさんになったようです。
終わった後、懇親会。何となく、「世の中の様子」が分りました。若い人たちが、「囲い」の中に押し込まれ、自由に羽ばたけないでいる、そんな感じを受けました。



今朝の合歓木です。晴れた空に浮かんでいました。樹木は自由です。枝振りに現われています。やはり、合歓木は、晴天に合うようです。


さて、少し前にメール配信されたケンプラッツの案内の一隅に、「建築が社会に学ぶもの」というのがあり、ずっと気になっていました。その記事の出だしには、次のようにあります。

  「ソーシャル」という言葉を目にすることが、極めて多くなった。
  ほぼ何にでも「ソーシャル」という言葉の“冠”が付く勢いにも見える。
  もちろん、これを単に「社会化(socialize)したもの」といった程度の意味で使うのであれば、
  何を指し示しても不思議ではない。
  流行に乗っただけのものは確かにありそうだ。しかし、これだけ頻出するのには訳がある。
  その幾つかに的を絞り、21世紀の現在ならではの潮流として建築(設計)との関係を考えてはどうか。

私には、「引っ掛かる」記事です。以前にも「建築は社会に何ができるか」という講演会があり、やはり「引っ掛かった」。これは何、いったい?

今日の毎日新聞で、私は関心がないのですが、今年のベネチアビエンナーレ国際建築展の「全体テーマ」が「建築で人々が出会う」だと報じられていました。それを読んで、ここしばらく引っ掛かっていた話を引っ張り出した次第。

私が引っ掛かったのは、きわめて単純なことです。
「社会」って何なの?
「建築」って何ものなの? ということ。
私には、「建築」とは、人が自らの場所・空間をつくりだすこと、しか思い浮かばない。
この人たちの「建築」は、どういうものを言うのだろう。

私が東京に出るには常磐線を使いますが、途中に比較的最近できた「ひたち野牛久」という駅がある。かつて開かれた万博会場の臨時駅が昇格したもの。あたり一帯は、「都市再生機構」によって、将来「再生」を余儀なくさせられるであろう「開発」が進んでいます。

この駅舎が、ホームに立つ人はもちろん、電車に乗っている人の目にきわめて鬱陶しい。
プラットホームの上屋が、ホームの長手に対して緩いアーチ状の形の屋根がいくつも並ぶ形をしていて、それだけならまだしも、そのアーチ状の形をつくるための太い鋼管の母屋が、ホームに直交して繁く波を打って並んでいる。これがきわめて太く、うるさく人の目に飛び込んでくるのです。

ホームの上屋は、列車の進行方向に並行するのが普通です。長い通路に上屋を架けるときに、通路に沿ってアーケードを架けるのと同じです。それが、古来、「人の感覚に素直な」やりかた。いわば「常識的な」方法だと私は思います。

おそらくこの駅舎の設計者は、「単に」、そういう「常識的な」解答を「避けたかった」だけなのではないか、と私は思っています。何故?、設計者の「アイデンティティ」を表現するために。

   蛇足 こういうのは、本当の「アイデンティティ」ではありません。

なかでも、ホームの上に直交して何本も横たわる太い鋼管の母屋のわずらわしさは「逸品」です。
先ほど、アーチ「状」と書きました。本当にアーチなら、こんな母屋は不要で、もっとすっきりします。そして、どう見ても本当のアーチにできるはずです。鋼材をアーチ型に加工することは簡単、その上に屋根材を葺くことも簡単。

何故そうしないのか、と考えると、まさか設計者がアーチを知らないとは考えられないから、きっと、あの太い鋼管の母屋を見せたかった、としか考えられない。
と、そこまで考えて、思い至りました。
設計者にとって、列車に乗っている人や、ホームの上にいる人の目にどう映るかは一切知らない、そんなのはどうだっていい、「遠景が大事だ」と考えたのに違いない、と。
多分これが本当のところだと思われます。
何故なら、この駅が開業したとき、建築紹介誌には、遠景の写真(だけ)が紹介されていたと記憶しているからです。要は「写真映り」。

この駅舎の設計者が、今回のビエンナーレのディレクターを務める方です。

訂正:これは私の思い違いでした。読まれた方から、メールでご指摘をいただきました。
ディレクターを務めるのは、この駅前のガラス張りのビルを設計した人です。
謹んで、ご迷惑をお詫びします。
駅の設計者は、研究学園都市の「開発」に深く係わって来られた方です。
かと言って、駅の印象は変るわけではありません・・・・。
また、この後の内容:この一文の趣旨にも変りはありません。[訂正追記 20日 17.36]

「『建築で人々が出会う』というテーマは、社会や使い手との新しい関係を追及してきた(設計者)自身の建築観とも重なる」と、新聞記者は書いています。

私は思わず次の言葉が口をついて出ました。
「新しい関係」って何?
「社会はもちろん使い手は、あなた(たち)のつくる《建築》なる容器に詰められる単なる「物品」にすぎないのか、冗談じゃない!
あなたたちに、私たちをベルトコンベア上の物品のように、勝手に操作して「出会わせる」、そんな「特権」はないはずだ。
私たちにも「普通の感覚」があるんだよ!

そしてさらに、冒頭のケンプラッツの記事へと繋がったのです。
何か、私が「常識的に」考えている「建築」についての『概念』とはまったく違う概念が、今の建築界にはあるらしい。

しかし、寡聞にして、私はその「新しい概念」についての「解説」「教義」を、見たことも聞いたこともないのです。

どなたかご存知でしたら、ご教示ください。

はるか昔、明治25年:1892年、伊東忠太は、「造家」の用語を「建築(術)」に改称すべし、と説く一文で、「アーキテクチュールの本義は・・・実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って真美を発揮するに在る。・・」と書いています。
何だかタイムスリップしたみたいな感覚を覚えます。
   変換ミスで「伊東」が「伊藤」になっていました。
   その旨のご指摘メールをいただき、訂正しました。[21日 12.42]
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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-7・・・・何が見えているか

2010-07-15 10:18:42 | 「壁」は「自由」な存在だった
今回も長くなりました。
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[註記追加 15.31][註記追加 16日 9.47]
その気になって観てみると、現在各地に保存されている重要文化財建造物は、どれも、きわめて単純な形をしていることに気付きます。簡単に言えば、「一つ屋根」。

その遺構はありませんが、「寝殿造」も図面で見て明らかなように、いくつもの「一つ屋根の建屋」を「渡廊下」でつないでできています。下の図は、復元想定の「東山三條殿」俯瞰図。



中世、近世の寺院の「塔頭(たっちゅう)」でも同じで、「東福寺・龍吟庵方丈」は、他の建屋が消失しているので不明ですが、「大徳寺・大仙院」でも、下の図のように、いくつかの「一つ屋根の建屋」が「渡り廊下」でつながっています。
   寺院の伽藍自体、「一つ屋根の建屋」をいくつも並べることで成り立っています。
   相互を必要に応じて渡り廊下でつなぐことは任意です。


   
同じ塔頭でも、「大徳寺・孤篷庵」は、「大仙院」とは大きく異なります。下がその配置図です。



この配置図をざっと見ると、この建物は、必要な諸室を必要に応じて並べているように見えます。現在の建物の普通の設計のやりかた:いわゆる「間取り」を先行して、次いで、その構造や屋根の形を考えるという手順:に慣れた目には、そのように見えても可笑しくはありません。

しかし、実際はそうではありません。
次の写真は、 Google earth から転載した上空から見た「孤篷庵」です。



この写真で分るように、この建物は、いくつかの「用の異なる一つ屋根の建屋」を直接接合して相貫体をつくっているのです。

すなわち、「方丈」部分と「方丈・書院へのサービス」部分とを南北に並行して並べ、その両端:東西に「両者を連絡する諸室」部分を直交して置きます。そうすると、坪庭を囲んでロの字型の建屋になります。
そのロの字は、俯瞰すると、平面図で見るよりも整形です。
ロの字の西側に「書院」部分があり、その北側は、坪庭を間に置いて「日常居住」部分が占める・・・、こうして全体ができあがっています。
下の写真は、配置図で「書院」と「方丈」部の繋がりを示しています。



写真は、庭の西南隅から北西を見たもので、左手が「書院」、右は「方丈」の西面、「方丈」から北へ少し進んだ奥に見える妻面は、「方丈」と「坪庭」を挟んで並んで建つ「方丈、書院へのサービス」部分の屋根です。
平面図はきわめて複雑に見えますが、「一つ屋根」ごとに区分けをして見ると、複雑ではないのです。

「桂離宮」も似たような空間構成ですが、「桂離宮」の場合は増築に増築を重ねた結果なのに対して、「孤篷庵」は最初からこの形でつくっています。
言ってみれば、頭の中で、事前に「増築」をしていって、この空間構成が描かれた、と言えるかもしれません。
別の言い方をすれば、「全体」を、いくつもの「一つ屋根」の建屋群の集合として捉えていた、ということです。

ただし、そのとき、建屋以外の部分:屋根のない部分:をも「一つの空間」として捉えられていないと、こういう計画・発想は生まれない、ということに留意する必要があります。
したがって、より正確に言えば、与えられた「敷地」を、「屋根のある空間」「屋根のない空間」のモザイク状に分けて捉えた、と言ってもよいでしょう。

問題は、その「分ける論理」は何か、という点に絞られます。
そしてそれは、「建物を設計するとはどういうことか」という根本的問題にほかならないのです。
小堀遠州は、この「問い」に対して、一つの「答」を「孤篷庵」で示してくれているのではないでしょうか。

   註 「孤篷庵」は、小堀遠州が、自らの菩提所として指図してつくった塔頭です。[註記追加 16日 9.47]


「大仙院本堂」のようなつくりかた、いわゆる「分棟型」は、近・現代でも、学校校舎や病院の建物に多く見られました。「孤篷庵」は、現在の普通の建物に多い「複合型」のつくりと言えるかもしれません。
「分棟型」は、最近少なくなりましたが、たいていの場合、平屋建てか二階建程度ですから、平面移動が主となるため人の動きになじみ、気分がよいものです。

   註 ただし、「孤篷庵」は平屋建てです。だから、人の動きになじみます。
      現在の「複合型」は、数階建て以上が普通です。[註記追加 15.31]

「分棟型」「複合型」のいずれを採るにしても、「一つ屋根」に何を括るのか、それらをどのように並べるのか(接合するのか):その並べ方・「配置」順序が重要になります。つまり、先に書いた「分ける論理」です。
なぜなら、「括り」と「配置」を間違えると、きわめて使いにくくなるからです。

いわゆる「建築計画学」は、この「論理」を見きわめようとしたのが発端だったはずです。
その当初、研究者の目には、「括り:一つ屋根」の区分け・仕分けは、ごく「常識」的に「見えて」いました。
なぜなら、「常識」とは、「私たちのごく自然なものの見え方」にほかならないからです。そして、その「後ろ盾」「保証」になっているのは、私たちの「日常の暮しの全体」です。

ところが、あるときから、研究者の目には、その「後ろ盾」が見えなくなるのです。
なぜか?
目が「研究」にそそがれ、「日常の暮しの全体」が見えなくなるのです。
一言で言えば、眼下の「研究」が気になり、「何を研究しているのか」が見えなくなる。「研究」が「目的」になってしまい、「部分」だけが目に飛び込んできてしまう。

「部分だけ」を見ることは簡単です。
相互・前後の脈絡を切って「部分」を見ることは、「全体像」との脈絡を考えながら「部分」を見るより、数等簡単だからです。

   「研究」を「業績」に置き換えると分りやすいかもしれません。

そしてさらに「病状」が進むと、「自分に見えている『部分』を寄せ集めて足し算すれば『全体』になる」という「錯覚」に陥る。

「建築計画学」も、そして「建築構造学」も、皆、この「落し穴」:「錯覚」に陥ってしまった。そのように私は見ています。
当初の「素直さ」、「常識で見るものの見方」をどこかに置き忘れてきてしまったのです。

もしも研究者が、自らの「研究」に目を遣るのではなく、拠ってたつ「自らの暮し」に目を遣っていたならば、
もっと簡単に言えば、
「自ら、自らの暮す空間をつくる」場面に身を置くならば、「錯覚」から覚め、「日常の暮しの全体」に目を遣らざるを得なくなったはずだ、と私は思います。
しかし、大方の研究者はそれをしない。そんなことをしていると「研究」の「成果」が上らない(と思い込んでいる)からです。

しかし、当たり前ですが、ごく普通に暮している人びとの目から「全体」が見えなくなることは決してありません。「暮せなくなる」からです。
かつて、人びとは皆「全体」が見えていました。
ですから、普通に暮している以上、「常識」が失せることはない。ごく自然に「何が一つ屋根に収まるか」が「見える」。

   今、一般の方々の間にも、「研究者風なものの見方」が増えているように、私には思えます。
   なぜなら、それが最高最善のものの見方と「思い込まされて」いるからです。
   たとえば、「科学的」ということばのマジック。皆、このことばに「弱い」。
   
ところで、「一つ屋根」と言うとき、それは、単に、そこに収まる諸室のことを言っているのではありません。単に「なかみ」だけではなく、その「空間」そのものをどうやってつくるかまで、現代用語で言えば、計画から構造、設備・・・まですべてを含んだ「一つ屋根」を指しています。

随分前に、「住まいの原型は一室空間である」と書きました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3)。
人びとは、「手に入る材料」で(正確に言えば、「手に入れやすい材料で」)その「一室空間」をつくりました。

そのとき、あんな形がいい、こんな形がいい、など詮索しません。

その材料なりの「形」は、「自ずと人びとの目に見えている」からです。
先ず「間取り」を決めて、次いで「構造」を考える、などという手順はないのです。


やっと今回の「本題」にたどりつきました。「このこと」すなわち「最初に全体を見る、全体が見える」ということを言うために、ここまで随分時間をとってきたのです。
それは、彼の「古井家」を理解するためには、どうしても「このこと」を念頭に入れておく必要がある、と思うからなのです。

「古井家」が、壁に依存せず、木材に拠る架構だけで自立している、500年近く健在であったことは、すでに触れました。
「耐力壁」がないと木造建築は自立を維持できない、という「説」は、思い込みに過ぎない、ということです。「事実」に反する「説」である、ということです。
逆に言えば、思い込みで「事実」を見てはならない、ということです。

下は、「古井家」の復元後の写真。建坪は112㎡:37坪、平屋建て。見事に「一つ屋根」です。



当然ですが、「古井家」の人たちは、自らの住まいをつくるべく、材料を集めます。地元で得られる木材です。もしも木のない地域だったなら、別の材料、たとえば土や石になったでしょう。木があった。だから木造になった。

さて、自らの住まいをつくるにあたって、彼らは、現在のように、自らの住まいが自然の猛威の中でも自立を維持するために、「耐力壁」を設けなければならない、などと考えたでしょうか。
そんなことを考えるわけがありません。
「壁」は、彼らにとっては、木造の骨格が出来上がってからの話。
第一、「壁」を何でつくるかは、地域の状況次第。
「壁」は、骨格の間の充填材。充填材は、莚のようなものでもよく、茅のようなものでもよく、もちろん土でもいい。その「選択」が適宜であることは、すでに見てきました。
だから、そういう「壁」が建屋の自立に役立つ、などと考えるわけがない。

つまり、当然ながら、木でつくる住まいの架構自体が自立することを目指します。
というより、そういう意識さえなかったかもしれません。
「竪穴住居」そして「掘立て」、次いで「礎石建て」と歩んできた道筋は、彼らの「知見」のなかに、脈々と伝わっている、したがって、彼らが木で建屋をつくるとき、その「知見の蓄積」は、そのまま結実する。すなわち、どういう風にすれば、自立を維持・保持できるか、その知見が蓄積としてあった。
そこでは、一体化だとか立体化だとかいうこと自体、言葉にすることさえバカラシイことなのです。

考えてみれば、一体化だとか立体化だとかいうのは、現代の、「ものごとを分解して理解に到達する」という考え方に「毒されてしまった」私たちが、私たちだから、言う「言い草」なのです。
あるいは、「ものごとを分解すれば理解に到達する」と主張する人たちに、「それは違う」と言わざるを得ないときに、やむを得ず言う言葉なのです。

「古井家」をつくった人たちをはじめ、古来の「知見の蓄積」に基づき「住まい」をつくる人たちにとって、つくる建屋は、「あたりまえのように、一体化・立体化されている」のです。

下の写真は、「古井家」の復元工事の組立中を撮ったものです。
上は骨組の工事中、下は屋根下地の用意が進んだところです。いずれも「修理工事報告書」からの転載です。



次は、屋根下地が組まれる前の姿、すなわち、木造の骨組だけの状態の模型の写真です。
屋根下地は、このような骨組の上に組まれているのです。



今、専門の方々も含めて、骨組は骨組、屋根は屋根、という具合に「分けて」見る傾向がきわめて強いように思えます。

たとえば、建築構造を専門と心得る人たちは、骨組だけ見て、ああだこうだ、と言う。
こんな骨組で長い年月無事でいる筈はないから(と勝手に思い込み)、外回りにまわっている「土壁」に目を向ける。このほぼ四周にまわっている「壁こそ、この建物の命」だと「考える」。そして「安心」する。自分の「学んだ」「理論」で、解釈できた・・・・と。

ところが、この「壁」は、初めのうちだけで、時が経つと「壁」は任意に変えられてしまう・・・。
それでも「耐力要素」を探そうとする。たとえば、「小壁」の存在。
けれども、この「小壁」もまた永遠ではない・・・。

すでに前に書きましたが、「古井家」は、建築構造の専門家がいかに思おうと、この極めてスレンダーな骨組で、数百年、倒壊することもなく、過ごしてきたのです。
しかし、この語り口は正確ではありません。
先の「屋根下地の組まれた」段階の写真、この「姿」こそが、この間、大きな変化もないまま継続してきた(もちろん、ときおりの改修、補修はありますが・・・)姿だ、と言う方がより正確でしょう。建物が、その「骨格」だけで使われることなどないからです。
この「姿」こそ、「古井家」を長らえさせてきた理由なのです。
簡単に言えば、屋根まで含んで「一体に組み上がった立体」がそこにある。それに屋根材が葺かれ、壁材が充填される。これが建物の姿です。
   もしかしたら、材料によっては、屋根材も壁材も、建屋の自立に役立っているかもしれません。
   しかしそれは、あくまでも「付加的」な役割・仕事。それが「主たる」役割・仕事ではないのです。
   なぜか。
   それを「主たる」役割・仕事にしてしまうと、それによって「暮し」が「制約」を受けてしまうからです。
   現在の一定の壁を設けよ、という「規定」が、いかに「暮し」の制約になっていることか!

建屋を「軸組」「小屋組」と分けて見ることはできるし、そう分けるのはまったく自由です。
しかし、だからと言って、建屋の強さは「軸組の強さ」+「小屋組の強さ」である、ということにはなりません。
それは、論理的に無理がある。
建屋の強さは、あくまでも「建屋の強さ」、それは、「古井家」を例にして言えば、あの写真の「姿」の強さなのです。

先回、「龍吟庵方丈」は、四周にまわされた「桔木構造による庇」が、屋根と軸組部との一体化に強く関わっている、と書きました。
「古井家」もまた、軸組部にかぶさる屋根が、全体の一体化・立体化に大きな役割を果している、そして、そうしてできあがる「立体」を「礎石」の上に据え置けば、「龍吟庵方丈」と同じく、簡単なことでは倒壊に至らないのです。
つまり、「古井家」を建てた人たちにとって、こういう「立体」をつくるのが「常識」だったのです。「部分」を足してつくり上げるなどという「発想」は、どこを探してもないのです。

彼らに、「構造用教材」に載っている軸組工法のモデルを見せたら(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/05257b17a8877ce16db40233141e1805に図があります)、彼らは何を思うでしょうか。
彼らには会えません。しかし、彼らの考えたことは、「古井家」という建屋に歴然と示されているのです。


蛇足

私が、今のような考え方、見方をするようになるのに、大きな「助言」「支柱」になったのは学生時代に読んだいろいろな書物です。
その一つに、次の一文があります。
「・・・・・
我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある『まとまり』を先ずとらえ、部分はそのある『まとまり』の一部としてのみとらえられるとする考え方、すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。
・・・・・」(ギョーム「ゲシュタルト心理学」岩波現代叢書)

ゲシュタルト心理学というのは、単純に図形に対する視角心理学ぐらいに理解していた私にとって、この書は衝撃的でした。

こういうのもあります。
「・・・・・
ある対象についてのすべての適切な表象が共通に持たなければならないものは、その対象についての概念(concept)である。同一の概念が多数の表象として具体化されるのである。
・・・・・
どの二人の人も、おそらく全く同じようにものを見るものではない。彼らの感覚器官はそれぞれ相異なっており、彼らの注意力も心象も感情も、それぞれ相異なっているのだから、彼らは同一の印象を持っているとは想像できない。
しかし、もし事物(または、事象、または人間など)についての彼らのそれぞれの表象が、同じ概念を具体化している場合には、彼らは互いに理解し合うであろう。
・・・・・」(S・K・ランガー「シンボルの哲学」岩波現代叢書)

ある地域に、似たような形で、なおかつ個性豊かな「住まい」があるのはなぜか、その答を導くヒントがここにあります。
今の世では、個性は形だ、と専門家も考えてしまいがち。どうしてそうなるかの答もここにヒントがあります。

一息ついて・・・・

2010-07-12 13:05:13 | 居住環境
テキスト編集、発送が一段落してほっと一息、蒸し暑い中、休憩中。
これから次回分の工事に入ります。

いつもは樹林のなかの冠のように花を付ける合歓木。今年はあまりよく咲いてません。日射が少ないせいだろうか?




日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-6の補足

2010-07-04 11:56:28 | 「壁」は「自由」な存在だった
昨日、「龍吟庵・方丈」は、
軸組部は、骨組の外形が、先ず「貫」によって「立体化」された上、さらに「桔木」と「繋梁」で構成された「鍔」によって、立体形体の維持を補強されている。
さらに
「小屋」は、中央の「上屋」に相当する部分の「大梁」と、四周の「桔木」の上に「束立て」で組まれ、「束」相互は「小屋貫」を通して固められている・・・つまり、「上屋」「下屋」の上部は、小屋組で一体になるように固められている・・。
以上をまとめると、「龍吟庵・方丈」は、きわめて簡単な方法で、部材を「立体化」し、全体を「一体化」することに成功している・・。
と書きました。

実は、その続きがあったのですが、その段階で、字数が1万字を越えてしまい、これ以上書き込み不可ということになってしまいました。
いささか尻切れ状態で終わっているのは、そのためです。

そこで書けなかったこと、書きたかったこと、は次のようなことでした。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

工人たちが、このような一体化した立体を考えることができたのは、彼らが常に「全体」を頭に描くことができたからだ、と言えるでしょう。
つまり、工人たちが部材を刻むとき、すでに「全体」「全容」が頭の中に描かれている、ということです。
彼らは仕事のために、「絵」を描きます。それはいろいろな形をとるようです。しかしそれはいずれも、彼らが頭に描いた「全体」を示すためのもののはずです。そのときすでに、その「全体」が、どのような「立体」なのか、理解されているのです。

国立歴史民俗博物館から「古図にみる日本の建築」という書物が刊行されています。1987年に同館で開かれた同名の企画展の「図録」です。
その冒頭に、古代に於いて、そのような仕事のための図が描かれるとともに、1/10程度の模型をつくったらしい、と記されています。要は、頭に描いたことを模型にしてみて、事前に確認をしたらしい。
その一つ、奈良の元興寺に保存されている1/10の「元興寺五重小塔」(国宝、私は見たことはありません)は、当時、他の寺で五重塔をつくるときの参考にもされたらしい、とのこと。もちろん外形の模型ではなく、組み方までつくってある。
   現在の「清水寺」の造営にあたっても、1/10の模型がつくられています。

大事なことは、かつて、工人たちは、常に、「全体の立体」を頭に描くことから仕事を始めている、という事実です。「模型」を事前につくる、ということも、「頭に描いたこと」の確認のための作業の一環。

当然ですが、その模型は、現在の設計でつくられる「プレゼンテーションのための模型」ではない。
描かれる図も、「プレゼンテーションのための恰好いい絵」ではありません。
そうではなく、
どのような「立体」ならば自立できるか、各部材をどのように組めば「一体の立体」になるか、それを見通した上での「全体像」を描き、それを何らかの図で示し、そして模型でも確認したのです。
彼らにとって、「部分」は、あくまでも「全体」の部分、「全体」あっての「部分」なのです。
たとえば、「龍吟庵・方丈」も、「全体」が見えていなければ、つくれなかったはずです。
   彼らが描く図やつくる模型は、そのままで「現場」の使用に耐えた。
   現在のように、別途「施工図」を描く、などというムダは必要としなかった。
   なぜなら、彼らは「現場」の人だから「現場」の使用に耐えることをしたのです。


さて、ここまで書いたなかで、特には触れてこなかったことがあります。
それは、「一体に組まれた立体」は、「掘立て」から「礎石建て」に移行して以来、常に、「礎石の上に置かれただけ」だった、という「事実」です。

「礎石建て」になってから、すでに1000年はおろかそれをはるかに越える時間が過ぎています。
しかしその間、「一体に組まれた立体」を「礎石の上に置くだけ」ということには、何の変りがありません。
もしも、その方法に支障があったのならば、「掘立て」が「礎石建て」に移行したように、とっくの昔に、その方法は変更されて当然です。しかしながら、そのようなことは「気配」さえ窺われない。
ということは、
置かれる建屋が「一体に組まれた立体」であるならば、何ら問題がない、
ということの「実証」にほかなりません。
事実、現在遺されている事例がそれを証明しています。
   「一体に組まれた立体」でない場合には、問題が生じる、
   そして、そういう「体験」を経て、工人たちは、より一層
   「一体に組まれた立体とすることが重要である」ことに気付く。
   そして、技術・工法はより確実な方向へと進んでゆく、
   これが技術の歴史の「なかみ」である、と私は考えています。
   こういう「知見」は、数式や実験室の実験では得られないのです。

けれども、このような「歴史的事実」が存在している、「歴史的に実証されている」にもかかわらず、「事実」が認められない、「事実」を認めようとしない、のが現実です。「実験」しなけりゃ分らない・・・らしい!

かつての工人たちの「現場」での仕事、それが現在まで長期にわたり健在である、こんな見事で過酷な「実験」が他にありますか?
なぜ「歴史的事実」を見ようとしないのか、そのわけの「論理的な説明の開示」を求めたい、と思います(私の知る限り、みたこと、きいたことがまったくありません)。
   ある人が、現在の「木造建築の権威」とされる方に、
   なぜ昔の建物は、基礎に「緊結」しなかったのですか、という質問をした。
   答は、昔は金物が高価だったからだ、というものだった、
   という話をききました。まさか、とは思いますが・・・!?
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日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-6・・・・その方法:龍吟庵・方丈の場合

2010-07-03 12:32:21 | 「壁」は「自由」な存在だった
今回は、かなり長くなります。
できるだけ分っていただけるように、少しばかり(いつもそうかもしれませんが!?)くどく説明をさせていただきます。


日本の木造建築に於いて、中世の「再建・東大寺南大門」「浄土寺浄土堂」そして近世の大寺院などの「大規模建築」はもとより、中世の「古井家」や「龍吟庵・方丈」など数多くの「普通の大きさ」の建物群が、なぜ長きにわたり、倒壊せずに済んでいるのか、
頭を空にして、つまり、日ごろ頭に刻み込まれて「当たり前化」した「知識」を脇に置いて、考えてみたいと思います。

   なぜ頭を空にする必要があるか?
   それは、今、たいていの人は、強い建物には、外からの力に耐える壁、耐力壁がなければならない、
   という見かた、考え方を刻み付けられてしまっているからです。
   誰も疑わないし、疑おうともしない。そういうことを疑うのは非科学的だ、と言われるからです。
   何が非科学的なのか?
   耐力壁が必要という考え方は、科学的成果だ、ゆえに、それを認めないのは非科学的だ、というわけです。
   頭を空にする、ということは、根本から見直す、ということです。
   頭の「店卸し」は、常に必要、「店卸し」を常にすることこそ、 scientific なことだ、と私は考えています。

ここでは、私たちの日常の建物に近い「古井家」や「龍吟庵・方丈」などについて特に考えます。


考えるに当たって最も重要なことは、
かつて、人びとにとって、日本という地域・環境で暮すかぎり、地位の上下を問わず、「開けっぴろげの空間、風通しのよいところで暮す」ことが、最高にして最大の「願望」であった、
ということを再認識することだと思います。「必要条件」であった、と言っても過言ではないでしょう。

  註1 今は、「開けっぴろげ」のつくりは、地震に弱いから、
      いわば「先験的」に、「つくれない」とされています。
      さらに言えば、
      「地震を目の前にして、そのような願望は、口にするべきではない」、
      との「考え」を採ることが「要求」されてもいます。
      万一、人命にかかわる大事に至ったらどうする気だ、との
      なかば「脅し」をともなった「要求」です。

  註2 今は、そのような「願望」はない、と思われる方も
      おられるかもしれません。
      そうであるならば、どうして夏になると
      電力使用量が極値に達するのでしょうか。
     

すでに触れたことですが、「開けっぴろげの空間、風通しのよいところ」とは、現在の用語では「空調の効いた場所」と言えばよいでしょう。「空気調和: air-conditioning 」のためには、「開けっぴろげにして、風通しをよくすること」が第一だった。

しかし、「開けっぴろげの空間」は「住まいの基本原則」には抵触します。
「住まいの基本」とは、「自分たちが外界にさらされずに籠れる場所であること」です。
言うなれば「自分(たち)の城」。城郭が堀で囲い、塀で囲い、さらに壁で塗り篭める、それはすなわち「住まいの基本」の延長に過ぎません。

けれどもそれと「開けっぴろげにして、風通しをよくする」こととは相反する。
そこで、人びとは、徐々に、「住まい」を「建屋」の中だけに限定せず、拡張してゆく。
つまり、「屋敷」を「住まい」と見なし、その一画が建屋となるようなつくり。そうすれば、建屋は「願望」どおり、「開けっぴろげの空間」とすることができる。
上層階級では、早くからそういうつくりになっています。いわゆる「寝殿造」がそれです。下は寝殿造「東山三條殿」の俯瞰と「源氏物語絵巻」にでてくる縁先の図(「日本住宅史図集」より)。



この日本という地震の多い地に住み着いて以来、人びとは、この「願望」の実現を、追い求めてきた、と言ってよいでしょう。
人びとは、幾たびも、それは多分数え切れないほどだと思いますが、折角つくった建屋を地震で壊されたに違いありません。

しかし人びとは、「願望」の実現を棄てることはしなかった。
当たり前です。
「暮す、住まう場所をつくる」ということは「ただ単に《地震で壊れない建屋がつくれればよい》のではない」からです。そんなのは簡単です。
「開けっぴろげの空間、風通しのよい建屋」で、なおかつ「地震で壊れない建屋」でなければならないのです。
すなわちそれが人びとの「願望」だったのです。
そしてそれを人びとは追求した。これも当然です。そうするのが、そういう地域に暮す以上、当たり前だからです。

   それとも、いつも地震に備えるのが日常で、地震に怯えながら、風通しの悪い場所で暮す方が、
   当たり前だったのでしょうか?
   そんなことはあり得ません。
   人びとは、「愚か」ではありませんから、日常を気持ちよく過ごせる場所を、
   地震にも壊れないように工夫し続けたのです。
   人びとの思いは真っ当だったのです。

そして、そういった「願望」追及の試行錯誤の結果、おそらく中世の初め頃までには、一定の「方策」にまで思い至っていたのではないかと思われます。
その方策こそ、「木を組上げるだけで自立可能な架構法」「壁を自由な存在として扱う架構法」にほかなりません(そして、近世には、ほぼ完成の域に達します)。

すでに12世紀末から13世紀初頭に、寺院建築といういわば特殊分野においてさえ、「浄土寺・浄土堂」や「再建・東大寺」などに、その策が具体的に現われます。
しかも、その現われ方は尋常ではない。どこにもスキが見当たらない「熟成した姿」で現われている。
このことは、一般の建物づくりにおいても、その頃までに、すでにその方策は知られていたことをも示していると言えるのではないでしょうか(残念ながら、それを示す遺構はありません)。突然、「熟成した姿」をもった技術が出現する、などということはあり得ないからです。
   これまでの史学では、その「突然の出現の理由」を、自国内にではなく、他国に求めました。
   すなわち、それは中国から移入した技術であり、つくったのは彼の国の技術者だ、と。
   「大仏様」という呼称の前には、「天竺様」と呼ばれていたことにそれが示されています。
   そして、学術書の多くも、当然のごとく、そう書いています。

そして、15世紀以降には、目を見張るような事例が、住居建築スケールの建屋にも、数多く遺構として現われます。
すなわち「龍吟庵・方丈」であり、「古井家」「箱木家」など一般庶民の住居がその端緒と言えるでしょう。そこでは、もの見事に「壁」が「自由」に扱われていたことは、すでに観たとおりです。
遺構がある、ということは、その背後に、より多くの同様のつくりの建物が存在したことを示している、と私は思います。それらが、突発的に現れた、とは考えられないからです。

「龍吟庵・方丈」の図面と外観を、要約して再掲します。



この建物では、「壁」は「室中」の北面の幅4間の板壁だけです。あとは外回りも間仕切もすべて開口部:建具が入っています。
これで建設以来、少なくとも、戦後の解体修理時点までの約550年間、健在だった。現在までだと、約600年。
どのような架構法であるかについては、下記ですでに触れました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ba65df2182d48e8c06cddb11d35cac23

この建物は、軸組部、つまり屋根が載る部分は、「礎石」の上に、縦材の「柱」と横材の「梁・桁」「貫」「足固め」(「足固め貫」も含む)を組立ててゆき、その上に「束立て」の「小屋」を載せるという、まったく普通の架構法でつくられています。柱は5寸弱角。6尺8寸が柱間の基準寸法です。つまり、1間が2m以上。

ここで、この建物で使われている「貫」は、厚さが現在「貫」と称している材:およそ14~15mm:の2倍以上はある、という事実に留意する必要があります。
   現在の建築法令が「貫」というときの「貫」は、100mm×15mm以上を指しています。
   つまり、厚さ15mmでも「貫」なのです。
   市場でも、14~15mm×90~100mm程度の厚の材を、ヌキと称して売っています。
   これは、1950年制定の「建築基準法」が、柱を100mm角以上と規定してからの話です。
   これを「愚行」として、桐敷真次郎氏が厳しく指摘しています(下記)。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/9c2d8fcfef42becbf55083d842d7ab8b

しかし、それでも、「龍吟庵・方丈」の「貫」は、柱の太さとの比率で見ると、大仏様の寺院建築のそれや、「古井家」「箱木家」のそれに比べ、材寸は決して厚くはありません。むしろ薄い。
一般にいわゆる「書院造」と呼ばれる建物も同様です。
どうしてか?
いわゆる上層階級では、一般に、「大仏様」のように、従来の上層の建物を代表する寺院建築の形体:見えがかりの姿を脱する「覚悟」ができず、「貫」を見せたがらない、見えないように壁内に塗り篭めてしまうことを考えたからなのです。
それゆえ、すでに構造的な意味はなくなった「長押」を化粧で取付け(「付長押」と呼ぶ)、その裏側に「貫」を潜めるようにした。
効能については認めざるを得ないけれど、外から見えてしまっては、「しきたり」に反する、あるいは、隠せば「見えがかりは化粧でどうにでもなる」、というわけです。「二重天井」もそうだったではないか・・・。

「龍吟庵・方丈」が、今と唯一違うのは、「桔木」を用いる軒のつくりかたです。
「桔木」を用いる軒のつくりかたは、寺院建築でそれまでの「斗栱」に代る工法で、早くは8世紀末~9世紀初頭から(例:「秋篠寺」)現れ、9~10世紀:平安時代にはごく普通のやりかたとして、上層階級の建物では普及します。
その契機は、屋内に天井を張るようになったことでした。天井裏を利用できるようになってからの発案です。
寺院の象徴的形体を存続させるために、見えがかりの化粧屋根を軒先に張り付け、その裏側に、本当の屋根:隠れてしまうので「野屋根」と呼ぶ:を設けるようになったのです。
「龍吟庵・方丈」も、軒回りはこの方法を採っています。
   二重屋根の発生過程については、以前、下記で紹介しました。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0ba11cb0ddb87fe1c391e23117a74b56

「桔木」を用いる方法は、その簡便にして丈夫で、なおかつ寺院としての「古式」をも容易に装うことができることから、広く早く寺院建築に普及します。
一般的に、鎌倉時代に建てられた寺院を見ると、「桔木」は、屋根を伸ばし、外回りへ空間を拡幅する手法として使われている事例が大部分です。
次の図は、前面へ拡幅するために使われた例。京都の通称「千本釈迦堂」:「大報恩寺」。



ここでは、前面部分への拡幅に努めていることがよく分ります。このような事例は、この時代、各地域の寺院建築で見られるようです(もちろん、「秋篠寺」を継承した例も多数あります)。

しかし、「桔木」使用の先駆者である奈良時代末の「秋篠寺」の場合(下図)は、「大報恩寺」とは異なる事例と考えられます。
古代からの寺院建築は、「上屋(身舎・母屋)+下屋(庇・廂)」の形式・構造をとるのが普通です。
「下屋」は「上屋」の一面~四面に任意に取付けられますが、寺院では四面、つまり「上屋」の四周に取付けるのが一般的です。
その場合、「上屋」と「下屋」部は、「繋梁」と「垂木」で繋がれています。

これに対して、「秋篠寺」では、図で分るように、「繋梁」と「垂木」の他に、野屋根内に設けられた「桔木」も「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割をはたしています。
「桔木」は、単に軒を出すだけではなく、「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割をも担うことになったのです。しかもそれが「上屋」のまわり四面をとりかこんでいます。



「秋篠寺」は、屋根が「寄棟」ですが(図の橙色の線)、入母屋ならば、緑色の線が母屋の妻面になります(この「秋篠寺」的な「桔木」の使いかたを採った事例も多数あります:福島県の「白水阿弥陀堂」、山梨県の「大善寺」など。)

おそらく、「秋篠寺」の造営にかかわった工人たちは、ただ単に、四周の軒を「斗栱」から「桔木」に替えたに過ぎなかったのかもしれません。
しかし、上棟時、工人たちは、組み上がった小屋組の上を歩いてみて、「上屋」の四面に架けられた「桔木」で支えられた「屋根」が、「意外な効果」を持つこと、
すなわち、
それまでの「上屋+下屋」構造とは比べものにならないほど揺れが少ないこと、
単に軒先が頑丈になったのではなく、
架構全体が頑丈になったこと、に気が付いたのではないでしょうか。

つまり、「桔木」が、「上屋」と「下屋」を繋ぐ役割も担う、ということは、最初は考えていなかった、しかし、上棟して、その役割も担っていることに気付いた、そういう過程を踏んだ、と考えられます。
   私は常に「結果論」ではなく、そのような「結果」に至った「過程」を考えるべきだ、
   と考えてきました。
   「結果論」から始めると、とかく、「完成・熟成した姿」が突然出現する、と考えがちになるからです。
   「完成・熟成」「醸成」・・その過程にこそ、人びとの「思考」の実相があるのです。

なぜ、強固になったか?
もともと「寄棟」屋根は、非常に安定度の高い形の屋根です。いわば舟をひっくり返した形をしていて、その形自体が変形しにくい。
試みに、折り紙でこのような形をつくると、あの薄い紙からは想像もつかないほど安定度の高い形になることが分るはずです。これがいわゆる「立体効果」。

建物の場合、最初から「立体」があるわけではない。骨組を組んで板を張ることで結果として「立体」型に仕上がるのです。単なる部材が、組み合わせることで「立体」になる。
そして「寄棟」の形の屋根は、仕上がると、頑強な立体になる。このことは、工人たちは皆知っていた。
そして、その骨組に新たに「桔木」が加わったところ、それまで若干脆弱だった軒先部分の形が補強されたことにも気が付いた(正確に言うと、日ごろの経験から、「斗栱」のような面倒なことをしないでも、1本の棒を梃子のように使えばより簡単に軒を支えられるではないか、という「発想」が生まれ、そうすると、軒先がしっかりする、という発見)。
言ってみれば、「寄棟型」の縁の部分の要所に「力骨」:「リブ」が付け加えられたことになります。
これが、それまでの「繋梁」「垂木」だけの構造よりも強くなる理由です。

別の見かたをしてみます。そのために、下図のように、「秋篠寺」の梁行断面図を色分けしてみます。



屋根裏を薄い黄色、「桔木」と「繋梁」とに挟まれた空間を濃い黄色に塗ってあります。
この濃い黄色の部分は、「断面」です。
この「断面」は、「繋梁」を底辺、「上屋」柱の上の部分を短辺、そして「桔木」を斜辺にしたほぼ直角三角形の形を形成していると見ることができます。

重要なのは、「上屋」柱の上の部分が「短辺」を形成していることです。
この断面:直角三角形は、それ自体、変形しにくい形体ですから、一旦つくられた「直角」そのものも維持される。
この場合、「直角」は、「繋梁」と「上屋柱」(の上部)で形づくられていますから、「直角」が維持される、ということは、「上屋の柱の(上部の)垂直が維持される」ことをも意味します。

そして次に重要なのは、この直角三角形が、上屋の四周を均一にまわっていることです。
言うなれば、上屋のまわりに、「鍔(つば)」がまわった形です。
したがって、「上屋」の四周の各面の垂直が、この「鍔」によって補強されている、と見ることができるのです。

「秋篠寺」の場合は、直角三角形の底辺に、「繋梁」がありましたが、この「繋梁」をはずしても、「桔木」を斜辺、「上屋」の柱上部を短辺とする三角形が「鍔」を形成し、立体として働くことには変りありません。逆に言えば、「桔木」がしっかりできれば「繋梁」はなくてもよい、ということです。

これを簡単な模型で考えてみます。下の写真です。



0.5mm厚のボール紙でつくった5寸勾配の庇部です。
稜線を伸ばせば、あるいは斜面を上まで延ばせば「寄棟型」になり、当然、この模型よりも一層変形しにくい立体形になるわけですが、この「庇部」だけの「鍔」でも、十分に「立体効果」が生まれます。写真のように、折り紙細工同様、この形は安定しています。
つまり、「鍔」は、「繋梁」を不要にもできる、ということです。
赤線は、「下屋」=「庇」を支持する柱列の位置です。

すなわち、「上屋」のまわりに一周して「鍔」をつければ、「鍔」自体、平面的にも変形しにくく、それが取付いている「上屋」自体も平面的に変形しにくい、その上、「鍔」が垂直をも維持するのに役立つ。
この「事実」を、工人たちの多くは、「現場の経験で」会得したものと思われます。

そして、この「理屈」を徹底的に(しかし、そんなに肩肘張ったわけではなく、ごく自然の成り行きとして)「応用」したのが「龍吟庵・方丈」であり「大仙院・本堂」と言うことができる、と私は思います。

しかも、この建物には、「秋篠寺」の時代にはなかった「貫」が軸組部の上部と足元に入っています。「貫」を入れることで、鳥かご、虫かごのようスケスケの「立体」ができあがっている。
つまり、軸組部は、骨組の外形が、先ず「貫」によって「立体化」された上、さらに「桔木」と「繋梁」で構成された「鍔」によって、立体形体の維持を補強されている、ということになります。
その結果、どうなるか。
柱間を全部スケスケにしても、建屋は安泰を保つことができたのです。

「龍吟庵・方丈」の断面図の「桔木」下部分に色を塗ってみてください。「鍔」の形が見えてきます。

そして、あらためて「小屋組」も見てください。
「小屋」は、中央の「上屋」に相当する部分の「大梁」と、四周の「桔木」の上に「束立て」で組まれ、「束」相互は「小屋貫」を通して固められています。
つまり、「上屋」「下屋」の上部は、小屋組で一体になるように固められているのです。

以上をまとめると、「龍吟庵・方丈」は、きわめて簡単な方法で、部材を「立体化」し、全体を「一体化」することに成功していることになります。

これは、工人たちが、経験で得て継承されてきた「知見」を基に、「立体効果」を最大限活用した、そのように考えることができるのではないでしょうか。


長々しい文章を、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は、「古井家」の場合をもう一度みるつもりです。ただ、一週間ほど他用に専念させていただくため、しばらく間が空くと思います。