建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

雑感・・・・「かぶれ」

2009-01-31 07:00:00 | 専門家のありよう
私は読んだことはないし、その気もないのだが、最近、中谷巌氏の「資本主義はなぜ自壊したか」という書物が売れているのだそうである。
氏は「グローバル資本主義」「市場原理主義」・・・といったアメリカ式の「思想」をひっさげてときの政府にかかえられ「構造改革」路線へわが国を推し進めた張本人を自認する経済学者である。かの竹中平蔵氏は、その継承者。
今になって、それが誤りだった、と気付いての「懺悔の書」だとのこと。

それはそれとして、29日のNHKのニュースの本人とのインタビューのなかで彼が語った言葉が気になった。
正確ではないが、「経済が、その国の文化、歴史、社会・・と関係深いものであることを忘れていた・・」「経済は人を幸せにするものでなければならない、ということに気がついた・・」との旨の言葉。

私は思わず「えっ」と思った。そうだったんだ!
別に経済でなくてもいい。なにごとによらず、そんなことは「いろはのいの字」ではないか、いい年をして何を言ってるんだ!それで学者だというのか?いや、だから学者でいられたんだ!日本はきっとそういう国なのだ!!
漢語の「経済」の出所を考えて欲しい。そして、eco‐nomy と eco-logy の eco についても・・・。考えたことがあったなら、そんな「思想」に囚われることもなかったろうに・・。

しかし、ふと気がついた。これが「いろはのいの字」と思うのは今の世では変人奇人なのかもしれない(中谷氏や竹中平蔵氏に従った小泉純一郎氏は、変人奇人どころか、いまの世の中のごく「普通」の人)。
なぜならそれは、学校の教科で、「歴史」がいい加減に扱われていることに現われている。知らなかったのだが、高校では(だったと思うが)、「世界史」か「日本史」のどちらかを選択すればいいのだそうである。それでいて「国際化」・・が平然と語られる。

「国際化」とは、「米語」を習えば済むらしい。そしてそこでさらに気がついた。かつて明治の「近代化」推進の際、西欧:英・仏・独に倣うべく努めたが、いまは米国に倣うのが「最先端」なのだ。英語(米語)を小学校の教科にしよう、などということの「理由」も分るというもの。

明治の「先進者」は、西欧に留学することを、世間の普通の人から「西洋かぶれ」と言われようが、勲章のように大事にし、願望した。
戦後、それにかわって「アメリカかぶれ」が流行った。「先進諸国」への留学はあいかわらず一部の人たちには勲章らしい。それでいて日本は先進国なんだそうだ。
中谷氏も、インタビューのなかで、アメリカが憧れだったと語っている。そういえば、竹中氏もアメリカ留学者。

私などは、そんなに憧れて、いいところなら、定住すればいいのに、と思ってしまう。アメリカは、「移民」を受けいれてくれるではないか。
だが、そうはしないらしい。「留学」という勲章をぶら下げて母国で顔を売ることに専念する。
おそらく、向うには見合う職がなかったのだろう(向うに引き留められている、あるいは日本から引張られる本当の日本人学者が、たくさんいるではないか・・)。

それとも「母国」日本が好きだったからなのだろうか。
そんなことはない。自国の歴史、文化、社会・・について知らない、と言うのだから。それゆえに、「留学」という勲章をぶら下げて母国で顔を売ることに専念する・・・。

それにしても、政治家を操って、いまの状況をつくってしまったことの責任はどのようにとるのだろうか。「懺悔の書」を著して売れればいいのだろうか。

実は、29日のニュースでもう一つ気になったのは、中谷氏の「転向」:アメリカ式「思想」からの撤退を、企業の中堅の若い世代の人たちの多くが批判していることだった。
市場原理主義で、日本は(企業は、なんだろうが)成長した、というのである。
例の、「できる人」が上に上がれば上がるほど、全体が底上げされる、という安直な「論理」?である。
これにも「えっ」と思ってしまった。「選民意識」がギラギラしていて、気分が悪かった。住む世界が違うらしい。

やはり、かつての「近江商人」はすぐれていた。彼らの多くは「経世済民」の意味を分っていた。「商売」「商い」の意味が分っていた。そして、「儲ける」ことの意味も分っていた。

   註 私は、終戦時にその人が何歳であったかが、
      その人の「考え方」に大きな影響を与えている、と
      勝手に思っている。
      中谷氏は1942年生まれ、ものごころついたころから
      アメリカ、アメリカ・・の世の中だった。
      竹中平蔵氏は1951年生まれ。生まれたときから
      アメリカ、アメリカ・・の世の中だった。
      きっと、相対的にものを見ること、観ることを
      学ばなかったに違いない。
      言うならばアメリカ絶対主義。

      これが1960年代以降生まれになると少し変ってくるのだが、
      しかし、TVで市場原理主義を是としていたのはこの世代。
      誰かに何か「洗脳」されているように、私には思えた。
      「氏より育ち」とは、よく言ったものだ、と思う。

日本の建物づくりを支えてきた技術-23の補足・・・・「母屋」を20尺(6m)跳ばす工夫

2009-01-30 10:52:42 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

もう一度、「母屋伏図」を載せます。
①は「丸桁」、②からは「母屋(桁)」です。
①②は、それを受ける支点間の距離は柱間と同じ20尺、約6mあります。③も中の間は20尺です。
④も中の間は20尺、⑤は20尺一本。

「丸桁」「母屋(桁)」とも、断面は高さ7.5寸×7.0寸(約22.5cm×21.0cm)で、下端は平ら、上側は丸めてあります。
この断面の材では、20尺は跳ばせません。真ん中あたりで撓んでしまいます。特に、2支点以上に架かる場合に比べ(正面丸桁の左側の材のような場合で、「連続梁」と言います)、2支点の間だけに架かる場合は(同じく右側の材のような場合で、「単純梁」と言います)撓みが大きいでしょう。

   註 右側の材も、正確に言えば、左端部の「受け」と
      右端部の正面に向う「受け」と隅に向う「受け」の2点の
      都合3点で支えられてはいますが、
      隅側の2点は短く接していて、左側の20尺の箇所から見れば、
      ほぼ両端2点で支持されていると考えてよいでしょう。
      もちろん、隅側が2点あることは、「純粋」2点支持よりは
      効果がありますが・・。
     
この対策として工夫されたのが「遊離 尾垂木(ゆうり おだるき)」です。

上掲の写真は、解体中の様子です。「修理工事報告書」からの転載ですが、向きを「断面図」「伏図」に合わせるべく、反転して編集加筆してあります。

②は外周の柱通りの上に、そして⑤は内陣の柱通りの上にあります。

そして、柱間の20尺の半分、10尺の位置で、外周柱通りの頂を支点にして①と③を受ける天秤状の部材が屋根の勾配なりに設けられています。
同様に、④と⑥を受ける天秤状の材が、内陣柱通りの頂を支点として入っています。これが「遊離 尾垂木」と通称されている部材です。

多分、こういう堅苦しい名称は後世の学者さんがつけたものでしょうが、工人たちがどう呼んでいたかは、残念ながら分りません。

以前にも触れましたが、このような方法は、「浄土寺浄土堂」と「東大寺南大門」の他には見ないようです。
これが目をひくのは、多分、斜めに架けられているからだと思います。

けれども、「肘木」+「斗」を何段も繰り返して「垂木」を受ける「軒先の桁」を柱通りから持ち出す方法は古代から使われています。「三手先」・・・などという呼び方がされている例です(下記)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-8・・・・寺院の屋根と軒-1」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-9・・・・寺院の屋根と軒-2」

この方法から「斗」を取去り、「肘木」を一段ごとに少しずつ長さを伸ばして単に重ねても持ち出すことができるはずです。「斗」は、「肘木」が根元で重ならないようにするための部材。重なることの心配がなければ重ねることは可能です。

要は、これは「尾垂木」というよりも、単なる一段の「肘木」(正確に言うと、その下にも短い「肘木」が一段あります:断面図と写真参照。この下の材は多分、「肘木」と呼んでいるのではないでしょうか)。
ただ、それまで、このような斜めの、しかも長い「肘木」の例がなかった、ということです。

「尾垂木」しかも「遊離」などという字が付くために考えてしまうのです。

おそらく「命名者」は、「理屈」ではなく、「形」から名を付けたのでしょう。
ああいう斜めの材は「尾垂木」と呼んでいた、しかし、ぶつ切りになっている例はない、だから「遊離した尾垂木」だ、というわけです。

しかし、「浄土寺浄土堂」「東大寺南大門」をつくった工人たちは違ったのです。
こういうところにも、この工人たちの「しきたり」にとらわれない融通無碍、自由闊達な考え方が見て取れるように私には思えます。

日本の建物づくりを支えてきた技術-23・・・・継手・仕口(7):「鎌継ぎ」は何処へ?

2009-01-29 12:54:21 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版更改 29日18.03][註記追加 18.17]

順番からすれば、「浄土寺浄土堂」の「虹梁」の納め方に触れることになるのですが、すでに、各「貫」「頭貫」の納め方の延長として、おおよそ想像できるものと思います。

これまで見てきたように、「浄土寺浄土堂」で使われている継手・仕口は、つまるところ、継手は「鉤型付きの相欠き:略鎌」、仕口は「相欠き」だけでした。
古代の寺院建築では「丸桁(がんぎょう)」(軒の先端で垂木を受ける「出桁(でげた、だしげた)」)や「母屋(桁)」あるいは「台輪(だいわ)」などで盛んに使われていた継手「鎌継ぎ」「角鎌継ぎ」は、いったい何処に行ってしまったのでしょうか。

そこで、今回は「虹梁」は棚上げにしておいて、屋根の形をつくる上で重要な「母屋」を見てみたいと思います。

「母屋」は、「等高線」上に置かれます。その長さは、軒に近いほど長くなりますから、一本の材料でつくれるのは稀で、継がなければなりません。
そこで古代の寺院では、そこに「鎌継ぎ」が継手として盛んに使われたのです(下註の記参照)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-17」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-17の補足」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-18」

ところが、「浄土寺浄土堂」の「丸桁」「母屋」では、上の図のように、「鎌継ぎ」はまったく使っていません。
上の「分解図」:「伏図」では、「丸桁」と「母屋」を色分けしてありますが、断面の形と寸法はまったく同じものです。なお、断面図は実寸で描いてありますが、「伏図」では、拡大して描いてあります。

「継手」はすべて受け材:「肘木」の上、つまり柱の直上にあります。「肘木」の「太枘(ダボ)」でとまってはいますが、継ぎ方は、「目違い」(端部に凹凸を付けて嵌める)を設けてあるだけ。
ただ、気になったのか、上から「鎹:かすがい」が打ってあったそうです。当然当初からです。
しかし、力がかかった様子は見られませんから、心配は無用だったようです。

「丸桁」は図のように、「母屋」よりも少し丁寧ですが、ここでも「継手」と言えるような継ぎ方ではありません。

いずれにしろ、現在の「構造専門家」や「確認審査官」には「見せられない」ような「継手・仕口」と言えるでしょう。なぜなら、短冊金物で補強しろ、などとかならず「指導したくなる」に違いないからです。

察するに、古代の寺院とは違い、「浄土寺浄土堂」の工法では、軸部がきわめて頑強にできあがるため、いわば二次的な部材である「母屋」などには、たとえば「母屋」を引張り、継手をはずしてしまうような力はかからない、という判断が工人たちにはあったものと思われます。

そして、現在の「構造専門家」「確認申請審査官」には、この工人たちの仕事、その考え方が分らないのではないでしょうか。


「浄土寺浄土堂」の架構法をあらためて見直してみて、これだけの完璧な仕事が、突然この建物で初めて使われたとは到底考えられない、おそらく、この工法の「理屈」で建物をつくることに手慣れた人たちが、当時の社会に「潜在」していたのではないか、と思わずにはいられません。
たしかに中国宋の技術者がいたのかもしれません。しかし、いたとしても、彼らは集団としていたわけではなく、実際の仕事の多くは当地の工人たちの手に拠ると考えるのが自然です。そして、当地の工人がこういう工事ができるには、彼らが「手慣れて」いなければ、こうはできません。

安土桃山の頃、城郭建築に「差物」「差鴨居」が多用されています。庶民の建物に
も近世になると「差物」「差鴨居」は盛んに使われます。
ただ、庶民の建物は、古くて室町時代末にさかのぼる遺構がわずかにあるだけで、歴史に大きな「空白」があります。

以前、城郭建築について触れたとき、城郭建設の現場では、上層の工人:官の工人とともに地元の工人たちが協働作業をしたに違いない、そして、城郭に「差物」「差鴨居」を持ち込んだのは、地元の工人たちに違いない、と書いたように思います。
なぜなら、都の工人たちのつくる建物には、「差物」「差鴨居」は見かけないからです。

   註 07年4月15日の下記記事以降、数回城郭について触れています。
      [註記追加]
      「日本の建築後術の展開-13・・・・多層の建物・その3」


「浄土寺浄土堂」の工法は、「胴貫」「飛貫」などの「胴張り」を取去り、普通の角材にすれば、それはすなわち「差物」工法、「差鴨居」工法に他ならないように思えます。
「浄土寺浄土堂」の部材はきわめて太いものです。しかし、同じような考え方で、普通の材でつくることは、もしかしたら、当時一般では当たり前だったのかもしれません。

いつか触れようと思いますが、わが国現存最古の住宅の一つ16世紀末:室町時代末期に立てられた「古井家」の「修理工事報告書」を見直したところ、この建物では、内法の少し上の位置に、梁行、桁行とも、太い角材に近い「貫」が入っていました(交叉はしないで段違いで入れてあります)。
「貫」はそれだけ。土壁の下地には普通の「貫」が入っていません。壁の下地には、下地用の間渡し材が柱間に入れられている。
これは、「浄土寺浄土堂」の「飛貫」と同じ考え方・工法ではないか、とあらためて感じました。そして、この太い「貫」は、少し発展すれば「差鴨居」になる、そうも思いました。

また、「飛貫」方式:「差物」工法は、上層・官の世界では、知らないだけで、あるいは知ってはいても「しきたり」に反するので使えないだけで、一般庶民の間では、かなり昔から、普通に使われてのではないか、と思えてきました。

残念ながら、資料はありません。だからこれは私の勝手な推量です。

次回に「虹梁」の納め方に触れ、「浄土寺浄土堂」についてはひとまず終りにするつもりでいます。
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日本の建物づくりを支えてきた技術-22・・・・継手・仕口(6):再び「鉤型付きの相欠き」

2009-01-22 00:45:17 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 9.55]

「浄土寺浄土堂」についての話が長くなりましたが、もう少し。
今回は、先回載せなかった「頭貫(かしらぬき)」の納め方と、「飛貫(ひぬき)」「肘木(ひじき)」「大斗(だいと)」などの取合いについて。

「頭貫」の全体の「構成・分解図」と、そこで使われている「継手・仕口」の解説図が、上掲の図版の上3段です。

なお、図版はすべて「国宝 浄土寺浄土堂 修理工事報告書」から転載・編集加筆したものです。

ここで使われているのは、「胴貫(どうぬき)」「飛貫」とまったく同じで「鉤型付きの相欠き:略鎌(りゃくかま)」と「相欠き」だけです。
ということは、古代寺院に比べ、数等複雑な「建て方」を要するこの建物に使われている「継手・仕口」は、この二つだけ、ということです。

「頭貫」は、南北方向を「下木」、東西方向を「上木」として納めています。
上から落し込むだけの仕事ですから、「飛貫」に比べれば、数等簡単だと思います。
ただ、下3段の図で分るように、「飛貫」「頭貫」とからんで「肘木」が設けられますから、その方が大変神経を使う仕事のように思えます。
なお、「頭貫」の隅柱上の「仕口」に見える斜め45度の浅い刻みは、隅柱の「肘木」の「隅方向」解説図(最下段)の部材[e]が載る刻みです。

また、abc・・は「肘木」の下からの順番で、どの柱も同じレベルです。

「頭貫」は柱頭の「凹み」にただ落し込むだけです。そこだけ見ると、簡単に位置がずれてしまいそうに思えます。
しかし、そうならないような見事な方法が採られています。

まず、「頭貫」の上端は柱の頂部よりも上に3寸高く納まるようになっています。
そして、「側柱」位置では、「側柱の取合分解図」(上から4段目の図)のように、「頭貫」に直交し、「相欠き」で部材[e]が載り、そこにかぶさる形で「大斗」が納まるのです。柱通りの「頭貫」(上木)にも[e]の載る刻みが施されています。

その結果、「大斗」を据えると、「柱」「頭貫」「肘木e」「大斗」が一体となり、「頭貫」の位置がずれる心配もないことになります。
いわば「大斗」自体が、大きな「栓」のような役割をしているのだ、と言えるかもしれません。

また、「大斗」自体、「頭貫」の中に埋まる恰好になりますから、古代寺院の「大斗」にはかならずある「太枘(だぼ)」が「大斗」の底部にはありません。

もっとも、今の《構造専門家》は、「大斗」が「置いてあるだけ」なんてとんでもない、上方に跳んだらどうするのだ、と言って、柱と大斗を金物で結べ、などと言うかもしれませんね!?
一体になっている、ということを見忘れるとそういう考えになるでしょう。もっとも、一体になっている、ということも信じられないのかもしれませんが・・・。

それはさておき、
[e]までいれて「肘木」は5段あります。その内、[b]は「飛貫」レベルにあたります。
「隅柱」では、
「飛貫」の柱を貫いて外に出た部分を「肘木b」に加工してあります(下から2段目の図)。隅柱内部で、東西方向、南北方向の「飛貫=肘木b」は交叉します。
そして、その上下の「肘木」すなわち[a][c]は、柱を貫かないで、「大入れ」で「柱」に挿してあります。
「大入れ」ですが、正確に言えば、先端は[a]では「下小根」、[c]では「上小根」になっています(下から2段目の図参照)。
これは、全部を「大入れ」にして、柱が大きく欠き取られることを避けたのではないか、と調査者は見ています。

[c]の上になる[d]は、柱内で①と直交しますが、その場合、[d]を内外に二分して柱内で継ぐようにしてあります。継手は「鉤型付きの相欠き:略鎌」です。

「隅柱」で軒の外角へ向けて斜めに出る「肘木」は、逆に[a][c]を貫通させています(最下段の図参照)。

つまり、「隅柱」には、東西方向、南北方向、そして斜め45度と1本の柱に三方から「肘木」が取付き、なおかつ1本おきに柱を貫通させています。
これらが、柱内でかち合わないように取付けかたに気を配っているわけです。

そして「側柱(中間の柱)」では、
「隅柱」の平側の「肘木」とは貫く位置を逆にして、[a][c][e]を貫通させ、[b][d]を挿すだけにしています。これは、柱通りの「飛貫」を優先させるためと考えられます。
ただし、外部側には[d]はありません(下から3段目の図参照)。

なお、各図で分るように、貫通する材(柱内で継ぐ場合も含め)の柱にあける穴は高さを0.5寸(約15mm)大きくあけ、上端に「埋木:楔」を打込んで「肘木」を固定しています。

いまだにその理由がよく分らないのは、「肘木」を「大入れ」にしたときの「小根」の使い分けです。
先端を「小根」にすることで、欠き取りが少なくなるのは納得が行くのですが、どのような所に「上小根」(または「下小根」)を使うのか、そのルールが判然としないのです(これだけ気配りした「設計」ですから、ルールがあるはずだと私は思います)。

一つの推測としては、「隅柱」の平方向の図のように、貫通している材から離れている側を「小根」としているように考えられます。
ここでは、[b]の上に来る[c]では穴から遠い側の「上小根」、[a]は「下小根」になっています。
この推測は、「隅柱」の「隅方向」で、[a]と[c]に挟まれた[b]、[c]と[e]に挟まれた[d]の「小根」が、ともに「上」や「下」ではなく中央にとられていることの説明にもなります。こうすると、貫通する穴の近くの欠き取り分が小さくなるからです。
しかし、そうだとすると、「側柱」の[b][d]も「隅柱」の「隅方向」と同じにした方がよいわけですが、そうなっていないようです(両方とも「上小根」です)。
そこで、どういうルールなのか、という疑問が残ってしまうのです。

また、このような穴だらけの柱、特に「隅柱」など見たら、現在の「構造専門家」は、きっと「断面欠損」を計算し、心配し、補強の必要を説くでしょう。
でも、修理時点、800年を越える年月を経ていましたが、そして建物は大分傷んではいましたが、そのあたりは何の問題もなかったようです。

それはそれとして、このようにして組まれた架構は、きわめてがっちりした架構になります。
建築の世界では、鉄筋コンクリートなどでつくる柱と梁の架構・構造を「ラーメン構造」と言います。ラーメンとはがっちりした「枠」のことを言います。

その意味で、「大仏様」のつくりかたは木材による「ラーメン構造」と言ってもおかしくはありません。
そしてまた、「大仏様」をいわば下敷きにして近世までに確立した「差物・差鴨居」や「貫」を多用して「架構を一体化・立体化する工法」もまた同じです。[文言追加 9.55]
ただ、鉄筋コンクリートのそれと大きく違うのは、木材の「ラーメン構造」は「しなやか」だ、ということです。それは、木材が「しなやか」な材料だからです。
たとえば、「柱」に「横材」を貫通させ「楔」で締めると、「ラーメン」状になります。
しかしそれは、コンクリートのようにガチガチではなく、弾力性があるのです。
木を押し付ければ凹みますが、押し付けをやめると、ほとんど元の状態に戻ります。そのために「弾力性があり、撓んでも元に戻るようなラーメン」、それが「木造のラーメン構造」なのです。
しかも、その「しなやかさ」は一定ではありません。
一定と見なすことができません。[文言追加 9.55]
使う樹種によっても異なり、同じ樹種でも材により異なります。

そして、それがゆえに、通常の「近代科学の方法論」にのらないのです。
そしてそれが、現在の「耐力壁依存理論」を生んでしまったのです。
簡単に言えば、木造建築に真正面から付き合うことをやめて、きわめて便宜的な、似非科学的な「理論」をつくってしまったのです。何のために?「科学的」であることを装いたいために、です。

そして、木造建築に真正面から付き合うことをやめた結果生まれた「理論」で、木造建築を律しようとしているのが「建築基準法」なのです。

しかし、鎌倉時代の工人たちは幸せでした。
彼らは、真の意味で scientific であり得たからです。
彼らは理詰めだった、真の意味で合理的な考えの持ち主で、しかもそれを自由に発揮できたのです。

「大仏様」は中国・宋の技術によると言われています。しかし、それにしては、完成度が高い。宋の技術がヒントになったかもしれませんが、それだけではできない、と私には思えるのです。
私は、前にも書きましたが、当時、民間の工人たちの「技」は、上層階級の工人たちのそれを上回る段階まで進んでいたのではないか、と思うのです。
なぜなら、上層階級の工人たちは、ややもすると「しきたり」「形式」にとらわれます。
しかし、民間ではそんなことは必要ありません。だから、自由奔放に展開することができたのではないか。そう思うのです。

今、建築界は、建築基準法に唯々諾々として従う人たちと(これが多数派を占めます)、それは違うと思っている人たち(当然少数です)とに分かれています。
私は、この少数の人たちが、世の中から消えないことを願っています。
王様の耳はロバの耳、王様はハダカだ、と言い続けないと、誤謬が真実になってしまうからです。
多数派の必要はありません。「真実」を言い続ける。これを持続し続ける、これが、多数派の目の上のタンコブになるはずだからです。どちらが「合理的」か、歴史で判明するからです。


それにしても、見れば見るほど、この「設計」は凄いと思います。
例えば、各所の寸法や各部材の寸面。すべて何種類かに「標準化」されています。「継手・仕口」は、先に触れたように各1種類。それでつくってしまっているのです。
しかも、だからと言って、安直な空間ができているわけではなく、これ以上の空間はない、と言っても言い過ぎではない空間ができているのです。それが、何の造作材、付加材もなく、いわば架構だけでできてしまっている。

初めてこの建物を訪れたときのことを鮮明に覚えています。
神戸から神戸電鉄粟生(あお)線とバスを使って数時間かけてやっとの思いでたどりついたとき、目の前にあったのは何の変哲もない素っ気無い建物。
しかし、堂内に入ったときの驚きは言葉にならなかったのを覚えています。ほんとに言葉にならない、当然写真ではその空間は表せない。凄い空間。

今回紹介するために、あらためて「報告書」を読み直しました。そして、あらためてその「設計の凄さ」についても、認識を新たにしました。

もし神戸の方に行かれる機会がありましたら、ぜひ一度訪れることをお薦めします。ただし、一日がかりです。

また長くなってしまいました!
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日本の建物づくりを支えてきた技術-21・・・・浄土寺浄土堂の「建て方」

2009-01-17 20:54:33 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 1月18日 0.14][文言改訂追加 0.37][同 9.59]

「浄土寺浄土堂」の「建て方手順」について、「国宝 浄土寺 浄土堂 修理工事報告書」の報告を紹介するため、説明用図版編集作成に時間をいただきました。

その際、残っていた「頭貫」の納め方と「頭貫」とその周辺に取付く諸部材:「肘木」「斗栱(ときょう)」の納まりも同時に紹介するつもりで、その図版もつくったのですが、ただ、「頭貫」とその周辺に取付く「肘木」「斗栱(ときょう)」は、いわば軸組の「建て方」が終った後の段階の仕事です。
また、「建て方手順」と「頭貫」まわりを同時に紹介するとなると分量が多すぎます。
そこで今回は、「建て方手順」だけを説明して、「頭貫・肘木・斗栱」の取付きの様子、その解説は次回にまわすことにします。


上の上段の図は、「建て方」の順番を図に示したものです。「修理工事報告書」所載の図を転載・編集しました。

先回までに、各「貫」がどのように組まれているか、下から順に説明してきました(「頭貫」は次回です)。前にも触れましたが、それはあくまでも、いわば設計図的解説で、建て方の順番の説明とは無関係です。

「浄土寺浄土堂」の修理は、全体を解体しての修理という大工事です。
そして、解体にあたっては、どのように組み上がっているのか、修理後新たに建てるとき、どのような順番で建てたらよいかを考えながらの解体であったようです。

なぜなら、古代の寺院建築は、いわば「下から順に積んでゆく」方法ですから解体も建て方も簡単ですが、浄土堂のようないわゆる「大仏様」の建物は、単に積んでゆく方法ではないからです。

   註 以前に紹介した「東大寺鐘楼(しゅろう)」は、
      「大仏様」の建て方の手順を考えるには、
      建屋が小さく、しかもどこからも見ることができ、
      対象として好適です。写真だけでもよく分ります。
      下記参照。
      「東大寺鐘楼・・・・進化した大仏様」
      「東大寺鐘楼-2」 
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-15」    

「浄土寺浄土堂」の場合、修理工事調査担当者は、いろいろ検討の結果、「柱」を立て、先ず「飛貫(ひぬき)」を通し軸組を固めることから始めた、と判断しています。

その理由は、四周全体に取付く「胴張り」付きの「飛貫」は、側柱内で「鉤型付きの相欠き(略鎌)」で継ぎ、しかも隅の柱内での仕口も「相欠き」であるため、柱を立てながら取付けて行かねばならない:つまり「建て込み」にしなければならないからです。
たしかに、「飛貫」が組まれると、軸組:柱列が固まります。これは、古代の寺院建築では考えられないことです。

   註 「足固貫」は、後から差し込むことができます。
      「胴貫」は数が少なく、「飛貫」とともに組めばよく、
      「頭貫」は、「貫」と言っても、柱を貫通してないので
      上から落し込めば済みます。

次に、どこから始めるかを考えるにあたり、調査者は、最後の「飛貫」を、どこに、どのように建て込むか、を考えています。
そして、正面の入口部で「飛貫」が「方立(ほうだて)」(建具:扉を納めるための縦枠)で二分されているので、ここで逃げられる、と判断しています。
更に、入口左側の[柱3]か、隅の[柱4]かを考えた末、「飛貫」が柱内で交叉する東南角の隅柱[柱4]柱から「時計まわり」:右まわりで進めるのが妥当、と判断しています。

   註 [柱1]から、「反時計まわり」で進めることも可能です。 

以下、順を追って、「報告書」の内容を、上図を参照しつつ、要約紹介します。

恐縮ですが、いちいち上図に戻るのは面倒かと思いますので、上図をプリントアウトしていただき、それを片手に読んでいただくのがよいかと思います。[註記追加 1月18日 0.14]
図中の赤い〇で囲んだ数字(ex①、①イ・・・)は、「建て方」の順番を示し、また①イ・・・は、①の工程の中の順番を示します。
その工程ごとの説明が、以下の①・・・に対応します。

第1工程

①・・・・[柱4]:東南隅柱を据える。
     この柱内で、「飛貫+肘木」が「相欠き」で交叉する。
       南側の「飛貫+肘木」が「上木」
       東側:正面側が「下木」
      註 1月8日の「飛貫」の分解図等を参照ください
         「日本の建物づくりを支えた技術-20」
      
①イ・・・南側の「飛貫+肘木」(上木)を[柱4]に差す。
①ロ・・・差した「飛貫+肘木」(上木)を1.05尺高の差口いっぱいに押上げ、
     その下側に東側の「飛貫+肘木」(下木)を通す。
     「上木」を落して「下木」に噛み合わせる。

    註 仕口は先に「下木」を据え、「上木」を噛ませるのが普通。
       「上木」を先行させる理由の解説図が、二段目の図です。

       普通「相欠き」の噛みあう部分:高さは「上木」「下木」同寸。
       つまり、噛みあい部の高さの1/2ずつにします。[文言追加] 
       ところが、この例では、
       「上木」の欠き込みは4寸、「下木」は3寸になっています。
       また、「下木」の差口が7.5寸×4.8寸であるのに対して
       「上木」の差口は、幅は「下木」と同寸ですが、高さは
       「飛貫」の高さ1.05尺のままになっています。
       通例どおり「下木」を先に据えると、
       「上木」差口の残りは6.5寸×4.8寸しかありませんから、
       高さ7寸の「上木」を差すことができません。
       それゆえ、「上木」を先に差し、高さ1.05尺の差口上端まで
       目いっぱい持ち上げ「下木」を差す、という手順になるわけです。

       欠き込み寸法を2等分ではなく差をつけたのは、おそらく、
       「下木」の欠き残りをなるべく大きくして、
       「下木」が欠き込み部分で折れる危険を避けるためではないか、
       と考えられます。
       「上木」側は、欠き残りが小さくても折れる心配はありません。
 
       正直のところ、欠き込み寸法の差の影響が分るまで、
       そして、「上木」側の差口が大きい理由、
      「埋木:楔」の高さが3.5寸もある理由が分るまで
       暫しの時間を要しました。 

              
②・・・・[柱5]を「飛貫」の継手分(1.6尺)定位置より西側に仮に立て、
     [柱4]からの「飛貫」を[柱5]に差しながら定位置に戻します。
     この場合、下に割竹を敷いて滑らします。
     別の方法として
     [柱4](東南隅柱)を、「飛貫」を通したまま継手分東に傾け
     傾きをもどしつつ[柱5]に「飛貫」を差す方法があります。
     これは、上木側差口の3.5寸の埋木の余裕を使う方法で、
     調査者は、これが「正統」の方法かもしれない、と見ています。
     たしかに、3.5寸の「余裕」の意味も分ります。

③・・・・「飛貫」を[柱4]に差します:①ロと同時の作業。
④・・・・ [柱3]を、[柱4]からの「飛貫」を差しながら据えます。
⑤⑥・・・「飛貫」を差しながら[柱6]を立てます。

 次の西南隅の[柱7]がやっかいです。
  [柱7]を定位置に立てたのでは南側最後の「飛貫+肘木」が差せません。

 そこで、
⑦イ・・・「飛貫」の[柱6]への挿入分(1.6尺)[柱7]を西にずらして仮に立て、
⑦ロ・・・更に図のように南側に少し回転させ「飛貫+肘木」を[柱7]に差し、
⑦ハ・・・回転して戻しながら[柱6]に「飛貫]東先端を差口にあてがいつつ、
⑦ニ・・・[柱7]を、「飛貫]を[柱6]に差しながら、定位置に戻し固定します。
     この作業は、[柱7]下に割竹を敷いて行ないます。
     なお、②で触れた「別方法」も可能です。
⑧・・・・これからは「飛貫」と同時に「胴貫」も建て込みになります。
     [柱7]へ「飛貫」を①イ、ロと同様の方法で差します。
⑨・・・・「胴貫」を[柱7]へ差します。
⑩・・・・[柱8]を、②の[柱5]と同じ方法で、[柱7]からの「飛貫」「胴貫」を
     差しながら立てる。
⑪・・・・次の間の「飛貫」「胴貫」を[柱8]に差す。
⑫・・・・⑩と同じ方法で、[柱8]からの「飛貫」「胴貫」を差しながら
     [柱9]を立てる。

 次は「柱4」と対称位置の隅柱[柱10」なので、①と同じ方法を採ります。
⑬イ・・・[柱10]を「飛貫」の継手分北側(右外側)にずらし仮立てし、
⑬ロ・・・はじめに北側面の「飛貫+肘木]を差します。
      「飛貫+肘木]を差したまま北側に回転させ、
     [柱10]に差した上木の「飛貫+肘木]を差口上端目いっぱいに押上げ、
⑬ハ・・・西面北の間に入る「飛貫」「胴貫」を、
     押上げてある[柱10]の「飛貫+肘木]の下に差し、
     「飛貫+肘木]を落し「飛貫」に噛ませます。
⑭・・・・北面、西面の各「貫」をつけたまま、回転を戻し、
     西面の「飛貫」「胴貫」を[柱9]に差します。
⑮・・・・[柱11]を、[柱10]からの「飛貫」を差しながら、定位置に据えます。
⑯・・・・[柱11]に、北側中の間の「飛貫」を差します。
⑰・・・・[柱11]からの「飛貫」を差しながら[柱12]を定位置に立てます。
⑱イ・・・[柱1]を東側にずらし、時計まわりに少し回転させて仮に立て、
⑱ロ・・・北側面の「飛貫+肘木」を[柱1]に差し、
⑱ハ・・・回転を戻し、
⑱ニ・・・全体を西に戻しながら「飛貫」を[柱12]に差し、
     [柱1]を定位置に据える。
⑲・・・・北側の「飛貫+肘木」(上木)を押上げておき、
     正面北の間の「飛貫」を[柱1]に差します。
⑳・・・・[柱2]を、[柱1]からの「飛貫」を差しながら立てます。

最後に、[柱2][柱3]の足元を左右に開いておき、「胴貫」を入れた後、「柱」を定位置に戻します。

第2工程

次の工程は、「頭貫」の据付けですが、これは落し込みでできるので簡単です(次回)。

第3工程

「内陣」については、この修理では解体をしなかったそうです。
「内陣」も建て直すとするならば、「内陣」から先に建てるのが普通です。
当初も、当然「内陣」を先行したと思います。
「内陣」は1間四方ですから「継手」はなく、どこからでも工事は行えます。
図上の順番は、一つの方法です。

第4工程

「内陣」の「頭貫」を据付。これも簡単な仕事です。

第5工程

「足固貫」を入れる。南面、北面の「下木」を先に、次いで東面、西面の「上木」を入れます。これは、「飛貫」に比べれば簡単です。
ただ、「足固貫」1本の長さが柱間芯々寸法より長いため、柱間に入れるとなると、材を柱径一つ分以上反らせなければ穴に入りません(通常の「貫」では、反らして貫通させています)。しかし、この場合は平角材ほどの寸法の材ですから、簡単には反りません。
「貫穴」が横にも広く開けてあるのは(横にも「埋木:楔」を入れてあるのは)、このことを考えたのかもしれません。

ところで、解体してみたところ、「足固貫」材は、ほとんどが湾曲していたため、柱間に通すのに都合がよかったそうです。
もしかしたら、意図的なものだったのかもしれない、と調査者も考えています。

   註 自然の収縮では、そんなには湾曲しないのでは、と思います。


以上、言葉で工程を説明するのは難しく、「報告書」に書かれていることも理解するには時間がかかりました。

それにしても、きわめてよく練られている「設計」です。
得てして現今の設計は、できあがりの姿に固執するあまり、その姿に至るにはどのようにするのかを考えてある例は、きわめて少なくなっています。
しかし、「設計」する以上は、「工程」まで考えられていて当たり前だ、と私は思います。

「浄土寺浄土堂」や「東大寺南大門」などの工事に当たって、どのような図面が用意されていたのか(それともなかったのか)分りませんが、建て方前、木材を加工する:刻む前に、ありとあらゆることが考えられていなければ、このような建物づくりを実行することは不可能です。
しかも、使われている継手・仕口は各1種類。その場所ごとでの応用で、すべてを律しています。これは凄いと言わざるを得ません。

そして、一人でこの仕事をしたはずがなく、協働者がいたはずです。
そのためには、「事前に考えたこと」つまり「設計内容」を、工人同士が「共有」していないと、仕事をスムーズに進められないはずです。
それを、どのように実現したのでしょうか。知りたいものです。

それにしても、工人たちの計画立案力の凄さは、まさに、「感嘆」の一語に尽きます。
[文言改訂追加 1月18日 0.37][同 9.59]


またまた長くなって恐縮です。お読みいただき、ありがとうございました。
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とり急ぎ・・・・喜多方・登り窯:煉瓦焼成の映像

2009-01-11 19:01:07 | 煉瓦造建築
福島県の「会津地方振興局」のHP(下記)に、焼き上がり・窯出しまでは、写ってはいませんが、焼成途中の様子が動画で載りました。
更新されるまで、しばらくは見ることができると思います。

「会津地方振興局」

なお、数百枚の焼成過程の写真を現地からいただいていますので、いずれ整理して載せたいと思っています。


日本の建物づくりを支えてきた技術-20の補足・・・・「小根ほぞ差し」「胴突(胴附)」

2009-01-09 19:20:26 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加][解説文言再追加 1月10日 13.27][註記追加 1月11日 12.09]

上掲の上段の図は、昔から当たり前に行われてきた「柱に横材を取付ける」方法の一つです。隅の柱を例にしています。

この図は、「柱の径:幅と、横材の幅がほぼ等しい」ときの仕口例。

「柱の径が、横材の幅よりある程度大きい」ときは、
①柱の端部に「枘」を設け、
②柱に横材の断面と同じ大きさで深さ5分(15mm)程度の穴を彫り、
  横材の「枘」を差す「枘穴」をあけます。
このような横材の断面と同じ大きさの穴をあけ、横材を取付ける方法を「大入れ」「大入れにする」などと呼びます。[文言追加 12日 7.47]
当然、横材の長さは、柱にのみこまれる「深さ5分」を計算の上、加工します。

上掲の図のように、「柱の径が横材の幅とほぼ等しい」場合には、「大入れ」にすることはできません。その部分が欠きとられ、見えがかりが悪くなります。
その場合、柱にのみこませる部分を、横材の断面より一まわり小さく刻みます。図に色を付けた部分です。[文言追加]
この部分を「胴突(どうづき)」と呼びます(人や地域により、呼び方が違うようです)。

「大入れ」あるいは「胴突」を設けるのは、横材の柱へのかかりを大きくするためと(そうしないと、幅の狭い「枘」だけが力を受けることになってしまいます)、組み上がり後の横材の変形(「枘」の幅の延長上に「割れ」が入ったり、平角自体が歪む)を押さえるための二つの目的があると考えられます。

「大仏様」の場合は、「枘」にあたる部分自体が「平角」材ほどあるため、そういう心配をする必要がなかったものと思われます。
また、「胴張り」を徐々にしぼりこむ(たたむ)ため、断面に急激な変化がなく、「枘」にあたる部分からの「割れ」も入りにくいのではないかと思います。

   註 [註記追加 1月11日 12.09]
      「日本建築辞彙」によると、
      「胴突」は地形(地業)の「地固め」のこと、を言い、
      「枘」根元に設ける場合は「胴付(附)」と表記する、とあり、
      「胴付(附)」とは「枘の根元まわりの平面をいう」、
      「英語では shoulder 」とあります。
      要するに、「首根っこ」:「肩」なのです。
      納得しました! 以後、こちらで表記します。

材が細身になってくる近世には、力の伝え方はもちろん、材の変形を防いだり、より合理的に対応するため、「継手・仕口」に対して様々な工夫がなされています。これについては、いずれ紹介したいと思います。

また、全高を「枘」にするのではなく、その一部だけを「枘」にする場合を「小根枘(こねほぞ)」と呼びます。上図の場合は、全高の半分を使っています。
上側に設けるか、下側に設けるかによって、頭に「上」「下」を付けて区別します。
図の「名称」に付けた振り仮名は、大工さんの普通の呼び方です。[文言追加]

上の図では、片方を「割楔締め(わりくさびしめ)」、もう片方は「込栓打ち(こみせんうち)」とした場合を書いています。
もちろん、両方とも「割楔締め」、あるいは「込栓打ち」とすることもできます。
また、「込栓打ち」の場合は、柱を貫通させず、少し手前で終らせる方法もあります。そうすると、外側に「枘穴」が見えません。

   註 「割楔締め」
      「枘」の先端に、鋸で割れ目をつくっておき、「枘」を差した後、
      その割れ目に「楔」を打ち込むと、「枘」の先端が広がろうとして
      「枘穴」に密着し抜けにくくなります。
      その楔を「割楔」と呼び、鋸で開けた割れ目を「楔道」と言います。
      小さな「枘」の場合は、「割楔」は1枚でも構いません。
           以上[解説文言再追加 1月10日 13.27]


なお、下段の図は、同じような場所の、建築を学ぶ学生用教科書「構造用教材」(日本建築学会 編)が「在来工法」の項で紹介しているやりかたです。
そこでは、私たちの先達が重ねてきた工夫は、まったく考えられていないことが分ると思います。
手間はたしかに減りますが、単に「手間を減らす」ことは決して「合理化」ではありません。これは、「理」がない「手抜き」と言う方がよいでしょう。[文言追加 13.27]


追記
例の「伝統的構法住宅実物大実験」について書いた5回の記事のうち、はじめの3回分を、「実験」の主催者「日本住宅・木材技術センター」宛、年末に、「ご異議があれば反論を」との旨の添え書きとともに、メールで送りましたが、今現在、返答はありません。あとの2回は、送るのもムダと考え、やめました。

ただ、異議、反論がないということは、当方の指摘を「無視する」という形をとってはいますが、実は、認めた、ということにほかならないと考えてよいのではないでしょうか。

日本の建物づくりを支えてきた技術-20・・・・継手・仕口の発展(5):続・「鉤型付きの相欠き」

2009-01-08 20:02:55 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[註記追加 20.41][註記文言改訂 1月9日 10.30]

年末に、浄土寺・浄土堂の「足固貫」について書きました。
いわゆる「大仏様」では、柱相互を、何段もの「貫」で縫う点に特徴があります。
「浄土寺浄土堂」の場合には、礎石から柱頂の「頭貫」の間に、下から順に「足固貫」「胴貫(どうぬき)」「飛貫(ひぬき)」の計三段入れてあります。
ただ、この場合の「貫」は、今の建物で梁や桁に使う「平角材」に匹敵する断面の材です。

   註 今の建物では、1950年制定の建築基準法が「貫」で縫う工法
      (通常、その上に壁が塗られます)を地震に弱いと規定したため
      急激に姿を消してしまいました(最近認めだしましたが・・・)。
      以来、法令下の木造建築では、架構を維持するための横材が
      土台~桁・梁間に何もなくなり、縦の材だけ目立つようになります。
      これに対して、
      かつての架構では、桁・梁までの間に、架構を維持するための
      何段もの「横材」(ex「貫」)を入れるのが当たり前だったのです。
      「縦」材だけか、「横」材があるか、
      これは工事中の現場を見ると一目で分る違いですが、
      同時にそれは、「考え方」の違いを表しています。

なお、「胴貫」は「腰貫」とも呼び、「飛貫(ひぬき)」は「樋貫」と書くのが本当だと「日本建築辞彙」には解説があります。
「胴貫」=「腰貫」は、字のとおり、建物の胴:腰のあたりに設ける「貫」。
「飛貫」=「樋貫」は、柱の上方より少し下に取付ける「貫」のことを言うようです(「日本建築辞彙」)。
「鳥居」の上から二段目の横材は、まさに「飛貫」(=「樋貫」)そのものです。

しかしなぜ「樋」と書くのか、その理由・意味が分りません。「樋」の字に、「横に飛ぶようなイメージ」を持つのかもしれません。何となく「飛」の方が、しっくりしているように私には思えますが・・・・・。


以下の解説では、下の位置にある「貫」から順に、上の段へと説明します。今回は「胴貫」と「飛貫」について触れます。

しかし、この順番は、記述上の便宜からにすぎず、建てる時に、この順番で据えられるわけではありません。
今回も最初に「足固貫」について書きましたが、工事の場面で、最初に「足固貫」が設けられる、ということではありません。最初に「足固貫」を固定してしまったら、上の方の「貫」を入れられなくなってしまいます。だから、「足固貫」は、通したとしても仮止めだったと考えられます。

この建物の「建て方」の順番について、「浄土寺浄土堂修理工事報告書」では詳細に触れていますので(そこまで触れてある「報告書」はめったにありません)、次回に紹介の予定です。


上掲の図で、「胴貫」(またはそれに相当する材)と「飛貫」を、各面の「立面図」に色分けして示してあります。「頭貫」は、立面図では、屋根で隠れています。

   註 上掲の図版は、「国宝 浄土寺 浄土堂 修理工事報告書」から
      転載、編集したものです。
   
   註 [註記追加 20.41][文言改訂 1月9日 10.30]

      「胴貫」も「飛貫」も、材に幅広の部分:「胴張り」があります。
      柱への差口部では、「胴張り」を「しぼって」います。
      「報告書」では、これを「胴張り」を「たたむ」と表現しています。
      「胴貫」は「胴張り」部で7寸5分、「飛貫」は8寸4分ですが、
      仕口分解図のように、
      柱貫通部では、両者とも4寸8分にしぼっています。

      現在、「平角材」を柱に「差口」で取付ける場合のやりかたは、
      柱に平角の全断面をはめ(「大入れ」)「小根枘差し」にするか、
      断面より一回り小さい「胴突き」を設けて「小根枘差し」にします。
      「大仏様」では、このように「しぼる」(たたむ)のが普通です。
      相手が「円柱」のために考え出された方法と思われます。

「胴貫」は、この建物の場合、ほとんど床面に近い位置にあります。
そのうち、正面(東面)の「胴貫」は、出入口の「蹴放(けはなし)」の役を担っている材です。
もっとも、「蹴放」は、一般に「取り外すことのできる敷居」のことを言うのだそうですが(「日本建築辞彙」)、この場合、両側の柱に部材端部を全面差し込んであり(「大入れ」と言います)、柱を立てる時に同時に取付けています(「建て込み」と言います)から、一度取付けたならば、取外すことはできません。

背面(西面)の「胴貫」は全柱間3間に、床より少し上がったところに設けられていて「蔀戸」の載る「窓台」の役を担っています。
それゆえ、部材には「戸」を受けるための「戸しゃくり」が設けられています。この部分の仕口の分解図が上掲の図です。

この材は、字の通り「貫」になっていて、「足固貫」と同じように、一材の長さは柱間寸法として、中2本の柱内では「鉤型付相欠き」(「報告書」では「略鎌」)で継ぎ、下端に「埋木:楔」を打込んでいます(「仕口分解図」参照)。
両端の柱では「下小根枘差し」で下端に「埋木:楔」を打込んでいます。

「窓台」を、「建て込み」でつくり、かつ「貫」の役割をも持たせている、と言えばよいでしょう。
別の言い方をすれば、後入れの「仕上げ材:造作材」がない、あるいは、本体の「建て方」時点に仕上げもできてしまう、という方法です。
「組み上がり」=「仕上り」ですから、この方法をを採るには、事前に相当計画を練っておく必要があることになります。

   註 この場合は、普通の「小根枘差し」の姿とは若干異なり、
      「半・大入れ」とでも言った方が分りやすいかもしれません。

なお、背面では、「貫」=「窓台」の下の床との間に入れる「蹴込板」のための「小穴」が「貫」=「窓台」の下端と「柱」の横に刻まれています(「蹴込板」は、図から判断して、「貫」=「窓台」の下に「埋木:楔」を打込んで「貫」を固定した後、はめ込むものと考えられます)。

また、「胴貫」では、「埋木:楔」は材の下端にのみ入れられ、「足固貫」にはあった横の「埋木:楔」はありません。「見えがかり」を考えたものと思われます。

南面の東端の柱間には、「窓台」として、同じような「胴貫」が入っていますが、これは正確に言うと「貫」にはなっていません。すなわち。「建て込み」ではなく、「後入れ」で設けられています。
一方の柱(この場合は、東から2本目)にあける「窓台」取付け用の穴の深さを深くしておき(柱に嵌めこむ分の2倍以上)、「貫=窓台」材は、その穴に差し込む側の端部を「大入れ」の幅になるように、長さ4寸ほど「胴張り」部の両側を切り取っておきます。
このように刻んだ端部を、一旦、穴の奥まで差し込んで、次に反対側を柱の穴に入れ、材を戻すとはめ込み作業は終りです。
次に、「貫=窓台」の「胴張り」部を切りとった箇所に材(切取った材は多分使えないと思いますから、木目の似たような新材だと思います)を矧いで元の「胴張り」の形に直します。

こういう方法を「やりかえし」と呼んでいます(「いってこい:行って来い」と呼ぶ人もいます)。
これは、当初、板壁であった計画を、工事中に「蔀戸」に変更したためだったようです。

なお、正面および背面の「胴貫」の入る箇所には、先回触れたように、「足固貫」がありません。「報告書」では、この高さに「胴貫」が入っていれば、その下には「足固貫」は入れなくてもよい、という判断があったのではないか、としています。

実際、正面の「蹴放」の箇所では、「足固貫」と「蹴放」が接近していて、「足固貫」があると「蹴放」取付けは至難の技です。だから、仮止めしてあった「足固貫」を切り取って取付けたのかもしれません。
そして、背面の3本については、最初から「足固貫」を入れなかったのかもしれません(もっとも、北の間に妙な形で入れてある理由は、あいかわらず分りません)。

今回注目すべきは「飛貫(ひぬき)」です。「飛貫」は、建物の外周、および仏像を囲む「内陣」の四周に、別のレベルで設けられています。
「断面図」では「内陣」の全周が分りますが、建物外周は「立面図」で分ります(それぞれ色をつけてあります)。

外周の「飛貫」は、「分解図」のように、柱間を一材として、中間の柱では他の「貫」と同じく「鉤型付相欠き」で継いでいます。
外周の「飛貫」は丈:高さが1.05尺ありますが、「隅柱」では、その上側の3寸5分を欠きとった残りの7寸を隅の柱を貫通し、「肘木」として使っています(「南大門」のときに触れた「挿肘木」に相当します:下註参照)。
「貫」は直交しますから、それぞれは「肘木」になる部分を柱内部で「相欠き」にして交叉させています。

「隅柱」にあけられた穴は、「飛貫」の全高分あけてあり、「上木」になる「飛貫:肘木」を差した残りの3寸5分の箇所には「埋木:楔」が打込まれ、また「下木」になる「飛貫:肘木」の上側にも「埋木:楔」が打込まれます(「仕口分解図」参照)。
その結果、直交する「貫」は、「埋木:楔」を打込むことによる「摩擦」で柱に固定されます。これは「大仏様」の「貫」の原理の原型と言えるでしょう。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-14」

「飛貫」の場合も、上端または下端の「埋木:楔」だけで、「足固貫」に見られる材横の「埋木:楔」は使っていません。これも「見えがかり」を考えたものと思います。

なお、「貫穴」には、すべて小さな溝が刻まれています。木材を外気にさらすための「通気口」と考えられています。

「内陣」は柱間1間四方です。つまり、すべてが「隅柱」です。
ここの「飛貫」は、東西方向を「上木」、南北を「下木」にした「鉤型付相欠き」で固定しています。「断面図」に、柱を貫通した端部が示されています。

このやり方は、「東大寺南大門」の柱内の「貫」の「継手・仕口」そのものです(「日本の建物づくりを支えてきた技術-14の補足・・・・鎌倉再建南大門の継手仕口図」参照)。

「飛貫分解図」だけ見ると、「建物外周」と「内陣」が分離しているように見えますが、「断面図」で分るように、「飛貫」「頭貫」で固められた「内陣」と「外周」は、三段の「虹梁(こうりょう)」で強く結ばれています。
これは次回にまわします。

もうすでに何度も書いてきましたが、「浄土寺浄土堂」の凄さは、架構を組立てたら、建物の大体が出来上がっていることです。
これは、事前に空間の姿と施工の手順の計画ができあがっていなければできません。工法そのものの凄さはもちろんですが、この計画立案の凄さに仰天せざるを得ないのです。


次回に補足   
コメント (2)

所感・・・・「近江商人」はいなくなった!

2009-01-06 20:56:10 | 論評
「・・・技術」シリーズは、現在図版の工事中。もう少し時間がかかりそう。そこで、つなぎの一文。本当は暗い話は書きたくなかったのだが・・・。


年末からは「派遣切捨て」のニュースばかり目に付く。

オランダは、いわゆるワークシェアリングの先進国なのだそうだ。そこではたとえば、給料を下げて、下げた分を広く給料が少ない、あるいは職を失っている人たちへまわす、といったことが行なわれ根付いているのだという。一つのパイの食べ方だ。

そこへゆくと、わが日本の正規雇用者の労働組合の集合:連合は、給料上げて雇用も増やせ、だという。
そしてソニーの社長は(副社長?)は、会社の利益が第一、と平然と言う。
キャノンの会長は、派遣切りは、派遣会社がやったこと、と平然と言う。
そして、トヨタは、非正規雇用者を切り捨てて、巨大な内部留保金を守る。

非正規雇用者に依存しないものづくりの会社を知りたいものだ。どなたか、ご存知ならばご教示を。


こういう最近のニュースをみていると、どうしてもかつての「近江商人」の「経営」を対比的に思い起こしてしまう。近江商人とそのつくりだした町については、大分前に書いた。

   註 「近江商人の理念・・・・時代遅れなのだろうか」

そこで引用させていただいた「近江商人の理念」について書かれた同志社大学の末永国紀氏の文のなかに、次のような一節がある(上記からアクセスできます)。

「・・・・江戸時代以来、数百年間にわたって大商人を生み出した近江商人は、近江の在所に本宅を構えつづけた。その存在は立身を願う郷党の青少年の夢を刺激し、結果として今流に言えばベンチャー企業を次々に生み出した。社会的影響としてのデモンストレーション効果である。

成功した近江商人は、起業しようとする者からの資金要請に応じ、苦境にたった後輩に助言したり、運転資金を供給したりすることを惜しまなかった。

貸付金の返済が滞っても、漠然とした将来の経営改善時に返済を約束しただけの出世証文に書き直すことさえ容認した。
こうした資金面での寛容さが、多くの後進を育てる一つの要因になったのである。
 
卒業生からきた年賀状を整理し、新旧を入れ替えているとき、転職を伝える添書きには一瞬手が止まる。新天地の職場に幸あれ、と祈るような気持になる。転職を知らせてくる場合はまだ良い方かもしれない、単なる離職である場合は書き辛いし、伝え難いかもしれないなどと、とつおいつすることになる。

若年層の就業意識の変化によって、大卒でも3割が3年以内に転職・離職するといわれる時代である。日本社会が少子高齢社会へ急速に突入しつつあるなかで、若年労働者層は急激な減少が見込まれている。
それだけに、企業側の若者に対する労働需要は高まりこそすれ、減ることはないはずである。

では、なぜ若年の転職・離職が多くなるのかといえば、現実に就職した先が希望の職場とかけ離れていたというミスマッチ、それとフリーターなどでも生活に困らない、極端な場合は無職であることにも抵抗感が少なくなってきていることが考えられる。

フリーターや無職状態を長期間続けることは、社会的にも個人的にも損失の大きいことは誰の目にも明らかである。
彼らもいずれは正規の職場を目指すであろうと考えると、重要なのは職種や職場のミスマッチを減らし、若年層を育成しながら職場への定着率を高める方法である。

この問題を考える際に大事なことは、実際の企業行動に現れる経営理念と社員の価値観に共有性があることである。
そうであってこそ、従業員の自発的な能力開発を期待でき、定着率も高められるであろう。
束縛を嫌う若者を含めて、誰しも待遇の良さだけを求めて働くのではなく、一義的には天職と思える職場で働くことをこそ望んでいるからである。

犬上郡豊郷出身で、幕末から明治にかけて活躍し、総合商社伊藤忠の基礎を築いた初代伊藤忠兵衛は、企業家として敏腕であっただけでなく、すぐれた教育者でもあった。

忠兵衛は進取の気性の持主であり、とくに自由と合理性を尊んだ。
封建制の色濃く残る明治期に、従業員を事業のパートナーとみなして尊重し、多くの人材を育てた。

明治8年頃から店の給食にスキヤキをとりいれ、17年頃からは毎月1・6の日をスキヤキパーティーの無礼講の日と定めて、懇親と滋養の機会としている。

従業員にも利益の一部を配分する利益三分制度を実行し、月例の会議では、若者にも自由な発言を求め、単に自己の所管だけでなく社会の大勢についても独自の意見をもつことを奨励した。

峻厳ではあったが、人を満足させて働かせることが上手で、とくに若者を簡抜して、その潜在能力を引き出すことが得意であり、店員への訓育の際にはいつも、『真の自由があるところに繁栄がある』と語ったといわれる。・・・」

今の「伊藤忠」がそれを引継いでいるかどうかは知らない。

そして、最近のニュースは、現在の日本の「ものづくり」は、大部分が非正規雇用労働者によってつくられているのだ、ということをよく分らせてくれた。正規2:非正規1の割合らしい。

つまりそれは、技術力の低下する前兆以外の何ものでもない、と私には思える。
あるいはそれは、「ものづくり」の技術は、少しの「精鋭」技術者がいれば足りる、と現在の経営者が考えていることの証かもしれない。
かつて、NC制御やロボットが導入されたとき、もう熟練工など不要だ、と産業界で盛んに言われたことを思い出す。
そのとき、ドイツでは、熟練工の養成に努めていた。・・・・

最近の経営者は、何か勘違いをしているのではないだろうか。
利益のためにものをつくるのか、ものをつくることから利益を得るのか。

そして、今の建築界もまた日本の産業界の縮図のように、私には見える。昨日は要らない、明日明日・・・。
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謹賀新年

2009-01-01 00:06:31 | その他

今年も一から学び直すつもりで書きたいと思います。

書きながら、あらためて、知らなかったことが多いな、と感じています。
それで何かをやってきたのだから、いい気なものだ、と考えてもしまいます。

今からでも遅くはない、と気をとり直して、続けるつもりです。

よろしくお付き合いください。
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