「最大の禍」・・・・「設計ソフト」に依存することの「禍」

2010-03-16 15:09:15 | 設計法
ときどき、注文した覚えのない「商品」の案内がFAXで来ます。
そのなかで多いのが「設計ソフト」の売込み。
先日届いたのは、「長期優良住宅制度」と「省エネエコポイント制度」対応の「設計ソフト」の発売案内。
下はそのキャッチコピー。商品名は消してあります。


いったい、こういうソフトを買って、設計者は「何をする」のだろうか、と考えてしまいます。いったい、設計者の職分とは何か、ということです。

そしてまた、ここにはいくつも問題があります。
まず、申請用の書類が審査され、「お墨付き」をもらえれば、「長期優良住宅」が本当にできあがるのか?本当に「省エネ」になるのか?
「制度の規定する条件」をクリアすれば「長期優良住宅」、つまり、寿命の長い建物になる、という保証はどこにあるのでしょうか?
そもそも、「制度の規定している長期優良住宅の条件」自体の信憑性も、問われたことがありません。
簡単に言えば、なぜ最近の住居が短命になったか、なぜ、かつての住居が長命であったか、その分析は行なわれた形跡がないにもかかわらず「条件」が設定されているのです。

そしてさらに、「長期優良住宅」として認定された建物が、もしも「長期優良」でない事態に至ったとき、つまり寿命が短かったり地震で損壊したりしたならば、その「責任」はどうなるのでしょう?例の倒壊した長期優良住宅の実物大実験のようなことは、現実にも十分に起き得るのです。
この後者の問題は、「長期優良住宅」だけの問題ではなく、現行の法令規定そのものの根本的に孕む「問題」にほかなりません。
何度も書いてきたように、そのような事態が生じると、これまでは、それは想定外であったとして「規定条項」を改変すること:これを「法の改訂」と称しています:で過ごしてきて、その「責任」は一切とっていません。

これが一般人のしたことならば、かならずその責が問われます。責任を問われないで済んでいるのは、「法令は何よりも上位に立つ」と(勝手に)見なしているからに過ぎないのです。
しかし、法令の内容もまた「人為」であることに変りはない。それゆえ、「法令は何よりも上位に立つ」とする以上、その「人為」は、より厳しく問われなければならないのですが、そうではない。

最近のこのような「動き」は、「耐震診断⇒耐震補強」と同様の「霊感商法の奨め」のように、私には見えます*。
    * http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/da1ac6204ccfee6d9671035bab31678a
簡単に言えば、数字に弱い一般の人びとを、数字を弄して欺くのです。それに「協力する」ことで「経済」が繁栄する、などと喜んでいてよいのでしょうか。

こういう「動き」の背後にあるのは、「建物づくりの現場」を離れて机上でご都合主義的、便宜的発想でつくられてしまった現行「建築基準法」の諸規定にほかなりません。
簡単に言えば、「建物づくりの現場の発想」からはまったく乖離した《理論・考え方》が、「実作の思考」を押し潰してしまっているのです。
これは、普通の人びとの生活にとって「最大の禍」なのであり、それはすなわち、社会に対しての「最大の禍」にもなっているのです。

ところで、こういった類の設計ソフトが巷に溢れているようです。そしてそれをつかって設計することを称してCADと言う。
CADとは、Computer Aided Design の略のはずです。
しかし、上記のようなソフトは、ソフトが設計者に指示しているようなもの。設計者は、無思慮にソフトの指示に従うだけ。
CADが流行りだしたころ、ある設計者が、もう製図板も製図者も要らない、オペレーターが居ればいい、と語っていたことを思い出します。

   註 昔聞いた話。
      自動車製造工場で、塗装ロボットが導入されたとき、二つの相反する反応があった。
      一つは、もう塗装の熟練工は不要だ、という判断。
      もう一つは、熟練工の塗装工程を相変わらず維持するという判断。
      前者は、日本の自動車工場。
      後者はドイツ。熟練工の養成まで行なった。
      なぜドイツはそうしたか。
      塗装ロボットは、熟練工の「作業工程」を倣ってつくられるからです。
      日本がその「事実」に気付いたのは、大分経ってからだった・・・。

「設計ソフト」が普及した結果、若い人たちを悩ましているのは、建築士試験です。
なぜなら、建築士試験は相変わらず手描きの「設計製図」が必修だからです。
日ごろ、ソフトによって設計図を作成しているため、自分の手で描いたことがない。
たとえば、駐車スペース。ソフトは縮尺に応じて車まで描いてくれる。
手で描くとなれば、車の一般的大きさを知っていなければならないのですが、いつも、ソフトが「適切に」描いてくれているため、大きさについての「認識」がまったくない。
樹木なども同じ。適当に描いてくれるから、自ら針葉樹、広葉樹・・・など樹木をまともに観察する習慣もない。
まして、建物が存在する基本:人や社会:についての「観察」など、問題外。
要するに、建物の設計にかかわる「知識」、知っていなければならない「素養」、そのすべてが、ソフト任せになっているということ。

このような建築界の状況もまた、人びとが暮す環境にとって「最大の禍」である、と私は思います。
これほどまでにソフトが「主導権」を握ってしまうと、ソフトに組込まれているもの以外、今後つくられない、と言っても過言ではないからです。先に「文化財」の「耐震診断・耐震補強」について触れたのと同じことが、どこでも起きているのです*。
    * http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/46f7af2ac0209504ca429d24eac67c9f

昨3月15日付の毎日新聞朝刊のコラムに、注目すべき、そして参考にすべき記事が載っていました。
                   
私は、CADソフトを使うことを全否定しているわけではありません。
ソフトに頼るまえに、「素養」の培養・育成が必要だと思うのです。自分の頭脳で観て考える訓練です。
第一、作業を簡易化・簡略化して、生まれた時間を何に使っているのでしょう?

先の記事に応じれば、私は、設計に係わる者は、パソコンに拠る前に、手描きの期間がかなり必要のように思います。
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遠藤 新の言葉・・・・日本インテリへの反省(そのニ)

2009-09-20 23:14:11 | 設計法
大分前になりますが、遠藤 新(えんどう・あらた)の論説を紹介しました(下註)。
本棚を整理していたところ、ちょうど今から20年前の1989年に開かれた「遠藤新 生誕100年記念」展のカタログが出てきました(INAX BOOKLET)。

そこには、彼が設計した建物の貴重な写真が多数載っています。
上の写真はその内の一。1938年に建てられた栃木県真岡(もおか)の「真岡尋常高等小学校 講堂」です。なお、平面図は「遠藤新 生誕100年記念作品集」から転載。これは実測図のようです。
写真の側廊上部の壁(桁行方向)は、内部が木造トラス、その上に梁行に小屋組のトラスが架かる架構ですが、断面図がないので詳細は不明です。

現在この建物は、校舎改築にともない別の敷地に移築され、公民館的な用途に使われています。国指定の「登録有形文化財」です。

   註 「日本インテリへの反省・・・・遠藤 新のことば」

彼の設計した学校は、いずれも従来の学校のイメージを覆すつくりですが、1949年に書いた「日本インテリへの反省」の「その二」で(「その一」が上記の論説で、住居について述べています)、学校の建物についての彼の見解、更には「建築」についての見解を述べていますので、今回その一部を紹介します。前回、いずれ紹介、と書いたものの、2年以上も約束を果していませんでした!

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

哲学なき教育と校舎・・・・日本インテリへの反省(その二) 抜粋

・・・・・前略・・・・・ 

私は先に日本インテリの住まんとする家が、世界の民族の家の正当なる発達に見られない珍型でその重大欠陥が生活を哲学しない点にあることを指摘した。そして哲学しない家を欲しがるのは、哲学しない教育の結果だと言った。そしてさらに日本を滅ぼしたのは日本のインテリだとまで極言した。日本の教育はどうしてそうなったか。

   註 以上の詳細は、上掲註の記事に引用した論説参照

   註 哲学:philosophy の訳語として定着
         「賢哲の明智を希求する」意味で「希哲学」と訳され、
         後に略されて「哲学」となった。
         原義は「智を愛す」「知るを愛す」という意味。
         彼の言う「哲学しない家」「哲学しない教育」とは、
         「家」「教育」の本義は何か、深く考えない
         という意味と解してよいだろう。
         なお、phil-は、philharmony の phil-に同じ。

一体昔の寺子屋は一人の師を中心に読み書きそろばんを習いながら人たるの道を学ぶという意味で少なくとも教育は哲学していた。しかし明治になってからの学校は一見整備したかに見えつつ、実は時間割でいろいろの教師が知識の切売をして免状をくれるだけの工場になってしまった。

思えば明治維新日本が大きな転換期に際会したとき、一代の先覚福澤諭吉先生はいみじくも教育の本義を道破して「本当の学問は一つの物について世間のいわゆる物知りになることではない、物と物との間の関係を知ること」だというた。それはたしか明治9年のころ。福澤先生の卓見はひっきょう私のいう哲学する教育という意味にほかならない。

   註 この福澤諭吉の論については、私は寡聞にして知らない。
      彼の「一科一学の奨め」だけが、世に広まった、と
      私は理解している。

しかし悲しいかな、日本の教育は福澤先生が意図したような哲学する方向に進まずまたあらぬ方向に迷い込んだ結果、やがて後藤新平という自力人から帝国大学は低能児養成所だという痛烈な非難を浴びるまでになった。かつて橋田という文相は「科学する心」と言ったが日本の教育は哲学するどころか科学さえしていなかったのだ。
・・・・・・・
一体教育の重大要素の一つは環境である。孟子の母が三度まで引越しをしたのもひっきょう自分の感化が到底周囲の環境に勝てないと悟った結果である。いかなるよい先生もよい環境なしによい教育が出来るはずがない。したがって学校建築の第一義は教育のよい環境たるにある。私はそのことを先生が教育する前に、まず環境が教育する・・・という。

しかし、残念なことに日本の学校は決してそんな見識から建てられてはいない。世間も教育家も建築家もことごとく学校建築を等閑に附した。「学校だから」と言うのは粗末な間に合わせと同義語にさえなった。かくして哲学しない教育場として哲学しない校舎が建った。時間割教育の時間割校舎。
・・・・・・・
およそ日本のあらゆる学校はいずれも千篇一律の御粗末な建物、しかもその御粗末な学校が例外なしに中央に玄関と車寄せがある。そしてこの正面に厳しく構えた玄関は東京駅の皇室専用と同じく、ただ一つまみの先生達の専用で生徒は決して出入りを許されないのです。何百人という生徒はどこかの隅の昇降口という汚い小便臭い所から出入りしなければいけない。これは決してよい教育をする環境ではない。

   註 ここにあるような学校校舎は、さすがに最近は見かけない。
      しかし、私の通った国民学校はこのような建物だった。
      なお、この論説の冒頭は、引用を省略したが、東京駅についての
      厳しい評が書かれている。
      当初、東京駅は、中央に「皇室専用口」、両端に一般客用口があり、
      しかも、一般用は向って右が「入口専用口」(今の丸の内南口か)、
      左側が「出口専用口」(北口)に分かれていたのだという。
      校舎もまた、それに倣っていたのである。
      この一例は、「登米高等尋常小学校」(「スナップ・・・・旧 登米高等尋常小学校」参照)に
      見ることができる。

      なお、「高等尋常小学校」「尋常高等小学校」とは、明治の学制では
      「尋常小学校」と「高等小学校」があり、両者を併設した学校の呼称。
      どちらを先に書くか、学校によって違っていたらしい。

西洋には気が利いた間抜けの例として猫くぐりを親猫と子猫の寸法に合わせて別々につくったという笑話がある。日本の学校はこの笑話をそのままに、別々に猫くぐりをつくるというむだをあえてして、坪数と工費を多くかけながら哲学しない校舎をつくって少しも怪しまない。
しかもここに見逃したい一大事はこの中央の玄関車寄せの形式が取りも直さず日本人が落ち込んだまま抜け切ることができない官僚思想の表現だということ。
・・・・・・

それにもかかわらず日本人の無関心は、学校とはこういうものと思い込んで少しも怪しむ様子がない。これは実に驚くべき事実といわんよりもさらに恐るべき事実である。そして私は今さらに日本インテリの落ち込んだ禍の深さを思う。

   註 この「官僚思想」「無関心」は未だに払拭されていないのではないか。

ここでひるがえって私は行者の本色に立ち帰って専門の建築の道を考える。
建築とは――。
建築とは福澤先生が道破したと同じく、しかもより精確にかつより具体的に二つまたは二つ以上の物の釣合の関係に出発する。この意味で枕木にレールをのせた姿が建築で、柱に腕木、腕木に碍子、碍子に針金の電信柱も建築で、物干竿に吊した干物の姿も建築である。そしてこの原則を押し進めて行けば、建物と建物との間が建築で、建物と植木の間が建築で、建物と門の間が建築で、建物と庭の関係が建築で、結局敷地全体が建築である。だから建築の本領は世間で考えるように壁に囲まれた建物だけではない。そして建築家にとっての敷地とは、世間の所有権と全然無関係に、目に身ゆる限りが敷地――山でも川でも空飛ぶ鳥でも流れる雲でも。

このような見地に立つとき壁に囲まれた建物に執着していた建築と建築学は輝かしい「変貌」をもって生活と敷地の有機的統一に向かって焼点する。この境地を指して、私は「建築は哲学する」という。
この境地に立つとき建築家はもはや「間取り」をしない。そして建物をその敷地に対する「たたずまい」においてのみ考える。これを私は哲学する立場から考えるという。

しかるに世間で建築といえば建物にとりつき建物といえば間取りと思い、間取りといえば玄関から始める。そして時間割のように部屋を並べては廊下でつなぎ、棟を並べては渡り廊下でつなぐ。ここに哲学するかしないかの千里の岐路がある。
・・・・・・
以下略
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この休みの間に、締切り間近の仕事を片付けるつもり。次回は休み明け、あるいは来週になりそうです。

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「建築」は何をつくるのか-4・補足

2009-08-04 10:42:29 | 設計法

[註記追加 23.04]

前回の屋根を二段構えにする理由の説明図が、上掲の上ニ段の図です。

上段の図は、屋根の大きさ:高さによって、実際に私たちが目にする姿が変わってくることを示したもので、例として「唐招提寺」の「当初想定断面図」と、「現状断面図」とで比較しています。
当初は、中国に倣った緩い勾配で、その場合は、おそらく現在見るような凛とした姿ではなく、非常に穏やかな、あるいはのどかな佇まいだったのではないか、と思います。
屋根の見え方によって、あたりの雰囲気がまったく変ってしまうのです。
なお、大きさはまったく違いますが、当初の姿に似た穏やか・のどかな感覚は、「新薬師寺本堂」で味わえるのではないかと思います。
詳しく見てはいませんが、中国の場合、このような点については、あまり神経を使っていないように見受けられます。

二段目の図の右側は、「破風尻を引く」例で、今井町・「豊田家」を例にしています。左側の図には、「通り」側の二段構えの屋根の勾配を記しています。「高木家」などよりも、勾配は急です。

   註 [註記追加 23.04]
      勾配の設定や破風尻をどの程度引くかは、工人の「勘」による、と
      考えてよいでしょう。
      日常の「見る」「観る」ことを通じて会得したものと思われます。

三段目の図は、「通り」に対して、二階を迫り出すつくりかた。
「中山道・妻籠宿(つまご・じゅく)」の例です。
山地ゆえに、元来は板葺きの緩い勾配の屋根です。
「通り」の幅は、今井町などに比べ、相当広い。そのため、迫り出してきても、天空が狭められることはなく、むしろ、落ち着いた佇まいをつくりだし、旅人を招き入れるような空間になっています。

次の三段の図版は、「妻入り」の町家の例です。
降雪地では、屋根から落ちる雪が出入口を塞ぐため、「平入り」:屋根が「通り」に向って傾斜するつくり:は避けざるを得ません。そのために「妻入り」にして、奥行の短い「庇」を設けています(もっとも、敷地内に落ちた雪の処理も大変です)。
この「庇」を、「通り」に沿ってつなげれば、「がんぎ」と呼ばれるアーケードになります。青森の弘前、黒石などに今でも残っています(青森では「こみせ」と呼ぶ場合もあるようです)。中越地域にもあります。

最下段は、群馬県・沼田にあった「妻入り」の商店です(現在は、移築されています)。
いずれの例も、「平入り」の町家と同じく、「通り」と「建屋」の関係に意を注いでいることが分ります。その結果、「通り」は単なる通路ではなくなるのです。

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「建築」は何をつくるのか-4・・・続々・建物づくりと「造形」

2009-08-03 09:36:12 | 設計法

上掲の地図は、奈良・今井町の町並の図です。「日本の民家6 町家Ⅱ」からの転載、「通り」に色を付けました(一部、塗り忘れがあります!)。

現在の町並に比較して、「通り」の幅がきわめて狭いことが分ります。2間程度。
人が主人公の時代の町ですから、決して狭いわけではなく、大体この程度だったのです。なお、街道筋の宿場町では、人が行き交うため、5間ほどの幅になります。

お寺さんや神社は、大きな区画を占めているため、「通り」から門を入って建屋に至る形をとっていますが、一般の建屋は、商家であることもあり、「通り」に直接面する形で建屋が建っています。
もっとも、こういう町なかでは、区画は間口に対して奥に長いため、商家でない場合も、建屋は「通り」に面して建てられています(それでも、今井町の場合は、京都あたりのそれに比べると間口は広い)。

「通り」に面して建屋を建てるとき、どのように構えるかを知るには、今井町は好例と言えるでしょう。

「通り」に面して建屋が建つと、「通り」の両脇が、建屋によって固められ、「通り」の空間を、否応なく形づくってしまいます。

もしも、「通り」に面して、平屋あるいは二階建て(~三階建て以上)の建屋の壁がまっすぐに立ち上がっていると(軒の出た建屋か、軒のない建屋かによって、趣きが多少異なりますが)、「通り」はいわばU字溝のような形になり、「通り」を歩く人の目には、ほぼ道幅と同じ天空が見えるだけになり、「通り」が直線だったりすると、「通り」の方向性だけ強くなってしまうでしょう。
日本では、こういう例は、あまり見かけません(最近は別です)。

日本で多く見かけるのは、今井町のような町並です。
今井町の場合、「通り」に接して建屋の「通り」面は、かならず壁面が二段階になります。しがたって、屋根も二段構えになります。。
すなわち、上掲の写真や断面図で分るように、「通り」に接して「平屋」の部分があり、その背後に「本体」の壁が立ち上がる方法です。
「本体」自体は、平屋建ての場合もあり、二階建ての場合もあります(ところによると、三階建ての場合もあります)。

上掲の平面図で、そのあたりを、概略色分けしてみました。黄色部分が「通り」、グレイの部分が平屋部の屋根のかかっている部分です。

この「通り」に面する「平屋」の部分は、奥行、つまり幅は狭く(大体3尺程度)、この部分が「通り」から建屋への「踏み込み」の場所として使われます(上掲の平面図のように、高木家、米谷家とも、その「踏み込み」の先に大戸があります)。

   註 上掲の図だけでは分りませんが、「通り」を挟み向いあう二軒の
      大戸:玄関が、真正面に向き合うことはまずありません。
      後から建てる建屋は、大戸位置を向いの建屋と微妙にずらすのです。
      既に建物が建っている地区に新たに建屋をつくる場合、
      先回触れたように、実際に「通り」を敷地に向って歩き、
      ごく自然に敷地に取付く場所は、向いの家の入口の真正面には
      なりません。そこに「何か」を感じているからだと思います。

   註 「大戸」を入ってからの「空間」の配列には、
      すでに触れた住まいの原型:A、B、C、(D)のゾーン分けが
      明快に読み取れます。

このように壁面を二段構えにすると、「通り」の上には広く天空が広がり、「通り」の方向性は押さえられ、それぞれの建屋の前には「淀み」が生まれ、「暮しの匂い」もただよう空間になるのです。「通り」は単なる「通路」ではなくなっている、と言えばよいでしょう。

これは、それぞれの建屋をつくる人たちには、「通り」から「わが家」へ、そして「わが家」から「通り」へ、この「動き」に見合った「空間」:自らのまわりに展開する「空間」のありようをしっかり見据えているからだと考えられます。
というと意識的にやっているように思えますが、無意識のうちにそのようにしている、というのが本当のところなのだと思います。つまり、「身に付いている」のです。それが「常識」なのです。

   註 今井町が「伝建地区」に指定される前、本当に「暮しの匂い」を
      感じることができました。
      家々はそれぞれに年輪を刻んだ表情をし(それが普通の家並)、
      たとえば、家の中からは、その家の若者が聞いているに違いない
      大音量のポップな音楽が漏れ聞こえてくる、
      あるいは、食事の用意の音や匂いも漏れてくる・・・・。
      「伝建地区」になってからは、そこはあたかも映画村、
      時代劇のセットのようになっています。
      これでは、そこを訪ねても、本当の意味の「観光」にはなりません。

このような「気遣い」は、最近の都市近郊の分譲宅地に建つ住宅では、めったにお目にかかれません。
最近の都市近郊の宅地の一区画の大きさは、ことによると今井町の標準的な区画よりも小さく、したがって、「通り」に面せざるを得ないのが普通です。
しかし、そこでの建屋の建て方を見てみると、多くの場合、広い敷地のなかに建てることを考えたような建屋になっています。「通り」から入り、しばし歩いて玄関にたどりつくかのようなつくりの建屋が、「通り」に面している例がきわめて多いように思います(おそらく住宅展示場でみたモノを、まわりと無関係にセットするからなのでしょう)。
そのため、「通り」と「建屋」の間には、「空間」の断絶がある、「空間」が小間切れになってしまうのです。別の言い方をすれば、「個々の建屋」+「通り」+「・・」という足し算で街ができあがってしまう、ということです。
当然、生まれる「通り」は、そこを歩く人にとっても「無愛想」になってしまいます。

今一般に、「よい町並」が語られるとき、その「よさ」の因を、そこに並ぶ建屋の「形」「材料」「色彩」などに求められるのが普通です。
「伝建地区」に指定された今井町で、修理や改造をするとき、少なくとも「通り」に面する箇所は、「重文指定」の建物の外観に倣うように求められるのも、その考え方によるものです。その結果「時代劇のセット」になってしまいます。

私は、この考え方は誤りだと考えています。
私たちが、そこで暮していないにもかかわらず、「いいなあ」と思う町並、「心和むなあ」と思う「通り」というのは、そこで暮す人たちのつくりだした「通り」と
「建屋」に、「今の」私たちが「共感を覚える」からだ、と私は考えます。
あえていえば、そこで目にする「空間」に、そこで暮す人たちの、そこで暮す「暮し方」「気遣い」が表れ、それが私たちに好ましく思えるからなのだと思います。

であるからこそ、ちょっとしたことにも気を遣ってつくるのです。
たとえば、断面図や写真で分りますが、先に触れた「通り」に面する「平屋」の部分の屋根の勾配が、本体の建屋の屋根の勾配よりも緩いのが普通です。これは、今井町だけではありません。一般にそうなっています。
上掲の「高木家」の外観写真は、「通り」から、普通の目線で撮っています。
断面図では、二階建ての部分と手前の部分では屋根勾配が違っていますが、写真ではほとんど同じに見えます。
それは、実際に目に映る「もの」の姿は、遠くのものほど小さく見えるものだからです。

   註 米谷家の外観写真は、「通り」を歩く人の目線よりも
      高い位置で撮った写真です。

大きな屋根の社寺を、写真で見るのと断面図で見るのではまったく違います。これも同じことです。断面図を見て、屋根の大きさ・高さに驚くことがあります。
二段構えの屋根の勾配を同じにした建屋の場合、高い部分は低くなって見えてしまうのです。

今回は図を載せませんが、「通り」に平行に棟が伸びる建屋の場合、たとえば高木家のような例の場合、この「気遣い」は、妻面:「けらば」についても払われます。軒先の部分の全長よりも、棟の部分の全長を若干長くするのです。
逆に言えば、棟の長さよりも、軒の長さ:幅を若干縮めるのです。これを「破風尻(はふじり)を引く」と呼ぶようですが、こうすることで、目には、両妻面の「けらば」「破風」が平行になっているように見えるのです。
言ってみれば、「透視図」の原理です。
かつての工人たちは、この原理を承知していたのです。

屋根勾配は、基本的には、葺き材で最低限の勾配は決まります。しかし、実際には、その限界勾配以上であれば任意です。
その「任意」のなかで、建屋が建ったとき、現地に立って見える屋根の見え方を考慮して勾配を決めればよいわけです。

しかし、どのように見えるのがよいか、ということは、建屋単体で考えるわけにはゆきません。その建屋の立面図だけで考えても意味がないのです。なぜなら、早い話、ある勾配の屋根を持った建物も、それがどのような場所にあるかによって、見え方がまったく変ってくるからです。新たにその建物を設けたことで生まれた空間が、その場に適しているかどうか、によって、屋根が急すぎる、あるいは緩すぎる、・・・と「感じられ方」に違いが生まれるのです。
勾配を持つ屋根の場合、この判断が、「でき上がり」に決定的な意味をもってきます。
私の場合、周辺との関係で「これはいいな」という事例に会ったとき、極力、周辺を含めた断面図を、頭の中で描いてみることにしています。そういうことを重ねているうちに、工人たちは、建屋の前をどのような空間にするかによって、勾配を変えているらしいことに気付きました。これは、前面が斜面と平坦である場合で、できる空間に違いが生まれることで明らかです。
アアルトのスケッチを見ると、通りを歩いて建物に近付く各段階での「見え方」を、何枚も描いてチェックしていることが分ります。それは、あくまでも、「見え方」のチェックであって、立面図のチェックではありません。その「見え方」が基になった断面が決められて、結果として立面図が描かれるのです。
かつて、わが国の工人たちは、こういうスケッチを頭の中で描いていたに違いないのです。

この「気遣い」は、軒先・軒下部分にも注がれます。
軒先・軒下もまた、立ち位置、目線の位置で「見え方」が変ってきます。
平屋の軒の場合、人に被さるように見える場合には、人は、その下に招きいれられるような感じになります。被さるように見えるかどうかは、軒の深さ:出によって異なります。そしてまた、そこがどのような場所であるかによっても違います。

今井町の場合では、全般に軒の深さ・出は大きくありません(一般に町家は少ないようです)。それに代って、「踏み込み」部分で「招きいれる」空間をつくっています。町家の場合、敷地を有効に使うために、壁位置をできるだけ「通り」に近付けたからだと思われます。
今井町では(他でもそうですが)、二階建ての場合、二階の軒下部分のつくりに意を注いでいます。そこは必ず通る人の目に入る箇所だからです。平屋の場合は、それほど気にしていません(上掲最下段の図参照)。

このように、現在のような設計図を描かなかった時代、人びとは、実際に目の前に生まれるだろう空間を頭の中に想像・想定しながら、空間づくり・建物づくりをしていた、と考えてよさそうです。
どうやら、事前に設計図を描くようになってから、「実際の見え方・感じられ方」ではなく、「図上・紙上の見え方・感じられ方」で決めるようになってしまったように私には思えます。
少なくとも建築の設計図では、あくまでも「実際」を「紙」に投影したものでなければ、意味がない、と私は思います。

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「建築」は何をつくるのか-3・・・続・建物づくりと「造形」

2009-07-30 11:23:19 | 設計法

先回、ライトの「落水荘」を例にして、次のように書きました。
私たちが「感じている隙間・空間」とは、「平面図」で言えば、その「白い部分」です。平面図上で、この「白い部分」を主階から順に見て行くと、私たちが「落水荘」に「在る」と、どのように私たちの中に「感懐」が生まれるか、が分ってきます。
とどまる歩を早めたくなったり、腰をおろしたくなったり、気分が高揚したり、鎮まったり・・・・、その「変遷」が感じられる筈です。
この「変遷」をどのように構築・構成するかが、ライトの考える「設計」なのだと言ってよいでしょう。

私たちは、「落水荘」に在る場合だけではなく、常に、「私がそのとき在る空間に何かを感じつつ、それに応じて立ち居振舞っている」ということです。
建物の設計では、すなわち、「白い部分」を構築するには、私たちがその「白い部分」に在る時感じるであろう「感懐」を基にして行わなければならない、ということです。

   註 最近の建物では、私が、そこで感じたままに素直に振舞うと、
      混乱に陥る場合が多くなっています。
      そして「案内板」:「サイン」だらけになります。
      それについては、かなり前に、迷子にならざるを得ない病院を例に
      下記で触れています。
      「道・・・道に迷うのは何故?:人と空間の関係」


「私たちがその『白い部分』に在るとき感じるであろう『感懐』を基にして行わなければならない」のだ、ということを、私が最初に「実感」として理解したのは、ライトではなくアアルトの設計事例でした。

上掲の図版は、1938年のニューヨーク万博でフィンランドの建築家アアルトの設計した「フィンランド館」です。
上段は、入口を入ったときの館内の姿。その右は、全体の構成の解説のための分解図。
中段は、設計段階での入口を入ったときの館内のスケッチ。大体その通りになっています。
下段は、全体の構想を示すスケッチと完成したフィンランド館の平面図です。
なお、このフィンランド館は、既存の建物の内部の改装で計画されたようです。

   註 図版は以下よりの転載
      〇スケッチ(内観、および平面)
      “Aalto”(GARLAND刊、スケッチを集めた全集)
      〇その他
      “Alvar Aalto”
      (The Museum of Modern Art NewYork刊) 

この建物の写真を最初に見たとき、この「うねる壁面」が、ただ異様にしか見えなかったことを覚えています。何だ、これは?
ものの本では、アアルトの国、フィンランドのフィヨルドの海岸線に倣ったものだ・・・、などという説明がありました。ほかも同様で、「見える形」だけを云々している書物が大半でした。

しばらく経って、あらためて入館者になったつもりで平面図を見ていったとき、この壁の「うねり」の理由が分ってきたのです。

万博の展示館ですから、内部にはフィンランドについて紹介する各種の展示がいろいろな手段で展示されています。それら各種各様の展示を、歩を進めながら深く理解しつつ観てゆく、そのためには、途中で飽きることがあってはなりません(多くの博物館などで、観るのを省略したくなる経験は、皆がお持ちだと思います)。
フィンランド館は、その点が綿密に計画されていることに気付いたのです。
「うねる壁」は、フィンランドの針葉樹を横並べしてつくられています。その「うねり」につれて、来館者は気分が高揚し、素直に歩を進め、二階へも自然に誘われます。二階には、今歩いてきた一階を見ながら休めるティーラウンジもあります・・・・。

「形」だけ、この場合で言えば、「うねる壁」だけに目を奪われると、本当のところを見抜けない。特に、図面や写真だけで建物を見る場合には、よく陥る落とし穴です。
「うねる壁」は、単に、その「造形」のためにつくられた「造形」なのではなく、望まれる適切な「空間」を「そこ」につくりだすための手段に過ぎない、そう理解したとき、設計では何を考えればよいか、分ったような気がしたのです。

   註 最近の建物には、写真映りのための「造形」、
      「造形のための造形」が多すぎると私は感じています。
      実際にその建物へ行くと、その「造形」が、「空間」にとっては
      無意味な場合がほとんどです。
     
フィンランド館は、ある意味では、きわめて設計が簡単な建物です。「展示するとは何か」について考えればよいからです。
しかし、他の設計でも、たとえば「住宅」を設計する場合でも、「原理」は同じだ、と私は考えています。

すでに、「建物の原型は住居」である、ということを書きました(下記)。

   「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居」

要は、「住まい」とは、私たちが日常を暮してゆくときの「拠点」であり、それが「拠点」であるためには、「そこ」で私たちが抱く「感懐」が、私たちにとって何の抵抗感のないものでなければならない、という単純な事実です。

そして、「住まい」以外の私たちにかかわる「建物」:「空間」は、その延長上になければならないはずです。
もしそうでなければ、そういう「建物」では、私たちは、「不安」に陥るだけなのです(そのことは、先の病院の事例で触れています)。

「建物の原型は住居」での説明を要約すると、
 ① 住まいの基本は、外界の中に安心していられる「空間」を確保すること。
 ② その「空間」の大きさ:面積は建設場所次第である。
 ③ その「空間」と「外界」は、主に、一つの「出入口」で通じる。
 ④ その「空間」の使い分けは、その「出入口」との位置関係で決まる。
    この位置関係の認識は、「そこ」で私たちが抱く「感懐」により、
    大きくA、B、C三つのゾーンに仕分けられる(前掲記事参照)。

   註 他人との接し方で三つのゾーンを示すと
      A:比較的親しい人の出入り可。
      B:親しい人の出入り可。
      C:家人以外の出入り不可。 

 ⑤ 「空間」の大きさによって、その「使い分け」の様態は異なる。
    大きい場合には、間仕切により仕切ることができるが、
    小さな場合に、間仕切を設けると動きがとれなくなる。

ある場所:建設場所=敷地に住まいをつくることを考えてみます。

建設場所=敷地へは、そこへ通じる道を歩いて至るわけですが、多くの場合、どの方角から近付くか、決まっています。それは、逆に言えば、「住まい」という拠点から外界へと至るときに必ず通る過程でもあります。

敷地に近付きます。
敷地が路地奥でないかぎり、敷地は、道に全面で接しています(たとえば、長方形の敷地であれば、長方形の一辺が道に接しています)。
道から敷地内に入るには、物理的には、どこからでも入れるはずです。
しかし、実際には、自然体で敷地に近付くとき、自然と足の赴く「地点」があります。
それは、そのとき敷地周辺に展開している「既存の空間」に私が「反応」した結果なのです。もちろん、道を歩んでいるときの、道を囲んでいる「もの」がつくりだしている「空間」も含まれます。言うなれば、一帯にある既存の「白い部分」への私の「反応」によるのです。

もしも「住まい」が道に接して建ち上がるのであれば、そこが建屋の「玄関」として最適の場所にほかなりません。
そして、敷地内に引いて建屋が建つのであれば、そこは「門」として最適の場所なのです(必ずし「門」という「もの」が建つわけではありません)。

その地点に立ち、敷地という区画内に広がっている「空間」を感じとります。
そして、敷地内に、どのような容量の「もの」をセットすることが可能か、考えます。それはすなわち、どのような容量の「もの」をどのように置けば、既存の状況:環境に適合するか、ということです。
すでにこのとき、建屋の「外形」のおおよその見当が付いているのです。
敷地外を含め、既存の状況が、いかに気に入らないものであっても、無視するわけにはゆきません。

   註 敷地外の状況をまったく無視するのが、言い換えれば、
      敷地内だけで考えるのが、最近の設計のほとんどです。
      それでいて、町並の景観との調和・・・などが叫ばれます。
      何をもって「調和」と言うのでしょうか?

その上で、先の三つのゾーンがどう展開するのが素直か、自然か、考えます。
これを考えるには、どこが、どのあたりがCゾーン:「最奥と感じられる場所」になるか、あるいは、どこに、どのあたりに「最奥と感じられる場所」をセットしたらよいか、考えるのが早道です。なぜなら、外界への出入口に立って考えているからです。
敷地の状況:既存の現況によって、直ちにゾーンの展開が見付かる場合もあれば、そうでない場合もあります。

そのあとは、想定した容量の「もの」が、どのように分節されるか、つまり、どのような部分に分かれるか、考えることになります。その分かれ方は、当然、「もの」の容量次第です。

このような考え方で作業を進めるかぎり、屋内だとか屋外だとか、あるいは「外構」だとか、を云々する必要はないのです。
なぜなら、敷地内のすべての「白い部分」を考えながら進めているからです。

各地に、見事な、そこを歩くだけで心和む町並が残っています。そういう町並は、一時にできあがったものではありません。また、一つの計画図があったわけでもありません。その町並を構成するそれぞれの建屋の主たちが、異なる時代に異なる人の手で建てた建屋の群、それが心和む町並をつくりだしているのです。
その理由は、各時代の人びとが、おそらく、新しく建物をつくるということは、既存の環境を改変すること、という意識を持ち続けていたからにほかなりません。
町並にかぎらず、個々の建物でも、「心和む」空間を生み出している事例は、多数現存しています。

上に記した「設計作業のすすめかた」は、こういう諸事例の生まれた「背後」を知ることから達した、「もの」の「形」ではなく、「白い部分」すなわち「空間」で考える方策にすぎません。

次回は、「諸事例」で、かつての人びとの「建物づくり」の考え方を具体的に見てみようと思います。そこでようやく「軒の出」の話にたどりつけるはずです。

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「建築」は何をつくるのか-2・・・・建物づくりと「造形」

2009-07-25 09:29:14 | 設計法

今はどうなっているのか詳らかではありませんが、私の学生の頃は、「建築計画(学)」が隆盛をきわめ、「その《成果》に基づいた設計」が、最も「科学的」かつ「合理的」な設計である、と信じられていた時代でした。
今売られている住宅、集合住宅を広告などを見てみると、おそらく、今は、その《成果》が、「意味」が問われることもなく、惰性で使われているように思えます。「成れの果て」と言えばよいでしょう。

今でもはっきりと覚えているのは、小学校の設計課題でした。
「教え」に従って小学校内の各所・各室を数え上げ、そこで行なわれることに求められる性質を基に、「各所・各室の《合理的な》並べ方」を考える。当時流行の言葉で言えば「機能図」の作成です(今でもこの言葉は生きているのだろうか?)。

問題はそれから先にありました。
その「機能図」から、どういう「過程」を経れば「建物」の「形」になるのかが分らないのです。
今の私でも、このやりかたでは「設計」はできません。
「機能図」から「形」への「道筋」は、今もって「建築計画(学)」においてはウヤムヤなのではないでしょうか。
それゆえ、やむを得ず、どこかで見たような学校の建物を真似ることになります。

こういう「建築計画(学)的設計」の「不条理」を問題視する一群の人たちもいました。その代表格が今は亡き丹下健三氏でした。簡単に言えば「形から始めよ」という主張でした。両者の間では、建築誌上で活発な「論争」がありました。その内容が意味不明で、論争は何の成果をも生まないものであったことは以前に下記で簡単に触れました。

   註 「実体を建造物に藉り....・・・・何をつくるのか」

この「形 先行」派の考え方も、言ってみれば「不条理」だったのです。「形」を発想する「条理」が分らないからです。


そんなわけで、いったい「建物をどうやって考えたらよいか」考えざるを得なくなりました。
そして気が付いたのは、「ある場所」に、ある「物」を、新たに置く作業、それが建物をつくることだ、という単純な「事実」でした。

「ある場所」に、新たな「物」を置くことで、「ある場所」は一変します。以前の「ある場所」ではなくなるはずです。この単純な「事実」に気が付いたのです。
言い方を変えると、ある「物」をつくるということは、同時に「その物のまわり」をもつくることだ、ということです。
その延長で、「ある場所」を、どのように「一変させるのがよいか」という判断が「設計」なのだ、ということに気付いたのです。

そして、なぜそのような「変化」を「ある場所」に与えようとするのか、それを考えれば「建物をつくるとはどういうことか」「設計するとはどういうことか」が分るのではないか、と考えるようになりました。

たとえば、「ある場所」に私がいるとします。
その私の目の前に、横一文字に「壁」を立てます。その結果、それまで一つであった場所が、「物理的」には「壁」によって二分されます。「壁」の高さがどうであろうと、物理的には、二分されるということ自体は変りありません。

けれども、二分されたそれぞれは、私にとっては「等質」ではなく、「こちら」側と「向こう」側ができたことになります。
しかも、そのとき私は、単に、「こちら」と「向こう」ができた、と認識するだけではありません。私のなかに、ある「感懐」が生じるのです。そこに生まれた「状況」・「雰囲気」がその「感懐」を私に抱かせるのです。

その「感懐」は、たとえば、「壁」の高さによって異なります。
もしも「壁」が高く、「向こう」側が見えなくなったとすると、私は「向こう」側から隔たれた、「向こう」側には、私を受け容れない、拒否しようとする場所がある、と認識する筈です。「ベルリンの壁」がそれです。

この「認識」は、「壁」の高さと私の視線の位置、簡単に言えば目の高さとの関係によって変ってきます。目線より低ければ、「向こう側」は、向こう側ではあっても、必ずしも私を拒否しているわけではない、と認識するでしょう。その「私に対する向こう側の態度」は、「壁の高さ」で微妙に変るのです。
これは、住宅街などで道路わきに並ぶ「塀」を想いうかべて見れば自ずと明らかで、「塀の高さ」は、「塀の内側の人」の「こちら」側に対する「考え方」をも、ものの見事に表すのです。道を歩いていて、気分のいい「塀」と、そうではなく圧倒されて不愉快になる「塀」があることは経験があると思います。TV映像でときおり目にする住宅街の中の暴力団組長の家の「塀」などは、「ベルリンの壁」に匹敵します。

では、ある場所で私の中にうまれる「感懐」は、私だけのもの、私特有のものなのでしょうか。
多くの人は、そのような「感懐」は、あくまでも個人的なもの、人によって異なる。皆が「感懐」は抱くけれども、その内容は「十人十色」だ、と考えます。

私はそうとは考えません。
抱く「感懐」は、数字や言葉で「明確に」指し示すことはできない類いのものですが、人によらず同じだ、と私は考えます。
「十人十色」なのは、皆が同様に抱く「感懐」に対する「反応」が十人十色なのです。つまり、皆が同じに「感懐」を抱いていて、ただそれに対して、ある人は「是」とし、ある人は「非」とし、そしてまたある人は、どうとも思わない・・・と多様な「反応」を示すのです。
このことは、なかなか分りにくいようにも思えますが、そうではありません。
もしも私たちが、ある事象に対面して抱く「感懐」そのものが、人によってまったく異なるとしたら、人の世に「ことば」「言語」は存在し得ないからです。このことについては、別のところで別の例でも書きました(下註)。

   註 「『冬』とは何か・・・・ことば、概念、リアリティ」

   註 わが国の場合は、「見える物」がなくても、そこに「境」を見る
      「結界」という考え方があります。
      多くの神社の「境内」は、「結界」により聖域を区切っています。
      具体的に柵を設けてある伊勢神宮は、むしろ珍しい例です。

これまでは「壁」が横真一文字に私の目の前にある場面を想定していました。
では、「壁」が私の前に「斜め」にあるとしたら、たとえば右に30度ほど回転した位置にあるとしたらどのようなことになるでしょうか。
この場合は、「壁」の高さに関係なく、私たちの視線は、自ずと斜め左奥へともってゆかれ、その方向へと誘われるような気分になります。自然とそちらへ足が向きます。よほどのことでもないかぎり、右の方に「逆レ」の字型に曲がろうとはしません。

   註 城郭の建設では、侵入者をおびき寄せるために、
      この「理屈」を使った例が多く見られます。
      本当の通路・入口は、足の自然と向かわない逆側にあるのですが、
      侵入者は、己の感覚で歩を進めてしまい、「罠」にかかるのです。

      なお、目の見えない方はどうか、というと、
      目の見える人と、同じように感じているようです。
      実際に調べた人によると、目の見える人と同じ方向に
      自然と歩くのを見て驚いた、とのことです。
      ただし、町なかではなく、学校のキャンパスでの話です。
     
これは、「壁」ではなくても同じ。
上掲の図は「落水荘」の「各階平面図」と「配置図」です。
「配置図」で、「橋」の向うには緑で覆われた山塊が崖状に行く手を遮っています。しかし、それは図の上で言うと左上がりになっていますから、人は自ずと「左斜め」の方向に誘われます。

歩を進めると、右手にある緑で覆われた崖状の山塊とともに、ライトが新たに設置した「壁」や「パーゴラ風の平らな屋根」が目に入ります(図では点線で描かれています)。
正確に言うと、それらの「物」を「見ている」のではなく、それらによってつくりだされている「隙間」すなわち「空間を捉えている:感じている」のです。

これらの「物」は、平面図の「黒い部分」です。
平面図とは、対象を「水平面で切った断面図」ですから、本当は右手の山塊も「黒い部分」なのですが、「設計図」では黒く塗りません。新たに「設計した部分」だけを黒く塗ります。
上掲の平面図では、右手にある山塊は上方から見た姿で描写しています。
そして、この「描き込み」は上階の平面図でも描かれます。
この「描き込み」はきわめて重要なことだ、と私は思います。なぜなら、上階での「感じ方」を知るためには必要なことだからです。

   註 現在の設計の多くは、上階へゆくほど「外」の存在を忘れ
      「引き篭もり」になります。
      主階に於いてさえ、「外」のことは忘れている事例が
      あたりまえになっています。

そして、私たちが「感じている隙間・空間」とは、上掲の「平面図」で言えば、平面図の「白い部分」です。
上掲の平面図上で、この「白い部分」を主階から順に見て行くと、私たちが「落水荘」に「在る」と、どのように私たちの中に「感懐」が生まれるか、が分ってきます。
とどまる歩を早めたくなったり、腰をおろしたくなったり、気分が高揚したり、鎮まったり・・・・、その「変遷」が感じられる筈です。
この「変遷」をどのように構築・構成するかが、ライトの考える「設計」なのだと言ってよいでしょう。この点については、「旧・帝国ホテルのポーチ~ロビー」の紹介の際にも触れたと思います(下註)。

   註 「旧帝国ホテル 図面補足・・・・ポーチ~ロビー断面」

おそらく、ライトは、川を渡って「滝」の上流側に「建物」を持ってくることを最初に決めたと思いますが、その決定は同時に「橋」の位置・架ける位置をも含めたものであったと考えられます。
と言うより、たとえば、「橋」と「建物」の間に生まれた川の上の空間をはじめ、元々あった「地形」にライトが新たな「物」を置くことによって生まれるすべての場所も「設計に含まれていた」のです。

このことは、「建物」の位置は図のままにして、「橋」の架かる位置と角度を、図の上でいろいろと動かしてみてください。おそらく、ここしかない、つまり、建物と一体に考えるとここしかない、という結論に達するはずなのです。

長くなるので、一旦ここで締めます。
要は、最初にも書きましたが、
ある「物」をつくるということは、同時に「その物のまわり」をもつくることにほかならない。
別の言い方をすれば、「白い部分」を「黒い部分」で考える、ということになります。
したがって、
「ある場所」を、「どのように一変させることがよいか、許されるか」という問に対する判断・答が「建築の設計」である。


これを、先回触れた言い方で言い直すと、次のようになります。

ある場所に建物をつくるとき、そこには既に「ある表情を持った土地」があり、隣地にはすでに建物が立っていたり、あるいは樹林や川や山が迫っている筈ですが、その存在を無視することが許されるのか、ということです。無視してよい、などという「権限」は、私たちにはないはずではありませんか?

この認識、前提に立つならば、ある場所に建物をつくるとき、既に存在する「物たち」の「存在そのもの」を認め、その上で、それを意識して新たな「物」をそこに加えてゆく、そしてそこに「新たな空間」が生まれる。では、その「新たな空間」は、どのようなものなのか、それを考えればよいことになります。

そして、もしもそのとき、新しい「物」を加えることによって、既存の「物」の存在が貶められたり、無視されたりしたならば、その作業は失敗なのです。新しい建物ができたために、それまでの町並が台無しになる、などというのは、その「典型」です。

このように考えれば、「不条理」は生じない筈だ、と私は考えています。

次回は、住宅を例にして、より具体的に書いてみようと思います。

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「建築」は何をつくるのか-1・・・・「落水荘」を通して

2009-07-21 19:36:24 | 設計法

[註記追加 7月22日 7.48]

いま一般に、「建物」のまわりは「外構」または「庭」と考えるのが普通です。
そして、そのうちの「建物」をつくる、または設計することが「建築」と考えられています。

手元の辞書で、「建築」を引いてみると、次のようにあります。
「①建物や橋を造ること(技術)。②造られた建物。」(新明解国語辞典)
「(architecture)(江戸末期に造った訳語)家屋・ビルなどの建造物を造ること。普請。作事。」(広辞苑)

   註 [註記追加 7月22日 7.48]
      「広辞苑」の説明は、私の承知していることとは異なる。
      明治初期の architecture の訳語は「造家」であって、
      当時の「建築」は、字義どおり build、construct の意であった。
      「architecture=建築」になったのは明治30年(1897年)である。
      伊東忠太の「architecture=建築術」と改称すべきとの主張から
      「術」を取去って生まれたもの。
      同年、「造家学会」も「建築学会」に改称された。
      私は、「建築術」の方が、その後現在に至るまでの用語の混乱を
      生じなかった、と思っている。
      現在、「建築」の語は、architecture と construct、build の
      どちらかに、使う人によって「適宜に」使い分けられている。
      なお、この経緯の詳細は、下記で触れています。
      「日本の『建築』教育・・・・その始まりと現在」

では、「建物」とは何か。
「人が居住・執務・作業したり 文化・娯楽を享受したり ものを貯蔵・飼育したり するなどの目的で建てた物。建築物」(新明解国語辞典)
「建築物。建造物。」(広辞苑)

一般の方々はもちろん、「建築」に係わっている方々の理解も、おそらく、これらと同様だと思われます。

たしかに、「建物」「建造物」は、多くの場合、一つの「形」として目に入ることが多いですから、このような「解釈」がなされるのは当然と言えば当然です。
そして、日本の場合(おそらく西欧でも)、「建物」「建造物」には「屋根」がかかるのが普通です。つまり、「建物は屋根があるもの」ということになります。

しかし、「建物は屋根があるもの」ということと、先の「建物」とは「人が居住・執務・作業したり 分化・娯楽を享受したり ものを貯蔵・飼育したり するなどの目的で建てた物。」という「解釈」が重なってくるとき、「事実にそぐわない解釈」が生じます。一言で言えば「誤解」です。
たとえば、「『住居』『住まい』とは『建物』である」という「解釈」が、当然の如く生まれ、一般にも、あたりまえのこととして通用しています。逆の言い方をすれば、「住居、住まいには屋根があるものだ」という「解釈」があたりまえになるのです。
さらにその延長で、「建物」と「それ以外」という「腑分け」「仕分け」で分ける「考え方」が派生します。

この「住居、住まいについての解釈≒『定義』」は、すべての住居・住まいには適用できないこと、
そして、そもそも、私たちの「視界」を、「建物」と「それ以外」に分けること自体が事実にそぐわない、ということを、中国・西域の農家の住まいを例にして触れました(下記)。

   註 「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から」 

前置きが長くなりましたが、現在の「常識的な見かた」、すなわち「建物」と「それ以外」で見る見かた、で解釈しようとすると解釈できない例が、この「落水荘」です。
そしてそれは、「建築とは、建物:建造物をつくること」という現在の「常識的な」考え方、建物づくり:設計の考え方をくつがえすに十分な例でもある、と言えるでしょう。

上掲の写真・図は、三段目の「配置図」を除き、先回紹介した書物からの転載です(配置図は作品集から)。

   註 先回紹介した「FALLINGWATER」の著者は、
      落水荘の設計をライトに依頼したカウフマンの子息で、
      設計中、カウフマンとライトの交渉役を担っていたそうです。

最下段の左は、「落水荘」の下を流れるベア・ラン(bear run)からの見上げ(もっとも、撮影のとき以外この場所に行くことはない)、右は川向こうからの南面全景。

さて、「落水荘」の場合、この「建築」を、[「建物」+「それ以外のまわり」]という見かたで理解できるでしょうか?
あるいは、この「建築」を、「滝の上にダイナミックに飛び出す立体造形」である、として理解すれば済むでしょうか?

前者の見かたでの理解はかなり難しい。なぜなら、「落水荘」は、どこまでが「建物」なのか、どこからが「それ以外のまわり」なのか、その「腑分け」が難しい筈だからです。
後者のような理解は、多分、最も先端を行く現代建築家には多いかもしれません。最近の先端を行くとされる「建築」には、そのような巨大立体造形を目指したとしか思えない事例が目立つからです。

いずれの考え方をされても、ライトは呆れるだけだと思います。彼は、そんなことは一つも考えていないからです。

彼は、ベア・ランの場所が好きで、そこにくつろぐ場所を設けたい、というカウフマン夫妻の願いを充たす「空間」の造成に意をそそいだのです。

   註 カウフマン夫妻の居所は、アメリカ・五大湖の南東150kmほどの
      ところにある町ピッツバーグ。
      ベア・ランは、そこから200kmほど離れた山中にある。
      上段の左の写真は1890年のベア・ランの絵葉書。
      ゴルフ場の「表札」がわりの岩石。
      上段右の写真は、「落水荘」建設前のベア・ラン。

多分、カウフマン夫妻は、その「くつろぎの空間」にいて、ベア・ランを橋の上から眺めるような感じを味わえるようになる、とは思ってはいなかったでしょう。
それを、ライトは、当時ヨーロッパで盛んになっていたRCを使えば実現できる、と考えたのだと思います(これは次回以降に触れるつもりですが、そのためにライトは徹底してRCの理屈・原理を学んだと思われます。なぜなら、きわめて筋の通ったRCになっているからです)。

ライトの建物は、その「形」を多くの住宅メーカーが真似ているように、日本人には馴染みやすいようです。
しかし、ライトの「考え方」そのものを理解しているとは、残念ながら言えません。
ある時代以降、建築にかかわる方々は、どうも「形」「形式」を先ず最初に考えるようになったからです。

ところが、ライトの建築:建物をつくるにあたっての「考え方」の根底には、東洋的な思想への共感があったのです。それは、西欧では普通の「二分法」の否定と言えばよいでしょう。

   註 なお、彼は、滝の傍に立つ神社を描いた江戸時代の版画なども
      参考にしたようです。

その「考え方」は、簡単に言えば、ある「物」をつくるとき、その「物」が置かれる場所には、かならず既に他の「物」が存在している、という認識・理解です。
ある場所に建物をつくるとき、そこには既に「ある表情を持った土地」があり、隣地にはすでに建物が立っていたり、あるいは樹林や川や山が迫っているのです。
それらを無視するわけにはゆかない、無視してはならない、と言う考え方です。

この認識、前提に立つならば、ある場所に建物をつくるとき、既に存在する「物たち」の「存在そのもの」を認め、その上で、それを意識して新たな「物」をそこに加えてゆく、そしてそこに今までなかった空間が生まれる、そういう考え方を採らざるを得なくなります。
そしてそのとき、新しい「物」を加えることによって、既存の「物」の存在が貶められたり、無視されたりしたならば、その作業は失敗なのです。
それがライトの考え方の根底にあると言えばよいでしょう。

   註 この至極あたりまえな考え方が(私にとってですが)、
      なぜ現代のわが国の建築にかかわる方々に採られないのか?
      至極簡単な理由があります。
      そんなことしてたら「儲からない」!
      そんなことしてたら自分の「思い通りの建築がつくれない」!
      建築にかかわることの本義がどっかにすっ飛んでいるのです。

実は、わが国の近代以前の建物のつくり方の根底には、ライトとまったく同様の考え方があったのです。むしろ、先駆者は日本にいたのです。
そして、各地に残る心和む町や町並は、その結果生まれたのだ、ということを私たちは知る必要があります。

   註 町並の景観をよくするために、
      材料や色や形について規制すればよい、と考えられがちですが
      それでは心和む町、町並は生まれません。   

では、あらたに加えてゆく「物」は、どのようにして決めるのか。
それは、そのような場所に立つ人の内に湧きあがる「感覚」によると言えばよいと思います。私流に言えば「心象」「心象風景」です。

都会から車ではるばるやってくる。だんだん山の中に入ってくる。風とともに森の匂いにつつまれ、滝の音も聞こえてきた。川を渡り、目の前には緑に埋まった断崖。行く手の左には川から目を隔てる壁。
いったん川から離れ崖に沿って入口に近づく。滝の音も、心なしか小さくなる。
壁の隙間から入口を入ると、突然、低い天井の広い空間の向うに対岸が一望に広がる。滝の音も、ふたたび耳に入ってくる・・・。
こういった「過程」がこま切れではなくスムーズに展開する。
それを形づくっているのは、目に入る「空間」、地面・床から伝わる感覚、広くあいた開口から聞こえてくる滝の水音・・・そういったすべての感覚を統合して心の内に湧いてくる感懐、「心象」なのです。

これは、近世の人たちがつくった建物づくりの考え方(「孤篷庵」や「妙喜庵・待庵」などはその典型、下記参照)とまったく同じと言ってよいでしょう。

   註 「日本の建築技術の展開‐16・・・・心象風景の造成-1」~-その6
      「日本の建築技術の展開‐19・・・・心象風景の造成・4:孤篷庵」~6 

ライトが「落水荘」の設計で最初に行なったことは、現地の測量でした。二段目の図はその成果の「測量図」の一部です。
「測量図」は、先の「心象風景を造成する」にあたっての、基礎資料だからです(これを基に、地形模型をつくったのかもしれません)。
上掲の測量図を右30度ほど回転させると、配置図の向きとそろいます。

おそらくライト(の心の目)に見えているのは、手で触れることのできる「物」をセットすることで生まれる「手で触れることのできない空間」であり、そこにいる人に生まれる感懐:「心象」だろうと思います。「心象」もまた、目には見えません。

私は、学生の頃、建物の形を決める方策が分らず悩んだ時期があります。
その救いになったのが、ライトの考え方であり、アアルトの考え方、設計事例でした。
いつであったか紹介した「旧帝国ホテル」のロビーも、形や表現方法はまったく「落水荘」とは異なりますが、「考え方」は同じと考えられます。
この「考え方」を「学ぶ」には、図面に「空間」を読み、そこに自分を立たせること以外にないように思っています。

長くなったので、とりあえず今回はここまでにして、次回、もう少し詳しく「建築とは何をつくる」ことか、「設計」とは何か、そして、「軒の出はどうやって決めたらよいか」・・・私の考えを書きたいと思います。

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「軒の出はどうやって決める?」

2009-07-08 08:38:15 | 設計法

[図版更改 7月14日 15.46]

質問ですが、軒の出はどうやって決めるのでしょうか」というコメントがありました。
お答え、というより私の考え方を簡単に書いてみましたが、当然説明不足です(「コメント」の kitaoka さんのコメントと筆者の回答をご覧ください)。

そこで、それについては、図版などの資料もつくって、私の考えを別途あらためて書かせていただくことにします。
少々時間をください。


上の写真は、いま林の緑の中でひときわ目立って咲いている「合歓の木(ネムノキ)」の花です。雲がたなびくように横に扁平に広がる枝ぶりが特徴です。マメ科だそうです。

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旧 帝国ホテル 図面補足・・・・ポーチ~ロビー断面

2008-07-23 12:31:11 | 設計法

[文言更改 19.59]

「旧帝国ホテルの実証的研究」から、「ポルト・コシエ(ポーチ)」から「エントランス・ホワイエ」~「ロビー」へと至る断面図を転載する。
なお、分りやすくするために、加工を加えた。
先回の「ポーチ~ロビーまわりの平面」と照合のほどを。


先回、「・・・人はきわめてスムーズに、外界からメインロビーへと誘われ、それとともに、『外界の人』から『ホテル内の人』へと、『気分』が切り替わる。
私は、そのとき、その絶妙さに呆気にとられたことを覚えている。
そしてそのとき、各所の大谷石による装飾などは目に入っていなかったことも覚えている(より正確に言えば、目には入っているが、その個々に目を奪われることはなかった、と言う方がよいだろう)。
この絶妙な空間感の切り替えは、主に、階段と天井高の微妙な切り替えによって生まれていると言えるだろう。・・・」と書いた。

断面図の床の切換え箇所にA~Dの符号を付した。段数の少ない箇所は、階段上に、段数の多い箇所では、階段下と上に付している。
また、天井の切換え箇所には、a~cの符号を付けた。

ポーチからロビーに至るいわばダイナミックな空間の連続性をつくりだしているのは、床の切換え箇所に対しての天井切換え場所の位置の設定にあると言える。
すなわち、A~B間のaの位置を試みに右左に移して「効果」がどうなるか験してみると、図のaの位置が妥当であることが分る。
右に寄りすぎる、つまりBに近くなると、歩いている人の目線は下向きになり、エントランス・ホワイエより先:ロビーの方へは向かなくなる。
重要な「判断材料」は、空間内を歩いている人の目線を、「どの方向に向けるか」、なのだ。

bの位置がこの図の位置よりも左:歩く人にとって手前:にあるとどうなるか。
ロビーが階段はもとよりエントランス・ホワイエまで飲み込んでしまい、ロビーへの「期待感」も湧かず、したがってロビーに至ったときの「感激」も多分生まれないだろう。

このように、A~D、a~cの位置をいろいろと変えて「効果」を検討してみると、やはり、多分、この図の位置に落ち着くと思われる。
おそらくライトは、スケッチの段階で、この作業を繰返し行っていたに違いない。そして、それがまた「平面図」に反映されているのだ。

この作業は、平面図だけ、断面図だけでは行えないのは言うまでもない。
要は、「平面図」も「断面図」も、「空間」を二次元的に表示するための「手段」に過ぎない、ということの認識。
つまり、「自分を囲んでいる空間」を認識すること、「その空間はどうあるのがよいか」「どのような空間体験をするのが妥当か」・・・・を想像すること、それを積み重ね、より reality:「実際・現実」に近づける、これが多分ライトのスケッチの方法だったに違いない。

では、ライトは、どのようにしてそういう「方法」に至ったのだろうか。
これはあくまでも私の勝手な想像に過ぎないが、多分、「日常の中で見聞きし感じていること」を、常に「意識化」していたからではないだろうか。
その積み重ねから、「人」と「その人の在る空間」との関係に対して、そして「空間に於いての人の動き」に対して、ライトなりの見方・観方・考え方すなわち「思想」が醸成されていったのだと思われる。

書物などでは、建築の図面は、柱や壁などが黒く描かれるのが普通である。ある人が、設計には、「黒い部分」で考えるか、「白い部分」で考えるか、二つの方法がある、と語っているのを聞いたことがある。
現実をみると、たしかにそういう二分法もないわけではないが、ライトの場合は(アアルトも多分)、そのどれでもなく、「白い部分のありようのために黒い部分を考える」という方法である、と言うべきだろう。

しかし、考えてみれば、人が建物をつくるようになって最初に行なったのは、この方法のはずである。「原初的な思考法」はまさにこれなのだ。
だから、白い部分からか、黒い部分からか、という見方・発想は、「近代科学主義的思考」:「ものごとを分解しなくてはいられない思考」が《普及》してからのものと言ってよさそうだ。[文言更改 19.59]

ライトの考えは、よく「有機的建築」という評語で語られる。これがまた話をややこしくしている。
もっと単純に、ライトは「人の原初的な思考法・発想にならっているに過ぎない」、と言った方が、分りやすいのではないか。
つまり、建築人間の目ではなく、普通の人の目でものを見る方法の実践。ところがこれが難しい!

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再び、設計の「思想」・・・・旧・帝国ホテルのロビーに見る

2008-07-21 03:34:58 | 設計法

[説明追加 7.50][文言補足 8.00][文言修正 8.11]
[註記追加 7月22日10.53]

言うまでもなく旧・帝国ホテルはF・Lライトの設計。RCの躯体をスクラッチタイル、大谷石等で被覆している。
設計は大分前からすすめられていたようで、1914年には設計案があったことがわかっている。
工事は1917年から行われ、1923年の9月1日に竣工、同日から営業開始。その竣工・披露式当日、関東大震災に遭った話は有名。そして、周辺の多くの建物が大きく被災したにもかかわらず、地震での被害はきわめて微小であった話も有名である(当時の耐震学者は、この事実について、触れていない)。なお、第二次大戦の末期1940年、隣地の空襲により延焼被災、同年末には修復。


建設地の「日比谷」は、「谷」の字の示す通り、地盤のきわめて悪い所。そのため建物全体は松杭で支えられていた。
今なら重要文化財に指定されて当然の建物だと考えられるが、戦後、地下水位の低下に伴い松杭の腐朽がすすみ、建物が波打つようになり、維持管理費を理由に、1970年の大阪万博を前にした1968年に解体されてしまった(エントランス~ロビー部分だけ「明治村」に移築されている)。
解体後今年で40年。したがって、いま40代以下の方は、実物をまったく観る機会がなかったことになる。

幸い、昭和47年(1972年)、明石信道氏による『旧帝国ホテルの実証的研究』(東光堂書店刊)が公刊された(340mm×265mm、総420頁の大型本)。
同書には、解体前に明石氏らにより実測作成された各部詳細図を含む実測図をはじめ、村井修氏撮影の各所各部の貴重な写真が掲載されており、往年の姿を一定程度知ることができる。

上掲の図と写真②~⑤は同書から転載。写真①は、同様の写真が同書にあるが見開きのためスキャンできず、二川幸夫氏の撮影写真を「フランク・ロイド・ライト全集 第四巻」から転載した。
なお、ロビー周辺の平面図の拡大にあたってはネガ・ポジ反転して作成した。こうすると、昔の「青図」のように、躯体ではなく、躯体により造成される「空間」が分りやすくなるからである。


当時、「帝国ホテル」と言えば、いわば敷居の高い場所。そう滅多に訪れることはない。まして若造には・・・。解体話が出始めていた頃、勇気を出して?友人と見学に訪れた。
敷地は日比谷通りを挟んで日比谷公園に面し、建物の正面入口は、公園側にとられている。
平面図で分るように、左右から張り出す「迎賓室」入口(平面図の26)の前を池に沿って歩き、ポルト・コシエ:porte-cochere 屋根つきの車寄せ:に到達する。車でのアクセスを考えているのかも知れない。

ライトのこの時代につくる建物には、「建築を業とする」という立場をはなれ、そしてまた「建築を観賞する」立場もはなれ、「普通の人:普通にホテルを使う人」の立場で接する必要がある。
何故かというと、とかく建築を業としたり、鑑賞する立場に立つと、どうしても、目の前にある個々の「もの」に目が行きがちだからである。
たとえば、帝国ホテルの場合では、各所の大谷石の装飾などに目が行ってしまう。

しかし、普通の一人の客としてホテルを訪ねるならば、それらそれぞれ個々にではなく、そういった「もの」たちによって生まれている空間そのもの:「自分を取り囲んでいる空間」を感じている筈だ。
これは写真を見る場合も同様で、どうしても目は写真画面の各所の「もの」に目が行ってしまうが、肝腎なのは、そういった「もの」で囲まれた空間を、写真から読み取ることだ。
これは、いかなる建物に接する場合にも共通の注意点だと思うが、とりわけライトの建物の場合は注意が必要ではないだろうか。

   註 先の書の写真を撮影した村井修氏は、先に紹介した
      前川國男設計の建物の撮影者でもある。
      村井氏については渡辺義雄氏の写真とともに以前に触れている
      (「建築写真・・・・何を撮るのか」参照)。
      このお二人は、「目の前に広がる空間」を撮ることにおいて
      きわめてすぐれた写真家である、と私は思う。
      残念ながら、最近の建築写真には「空間」を撮る例が少ない。
      設計者自身も、「もの」をつくることに《専念》する時代だから
      やむを得ないのかも知れないが・・・。
                             [文言修正 8.11]

「車寄せ」から三段階段を上がり建物内に入り、半円形の二段の登り階段を上がると、そこはエントランス・ホワイエ。両側にフロントがある(平面図の位置:6と標記:と異なる配置)。そして幅広の階段を数段、落差で1mほど上がるとロビー。
「車寄せ」から入口扉を開けたとき、たしか、ロビーの床面が見えたと思う。
エントランス・ホワイエからは、ロビーの床が確実に見える。そして天井は、ロビーの高みへと徐々に切り上がり、最後の階段を上がっている途中で、ロビーの大空間に飲み込まれる。
写真①は、ロビー床面の見え方から、エントランス・ホワイエに立ったときの目線の撮影と見てよいだろう(拡大平面図の①の矢印位置の貼り付けは誤り、エントランス・ホワイエ:階段の手前に置くのが正)。

つまり、人はきわめてスムーズに、外界からメインロビーへと誘われ、それとともに、「外界の人」から「ホテル内の人」へと、「気分」が切り替わる。
私は、そのとき、その絶妙さに呆気にとられたことを覚えている。
そしてそのとき、各所の大谷石による装飾などは目に入っていなかったことも覚えている(より正確に言えば、目には入っているが、その個々に目を奪われることはなかった、と言う方がよいだろう)。
この絶妙な空間感の切り替えは、主に、階段と天井高の微妙な切り替えによって生まれていると言えるだろう。天井の高さは、低い場合はおよそ8尺程度、この種の建物としてはかなり低い。
今回は断面図を紹介できないが、断面を見ると、階段と天井高の切り替え位置の微妙な設定が分る。

   註 この「微妙さ」「絶妙さ」は、
      ライトの「人の動き」に対する洞察の深さによるものと思われる。
      この「感性・感覚」は、A・アアルトに共通するものだ。
      なお、この「感性・感覚」は、日本の建物づくりにも見ることが
      できるように思う。それについては下記で触れた。
      「日本の建築技術の展開-16・・・・心象風景の造成・1」
      「日本の建築技術の展開-17・・・・心象風景の造成・その2」
      「日本の建築技術の展開-18・・・・心象風景の造成・その3」
      「日本の建築技術の展開-19・・・・心象風景の造成・その4」
      「日本の建築技術の展開-20・・・・心象風景の造成・その5」
      「日本の建築技術の展開-21・・・・心象風景の造成・その6」 

   註 帝国ホテル風に、あるいは大谷石をライト風の装飾に用いる
      設計がその後多々見られるが、空間に同化した例は少ない
      のではなかろうか。
  
   註 出入口を入って直ぐの半円形の階段は、それが登り階段だから
      上がりやすく、スムーズに足が動く。
      同じ半円形に「降りる階段」を設けた建物があった。
      これは実に怖かった。
      登るときも降りるときも、目線の行き場がなく(焦点が定まらず)、
      足の位置を定めにくいからのようだ。この設計者は、多分、
      平面図上の《面白さ》だけで階段を設計したに違いない。
      この階段には、「危険」を示す黄色のテープが段端に貼られていた。     

歩みを続けてロビーに出たとき、背後に別な空間の存在を意識させられる。
一つは、今歩んできたエントランス・ホワイエの上にかぶさっているティー・バルコニー、そして脇へと登る階段。
「階段があった」という言い方は正しくないだろう。「その空間へ行ってみたいな」という気分に誘われた、と言う方がいい。気分は前方に、しかし、後方へ行ってみてもいいかな、という感じである。そこで振り返ってみたら上る階段があった、ということ。それはラウンジへの誘いである。写真②がそれである。

そういう気分の創出に効いているのは、ロビーに背後から射しかかる明るさの微妙な状態と言えるだろう。
その誘いに誘われてラウンジに歩むと、そこはロビーとはまったく異なり、気分がゆったりと落ち着く静かな空間。この変容にも驚く。下のロビーの様子を感じながらも、ゆったりと落ち着いていられる。まさにラウンジという言葉の有する本来の意味通りの空間がそこにある。
これは、下のロビーの様子が感じられるからこそ生まれる気分。もしも下の様子がうかがえないとしたら、何でこんな場所に来てしまったのか、と思うに違いない。
つまり、ライトは、このすべてを「お見通し」で設計をしているのだ。

なお、写真②で、下へ降りる階段が見えるが、これは階下のトイレへゆく階段である。[説明追加 7.50]

そして、各部に施される「装飾」は、この「気分の変容」、「空間の変容」を感じさせるための「所作」と考えると理解できる。「装飾」そのものに意味があるわけではない、逆に言えば、「変容」を強調・促すために「装飾」の様態が考えられている、と言えるだろう。
写真③がラウンジの様子。ロビーをはじめ、ここに連なる空間を、すべて感じとることができる。

ラウンジから更に少し上がると、ティー・バルコニーとギャラリーへ至る。その様子が写真④、写真⑤。写真④はティー・バルコニー、写真⑤は、ギャラリーとのつながり。平面図と照合しつつ見ると、納得がゆく。
ここも、下に見えるロビーとは別の世界。しかし、下の世界と隔絶しているわけではない。
おそらく、こういうところが「有機的建築」という評語を生み出した所以であろう。


とにかく、この帝国ホテルの建物は、実際にそこへ行かないと、その実態・様態を理解することができない例の典型と言えるだろう(もっとも、建物というのは、本来、そういうものなのだ)。
ライトの建物は、図面や写真だけでは、想像力を駆使しないと、誤解をかならず生む、と言っても過言ではない。
同じことはA・アアルトの建物でも同じ。ただ、アアルトはライトのような「装飾」を施さないから、《写真映りだけを大事にする》人たちには、「目の行き場がなく」、その空間造成の妙が、さっぱり分らないのではなかろうか。


今、明治村に、帝国ホテルのほんの一部が移築されている。そこへ赴き、前後の空間の存在を想像で補いつつ、空間体験を試みれば、ライトの「設計思想」を、僅かではあるが、垣間見ることができるのではないだろうか。

なお、日本には、ライトの設計思想を知るすぐれた建物が現存している。その一つが遠藤新氏が設計した「甲子園ホテル」、現在の「武庫川女子大学 甲子園会館」である。遠藤新氏は、帝国ホテル建設にあたり、ライトの意志をうけ、現場を差配し、ライトの「設計思想」を熟知し、また受け継いだ人である。
この「甲子園ホテル」のロビー、ラウンジもすばらしい(公開されている)。
遠藤新氏の設計した建物には、このほかに、自由学園、栃木県真岡市の小学校講堂などが現存していて、それらからもライトの設計思想をうかがい知ることができる(「日本インテリへの反省・・・・遠藤新のことば」参照)。[文言補足 8.00]

   註 「自由学園明日館」の内部は、
      「F・Lライトの付け縁:trim-補足・・・・trimは何のため?」
      写真を紹介している。
      この建物でも、ライトの「装飾(付け縁を含む)」の「意味」、
      ライトの建物に対する考え方、設計の思想を見ることができる。
                        [註記追加 7月22日 10.53]

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続・設計の「思想」・・・・「京都駅」ビルは駅か?

2008-07-12 10:50:42 | 設計法
駅の話、駅の設計について書いたので、その続き。

新しい「京都駅」ができた翌年であったか、京都・奈良を訪ねる機会があった。
そのとき通過した新「京都駅ビル」には、真底驚いたことを覚えている。
この設計者は、「駅」という場所を何と心得ているのか、と思わざるを得なかったのである。

   註 新京都駅ビルについては、その高さや外観とかについて
      いろいろな「評論」がなされていたと思うが、その際、
      「駅」としての当否はまったく語られなかった、と記憶している。

上掲の図は、「JR時刻表」に掲載されている「京都駅構内図」である。説明のた
めに手を加えてある。

私はいつも、京都駅では地上レベルを使ってきた。バスを使うことが多いからだ(その昔は市電・・・・、市電の方が分りやすかった!)。
京都に着くと、大阪側にある跨線橋を渡って0番線ホームに降り、中央口の改札を出る。乗るときはこの逆。跨線橋が「近鉄京都線(奈良行)」へ直結しているからでもある。これがいつものパターン。

そこで、そのときもこのパターンをとった。
しかし、中央改札口を出て驚いた。乗降客の通る空間の幅がきわめて狭く、おまけに乗降客の流れをわざと妨げるかのように、人の流れに直交するエスカレータがある(上掲の図の赤い点線の円で囲んだ場所。改札を出た正面にあたる)。
つまり、駅など多数の人が利用するいわゆる公共の建物では必須のコンコースがないに等しい。
乗降客の流れに対して直交するということは、明らかに乗降客の流れとは無関係。このエスカレータは何のためにあるのだ?

先代の駅の場合では、中央改札の外側には大きな空間:コンコースが広がっていた。
先代の駅ビルは二階建て、二階に観光デパートが入っていた。観光デパートへの上がり口:階段は、広いコンコースの脇、乗降客の流れを乱さない位置にあった。これで十分役に立っていたのである。
先代の駅ビル設計者は、「駅」が分っていた、「建物の備えるべき根本的な要件」を知っていたのである。


端的に言えば、新駅ビルの設計者は、「駅の設計の基本要件」すなわち「乗降客のスムーズな流れの創出」とはまったく無縁な設計をしてしまったのだ。むしろ、わざわざスムーズな流れを乱すことに精を出している・・・・。

この建物は、競技設計であった。
ということは、この設計案・設計者を選んだ「審査委員会」自体、「駅の設計の基本要件」を「無視していた」、あるいは「考えなかった」、あるいは「知らなかった」と理解してよいだろう。


ところで、京都に暮す人に訊ねてみたところ、「近鉄京都線」を使わないかぎり、いつも、東京側にある「東地下通路」を使うのだそうである(図の青線の楕円で囲んだところ)。地下鉄にも便利だし、第一流れがスムーズだから、とのこと。納得!。

ちなみに、東京駅八重洲口も、かつてはきわめて分りやすかった。南、中央、北の3本のホーム下を通る通路を束ねる南北に広がる分りやすいコンコースがあったのである。今は、いろんなモノがコンコース内に設けられ、見通しも悪く分りにくくなった。つまりコンコースがなくなった。案内標識にたよるしかなくなった。それとて分りにくい。JR東日本と東海がいわば分捕り合戦をしているせいもあるかもしれない。
いずれにしろ、乗降客の流れや利便は、どこか遠くへ忘れ去られてしまっている。

   註 以前にも「建物の備えるべき根本的な要件」を忘れた設計について
      書いた。
      こういう「兆候」「症候」は、「現代病」の一種なのかもしれない。
      「道・・・・道に迷うのは何故?:人と空間の関係」参照。


なお、先代の京都駅ビル、かつての東京駅八重洲口は、先々代の旧版「建築設計資料集成」に平面図が載っているはずである。

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設計の「思想」・・・・「御茶ノ水」駅と「小竹向原」駅

2008-07-09 19:36:27 | 設計法
[文言更改 7月10日0.25][文言追加 7月10日0.43]

はなばなしく開業した地下鉄「副都心線」の「小竹向原」駅での「混乱」は相変わらず続いているらしい。
要は、その駅で、東武線、西武線そして地下鉄線が地下鉄「有楽町線」と「副都心線」とに分岐する、その分岐の仕方にあるらしい。言ってみれば、同一面上でポイントの切り替えでその分岐を差配しようという計画。

この期に及んでまだ地下鉄をつくること自体が私には不可解なのだが、それはさておき、こういう同一平面上で、ポイントの操作だけで列車の動きを操作する、という「設計」に、現代の設計「思想」を垣間見た気がした。

JR中央線には、快速線と緩行線(各駅停車)が並列で走っている。御茶ノ水で快速線:東京行と緩行線:千葉行とは分れる。

新宿駅のホームには、東京方に向って左側から番号がふられている。東京方面行の快速は一つのホームの両サイド7、8番線、高尾方面行は、これも一つのホームの両側11、12番線(間の9、10番は中央線の特急用)。
緩行線の千葉方面行は13番、同じホームの対面14番は山手線の内回り:渋谷・品川方面行、中野・三鷹方面行は16番で、その同じホームの対面15番線は山手線外回り:池袋方面行。

つまり、緩行千葉行で来て池袋方面に行く人は地下道または陸橋を渡って隣のホームに行かねばならないが、渋谷・品川へ行く人は同じホームの向かい側に歩くだけでよい。
また、緩行三鷹行で来た人が渋谷に行くには地下道または陸橋で隣りのホームへ行かなければならないが、池袋に行く人は同じホームの向かい側へ歩くだけ(もっとも、三鷹行で来て渋谷に行きたい人は、一駅前の代々木で乗り換えれば、同じホームの対面で済む)。
このようなことが行えるようにするためには、緩行線、山手線を、新宿駅の手前で立体交差させることが必要になる。東京方から新宿駅に近づくとき、その立体交差を見ることができる(注意して見ていないと、立体交差していることに気づかない)。

四ツ谷駅では、東京方に向って左に快速の往復が、右側に緩行線の往復が、それぞれ一つのホームを使って走っている。

ところが御茶ノ水駅では、快速東京行と緩行千葉行が同じホームの両側(左が快速)、快速高尾行と緩行三鷹行が同じホームを使う。
つまり、東京行で来た人が千葉方面に行くには、陸橋を渡らず同じホームの対面へ歩けばよく、同様に緩行三鷹行で来た人は、同じホームで快速高尾行に乗り換えることができる。
しかし、御茶ノ水駅でこのような形に分けられるためには、新宿駅同様、立体交差が必要となる。実際、御茶ノ水の手前と神田側で、そういう立体交差がある(これも注意して見ていないと気づかない)。

このような立体交差は、今でも難工事になるはず。しかし、乗降客にとっては、同じホームを歩くだけで済むならそれに越したことはない。本当の意味でのバリアフリー。

また、秋葉原駅の階段が、総武線と山手線、京浜東北線の乗り換えパターンに即したものになっているのも注目に値する。
当初(昭和初期)、秋葉原駅は、言ってみれば「乗り換えのための駅」。現在のように、地上が電気街になるなどは想定されていなかった。だから、乗り換えには便利だが、地上に降りる階段、経路がややこしい。

昭和初期の設計者・計画者は、乗降客の乗り換えのパターンを想定し、あえて面倒な立体交差まで計画して乗降客の利便第一に考えたのである。当時の設計者には、乗降客の存在が見えていたのだ。

これに対して副都心線「小竹向原」駅は、立体交差を使わず同一平面上の交差で、列車の行先をポイントの切り替えで行う設計のようだ。コンピュータ制御で十分こなせる、とでも考えたのだろう。しかし、下手をすれば、衝突も起きかねない。


御茶ノ水駅が現在の形になったのは、1932年(昭和7年)、両国停まりであった総武線が乗り入れたときの設計。
新宿方から中央線に乗って注意深くあたりを見てみると、神田川と崖に挟まれた狭い用地のなかで、この乗降客のスムーズな乗換えを意図した立体交差工事をものの見事にこなしていることが分る。

おそらく、今なら、乗り換えのためには乗降客に歩いてもらうことにして、このような計画は工費がかかるとして絶対にやらないだろう。
たとえば快速と緩行とが並走する常磐線の上野~取手間の場合、緩行と快速の乗り換えは、かならず地下道または陸橋を上り下りしなければならない。
常磐線の緩行、快速ができたのは比較的新しく、そこでは乗降客の利便よりも工事の「合理化」が優先されたのである。


もしも「副都心線」が昭和の初めに計画されたなら、「小竹向原」駅も、乗降パターンを想定し、立体交差も行って、運行が安全にスムーズに行え、しかも乗降客にとって分りやすく、乗り降りしやすい駅になるように計画したに違いない。
具体的には、「有楽町線」「副都心線」それぞれ専用の発着ホームを設け、それぞれへ「東武線」「西武線」が乗り入れる。当然、立体交差が必要。工費もかなり増えるだろう。
しかし、昭和初期の設計者なら、工費がかかったところで全体の工費からすれば微々たるもの、第一それは当然必要な工費・経費である、と考えたはずだからである。[文言更改 7月10日0.25]

どう考えても、現代の設計の「思想」には肝腎な点が抜け落ちている。
「小竹向原」駅で起きている混乱は、現代の「思想」の欠落を露にする「象徴的な事件」のように私には思えてならない。
そしてそれは、以前に紹介したように、鉄道敷設、鉄道経営が、当初の「周辺住民の利便のため」から、「儲ける手段」に変質したことと無関係ではない(「鉄道敷設の意味・その変遷-3・・・・《儲ける》ために鉄道を敷設する時代」参照)。
もしも利用者がいなければ、あるいは少なければ、新線敷設など考えるわけがないではないか。「利用者」は、「儲けるためのモノ」にすぎない。だからこそ、利用者の利便など、念頭におかれないのである。[文言追加 7月10日0.43]

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緩い斜面に建てる-3・・・・木造の長屋・その内部

2008-06-04 18:04:32 | 設計法
内部の様子を「竣工写真」から。
狭い室内は、なかなか素人写真ではうまく撮れないが、この場合はプロの撮影。それでも内部が狭いから、実際と若干感じが違う。

平面図に付した矢印・番号が撮影位置。
壁は原則、漆喰塗り真壁。
以前紹介のTo邸では、二階は小屋組表しだが、ここでは天井を張ってある。一階の居室部は根太天井(踏み天井)。

開口部は「外付けアルミサッシ+障子」。障子は柱間に納める。鴨居は「差鴨居」としている。サッシの色は白。アルミ地金の色にしたかったが、なかったので白とした。
これは、木部が経年変化で黒くなったときのことを考えたからである。黒くなったとき、普通木造建物に使われる茶色系のサッシだと、みすぼらしく見えてしまうようだ。白くすると、経年変化後でも、開口部がすっきりと見える。
もともと、アルミは木材とは異質なもの。アルミを木材色に似せてみても、その色は経年でも変化しない。つまり、年を経ると木部とそぐわなくなる。ならば、異質は異質として見せてしまった方がかえってよい、という判断。

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緩い斜面に建てる-2・・・・木造の長屋:その架構

2008-06-02 20:05:47 | 設計法

[図面改訂 6月3日 10.42、11.01][記述修正 6月3日 11.10][タイトル変更 6月3日 17.38]

緩い傾斜地面に大きな手を加えずに建てるためには、一戸あたりのおおよその間口を基に計算すると、各戸相互間に約20~25cm程度の段差を設ければよい。
一方、各戸を同一断面にして、その屋根勾配を2寸5分とし、建物のズレを3尺にすると、7.5寸の段差が生じる。これで配置してみると、敷地に納まる。それが、前回紹介の配置図。

今回紹介するのは、各戸の「各階平面図」と「標準矩計図」、および「戸境通り(図の「い」通り)の軸組図」。

架構は、以前に紹介した「棟持柱」形式(「続・日本の木造技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家」「棟持柱の試み・・・・To邸の設計」「棟持柱の試み・補足・・・・To邸設計図抜粋」)を採っている。

上掲の矩計図は、上掲平面図の一戸手前の住戸の矩計。軸組図は、その戸境壁(「い」通り)の軸組。
棟通り(図の六通り)を「通し柱」として、「床梁」「小屋梁」を「通し柱」の両側に出し、管柱で支える(上掲平面図では、棟通りは「七」通りになる)。
左右(南北)に延びる「床梁」「小屋梁」は、「通し柱」で「雇い小根ほぞ差しシャチ栓継ぎ」。同一位置で直交する東西方向の梁(桁)も同様「雇い小根ほぞ差しシャチ栓継ぎ」で通し柱に納める。

厄介だったのは、戸境の軸組(「い」通り軸組図参照)。
図のように、複雑になっている。ただ、この部分以外は、きわめてスムーズに仕事は進んだ記憶がある。

このような「棟持柱」形式は、ことによると現在は、、隅柱を通し柱にせよ、という「建築基準法」の規定に違反するとして、認めてくれないのかもしれない・・・。

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緩い斜面に建てる-1・・・・木造の長屋

2008-05-31 02:04:53 | 設計法

[記述全面改訂 10.19][タイトル変更 6月3日 17.35]

もう大分前になるが(1991年の竣工)、上州・妙義山の麓の緩い傾斜地に、木造の二階建て長屋:集合住宅:を設計したことがある。ある会社の社宅である。

緩い傾斜の場合は、敷地を整地して平坦にするのが一般の方法だろう。
しかし、そうすると、かならず盛り土の部分が生じ、擁壁も必要になる。
そこで、この設計では、敷地が傾斜に沿って細長いことを利用し、既存地形:地面には一切手を加えず(勾配を維持し)、勾配を建物自体で吸収する方法をとった。

各戸は同一平面・同一断面。屋根は切妻。
建物は三棟に分けてあるが、配置図:屋根伏図のように(図の上が南)、東側の二棟は、南側の屋根面を同一面上にそろえ、一戸ごと建物をずらし、床面:基礎面を西へ行くにつれ高くすることで、地面の勾配を吸収する。西側の一棟では、逆に北側の屋根面を同一面にそろえ、同様に床面は一戸ずつ高くなってゆく。

屋根の片面を同一面にそろえたのは、雨水の処理上、なるべく屋根に段差を設けたくなかったから。

この敷地は、もとは桑畑。もちろん、均一な勾配ではなく、緩いところも急なところもあるが、全体としてはほぼ一定の勾配と見なして問題はなく、建物床面=基礎の高さに段差を設けることで敷地勾配を吸収することが可能と判断した。
屋根勾配を決め、計算の結果、各戸の「ずれ」を3尺にすることで、敷地内に問題なく納めることができた(西側の棟だけ、北側屋根面を同一面にそろえたのは、配置上の算段である)。
言うなれば、擁壁を設けて平坦地をつくるのではなく、各戸の基礎が擁壁の代りをしている。

上段の写真は、北側俯瞰(背後は妙義山)および建物北側全景。
二段目の写真は、左が建物北面に生まれる「ずれ」と段差、次は北面詳細、右は南面。


次回は、建物そのものを図面とともに紹介の予定。
建物は、例のごとく「差鴨居」を使う工法。ただし、内部は真壁表しだが、外壁は写真のようにサイディング張り。

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