建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

「第Ⅳ章ー2ー1,2 園城寺光浄院 勧学院 客殿」 日本の木造建築工法の展開

2019-08-07 13:10:11 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「第Ⅳ章-2-1,2 園城寺 光浄院, 勧学院」A4版8頁

 

Ⅳ-2 近世の典型-2:客殿(きゃくでん)建築そして書院造・・・・方丈建築の変形

 世情が安定すると、諸寺院に客殿建築をつくる例が増えてきます。寺院内に設けられる接客を旨とする建物で、中世以来の方丈建築同様、外壁部・間仕切は壁ではなく、ほとんどが開口装置です。

 建物は、外観・形および架構法は禅宗寺院の塔頭:方丈建築に類似しますが、玄関部を本体の屋根に一体に取込むようになります(中門廊と称す)。

 しかし、最奥に構える当主に客が伺候(しこう)するという動きに対応するため、空間の利用法が方丈建築とは大きく異なる点が注目されます。すなわち、方丈建築では、建物南面に配した玄関を上り広縁→上控の間→広縁→方丈(室中)という経路をたどる、つまり南側広縁から正面に向うのに対して、客殿では、玄関を建物側面に置き(多くは東面。玄関を示すのは階段と唐破風のみで唐突な感じがあります)、そこから控の間→次の間→上座の間上段の間へと建物内を横に貫通する動き採るようになります。 

 また、多くの場合、上座の間には押板(おしいた)(床の間の前身)、違い棚が設けられます。

 このような空間内に上・下を明確に区別するつくりは、身分関係:地位の上下関係を重視する武士階級の意に合うこととなり、武家の屋敷内あるいは住居には同様のつくりの接客空間がつくられ、場合によると上座の床面を次の間よりも一段上げることも行なわれます。

 このような、いわば堅苦しい空間で行なわれる接客・面会の気分をほぐすために、後にはそれ専用の場:茶室茶庭を別途に設けることも行なわれます。

 註 このような空間形式のつくりは、一般に書院造と呼ばれますが、武士の住居にも大きな影響を与え、明治以降は、都市に移住した旧武士階級の住居:都市住宅:にも影響が見られます。

 以下に、客殿建築書院造の代表事例を見てゆきます。

 

1.園城寺(おんじょうじ) 光浄院(こうじょういん) 客殿 1601年(慶長6年)建立  所在:滋賀県 大津市 園城寺町

 園城寺は、天台宗の寺院、通称三井寺(みいでら)(三井の晩鐘などで有名)。

 寺内にあるこの建物は、書院造の典型原型と言われている。

園城寺 光浄院 位置  図の印が光浄院  南西に伸びる水路は京都への琵琶湖疏水   国土地理院1/5万地形図より

 

配置図   西澤文隆実測図集 日本の建築と庭 より 

図の上方(北)の建物が庫裏(くり)、下方(南)が接客専用の建物 光浄院客殿。 

 

東南からの全景 手前が中門廊 右側の階段が玄関  原色日本の美術12城と書院より  

 

    

東面全景 唐破風・階段のところが玄関      日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

 上段の間 日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

上座の間 正面   日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより転載・編集

 

 光浄院客殿では、上座の間から広縁に飛び出した小室を上段の間と呼んでいる。この場所を書院書斎にあたる)と言う。

 一般には上座の間上段の間と呼び、広縁側への飛び出しは、出窓様のつくりで済ますことが多い。その場合を付書院(つけしょいん)と呼ぶ。

 

 

桁行断面図 印は  小屋貫は表示せず   ではなく化粧桁化粧肘木上)ただし同様の働き

 

 

平面図 基準柱間 芯~芯6尺5寸2分  平面図・断面図共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより転載・編集 

 訪問者は、玄関~玄関の間(六畳)~次の間~上座の間へと進む。西側以外に壁はなく、間仕切も含め、すべて開口装置。 六畳の間を、鞘の間(さやのま)と記してある図もある。

 

 

梁行断面図 印は  ではなく化粧桁化粧肘木上) ただし広縁部は化粧貫 いずれも同様の働き 

 

広縁の西端につくられた上段の間の突き出し 

 

 

 広縁東端の中門廊 板戸の左手が六畳玄関の間:鞘の間)  写真は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

矩計図は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

参考 匠明(しょうめい)の示す書院造の諸寸法の決め方      伊藤要太郎 著  匠明五巻考(鹿島出版会)より

 

 匠明は、現存する江戸時代の木割書の一つ、江戸幕府に仕えた棟梁平内(へいのうち)家に伝わる1608年に書かれた書。

上図は、そのなかの主殿:殿舎の諸寸法の決め方を図示したもの。基準を柱径aとして、他の材の寸法を含め、諸寸法を決める。

      

しかし、この指示どおりの事例はない。また、この指示寸法で設計すると、異様な姿になる。実在の事例では、後出の表のような数値になっている。

 

                       写真・図は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

  

室内床面との段差切り替えに設けられる材を切目長押(きりめなげし)と呼ぶ。 建具は、外側の切目長押~内法付長押間に蔀戸、内側は、敷居~内法付け長押間に明り障子を入れる。付樋端(つけひばた)。なお、この明り障子は、見込1寸強を二分し、一本の溝内で引き違いにしている。

 

参考 方丈、客殿、書院造 諸事例の柱間と柱および内法貫の寸法 

 

 

 

2.園城寺 勧学院 客殿 1600年(建長5年)建立  所在:滋賀県 大津市 園城寺町

 園城寺の学問所:教場として建てられた。三の間~天狗の間の列が客殿の役を担う。天狗の間付書院押板がある。

平面図 基準柱間 芯~芯6尺5寸1分   平面図・断面図・モノクロ写真は日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

梁行断面図 広縁~二の間の断面 

 

 

広縁を望む 右手の突き出した部分が中門廊 書院はない    

    

東南からの全景 右手階段部が玄関           カラー写真は原色日本の美術12 城と書院より

 

中門廊から見た広縁 入隅の柱を抜いている  小壁の中段の横材は化粧貫 

 

二の間より一の間 正面  押板だけ、違い棚付書院は設けていない  付長押の裏側に貫              

 

竜銀庵方丈など方丈建築と同じ架構法であることが分る。

 

桁行断面図 天狗間~東広縁の断面            日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 


「第Ⅳ章ー1-3 犬山城, 参考 彦根城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-25 15:47:16 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー1-3, 参考」


3.犬山城  二層までは1602年(慶長7年)、三・四層は1620年(元和6年)  所在 愛知県 犬山市

                           日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

 二層までは、丸岡城松本城とともに、戦国時代、実際に戦闘のために使われた城郭の遺構。 

 木曽川の南岸にあり、穀倉地帯を一望にする場所に構えられている。地図印。 この点は、丸岡城松本城などに共通する城郭建築の立地条件である。

 国土地理院1/20万地形図より転載・編集

 

1)各階 平面図   単位 m

日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより転載・編集

 2)断面図  単位 m 

  

日本建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより転載・編集

 

3)矩計図  矩計図は、前頁の黄色枠内を示す 単位 m

 

天守一階 南側部分 鴨居は差口で納まる:差鴨居 右奥は上段の間              上段の間内部 付長押がまわる

 

 1階・2階部分矩計

 

 ここでも外観は寺院建築にならっているが、内部は当時の民間のつくりかたに拠っているものと考えられる。

地下2階・地下1階部分矩計

 

 

参考 彦根城  1604年(慶長9年)~1606年(慶長11年) 所在 滋賀県彦根市

西からの遠景      日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 徳川が論功行賞として井伊氏に与えた城であるため、戦国期の城とは異なり、権威の象徴としての城郭建築

他の城郭同様、外観は上層の工法、内部は一般の工法を用いている。     

  平面図 上から 天守三階 二階 一階 

               

 

断面図 上:桁行(南北) 下:梁行(東西)  平面・断面図・写真共に建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

  

 

天守一階 階段まわり  梁行断面参照 付長押をまわす                  天守三階 付長押をまわしている


(「第Ⅳ章-1-参考 姫路城」に続きます。)


「第Ⅳ章-1-参考 姫路城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-25 15:46:45 | 「日本の木造建築工法の展開」

 (第Ⅳ章ー1-3」より続きます。)

 

参考 姫路城   所在 兵庫県 姫路市

 1346年(正平2年)赤松氏により築城。 1580年(天正8年)秀吉により改造。 1601年~1609年(慶長6~14年)池田輝政により現状天守群完成。

 

建築史基礎資料集成城郭十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 現在の天守群は、戦乱期の姿ではないが、城郭建築の原則:防御・篭城の場所を築く:は遵守している。

 断面図のRC部分は解体修理の際の後補。

 

 

 菱の門から天守へ向う経路は、屈折が激しく、まわりの状況から判断して歩を進めると行き止まりになり、しかも末広がりの広場状で行き止まる、などと言う場所もある。天守へ向う多勢の人間が、進んで来た方へ引き返す際には末広がりを逆にたどることになるため時間がかかる。そこを城から襲撃する・・という計画も防御のための一手法。もっとも、姫路城が戦闘の場になったことはない。

 城を計画した人物は、人は常にまわりの状況を判断して歩を進める、次の行動に移る、一人のとき、大勢のときでは行動が異なる・・などについて、熟知していたことになる。通常の行動の裏をかけば城の基本ができる。そういう観点で配置を観ると、興味深い。

 このような感覚・感性を、当時の人たちは、工人、一般の人を問わず、持ち合わせていた。戦国時代を中心に生まれる方丈書院茶室などのつくりかたにそれが表われている。方丈書院茶室などは、「人の行動に対する理解」を真っ当に具現化した例であり、その逆の発想でつくられたのが城郭建築である。 

 

 ろの門からはの門 へのアクセス  原色日本の美術 12 城と書院 より

 

姫路城の架構についての解説  

 日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ より抜粋 この解説は、土台、通し柱、差口による横架材:差物・飛貫、貫・・による架構の一般的な解説として通用する。)

 ・・・・構造面からみると大天守は南北の中心線上に、東西相対して並べた二本の大柱を基本として組立てられている。

 東大柱は礎石上で径がほぼ一メートルあり、地下から六階の床下にまで達する通し柱である。西大柱も同様な太さで、同じく六階の床にまで達しているが、東大柱と違い三階床の位置で継がれている。 両大柱は各階とも周囲の繋梁で繋がれ一体化されている。

 第二次大戦後の修理において、この途中で継がれた西大柱を新材にかえる予定で、その用材を木曾に求めたが、輸送の途中で事故のため折れてしまった。

 したがって、西大柱は再び途中で継がれることになったが、『修理工事報告書』によると、東西両大柱が周囲と繋梁で固められるので、六階床までの通し柱が二本立っている場合には、組み上げて行くとき、作業が困難になるとのことである。

 三階床で西大柱が継がれていたことと、全体の構造が三階で上下に別れていることとの間には構造上の関係があったのではないかと考えられる。  

 東西の大柱のほかには、架構全体を通すようなはないが、二階あるいは三階分を通して全体の構造を一体化する役割を果しているが数多くみられる。それらは大別して地階から二階(三階床下)までに入れられているものと、四階から六階に及ぶものとに分かれる

 地階から二階への通し柱は、母屋廻りおよび外廻りにあり、中庭に面する北側外廻りでは地階から二階まで、母屋廻りでは地階から一階、一階から二階の二種、また、地階のない石垣上にあたる外廻り部分では一階から二階にかけて、通し柱を用いている。 これらの通し柱は、地階から二階までを一体化するのに役立っている。

 一方、上方では四階から五階、五階から六階の、いずれも外廻りに、通し柱が用いられている。これらは、四・五・六階を一体化する役割を果している。

 しかし、三階の部分は上方下方いずれからも両大柱以外に通し柱はなく、すべて管柱である。三階をはさんで上下の構造は別々で、二本の大柱が繋ぎの役割を果している。・・・

註  城郭の部材は大寸であるが、近世の住居(二階建て商家)では、4.3寸角程度の柱で同様の工法が採用されている。

補足 同書所載の詳細図から判定すると、大柱以外は、通し柱管柱とも、1尺2寸角程度である。 は厚2~2.5寸、丈5~10寸。は大寸もので17寸×12寸。

  

 以上のように、当初の城郭建築は、領地の支配・防御という目的を持つ建物・拠点を、できる限り短時日でつくり上げることに力点が置かれています。

 丸岡城において見られた掘立柱の利用や、多くの城郭で使われている土台の利用も、その一つの表れとみることができます。

 また、天守を可能な限り高くするために設けられた天守台の築造では、石積みの技法を含め、人工による地盤の造成の技術にも大きな進展を促しました。 

 とりわけ、土台の利用は、礎石建ての最大の難題である寸法の決定を格段に容易にしました。

 各地の城郭を見ると、土台は必ずしも水平に設置されているわけではありませんが、土台が斜めに設置されている場合でも、土台天端からの梁・桁までの寸法の決定は、個々が礎石建ての採寸よりも簡単であることには変りありません。 土台は工事を急ぐ城郭建築で生まれたと考えられているのも無理がありません。

 土台の利用とともに、城郭建築では、通し柱差物飛貫差鴨居のように差口で取付けられる横材:の利用が目に付きます。いったん一組の通し柱差物などで梯子型に組み上がれば、それを定規にして、以後の組立の進行が容易になり、しかも架構が揺るぎないものになるからです。

 鹿苑寺 金閣のように、多くの場合、通し柱は建物の四周に使用しますが(隅柱だけではありません)、城郭建築では、四周に限らず要所を通し柱にする事例が増えてきます(たとえば丸岡城では隅柱だけが通し柱ですが、松本城では外周母屋との境の柱を通し柱としています)。

 これは、架構の自立性を強化することで工事中の支保工などの仮設工事を簡略化でき、結果として建て方時の工程が短縮できることを意図したものと考えられます。

 このような計画が可能であったということは、工人たちは、構想時点において、全体の姿はもちろん、その施工手順まで頭に描いていることを意味します。

 それは、工人たちが仕事を進めるにあたって描いた指図(さしず)建地割図(たてちわりず)板図などに示されています。

  

天守建地割 平図  古図に見る日本の建築 国立歴史民俗博物館編集 至文堂発行 より


 

宝永度後桜町院御所建地割図 (部分) 古図に見る日本の建築 国立歴史民俗博物館編集 至文堂発行 より

 

 上の図はその一つで、「天守建地割」は三重三階の天守建地割図です。図の右肩に書かれている中西元雅とは、17世紀末~18世紀初頭にかけて奈良・興福寺の堂塔の造営にかかわった興福寺大工とのことです。どこの天守であるかは不明ですが、奈良近在の城郭と思われます。図の右半分は立面、左半分は断面を表しています。断面には、普通、寺院建築では見えがかりには使われない枘差し鼻栓打ちが描かれています。これは一般では普通に使われる仕口ですから、城郭建築では、一般、上層を問わず、有用な技法が適宜に使われていたことを示していると言えます。

 下の図は、時代がさらに下った18世紀末の後桜町院御所の造営に使われた矩計図の部分。全長8m、幅45cm、礎石から軒桁まで詳細に描かれています。

 図の表側には礎石天端を基準に2丈4尺まで1尺ごとの目盛と、3間半まで半間ごとに目盛が打たれています(1間は6尺5寸)。 この図を基に尺杖をつくり施工に使用したようです。

 

 これらの図は、現在の設計図で言えば施工図にあたると言ってよく、その図で仕事を進めることができる、言い換えれば、仕事に必要な情報がすべて表記されている言ってよいでしょう。 

 


「第Ⅳ章-1-1 丸岡城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-13 16:29:33 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー1-1,2」A4版13頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ  近世ー1」 

 ・・・・我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある「まとまり」として先ずとらえ、部分はそのある「まとまり」の一部としてのみとらえられるとする考え方すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する・・・。    ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)

 

・・・・私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。

言葉で示すことは把握することではない。・・・・・・・言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。

おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの 意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)

 

主な参考資料  原則として図版に引用資料名を記してあります。

日本建築史図集(彰国社) 日本住宅史図集(理工図書) 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版) 修理工事報告書  日本の美術 (至文堂) 原色 日本の美術(小学館)      

 

Ⅳ-1 近世の典型-1:城郭建築・・・上層階級と庶民の技術の融合

 室町時代:1392年(明徳3年)~1573年(天正1年)  安土桃山時代:1573年(天正1年)~1603年(慶長8年) 

 室町時代を前・中・後期に分け、後期(1528年~)を戦国時代と呼び、近世に含める分け方もありますが、ここでは、室町時代までを中世安土桃山時代以降を近世として扱うことにします。

 多層工法の例として、室町時代の後期:戦国時代になり各地に生れた城郭建築のうち、現存する2事例を簡単に紹介しました。 城郭建築は、各地域の武士が領地拡大を競って群雄割拠し、その拠点として築いた建物です。それゆえ、当初の城郭建築は、実用に徹しています。すなわち、自らの領地全域を見渡せ、万一の場合には籠って防戦できる、そういう建物を、極力早く築き上げることが求められました。その一例が、土台と通し柱、差物(飛貫)の活用です。

 また、その工事には、それまで武士と係わりがあった工人たちだけではなく、支配地域の一般の人びとの間で仕事をしてきた工人:民間の工人たちも重用されます。それゆえ、城郭建築には、一般の住居などの架構技術(粗い加工の木材で、柱、梁差物飛貫)、を一体に組み、そのまま仕上げとする)と、上層階級の架構技術(整えた木材で、二重屋根桔木を用い、張り天井付長押などで空間を整える)が適宜用いられた、と考えられる点が多く見られます

 そのような視点で、代表的な城郭建築を詳しく見てみます。

 

1.丸岡城 1576年(天正4年) 所在 福井県 坂井市 丸岡町 霞

  

 現存最古の城郭建築遺構。所在は地図上印箇所。九頭竜川北岸の平野一帯を望む標高17mほどの丘陵上に天守台を築き、建つ。 (地図は国土地理院発行20万分の1地形図より)

 信長の下で、柴田勝家による築城。明治維新に際し、天守以外ほとんど取り壊された。明治年間まで、数回の修理が行われている。安政地震で鯱が落下。福井地震では天守台が緩み、倒壊。

 

▽  北からの遠望                写真は日本基礎資料集成十四 城郭Ⅰより

 

1)各階平面図 単位 尺、 天守は三層。一層の上にニ、三層が載る形をとる。 二層、三層は同一形状。

 平面図は、下から一層、二層、三層。図中の各柱まわりの数字は、柱の大きさを示す。基準柱間:6尺3寸。

 

                    日本建築史基礎資料集成十四 城郭Ⅰより転載・編集

  

 一層は、黄色枠内の母屋と、それを囲むからなる。黄色枠内の母屋の柱はすべて、印以外、当初は掘立柱だった。

 掘立柱は、石垣で築かれた天守台天端面から下約3尺3寸の土中に礎石を据え、を立て、厚板で根巻をして漆喰を塗っていた。ある時期に、根元を切断し、地盤上の礎石建てに替えている。庇部は、石垣上に土台をまわし、柱を立てている。

 〇印を付したは、礎石建てに変更した後、二層・三層を受けるために追加された補強柱。この柱は、両脇の柱の礎石上に土台を渡してその上に立つ。二層三層は、四隅の通し柱

 天守台天端面が糸巻状の形(中央部が凹んでいる)ため、他の城郭とは異なり、土台は石垣上には設けられず、別個に礎石を据えている。そのため、石垣と土台の隙間を塞ぐために、土台水切小屋根を付けている。

 

 

2)断面図  単位 尺、   桁行(西~東)断面図、 梁行(南~北)断面図

建て方の手順  ① 一層の中央部の東西方向の掘立ての柱列に飛貫を通し、大桁を架ける。

  ② 大桁の上に、直交して、母屋部の南側および北側の掘立柱を結ぶを架ける。

  ③ ②で架けたに直交して二層、三層の南側および北側の柱列を受けるを架ける。四隅はし柱。

写真で分るように、内部は農家あるいは商家同様のつくりとし、外部は二重屋根桔木を用いている。

                                    日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

  

天守 二層内部 北~南面を見る(梁行断面図参照)        天守 三層内部 東~南面を見る(梁行断面図参照)

  

天守一階 北~東面を見る                      天守一階 東~南面を見る 

 天守一階 南~西面を見る                                 カラー写真は、高村幸絵氏 撮影提供による。

 床梁下に取付けられた横材が目をひく。両脇の差口で取付く。飛貫と言うべきか。 差口:一材が他材に差さる状態を総称

          

3)矩計図  単位 尺 

  

 東南側から見上げ   原色 日本の美術 城と書院 より      

 石垣の天端が糸巻状のため、一層部の土台と石垣の間にできた隙間を、土台から掛けた板葺きの小屋根で塞いでいる。 南面(写真の左側の面)では、板屋根が石垣の外側に飛び出している。

 矩計図礎石建てに変更後の図)  日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 諸種の技法が、混合して使われている。

 外観を形づくるために、寺院で多用された二重屋根:桔木が使われているが(図の部)、二重にしているのは外側の軒裏部分のみ。内部では、化粧垂木野屋根とも表し。

 全般に、屋内は部材すべて表しの一般の人びと:民間の建屋の工法で、図の部の付長押など、部分的に上層の建屋のつくりかたが唐突に付加されている(三層内部写真参照)。

 図の部の下段の横材は、飛貫、差物・差鴨居と同じ役を担っている(桁行断面図参照)。民間の工法の援用と考えられる。

 図の部は、数段通したを表しの小壁。柱径が7寸前後ゆえ、は5寸×2.3寸程度。このようにを表しで使うのは、一般ではあたりまえな使い方。

 礎石建ては後補。当初は掘立て。 大引足固を兼ねる。

 柱、梁・桁、貫(差物)で組んだ架構は自立し、壁の位置は任意。

 

(「第Ⅳ章-1-2 松本城」に続きます。) 


「第Ⅳ章ー1-2 松本城」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-13 16:29:05 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「第Ⅳ章-1-1」より続きます。) 

 

 2.松本城  着工1594年(文禄3年)竣工1597年(慶長2年) 所在 松本市 丸の内

 

東側からの遠望 背後は松本平北アルプス          建物は、外観は五重、内部は6階

 東面 近景

日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 松本、塩尻周辺は、古来、肥沃な土地が広がるとともに、交通の要衝の地でもあった(東山道北国街道などが、この地を通過する)。

 松本は、北へ下る幅10km内外の平野:松本平、安曇野の東に位置し、したがって、松本城は平地に天守台を築く平城である。右図の〇印。

  国土地理院発行20万分の1地形図より 

 

 室町時代は小笠原氏、以後、武田、木曾、そして小笠原氏へとめまぐるしく領主が変り、1590年(天正18年)以降、石川和正が治めることになる。

 松本城は石川氏による築城で、その下で松本城下町の整備・拡張も並行して行なわれている。

 

1)土台の支持法 杭に代る支持柱の埋め込み

 

 図は、右手が北                   日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 松本城は、平城であるため、天守台天守を築く地盤:は、平地に石垣を築き、盛り土をしてつくっている。

 不安定な盛り土面上に天守を築くために、既存地盤上に建物の土台を支える支持柱を16本立てている(上図の印)。 その上に組まれる土台を受ける礎石が、上図のように、別途、築かれた天守台上に据えられている。

 既存地盤に建つ支持柱は、長さ4.95m(約16尺)内外、径38cm(約1尺2~3寸)程度のツガ(栂)の丸太。

 土台は、支持柱の柱頭の枘に取付く。支持柱相互は、柱のほぼ中央部で、径33cmの丸太の差物で結ばれていた(支持柱枘差し)。

 つまり、石垣内部に土台支持柱を組み、石垣を積みながら内部に土を充填しつつ、土台支持柱を埋め立てる方法が採られたきわめて珍しい工法である。

 

2)各階 平面図(含 基礎伏図、土台伏図)  図は左:南右:北  天守(いぬい)小天守では、階が異なる。   日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

 日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより

 

3)矩計図-1 天守 一階・二階    平面図-3対応) 各図共通事項  単位 尺 

 天守は、二階建てを三層積む方法を採っている。 各矩計図は、断面図の橙色枠内を表示。 図中の羽子板ボルト等は、解体修理時になされた補強。

  

 一階、二階では、外周母屋庇部の境の柱が通し柱の厚さは柱径の30%程度。

  矩計図

                断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 矩計図 着色部分:土塗壁 外部:各部塗篭 内部:真壁 垂木~垂木間の軒天井部も塗篭。 軒天部の小舞垂木上全面に通して設けている(図参照)。

 各層(1・2階、3・4階、5・6階)共通床梁は、各階とも格子状に組む。各方向とも、通し柱頭部には、折置。中途階では、通し柱枘差とし、鼻(端)栓またはシャチ継。 交差部は相欠きまたは渡腮。 は2~3間ものを柱上で継ぐ。継手台持継

 

 4)矩計図―2 天守 三階・四階 平面図-5,6対応)

三階 南西を見る   柱列は、通し柱。 床梁(四階床)は各方向とも、柱に枘差。  写真のように鼻(端)栓で納めるほかに、シャチ継も併用されていると考えられる。

               写真・断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載、図は編集

 この図の柱2本は通し柱。 五階の断面は、飛び出している部分を描いている。  

 4階、5階、6階は、居住空間としているため、付長押を設けている。

 3階床を受けるは、柱上で台持継で継がれる。そのうち、上階柱位置にあたる箇所には、肘木を設ける。 

 床板の継目には、下から目板を打っている。

 

5)矩計図-3 天守 五階 平面図-7対応)

 矩計図は、突き出しのない部分。

 五階、六階は、南・北面の通し柱平面図ー7,8参照)

                         断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 

6)矩計図ー4 天守 六階 平面図ー8対応)

 

 

 六階では、野屋根も表し(矩計図に見える軒先ボルトは修理時の補強)。

 

                        断面図・矩計図共に日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集

 

 矩計図のように、建物は各所を分厚い土壁で塗り篭めているが、土壁部は目的・用に応じて任意に設けられている。 このことは、建物は基本的に架構そのもので自立していて、土壁部には依存していないことを示している。 これは、他の城郭にも共通している。

 


「第Ⅲ章-4-2 箱木家」 日本の木造建築工法の展開

2019-07-01 16:42:00 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー4-2」A4版5頁

 

2.箱木家  室町時代後半     所在 神戸市 北区 山田町衝原(つくはら) 移築保存

  箱木家は、主屋と離れが近接して建てられている。

 修理時の調査で、離れ部を右90度回転して2棟を合体、増築して1棟としていたことが分った。ここでは、主屋部を採りあげる。 

 

 

 修理時点平面図        平面図・断面図は重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より転載、断面図は編集

 

 

 

 復元 平面図

 

 箱木家のある山田町衝原(つくはら)一帯は、六甲山系の北側に位置し、中世の摂津山田庄にあたり、ここには、ほかにも多くの千年家と呼ばれる住居があった。 その理由は不詳であるが、山陽道の脇街道が通り、交通の要衝として栄えていたことも、一つの因と考えられる。

 箱木家は、ダム工事により、近在別敷地への移築保存の形を採った。

 主屋は、古井家同様、上屋+下屋の構成で、下屋まわり土塗り大壁で囲われていたと推定された。 ただ、南面の下屋は縁になっている。

 

主屋 復元 平面図

 

 

 

主屋 復元 桁行断面図 なんど~だいどこ~にわ      色塗り部分は貫

 

 古井家では足固貫内法貫が主体で、土間部の桁行棟通りのみに飛貫を設けているが、箱木家では、内法貫は設けず、足固貫飛貫だけである。 特に、飛貫は、梁行桁行のほぼ各通りに入れているのが注目される。

 

  

 修理時 南面                        修理時 北面

   

 復元後 南面         日本の民家3 農家より    復元後 東~北面

 

 修理時点には、大きく改造されて、下屋まわり四周の土塗り大壁部はすべて消失し、を含め当初材はなかった。

 移築保存で建物の撤去後、発掘調査が行われた結果、下屋まわりの礎石土壁基底部の一部(縦小舞の痕跡)が発見され、その結果、壁の仕様が特定された。

壁の仕様(前出の古井家の壁仕様参照)

 古井家と同じく、縦小舞:径2.5cm内外の粗朶(そだ)に、横小舞:同じく粗朶小舞縦小舞に絡め、土を塗り篭める方法。したがって、下屋柱相互を縫うはなかったものと考えられる。

 

 △ 復元後 南面部分  

 

 梁行断面図 おもて~だいどこ 

 梁行断面図 にわ部分    断面図とモノクロ写真は重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より

 

復元後の内部写真  重要文化財 箱木家住宅(千年家)修理工事報告書より転載・編集(文字は編集)

にわ上部の小屋架構 全般に、材寸は古井家よりも太めである。 

 

にわからだいどこを見る   飛貫側柱にも設けている。

 

材料および材寸  箱木家住宅修理工事報告書には、材寸については、下記材料以外、記述がない。

:マツ  上屋柱 14.7㎝~16.2㎝各角、面取り 目標寸法は5寸角か? 下屋柱 当初柱消失 復元では12.0㎝角

梁・桁:マツ  上屋梁 約15㎝×17.0㎝程度直材、および丸太  上屋桁 記述なし 渡腮  柱~梁~桁:折置組、柱頭重枘差し 

:マツ  足固貫 詳細記述なし 当初柱の貫孔:12.1㎝×6.0㎝、胴付枘差しとあるので、12.1㎝×7.0~7.5㎝程度か?   飛貫 詳細記述なし 当初柱の貫孔:12.1㎝×6.0㎝、梁行方向は柱に胴付枘差しとあり、12.1㎝×7.0~7.5㎝程度か?  他は貫孔と同寸とあり、12.1㎝×6.0㎝程度、継手は柱内略鎌相欠き)。  

付長押:マツ 見付 平均3.8寸  他の材の材寸は、写真上で、柱、小屋梁との比較により、推定するしかない。

 なお、報告書掲載の現状変更説明書では、飛貫内法貫と表記している(近世住居の用語によったため、との註釈がある)。

 

おもて南面

床~鴨居下端:約5尺  付長押は、飛貫鴨居とは独立して別個に取付けられている。

の位置が開口部上端:鴨居とは離れていることから、内法貫ではなく飛貫と呼ぶのが適切。 を隠さない点が、方丈建築との大きな違い。 住居建築でも、近世には、飛貫は用いられず、鴨居レベルに内法貫を入れるようになる。

おもて北面

付長押上の壁は割り竹張り内部に飛貫が通る。割り竹張りの理由は不明。


  南側 縁部分

 

 箱木家では、写真のように、下屋部上屋部とを繋ぐ材は、足固垂木だけである点に留意する必要がある。古井家では、内法貫上屋柱下屋柱を繋いでいる。

 下屋まわり四周の土塗り大壁部はすべて消失し、を含め当初材はなかったにもかかわらず、このように復元した理由は報告書に記述はない。

 おそらく、飛貫位置が下屋の桁位置より高いため、繋ぎはない、と判断したものと推測される。上屋柱に当初柱が少なく、繋ぎ材の確認ができなかったことも一因と思われる。 下屋まわりの復元にあたっては、近世住居の壁のつくりかたが援用されたため、違和感がある.

 

 なお、下屋まわり大壁は、古井家同様、構造的な役割は持たないと考えられる。構造的に必要であるならば、撤去することは不可能のはずであるが、後に撤去改造され、修理時には消失していた。

 

 古井家箱木家とも、建設当初、外壁四周は大半が土塗り大壁でくるまれています。しかし、各建物の解説で触れましたが、下屋上屋はほとんど分離・独立していて、大壁部分は一見建物を維持・自立させる役割を担うように見えても、その働きはしていないと考えられます。

 また、上屋礎石建て下屋礎石建てですが壁部は土塀の如く地面から立ち上がるため、上屋下屋では挙動が異なるはずですが、それにより起きたと思われる損壊などはなかったようです古井家の北面土壁は修理時著しく破損していましたが、その主因は地盤沈下によるものです。)

 古井家箱木家とも、四周の壁を取り去ると、壁のない架構だけが残ります(間仕切の壁は薄い板壁か土塗の真壁壁です。そのような架構が、なぜ400年を越えて健在であったのか、考えて見ます。 

 

 古井家箱木家のつくりかたは、以下のとおりです。

① 先ず、地形(地業)の後、据えた礎石上に5寸~6寸角あるいは末口5寸程度の丸太でからなる逆コの字型をつくり何列か横並べし(列数は規模による)、次いでの両端にを架け居住空間の外形をなす直方体:上屋部分の軸組をつくる。 

② 直方体位置に大引を兼ねた足固貫を柱間に通し、柱頭近くで内法貫飛貫を柱間に通す。

③ 上に屋根の外形をなす小屋組をつくる。又首組にするか束立組にするかは任意。

④ 必要に応じて下屋部分をつくる。繋梁は設けず、で繋ぐ箱木家ではもない)。 

⑤ 垂木を架け、屋根を葺き、を張り、柱間に開口装置任意に充填して仕上がる。

 

古井家住宅 梁行断面図・桁行断面図  日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集

 

 古井家箱木家は、小屋貫は近世の住居と同程度の材 (丈3.5寸~4寸×厚:柱径の1/3程度ですが、足固貫、内法貫、飛貫は、丈が4寸程度、厚は柱径の40~50%近く(約2寸5分程度)の材が使われ、端部は胴付を設けて厚2寸ほどの枘につくりだし柱に差して楔で締めているのが特徴です。

 また、足固貫以外はすべて表しとなり、この点は、付長押で隠す方丈建築と大きく異なります方丈建築は、丈:2.8~3.5寸、厚:柱径の30%程度。表すことはせず、付長押で隠している。 

 古井家箱木家の架構法は、部材は全般に細身ですが、原理的には浄土寺 浄土堂の架構法と同じで、胴付を設けてに差して楔締めにしている点は、近世の差鴨居の原型と見ることもできます。

 すなわち、細身の材による軸組部は、その上に載る小屋組と下部の床組により平面形状が保たれ、上屋上部の柱間を縫うと、上屋四周の下屋上に垂木によってできる三角柱古井家の場合)の働きで軸組部の垂直が保たれ(これは、方丈建築の桔木のつくる軒下の三角柱と同じ働きです。)、これらが綜合して、木造部だけで自立が可能であった、と考えられます(上図参照)。

 しかも、下屋部と上屋部の繋ぎが緩いため、下屋外周の土壁部礎石建て上屋部の挙動の差も吸収減殺されます。実際、修理時の破損状況を見ると、地盤沈降、補修不全による雨漏り、粗漏な改造・改修に起因する破損が主で、架構自体に起因する破損は見当たりません。 

 箱木家の近在には、同じく中世に建設され、良好な状態で住み続けられてきた阪田家がありましたが、昭和37年(1962年)焼失してしまいます。この事件は、その後の住居遺構調査を進める契機になりました。

 昭和25年(1950年)の文化財保護法制定時、文化財として指定されていた建造物は270件余のうち住居は2件、文化財保護法制定後の1960年(昭和35年)頃においても僅か31件にすぎません。これは、日本の建築史学において、住居は研究対象として扱われてこなかったことを示しています。

 


「第Ⅲ章-4-1 古井家」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-19 13:17:40 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF 「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー4-1」A4版12頁

 

Ⅲ-4 中世の典型-4:千年家・・・一般の建物も、壁に依存していなかった 

 古代~鎌倉時代には、一般の住居の遺構が存在しないため、ここまでは遺構のある寺院建築など上層階級の建物を観てきました。

 一般の住居の現存最古の遺構は、中世末、室町後期の千年家と呼ばれている住居です。現在、兵庫県下に古井家箱木家の2戸の千年家が保存されています。

 この2戸の建物のつくりかたには、後の住居のつくりかたの原型と考えられる点があります。それは、飛貫(ひぬき)の活用です。詳しく観てみたいと思います。

 

1.古井家 室町時代後半     所在 兵庫県宍粟市安富  古井家は現地にて保存

 兵庫県下には、千年家と呼ばれる建設年代が中世まで遡る住居が多数存在していた。その理由として、中世、兵庫県下の農村部は財政的に豊かであったため、一時しのぎではない家屋をつくることができたからではないか、と考えられている。

 古井家は、姫路から20数㎞北に入った山間の地にあるが、一帯は古代~中世の瀬戸内鳥取をつなぐ重要な街道筋で豊かな地であったという。

復元 平面図

平面・断面共に日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集

 

復元 桁行断面図  着色部は 足固貫(断面)、内飛貫小屋貫

 

 古井家は、上屋+下屋の典型的な架構。平面図の網掛け部が下屋。下屋の壁は大部分を土塗り大壁で囲う

 折置を架けた軸組を7列並べ、四周に下屋をまわす。柱間は均一の数字ではないが、桁行は約6尺5寸、行は約7尺を目途にしていたと推定されている。 礎石を据える地盤面が東へと傾斜。

 

モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 立地状況(南側から)           

 敷地周辺 右奥の茅葺は離れ座敷

▽ 修理時 南面  1970年(昭和45年)解体修理工事着手時の状況と復元後の写真。 ▽ 修理時 北面 

  

   

 復元後 南面 

 

 復元後 北面

写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 敷地は東側半分を盛土で造成。修理時には礎石の不動沈下が著しく、周辺地盤のかさ上げにより四周の礎石は地中に埋もれ、の多くは根腐れを起こし、座屈や折損、仕口の変形などが見られた。                                  

  建設後、江戸時代に2回大きな改造が行なわれ、その後も改修、改造がなされている。

 

復元 梁行断面図 着色部材は、貫  日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集    

 

壁の仕様

    

修理前 大戸口まわり                  復元竣工 大戸口

 ▽ 復元竣工 南面および開口部近影 板戸、明り障子片引き     日本の民家3 農家Ⅲより

  

 修理前  おもて南面

 

 復元竣工 おもて南面

モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 

の仕様  重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 壁は大壁真壁があり、何れも江戸中期頃の改造以降のものであるが、下屋廻りにはにわ土間北側となんどの北及び西側に粗朶(そだ)小舞とした外大壁(江戸中期と推定)、にわ土間東側にやや新しい(江戸末期と推定竹小舞外大壁がある。

 

 粗朶(そだ)小舞の材料は長さ2~3cm・元径2~3cmのソヨゴリョウブ等延びのある雑木で、これを横間渡縦小舞に用いている。 註 粗朶:切取った木の枝のこと  ソヨゴ:モチノキ科の常緑樹  リョウブ:リョウブ科の落葉樹

  間渡縛りは柱の見込み両面へ竹箆(へら)様の釣子つりこ(幅1.5cm内外、長さ7~8cmの肉厚竹を方刃尖かたばとがりに削ったものを間隔45~60㎝に打込み、その柱外面へ付けた間渡を、釣子と縄掛け二巻きで縛りつける。

 小舞は縦を間渡の内側へ構目(かきめ)5cm内外に連れ巻きに縛りつけ、横小舞は径2~3cmの丸竹を縦と同様の構目で柱間3箇所程度構きつけ、隅では横小舞を柱角に沿って折り曲げ見廻しに通している。  註 構きつけ掻きつけの意と思われる。したがって、掻目は掻く間隔

 また小舞を柱に緊結する手法として、柱内側で柱頭部より約20cm下ほどの高さに丸竹を横に通し、その竹と柱外側の小舞を縄搦み(がらみ)した箇所もある。

 壁土は藁苆(わらすさ)がかなり多く切り込まれ、石粒も大分混入したものが塗られており、にわ土間には所々に方30cmぐらいの下地窓を明けている。

 

 地盤面との立上りには、見切りがなく、いわば地面がそのまま立ち上がる形になっている。復元では足固貫胴貫があるが、当初はなかったらしい。

 

(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 復元後の内部写真」に続きます。)


「第Ⅲ章-4-1古井家 復元後の内部写真, 参考」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-19 13:16:50 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 壁の仕様」より続きます。)

 

復元後の内部写真         重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

にわ~居室部境  にわの棟通りには、内法貫飛貫の2段のが入れられている。内法貫は、梁行桁行段違い。

 

 

にわ~ちゃのま  にわちゃのまの間には、建具はない。

 

  にわ~ちゃのま北西隅 水まわり

 

材料および材寸  :クリ 上屋柱 約14.8~16.5cm角 下屋柱 平均約12.7cm角  

梁・桁:スギ、一部ツガ、ヒノキ 上屋梁 平均約16cm×11.5cm 平使い 上屋桁 平均約14cm×11.5cm 平使い 束受地棟or丑梁約19cm×12cm  

:スギ、クリ  内法貫 約丈11.0~11.6cm×厚5,3~7.4cm にわ~ちゃのま境の例 上屋部で丈11cm×厚7.4cmある材を上屋柱の手前で片胴付に加工して厚5.0cmに狭め、下屋柱枘差し楔締め   飛貫 内法とほぼ同寸 にわ棟通りだけに入る。枘差し楔締め

継手・仕口 柱~小屋梁~桁 折置組柱 頭重枘   小屋貫継手 略鎌継ぎ(柱内)楔締め 柱~貫 楔締め

 

 

おもて 南面  南面の壁は外側大壁。下屋通りの壁には、足固貫、頭貫2段(後補)。

 

 

おもて 北面なんどちゃのま境   鴨居は、内法貫とは独立して取付けられている。このことから、を優先する古くからの架構法と考えられる。 方丈建築では、付長押で隠していることに留意。   

 

 

  復元組立中の床組

足固大引は丸太材。 足固は柱に枘差し

上屋柱下屋柱間は、足固材を上屋柱手前で幅につくりだし、足固貫として下屋柱に差し楔締めとしていた。

一般の大引は、なしで玉石上に直接載せている。この方法は、室生寺・金堂の当初部分(身舎・庇部)でも採られている。

 

ちゃのま 北面  が貴重品であった時代であるため、ちゃのまなんどの床は竹スノコとし、(むしろ)を敷いていた。 板張りの床はおもてだけ。

 

 

なんど~ちゃのま 境  内法貫下に鴨居を取付け、片引き板戸を設けている。

 壁のつくりかたからみて、当初の建物では胴貫はなかったものと推測される。修理時点では、後補のがあり、復元ではそれにならっている。 また、復元に際して、大壁部には帯鉄製の筋かいを入れたという。

  ちゃのま~おもて 境を見る  手前はにわ

 板壁は、柱間に横桟をやり返しで取付け、縦張り。 写真は重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

 

古井家住宅 間取りの変遷  外周の赤く塗った部分は土塗り大壁(壁の仕様は、前出)

 

 

古井家住宅 第一次改造の方法

 

日本の民家 3 農家Ⅲ(学研)より

 

 古井家では、建設以来400年を越える期間、上図のような梁・桁・差鴨居の新設による柱の撤去は行われているが、基本的な架構の骨格は当初のままで、内壁、外壁とも、用の変化に応じ、柱間は随時随意に開口の変更が行なわれている。

 このことは、古井家の架構では、壁部分は架構を維持するための役割を担っていないこと、すなわち、木造架構そのものによって維持されてきたこと示している。その点は、浄土寺浄土堂龍吟庵方丈などと、考え方は同じである。

 

  復元 架構組立中

重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 架構模型 全景

模型では地盤面をつくらず、礎石で地盤高を調整した。 下屋柱には、貫を入れていない。

 

 架構模型 部分 

 

上屋柱下屋柱は、足固貫内法貫で縫うが、内法貫は、梁行柱通りすべてには入っていない。

 

 

参考 復元に至る考察      

 古井家住宅修理工事報告書には、復元決定に至る間の考察過程が、綿密に記されています(結果だけが述べられるのが普通)。 そのいくつかを以下に抜粋紹介します。記述中に出てくる番付は、下図の通りです。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

古井家住宅の修理工事および修理工事報告書の担当者

監修:工事監督 鈴木嘉吉  本文・写真・図面:工事主任 持田武夫  竣工写真:姫路市 八幡扶桑  大工棟梁:上月町 和田通夫 

 


「第Ⅲ章-3-2 大徳寺 大仙院, 龍源院」 日本の木造建築工法の展開

2019-06-07 10:11:52 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章-3-2」 A4版12頁

 

2.大徳寺 大仙院 本堂 1513年建立 所在:京都市 北区 紫野大徳寺町

 龍吟庵(りょうぎんあん)方丈に次いで古い方丈建築。龍吟庵方丈とは85年の隔たりがあるが、その間の事例がない。

 臨済宗 大徳寺塔頭の一。方丈とは呼ばず本堂と言う。大徳寺には20を越える塔頭があるが、その中で最古。

 元は檜皮(ひわだ)葺き現在は銅板葺きに変更。 基準柱間 1間尺5(芯々)。 庫裏(くり)方丈、書院などを別棟で建て、渡廊下でつなぐ形式。 各建物間の石庭は、連続性をつくるため、後に整備されたと考えられる。註 禅宗の思想をしめした、と言われているが後付けの見方。  近世には、各棟を一体の建物として計画されるようになる(例:大徳寺 孤蓬庵こほうあん)。


 配置図 重森三玲  実測図 日本の名園より

上の配置図は造園家の重森三玲氏による昭和初期の実測図。 樹木の種類も明記。(方丈、庫裏、書院の文字は編集)

下は、建築家西澤文隆氏による実測図。空間の把握に力点。赤線は大仙院本堂へのルート(赤線は編集)。

 配置図 西澤文隆実測図集 日本の建築と庭園より 

 

 大仙院に向わず進むと真珠庵、南側は、道を隔て、大徳寺の本堂。

 方丈(本堂)の架構の基本は、龍吟庵方丈と同じように、方丈(室中を囲む諸室広縁を含む上を桔木による架構としている。断面図参照。

 

  

左:玄関への路地 左側土塀の内側が石庭                右:玄関の扉見返り 右手は石庭

  

左:玄関~本堂の途中から本堂を見る。本堂前の広縁は 約23尺飛ばしている。  右:室中しっちゅう(方丈)正面 外・両開き戸(外付)二つ折り 内・明障子引違い4枚     写真 日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより  

 

 南側全景 すべての開口部を閉ざしたとき  屋根は銅板葺きに替えてある 玄関本堂と独立  原色 日本の美術10より 

 

 室中の北側に仏壇 広縁東は庫裏への渡廊下、大書院北側の渡廊下は書院・茶室へ 基準柱間:6尺5寸 柱径:広縁側以外5寸弱。 

   

 

 桁行断面図 着色部分は梁行断面図とも小屋裏  実線赤丸:梁行では蟻壁位置ではなく、内法~蟻壁の小壁内に入れている。破線赤丸:足固兼大引 大引は、@1/2間(龍吟庵は@1間) 破風木連格子      平面図・断面図共に日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより 断面図は転載・編集

 

 室中 北面(仏壇側)建具を払ってあるので、大書院も望める。   

柱径:仕上り5寸弱 内法長押、蟻壁長押の内側に は1.3寸×3寸程度(推定)。 

 

 

大書院と石庭  手前の室は礼間(らいのま)  外部建具を払った状態 北面は、平面図と多少異なる。 内法長押、蟻壁の内側に貫。   写真・図面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 図面は転載・編集

 

 

  

梁行断面図 左が庭側(南側) 引き渡し勾配:6寸5分  龍吟庵とは逆に、化粧地垂木を受ける桁を大寸にし、小屋裏のが小さい。 赤丸:内法長押蟻壁長押内側) ただし、a位置では柱外面に取付け、b位置室中中央の開口部上にはない。

  

 

3.大徳寺 龍源院(りょうげんいん) 本堂 1517年頃建立 所在:京都市 北区 紫野大徳寺町 

 大仙院 本堂とほぼ同時期の建設。

 

 平面図 玄関が南入りではなく、東から取付く。玄関の屋根が本堂屋根の下に入り込む点は、前2例に同じ。

    基準柱間芯々6尺5寸(図はメートル法表記、1973mm=6尺5寸)。柱径:広縁以外仕上り5寸弱。

 

 

 桁行断面図 着色部分:小屋裏。 礼間らいのま室中しっちゅう檀那間だんなのまは、天井が同一高さで、内法上に欄間がない。

 実線赤丸:、破線赤丸:足固兼大引@1間。 赤の四角は、鴨居付長押を一材で加工してあると思われる(次写真参照)。  

 

 

広縁~玄関を見る  広縁落縁(おちえん)、沓脱(くつぬぎ)の関係が分る。 沓脱は通常は石。方丈建築では、  この方式が普通。 床は平瓦の四半敷(しはんじき)。雨落(あまおち)は玉砂利敷詰め。庭は苔。  雨落の設定位置を知る好例。

 

 室中方丈)から礼間(らいのま)を見る。  間仕切は欄間がない。   同一高の竿縁天井が覆う。

 内法長押内と、小壁中途の付長押(室中中央開口部内法位置)内に設け、蟻壁長押位置にはない。 礼間~室中境の鴨居は、付長押と一体加工(逆凸型断面)。

 

 

梁行断面図 右が南側  赤丸:貫  引渡し勾配:6寸  室中裏(北側)の小屋架構は、桔木大梁に架かっていない。当初、大仙院と同じく、室中上の大梁の中心にあった棟位置を、後世に北側に移し屋根を南北対象に改修した際に生じたと考えられる。 写真・図面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 図面は転載・編集

 

 

参考 鹿苑寺(ろくおんじ) 金閣  1398年建立 1950年焼失、1955年再建

 

 梁行断面                  桁行断面(部分)  日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより転載・編集

 鹿苑寺 金閣足利義満が1397年から造営した山荘・北山殿で、義満の没後、鹿苑寺となる。金閣はその舎利殿。他の当初建築は現存しない。

 鹿苑寺 金閣方丈建築ではないが、古代の寺院建築の技法、特に、二重屋根・桔木の下で発展したいわゆる和様の工法を基に、その後の諸技法をも駆使している。

 

 

 第一層(住宅風)と第二層(和様佛堂風)は同形平面で間仕切柱の位置を一致させ、側柱を二層までの通し柱として大梁を組み、第二層の床を張る。 柱はすべて面取り6寸角。 通し柱大梁仕口は、差口と思われる。基準柱間寸法は7.0尺。すべての柱は、7.0/2:3.5尺の基準格子上に配置。

 広縁では、通常は1間ごとに入る柱を省略しているが、これは、柱を省いた最古の事例という。 

 第三層(禅宗様佛堂)は、第二層上部のに直交する横材を土台にして別個の軸組を据える古代同様の工法(後述)を採る。基準柱間寸法は6尺。それゆえ、下階の柱位置とは一致しない。

 軒まわりには、禅宗様の繰型や、大仏様挿肘木などが見られ、その意味で、当代までの諸技法の展示場的な建物である。

 

 

(「Ⅲ-3-2 参考 慈照寺 東求堂, 古代の多層工法」へ続きます。)


「第Ⅲ章-3-2 参考 慈照寺東求堂 多層工法」

2019-06-07 10:10:51 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「Ⅲ-3-2 鹿苑寺 金閣」より続きます。)

 

参考 慈照寺(じしょうじ) 東求堂(とうぐどう)  1486年(文明18年)ごろ建立 

 

 足利義政により建てられた山荘・東山殿の一建物。義政没後、慈照寺となる。後に、戦乱で東求堂などを除き、消失。 東求堂は、義政書斎持仏堂。方形平面、入母屋、桧皮葺き、基準柱間:6尺5寸。柱:仕上り大面取り3.8寸角

 平面図 平面・断面共に日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 

 

 

 南側2室は仏間、北東の4畳半は書斎:同仁斎(どうじんさい)。 同仁斎は、書院の原型とされる 

 いわゆる和様の形体をつくりだすため、下図の化粧桁のように、構造体を傷める方策も採られている。構造・架構=空間というつくりかたは、上層階級の建物では継承されていない。

 

 

文化財建造物伝統技法集成より

 矩計図 日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 上分解図は、矩計図赤枠内の組立て分解図。 は天井裏まで延び、野屋根を受けているが、同時に、その下方では、化粧地垂木化粧桁化粧肘木を半分ほど欠きとって取付く。化粧のための無理。この方法は、近世の光浄院客殿などの建築でも使われる。 化粧継手は、龍吟庵方丈内法長押継手同様鎌継ぎ(前出)。接続部を密着させるためで、構造的な意味はない。

 

参考 古代の多層工法

 古代寺院の塔や門、鎌倉時代末期の禅宗様の三門、楼閣建築、室町後期:戦国時代の城郭建築、そして近世以降の町屋など、日本には各種の多層建築がある。

 しかし、古代~中世の門、塔は、いずれも外観のみが多層であり、各層に床があったわけではない。東大寺南大門も同様である。

 

 古代の多層建築の構築法は、下図のように、下層の垂木上に土台台輪(だいわ)(図の着色部分)井桁状にまわし、その上に上層の柱・軸組を建てる方式であった。 五重塔では、これを二重、三重、四重、そして五重と4回繰り返す。 古代寺院の門や塔には外に欄干もまわるが、床はなく、実用に供用されてはいない。

  

法隆寺 中門 梁行断面図 奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺一 より     法隆寺 五重塔 断面図

 

  

法隆寺 五重塔  三重 平面図および断面図        日本建築史基礎資料集成 十一 塔婆Ⅰより  図は転載編集

 

 上層に床を張り、用に供するのは、遺構では鹿苑寺 金閣が最初と考えられる。より実用性が強くなるのは、後の城郭建築

 

               

参考 城郭建築の多層工法

 室町時代後期になると、中央政府の力が弱まり、各地の武士が群雄割拠の様相を見せはじめ、領地拡大の戦乱が頻発、その拠点として城郭建築が建てられるようになる。

 城郭の要件は、領地一帯を見渡すことができる望楼の役割を持ち、同時に万一の場合には立て篭もり防備に専念できること。 そのため、できるだけ標高の高いところを選び、防備のために石垣で基壇天守台)を築き、その上に可能な限り高い建物:天守が建てられるのが普通であった。 なお、土台城郭建築において考案されたと考えられている。

 

丸岡城  1576年(天正4年) 所在 福井県丸岡町 

 

平面図 下より一層二層三層   上:桁行断面図 下:梁行断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

 

 丸岡城は、現存最古の城郭で、当初、石垣で天守台を築き、天守掘立柱で建てられていた。

 二層三層は同一平面で、四隅の柱は通し柱、三層の床梁は丸太で側柱(管柱)に差口で取付く鹿苑寺 金閣に同じ)。三層では通し柱間の内法レベルに入れた飛貫小屋梁を受ける。

 

 松本城  1594年(文禄3年)~1597年(慶長2年)

 松本城 平面図 断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより 

 松本城は、平地に天守台を築いた平城。 先ず、地盤面から天守土台を支える支持柱を建て、それを埋めながら天守台が築かれている。 ここでも、通し柱飛貫が活用されている。

 城郭建築では、各地域の職人も重用されたため、上層階級の建築技術と一般の建築技術が融合して用いられている。

                       

 ここまで、1200年代:鎌倉時代に入ってからの現存遺構について、主な寺院建築および禅宗寺院のなかに生まれた方丈建築について簡単に観てきました(住居の遺構は存在しません)。

 鎌倉時代の主な寺院は、平安時代から受け継がれた密教系(天台宗、真言宗)の寺院と、新たに移入された禅宗系の寺院です。このうち、密教系の寺院は、畿内だけではなく広く全国各地域に数多く建てられ、禅宗様の寺院は武家の帰依を受けたこともあり、政治の中心地に多く建てられます(時が経つと各地域にも広まり、また、形体上の影響も見られるようになります)。

 密教系の寺院の多くは、前代までに確立していた二重屋根・野屋根・桔木(はねぎ)の技法を用いた架構法を採り、それに寺院のシンボルとなっていた斗栱(ときょう)を装飾的に取付ける方法が一般的で、鎌倉初頭につくられた再建・東大寺のつくりかた:大仏様が継承された気配はうかがわれません。

 その点では、わが国の古代以来の寺院建築の建設の歴史の中では、再建・東大寺:大仏様は、むしろ特異であったと言えるでしょう。実際、大仏様の考え方:架構=空間を実施に移した建物は、東大寺以外、皆無に等しいのです。

 禅宗様の寺院の特色は部材各部の独特な形状にあり、そのためそれは一般に影響を与えるものではなく、禅宗系寺院に限られると言っても過言ではありません。また、技法的にも、意匠を優先し、構造的な視点を欠くきらいがあったことも否めません(前出、東福寺・三門参照)。

 このように、鎌倉時代の寺院建築は、禅宗様を含め、古代以来の「寺院」というしがらみを脱することができなかったのです。

 一方、禅宗寺院に生まれた方丈建築は、寺院の本堂とは異なる道を歩みだします。

 方丈は、すでに触れたように、どちらかといえば居所・住居的な性格の強い建物です。ここでは、寺院本体と同じく二重屋根・野屋根・桔木によるつくりかたを採っていますが、桔木の利用で役割をなくした斗栱を装飾的に付けることはしていません(前出の龍吟庵 方丈の例のように梁を虹梁風に見せかけることは行なわれます)。方丈建築で使われている古代以来の技法は、肘木だけです。肘木は横材:梁・桁を柱上で継ぐには不可欠な部材だからです。

 この方丈建築のつくりかたには、当時の寺院以外の一般の建物のつくりかたが関係していると考えられます(当時の住居など一般の遺構は存在しませんから推定です)。 そして、このような寺院イメージのない方丈建築は、その後の一般の建物にも影響を与える特徴を持っていたことはすでに簡単に触れました。

 そこで、方丈建築の架構の特徴をまとめてみると、次のようになります。

1)基準柱間6尺5寸~7尺、柱径約5寸、間仕切のほとんどを開口装置とする。

 平面図で明らかなように、方丈建築では、柱間は開口装置だけで内法:鴨居上の小壁以外にはほとんど壁がないことが分ります。しかも、寺院建築に比べ、柱は太くありません。このことは、壁を、架構の自立を維持するための不可欠な部分としては考えていないことを示しています。

註 これは、方丈建築に比べればが太い古代以来の寺院建築にも共通する特徴です。古代寺院、中世寺院の平面図を見ると、方丈建築に比べると壁が比較的多くあります。ただ、それらの壁は、空間をつくりだすための壁:空間構成上必要な壁であって(たとえば、仏像の背面として、籠(こも)ことのできる空間をつくるため、など)、架構上必要とは考えられていないのです。

 このように、方丈建築が細い部材でありながら、間仕切を建具になし得たのは(柱間を開放的になし得たのは)、その架構法によると考えられます。そこで、その架構の特徴を詳しく見ることにします。

 

2)束立て小屋組上屋+四面桔木下屋からなる架構

 方丈建築も、平安期以降の寺院建築と同じく、二重屋根・野屋根・桔木による架構法を採っています。ただ、寺院建築とは、異なる点があります。

 方丈建築では、本体の四周に桔木によってつくられる庇部が、均等に設けられていることに注目する必要があります(重要なのは、四面にまわっていることです)。

 たとえば龍吟庵 方丈では、室中(しっちゅう)上部は大梁上に束立組小屋を架けていますが、室中を囲む広縁下間(げかん)上間(じょうかん)そして北側の室の上部には、先の束立組小屋組足元を基点として、これら諸室にかぶさる形で桔木による庇部が架かっています(基本的には、他の方丈建築も同じです)。

 

 これを三次元的に見てみると、室中をかたちづくる柱と梁・桁で構成された立体格子の四周に、桔木によって構成されたロの字型の鍔(つば)が設けられた形になり、建物上部の平面的な変形を防ぐ働きをしていることになります

 しかも、この庇部は、垂直断面で見ると、桔木繋梁あるいは化粧地垂木(天井)とで直角三角形を形成しています(下図)。その結果、室中部の架構上部を三角柱が取り囲むことになり、室中部の立体格子の各側面:垂直面の変形を防ぐ、つまり立体格子を垂直に維持する働きもしていることになります庇が水平で三角柱をつくらなければ、この働きはありません)。これは軒の出の確保が主たる目的の寺院建築桔木による庇部とは大きく異なる点と考えてよいでしょう。

 龍吟庵 方丈 桁行断面 

 

梁行断面図

日本建築史基礎資料十六書院Ⅰより転載・編集

 

 また、方丈建築では、建物全面にが張られます。この時代の床組は、ほぼ現在と同じで、束立ての大引上に根太を転がし床板を張っています。床板の厚さは1寸程度が普通です龍吟庵 方丈では8分)。そのため、床面自体が平面的に変形することは先ずあり得ません。

 さらに、柱通りの大引は柱相互をつなぐ足固貫として扱われ、直交方向では根太が繁く架かり、柱相互をつなぐ役割を担っています(後に、直交する柱通りにも足固貫を入れるようになります)。

 束柱礎石建て礎石の上に置かれるだけですが、摩擦で一定程度は拘束され、さらに床面レベルをで縫われていますから、礎石からずれることは簡単には起き得ません。

したがって、三次元的には、床から地面までの空間は単なる隙間ではなく、いわば地面と床面に挟まれた立体格子になっていることになります(上図)。 

 つまり、方丈建築は、主要部の立体格子の上部は桔木による庇部の働きによって、下部は床組の働きによって、立体的な形状が維持されていることになり、しかも、立体の側面にあたる間仕切部の軸組には数段のが設けられますから、立体格子はより一層安定し、それゆえ間仕切をすべて開口装置でまかなうことができるようになったと考えることができます。 

 以上のような方丈建築で練られた架構法は、近世寺院建築客殿建築書院造に発展しながら引継がれてゆき、安土桃山~江戸初頭の西本願寺などの巨大な建築群も、この架構の考え方の発展系と考えることができるでしょう(ほとんどが、壁のないつくりになっています)。

 


「第Ⅲ章-3 中世の典型ー3:方丈建築」 日本の木造建築工法の展開

2019-05-25 12:02:39 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー3-1」A4版6頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅲ-3 中世の典型-3:方丈建築・・・柱間はすべて開口装置

  禅宗様の寺院には、他の寺院とは異なり、住職・住持の居所的建物:塔頭(たっちゅう)に、方丈(ほうじょう)建築と呼ばれる独特の形式の建物が設けられるようになります。これは古代の寝殿造の姿をのこし、後に客殿建築書院造(しょいんづくり)へと連なり、さらには近世の武士階級の住居に大きな影響を与えるつくりの建物です。 

 註 塔頭:禅宗で大寺の高僧の没後、その弟子が師徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎。 転じて、一山内にある小寺院。大寺に所属する別坊。  方丈:(一丈四方。畳四畳半の広さの部屋。)寺院の長老・住持の居所。(広辞苑による) 

 方丈建築には、中世初頭までの、特に上層階級の建物づくりで見られた技術的な展開が、すべて注ぎ込まれていると言っても過言ではありません。

 さらに特筆すべき点は、鴨居敷居樋端ひばた)を設けて建具を滑らす画期的な技術の発案により、間仕切を、壁ではなく建具、特に引戸に置き換えていることです。その事例を古い順に見てみます。 

 

1.東福寺(とうふくじ) 龍吟庵(りょうぎんあん) 方丈 1428年頃建立  所在:京都市 東山区 本町15丁目

 現存最古の方丈建築。杮葺き(こけらぶき)。 応仁の乱(1467年~1477年)以前は、基準柱間は1間:7尺前後が普通で、その後は6尺5寸程度になると言われる。

 この建物は基準柱間が1間:6尺8寸で計画された、応仁の乱以前の工法の貴重な遺構である。

  

東福寺 地域 航空写真      google earth より   円で囲んだ箇所が龍吟庵 その西南が東福寺の境内          

 

方丈を南西から見る(竣工写真) 土塀の右手が玄関 玄関の屋根(唐破風)は、方丈の屋根とは独立し、軒下に入り込む。 重要文化財 竜吟庵方丈修理工事報告書より 

 

                  

玄関       日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより     修理前の南面全景   修理工事報告書より      

 玄関独立の屋根が、軒下に入り込む。(こけら)葺き。寝殿造中門廊(ちゅうもんろう)~主屋の接続法の継承と考えられる。なお、近世の客殿建築になると、玄関の位置が変り、屋根も主屋と一体に取込まれるようになる

  方丈の南面 広縁 修理工事報告書 

 基準柱間が6尺8寸のため大らかな感じを受ける。柱径広縁側柱(がわばしら)以外、仕上りで4寸8分角広縁側柱は、2間+4間+2間の構成。(平面図参照)

 室(しっちゅう)の中央2間が戸口で、双折(ふたつおり)両開き桟唐戸(さんからど)。 室中の残りの両端1間、上間(じょうかん)下間(げかん)の室中寄りの1間は、外側に1間幅の蔀戸(しとみど)内側に明り障子2枚引違い(平面図参照)

 

 原色 日本の美術10より

 方丈西側:破風の壁は、木連格子(きづれごうし)(桁行断面図参照)。

 継手肘木柱芯位置。上間3間のうち中央部1間は、外側に両開き板戸内側に明り障子4枚引分けその他は、北面開口も含め舞良戸(まいらど)2枚+明り障子1枚の構成。(平面図参照)

  舞良戸(まいらど)2枚+明り障子1枚の開口装置は、雨戸が発案されるまでの標準的な仕様。

  日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより              

 平面図 基準柱間は6尺8寸。 空間は、下間(げかん)南~室中(しっちゅう)~上間(じょうかん)の3室と、北側の3室の2列で構成。北側の3室は、私的な用途に使われたと考えられている。 室中北面の壁は、縦板張りの壁(写真参照)。

 

 桁行断面図 断面図で色を付けた部分は小屋裏 桔木登り梁は、室中(方丈)を囲む諸室の小屋裏四周に設ける。破風(はふ)には木連格子(きづれごうし)が入っている(西側写真参照)。  

 実線赤丸箇所:、破線赤丸箇所:大引足固@1間。足固以外のは、付長押の内側小屋は図の通り。 

 寸法は、内法位置:厚1.2寸×丈3.0寸蟻壁位置:厚1.1寸×丈2..8寸(後の詳細図参照)。

  

 (「Ⅲ-3-1 室中  写真」へ続きます。) 


「Ⅲ-3 東福寺 龍吟庵 方丈 」

2019-05-25 12:02:10 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「Ⅲ-3-1」より続きます。) 

 

  

室中しっちゅう(方丈)内部 見えているのは上間(じょうかん)南室     室中(方丈)使われている状況   日本の美術より 

 仏堂が別にあるため、龍吟庵方丈には仏壇がない。 天井際を回る白壁(大壁)部分を蟻壁(ありかべ)と呼ぶ。これは、竿縁の割付のための工夫。天井を浮かせて見せる効果がある。   

 蟻壁真壁との見切りの横材は蟻壁長押(ありかべなげし)と呼び、鴨居レベルの長押内法長押(うちのりなげし)と言う。いずれも付長押(つけなげし)。室中には、蟻壁長押内法長押の中間にも長押がまわり、この長押は、上間(じょうかん)下間(げかん)蟻壁長押へ連なる(後述)

 

  

室中方丈)南面を見る 下間南室境             上間北室 上間南室から見る。右手は方丈室中)  白黒写真3枚は日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 

 

  竿縁天井竿縁は、南側3室の南北部屋境間に架かる大梁から吊木で吊られ、竿縁の向きはそれによって決まっている(下図参照)。

梁行断面図 日本建築史基礎資料集成十六 書院Ⅰ より転載・編集

 

梁行断面図 着色部分:小屋裏 引き渡し勾配4寸5分   右が庭側(南側)  赤丸箇所にが入る。の仕様は詳細図参照。桁行足固は、根太が代行。小屋のは図の通り。 広縁側柱通りでは、柱間を飛ばすため、柱・化粧垂木受けの桁・化粧垂木・桔木受けの大桁・桔木・野母屋・野垂木の構成。

参考 諸事例の屋根    引渡し勾配 法隆寺伝法堂約4寸  新薬師寺本堂約4寸5分  唐招提寺・当初:約5寸  秋篠寺約5寸  浄瑠璃寺約6寸5分  法隆寺大講堂約5寸5分  浄土寺浄土堂約6寸  東大寺南大門:約6寸  

 

 

龍吟庵方丈 各所の詳細、継手・仕口  各詳細図は文化財建造物伝統技法集成(発行 文化財建造物保存技術協会)より

1)大引兼足固貫の継手、柱との仕口

 

  

 

 

 上図は、断面図赤枠内の大引足固の詳細。黄色部は埋木)。 室中部では丈5寸×幅3寸大引・足固材を、北側の柱間が1間になる箇所からは丈3寸×幅1.5寸に削り、次の柱内で相欠き・埋木めで継いでいる。胴付を設けたと同様の効果がある。これは、浄土寺 浄土堂で使われていた技法と同じである。註 胴付(どうづき)():枘の根元まわりの平面をいう。英語ではshoulder。

 

2)切目長押隅部仕口、切目長押(きりめなげし)と室内側床板の仕口床板の矧(は)(例示箇所:上間南室・西南隅柱)

  

  

 

大面取り、仕上り4寸8分角 。  室内床ととの見切りに設けられる横材を、切目長押と呼ぶ。構造材ではない。 室内にを敷く場合は柱通りに敷居を置く。 床板の厚さは0.8寸 太枘(ダボ)の厚さ0.3寸 これらの細工は、不陸を避ける目的

 

3)小屋束~母屋の仕口、小屋貫の継手

     

              

 

上左図 小屋束と母屋の仕口:小屋束に枘をつくらず、束柱、母屋双方を刻み、母屋を束柱に落し込んでいる。この方法を、一般に輪薙(わなぎ)込み)と言う。 註 一の木を他木に食ますこと  日本建築辞彙による

上右図 小屋貫継手相欠き部の全長が3寸(片側1.5寸)であるため、図に示されていないが、束柱は3.5寸角程度で、小屋束内にて埋木めと推定される。

                                    

4)蟻壁長押、内法長押の詳細、長押吊束仕口

 

   

 

 断面図の赤枠で囲んだ箇所の詳細図。 左側が室中、右は下間南室室中側上段の付長押蟻壁長押中段は下間側蟻壁長押と同一レベル、下段が内法長押蟻壁長押天井長押とも呼ばれる。内法長押と中段の付長押の裏側に、が入る。

 吊束は天井裏のから下がり、と同寸(4.8寸)面取りの下端を長押に当たる部分だけ面をとらず図のようにバチ型に刻み、長押側も図のようにバチ型に刻み長押を取付ける。鴨居は上反り加減に材を使い、柱両端に納める。

 現在は、先に吊束鴨居寄せ蟻で取付け、長押鴨居に載せ釘留めにするのが普通の方法。なお、鴨居は溝を彫らず、樋端(ひばた)隠し釘で取付ける付樋端(つけひばた)。 この図から、の断面寸法が分る。

 

5)内法長押継手 

 

 

 長押は、吊束位置で継ぎ、継手鎌継ぎ(図は、吊束位置の場合)。鎌継ぎの使用は、材を密着させるためと考えられる。  幅1寸3分、丈3寸5分の中に、丈2寸4分の鎌継ぎを刻む精緻な仕事が室町初期には可能だった。

 

6)広縁と広縁端部の片面虹梁づくり側桁との仕口(図は、東端部の場合)

 

天井見上図 断面 平面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより    

 

 側桁は、外壁面で角、広縁側では虹梁(こうりょう)を装う。 図は東端部を描いているが、西端部も同じ。前出の西面外観写真で、広縁上部の側桁の内側は虹梁型につくられている。これは、意匠のために無理をした仕事。 後出の慈照寺 東求堂参照。

各詳細図は文化財建造物伝統技法集成 発行 文化財建造物保存技術協会 昭和61年より


「Ⅲ-2 中世の典型ー2:鎌倉時代の寺院」 日本の木造建築工法の展開

2019-05-13 09:58:16 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー2」A4版7頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅲ-2 中世の典型-2:鎌倉時代の寺院・・・大仏様は継承されなかった

 木造架構をで強化する工法:貫工法は、中国から伝来した大仏様に始まり、その後普及する、とりわけ、一般庶民の建物に使われるのは近世以降である、と考えられています。

 しかし先に触れたように、きわめて計算しつくされ完成度が高い浄土寺 浄土堂の設計・施工から考えて、中国から導入された工法・技術が僅かな時間で花開いたとは考えられず、また実際、中国の建築史図集等にも、大仏様を想起させる寺院建築は見あたりません(住居には見られます。65頁参照)。

 これらのことから、先に触れたように、を用いて架構を固めることは、古来工人たちにとっては手慣れた工法であったにもかかわらず、中国伝来の工法を重視する古代寺院に於いては使われることがなく、それが平安末期(鎌倉初期)になり、古代的な権威の凋落ともあいまって、東大寺の再建という大事業に採用されたために脚光を浴びるようになった、と考えた方が無理がありません。 

 

 一般に、いわゆる大仏様貫工法のみが注目されますが、より重要な点は、その空間のつくりかたにある考えられます。

 すなわち、中国伝来の工法・技法にならった古代の寺院建築は、屋内の空間は架構そのものによって形づくられていましたが、すでに見たように、その架構方式を日本の環境に馴化する過程で生まれた二重屋根(野屋根)工法:桔木(はねぎ)の活用:の普及により、平安時代に入ると、架構と空間上部の意匠を分離して考える建物づくりが「常識」になってきます。  

 それに対し、東大寺再建事業で採られた建物づくりの方法:いわゆる大仏様は、この「常識」をくつがえし、単にを駆使しただけではなく、建物の原初的なつくりかた、すなわち、架構そのもので空間をつくるというつくりかたを復活してみせたのです。それは、日本の環境に適合し、なおかつ空間の構成のために、化粧だけが目的の付加的部材は一切必要としないつくりかたにほかなりません。 

 しかし、東大寺再建以後、つまり鎌倉時代、大仏様が全面的に寺院建築で継承されたわけではありません。鎌倉時代はそれ以前の時代に比べ多くの建造物遺構が現存していますが(1980年代で、重要文化財建造物が約333棟、そのうち寺院157、神社53、石塔等123、住居の遺構はない)、その大半は先に紹介した秋篠寺浄瑠璃寺と同じく、桔木を用いた二重屋根で、空間上部を化粧屋根・天井で覆い、化粧斗栱を付し、古代寺院を想起させる形体の建物です。

 たしかに東大寺再建の仕事を通じて世に広く示されたで架構を固める方法は、寺社建築でも長押に代り徐々に使われるようになりますが、大仏様の重要な特徴であった架構=空間とするつくりかた:空間を架構だけでつくりあげる方法を継承した事例は、皆無と言ってよいでしょう。 

 大仏様が全面的に継承されなかった理由は、一つには、架構=空間のつくりかたは、その実現に熟考を要するのに対して、化粧でいかようにも繕える野屋根によるつくりかた(いわば書割かきわりのつくりかた)は容易だったからと考えられます。以下に、鎌倉時代の特徴を示す寺院建築事例を挙げます。                   

 

 

大報恩寺 本堂 1227年(安貞元年)建立  所在 京都市上京区    

 

 全景 日本建築図集より

 平面図・断面 日本建築史図集より

 

   

  隅 部 見上げ    文化財建造物伝統技法集成より    内 陣          日本の美術198 鎌倉建築より

 大報恩寺は、京都市街に現存する最古の建造物。通称千本釈迦堂。密教系の寺院。

 一間四面堂に前庇を付加し、その四面にまた庇を設ける、という形を採っている。 四周庇部は、念仏を唱えながら巡るための場所という。部分的に引戸が使われている(後補?)。ここでの桔木(はねぎ)は、軒を支えるためのもの。

 東大寺再建後間もない頃の建設ではあるが、大仏様工法の影響は見られない。 

 下の断面図の頭貫(図の赤色部分)の継手および根太(黄色部分)の継手は、原理的には目違い付き相欠き(下図継手詳細)。 これらは、当時、常用される方法であったと考えられる。 赤丸部は、主たる梁上の小屋束を挟んで取付いている二重梁。断面図の次に分解図。束柱を優先。見えがかりを気にしないで済む野屋根ゆえにできる方策。

   桁行断面図

梁行断面図

  

 全般にの使用は見られない。柱~柱をつないで大引が入っているが、足固の意識は感じられない。組入れ天井上の屋根がさらに二重になっている。その理由は不詳。

 

 

                        根太継手大引上か。 目違い付き相欠き栓打ち

 

 

棟木継手は、下側の棟木肘木束柱上に設けることで、継ぎ位置を直上:芯に置ける。これは、古来の方法。 は、束柱の箇所だけ、を挟み、他の箇所では、片側だけに通る。を介しての継手と考えることができる。

桁行断面図梁行断面図継手詳細は、文化財建造物伝統技法集成より

 

 

蓮華王院本堂三十三間堂 1266年(文永3年)再建(創建1164年) 所在 京都市東山区

 三十三間四面の堂 二重屋根・桔木を駆使した典型的な例。 繋梁を挿して取付ける、大引き足固め扱いにするなど、大仏様の技法が部分的に使われている。

  平面図 

 

   桁行断面図 

 

梁行断面図

梁行断面図 正門部

  庇部(外陣)

 

 南東からの外観                 図面・写真:日本建築史基礎資料集成五仏堂Ⅱより

 

(「Ⅲ-2 大善寺」に続きます。)


「Ⅲ-2 大善寺 元興寺 明王院」

2019-05-13 09:56:18 | 「日本の木造建築工法の展開」

(「Ⅲ-2 三十三間堂」より続きます。)

 

大善寺(だいぜんじ)本堂 1286年(弘安9年)建立  所在 山梨県 甲州市 勝沼

 平面図

桁行・梁行断面図 建築史基礎資料集成七仏堂Ⅳより

 床組伏図文化財建造物伝統技法集成 より)

 密教:真言宗の寺院。 鎌倉時代には、畿内だけではなく、全国各地域に密教系、禅宗系の寺院が建立されている。概して西国に多いが、大善寺は東国進出の一例。

 基本的には、二重屋根でつくる平安期に多いいわゆる和様の建築であるが、床まわりに足固貫を入れてある点に、大仏様の影響がうかがわれる。四周の軸部の横材は、足固貫長押頭貫で構成。 ただ、長押は床位置の切目長押(きりめなげし)は四周全部、内法位置の内法長押は開口部上のみで、古代の方式にならっている(56頁、新薬師寺本堂参照)。  なお、足固貫は、外周だけ四周に入れ、内部では梁行方向だけ入れ、桁行は根太が代行している(上図床組伏図参照)。

 鎌倉時代の仏堂には、内法長押を用いず、頭貫の下に飛貫を通す大仏様の方式にならう事例もあるが、数は少ない(次 元興寺参照)。

 

 

元興寺(がんごうじ) 極楽坊(ごくらくぼう) 本堂および禅室 1244年(寛元2年)再建   所在 奈良市 中院町

  

外観     日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より      詳細 長押に代り飛貫を仕込む。日本の美術198 鎌倉建築 より

 飛鳥時代に蘇我氏により飛鳥に創立、平城京遷都に際し移設された寺院。 後に僧房を残し消滅。 鎌倉時代初期、本堂禅室に分離され、さらに1244年(寛元2年)現状の姿に改修。 長押に代り飛貫を入れ、頭貫の端部は、大仏様風。

  

左:禅室 右:本堂 平面図  日本建築史図集より


 

明王院(みょうおういん)本堂 1321年(元応3年)建立  所在 広島県福山市草戸町

 真言宗の寺院。 頭貫の一段下に飛貫を入れ、長押はない。足固貫も採用。  大仏様の技法と、禅宗様の意匠が見られる。

 

 桁行断面図

梁行断面図

 

 平面図                     

 

 

 外観 頭貫の下に見える横材は飛貫

図・写真は、日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より 

 

 鎌倉時代の寺院建築では、大仏様の技法は局部的に用いられるが、架構の造成をもって空間とするつくりかたは、まったくみられない。

 

 

 以上のいわゆる和様の寺院建築のほかに、鎌倉時代には、中国から移入されたとしか考えられない建築様式があります。禅宗とともに入ってきたいわゆる禅宗様の建築です。 

 禅宗様の建築は、その装飾的な形式に特徴があり、明らかにわが国の建築にはなかった形です。ただ、禅宗様の建築も基本的には貫工法ですが、工法・技法の面で他の建物に大きな影響を与えたわけではなく、禅宗寺院にのみ用いられたと言ってよいでしょう。

 なお、現存する禅宗様の建物で鎌倉時代につくられたものは少なく、禅宗様の代表とされる円覚寺舎利殿も15世紀初め:室町期の建設です。 

 禅宗様の建築は大仏様とはちがい、下の写真のように、中国にそのモデルが存在します。   

  

 浙江省 延福寺大殿 1324~1327   図像中国建築史より    円覚寺 舎利殿 15世紀前半      日本建築史図集より

 

 禅宗が武士階級に好まれた結果、禅宗様の寺院は鎌倉幕府の所在地である鎌倉だけではなく、京都にも建てられます。そのうち、京都五山(きょうとござん)と呼ばれた臨済宗天竜寺相国寺建仁寺万寿寺そして東福寺には、壮大な伽藍が建立されます。下はその一つ京都の南部、宇治の近くにある東福寺三門禅堂の外観および三門断面図です。  

  三門正面

   禅堂          写真は日本建築史図集より

 断面図         文化財建造物伝統技法集成より

 

 三門の架構は大仏様に類似しているが、に割裂が生じていることが解体修理時に判明した。これは、浄土建寺 浄土堂、東大寺 南大門の架構に比べ、挿肘木の間隔が近接しているためである(69頁~86頁を比較参照)。

 各層の小屋組を二重にしていることから見て、挿肘木も、構造よりも意匠に重点が置かれ、それゆえ、割裂の危険性への配慮が欠けたものと考えられる。                                                                                                                                      


「Ⅲ-1 中世の典型ー1:浄土寺 浄土堂」 日本の木造建築工法の展開

2019-05-01 11:36:18 | 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「日本の木造建築工法の展開 Ⅲー1」A4版19頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

「日本の木造建築工法の展開  Ⅲ  中世」 

 

・・・・現代物理学の発展と分析の(結果得られた)重要な特徴の一つは、自然言語の概念は、漠然と定義されているが、・・・理想化(された)科学言語の明確な言葉よりも、・・・安定しているという経験である。・・・既知のものから未知のものへと進むとき、・・・我々は理解したいと望む・・・が、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない・・・。

いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・・。というのは、

そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。             

ハイゼンベルク「現代物理学の思想」より

 

・・・・かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。

私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。

しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現われる。

認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問のあたえる幻想にたぶらかされるからである(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。事実をかき混ぜるならば、おまえは詩人を抹殺することになる。また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ)。・・・

サン・テグジュペリ「城砦」より

 

 ・・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・・廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。  その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。  「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。   

加藤周一「山中人閒話・スタインバーグは言った」より

 

  

主な参考資料 原則として図版に引用資料名を記してあります

日本建築史図集(彰国社)  日本住宅史図集(理工図書)   日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)  奈良六大寺大観(岩波書店)  国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書(極楽山浄土寺)  重要文化財 龍吟庵方丈修理工事報告書(京都府)  文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会)  古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅修理工事委員会)  箱木家住宅(千年家)保存修理工事報告書(重要文化財 箱木家住宅修理委員会)  日本の民家(学研 絶版)  日本の美術 (至文堂)   滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)      

          

 

 Ⅲ-1 中世の典型-1:浄土寺 浄土堂・・・貫工法の詳細、その原理

 浄土寺 浄土堂は、1194年に上棟した東大寺の荘園内に重源の指図でつくられた堂で(大工:豊後介紀清水と記録にあります)、1間20尺の3間四方(60尺四方)の整然とした平面で、屋根は方形(ほうぎょう)です。

 堂内の阿弥陀如来、観音などの立像は快慶作で、堂と同時につくられました。

 浄土寺 浄土堂については、詳細な「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺 発行 が刊行されています。その修理報告書を基に、大仏様を紹介します。 (ここでの図版・写真は「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」からの転載になります。)

 その特徴は、古代以来の寺院建築の形式にとらわれず、それまでの寺院には見られなかった柱を何段かので相互に縫うことで架構を立体的に強固に固める架構法を採っている点にあります。

 浄土堂では、下から、足固貫胴貫飛貫(ひぬき)そして三段の虹梁で固められています。頭貫ではありませんが、古代寺院とは違い柱頭を固くつなぐ方法を採っています。 註 飛貫(ひぬき)は近世以降の建物では見かけない。また、浄土堂では、胴貫の箇所は数箇所。   

[図は左が南]

柱の太さ(径):柱は下から上へと細まり、径は1本ごとに異なるが、平均すると以下のようになる。 外周柱:柱頭1.9尺 柱底2.0尺  外周柱(平柱):柱頭1.7尺 柱底1.8尺  内陣柱:柱頭1.9尺 柱底2.1尺

図の着色箇所は、飛貫および頭貫

 

 

 架構の見上げ 下図矩計図に対応する部分

主要部矩計図

 

各架構部材の組立て分解図・解説

 以下に各レベルの横材肘木虹梁など)の平面・分解図伏図を、下から順に掲載します。

 伏図は、左が南、右が北です(分解図は、国宝浄土寺浄土堂修理工事報告書から転載・編集した図です)。ただし、図の掲載順は建て方の順ではありません。建て方の順は、伏図・壁仕様の次の頁を参照ください。

 継手・仕口には、きわめて簡単な相欠き(あいがき)(合欠き継手仕口双方に使われています(下図説明)。

 

1)足固貫(あしがためぬき)

 の脚部を相互につないで固める役割。近接して胴貫のある箇所を除き、各を平面格子状に繋いでいます。

 

 

 足固貫は、南北方向、東西方向とも断面は4.3寸×3.0寸の平角材で、柱~柱間で一材としています。したがって、各方向とも内で長さ6寸落差0.5寸の鉤型(かぎがた)の付いた相欠き:略鎌:で継いでいます。 双方は、3.5寸の段差を付けて内で交叉します。それゆえ、二材は0.8寸の相欠きで噛み合うことになります。 

 に彫られる貫孔は、下図のように、南北方向は4.5寸×3.5寸、東西は5.0寸×3.5寸、したがって埋木くさびの寸法は異なります。埋木を打込まない段階は、ガタガタです。

 

外周側柱(平柱) 柱頭:1.7尺 柱底:1.8尺

 

内陣柱 柱頭:1.9尺 柱底:2.1尺

 

 普通、に使われる継手は略鎌と呼ぶ。相欠き合欠き)とは、材の双方を同型に欠いて嚙み合わせること言い、継手・仕口両方で使われるが、特に継手で材の先端に鉤型(かぎがた)を付けた場合が略鎌。下図は略鎌の各種の変形。

 

  

文化財建造物伝統技法集成より編集 略鎌の語源は不祥

 

 

2)飛貫(ひぬき)(樋貫・肘木    

 飛貫(ひぬき)は、柱列の上部を固める役割。飛貫(ひぬき)は近世の建物では見られませんが、中世の住居には使われています。

 鳥居の二段目の横材を飛貫(ひぬき)と呼びます。鳥居が門型を維持できるのは、そのためです。

 浄土堂には、足固貫飛貫までの間に胴貫(どうぬき)があるが、使用箇所が少ないために省略します。

 飛貫は、隅柱では柱を貫通し、柱を飛び出す部分は、上端を3.5寸欠きとり、南北方向を上木、東西方向を下木として柱内で相欠きで噛み合せ、肘木として使う。

 なお、秋篠寺(8世紀末~9世紀初頭建立)は、当初南面の庇部が吹き放しで、その際、頭貫の下に横に入る長押の取付く横材を飛貫と呼んでいる。

 

 

 

  側柱位置での肘木は、最下段はを貫通、下から2段目:飛貫と同高位置:は柱に大入れ、3段目はを貫通、4段目は堂内側だけで大入れ、最上段は堂内外に伸び、頭貫相欠きで載っている(上掲の断面図および大虹梁仕口分解図を参照)。

 

 

3)頭貫(かしらぬき)  と呼びますが、本来、ではありません。

 「古代寺院」の頁で触れましたが、寺院建築では、古代以来、柱頂部に柱相互を結んで載る部材を頭貫と呼んでいます。  浄土寺 浄土堂でもその呼称を使っています。

 ただ、浄土寺 浄土堂の場合は、隅柱上で直交する頭貫が、互いに相欠きで噛み合い、頂部に固定されるような工夫がされ、古代の寺院建築の頭貫とは異なり、相互を固く結ぶのようになっている。

 

 柱底は平坦で、礎石上に据え置かれているだけである。 各段ので固めれば、架構全体が一つの立体となり、その立体が礎石からはずれることは容易には起き得ないことが分っていたため、柱底を平坦のままにしたと考えられる。

 柱底には、15mm角ほどの大きさの通気口(通気溝)が彫られている。防湿のためと考えられている。

 柱 底部の通気口(通気溝)

 

解体時、礎石柱底との隙間に、上図のような深さで、調節のための飼い物(ヒノキの木片)が挿入されていた。字は飼い物の厚さ。内陣の柱四天柱は解体しなかったため、厚さだけで長さは不明。

 

 

4)大虹梁および各部材の取合

一つ置いた次の図は、この部分の、飛貫、肘木などと柱との取合い分解図

 

 

 木鼻があると組むことができないため、分解し後付けにしている(埋木:楔により、ほぼ一材と同様になる)。

 

 

に差してあるだけだが、埋木によって固定されると、同時に固定され、肘木の役割を果たす。同じく も、 に挟まれ固定され、肘木として働くことになる。下図もおなじような考え方。

 

 

 5)遊離尾垂木(ゆうりおだるき)と母屋(もや)、その取合

 

 

 

  

  

   

 

 

図版・写真は「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺発行 よりの転載になります。

(Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の壁仕様 に続きます。)