復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた

2016-11-30 11:12:35 | 復刻・筑波通信


復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた                   「筑波通信」1982年6月 刊 の復刻

〇水田の風景・・・、それは驚異的である
筑波の近在では、四月末から五月初めにかけての連休の前後が田植えの季節である。水の張られた田んぼが、少し大げさに言えば、はてしなく延々と拡がっている。
その昔、私が子どもの頃、田植え時には田んぼという田んぼは、これも大げさに言えば、人で埋っていたものだ。しかし今は、田植え機があっという間に済ましてしまう。人の手に拠っていたとき、苗は実に見事な平行直線をなして植えられていたものだが、機械になってからは、ぎくしゃくした並行線が描かれるようになった。機械の走った軌跡なのである。こんな不揃いでもいいのなら、糸を張って一直線に植えていたあの努力は何であったのかと思わずにはいられない。辺りを見回しても、人影はあちらに二人、こちらに三人・・・といった具合にまばらにしか見当たらない。昔の活気あふれる田植えどきを見知っている者の目には、噓のような、何か気の抜けた「これで大丈夫なのかな」という不安感さえ湧いてくる、そんな光景である。
中国の畑作地帯で、これも大げさに言えば地面が見えなくなるほど人が群がって土地を耕していた姿、これで農業が機械化されたらこの人たちはどうなるのかと考えた、そんな光景が対比的に私の頭をよぎっては消えた。だから、ほとんど人影の見えない、目の前の水平面の連続は、なお一層広々と見えたのである。

水の張られた水田を見ていつも思うのは、およそ人間のやってきたことのなかで、この水田開発ぐらい凄いこと、驚異的なことはないのではないか、ということだ。
この田んぼの水平面は、天然自然の海原や湖水ではない、まったくの人工の水平面なのだ。しかも、ただの水平面ではない。ただの水平面なら穴を掘って水を溜めれば直ぐできる。水田は、しかし、そんな生易しいものではない。先に水平面の連続と書いたが、それは、言わば無数に近い異なった水平面で構成されているのである。
それぞれの面が一定の水深を保ちつつ、水上から水下へと微妙な段差で隣り合う。水は、幅広い水面を成しながら、僅かな落差の《ひな壇》形の滝を落ちつつ、時間をかけて流れてゆく。落差は、勾配千分の一などざらである。建物などの排水の場合のそれは、どんなに緩くても百五十分の一程度なのだから、水田の勾配の緩さが、いかに驚異的であるか!!しかも、水田をゆっくりと流れ下ってきた水の末端は、現在のような排水ポンプのなかった時代には、自然流下で下の河川すじに戻らなければならなかった。大規模住宅団地の土地造成で排水計画をたてたところ、どうやっても末端で排水ポンプでくみ上げることになってしまうのに、ふと、隣り合う水田を見たところ、そこでは当たり前のように自然流下にまかせており、あらためて水田造成技術の卓越さに舌を巻いたという話を聞いたことがあるが、ことほどさようにこれはそんなに簡単なことではない。
つまり、自然流下にまかせ延々と続く水田風景は、単にのどかな風景として見て済ましてしまうにはまことに畏れ多い、人びとが古来為してきた一大偉業なのである。驚異的なのである
もっとも、私たちが今目にする水田は、ほとんどが、元もとは自然流下によって開かれたものを、農業の近代化により《改善・改良》を施した水田である。水源となる河川は排水を容易にするため深く掘り下げられ、給水はポンプで汲み上げることになる。これにより深田も改良される。しかし、掘り下げられた河川は全長の高低差のつじつまが合わなくなり、ところどころで排水ポンプが必要になる。
このような《近代化》により、今まで考え及びもしなかったようなところにも水田をつくれるようになり、丘のてっぺんに田んぼがあっても珍しくもないし、山林の一部が伐採されて突然田んぼが出現したりもする。昔の田んぼを知っている者の目には、こういう風景は違和感を抱かせるに十分である。
しかし、この違和感は、単に私の既製の田んぼ観と比べての違和感ではなく、よくもここまで機械に頼れるものだ、もしも台風による停電で機械がストップしたらどうするのだ?という思いも抱かせるような、つまり機械に対する絶大な信頼に対しての違和感でもある。

〇水田風景、その成り立ちの経緯
このような機械力による近代農法が水田の拡大・整備を、それなりに進めたことは確かではあるが、しかし、その基になっている私たちが「田んぼ」ということばでイメージする広々とした水田地帯の風景自体も、その成立の時期はそんなに旧いものではない。
たとえば、関東平野の中央部:利根川の南(埼玉県の北部にあたるが)その一帯に拡がる見事な一面の水田風景、背後には村々の杜が島のようにぽっかりと浮いている、こういう典型的ともいえる農村の風景:これはほとんど、高々三百年、徳川の世になってから徐々に開かれ出来上がってきたのである。水を引き、その自然流下にまかせた広く延々と続く水田開発という一大農業土木工事が営々として行われてきたのだ。
しかし、かくも見事になったのは:全面的に埋め尽くされるようになったのは:むしろ最近ということばの範囲にはいる時期のことだとみてよく、明治期には未だあちらこちらに手の付けられない湿地帯:池沼が数多く残っていた(下図参照)。



初期の機械による排水は、このような湿地帯の解消のために為されたのである。各地の排水機場のそばには、その地の水との闘いの経緯を記した石碑を見かける。それは、単なる排水機場の竣工記念ではなく、その地で為されてきた農民の苦労の積み重ね:営農の記録と見た方がよいだろう。
明治以来数度にわたり編集しなおされた国土地理院の地図(当初は陸軍参謀本部作成)を年代順に見比べてみても、そこに、人びとの努力の様態:営為の変遷を如実に読み取ることができる。
   「日本図誌体系」など、このような見かたで「時代ごとの地図」を編集した図書資料もある。
つまり、今私たちが目にする水田風景が成り立つ少し前に、しばらくの間、あちらこちらに湖沼を残したままの状態、すなわち幾たびか水田化を図りつつも一進一退を余儀なくさせられていた時期が続いたのである。
これを、単に、技術がなかったからだと見るのは簡単な話である。
しかし、技術というのは、やみくもに天から降ってくるものではない。
技術というのは、問題の解決のために編み出されるものだ。問題意識の高まりが、新しい技術を生み出す下地となる。問題意識のない場面では新しい技術は生まれないのだ。
だから、この時期は、それなりの問題は抱えていても、それを解決する技術を思いつかない時期であった、と見るのが妥当な見かたではあるまいか。
彼らには、排水すればよいのだということはよく分っていたのだが、高きから低きへ流れるという水の《原理》を覆す効率的な方策を見つけられなかっただけなのだ。排水ポンプという機械の導入によって、彼らの問題意識の高まりを抑えていた堰が切れ、あっという間に低湿地の水田化が進んだのである。
私たちは、とかく。技術が先ずあって、それを如何に利用するか、という段階へ進む、という発想を採りがちだが、当然ながら、これは誤りである。
「技術の意味」を本当に知ろうとするならば、その「時々の問題」とその「問題意識」がどのように高まり、どのように解決されていったか、その「過程」をこそ見なければならないだろう。「技術の利用」は、それを「利用」しようとする側に、「解決すべき問題」が「確として存在していることが前提」なのである。残念ながら、現在は、多くの場合、それが逆転しているのではなかろうか。
もしも、今私たちが更地の関東平野を目の前にして、その水田化を目指そうとしたとき、私たちはどうするだろうか?
おそらく、私たちは既にいろいろな水田づくりについての《知識》を持っているから、それらの知識を総動員して、低湿地の解消:乾地化から手を付ける、あるいは手は付けなくても、そのことを念頭に置いて事を進めるだろう。
更地としての関東平野には、もともと自然現象としての低湿地が各所に散在している(前掲の地図参照)。
今の私たちならば、平野全体を見回して、低・高のつじつまを考慮に入れ、低地から高地へと攻め上ってゆく方策を採るだろう。最低の地は東京湾の海面にほかならず、そこを基準面にして上へ上へと考えてゆくのが《容易》だからである。
しかし、この平野で実際に行われてきたのは、これとは全く逆に、高地から低地へと攻めてきたのである。しかも、高地から低地へ、そして次の低地へと、順次、その都度、その局面でのつじつまだけを考えて攻めてきたから、低地がより低地になればなるほどつじつま合せが苦しくなるのは当然。最終的には既存の天然自然の湿地帯に行き着き、そこで足踏みしてしまうか、あるいは、その自然の湿地帯をさらに拡げて一層始末に負えない湿地帯にしてしまったのである。江戸期末~明治初め頃の関東平野は、多分、こういう様態を呈していただろう。当時まで考えつくされた技術では、そこまでだった、と言ってよい。それまでの比較的順調な水田面積の増加は足踏み状態になり、そのような状況は、初期的な機械の導入までのしばらくの間続くのである。

〇なにが合理的か
先に述べた今の私たちが為すであろうやりかたに比べたら、現実に為されたことは、たしかに極めて非合理的ではある。しかしそれを非合理と切って捨てるのは容易なことだ。だが、そう思うのは、むしろ根本的に誤りと言ってよいだろう。結果論に過ぎないからだ。結果を云々することぐらい楽なことはないからだ。
実際にこの平野の開拓に関ってきた人びとは、合理的ではなかったのだろうか?
今の私たちなら為すであろうことをもって「合理的」と見なすのならば、確かに彼らは合理的ではない。
しかし、私たちにとって「合理的」なやりかたとは、あくまでも私たちにとってしか意味がないということを忘れてはならないだろう。
彼らもまた、彼らにとって合理的なやり方を為してきたという意味で合理的であったのだし、ことによると、今の私たちよりも数等合理的であったのかもしれないのだ。
彼らは、今私たちが機械に頼って水の流れの原理に逆らってまでして(自然の良田を一方で休耕田と称して荒地に変えながら)開田をしている様を見たら、何という無茶な非合理なことを・・と言うに違いない。
この状況について、中公新書 小出博 著「利根川と淀川」に、以下のように述べられている。
・・・・研究者は近代合理主義と経済合理主義を強く押し出して、解釈しがちになる。しかし、河川開発は、時に思わぬ猛威をふるう自然現象に対する人間の挑戦である。とくに江戸時代の自然河川に相対したとき、いわゆる近代科学を足場とする近代合理主義で理解できない部分が非常に多い。・・・
では、関東平野の開田にあたり、なぜ低地から高地へではなく高地から低地へと下りてくる方策が採られたのであろうか。おそらく、その理由は簡単な話なのだ。人は、《その時》抱いている「目的」を達成するために、《その時の状況》に於いて最も良い結果を生むだろうと予測され、なおかつその状況下で最も容易なやりかたを採ろうとするからである。この《原理》は、今の私たちにもあてはまるはずだ。
稲を栽培することに拠って生きることを見つけた人たちがいたとする。実際、縄文時代後期には、そういう人たちが居たのである。彼らは、初めに稲作について詳しく研究・学習をし尽くした上で、しかるべき土地:水田を造成し・・・、しかる後に稲作にとりかかったのだろうか。
今の私たちならそうするかもしれないが、彼らはそんな気長なことはしなかった。最も手っ取り早く、既存の自然地形の中に適当な場所を探し出した。深すぎもせず浅すぎもせず、洪水でもすぐに流されることもない、ほんの水たまり程度の湿地帯:「ぬた」「のた」「やち」「うだ」などと呼ばれるちょっとした湧き水や小川の傍、そういう猫の額ほどの谷状の場所をそのまま、手を加えずに利用することから始めたのである。
そういう所を捜しまわっては、《住めるところ》に人は定住しだした。なぜなら、彼らにはそれで十分だったからである。人びとに拠る開田という壮大なドラマはそういう場所から始まったのだ。
人びとが定着し、人口が増えると、水田も増やさねばならない。そこで人びとは、かつて彼らが自然地形のなかに探し求めていた土地と同じような状況の土地を「造りだす」ことを覚え、同時にそのための技術をも覚え、かつての自然田に続く下流へと徐々に平野へ向けて下りだす。つまり、自然利水の段階から、人びとの目的の変化に応じて、次ぎ次ぎに利水の技術が生み出される段階へと変っていったのである。これは関東平野だけではなく、どこの平野でも同様の毛化を見ることができる。つまり、人びとが最初に定住するようになるのは、平野を取り囲む山々の縁(へり)の部分だったということになる。それは、(当時の)人びとにとってきわめて「合理的な」営みであった。だから、今でこそ、人びとは平野の最低地部に集中しているけれども、古代から中世にかけては平野の縁の部分、主に、現在の県名で言えば埼玉県西部、群馬・栃木県の北部が栄えていたのである。ここで触れてきたことは、(遺跡)地図上で、初期の稲作いそんで暮した人びとの住居・村跡、水田の条里制遺構、古墳、国府の所在地、東山道の道すじ、有力荘園の所在地、古代豪族の拠点の地、あるいは中・近世の村の位置・・・などの分布状況、その性向を確かめることに拠って自ずと明らかになる。遺構・遺跡は人が何かを考え、何かを為した、その名残りだからである。下図は、関東平野の古墳の分布地図である。

このあたりの状況について、先に引用した専門研究者 小出 博 氏の著書「利根川と淀川」(中公新書)に明快な解説があるので、当該箇所を以下に抜粋する。
・・・・・・(鎌倉時代、埼玉平野の)古利根川筋、中川筋の湖沼・沼沢地帯に大規模な開発工事を行うことは、たとえ鎌倉幕府の強い 権力を背景とし、関東武士団が・・・・・多くの農民層の労役を駆使したとしても、技術的に不可能であったと思われる。
技術的にという意味は、当時この低地を乱流する利根川、渡良瀬川、荒川を治めることがむずかしいため、開発ができなかったということではない。この考えはいかにももっともらしく、良識的である。
しかしわが国水田の開発経過をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発ができない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果すというのが普通であった。
この意味で、利水は常に治水に先行する。従ってこの場合、問題は利水(水田化)のむずかしさにあったといわなくてはならない。
湖沼・沼沢の開発は、技術的に非常にむずかしい多くの問題をもっている。まず湖沼・沼沢の排水をどうするか、排水に必然的に伴う用水の確保は可能か、ということは開発に当って直面する重要な課題である。その解決は、当時まだ経験的に知られていなかっただろうし、ことに水田農業ですすんだ技術をもつ西南日本で(も、そういう場面はほとんどないから)ほとんど経験のないことである。従って広大な湖沼・沼沢に(対してその水田化へ向けて)不快関心をもったとしても、ただちに大開発をすすめることはできなかったにちがいない。湖沼・沼沢を取り囲む自然堤防に居を構え、地先を部分的に排水して低湿田とし、可能な場合にかき上げの囲堤を設け、不安定な水田を開くことがせいいっぱいで、先ず農民の発想でこれが行われたのではなかろうか。・・・・・・


〇風景の見えかた
都会の雑踏を逃れ、いわゆる《田舎》に出向いたとき、目の前に拡がる山々や川や湖沼や森、林そして田園・・・の風景。
そのような風景を、最近の私たちは、単に、《映像としての風景》=《景観》としてしか見ないようになっているのではなかろうか。目の前にする風景の「背景」と「奥行きの深さ」について想いをめぐらす、そういう見かたをしなくなってしまった・・・。
人と大地の係わりだとか風土と人間の関係などについては、確かにあちらこちらで語られてはいるけれども、その多くは観念的でリアリティを欠いているように思う。
「水田」という語を見たり聞いたりした瞬間から、《稲を植えるために仕立てた土地のこと・・》などという辞書的解説が頭に浮び、「それは人間がつくりあげたのだという事実」については思い及ばない。
そこで見えているのは、まさに《映像としての風景》に過ぎず、それと人間一般とをただ突き合わせたところで、人と大地、風土と人間の係わりが分る道理もないにもかかわらず、相変らずそのような見かたが大手を振ってまかり通っている。
稲を植えるために「仕立てた」のは、その稲に拠ってその地で生きてゆかなければならなかった人びとであった、という理解・認識が失われてしまっているのだ。
私がこの「事実」を身にしみて「知った」のは、というより、理解のいとぐちが私に見えてきたのは、筑波に移り住んで、実際にそういう風景の一画に身を置くようになってからのことだった。遅すぎたなぁと何度思ったかしれない。こういう見かたがあるのだ、大事なのだ、ということを、その時まで、学んでいなかったのだ・・・。
もしも、こういう見かた:単に映像としての風景としてのみ見て終るのではなく、その背景にまで思いを至らしめて見ようとする習慣が当たり前になっていたならば、畑や山林一つをとっても、単に〇〇が栽培されている畑、〇〇の林という扱いで済ますのではなく、これはあの村の、そしてこれはこの村の人びとが営んでいる畑・山林である、あるいは、それが今のような姿になるまでにはかく「かくしかじかの過程があったに違いない・・・」、といった、それこそまさに「人と風土との関り」がはっきりと目に見えてくるだろう。
そして、そうであったならば、仮に、そこを貫いて新しい道を通さなければならないというような場面にぶつかったときでも、いいかげんなことはできない・・・、という「正当なためらい」が心に湧き上がってくるはずだ

先日、自転車で散歩に出た。かねてから土浦市の自然保護団体が保存を訴えている宍塚(ししづか)大池を見に行ってみようと思い立ったのだ。このあたりは霞ヶ浦に続く低地が拡がっているのだが、そこだけ小高い丘陵が続いていて、その丘陵の中の谷地の一つである。
舗装された道を行くのは面白くないので、集落の点在するこの丘陵を縫って自転車を走らせた。微妙に襞(ひだ)が入り組んでいるから道は激しく登ったり下ったりする。それとともに、林があり、田んぼがあり、また林があり、畑が拡がる・・・といった風景が次ぎ次ぎに展開する。そのような山林の中で、草で覆われて辛うじて道らしいとしか思えない畦道風の道が交叉しているところに出た。どちらに行こうか思案していたところ、なんとその草陰に道しるべ、しかも石の道しるべが立っている。宍塚へ〇丁、古来(ふるく)へ〇丁、吉瀬(きせ)へ〇丁、上室(うえのむろ)へ〇丁とあった。いずれも集落名である。明治の町村合併以前は、村名であった。
今私の目の前に続いている道は、ほんの少し前まで、これらの集落を結んでいた主要な道だったのだ。村を訪れる人たちは、皆この道を歩いた。その人たちのための道しるべ
あらためて、この丘陵地がこの地域においてもつ意味、集落の立地要件、道とは何か、・・・こういったことが実感をもって見えてきた。
現代の主要道は、自動車の都合のためだろうか平坦な低地の真ん中を通る。そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。
道しるべに従って藪をこいで走ると、右手に静まり返った水面が見えてきた。まわりは繁った森に囲まれ、木々の枝が水面に被さっている。季節には渡り鳥が群れていると聞いていたがもっともだ。
これはそのまま「公園」になる、と思った。しかし、そう思った次の瞬間、ある種の違和感とでもいうべき思いが私のなかに湧いてきた。「公園」?「公園って何だ?」私に「そのまま公園になる」と思わせたのは、いったい何か?
子の近在に暮してきた人たちは、「ここは公園になる」などと思うだろうか?そうは思わないだろう。しょうもない沼地、むしろそんな風に見るのでは、見てきたのではなかろうか。私の見かたは、こういう景観:映像としての風景は公園のものだ、という見かたが、当たり前のものとして私の中に在ったからではないか。それは、私の勝手な思い込みに過ぎない・・・。これは間違いだ。
一つの映像としての風景が、見る人の見かたに拠って異なる。それが当たり前だ。この池を、しょうもない沼地と見るであろう今の農民の見かたも、それは今の見かたであって、古代の農民なら、もってこいの田だ(田になる所だ)、と見たかもしれないのである。
ものごとを「一つの見かた」で一律に処理することがどんなに危険なことか!都会人、都会に育ち、慣れてしまった私たちは、これまでどんなに多くの「見間違い」を押し付けてきたことか・・・。
この池を目の前にして私の頭の中に去来したこと、思い至ったこと、それは私にとって久しぶりの衝撃的なできごとだった。
帰りはバス道路を行こうと思い、往路と逆に谷地沿いに走りだした。谷地に沿って、今では滅多に見られなくなった昔ながらの不整形の田んぼが続いていた。傍に苗代があり、田植えの準備が始まっていた。ふと見ると苗代の端に向かい合わせに二本の太めの竹が突き刺してあり、その先に黒いものがぶら下がっている。何だろうか?近くに寄ってみた。カラスの死骸であった。鳥避けなのだった。多分、近代以前から代々引き継がれてきた方策なのだ。
近代は突如として近代という形を成して私たちの目の前に現れたのではなく、常に前代の人びとの営みを引きずっている、ゆえに近代以前が今・現在と共存することが在ってもおかしくない、そのことをこのカラスは教えてくれたのである。


〇「知ること」「分ること」「ためらうこと」
先に、「・・・・そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。・・・」と書いた。それで当たり前なのだ。今の日常の生活は今の現実との対応で明け暮れるのだから、それで当たり前なのであり、それは都会からの移住者にとっても、代々この地に住んできた人にとっても、《現象としては同じ》だろう。昔はどうだったか、などとも思いはしまい。しかし、同じだというのはあくまでも《現象として》なのだ。新規の移住者は単純に知らないからそう思うのであり、代々この地に住んできた人たちは、知ってはいたけれども現実の暮しのなかで、単に忘れてしまっていたに過ぎない。だから、必要に迫られたときには、かつての方策を、近代農法の世の中でも、思い出すこと:もちだすこと:ができるのである。
これを非合理だとか残酷な仕打ちだ、などと思うのは、多分、近・現代は突如として近・現代というかたちを成して目の前に現れた、とでも思い込んでいる人たちだ。
   今でも、近在の種子を蒔いたばかりの畑で、こういう風景を、普通に見かける。本当に効き目があるようだ。
それぞ入れの地域・土地で、人びとは、その時の「今」を、」その時の「昔」を意識下にしまいながら生き、そしてその「今」を、その時の生活を基におき、《変えてきた》のである。それが「生活・暮し」というものなのだ。「その時の今」に生きている:暮している人びとにとっては、「その時の昔」は《空気のようなもの》でしかないだろう。だからそれらは、日常眼中にないし、よほどのことでもない限り頭に浮んでこないだろう。それが「当り前」ということの意味だ。
そしてまた、おそらく、近代以前にあっては、その土地に新しく移り住んだ人びとが先ずやったことは、その土地の「空気のようなもの」を知ろうとすることではなかったか。
なぜなら、人びとは、日ごろの生活・暮しから、そうすることが、それこそが、今その土地で生きる・暮すことだということを知っていたはずだからである。
そして多分、その地で何ごとかを為すにあたっては、必ず、「これでいいのだろうか」という「思い」「ためらい」を抱いただろう。それは、単なる《新入り》の遠慮のそれではなく、「正当なためらい」であった。

今私たちは、ともすると、その僅かな期間現代に暮した経験だけを基に(しかも多くの場合、都会で経験することが唯一絶対だと思い込み)「一つの映像としての風景」に「一つの見えかた」だけをあてがい、一律に処理して済ませてしまっている。
そして更には、今現在の私たちのとる「見かた」、そしてその「見かた」を形成した私たち自らの「経験」に、私たちの「意識下にある昔」「空気のような存在の昔」が大きな比重を占めているという「事実」に気付かず、何ごとも自分が編み出したかのような錯覚に陥っているのではなかろうか。
とりわけ、近代合理主義的な思考法に徹すれば、率先して「空気のようなもの」は切り捨てようとするだろう。というより、端(はな)からそんなものの存在は認めないだろう。
日ごろ吸っている「空気」の存在を知らず認めず、《現代は現代という形を成して突然現れた》と思い込んでいる《幸せな》人たち。今や、《建築や地域の計画の専門家》と称する人たちの多くは、この《幸せな》人たちになってしまっている。そして、彼らの為していることの多くは、私たちにとっては「環境破壊」以上に怖ろしいことなのではなかろうか。
逆に言えば、この「空気のようなもの」を、「専門家」こそ、専門家である以上、積極的に、意識的に見よう、捉えよう、とすべきなのではないだろうか。
何ごとかを為すにあたって、私たちは、一瞬でも「ためらうこと」が必要なのではあるまいか

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地震

2016-11-22 14:04:56 | 近時雑感

近くの森の紅葉です。手前左は、つぼみをつけ始めている梅の木です。

今朝は、地震で目が覚めました。かなり大きかった。
気象庁発表では、当地は震度4とありましたが、棚のものが落ちるなどということもなく、そこまで大きいようには感じませんでした。

幸いなことに、震源に近いところでも、今のところ、大きな被害の情報はないようです(22日午後1時半現在)。

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復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」 とはどういうことか

2016-11-14 09:35:10 | 復刻・筑波通信

                                                                                     夕暮れの筑波

原文が春に書いたものであるため、今回の書きだしが季節外れの風景の描写から始まります。
また饒舌部分をかなり整理しましたがそれでも長文になっています。ご承知おきください。


復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」とはどういうことか                 「筑波通信」1982年3月28日刊 の復刻

降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりも霞んでいる。
もう少し陽射しが強まれば、陽炎の季節だ。葉の落ち切った木々も、いつの間にか、冷たい灰色から温かみを増した灰色に変ってきている。
目を遠くに霞む高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪であったらしく新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。こういう頃、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。
ここ二年ほど、ある仕事のために、関東平野を東西に、数えきれないほど往復してきた。それぞれの季節の平野の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見られるようになってきたように思う。まったく同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。
今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描き出してくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。今私は、後方:東の方に広く霞んだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端:いわゆる関東山地の麓の町や村のなかを車で走っている。
昔名がらのつくりの店や現代風なそれが並ぶ街並みをはずれ、道は、多分地形に応じているのだろう、微妙に曲がりくねり、あるいは小さな起伏を繰り返し、気が付いてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。
そういうとき、突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、「いいなあ」という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。
このあたりの家々には、切妻の瓦葺き総二階のつくりが多い。釉をかけた瓦ではないから、にぶい色をしている。切妻の単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が眩い。
家々のまわりに、遠く近く、家並みの背景を成している温かみを帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、多分、今が盛りの梅の花だ。
こういう見事な家並みの光景は、別の季節でも、もう何度となく見てきているけれども、木々が葉をつけている時季には、家並みも木々に埋もれてしまい、こうはくっきりとは見えないのである。
もちろん、四季折々の光景も、それぞれがそれなりの風情があるのだが、たとえば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもそれなりだが、ちょうど今ごろの、冬の静けさから覚めこれから先の賑わいを予感させるような風光が、私は好きだ。
多分、こういう家並みを初めて見る人には、家々がどれも同じ家であるかのように見えるのではあるまいか。
先にも触れたように、このあたりの家々は、大体東西に長い長方形の平面で、棟も東西に走る。軒の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手:南面には、出桁(だしげた)造りに拠る出窓様の突き出しが全面にわたって延々と付いている。どの家も同じと言っても過言ではない。したがって屋根面もかなり大きい長方形になる。
こういった家々が、南向きの緩い斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえて並んでいるので、山肌は同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったように覆われてしまうことになる。だから、一見すると、同じ形の家が、同じ向きにひしめきながら並んでいるように見える。時折混じる寄棟や入母屋屋根の家は、異様なものに見えてしまう。
しかし、このどれも同じように見える家々も、じっくりながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気付く。同じようでいながら一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて次々に目の前に現われる家々は、一軒一軒違っていて、十軒十様の顔をしている。
この山あいの村に入り込む前に、街の街並みを少し外れたあたりで、向いの山の斜面に、最近開発されたらしい住宅地を見かけた。建設中のも含め、住宅がひしめいていた。それでも、都会近辺のそれとはちがい、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混み方は、この辺の村村のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の家並みと大きく違う点なのだが、この信仰住宅地の家並みは、見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様の姿をしている。
ここで、二つの風景に対して、同じ「十軒十様」という言葉を用いたが、明らかにその意味する内容は同じではない。この二つの風景は質が違うからである。
この違いは何なのか。なぜ違うのか。社会が変り、生活が変り、人は変り、・・・、技術も変った・・・、それ故なのだろうか?第一、昔と今は違ってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何か、なぜ違うのか、などと問うことは、無意味なことではないか?
私はそうは思わない。
この「違い」、「この違いを生じさせているもの」、そこにこそ重要な問題があるはずなのだ。ゆえに、「この違い」は、一考に値する。
結論から先に言えば、この違いはその「成り立ち」の違いであり、唐突に聞こえるかもしれないが、それは「人それぞれ」ということに対しての、「個人」ということに対しての、今と昔の理解の仕方の違いに拠るのだ、そのように私は思っている。
ここまで、度重ねて「人それぞれ」ということを、改めて問い直してみるべきだ、と書いてきた。何を今さら、と奇異に感じる方もおられるかもしれない。個人は個人、人はそれぞれ、それは当たり前であって、今さらこと改めて言うことなどあるまい・・・。
しかし、これはそんなに簡単・単純な、考え直す必要は何もない分かりきったことなのだろうか?

今、ごく一般的な設計の場面では、この「人それぞれ」は、如何に理解・解釈されているのだろうか?
一般に採られているのは、いわゆる個人の住宅は個人個人に応じて建てられる、しかし都市社会での大量供給の住宅づくりの場面では、個人対応が成り立たずいわゆる「不特定多数」を相手にすることになるから、個人個々人に応じて用意することは現実問題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決っていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決めてそれをその多数に対応させざるを得なくなる・・・、こういう理解・解釈・考えかたであると言ってよかろう。
この理解・解釈の根底にあるのは、人はそれぞれ「まったく違う」のだから、本来、人それぞれに応じて一軒一軒まったく違うのが当り前だ、とする考えかただろう。
それゆえ、使用者を特定できない大量供給の住宅や、その利用者を特定の個人に限定できないいわゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用の様態を、如何に一つに括りこむかが課題、と考えられるようになる。
実際ここ数十年、この不特定多数の人びと:使用者・利用者の needs をどう捉えるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するかが、いわゆる公共住宅、公共建築の設計・計画の場面で(同様に、大量生産されるいわゆる工業製品の設計・計画の場面で)設計者・デザイナーそして研究者たちの頭を占領していた「問題」であった。そしてこの間、こういう考えかたに対して誰も疑問を抱かなかった、と言っても過言ではないだろう。
使用者・利用者あるいは注文者としての一般の人びとも、こういう考えかたにいささかも疑いを持たず、個人で受託を建てることができる場合、精一杯その個性:それぞれの違いという意味での個性:を具現化する、そう思ってきた、と見なしても、これも過言ではなかろう。それは、メディアではなやかに宣伝される〇〇ハウス、〇〇の家・・などのセールスポイントに、如実に表れている。
その根底にあるのは、《如何に他との違いを形あらしめるか》、という考えに他ならない。それは、「人それぞれ」とは、人それぞれが己の見えがかりに現われる違いを競い合うことである、とでも言うかのようだ。実際昨今の大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、買い手・使い手である個々人に、如何に人とは違うという感覚を抱かせるか、という点にあるのだという。それは、「隣りの〇〇が小さく見えます・・・」「これには〇〇が付いています・・・」などというキャッチコピーに、みごとに反映している。
これが昨今のものづくりの場面で考えられている「人それぞれ」観である、と見なしてよいのではなかろうか。
そして、このような考えかた、すなわち、人はそれぞれまったく違うのだから、それに対応する諸事もそれぞれまったく違って当然なのだが、対応相手を特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つに絞りこむしかない・・・、この考えかたこそ、結果として現代の街並み・家並みをつくりだしたのである。一方でまったく画一的な同形の建物が建ち並ぶかと思えば、その一方では逆に見るからに十軒十様の建物が建ち並ぶ・・・、こういうまったく対極の風景が、この全く同じ考えかたの下で生み出される。
そして、この二つに分極した風景の挟間に、所在なさげに昔ながらの村々の風景が残っている・・・、これこそ、今私たちが目の当たりにする街並み・家並みの実態に他ならない。
では、この昔ながらの村々の風景は、いかにして成り立ったのヵ。それを成り立たしめた時代、人それぞれはそれぞれであるという考えかたがなかった、つまり人が皆各位乙的であったからなのか?ひとびとがその個性の表出を規制されていたからか?しかし、いずれであるにしろ、今の当たり前の考えかたでは解釈できないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、言ン位そうしつつある。価値を認めるとすれば、《文化財》として、あるいは《観光資源》としてのみなのではないか。現に、今、「文化財=観光資源」と見なすのが《普通の感覚》になっている。

「十人十色」という成句がある。辞書には、「人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと」とある。要は、「人はそれぞれだ」ということである。それは、単純な意味で《さまざまだ》ということなのだろうか。
そこで、私たちが「十人十色」という言いかたを、いかなる場面で用いるかを考えてみると、それは決して、単に《さまざまだ》とか《いろいろある》という場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われる、ということに気付く。さまざまな国のさまざまな人が集っているからといって、あるいはスキー場で色とりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを「十人十色」とはまず言わないと思う。「十人十色」という成句が私たちの口を突いて出るのは、ことあらためて「人それぞれ」ということを私たちが意識させられたときなのだ。
すなわち、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、なにごともなく平然・平穏に過ごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこの成句が使われるようなのである。
たとえば、ある目標へ向うための具体的な行動方針を決めようとする会合で、目標自体はなにごともなく了解されても、具体的なやりかたについていろいろと案が出され、それぞれ一理あって決め手を欠き、一つに決めあぐね、見通しもたたないままにお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えを持ったもの同士、あらためて考えかたの多様さに気付き、先を思い、半ば嘆くようにぼやく、そんなときに「十人十色だからなぁ」などという具合にこの言葉はとびだすのだ。辞書にある「思う所」の違いである。あるいはまた、「好む所」の違いにあたるのでもあろう。
また、ある場面で、そういう場面でめったに見かけることのない格好の服を着た人が現れ、それが意外とその人にも場面にも合って《さまになっている》、そんなときにも、半ば感嘆の意も込めて、この言葉を口にする。
つまり、「十人十色」という成句には、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスも込められている、とも言えよう。

ここで注目しなければならないのは、この「十人十色」という成句が意味する「人それぞれ」の「それぞれ」は、決してその人それぞれが互いにまったく無関係なのではなく、むしろ、互いに関係しあう「お互い」の一員である、ということである。
すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことを普段は意識しておらず)、その上で、それぞれの振舞いかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、ということをこの「十人十色」という成句は言っている、のである。

このように見てくると、私たちはそれほど深く考えもせずに「人それぞれ」と思い、言っているけれども、「人それぞれ」という言葉の意味には、「それぞれ」の解釈の仕方により、二様の捉え方があり得るということが分かってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集っているが故の「それぞれ:多様」という意味と、異種のものが集った上での「それぞれ:多様」という意味、この二様である。簡単に言えば、「根っから違う」のか、」それとも「根は同じ」であるか、この二様である。そして、「十人十色」の意味するものは、これまで見てきたとおり、明らかに後者の意:「根は同じ」であるが互いに違う、という意:に他ならない
しかしながら、いわゆる現代的な考えかたでは、「人それぞれ」あるいは「個人」ということについて、明らかに、前者の意味、すなわち《多種であるが故の多様である》という意味:根っから違う:という意で捉えられているのである。
従って、人の集団とは、根っから違う個人の群れであり、故に互いに無関係であり、互いに共通の場面などそもそも存在せず、それぞれが独自の場面を持っている、そういう理解になる。けれども、私たちは、こういう現代的な考えかたの特性について、その中に埋もれこんでしまっているため、少しも気付いていない。  

対話・コミュニケーションが不足している、回復しなければならない・・・などとよく言われる。
しかし、互いに無関係な間柄の人と人の間のコミュニケーションは可能だろうか?コミュニケーションを回復しなければならない・・・、と言われるのは、それがないがしろにされているからであって、そうであるならば、ただ単に、その重要さを説くだけで済むわけがない。
何故ないがしろにされているのか、されるようになったのか、をこそ問わなければならない。
そう問うことで直ちに分ることは、私たちが互いに無関係な人の集まりであるという「前提」を固持している限り、コミュニケーション・対話は、そもそも存在し得ない、という単純な「事実」である。
すなわち、コミュニケーション・対話は、人と人がある局面を共有している、あるいは共有できる、という前提があってはじめて成り立つのである。
つまり、現代的な「人それぞれ観:人は互いに根っから違うとの理解・解釈」の下では、対話は存在しなくて当たりまえなのであり、対話・コミュニケーションが不足を嘆くこと自体矛盾しているのである。
そうでありながら私たちは、その不足を嘆き、回復を望み、その必要を説く・・・。
ならば、私たちは、その前提を問い直さなければなるまい。

では、「人それぞれ」という言葉は、いったい、どのような意味として理解・解釈したらよいか?
和辻哲郎が、その著書「風土」の冒頭で日本人のよく交わす時候の挨拶について、次のように書いている。
   ・・・寒さを体験するのは我々であって単にのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い表す
   言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ず
   るという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。・・・

「人それぞれ」とは、言い換えれば、「個々の私」ということである。「私」と他との関係について述べたこの一文ほど、「人それぞれ」ということについて、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないのではあるまいか。
先に、「十人十色」という成句の使いかたの検討の際に見えてきたその意味、すなわち、互いにある共通の基盤を認めあった上でのそれに対する個々の振舞いかた:身の処し方、つまり「思う所」「好む所」がそれぞれに違うということ、それが「人それぞれ」ということなのだが、しかし今、私たちは、このことをすっかり忘れてしまっているのではないだろうか。
言うまでもなく、私たちが何の共通基盤も持たない、あるいは持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間には、ことば:言語は存在しなかっただろう。
以前にも書いたが、私たちが『冬』という言葉を持ち得ているのは、私たちそれぞれが、それぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ異なるイメージを抱きながらも、『冬』という「概念」を共有し得ているからである。だからこそ、互いに冬について語ることができるのである
このことは、「方言」の存在、あるいは「地名」の付けかたを考えるとよく理解できるように思う。いずれも、ある地域・土地に暮す人びとの間に「共通基盤」がなければ存在し得ないからである。

このように考え直してみると、昔ながらの村々の風景の成り立ちが、よく理解できるのではなかろうか。
その土地に暮す人びとは、「その土地に対する共通の認識」を持っている。平たく言えば、「同じもの」を見ているし感じているのである。その上で彼らは暮している。その土地との関わりかた、彼らにとっての「その土地の意味」、そこで生活を営むことの意味、・・・それは共通なのだ。
互いに違う・異なるのは、彼らが共通に認識していることの、個々人のいわば《運用のしかの違いた》、あるいはその《取り込みかたの違い》、つまり、その共通基盤に対する思う所、好む所の違いに過ぎないのである。家の間取りも、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そしてその敷地の選定についても、長い間のその地での体験の蓄積のなかで、その地で暮してゆく上での適切なやりかた:方針(それは「思想」と言ってもよく、それは必ずしも目に見えるかたちを成しているわけではないから、一見の訪問者には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人がそれぞれの家でのその「方針」の具現化の場面に於いてなのだ。ゆえに、「同じようなもの」はあっても「同一のもの」はなく、また逆に、「同じような点が何一つない」などというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、「方針」を崩す:「思想」を異にする:わけではなく、あくまでも同じ「方針:思想」の下、個々それぞれの場合に応じて、いわば臨機応変にその具現化にあたっている、と言ってよいだろう。
これに対して現在は、ある土地に家を建てる人たちは、その土地への共通の認識を持たず、持とうともしない
それぞれが、《それぞれの敷地:それぞれの地面としての土地》に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る認識を持つだけなのだ。

今回の冒頭「・・・突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。・・・」という「感想」を書いた。
この「感想のなかみ」を考えてみる。私はいったい、そこに何を見たのか?
私はそこに、単に《美しい絵》を見たのではない。私はそこに、そこに暮す人びとの「共通基盤」を見たのである。より正確に言えば、私がその土地に住むとしたら、「その基盤とするであろうもの」をそこに見たのである。私がその地を見て得たものが、既にそこに暮している人びとが得ているものと変らないこと、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり、その地で私が為すであろうことと、彼らが現に為していること、その両者が一致する、すなわち「分った」(という気になれた)のである。ゆえに、素直にその世界に馴染んでゆくことができ、それが先の「感想」となったのである。
しかし、「現代の住宅地」の風景には、残念ながら私は、私と共通の基盤をまったく見ることだできない。それは、私に《見る力》が欠けているからだろうか?そうではない、と私は思う。
それは、それらが、もともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、「互いに分る」ということを無視・黙殺するところから始まっているからだ。「人それぞれ」ということを、互いに根っから違うこと」と考え・見做すことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界に馴染めない。
大抵の場合、こういう風景は雑然として滅茶苦茶な印象を与える。
そして、そのような場面に接すると、「環境との調和」ということが説かれるのが常だ。
しかし、私には、この「環境との調和」という《ことば・思想》を素直に受け入れることはできない。
何故なら、調和しているとか調和していないとかいうことは、単純な「見えがかり」:「表に現われた形」の話であるはずがなく、従って当然、よく言われる「修景」などという表面的な処理でことが済むようなことであるはずもないからだ。
そもそも、そのような結果を招いている因は、見えがかりにではなく、その成り立ちの根底に潜んでいるのである。

おそらく、設計という作業に於いて基本的に為さねばならないのは、ある場面・局面に於ける(人びとあるいは私たちの)「共通の基盤」を探すことと言ってよいだろう。それはすなわち、先ず、いかなる局面に置かれているいるかを見ることであり、そこに於ける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面に置かれている十人として見ることから始まるだろう(昔はそれがあたりまえであったから、意識せずにそうしていたが、今は意識してやらなければならない)。
従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことがこの作業の主たるなかみとなる。
考えてみれば、この「共通の認識」となるものこそ、私たちがつくるもののいわゆる「機能」というものなのではなかろうか。そこから先の個々の違いは、まったく臨機応変的にいわば応用問題を解くことにより生じることでしかない。そしてそこにおいて、好む所・思う所の違いが出てくるのである。
しかし、この「共通の認識」「共通基盤」は、私たちの外から一方的に与えられるものではない。また、そうあってはならない。
それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、たとえば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのである
つまり、私たちの「共通基盤」は、私たちが自らの感性に自信をもって依拠することによって生まれるものでなければならないのだ。
そして、そうであるために、私たちは、常に、自らの感性を研ぎ澄ましていなければならない。、
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   最後まで読んでいただき有難うございました。
コメント (4)
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冬至も近い

2016-11-10 10:40:49 | 近時雑感


一昨・8日は立冬
ここ数日、朝の散歩道の枯れ草が濡れています。多分霜が降りたのでしょう。

ドウダンツツジの葉も日ごとに紅さが濃くなってゆきます。近在のケヤキもいい色になってきました。
昨日は木枯らしが吹きました。

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早くも11月!

2016-11-02 10:04:03 | 近時雑感


私の住まいの近在には、あちらこちらに柿の木があります。
今年は生り年なのか、今、どの木もたわわに実をつけています。まさに「秋」の光景。
昔なら、子どもたちが、道すがらもいで食べたものですが、最近はそういう風景は見かけなくなりました。今日も朝から鳥がつついています。

11月になり、朝の冷え込みが一段と増したように思います。
茨城県でも、北の方では、霜が降りたようです。このあたりも、もうそろそろでしょう。

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