続・《斬新なデザイン》って何?・・・《建築家》の正体、露顕!

2015-07-18 10:02:27 | 形の謂れ


今日は、雨中に清々しく咲く山百合とはうらはらの、鬱陶しい話になります・・・。


国立競技場の件、設計競技の審査委員長を務めた《建築家》の記者会見での「発言」が報道されていました。
私にはきわめて「恥ずかしい」「聞くに堪えない」内容でした。

彼は言います。「設計競技は、アイデアのコンペで、コストの議論はない・・・・・」
これを聞いたら、明治の先達、滝 大吉 氏は絶句するのではないでしょうか。
   「建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を
   工夫する学問

   これは、滝 大吉 氏の「建築(学)」の「定義」です。これは、時代を問わず、真理である、と私は考えます。「理」が通っているからです。

この《建築家》の「建築観」では、アイデアは、コストとは別の問題、という「認識」が根底にあることになります。
そういう《アイデア》は、私に言わせれば、まさに「絵に描いた餅」以外の何ものでもない。

更に、こうも言う。「宇宙から舞い降りたような斬新な案に心を動かされた?!
こうも言っているらしい。「あのアーチが、競技者に高揚感を与える・・・
私は、この《建築家》の「心」と「視座」に疑義、そして何よりも「不安」を感じました。大丈夫か?正気か?

「宇宙から舞い降りたような斬新な案・・・」、多分これは、設計案の「外観図」を見ての彼の「率直な感想」なのでしょう。この外観図は、「鳥瞰図」、bird's-eye view と言います。つまり、鳥の目で見た図という意味。
実際、こういう具合に見えるのは、神宮の杜に棲む鳥たちだけでしょう。
競技場を訪れる観客の目にはもちろん、競技場で競技する「選手」たちの目にも、絶対に見えない視点です。
つまり、彼は、単に、この「」に「心を動かされた」に過ぎず、そこに在る「競技場」に心を動かされたわけではないのです。
大きな勘違いと言うべきでしょう。
先回「意匠」:「デザイン」の語についての「新明解国語辞典」の解説に、買う人の注意を引くためにする製品や美術工芸品などの形・色・模様などについての新しい考案とあることを紹介しました。
彼の設計・デザインについての「理解」は、まさに、この「解説」の域に留まっているのです(提案者も同じです)。

ましてや、「アーチが競技者に高揚感を与える・・」だと?
おそらく、競技者にとって、彼の視界をさえぎるこの巨大なアーチの黒い影は鬱陶しいもの、気持ちを殺ぐものに映るはず。競技者は、広々と眼前に天空が拡がっていることを望むに違いありません。
つまり、かの「審査委員」の《建築家》は、「豪快なアーチ」⇒「高揚感」・・・、という「連想ゲーム:言葉遊び」に夢中になっているに過ぎないのだ、としか私には思えません。
君は一体「何」を「審査」したのですか?

今回の事態を見て、いつかコメントで指摘があった、東急東横線「新・渋谷駅」の「判りにくさ」、「使いにくさ」の因は、その設計者であるこの《建築家》の思考構造にあるのだ・・、とあらためて再確認でき、納得がゆきました。
彼にとって、おそらく、駅を通る人びとは、単なる「点景」、彼のつくる《造形》の「お添え物」に過ぎないのです。
   註 私は、幸いにして、東急渋谷駅を使うことがないので実感はありませんが、その「分りにくさ」「不便さ」は一品だそうです。

今回の「事態」に拠って、いわゆる《著名建築家》の正体が、鮮やかに露顕した、と私には思えました。
更にこれは、単に一《建築家》の問題ではなく、彼らの造るものをもてはやしてきた「建築界」全体の問題でもあり、
そしてそれを唯々諾々として鵜呑みにして認めてきてしまった(《専門家》《有識者》の《見解》を無批判に受け入れて平気な)当世の社会全体の問題でもある。
今こそ、何ごとによらず、自由闊達に「王様は裸だ」と、個々人が発言し続けることが求められているのだ、と私はあらためて思いました。

   以前に書いた同様の記事 : 「ここに《建築家》は要らない」 も折があったらお読みください。[追記 19日 9.00am]

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《斬新 な デザイン》 って何?

2015-07-11 15:21:13 | 形の謂れ

梅雨空の下、咲き誇るムクゲ。

「国立競技場」の件、だいぶ騒がしい。
この競技場の「計画案」については、当初から、「斬新なデザイン」という「表現」が使われ続けてきました。相変らず使われています。
これに、私は、当初から「違和感」を感じ続けてきましたが、ずっと黙ってみてきました。
しかし、やはり、これは看過できない、看過してはならない、「異議」を唱えておかなければならない、と思うようになった次第です。

斬新」とは、「新明解国語辞典」には、「趣向がきわだって新しい様子」とあります。
「新漢和辞典」には、「斬」は唐時代の方言で、「はなはだ・きわだって」の意で、ゆえに「斬新」とは「非常に新しい」こと、とあります。「広辞苑」も「新明解国語辞典」と大差なく「趣向のきわだって新しいこと」とあり、用例に「斬新奇抜」とあります。
趣向」とは、物事を実行したり作ったりする上のおもしろい(変わった)アイデア」とあります(「新明解国語辞典」)。
「デザイン」は、訳語として、一般に「意匠」があてられますが、「意匠」とは「趣向」の意と解されています。
要するに、「斬新なデザイン」とは、「(競技場としては)目新しい、今まで見たことのない(奇抜な)形」である、ということになるのでしょう。

しかし、いろいろ語られているなかで、「競技場とは何か」という論議がまったく見られないのが、私には不可解でした。

私の見解は、きわめて簡単です。この計画案の形態には「形の謂れがない」。

話題の主題になっている「巨大なアーチ」、競技場として、これでなければならない必然性があるか?ということです。
これは、単に、提案者が「やってみたかった」にすぎないのではないか。
何故「やってみたかった」?人の目を引くから・・。

この場合の「人の目」は、多分、設計競技の「審査委員の目」のこと・・・。
「新明解国語辞典」の「意匠」の解説の一に、「意匠の語は、デザインの訳語、買う人の注意を引くためにする製品や美術工芸品などの形・色・模様などについての新しい考案。」とあります!
言い得て妙。おそらくこれは、今の世の一般の「《デザイン》観」を総括した文言と言えるかもしれません・・・。
   多分、こういうものの見かたの延長上に《差別化》という「概念」もあるのでしょう。

報道を見る限り、設計競技の審査において、「競技場とは何か」という「本質的な」視点が論議された、という「形跡」は、見当らないようです。今回の件について批判的な「識者」の「見解」も、専ら「工費」の話。

建築学とは、木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を工夫する学問」という「文言」は、何度も紹介してきましたが、明治に西欧の建築工法を紹介する書を書いた滝 大吉の言葉です。
   この文言は、まさに、「デザイン」「設計」という「概念」の定義と言ってよい、と私は考えています。

この「文言」には、「何をつくるのか」については、「言うまでもないこと」という「前提」があります。
この、「言うまでもないこと」は、当時の専門家には、専門家として「あたりまえのこと」だったのですが、当今の《建築専門家》(今回の設計競技の審査委員も含む)にとっては、必ずしも「あたりまえ」ではありません。

   先にリンクした「形の謂れー8・・・再び建物とは何か」で詳しく触れています。
そうであるにも拘らず、「競技場とは何か」という「本質的な」論議が見られないのです。
いったい、「競技場」とは何か
私の「理解」は、次のようになります。すなわち、
各種「運動・スポーツ」を得意とする人びと(通常の語で「選手」)が、一堂に会して、その技と能力を競う場所であり、その場所へ、一般の人びとが、「日常の生活の時間」を割いて集い、(「選手」たちの)「競技」を観て、ある種の「感懐」を抱いて再び「日常」に戻る、そのような「運動・スポーツを得意とする人びと」と「一般の人びと」の「邂逅の場」、それが「競技場」である
   これは、「学校」を、単なる「教室の集合体」ではなく、「子どもたちが、その日常の一部を過ごす場所」、
   また、「病院」とは、単に、諸医療専用室、病室・・からなる、のではなく、病んだ人びとが、その「治療」のために「日常を過ごす場所」
   と理解するのと同じです。
   このあたりについては、「形の謂れ-8」で触れています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続々・「手摺」考・・・訂正

2015-04-12 14:29:08 | 形の謂れ


ヤマザクラが咲きだしています。この風情の方が、私は好きです。今朝、近くの林中で。


昨日、例の《斬新な》手摺のある駅に行く機会があり、あらためて、その手摺を横から眺めて、先の「階段の簓状に倣って段状・簓状の形をしている」旨の説明描写は正しくないことに気付きました。
正確に描写し直すと、次のようになるでしょう。
ほぼ水平の部分が、ほぼ踏み面の長さほどあり、そこでパイプは円弧状におよそ100度~120度ぐらいの角度を成して斜め下に曲がり、ほぼ蹴上げ寸法程度の高さ分降りると逆に同様の円弧を描き水平部分に移ります。
これを連続して繰り返しますから、横から見ると、全体は「波線」の形をしていることになります。そしてそのリズムは、階段の簓形とは直接的には無関係のようです。

しかし、いずれにしろ、手摺に頼ろうとする者にとって、これが使い物にならないことには、何の変りもありません。

今回は、用心のため、杖を持参していましたが、降りるときに、この手摺の使用に《挑戦してみよう》と試みました。
この手摺は、左側通行の階段の降りる側、つまり、左側の壁に付いています。ゆえに左手で使います。
ほぼ水平のところは問題はないのですが、斜めに曲がり下るところで、手首をが下向きにしてパイプに接する、あるいは握る、ことになります。[文言改変]
そういった手首が下向きでパイプを握る姿勢は、健常であっても、万一の時、体を手で支えるのは、かなり難しいはずです。ゆえに、そのとき、「不安」を感じます。[文言改変]
したがって、この手摺に頼ると、手摺の波形のリズムで「不安」が繰り返し襲ってくることになります。
これでは手摺に頼る意味がない。
そこで、二段ほど手摺を使って、結局この手摺に頼るのはやめて、右側にある「普通の」手摺を使いました。

そこで、新たな疑問が生じました。この「波形手摺」の「発想」は、いったい何に拠っているのだろうか?
いろいろ想像してみましたが、分らずじまいです。
ただ、「普通」: ordinary ということの「意味」をも考える契機にはなりました。

さて、この《斬新な手摺》のある駅は、JR御茶ノ水駅です。同駅の「お茶の水橋口」のホームへ降りる階段の左側壁に付いています。
御用とお急ぎでない方は、人混みの少ない頃合いを見計らって、「体験」してみていただくと、多くの「知見」が得られるのではないかと思います。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手摺」考:補足・・・・「手摺」 と 「取っ手(把手)」

2015-04-09 10:02:05 | 形の謂れ
先回触れた「手摺」の話について、誤解のないように補足します。

先回話題にしたのは、階段など歩行の場面での「手摺」についてです。普通「手摺」というとき、他の場面での「手摺」もあることに触れないと片手落ち、誤解を生む、と散歩中に気が付きました

他の場面とは、すなわち、便所のブースや浴室などの「手摺」の役割のことです。
   こういう場面に使う場合も、一般的に、「手摺」と呼んでいるのではないかと思います。
こういう場面では、先回書いたような、「手を添える(沿える)」ことができればいい、という話は通用しません。
そういう時は、「手摺」は、「掴める」ことができないと役に立たないからです。
手で「手摺」を掴み、そして「手摺」を引っ張り寄せようとすることで、逆に体を所定の位置まで動かそう、とするからなのです。
引っ張り寄せようとしても「手摺」は動きませんから、逆に「体の方が動く」わけです。

したがって、そのように使われるためには、そういう場面の「手摺」は手で掴めることが必要条件なのです。

その意味では、「手摺」という語は適切ではありません。
日本語で相応しいと思われる語を探すと、「取っ手(把手)」という語があります。「手で持つこと」「手で掴むこと」のための「部分」を指す語です。
英語では handle になります。bar も使うようです。


もちろん、こういう場面でも、単に「手を添える」ことができればいい、という人もいます。
しかし、ここでは、「容易に手で掴めること」が必須条件になるのです。具体的には、「掴みやすいこと」「滑りにくいこと」などが要件になるでしょう。
   手で掴むことの不自由な方は、こういう場所での自力だけでの行動は無理で、介護が必要になるわけです。

   私自身のリハビリ病院での体験で言えば、ステンレスパイプの「手摺」:「掴み棒」は、石鹸の付いた手が滑りやすかった記憶があります。
   また、パイプ径はなるべく細い方がいい、と思いました。そうすれば、パイプを「握る」「しっかりと掴む」ことができるからです。
   もちろん細すぎてもダメ。実際に試してみる必要があります。「握る」とはどういう様態なのか知るためです。

   鋼管の「手摺」に、竹の節のような、突起をつくりだしているアアルトの設計があったように思います。掴んだ手が滑らないようにする工夫でしょう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「手摺」考・・・「手摺」とは 何か?

2015-04-08 17:10:03 | 形の謂れ


ご近所のお宅の道路境のブロック塀に添って、立派な枝ぶりのカイドウが咲いていました。
道路との僅か1尺足らずの地面に、塀から微妙に離れて自立しています。
長い間、大事に育てられてきたのでしょう。


ほんとに久しぶりに(5か月ぶりか?)東京へ行ってきました。
今回は、杖は持ってゆきませんでした。普段は何とか歩いているのだから、都会の街中でも何とかなるだろう、と思ったからです。
しかし、それは間違いで、街中を歩くのは、特に駅の構内を歩くのには、結構気を遣いました。
私の左脚は、微調整がうまくゆきません。
靴底を擦ることは、ほとんどなくなりましたが、左脚に重心を移したとき、適切な位置で体を停止させることがうまくゆかないのです。
最初は筋力の問題か?と思っていたのですが、どうやら、動きを適切な位置で停める指令を筋肉に与える「センサー」が適切に働かないかららしく、うまくゆかないと、ちょっとふらつくのです(普通に立っているときにふらつくことはない)。
   センサーに関わる脳細胞に傷があるから、とのことです。
そのため、普段は、その調節を、右脚で着地するときにやっているようです。右脚が左脚の分まで働いてくれているわけです。
そして、歩く際には、常に、無意識のうちに、目の先に目標物や目標地点を設けて(仮定して)、それに向うようにすることで、方向にブレが生じないように右脚が努めてくれているのです。右脚に感謝です!
   多分健常な場合でも同じような行動をとっていたのだと思います(もっとも、両足とも着地が確実・適切なのですが・・・)。

ところが、街中や駅の中では、この目標物、目標地点の設定が難しい。
普段は、道路の路側帯の白線や側溝、あるいは建物の中の床のタイル、目地などが恰好の「導線」になってくれるのですが(それらがない時は、遠方に目標物:地面に立つ樹木、建物内では床面から立ち上る柱や物体の側線など:を定めます)、人混みの中では、それらが目の前から途絶えてしまいがちになるのです(人混みに隠れてしまうからです)。自ずと歩く速さも遅くなり、健常の人の邪魔になります。そういう場合は、できるだけ壁に沿って歩くことになります。
そして気が付いたのですが、床面・地面のものは導線になるが、天井面のそれは、あまり役に立たない、ということ。
多分、足先の地面・床面の方に気持ちが、したがって目も、向いているからなのでしょう。
   病院などで、〇〇に行くには青い線を辿れ・・、などと床に描いた線で案内する事例が増えてきましたが、壁や天井付の案内看板よりも正解かもしれません。

   それにしても、都会の駅の人混みに、あらためて驚嘆しました。電車が着いて人がホームから階段でコンコースにわーと降りてくる。その「量」に圧倒・・!!
   昔は、私もあの中の一人、平気でそうしていたんだ・・・・。
   下から眺めていて、その様子は、何かにそっくりだ、と思ったのですが、後になって、その「何」が何であったか気が付きました。
   現場に土砂を運んできたダンプカーが、荷台を上げて、土砂を「降ろす」。その時の様子・・・・。階段から音を立てて人が辷り落ちてくる・・・。

駅などの長い階段は、右脚にだけ頼るのは極めて難しく、杖が欲しくなります。

「杖を突く」とは、簡単に言えば、自分の体を、両脚の二点だけでなく、三点で支えるということです。その方が安定が保てる。両脚だけのとき、歩行時、片脚立ちになる瞬間がある。健常な人なら片脚立ちでも一定時間は体の安定を保てる。ところが、脚が不自由な場合、片脚立ちになったとき、ふらつくのです。そのとき、杖が在れば、2点支持ができる。一定程度安定を保てる。これが杖の効用なのです
   登山で杖を2本使う場合があります。この時は、最低でも3点支持を常時保て、より安定度が高まるのだと思われます。
しかし、杖がないときは、階段では「手摺」が大事な「頼り」になります。両脚と手の3点支持に頼ることになるのです。

今回、ある駅の階段で、きわめて《斬新な》「手摺」に出くわして驚きました。
それは階段の側壁に取付けてありました。何処が《斬新》か?
階段の簓型・段型に合わせて手摺のパイプも段状に加工されているのです。パイプの径は25ミリくらい(それより太いと、多分、段状に加工できないのでは・・・?)。
階段を降りるときに使おうとしましたが、直ぐに諦めました。何故か?使い物にならないのです!

そこで、あらためて、「手」という日本語の「表現」に驚嘆したのです。
英語では handrail と言います。rail は横棒・棒。端的に言えば、「手で掴む棒」というような意でしょう。
しかし「手摺」という語には、「手で掴む」という意は直接的には含まれていない。「摺る・擦る」は、「こする」という意。つまり、「手でこする」。
これは言い得て妙
実際、私はどのように「手摺」を利用しているか。
基本的には、手を「添えて(沿えて)いるだけ」、手で「こすっているだけ」、そうすれば、万一の時に「掴む」という動作に移れるからです。常に手を「手摺」に添わせて(沿わせて)いれば、咄嗟に「掴む」動作に移れるのです。留意しなければならないのは、「手摺」を常に「掴んでいるのではない」、ということです。
これは、「掴む」という動作ができる私の場合。「掴む」ことが不自由な人もいます。その方は、咄嗟のときどうするだろうか。多分、添えていた手を、強く「手摺」に「押し付ける」でしょう。「押し付ける」とは、体重をそこにかけること。それによって、体勢を維持できるからです。
   註 たしかアアルトの設計に、手を添えやすい形・断面に加工した木製の手摺があった、と記憶してます。手を添えると手にぴったりする。
     掴むことは考えず、手を載せやすいあるいはがあれば、そこに手を置くだけで体を安定させることができる、と考えたのだと思います。
ところが、この《斬新な》「手摺」は、「手を添える」こと、「添え続ける」ことができないのです。
水平から垂直に段状に折れ曲がるところで、手を一旦離さざるを得ないからです。

手を離す⇒片脚立ちになる⇒1点支持になること、ゆえに脚の不自由な人は、ふらつくことになる・・・。

   註 試みに、簓状・段状の「手摺」に手を添え続けることができるか、想像してみてください。手をそんな具合には動かせません。
     ムリしてやってできなくはありませんがくたびれます。

私は転倒の恐怖を感じ、直ぐに、その「《斬新な》手摺」に頼るのをやめ、階段の中央にある「普通の手摺」の厄介になりました。

そこで考えました。
どうしてこのような「手摺」がつくられたのか?
おそらく《発案者》は、階段を歩行するとき、人の体も、階段の段に従い、簓状・段状に動いているはずだ、手も同じ。だから、「手摺」も階段の形状に倣うのが《合理的》ではないか・・・と考えたのではないでしょうか。

一番最初の(つまり、最も古い)新幹線の車内の座席は、当時、最新の「人間工学」に拠る《デザイン》と喧伝されていました。しかし、それは、極めて座り心地が悪かったことを思い出しました。
この「手摺」は、この「座席」の《デザイン》の発想と同じだ・・・。
その「座席」は、体をスポッとおさめたら最後、自由に体を動かしづらいのです。定形を保て、というわけ。それはムリというもの。かえって疲れてしまう・・・。
おそらく、人が、鉄道の車内の座席にどうやって座って過すのか、設計者:デザイナーが、考え忘れたのです。
   註 単純なベンチのような座席の方が、体は自由に動け適宜な姿勢を保つことができます。
つまりこの「手摺」の発案者も、「人と手摺の関わりかたの実相」について、考え忘れたのだと思います。
つまり、‘form follows function' を字面の上で「理解」しているのです。階段を歩行する人の体は、階段の形に応じて、簓状の動きをする= function と「理解」してしまった、に違いありません。
もしかしたら、「考え忘れた」のではなく、「《気鋭の》設計者、デザイナー」によく見られる傾向なのですが、「人と手摺の関わりかたの実相」を「考えなければならない、ということに、気が付いていなかった」のではないでしょうか。
   註 人と違ったこと、目新しいこと、をやりたかっただけだった、とは思いたくはありません・・・。


ところで、私は、階段を歩くことを考え、手袋をいつも持っています。春になっても、素手で鋼管の「手摺」に触ると、「冷たい」からです。冬場はなおさらのこと。それに、その方が、触ったときの感触がいいのです。その点では、木製にすぐるものはありません。アアルトの設計で、鋼管に皮を巻いた「手摺」があります。
   註 私の左手先は、感覚が鈍く、温度には、過敏で、冷水が針で刺されるように感じられるときがあります。だから、鋼管は触りたくない。

都会の街中には、私のなかに「違和感」を生じさせる事象にあふれています。田園の中の暮しとは、全く違う。「違和感」の存在は、「ものごとの原点を考える」一つのきっかけになるのは確かですが、本来は「在る必要はない」はず。ですから、田園の中の暮しに比べて、都会の街中は疲れます。今回の東京行きでも、復活に二日ほどかかりました・・・。

  ‘form follows function' については、下記で詳しく書きました。
   この「文言」の「解釈」のありようが、現代の設計・デザインの様態を決めてしまった、と私は考えています。
   その好例?が、先述の「人間工学に基づく新幹線の座席《デザイン》」なのです。
   「形の謂れ:補遺
     ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そんなわけで、「中世ケントの家々」の続き、編集がだいぶ遅れています。ご容赦!

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『形』の謂れ・補遺・・・・‘Form follows function’

2011-09-12 07:08:28 | 形の謂れ
締切り間際の仕事の合間をぬって書きます。今回は長くなります。ご容赦を。

「感想:分別のコスト」に、日本の現在をクールに見つめた英国の新聞記事をリンクしました。[13日 19.02]

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[文言追加 18.57][リンク追加 19.12][リンク追加 20.56][リンク追加 14日14.37] 


先回(「形」の謂れ(いわれ)-8・・・・再び、建物とは?) のお終いに、以下のように書きました。 

   要するに、建物をつくる場合でも、「いったい、何を、何のためにつくったらいいのか」、
   精通していなければならない、ということになります。
   かつての建物づくりの専門家は、それを、当然のこととして、身につけていた。
   ・・・・・・・
   現在、そういう「習慣」はどこかに置き忘れてきてしまった
   ・・・・・・・
   農業、牧畜、そのすべてをでき得る限り承知してトラクターという機械をつくる、
   それとまったく同様に、「人がこの大地の上で暮す」とはどういうことか、
   でき得るかぎり承知しよう、
   ・・・・・・・
   簡単に言えば、そう考えた結果が建物なのだ、と考えています。
   (形の)「謂れ」とは、端的に言えば、「ものの道理」のこと。
   すなわち、そういう形になる、あるいはそういう「形」にする「ものの道理」。
   ・・・・・・・
     形づくりにまで「道理」を求められるのは納得ゆかない、「自由な発想」が妨げられるではないか、
     と思われる方が、多分居られるのでは、と思います。
     では、その「自由な発想」は、何を契機に生まれるのでしょうか?
     そして、その発想は、泉のごとく、絶えることなく湧き出してくるのでしょうか? 


ここで、‘Form follows function’という文言を思い出した方が居られるかもしれません。そして‘Machines à habiter:A machine to live in’ という文言を思い出された方も。
もっとも、これらの文言は、すでに「歴史」の単なる1ページ、知らない、という方がたの方が多いかもしれません。なにしろ、前者は19世紀の終り、後者は20世紀の初めの頃に書かれた文言ですから・・・・。
しかし、建築の近代は、そのあたりから始まったことを考えると、そのあたりから押さえておく必要がある、と私は考えています。
「来し方」について「知り」、そこから「行く末」を考える、それは当然為されなければならないことだ、と思うからです。

‘Form follows function’は、19世紀半ば~20世紀初頭に活躍したアメリカの建築家L・サリバン( Louis Henri Sullivan、1856~1924)が、著書“Kindergarten Chat”の中で述べた言葉。
サリバンは、当然、生粋のアメリカ人ではなく、西欧からの移民2世。
彼は、先に紹介のオランダのベルラーヘ(ヘンドリック・ペートルス・ベルラーヘ:Hendrik Petrus Berlage、1856~1934)同様、当時の「主流」であった西欧の建築界の様相に異議を唱えたのです(生年が同じです!)。

サリバンの代表作が下の写真です。
いずれも、ギーディオンの「空間・時間・建築」原書からの転載です。





‘Machines à habiter:A machine to live in’は、もう知る人も少なくなってきているようですが(この人誰?と訊く若い方が居られる、と聞いたことがあります)、スイス生まれのフランスの建築家コルビュジェ(ル・コルビュジエ:Le Corbusier、1887~1965年。本名 Charles-Edouard Jeanneret-Gris )の言った文言。ベルラーヘやサリバンからおよそ半世紀後の世代。

こういった文言が日本で広く話題になるようになるのは、第二次大戦後、つまり1945年以降と言ってよいでしょう。もちろん、すでに戦前に伝わってはいたのですが、それどころではなかった、という時代(戦前から、前川國男氏や坂倉準三氏らはすでにコルビュジェに傾倒していた)。

日本の建築界では、サリバンの‘Form follows function’が、直訳的に「形体(形態)は機能に従う」と訳され広まり、その「解釈」をめぐり、現在にまで尾を引いている(と、私は考えています)「混乱」が生じました。

戦後の日本の建築界を、いわば二分していたのが西山卯三氏と丹下健三氏に代表される二派。
西山氏の論調は、いわば「直訳信仰」派。一方、丹下氏はそれに違和感を感じていた。
端的には、「機能:用から・・」派と「造形:美から・・」派と言ってもよいでしょう。この両派の「違い」については、だいぶ前に下記で書きました。
   「実体を建物に藉り・・・何をつくるのか」


現在の建築界の「不毛」の因は、すでにこの二者の「論争」の中に、兆しを見せている、と私は考えています。
簡単に言えば、用から入るか、美から始めるか、といった不毛な「論議」が蔓延し、現在もまだその後遺症が重篤な状態にある、ということです。

その明らかな証が、先に「理解不能」で触れた、今の名だたる「建築家」諸氏の震災後の言動です(その後の彼らの行動を、数日前の朝日新聞が報じています)。

不毛な論議に結末をつけずに、つけようともせずそれに甘んじ、半世紀以上経ってしまったのです。不毛は続いているのです。しかし、今の著名な評論家、建築史家も、それに目を瞑っている、私にはそう見えます。

   少し詳しく書けば、戦後間もない頃、世は貧窮の時代、「用」を説く派が主流でした。
   建築計画学の「隆盛期」です。
   しかし、高度《経済》成長期、世の中に《現金》が蔓延るにつれ、「用」の必然は埋没します。1970年代のことです。
   その頃から、やたらと「華美な」造形の建物が跋扈しだすのです。
   「用」なんて考えていられるか、そんなのどうでもいいや・・・。《芸術家》の出番だ・・・!
   そして、1980年代以降、建築計画学は一気に衰亡します。
   使い勝手の悪い建物がその頃から増えてきました(ただし、それは建築計画学の衰亡とは関係ありません)。
   そしてその頃から、いわゆる「サイン」:案内標識板がやたらに増えてきます。

                                              [文言追加 18.57]

戦後の一時期、建築についての一般向け入門書と見なされていた書物に、西山卯三氏の著した岩波新書「現代の建築」があります(まだ刊行されているのでしょうか?)。

その中に、次のような文言があります。

   ・・・・
   建築は、生活の要求、建設技術や経済の要求に応えると同時に、美しくあらねばならない・・・・
   建築の造型は、絵画や彫刻などを綜合した芸術である。
   ・・・・ 
   建築が人間生活の容器である以上、そして人が生活をよろこびをもって豊かに営もうと望む限り、
   そのよろこびのために、・・・豊かにかざられることは何ら不思議のことではない。
   ・・・・
   ただ、過去の建築は、なんのために、誰のために、それをかざったのか。建築の持ち主の富や力を示すために
   彼等だけを楽しますために、ではなかったか。・・・・
   ・・・・

     著者は、それに続いて、モスクワの地下鉄の駅の「装飾」こそ、あるべきすぐれた事例として称賛しています。

この文言は、当時の建築界の様相を理解するには恰好の一文です。

この中にある「建築は人間生活の容器である」という文言は、今でも一般受けする建築の「定義」と見なすことができます。実際、それに基づく「論」は、多々見かけます。

「容器」を「箱」という言葉に置き変えましょう。そして「人間生活」を「菓子」に置き換えましょう。
そのとき、「建築」とは、「菓子箱をつくること」になります。
菓子箱をつくるのは、どんな菓子を何個容れるのかが問題になります。もちろん、どんな具合に容れるのがよいかも問題です。
簡単に言えば、「建築計画学」は、この「菓子の容れ方」を研究した、と言えるでしょう。
もちろん、どんな菓子かが、第一番の前提です。
饅頭と羊羹、ケーキ・・・では当然異なる。これが、学校、病院、図書館・・・と、建物種別に計画学が研究された理由。
そのとき何が決め手か。
どういう詰め方が「合理的か」という判断でした。最小限の器で菓子が最大に詰められれば最高・・・。

   たとえば、病院内での看護師の動き。それをいかに少なくするか、が病棟計画で重視されました。
   たしかに、看護師の仕事は大変な労働です。それを少なくする、それが「合理化」。
   ただ、当時私が違和感を感じたのは、看護師はなぜ病棟内を動き回るのか、
   その「意味」をも考慮に入れているのかどうか、不明確であったこと。
   看護師は、やみくもに歩いているわけではありません。患者の「様子」を診ているのです。
   最近では、その代替機械が増えたようです。
   しかし、機械では、患者の顔色、すなわち「全容」は分りません。

   
しかし、こうして「できる」箱は、そのままでは、ただの「無愛想な」箱で終ってしまう。
そこで、その箱を「美しく飾ろう」ではないか・・・。
言ってみれば、これが西山氏の説く「美」だった。簡単に言えば、「包装紙のデザイン」。
こういう考え方の建築家は、今でも五万といるはずです。

   余談ですが、どの原発の建屋にも、何らかの「明るい」外装がペイントされています。
   一般の工場などでは見かけないことです。
   きわめて「象徴的」です。そのようにしたくなる「裏側」に、何が潜んでいるのか。

こういう「考え方」で生まれたのが、住宅で言えば、公営住宅の「型」計画。1DK、2DK・・といった住宅を部屋数とK:厨房との関係で決めたつくり。この「分類」による住居の呼び方は、何と、現在も行われている。そしてそれが「住居」と思われてしまっている!
こうして進められた「研究成果」は、学校、病院・・・といったいわゆる公共建築の「画一化」として、結果しました。


一方、容器の方を先につくっちゃえ、というのが「造型」《重視》派、と言えます。
饅頭の方は、何とかすれば詰められる、という考え方と言えば分りやすいかもしれない。
人間なんて、どうにでも詰められる饅頭みたいなもの、と考えていたかどうかは知りませんが、不自由、不便・・な「容器」が多かったのは事実です。
その一つの現れが、先に触れた案内標識:サインの海。
   たとえば、かつての駅(戦前や、戦後初期につくられた駅)は、案内標識がなくても、分りやすかった。
   しかし、いまや・・・・。
   参考項目 「京都駅ビルは駅か」                       [リンク追加 19.12][リンク追加 20.56]

今の名だたる「建築家」諸氏のつくるのは、この系譜と言ってよいのではないでしょうか。
「人の不在」は、さらにひどくなっているように私には思えます。
そこには「鑑賞する人」はいるのでしょうが、「生活する人」は見当たりません。そこにいる「人」は、言ってみればオブジェ、「点景」。

だから、震災に遭って、「生活する人」が少し見えるようになった(のかなァ)? 

   こういう「用と美」論があたりまえのように跋扈する中で、私が同意できる著述もありました。
   柳 宗玄 氏の中世の教会建築についての論説です。
   その中の一つを挙げます。

   ・・・・
   建築は建築であって彫刻ではない。絵画でもない。
   しかし、建築の問題は、光ないし色彩と形態の問題であり、機能の問題であり、
   さらにより深く精神の問題である。この点で、建築は絵画や彫刻と同様である。
   そしてこのことを、中世建築は、最も明快に実証する。
   キリスト教を生活の基本原理とする中世社会にあって、・・・(教会は)共同の祈りの場所であり、・・・
   その壁面の囲む空間は、世俗の空間ではない。それは聖なる空間でなければならない。・・・・
   中世の聖堂建築の問題は、ほとんど内部に集中され・・・・、空間の聖化のために、
   あらゆる努力がなされる。形態および色彩と光の全手段をつくしての努力である。
   そこでは、建築、彫刻、絵画といった区別は問題ではない。・・・
   ここではあらゆる要素の総合的調和が問題なのである。

   我々はよく壁画や建築彫刻の一部だけを切放したものを図版でみるが、
   それはしばしば判断を誤まらせる。
   つまり、それらは―――個々の形態も構図も運動性も、さらに色彩の用法も―――
   建築空間全体の一部としてのみその意味をもち、その意味は理解されるのである。
   ・・・・・
   単に形態そものが問題なのではなく、形態のもつ意味が・・・問題なのである。
   ・・・・・
        講談社版 世界美術大系〈15〉フランス美術 柳 宗玄「聖なる空間の創造」より


いずれにしろ不幸であったのは、‘Form follows function’が、直訳的に「形体(形態)は機能に従う」として流布してしまったことでしょう(訳が間違っているわけではありません)。

このような「理解」は、しかし、直訳理解された日本だけではなく、西欧・欧米でも行われていたようです。

サリバンの下で修業したF・Lライトは、その著書 On Architecture で、次のように述べているとのことです。

   ‘Form follows function’is but a statement of fact.
    When we say ‘form and function are one',only then do we take mere fact into the realm of creative thought.

つまり、欧米でも、‘Form follows function’の「字義通り」の理解が横行していて、ライトはそれは間違った理解だ、と言いたかったのだと思います。

また、サリバン自身も、そういう「誤解」が生じるであろうことを承知していたものと見え、この問題の文言を記した書:“Kindergarten Chat”の中で、次のように書いています。
   If the work is to be organic ,
   the function of the part must have the same quality as the function of the whole;
   and the parts....must have the quality of the mass.


私はこういう「不毛な環境」で学生時代を過ごしました。
そういう「環境」にいて、それに対して論駁することは容易ではありません。なにせ、それが「主流」なのですから・・・。
しかし、論駁するために学んだことは、それはそれなりにいいことではありました。
ある意味、その「環境」は、反面教師として「役立った」のです。
   もっとも、考えてみれば、それは本当は不幸なことなのです。遠まわりなのだから・・・。
   私が止むを得ず「自習」で得たことなど、本来は、義務教育、あるいは高校、大学で、
   「素養」としてカリキュラムに組まれていて然るべきことなのです。
   

いったい、なぜ、このような「理解」が、洋の東西を問わず、生じてしまうのか。

それは、「言語」が生まれつき持っている「構造」の、いわば必然的結果によるところが大きいのです。
   この厳然たる事実に気が付くまで、相当時間を費やしました。
   しかし、その結果、それに気が付いている先達がかなり居られることも知りました。宮澤賢治もその一人。
   彼の書いた「春と修羅」の序や「月天子」という詩に、いたく感銘を受けたことを覚えています。

言語は、どこの国の言語も、ある状況を「叙述する」にあたって、その言語の文法に応じて「語彙を並べる」という形をとります。
そして、どこの国の言語でも、その「叙述にあたっての語彙の配列が、そのままいわば事象を時系列で示している」、あるいは「そのまま、そこで展開している状景を表している」と理解されてしまう「危険性」をはらんでいる
のです。

かつて紹介した道元の言葉は、そのあたりをきわめて明快に示してくれています。
「鳥が空を飛んでいる」という叙述は、「鳥」が、「空」という場所を飛んでいる、と普通に理解されます。そうすると、鳥と空はまったく別個の事象として扱える、と思ってしまうのです。
しかし、空なくして鳥は生きられない、水なくして魚はいない、・・・

   ・・・・
   うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、
   鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。
   しかあれども、
   うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。
   ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・・
   鳥もし空をいづればたちまちに死す。
   魚もし水をいづればたちまちに死す。
   ・・・・

「建築は人間生活の容器である」、という文言は、表現として間違っているわけではありません。
しかし、だからと言って、「生活」と「容器」との関係について考えよう、という方向に論理が展開するのは間違いなのです。
なぜなら、「生活」は、容器なしには存在し得ない、それは鳥と空、魚と水の「関係」と同じだからです。

道元は中世の人ですが、近現代の西欧にも、そのような考えを示す人たちがいます。
アメリカのS・Kランガー女史もその一人で、次のように述べています。

   ・・・・
   すべての言語は、諸種の観念の対象が互いに入れこになっていても、
   それら観念を一列に並べてつないでゆくように要求する形式を持っている。
   これらは、実は上へ上へと重ね着する一揃いの着物を、
   物干し縄にかける場合には(一揃いとしてではなく)横へ横へと並べねばならないのと同様である。
   言語的シンボルの持つこの性質は、discursiveness として知られている。
   このために、この特殊な順序に並べ得る思想のみが曲がりなりにも語られ得るのである。
   この「投影」に適しないどのような観念も語に(よって)は表現できず、語によって伝達もできない。
   ・・・・
                    (S・Kランガー「シンボルの哲学」岩波現代叢書)。

同じ著者の“Feeling and Form”には、次のような一節もあります。
   ・・・・・
   Prosaically speaking,all life is in space;and to “take possession”of space can mean nothing but
   to occupy it physically. Blankets put into a chest, filling it copletely,take possession of the space in it.
   この書では、いわゆる「有機的建築」:organic という語の「誤解」の基についても明解に解説しています。   


近代は、いわば、ものごとを二項対立的(二項の関係)として扱うことで「進展」してきた、と言えるでしょう。いわゆる「科学技術」は、まさにその「代表」であり「象徴」でした。そこでは、二項対立的に扱えないものは黙殺してきました。
そうなってしまったのは、多分に、この言語の構造・特質を知らずに、その叙述の持っている「魔術」に捉われたところに始まっている気配が濃厚なのです。
その方が「叙述しやすい」からなのです。道元やランガーの考え方では、現今の「科学的叙述」はできないのです。
   関連項目 「厳密と精密・・・・学問・研究とは何か」  [リンク追加 20.56]
   関連項目 「『冬』とは何か・・・・ことば・概念・リアリティ」  [リンク追加 14日14.37]

そして、この「魔術」に気が付かないまま(気付いても、それでは「成果」を示しにくいがゆえに無視し)、多くの「学」は、「進展」してきたのです。
戦後の日本の建築界の様相など(耐震「理論」なども含め)、その「典型」と言えるかもしれません。
そして、その「偉大なる結果」が、すなわち「今」なのだ、と私は思っています。

繰り返しになりますが、建築、というより、人のかかわる問題は、すべからく、本質的に、二項対立的に扱ってはならない、扱うことができない問題なのです。
そのような問題の立て方は、基本的、根本的に不毛
なのです。

人にとっての「空間」の意味を考えない、それとは無関係にできあがる建築など、本来あってはならないのです。
そう考えるがゆえに、名だたる建築家諸氏の言動は、私には「理解不能」なのです。
   朝日新聞が紹介している彼らの最新の「行動」は、実によく、その「重篤な病状」を示している、
   私には、そう見えました。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ-橋の形・補遺

2011-09-10 10:50:52 | 形の謂れ
BRIDGES という書物に、各種の橋について解説が載っていました。
各種の橋、とは、架構方式のいろいろを、その原型から近代的な架構まで各種採りあげている、という意味です。もちろん、その施工法についても触れられています。

   BRIDGES  David J. Brown 著 Macmillan Publishing Company 1993年

なかでも興味があるのは、各地域に暮す人びとが、その叡智をそそいでつくりだした「近代科学技術」とは無縁の橋の数々です。
建築の世界で言えば architecture without architects 。

こういうのを見ると、現代人が、いかに「科学的知識」に冒されているかがよく分ります。
「科学的知識」が人びとから「勘」を消し去り、その結果、発想に溌剌さがなくなってしまった、そのように私には思えます。

そこで、その「原型」の部分を、いくつか抜粋して紹介します(原著では、ORIGINS という「章」にまとめられています)。

下は、ネパール(Dudh Khosi,Nepal)の橋。
猿橋や愛本橋と同じ考え方です。橋脚を設けることのできない状況下で考えだされたのでしょう。
猿橋や愛本橋では外見で見えなかった跳ねだし( cantilever )部の押さえ込み部分がよく分ります。



この橋の紹介は、章の最後の部分、吊り橋の前に紹介されています。

章の出だしは、ごくあたりまえに、丸太を架け渡すだけのもの。



解説では、primitive beam bridge とあります。
場所は、Qala Panji,Afghanistan 。
丸太を並べ、小枝を敷きつめ、土を塗りこんであるようです。
解説では、こういう橋は、ホモ・サピエンスの頃からあっただろう、とあります。

次は、アメリカ、ユタ州にある長さ89m、高さ32mの自然の岩がつくりだしたアーチ。
解説では、北アメリカの先住民が、橋としてつかっていたのだろう、とあります。



次は、丸太ではなく、平たい石を、これも石の橋台に架け渡した橋。
所在は Somerset,England 。



全長55m。スパンは17あるそうです。おそらく、丸太よりも石材の方が得やすい地域ではないか、と思います。
   木は腐るから石にした、というのは「現代的」発想。
   木がいつでも採れるなら、木を使います。
   
次は石造アーチ橋の、まさに原型。



所在は、Wasdale Head, Cumbria, England 。

最後は吊り橋。 



ロープは蔦、歩行面は竹を並べて土を塗りつけてあるようです。
所在、Trisuli River, Nepal。
似たような橋は各地域にあり、日本では、四国・祖谷渓(いや だに)のそれが有名です。

同書では、以上の写真のわきに、それぞれの架構法の「原理」について解説図が載っています。
それを一つにまとめて編集したのが、下の図です。



こんなようになって、それぞれの架構が安定する、という知見は、「学的教科書」があって得られたものではないことは当然です

今の私たちは、これらがつくられた時代あるいは地域で、生きてゆけるのでしょうか? 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-8・・・・再び、建物とは?

2011-09-02 15:09:03 | 形の謂れ
先回の「感想:『分別』のコスト」に、香山リカ氏の発言をリンクしました。[3日 19.08]

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

締切り仕事が8割がた終わったところで、「形の謂れ」の最終回を書くことにしました。

このシリーズで、何度も 滝 大吉 氏が「建築学講義録」の序文に著した
「建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様 建物 に用ゆる事を工夫する学問」
という文言を紹介してきました。
ところが、、「建築学講義録」の中で、滝 大吉 氏は、肝腎の「『建物とは何か』については何も触れていません。

大分前に「建築学講義録」を紹介した際(「『実業家』・・・・『職人』が実業家だった頃」)、以下のように書きました、

  ・・・・
  ここで注目する必要があるのは、
  エリートたちが「どのような(様式の)建物をつくるか」という議論をしているにもかかわらず、
  「実業家」:職人たちは、それには興味も関心も示していないことである。
  それは、彼らが「建物づくりの専門家」だったからである。
  彼らにとって「何をつくるか」は自明のこと、「いかにつくるか」が問題と言えば問題だったのだ。
  だからこそ新技術書が広く読まれ、そして、それゆえに「擬洋風」の建物をつくり得たのである。
  では、彼ら「実業家」にとって、なぜ「何をつくるか」が自明であったのか。
  それは、当時の「実業家」:職人は、常に人びとの生活と共にあり、
  そこにおいて、「何をつくるか」=「何をつくるべく人びとから委ねられているか」
  自ら検証を積み重ねていたからにほかならない。
  実は、それが専門職の専門職たる由縁、
  そして「技術」「技能」はその裏づけのもとに、はじめて進展し得たのだ。
  ・・・・

ひるがえって現今の建築の世界。
「専門家」たちは、「何をつくるか」=「何をつくるべく人びとから委ねられているか」について、「自明のものとしている」のでしょうか。
おそらく、自明のものとしてはいないはずです。
それは、現今名のある建築家たちが、今回の震災・人災に遭い、「考え方を見直さなければ・・・」、と語った、という事象に明らかです。「考え方」は、そんなに簡単に変えられるものなのでしょうか?(「理解不能」参照)。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

話題を変えるようで恐縮ですが、この季節、近くの圃場で、思わず魅入ってしまう光景に出会います。
以下の写真が、その光景です。

ここは、林地を開いた台地上の平らな農地で、おおよそ南北5~600m、東西300mはあります。まわりを囲む樹木は谷地田に向う斜面の樹林、主に人工の針葉樹林です。
この平地は、かつては麦や陸稲をつくっていたのではないかと思いますが、数年ほど前は、一部で煙草を栽培して、あとはいわば放置されていたと記憶しています。
そして、ここ数年は、そのほぼ半分ほどを使って、家畜の飼料用のモロコシ:コウリャン(高粱)が栽培されるようになりました(トウモロコシも少し混じっているようです)。
モロコシにはいろいろな種類があるようですが、このモロコシは、背丈が2mを超え、そこに近づくと、まわりが何も見えなくなり、風の音だけが聞こえます。
あのサトウキビバタケにうたわれる「ザワワ ザワワ」は、もしかしたらこんな様子なのかもしれません。

この写真は、そのモロコシの刈入れの様子です。
刈入れといっても、その場でチップに加工してしまう。それを行う大型のコンバインの作業風景。
ただ、このコンバインは、それ専用の機械ではなく、大型のトラクターにコンバインを構成する機能を持つ「部品」を接続したもの。
つまり、「刈り取り切り刻む機械」と、それをホッパーに搬送するための弓なりに曲線を描く「チューブ」、そして「ホッパー」、これがトラクターに付加された「部品」なのです。この点は、これから田んぼで見かけることが多くなる稲刈りの専用コンバインとは異なります。
チップは、トラックで牧場に運ばれ、冬に備えサイロに保管されるのでしょう。

以下の2枚は作業中の遠景。
手前はすでに刈り込みの終わった場所。





写真で分るように、進行方向(左手)前面に付いている機械でモロコシを刈り取り、直ちに小さく切り刻んでチップとし、チップは曲ったチューブを通り(弓なりのカーブを描いている管)、後部の金網張りのホッパーに集められます。風圧で送られているのしょう。
   なお、2枚目の写真の左上に黒い点が2つ見えますが、これはレンズに付いたゴミではありません。
   これは飛び交うツバメの姿。
   モロコシを刈り取ると、そこに隠れ棲んでいた虫たちが追われて跳び出し、それを追いかけているらしい。
   このときは10数羽飛んでいました。 

ここで「前部」「後部」と書きましたが、本来のトラクターの前部は写真の右手。したがって、オペレーターはホッパーの方を向いて後ろ向きでバックミラーを見ながら(時折り後を振り返りながら)刈り取り作業の操作をしていることになります。
しかし、その操作の見事なこと。
オペレーターの座っている姿は、下の写真のガラス越しに、ぼんやりとですが見えます。
大きなタイヤは直径1mは超えているでしょう。これが駆動輪、小さな車が操舵輪のようです。




近くに寄って進行方向の前から見たのが次の写真。


先端はこうなっています。
まるで、カニあるいはザリガニのはさみのよう。
この3本のはさみで寄せ集められそのはさみの付け根あたりで切断され飲み込まれ切り刻まれ、そして圧送される、という過程のようです。
どういう仕組みになっているのか知りたくなります。


ホッパーを高く持ち上げて、コンテナ(これも四周は金網張り)にチップを移しています。

コンテナを牽引するのも、コンバインを曳いているのと同じ機種のトラクターです。
どうやら、日本製ではなく、アメリカ製。   

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

なぜ魅せられるのか。
一つは、その作業の壮快さ、見事さにありますが、私が最も魅せられたのは、この機械の「形」です。
一言で言えば、その「形」には、人に見てもらおう、称賛してもらおう、あるいはまた他の同種の機械との「ちがい」を見せつけてやろう(いわゆる「差別化」)・・・、といった風情がまったくない。
つまり、「けれん」も「衒い」もまったくない。ただただ、その機械に求められる役割を十全に果たすべく考えられ、素直にそれが「形」になっている。
最初につくられた蒸気機関車や自動車など「近代的機械」が持っている惚れ惚れとする形に共通するものを感じるのです。
言ってみれば、「ものづくりの原点」の姿。すなわち、その「形」に、歴(れっき)とした「謂れ」がある、ということです。

   このトラクター+搬送管+ホッパーの形には、
   一昔前のジープや工事現場で見かけた建機に通じる特徴があります(最近のジープや建機は少し違う)。   
   日本のインダストリアルデザインの草分けの一人吉岡道隆氏(故人)から、
   ジープの外形は、戦場で壊れたとき、
   簡単に修理できる二次元の形、つまり、鉄板を折り曲げ切取りくっつける、
   誰にでも応急的に直せる形に徹底しているのだ、と聞いたことがあります。
   修繕のために板金屋さんに運ぶ必要がない現場向きの機械、ということでしょう。

すなわち、この機械の「形」もまた、「木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を工夫」した結果である、と言うことができそうです。
なぜできるのか?
それは、「なぜモロコシを栽培するのか」、「どのようにモロコシを刈り取るのがよいのか」・・・についてはもちろん、「モロコシを刈り取りチップにする」作業の具体的な工程について、精通しているからです。チップは、どの程度に刻めばよいのか・・・、つまり、牧畜そのものにも当然精通している。
この機械の形に到達するまでに、多くの試行錯誤があったに違いありません。


要するに、建物をつくる場合でも、「いったい、何を、何のためにつくったらいいのか」、精通していなければならない、ということになります。
かつての建物づくりの専門家は、それを、当然のこととして、身につけていた。
現在、そういう「習慣」はどこかに置き忘れてきてしまった。(高等)教育でさえ、それが何か、教えない・・・。教える側に、それが身についていないからに違いない・・・。
あらためてそれを考え直す必要がある。

これについて私なりに行ってきた「考え直し」の中味について書いたのが、「建物をつくるとは、どういうことか」のシリーズです(下記にまとめてあります)。
農業、牧畜、そのすべてをでき得る限り承知してトラクターという機械をつくる、
それとまったく同様に、「人がこの大地の上で暮す」とはどういうことか、でき得るかぎり承知しよう、そういうことについて、今まで考えてきたことを書いたシリーズです。
簡単に言えば、そう考えた結果が建物なのだ、と考えています。
   ただ、最後の頃は、今回の震災・人災で若干本題をはなれている点もあることをご了承ください。
今回の「形の謂れ」は、そこで書いたことを別の見かたで書いたに過ぎません。

「謂れ」とは、端的に言えば、「ものの道理」のこと。
すなわち、そういう形になる、あるいはそういう「形」にする「ものの道理」。
それがあるか否か。

   形づくりにまで「道理」を求められるのは納得ゆかない、「自由な発想」が妨げられるではないか、
   と思われる方が、多分居られるのでは、と思います。
   では、その「自由な発想」は、何を契機に生まれるのでしょうか?
   そして、その発想は、泉のごとく、絶えることなく湧き出してくるのでしょうか?

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
建物をつくるとはどういうことか-1・・・・建「物」とは何か
建物をつくるとはどういうことか-2・・・・うをとりいまだむかしから・・
建物をつくるとはどういうことか-3・・・・途方にくれないためには・・
建物をつくるとはどういうことか-4・・・・見えているもの と 見ているもの
建物をつくるとはどういうことか-5・・・・「見えているもの」が「自らのもの」になるまで
建物をつくるとはどういうことか-5の追補・・・・設計者が陥る落し穴
建物をつくるとはどういうことか-6・・・・勘、あるいは直観、想像力
建物をつくるとはどういうことか-7・・・・「原点」となるところ
建物をつくるとはどういうことか-8・・・・「世界」の広がりかた
建物をつくるとはどういうことか-9・・・・続・「世界」の広がりかた
建物をつくるとはどういうことか-10・・・・失われてしまった「作法」
建物をつくるとはどういうことか-11・・・・建物をつくる「作法」:その1
建物をつくるとはどういうことか-12・・・・建物をつくる「作法」:その2
建物をつくるとはどういうことか-13・・・・建物をつくる「作法」:その3
建物をつくるとはどういうことか-14・・・・何を描くのか
建物をつくるとはどういうことか-15・・・・続・何を描くのか
建物をつくるとはどういうことか-16・・・・「求利」より「究理」を
建物をつくるとはどういうことか-16・再び・・・・「求利」より「究理」を

  なお、このシリーズの出だしに、前川國男自邸を例に出したところ、
  前川自邸自体のみに興味を示す方が居られたようですが、
  その建物自体について云々する気は私には毛頭もありません。
  私は、前川國男氏(たち)の建物づくりに対する「作法」すなわち「考え方」に関心があるのです。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-7・・・・柱型

2011-08-17 16:16:44 | 形の謂れ
1945年の8月15日も、こんな具合の暑さでした。地面は乾ききっていたのを覚えています。
私はそのとき、疎開で山梨県の竜王にいました。国民学校の3年でした。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

再び、喜多方の木骨煉瓦造の話に戻ります。
いくつか紹介した喜多方の木骨煉瓦造には、柱型を設ける例と、設けない場合とがあります。
その例を、再掲します。
下は、柱型のある例。



そして、柱型を設けない例。



手前は、普通の土蔵の腰壁に煉瓦を平で張った建屋。
奥の建屋は煉瓦造のように見えますが、これは、外壁全面に煉瓦を平で張った例です。これは、煉瓦目地を見ると分ります。平で張るのでは、煉瓦を厚く張る(積む)ことはできません。
この2例に見られる煉瓦は、いわば外装保護材と見た方がよいと思われます。

柱型を設けるか、設けないか、この違いは、現代の建築とは違い、そうなる理由:謂れがあります。
つまり、設計者、施工者の単なる「好み」、「こうしたい」「こうしてみたい」・・・などといういわば「不純な」動機でつくられているわけではありません。
たとえば、先の煉瓦平張りの建屋でも、柱型を設ける気になれば、つくれないことはありません。しかし、この事例では、そういう「気」は、起きていないのです。そうする必要を認めなかったからでしょう。
もちろん、平滑な面を見せたい、と考えたわけではありません。

最初の柱型のある建屋の、そうなる謂れは、下の図を見ると分ります。この図も再掲です。
この例は、木造の骨組の間に煉瓦を充填してゆく典型的な「木骨煉瓦造」で、しかも念入りに計画されている建物です。



この建物の場合、煉瓦は「1枚積」です。壁厚が、煉瓦の長手の寸法になります。

    この図で示しているのは、壁の長手に煉瓦を積んでいる段。
    この1段下及び上の段は、煉瓦の長手をこの煉瓦に直交して積みます。
    したがって、表には煉瓦の小口が見えることになります。
    煉瓦は、上下の段の煉瓦の目地にまたがるように積みます。
    その結果、最初の写真の壁の長手と短手:小口が交互に現れる「表情」になるのです。
    拡大すると、下のようになります。
         

喜多方の木骨煉瓦造では、柱型は、出隅に設けられるのが普通です。
木骨煉瓦1枚積の場合、出隅部では、煉瓦壁の厚みが、軸組への煉瓦壁の喰い込み分だけ薄くなっているのが分ります。
   明治初期に東京や横浜近在でつくられた木骨煉瓦造では、
   軸組への喰い込みがありませんから、出隅でも壁厚は同じです。
出隅部は揺れが生じたとき、どうしても影響が出やすい場所です。柱型は、それを生じさせないためにつくられているのです。つまり、壁厚に大きな差が生じないようにするための工夫。
   この図では、中途の柱に柱型を設けていませんが、柱ごとに柱型を設けている例もあります。

つまり、喜多方の実業者たちは、滝 大吉氏の言う「建築(学)とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する・・・」を、当たり前のこととして実践していた、と言ってよいでしょう。

しかし、昨今の大方の(あるいは「話題になる」)建物で為されているのは、この言とは、はるかにかけ離れています。つまり「謂れ」が見当たらない。

日本の場合、鉄鋼製品:鉄骨が構築材料が主流になっていますが、通常、鉄骨は見え隠れの存在になっています。
その理由は耐火性能の確保。
滝 大吉氏の言う「人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる」ことは不可能なのです。
「成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様」を、鉄骨自体に求めることはできません。

しかし、このことは、「自分が描いたイメージ」(その「わけ」、「謂れ」は不明です)の実現を望む建築家にとっては、この上ない「幸せな状況」でした。何でもできる・・・!。
西欧の建築界でも、それと似たような「状況」があったようです。
その事例を掲げます。
1980年代に「話題に上がった」建物に、「香港・上海銀行」があります。
この建物は、基本的には鉄骨造です。
普通紹介されている写真では、骨組がそのまま外見になっている、かのように見えるのですが、実際は、それは「見かけ」に過ぎません。
それが分るのが次の写真です。いずれも工事中の写真。“Great Engineers”(1987年 Academy Editions.London 刊)からの転載です。





外見で目立つX状の「形」は、構造部材のように見えますが、実はそうではない。
施工中の写真で、アルミ箔を巻きつけていることから判断して、これは、どうやら設備用。
しかも、ご丁寧に、柱(状の)材に取付く部分を末広がりにしている。
この「形」の拠り所は、設計者の「経験で得た鉄骨の仕口の形」。設計者は、シドニーオペラハウスの最終段階にかかわった Ove Arup。

しかし、19世紀末~20世紀初頭の Architect、Engineer だったらこういうことはしなかったと思われます。
かのベルラーヘなら、「まがいもの、虚偽・・・」と言ったに違いありません。
    「まがいもの、模倣、虚偽からの脱却」 参照。

残念ながら、今、都会で見かける建物で、「これは虚偽ではない」と言える建物は、本当に少なくなったと思います。
そんな中で、やはり、前川國男氏たちの仕事は(特に1960年代前後の仕事は)、虚偽ではない(東北各地にある前川氏のかかわった建物の、今回の震災での被災は少なかった、と聞いています)。

先ほどの香港・上海銀行の施工中の写真を見たとき、咄嗟に思ったのは、あのきわめて湿気の多い地で、こんなことしたら、内部での結露が激しいのでは?ということでした。


私が今回「形の謂れ」を題材にしたのは、滅多に出向かない東京で見る建物たちの、特に最近の建物たちの、どうしようもない「形」に驚嘆したからにほかなりません。新宿西口の繭玉は何だ?!
もっとも、どうしようもない、と思うのはアナクロな私だけかもしれませんが・・・。

私には、滝 大吉 氏が明治年間に語った
建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問」との言は、
今もって、そしてこれからも永遠に、建物づくりの本質を突いた言説である、と思えるのです。
つまり、簡単に言えば、「形の謂れ」を問い続けることです。
もしも、それは違う、とお考えの方が居られたならば、是非反論をお聞かせください。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-6・・・・橋の形・その2

2011-08-04 10:08:34 | 形の謂れ
「大丈夫と言えば大丈夫?」に、追記を加えました[15日 19.21]。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

先回、1本の丸太で橋や梁をつくる発展形として、はるか昔から、「肘木」の方式が使われていることに触れました。


この図は、「奈良六大寺大観 法隆寺一」(岩波書店)から転載・加筆編集した「法隆寺東院・伝法堂」の肘木の分解図(以前使った図を再掲)です。

同じ距離に丸太を架ける場合、使う丸太の寸法を小さくできること、逆に言えば、同じ丸太を長い距離に架け渡すことができることを、「知っていた」からです。
もちろん、仕事がしやすく、柱の真上で継ぐことができ(現在の木造建築では、柱から持ち出した位置で継ぐ「持ち出し継ぎ」が普通になっています)、より丈夫に柱と梁を接続できることも「知っていた」。
   長い丸太:梁を、柱の上部の「狭い」ところに取付けるより、
   まず初めに短い丸太を柱に取付け、
   その短い丸太を受け台にして「長い丸太」を載せる方が、仕事が容易で、確実なのです。

では、こういう方法を、人びとはなぜ「知っていた」か?
それは、「誰か」に教わったか、あるいは、「自らの経験で、知った」から、です。
もちろん、その「誰か」も、同じような経緯で「知った」はずです。
最初の発案者が誰かは分りません。しかし、突き詰めてゆくと、「経験」「体験」に行き着くはずです。「理論」が先にあったのではありません。
そして、このことは、現在と大きく違う、という「事実」を認識する必要があるでしょう。
なぜなら、現在ならば、行き着くところは「学」になるはずだからです。
言い換えれば、「経験・体験」がなくても「知った状態になれる」のです。
しかし、現在の(大方の)人びとの「知った」「知っている」状態は、往時の人びとの「知った」「知っている」状態とは雲泥の差がある、という「事実」をも認識する必要があります。
このことを、先回、学的知識に頼りすぎ、過ごしている日常の事象の意味を認識しようとしなくなったからだ、と書きました。さらに言えば、日常の事象を観ることより、学的知識の方を重視する「習慣」(むしろ「因習」と言う方がよいかもしれません)が当たり前になっている。
   ひどい場合には、「経験」「体験」を無視して「理論」が先行してしまいます。
   建築の世界では、「ひどい」の極値と言えるかもしれません。


先回、甲州にある「猿橋」は、「肘木」のさらなる発展形として考えることができるのではないか、と書きました。下に、「修理工事報告書」から転載、加筆編集した「猿橋」の断面図を再掲します。



この橋については、「木材だけでつくった長さ30mの橋」で紹介しましたが、詳しい年代は分りませんが、近世以前から、この方法で架けられていた、と考えられています(木材が腐朽するため、20~25年ごとに架け替えられていたようです)。
   
この方法は、古代寺院の「斗栱」で軒を伸ばす方策に似ています。
下図は、これも日本の建物づくりを支えた技術-13で載せた図の中の唐招提寺の復元断面図および斗栱の詳細です。

当初の東大寺・大仏殿の軒も、この斗栱を拡大した方法でつくられていた、と考えられていますが、その軒先は、きわめて変動が激しく、ひっきりなしに修理・補修が行われていたことは「日本の建物づくりを支えてきた技術-12」で紹介しました。
   そこでも触れていますが、軒先は不安定であったにもかかわらず、400年を越えて、健在だった。
   その間に遭遇した大地震では壊れなかった!

なぜ、大仏殿の軒は変動が激しかったか。
それは、図で分るように、三段目の肘木が、言わば、柱の外に「ぶらさがる」恰好になっているからです。屋根の重さで、どうしても垂れてしまうのです。柱より内側に、肘木に重さが掛かっていたならば、そうはならない。
一般に、支点の左右の重さを釣合わせる方法を「天秤」と称しています。
当初の大仏殿でも、一段目は天秤、二段目は梁の延長、三段目も天秤にはなっていますが、三段目では軒側の方が重く、釣合いがとれずに軒先が垂れてしまった。
しかも、各柱ごとにある斗栱が、それぞれ個別に変動するので、軒先は波を打ったのではないかと思います。
   これは、以前に「失敗の修復で得たもの」で紹介した筑波第一小の体育館の軒先が暴れたのと同じです。
   その場合は、@3尺強の登り梁が、それぞれ勝手に変動してしまった。

多分、このことは、当時の人びとも分っていたと思いますが、「仏堂の『形式』」維持との按配で、いい手が見つからなかったのではないか、と思います。


「猿橋」に戻ります。
「猿橋」でも、川側にだけ、梁が迫り出しています。そのままだったら、当然、垂れ下がる。それを防いでいるのが、陸地側の、梁に被さっている地面:土。
実際には、岩石も積まれているようです。その重量が、垂れ下がろうとする動きに抵抗している。
この重石を取り除けば、橋は簡単に崩落する筈です。

また、この橋では、迫り出す側、つまり川側に向って登り勾配になっていますが、これがさらに安定度が増していると考えられます。
もしも、水平に迫り出していると、梁の上の重さで下方へ撓う怖れがあります。
しかし登り勾配だと、先回説明した合掌に伝わる力:軸力と同じで、重さの一部は梁の長さ方向:軸方向に伝わり、その分、梁を撓わせる力が減り、撓む怖れも少なくなります。別の見方をすれば、橋が完成すると、弧を描き、いわゆるアーチの効果が出てくるのです。

日本では、石造のアーチ橋は、江戸末期~明治になってからつくられるようになりますが、アーチ状の形をした木造橋は、それ以前からつくられていたのです。ということは、アーチ状の「効果」を知っていた、と考えてよいのではないでしょうか。
もちろん、この「知識」も、「学的知識」ではありません。「現場の知識」です。
「学的知識」は、本来、「現場の知識」を源に生まれたのですが、現在、これが逆になってしまっている。


ところで、建物づくりでは、「猿橋」のように、土や石の代りになる重石を、建物内に大々的に設けるわけにはゆきません。

この重石の代りに発案されたのが、再建東大寺に使われた「挿肘木」と考えてよいでしょう。「肘木」を柱に貫通させる方法です。

下は、復元大仏殿と同じ技法でつくられたと考えられる南大門の軒先の図と写真です。



貫通させた孔には、埋木:楔が打ち込まれていますから、古代の肘木に比べ、数等頑強です。
しかも、「挿肘木」は、数段ごとに、内部に向って伸びて「貫」となっています。
言い換えれば、「貫」が柱を貫いて外側に出て、「肘木」になっている。
こうなれば、天秤を形づくる重石は要らなくなります。
試みに、この「貫」を、建物内側の柱際で切断したとしましょう。そうすると、軒は当然垂れるはずです。「挿肘木」が古代の「肘木」に比べて頑強であっても、片側だけに荷が掛かれば、垂れは避けられないはずです(もちろん、古代の「三手先」の垂れよりは小さい)。

これは、まことにすぐれた発想です。

さらに、再建東大寺では、隣り合う「挿肘木」相互を、これも何段かの横材で繋いでいます。この材を「通し肘木」と呼んでいます。下がその写真です。



これにより、軒下部に、長手にいわば三角柱が生まれます。その結果、軒の架構はさらに丈夫になります(ただし、現在の最新の「構造理論」では、この「効果」は、多分「評価」できないはずです)。
   もう一つ、軒先の暴れ防止に役立っているのは、垂木の先に設けられた「鼻隠し」の存在です。
   「鼻隠し」は、浄土寺・浄土堂でも使われています。
   中世は、古代に比べ、良材が得にくくなっていましたから、1本ごとのクセに大きな差があり、
   とりわけ、材寸の大きな「垂木」は、どうしても暴れが大きくなります。
   その暴れを、先端に取付けた「鼻隠し」で止めていたのです。
   「鼻隠し」は、「垂木」数本ごとに、「蟻型」で「垂木」に接合されています。
   
この「通し肘木」に似た材が、「猿橋」にも使われています。
猿橋の復員は約1間、数段重ねた丸太の梁が3列並べて迫り出しています(「木材だけでつくった長さ30mの橋」に、短手の断面図を載せてあります)。
この3列は、丸太をただ並べるのではなく、各段ごとに、相互の間に直交して「枕梁」と呼ばれている材が設けられています。

この材がないと、おそらく、各列の丸太の重ね梁は、それぞれ勝手な動きをするにちがいありません。なぜなら、丸太のクセは、1本ずつ異なるからです。
これを防いでいるのが、「枕梁」なのです。
この「枕梁」は、再建南大門の軒先の「通肘木」と同じ役割を担っている、と考えてよいと思われます。
   筑波第一小の体育館の基本設計では、愛本橋や猿橋にならい、
   登り梁の各段の間に、下図のように「枕」を設けていました。
   棟梁の意向で「枕」を省いたのが、現在建っている建屋です。
   軒先に溝型鋼による「堰板」を設けた経緯は、「失敗の修復で得たもの」で触れています。
   この「堰板」が、結果として、浄土寺・浄土堂や南大門の「鼻隠し」の役を担ってくれたのです。   



ここまで見てきたように、往時の構築物の「形」には、そのどれにも、「そうなる必然性があった」と見なしてよいと思います。
「形」に「謂れ」がある、ということです。
つまり、いずれの形にも、現在の建築家の多くに見られる「こんな恰好にしてみたい」という《身勝手な願望》から生まれたのはない、ということです。

滝 大吉 著「建築学講義録」の序文にある
建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問
という文言も、すなわち、「形には謂れがある」ということを語っていると言ってよいでしょう。
少なくとも、明治の頃までは、こういう考え方、ものの見かたが、むしろ、当たり前だった、のです。

現在、なぜ、建築家の多くが、「謂れのない」《形》を「望む」ようになってしまったのでしょうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-5・・・・橋の形・その1

2011-07-08 09:50:40 | 形の謂れ
「感想・・・・続・素晴らしい論理」に、「やらせメール」への感想を追加しました。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[註記追加 8日16.24][文言追加 8日 18.40]

先回、古い住宅の又首・合掌は、最も単純なトラス組である、と書きました。
次の図は、何度も紹介しています「古井家」の断面図です。



この小屋組について、「日本の建物づくりを支えてきた技術-23の付録」で記した説明を抜粋します。

   ・・・・・
   柱寸法は、「上屋の柱」(「おもて」や「にわ」の室内に表れている柱)が平均して約16.5cm(5.5寸)角、
   「下屋の柱」(建物外周壁の柱)は約12.7cm(4.2寸)角。太さには1本ごとかなりの差があります。
   「上屋」の「梁」や「桁」は、ほとんど「(上屋の)柱」と同寸程度の材が使われています。
   このような細身の材で屋根が組めるのが
   「又首(扠首)組:さすぐみ」の利点・特徴です(原初的なトラス組にほかなりません)。
   なお、「又首(扠首)組」の中央に「束」(「真束」のように見える)がありますが、
   ・・・・これは・・・「真束」ではなく、「棟木」を支えているだけです。

つまり、「古井家」の小屋組では、柱と柱の間、水平距離3m余りに架かる梁や桁は、柱とほぼ同寸の5.5寸角程度という細身の材なのです。
これを、現在普通に見られる「束立組(いわゆる和小屋)」でつくるならば、梁は、もう一回り大きい、たとえば8寸×4寸程度の角材を使います(いわゆる「在来工法:建築基準法準拠工法」なら、9寸×4寸以上使うでしょう)。

「古井家」の又首・合掌に使われている丸太は、「修理工事報告書」には材寸の記載はありませんが、図から末口(丸太の先端部の径)3~4寸程度と推定できます。
又首・合掌の勾配は45度以上ありますが、45度としても又首の長さは4.4m、実際は約4.7~4.8mほどはあるでしょう。
つまり、「古井家」の小屋組の又首・合掌の斜材は、長さが約4.5mありますが、末口3~4寸程度の丸太でOKということ。

場面を変えて考えてみます。

今、山の中で出くわした幅4m程度の小川を渡るために、丸太で橋を架けようとしています。丸太としては、両岸の掛かりの分を含め、最低でも5m。
丸太は近くの林から伐ってくることに。
どんな丸太にするか。
探すのは、小川の幅、つまり必要な丸太の長さから判断して、これでいいだろう、と思う太さ:径の丸太です。
そのためには、その判断ができる人がいることが必要です。
   当然、これでいいだろう、という判断には、川幅の目見当も含まれます。
   測量器具もないとき、どうやって幅を推定するか。

これでいいだろう、という判断は何に拠るのか。
それは、小川に架けた丸太の上を、人が歩ける幅を確保でき、しかも人が歩いたとき、撓んでも折れない、ということの「想定」です。
   1本でこの要件を充たすには、太い径の丸太が必要、しかしそれでは重過ぎる、
   したがって、細い丸太を数本並べる方策を考えるでしょう。
   この判断も「想定」のうちに含まれます。
   また、その丸太を渡る頻度をも考えるかも知れません。
   頻度が多いと、つまり今後も大勢の人が渡るとなると、少人数の場合よりも「もち」が悪いからです。
   つまり、今回だけ役に立てばよいのか、その後も一定期間使えることを考えるか、
   それも、判断の拠りどころになるはずです。
   すなわち、その丸太橋の「役目」をも考えての「想定」です。

この「想定」、つまり判断のできる人は、なぜ、それができるのか?

日ごろの「経験」で、川幅の目見当で推定する方策も、そしてまた丸太の「クセ」についても、よく知っているからです(もちろん、樹種による違いも知っています)。

丸太橋の上を人が歩くと、丸太は撓みます。
太ければ、簡単には撓みません。
   太い丸太も、撓もうとしているのですが、目に見える撓みが生じないだけ。
だから、使う丸太は、太ければ太いほどビクともしません。しかも歩きやすい。
しかし、太いほど、丸太は重くなる。仕事が容易ではない。
そこで、橋の「役目」に見合い、しかも撓んでも折れない程度の太さの丸太を探します。
   このように考えるのが「設計」ということである、と私は考えています。
   「撓まないこと」だけや、「渡りやすさ」だけを考えるのは、「設計」ではない、ということです。
   「つくりやすさ」も考えなければならない。そのどれか一つでも忘れたら、それは「設計」ではない。

では、「古井家」の又首・合掌に使われている程度の末口3~4寸程度の丸太は、役に立つでしょうか。

現代の建築を学んでいる学生たち(あるいは学んだ若い人たち)で、こういう場面に出くわしたとき、こういう判断のできる人は、一人もいないのではないでしょうか。いたとしたら、きわめて稀有なことと言ってよいでしょう。
なぜなら、現代の若い人たちには、自分の「経験・体験から発想する習慣」がないように見えるからです。ことによると、一所懸命、断面係数を計算するかもしれません。

しかし、かつては、ほとんどすべての人が、このような丸太の「探索」を何ごともなく行うことができたはずです。
日ごろの暮しのなかでの「経験」「体験」の意味が分っていたからです。
と言うより、「経験」「体験」を通じて、「本物の知識」を身につけていたからです。それは「知恵」と呼んでもいいのかもしれません。   
   今の若い人たちの多くが判断できないのは、
   日ごろの「経験」「体験」とは無関係に、「学問的知識」だけを知っているからです。
   「力学」の根拠を得ないと、林に丸太を伐りに行けない。
   それは、「歴史的事実」と無関係に、《伝統的》工法を《解明》しようとする「大人の先生がた」も同じ。
   現代の学生たちの多くは、こういう先生がたの「教え」の下で《育つ》のです。
     実は、若い方がただって、日ごろの暮しのなかで、経験はしているのですが、
     その「意味」を「認識」していない。
     その「認識」よりも、教室で聞いた《知識》の方を、大事にするクセが身についている。
     つまり、先ほどの言い方をすれば、「知恵」として身についていない。
   そもそも、「力学」という「学問」の発端は、
   人びとのこのような日ごろの経験・体験の集積・展開に過ぎない、という「事実」が
   忘れられているのです。

   蛇足
   中世の能の演者、世阿弥が、   
   能の習練は、7歳ぐらいから、まず「型」「形」を「真似る」ことから始め、
   青年期になっても、幼少から真似して修得した「型」「形」の「意味」が理解できていない場合は、
   あるいは、理解できない場合、理解しようとしない場合は、
   その者は、能の演者としては先がない

   というようなことを書いていた、ように思います(どこに書いてあったか、現在捜索中です)。
   封建的な徒弟制度だ、とされる大工さんの修業も、つまるところ、同じだったのではないでしょうか。
   これは、過ごしている日常の事象の意味を、常に認識し続けよ、という教えである、と私は理解しています。

   たしかにものごとの修得は、いかなる場面であれ、先ず「真似る」「見習う」ことから始まります。
   それゆえ、世阿弥の言は、ものごとを会得してゆく課程・過程を言い得て妙である、と私は思っています。
     現在の(建築)教育には、
     ものごとの会得には、こういう課程・過程が存在する、という「事実」の認識が欠けているように思います。         
     日本語の「学ぶ」は、「真似ぶ」から生まれた語、と言われています。

おそらく、末口3~4寸程度の丸太は、撓みはしますが、橋にはなるでしょう。
ただ、1本では渡りにくいため、最低2本横並べにすることになります。
そして、近くに蔦でもあれば(ロープがあればそれを使い)横並べの2本を強く絡げるでしょう。
なぜ絡げるのか。
ただ2本並べるだけだと、足の載った方だけ撓み、歩く人は不安定な体勢になって歩きにくいため、2本を絡めると、それが避けられます。
さらに言えば、完全ではありませんが、横並べ2本で1材になり、その分、撓みも少なくなるのです。
   実際の丸太橋・丸木橋では、大抵、数本を鉄線で絡めています。

丸太橋を人が歩くと撓む、ということを、力学では、丸太に「曲げる力」がかかった、と言います。そして、丸太には、それによって「変化」が生じます。それを「応力」と言っています。
そんな面倒くさいことを言わなくても、かつての人びとは、丸太に人が載るとどんな様態になるか、身をもって知っていました。当然、樹種による違いも、知っていました。
   

この丸太橋(丸木橋)と同じ考え方で屋根を架けようと考えているのが、日本で普通に見かける小屋組にほかなりません。
2本の柱の間に「梁」を渡し、その上に何本かの短い柱:束(つか)柱を立て、その上にまた木材(母屋)を架け、屋根の概形をつくる。トラス組主体の「洋小屋」に対して「和小屋」と呼ばれる組み方。正式な呼び方は、その特徴から、「束立組」。

したがって、「梁」は「屋根の重さ」を直かに支えていることになります。
この「梁」と「屋根の重さ」の関係は、先の「丸太橋と、そこを歩く人の重さ」の関係と同じです。
「梁」には、「曲げの力」がかかり、「梁」は撓もうとしているわけです。
だから、柱と柱の間の距離が長いと、つまり、「梁」の長さが長ければ長いほど、太い「梁」が必要になります。

「束立組」で3mの間隔の柱間に、「古井家」の又首・合掌の「斜材」と同じ丸太を使ったら、普通の屋根の重さで、目に見えて撓むはずです。
ところが、先の「古井家」の又首・合掌を構成する斜材は、撓んではいません。
これは、「斜材」に、曲げる力が大きくかかっていない、ということにほかなりません。正確に言うと、撓むほどにはかかっていない。
屋根の重さは、当然「斜材」にもかかっています。しかし、そのかかりかたは、「束立組」や先の丸太橋の場合のそれとは異なるのです。

この「現象・事実」、すなわち、なぜこのようになるかについては、中学程度の理科で習うはずです。そして、習わなくても、「経験」で知っているはずです。
同じ力がかかっているのに部材が撓まないのなら、力が「余っている」ことになります。その力は、「斜材を撓ませない代りに、部材の長手方向に向ったのです。
これが、中学で習う「力の分解」(と「力の合成」)の「基」になる現象。
  
この、人の重さの内、長手方向に向った分を「軸力」、この場合のそれを「圧縮の力」と呼んでいます(「力学」を習った若い人は、トラスと聞くと、直ぐに、この語を持ち出します)。

割り箸などで小さな逆V型をつくり、頂部をゴム輪で縛り、地上に軽く立て、斜辺あるいは頂点に物を載せると、割り箸は地面に刺さってゆきます。これは、重さが割り箸を伝わって地面に向ったからです。
もしも、地面が硬く平滑ならば、先端は地面に刺さらず地面上を滑ってしまい、逆Ⅴ型は開いて扁平になってしまいます。

古い住宅の又首・合掌は、下図のように、その先端(「合掌尻(がっしょう・じり)」)を鉛筆のように削り、水平の梁(「陸梁(ろくばり)」と呼んでいます)に穿った孔に差し込む形をとっています。
これは、又首・合掌が「開かないようにする」ためなのです。
その場合、「陸梁」は、屋根の重さは支えるのではなく、又首・合掌が開こうとするのを押さえ込む役割、又首・合掌の形を維持する役割を担っているのです。
別の見かたをすれば、「陸梁」は、「伸ばされようとしている」ことになります。
「力学」では、これを、「陸梁」に「引張りの力」がかかっている、と称します(「力学」を習った若い人は、トラスと聞くと、やはり、直ぐに、この語を持ち出します)。



   なぜ、先端を削って尖らすのか。
   それは、先端に重さ:力が集中し、安定度、孔への固定度が高まるからです。
   重さが集中する分りやすい例:ハイヒールで踏まれるとスニーカーで踏まれるよりはるかに痛い。
   小さな面積で、重さを引き受けているからです。
   地面に杭を打つとき、先を削った方が、打ち込みやすいのも同じ理です。[註記追加 8日16.24]

もちろん、このような手立ては、「力学」誕生以前のはるか昔に考えだされた技。
人びとは、「力学」の「教え」を知らなくても、事を処することができた、ということです。
これは、日ごろ、この「現象」を、経験で知っていたがゆえにできたのです。
   ある講習会で、この話をしたところ、
   又首・合掌が、陸梁の孔に刺さっているだけ、というのが理解できない、という方がおられました。
   簡単にはずれてしまうではないか、というのです。
   おそらく、陸梁と又首・合掌を緊結する必要がある、と言いたかったのでしょう。
   もしも、実際にそうする必要があるのならば、かつての建物でも、蔦や縄などで括りつけていたはずです。
   しかし、そういう例はない。
   ということは、経験上、その必要がない、と人びとは認識していたことを示しているのです。      
   ところが、この「そういう例はないという事実」を示しても、この方は合点がゆかないようでした。
   おそらく、「事実」よりも「学の教え」に信を置いているからでしょう。


さて、短い距離なら、梁は、1本の材の太さ:材寸を変えることで対応できます。
しかし、先の末口3~4寸の丸太で、もっと長い距離に架けよう、という工夫も編み出されます。
それは、梁を架け渡す2本の柱のそれぞれの頭部に適当な太さの短い木材をT字形に置き、その上に先の末口3~4寸の丸太を据える方法。
短い材を「肘木」と呼んでいます。「肘木」で梁を支える距離を調整するのです。
「肘木」を設けると、梁を細い柱の上に載せるのが、格段と楽になります。
また、「肘木」を、柱の上に安定して載せる工夫として、「斗(ます)」も使われます。言い方を変えれば「受け台」です。

その典型として、以前使った挿図を再掲します。
最も単純な「肘木」や「斗」が使われている法隆寺・東院 伝法堂の長手(桁行)の「断面と屋根裏の見上げ図」、および「肘木、斗の分解図」です。



   この「技術」は、西欧の木造建築にもあります。
   石造建築の「モデル」となったギリシア建築の「柱頭」も、この一つの変形と考えられます。
   「肘木」や「斗」を、単に「造形のための形」、一つの美的「様式」などとして扱うのは、明らかに間違い。
   こういう形にも、ちゃんとした「訳」:「謂れ」があるのです。
   しかし、残念ながら、建築史でそのような見かたを採る解説は、稀有なのです。[文言追加 8日 18.40]

このすぐれた「技術」の誕生は、きわめて古く、以来、長い間、いろいろと応用・展開して使われています。
その一例が、以前に紹介した下図の「猿橋」です。
これは、川幅およそ30mの渓谷に、橋脚なしで架けた木造の橋。
同じやり方で造った60mを超える例も、明治年間まで、富山県にありました(「愛本橋」)。





この構築法は、見かたを替えると、石造のアーチに相当する考え方である、と見ることもできます。
   おそらく、こういう構築法は、現在の《木造建築理論》からは生まれないでしょう。

大分字数が増えてしまいましたので、以降は、次回にまわします。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-4・・・・トラスの形

2011-06-28 12:17:05 | 形の謂れ
[リンク先追加 20.46]

喜多方の煉瓦造では、そのほとんどがいわゆる「トラス:洋小屋」を使って屋根を架けています。下の写真の上2枚は、このシリーズの最初に紹介した樋口家の煉瓦蔵内部、小屋組の詳細です(3枚目は2階床梁の煉瓦への納め)。



しかし、これらをつくった喜多方の工人:実業者は、「トラス」という言葉は知らなかったのではないでしょうか。
もちろん、「煉瓦造」⇒「西欧の建物」⇒「西欧の小屋組:トラス」、という発想で、つまり、煉瓦造には洋小屋:トラス、と思って使ったわけでもありません。
なぜなら、以前にも紹介したように、喜多方では、木造の建物の屋根にも、ごく当たり前にトラスが使われているからです。
その写真だけ、再掲します。農家の納屋の小屋組です。



   なお、08年11月の「喜多方訪問・余録・・・・喜多方のトラス」に、
   登り窯の木造の覆屋のトラスと、少し大きい煉瓦組積造に使われているトラスの写真があります。
   この二例は、ともに、梁行4間:約7.2mのトラスです。

現在の建築関係者(学習中の方がたも含みます)の多くは、「トラス」というと、材料の長手方向(「軸」方向と呼んでいます)の強さだけを使った工法、すなわち、部材を横から押して曲げようとする力はかからない、という「力学」が教える「知識」で「理解」するのではないでしょうか。
そして、さらには、その具体的な「形」としての「キングポスト」、「クィーンポスト」・・・といった「具体的な姿」をもって「理解」するに違いありません。

けれども、いわゆる「トラス」組は、力学誕生前から存在します。
   古い住居の「又首(さす)」あるいは「合掌」だけで三角型をつくる屋根組は、
   トラスの最も単純な形、と言えます。
   これは、竪穴住居以来の方法で、日本に限らず、世界の各地域で行われています。

つまり、「力学」の知識の下で生まれたものではない、ということです。
このことは以前にも下記で触れています。

「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」

西欧の「建築技術」を詳述している 滝 大吉著「建築学講義録」にも、当然ですが、「トラス」組も紹介されています。しかし、トラスという語で紹介はしていません。
その一例が下図です。



これは、いわばトラスの完成形の一つ。
いきなり、こういう形が生まれたわけではなく、そこに至るまでには、多くの試行錯誤があったはずです。

先の「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」では、「建築学講義録」の洋小屋についての解説を紹介しましたが、そこでは、小屋を組むにあたり、諸種の場面ごとに、そこで生じる「問題」を解決するための種々な方策、という形で解説がされ、「リキガク」の「リ」の字も出てきません。
下図はそのときに載せた図版の再掲です。



   いわゆるトラス組の「発展」過程を見ることができる典型例として、
   以前に長野県塩尻にある小松家を紹介してあります。下記をご覧ください。
   きわめて単純な、又首:合掌と、又首が撓むのを防ぐための、きわめて単純な手立てを見ることができます。
    「トラス組・・・・古く、今なお新鮮な技術-4(増補)」
      

それぞれの「形」には、それぞれ、そのようになる「謂れ」があります。
「こんな形にしたい」などとという「願望」が先にあるのではありません。

この場合には、こんなことが起きてしまうから、そうならないために、こうしよう、という手順でできあがるのです。そして、そのとき、できあがる形を「成丈格好よく」しよう、という気持ちが働いています。
これが、本当の意味の「デザイン: design 」ということ。
それぞれの「形の謂れ」の詳細は、前掲の「・・・新鮮な技術-3」をご覧ください。
   現代の《建築家》には、たとえば張弦梁をどこかで知ると、必要もないのに使いたがる傾向があります。
   張弦梁というのは、弓の原理を使って長い距離を跳ばす方法。

重要なのは、「建築学講義録」では、いわゆる「力学」的解説はまったく為されていないことです。

なぜ重要なのか?

そこで為されている「解説のしかた」は、「建築する」場面で、当面するであろう問題を、どうやって解決するか、という「考え方」に徹しているのです。
たとえば、「又首で屋根を組んだが、幅が大きくなると、又首の斜め材が撓んでしまう、どうすれば撓まないようにできるか・・・」といった具合に説明が進みます。
   「建築する」とは、字の通り、「建て築く」意です。
私は、こういう考え方:発想は、きわめて「基礎的・基本的な発想:見かた・考えかたである」と考えていますが、残念ながら、今の多くの建築関係の方がたは、これが不得意のように見受けられるのです。
とりわけ、《学的知見》を先に身につけてしまっている若い方がたは、きわめて不得意のようです。
私は、「力学」の知識を身につけ、それを「知恵」にまで高めるためには、この基礎的・基本的な見かた・考えかたが必須であろう、と常々思っています。
それは、「こうしたら、何ごとが起きるか、生じるか、直観で見る、直観で理解する」こと。
そのためには「経験」が必要なのです。
「直観」は、日ごろの暮し、日ごろの経験の中で培われ、鍛えられるもの。ところが、どうもそれが希薄のように見える。
「直観」なんていうのは、非科学的と「思い込んでいる」、あるいは、「思い込まされている」からのようです。
そうではありません。これについても、これまで、いろいろと書いてきました。
たとえば
「東大寺南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握」
「建物をつくるとは、どういうことか-6・・・・勘、あるいは直観、想像力」[追加 20.46] 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-3・・・・煉瓦の色

2011-06-19 22:23:37 | 形の謂れ
若菜家の作業蔵の壁の煉瓦の色は、一階と二階で色が違います。下は、作業蔵をクローズアップした写真です。



喜多方の煉瓦造の煉瓦の色は、大半が作業蔵の一階の外壁の煉瓦の色、あるいは味噌蔵の外壁の色、暗赤色です。
ところが最初に紹介した樋口家の煉瓦造の蔵は、かなり明るい赤色です。前回の写真をクローズアップしたのが下の写真。



この二つの建物で使われている煉瓦は、いずれも樋口窯業の登り窯でつくられたもの。

なぜ、このような色の違いがあるのか。
もちろんそれは、「こんな色にしたい」、というような「当代風な願望」の結果ではありません。

暗赤色の煉瓦は、素地に釉薬をかけて焼いてできる色。釉薬は、当初は「灰汁」だったようです。
わざわざ、素地にこの釉薬をかけて焼成したのです。

その「謂れ」は、樋口家の煉瓦造の腰の様相に始まります。

煉瓦は多孔質です。
したがって、一定程度、水を吸います。
煉瓦が水を吸い、その段階で気温が下ると、孔に吸い込まれている水も凍結し、体積が増えます。ひどいときは、その結果、煉瓦は粉砕され、アンツーカ( en tout cas )のようになります。

また、降った雪が壁際に積ると、壁の温度は雪・外気よりも多少は高いですから、接触面で雪は溶けてきます。溶けた雪・水は、夜になり外気が冷えてくると再び凍ります。その結果、雪と煉瓦は氷によっていわば一体になります。

朝になり、気温が上がってくると、雪は再び溶けてきて沈下し始めます。
そのとき、壁際では、まだ雪と煉瓦壁は一体の様相を呈していますから、雪の沈下につれて、煉瓦の表面が削り落とされてしまうのです。いわば、壁面を滑る氷河。
樋口家の蔵の壁の下部にみえる凹みや傷は、その結果生じたものです。

この現象を避けるには、煉瓦の焼成温度を1,200度よりも高くするとよいとされます。硬く焼けて、破砕しなくなるからのようです。
しかし、登り窯では、どの煉瓦をも1,200度にするのは難しい。どうしてもムラが生じる。

   樋口家の煉瓦の削られた孔は、煉瓦の端ではなく、中央部にあります。
   これは、焼成のとき、素地の外面と中央部では焼成温度が違う、端部は高く、
   中央部が相対的に低いからだと思われます。

そこで、喜多方では、煉瓦の表面に水を通さない層・膜をつくり、水の吸い込みを防止する方策が考えられたのです。
それは、素地の表面に釉薬をかける方策でした。
釉薬の中に、煉瓦素地をくぐらせるのです。全面ではなく、外面に現れる面に釉薬をかけます。
釉薬は、通常の食器などでも使われます。素焼きでは水を吸ってしまうため、それを防ぐ手だてです。

もっとも容易に得られる釉薬が灰汁、木の灰を水で溶いたもの。喜多方では、当初、これが使われました。
この釉薬は、焼き上がると暗赤色になります。それが若菜家の作業蔵の一階と味噌蔵の外壁の色。
後に、同じような色に焼き上がる益子焼の釉薬を使うようになります。

喜多方では、瓦にもこの釉薬がかけられています。瓦の凍害を防止するためです。

   なお、中国地方の北部、山陰地方を中心に、
   喜多方の瓦や煉瓦よりも明るい、黄色味を帯びた赤色の瓦を多く見かけます。
   これも凍害防止を意図した瓦です。
   瓦焼成の最終工程で塩水をかけるのだそうです。
   そこから「塩焼き」と呼ばれています。
   この工程によって、瓦の表面にガラス質の皮膜が生じるのです。
   この地域の建屋は大半がこの瓦で葺かれていたため、独特の風景を醸し出しています。
   もっとも、最近は、塩焼きではなく、釉薬をかけて同じような色に仕上げています。


このように、喜多方独特の煉瓦の色は、塗料見本やタイル見本のなかから、お好みの色を選んだわけではなく、そうなる「謂れ」があるのです。
ある時代までの建物の形や色などは、そのどれにも「謂れ」がある。そうなるべくしてそうなっている、のです。
その背後にあるのが、建物をつくる「本当の技術」
なのだ、と私は考えています。

    それにしても、最近の新興住宅地に建てられる建屋の屋根葺材や外装の「多様さ」はいったい何なのでしょう。
    建物の建つ地域特有の「環境条件」への対応など、《最新の科学技術》で整えられる、と思っているらしい。
    それゆえ、そこには、その地ゆえの「そうでなければならない謂れ」が見当たりません。
    一言で言えば、《住宅メーカー》という「建築家」の、勝手のし放題。
    私の見るかぎり、諸地域の屋根や、煉瓦造や石造、あるいは木造、RC造・・・特有のそれを模したもの。
    その材料の選択の根拠は、いったい何処にあるのでしょう。ベルラーヘの言を思い起こします。
    「まがいものの建築、すなわち模倣、すなわち虚偽(Sham Architecture;i.e.,imitation;i.e.,lying)」
    後世の歴史家は、この「現象」を、どのように解釈するのでしょうか。

   蛇足 
   石材でも多孔質の石材は凍害を受けます。
    ところが、同じ多孔質の石でも、凝灰岩の大谷石は、雪が積っても凍害を受けません。
   よく分かりませんが、多分、組成物質の結合力が強いからではないでしょうか。
   寒冷地である栃木県日光市内に、大谷石造の教会があります。
   大正頃の建設ではないかと思いますが、健在(のはず)です。
   また、大谷石は火にも強い。暖炉を花崗岩でつくると割れてしまいますが、大谷石は割れません。
   ライトも暖炉を大谷石でつくっています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-2・・・・煉瓦の形状 と 軒蛇腹・再び

2011-06-15 10:33:22 | 形の謂れ
[文言註記追記 15日 10.36][リンク先追加 15日15.20][解説追加 16日 7,13][註記追加 16日 7.50][説明訂正 16日 19.24]

先回は、喜多方では珍しい「組積煉瓦造」の蔵の軒蛇腹を見てみましたが、
今回は、喜多方で最も多い「木骨煉瓦造」の蔵を見ることにします。
そのいわば代表的と言えるのが、
喜多方の煉瓦を焼成している樋口窯業の登り窯から北0.5kmほどの「三津屋」集落にある「若菜(わかな)家」の蔵です。
その外観が下の写真です。



正面がいわば納屋にあたる作業蔵(現在は観光レストランになっています)。右手は味噌蔵だったと思います。

よく見ていただくと、両者の煉瓦の「目地」が違うことが分ります。
正面の作業蔵は、煉瓦の長手の見える段の上下は、煉瓦の短手:小口が並んでいますが、味噌蔵の方は、各段とも長手が並んでいます。つまり、前者は、長手と小口が交互に並び、後者では各段が長手、ということです。

これは、《化粧》、つまり、《そういうように見せたい》ためにそういう形状の目地になっているのではありません。
これには「謂れ」があります。
その「謂れ」は、「煉瓦の積み方」です。

これが極めて重要なことなのですが、
「煉瓦の積み方」は、表面の見え方に大きく係りはしますが、その「見え方」のために「積み方」を変えているわけではないのです。
これらは、「どのように積むのがより良いか」、そう考えた結果の「見え方」なのです。
ここでも、滝 大吉 氏の説く「建築とは・・・・・、(材料を)成丈恰好能く、丈夫にして、無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫すること」が実行されているのです。
つまり、そのような「工夫」が、よい「結果」を生む、ということです。

   残念ながら、最近の建築の「見え方」には、こういう正統な「工夫」ではなく、
   例の水戸芸術館の宙に浮く花崗岩のように、
   「作家」の「かくかくしかじかに見せたい」ための、ただそう見せたいための(その理由は不明)
   《工夫》ばかりが目に付くように思います。
   私には、本末転倒に見えます。

作業蔵と味噌蔵の目地の違いは煉瓦の積み方にあり、
作業蔵は煉瓦「1枚積み」、
味噌蔵は煉瓦「半枚積み」なのです。

「1枚積み」、「半枚積み」とは、煉瓦を積んでできる「壁の厚さの呼び方」と言ってもよいでしょう。
つまり、「1枚積み」とは、壁の厚さが「煉瓦長手の長さ1枚分」、ということ。「半枚積み」は、「長手寸法の半分の厚さ」、ということになります。積み方は後述します。
このことは、煉瓦の長手の寸法と短手の寸法が、約2:1の比率になっていることを意味しています。

   なお、先回紹介した樋口家の煉瓦蔵は、1枚半積みです。
   1枚半積みについては別途書きます。

現在市販の煉瓦:JIS規格では、長手が210mm、短手が100mmです。そして厚さは60mm。
なぜ210mmに対して100mm?半枚・半分ではないではないか?
これは、短手・小口を横並べにして、隙間すなわち目地を10mmとると210㎜になる、という計算です。
目地の10mmは、これも単なる化粧のためではなく、そこに接着材を入れるための隙間。
接着材のことを「モルタル( mortar )」と言います。

   英和辞書で mortar を引くと、「しっくい」と出てきます。
   古代の煉瓦造ではモルタルに石灰を使っていました。石灰=しっくいです。
   日本でも同じです。ポルトランドセメントが生まれるまでは、どこでも石灰なのです。
   セメントの意味も「接着材」です。   
   ポルトランドセメントを使ったモルタルがセメントモルタル。現在は、これを「モルタル」と呼んでいる。
   初期の喜多方の煉瓦造もしっくい目地です。

では、なぜ厚さが60mmか?
これは、他の煉瓦の寸法から推察して、小口を縦に3個並べ、その隙間:目地を2つ分とった総和が長手寸法になることを意図したのではないか、と思っています。
ただし、目地10mmとすると、小口3個分では200mmにしかならず、実際にはこれで苦労します。

ところで、JISで、なぜ210×100(×60)mmになったのか?
これがよく分らないのです。

   註 調べてみると、JIS規格は、215×102.5×65で、
      市販の 210×100×60 は「当分の間認める」とあります。
      なお、215×102.5×65 は「製品寸法」で、「呼び寸法」は 225×112.5×75とのこと。
      このようにした理由は不明です。[註記追加]

喜多方の煉瓦はこの「規格」ではありません。

喜多方の煉瓦は、平均して、7寸2分×3寸4分5厘×2寸2分です。
   一個ずつ、大きさは微妙に異なります。
   いろいろ調べて、多分、これを「基本寸法」にしてつくったに違いない、と推定した寸法です。
   どうやって調べたか?
   壁面で計るのです。その平均値。いわば疫学的調査。

この寸法は「理」が通っています。
目地を3分として、
短手横並び2個:3寸4分5厘+3分+3寸4分5厘7寸2分
小口横並び3個:2寸2分+3分+2寸2分+3分+2寸2分7寸2分

ではなぜ長手が7寸2分なのか。
これは、喜多方の木骨煉瓦造と関係があります。

喜多方では、先ず木造の骨組をつくります。通常の木造建築の上棟の段階まで進むと、次いで、その軸組の間に煉瓦を積む、という方法を採ります。

木骨煉瓦造は、各地域にありますが、喜多方では、軸組の外側に積むのではなく、軸組に噛むように積んでゆく点に特徴があります。
喰い込みは、おおよそ柱径の半分ほど。

   普通の木骨煉瓦造は、軸組の外側に積むため、地震のとき、木造部と煉瓦造部とが別の動きをします。
   明治期の東京や横浜には、このつくりがかなりあったようですが、ほとんどが地震で倒壊したようです。
   喜多方の場合は、新潟地震の際の倒壊例はないとのこと(煙突の類は倒壊しています)。

   以前に、1枚積みの木骨煉瓦造の実際を紹介しました。「煉瓦を積む」をご覧ください。[註記追加 16日 7.50]

喜多方の木造建築の基準寸法:基準柱間は6尺が一般的です。
この柱間1間に対して、煉瓦を長手で8本横並べに割り付けたとき、1本あたり7寸5分、これから目地分3分を引いて7寸2分。これを基本の寸法にした、と考えられます。

   基準柱間のような「拠り所」がない場合の煉瓦寸法は、どのように決められるのか、については、
   以前に紹介した“EARTH CONSTRUCTION”にも解説がなかったように思います。
   おそらく、手で持てる大きさ、重さと構築物の丈夫さとの兼ね合いで決めるしかないのだと思われます。
   これも以前に紹介した会津・軽井沢銀山の煉瓦、これは途方もない大きさでした。
   なお、「軽井沢銀山の煙突」の記事から、“EARTH CONSTRUCTION”の当該部分にアクセスできます。

少し煉瓦寸法の説明に深入りしました。これも「謂れ」の一つだからです。

   アルミサッシの新規格、これが「謂れ」不明の訳の分らないモノ。
   従来の既製建具の「規格」には、実際の「暮し」に裏打ちされた「謂れ」があった。
   「建物づくりと寸法-1」「建物づくりと寸法-2」参照。[リンク先追加 15日15.20]
   新規格にはない。
   新規格をつくったのは、非現場の人たち。ヤミクモに200mmピッチで「整理した」だけ・・・。
   こういう非合理なことを、現場の人はやらない。


若菜家の木骨煉瓦造、作業蔵の構造分解図は下図のようになります。

   

この場合は、煉瓦1枚積み、つまり、壁厚は、煉瓦長手寸法分です。
1枚積みの場合、最初に壁厚方向に1枚ずつ横並べに積むと、次の段は、それに直交して壁の長さ方向に、先の煉瓦の上に2列積んでゆきます(最初の段をどういう積み方にするかは任意です)。これが一番簡単な積み方で、通称「イギリス積」と呼ばれます。
   
   同じ1枚厚の壁を、同じ段に長手と短手を交互に並べる積み方、をフランス積みと通称しています。
   他にもありますが、イギリス積が間違いく積めます。[解説追加 16日 7.13]

そのときの重要な注意点は、下の段と上の段の「目地が重ならないこと」、つまり目地が上下繫がらないことです。このことは、“EARTH CONSTRUCTION”でも触れられています。
繫がる場合を「イモ」と呼び、繫がらない場合を「ウマノリ」と呼んだりします。
これは、万一亀裂が入り始めたとき、亀裂が進行しないようにするためです。
その結果、目地が写真のようになります。

一方、味噌蔵では、各段、長手が並んでいます。これは、半枚積みだからです。
そして更に言えば、この蔵は典型的な「木骨煉瓦造」ではありません。
つまり、この煉瓦は「外装」、木造軸組の外側に長手一皮の煉瓦壁を張り付けたつくりなのです。壁面につくられたアーチを見ると分ります。
これは「煉瓦造」風を装ったつくり、言ってみれば、きわめて現代風なつくりなのです。けれども、煉瓦造の本物を手本にしていますから、現代のそれとは比べものにならないほど出来はいい・・・!


この二つの若菜家の蔵の軒先は、先回の樋口家の蔵のそれとは大きく違い、しっくい仕上げになっています。
若菜家野例では曲線を描いています。直線で納めたのが下の写真です。
喜多方の土蔵造は大抵この形式の軒になっていて、「繰蛇腹(くり・じゃばら)」と呼ばれています。
この手法を木骨煉瓦造でも踏襲した、と考えられます。
喜多方の木骨煉瓦造が、以前から喜多方にあった土蔵造の漆喰壁を煉瓦壁に置き換えたつくりである、ということを示す証なのです。



下は、その外観がいろいろなところで紹介されている喜多方北郊杉山にある蔵座敷。ここでは、土蔵造の軒は深くありませんが、土蔵造の上にいわば覆い屋を掛けた形で軒の出の役を覆い屋がしています。



曲線にしろ直線にしろ、そのつくりかたは構造分解図のように、小舞を掻いてしっくいを塗りつけています。
これは、普通の土蔵の方法とは違います。代表的な土蔵の例が下図です。
近江八幡・西川家の土蔵。関西の土蔵の典型と言ってもよいかもしれません。



ここでは、少し出た垂木に縄を捲き、それを下地にしっくいを塗り篭めています。
その工程写真は、「土蔵の施工」で紹介させていただいています。

喜多方の建物のような深い軒の土蔵造の場合、商家や城郭のように深く出した垂木や出桁・梁を一々塗り篭める方策もありますが、あまりにも手間がかかりすぎ、そのためこのような方策:「繰蛇腹」が考えだされたのではないか、と思います。今流に言えば、耐火被覆、防火被覆です。

なお、上のモノクロ写真の例の建屋の煉瓦は、目地から分りますが、「積んだ」と言うより、「張った」と言った方がよい例です。いわば厚いタイル張りです。外壁を風雨、風雪から護るための策です。
杉山の蔵座敷の腰には、煉瓦ではなく竹がスノコ状に張られています。煉瓦が現れる前の仕様だと思われます。[説明訂正 16日 19.24]

なぜ、腰に煉瓦を張るか?
一般に、建物の壁の下部:腰と呼ばれる部位は、日本のような風をともなう雨の多い地域では、雨に打たれることが多い。雪国の場合は、積った雪の沈下にともない壁材が剥落することがあります。積った雪が壁面に凍りつき、雪が沈下する際に壁を傷めるのです。

   雪の少ない地域でも、腰は雨に打たれます。塗り壁では必ず被害を受けます。
   したがって、風雨の激しい地域では、腰の塗り壁部分の表面を板壁で覆います。
   関西や四国地方では、腰の板壁は縦羽目がほとんどですが、これは、水はけのよさを考えたものでしょう。
   横羽目は、水のはけが悪いのです。
   ところが、最近見かける建物では、腰部分を塗り壁、上部を板壁にする例が多い。
   おそらく、西欧の石積み、煉瓦積の建物の外観だけを真似て設計したのではないでしょうか。
   「謂れ」が考えられていないのです。
   以前紹介のイタリア・ドロミテに、地上階を石積みでつくり、その上を木造にした例があります。
   [文言追記]
   
今回紹介の「若菜家」の煉瓦の色が、2階部分と下部で色が違っています。2階部分は明るい赤、下部は暗赤色。
こうなる「謂れ」と「腰に煉瓦を張る」こととは関係があります。
この色違いは、単なる「化粧」ではありません。
その「謂れ」は、先回紹介の「樋口家」の蔵の腰の部分の「姿」に示されています。
次回は、その点について。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「形」の謂れ(いわれ)-1・・・・軒蛇腹

2011-06-08 11:55:36 | 形の謂れ
[文言補訂 15.04、18.03][誤字訂正 9日16.00]

水戸市にある「水戸芸術館」の前庭に、《宙に浮いている》「御影石(花崗岩)」が置かれています。いわゆる「アート」です。
もちろん、重い「御影石(花崗岩)」を自在に宙に浮かすことは、この地球上では不可能です。
裏へまわると、鉄の棒で石を支えているのが見えます。おそらく「作者」は、その《想いを貫徹する》ために(!)、見えない鉄の棒が欲しかったに違いありません。

こんな具合に「意表をつく」のは簡単なことです。
今や《芸術》の世界では「意表をつく」ことに躍起になっている、そんな風に私には思えます。
そして、その端っこに、「建築家」の「作品」もあるようです(多くの「建築家」は、端っこではなく中央に居たいようですが・・・)。

   設計した建物を「作品」と称することに、私は違和感を感じます。
   私にとっては、自分が設計した建物は、私の「作品」ではなく、あくまでも「設計事例」にすぎません。

   「作品」と言ってしまったとき、その建物に必ず存在するはずの「人」が消えてしまいます。
   つまり、「作品」と称すると、それは、「作者」一個人のものになってしまい、
   その「建物に存在する人びと」(そこを「使う」、あるいは、そこで「暮す」と言ってもよい)は無関係な存在、
   あるいは、「人びと」は居なくてもよい、
   あるいは、「作者」が適宜に扱える点景としての単なるモノになってしまうはずだからです。
   《アート》用語で言えばオブジェ。
   はっきり言えば、「作者」にとっては、そこに居る人びとは、無用なのです。
   それは、多くの「建築作品」を見れば自ずと明らかになります。
   まさに、「意匠」あるいは「真美」とは何であるかは別として、伊東忠太の言う
   「実体を建造物に藉り意匠の運用に由って真美を発揮するに在る」を実行しているのです。[誤字訂正 9日16.00]
 
私の知る限り、かつての「芸術」には、こんな類の「作品」はなかったように思います。
もちろん、建物にもそんな類のものはなかった、そんな「作者」の「作品」などあろうものなら、人びとから「総好かん」を喰ったに違いありません。
その意味では、現代はお人よしばかりの世の中になってしまった・・・。
少し大げさに言えば、「『もののかたち』とは何か」について問う「習慣」が喪失してしまっている、そんな風に私には思えるのです。

ここしばらく、トラス、特に「横川の変電所」のトラスの断面図を紹介した記事と、「竿シャチ継ぎ」解説の記事へのアクセスが多いのが気になっています。
もしかすると、トラスや竿シャチ継についての「宿題」「課題」でも出されているのかもしれません。

たしかに、「トラス」も「竿シャチ継」も、見事な技術・形です。
ただ、それらを「その部分、形だけを知る」ことで終わってしまわなければいいが、と思っています。
今の世の風潮として、そういう《知識》だけを集めて終わってしまうのではないか、という「危惧」を感じているのです。

「トラス」という技術・形も、「竿シャチ継」という技術・形にも、そうしなければならない「謂れ」がある、その「謂れ」に思いを馳せることこそ必要なのではないか、と思うのです。

   こう書いているとき、メールで、「恐るべき本」が世に出回っている、との話を知りました。
   《古民家鑑定士》資格という民間の団体が勝手につくった《資格》があるようです。
   その講習会の《教本》に、《本当は服を掛ける目的ではない長押》という見出しの項目があるのだそうです。
   こういう怖ろしい《知識》が盛り込まれた《教本》で古民家鑑定の資格が得られる・・・!
   ついでに言えば、目の玉が飛び出そうな高額な講習料の講習数回で《検定》が受けられる・・・。
   日本ってこんなエゲツナイことが当たり前なところになってしまった!
   

そこで、予告した喜多方の煉瓦造の見やすい大きさの図版の紹介かたがた、この点について考えてみたいと思います。

次の写真は、喜多方に現存する煉瓦造建築では最も古い一つと考えられる蔵の外観です。
喜多方の煉瓦造は、九割方が「木骨煉瓦造」ですが、これは煉瓦を積んで木造の床と屋根を架けた「組積煉瓦造」の典型と言ってもよい建物です。
   なお、以下の写真、図版は、2006年12月に「実業家たちの仕事」で使用したものです。



さて、この外観から見てゆきます。

煉瓦造の建物で現在手近で見られる例としては、横浜の倉庫群ぐらいしかありません(もちろん、各地に残っていますが、大都会には滅多にありません)。そしておそらく、これらが、「煉瓦造とはこういう形をしているものだ」、といういわば基準形になっていると言ってもいいかもしれません。
たとえば、上の写真の軒まわりの煉瓦のデコボコ。
普通「軒蛇腹(のき・じゃばら)」と呼び、この場合は煉瓦造なので「煉瓦蛇腹」と呼んでいます。横川の丸山変電所の図を見ても、軒まわりに同じように設けられています。
そういうことから、これは煉瓦造建築特有の「軒まわり」に設ける「飾り」、いわゆる「意匠」と思う方もおられるかもしれません。

しかし、単なる「飾り」ではないのです。この「形」には「謂れ」があるのです。

下図は、この建物の構造図解です。

      

煉瓦造の軒蛇腹は、壁の本体から、煉瓦を一段ごと少しずつ外側に迫り出してつくられます。
迫り出した部分の重心位置が、本体の壁より大きく外に出てしまうと、煉瓦の重さで崩落してしまいますから、そのあたりの兼ね合で「迫り出しの出」が決まってきます。

   子どもの頃、積木遊びで、どれだけ迫り出せるか、やったことのある方もおられるでしょう。

   なお、煉瓦を円形に積み、このように一段ずつ、円の内側に少しだけ迫り出し積み続けてゆくと、
   つまり、等高線状に煉瓦を積んでゆくと、
   最終的に円錐形あるいはドーム形の構築物ができ上がります。
   イスラム圏には、この方法でつくられた直径40m近いドームがあります。

この迫り出しには、そうする理由:「謂れ」があります。

屋根の軒先は、一定程度、壁の外面より外に出る必要があります。
そうしないと、屋根から流れ落ちる雨水が、壁を伝わって流れます。
日本の雨は、多くは風をともないますから、ただでさえ壁が濡れます。それゆえ、日本の建物では軒の出が大事に考えられてきました。
木造の場合は、垂木で軒の出を調節します(「出桁(だしげた)」、「出梁(だしばり)」という方法もあります)。

   この点については、いろいろなところで触れてきました。
   ところが、若い方がたの中には、軒の出を嫌う方が多いようです。
   私も若い頃、そういう時期がありました。軒の出の「恰好がつかない」のです。
   軒の出の調子を整えられるようになったのは、大分経ってからのことでした。
   それは、建物を「断面図」で考えるようになってからのこと。
   「断面図」は、「空間」を紙の上でとらえる最高の手段の一つということに気付いたのです。

煉瓦造でもその方法を採ることはできますが、煉瓦造の壁と木造の軒の接点で、きれいに納めるのがやっかいです。
その上、この建物の場合は「蔵」ですから、その部分を木造にするわけにゆきません。
   土蔵づくりでも、軒の出は、普通の木造よりも少ない。
   それは、軒を土で塗り篭めるには、軒を深く出せないからです。[追加 18.03]
そのためには、煉瓦造で軒を納めるのがいい。そこで考えられたのがこの「蛇腹」を設ける方法です。蛇腹の上で、木造の軒先が止まっているのです。

   西欧など煉瓦造の多い地域でも、同じように納めています。
   煉瓦造が多い地域とは、すなわち木材の得にくい地域。
   ということは、すなわち、雨の少ない地域。
   それはすなわち、軒の出は深くする必要のない地域です。[補訂 18.03]
   この煉瓦造の多い地域の煉瓦造の方法を、喜多方で煉瓦を積んだ「実業家」が会得していたようです。
   以前の紹介の際に、その「実業家」は、東京へ出て煉瓦積を習ったことに触れました。

また、会津のような雪の多いところでは、屋根の上でかたまった雪は、直ぐには地面に滑り落ちるわけではなく、しばらくの間、いわば柔らかい餅のように軒先から垂れ下がり、しかも内側(壁側)に曲ってきて(よく分かりませんが、おそらく、雪の層の表側が裏側よりも伸びるために内側に曲るのでは?)、壁に接して壁を傷めてしまうことがあるそうです。そのために、ある程度の軒の出が必須。

ですから、この蔵の場合は、煉瓦造の本場のそれに比べ、蛇腹が大きくなっています。横川の変電所の例も、この蔵のようには出ていません。横川は寒いけれども雪は少ない。
妻側の蛇腹もかなり出ていますが、軒先の蛇腹を妻側に回してくると、必然的にこうなります。
   大分昔に青森で聞いた話ですが、軒先から垂れ下がった柔軟な雪の板は、
   曲ってガラス窓にぶつかり、ガラスを割ってしまうそうです。


「建築学講義録」の著者、滝 大吉 氏は、その書の中で、
   建築学とは木石などの如き自然の品や、煉化石、瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
   成丈(なるたけ)恰好能く(かっこうよく)、丈夫にして、無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問
と書いていることを紹介しました。
   この場合の「建築」は、字のとおりの意味、すなわち「構築する」「つくる」ことを指しています。

私は、ここに書かれていることが、まさに、「デザイン: design 」ということの本義であると考えています(英英辞典で de-sign の原義を調べても、同じような意です)。
つまり、「このようにする」「このように考える」ことが「意匠」なのです。「謂れ」を考えることなのです。
「意匠」とは、「匠」に「意」をそそぐことなのであって、単に「形」を「いじくる」ことではない、単なる「思いつき」ではない。ましてや「意表をつく」ようなことではないのです。

   「謂れ」:そう言われる(そうされる)正当な理由(新明解国語辞典)

その意味では、「作品」づくりに没頭する最近の「建築家」のつくる建物:「作品」には、「形」はおろかその全てに「謂れ」がない、と言えるかもしれません。

ここしばらく喜多方の煉瓦造を題材にして、「『形』の謂れ」について考えたいと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする