浄土寺・浄土堂、更にふたたび・・・・続・その技法

2006-11-30 17:39:52 | 建物づくり一般
 
 先回は、「大虹梁」の柱への仕口を紹介できなかったので、あらためて紹介。
 解説にあるように、一見複雑に見える仕口は、きわめて単純な原理でつくられている。
 つまり、「大入れ」で他の材に挿し、楔で締めるだけ。

 最近では、弥生後期と考えられる九州・吉野ヶ里(よしのがり)遺跡で見つかった大きな柱の建物遺構の復原案にも、「貫」が使われている(縄文期の青森の三内丸山遺跡では、復原建物に、木の又に横材を掛ける方法を採っている)。

 私見だが、木材に孔を穿つ道具を持つようになって、柱の中途にやや大きめの孔をあけ、他材を挿入し、隙間を木片でふさぐ、という方法で、梯子型あるいは鳥居型の丈夫な架構を簡単ににつくれる、という「発見」があったことは、容易に想像できる。楔締めの「貫」の効用は、そんな所から理解されて行き、本格的な仕口へと発展したのではないだろうか。

 さて、浄土堂そして南大門でも使われている「大虹梁」を見て、胴張りに違和感を持つ人が意外と多いようだ。
 古代寺院などの大寸の梁は、他の材の上に載る形のため、何となく安心できるが、太い梁を、細く加工した竿状の部分だけ柱に挿し維持するやりかたが不安感・違和感を与えるのだろう。
  図の数字が見にくいので補足:
  虹梁の胴張り部の寸法は、
  横幅が1尺8寸(約55cm)、縦は1尺6寸5分(約50cm)のほぼ円状
  竿状の部分は、
  柱に喰いこむ元部分で縦8寸(約24cm)×横6寸5分(約20cm)、
  貫通する部分は、縦は8寸のまま、横が4寸8分(約14.5cm)

 しかし、工人たちには、これで大丈夫、という判断があったのだ。
 注目したいのは、虹梁の下面側の先端が加工されていて、横から見るといわばアーチ状になっていること。これが逆に上面側だったならば、先端部の下面位置で、材が裂けてしまうことは容易に想像できる。
 しかし、こういう簡単にして確実な仕口法を、工人たちは、どのように獲得したのだろうか。

 よく言われるのは、こういういわば《突飛な》方法は古来の日本建築にはないから、当時日本にきた「宋」の工人たちに教えられた、という説である。しかし、いろいろ調べてみても、当時の中国の建築には似たような例がなかなか見つからない(あるのかも知れず、どなたか知っていたら教えてください)。
 ときは平安の末期、公家の威力が少しずつ衰え、代って武家が力を得だしたころ。民間の工人たちのなかには、前代までの「しがらみ」にとらわれずに《突飛な》ことを考える工人たちもいたのではなかったか、と勝手に思っている。

 でも、工人たちはどうやってこの方法に至ったのか。
 今だったら、すぐに「学」の力に頼るだろう。
 しかし、「学」の力で、自動的に、この方法に至ることはあり得ない。
 大分前のことだが、構造工学を学んでいる学生に、梁の断面はどうやって決めるの?と尋ねたところ、「構造計算で決めます」という《模範的な》答が返ってきた。重ねて、寸法も計算で出てくるの?と尋ねると、少し動揺しつつも「そうだ」と言う。「仮定した寸面」の確認を計算でやるんだよ、だからその「仮定」が大事、と言っても浮かない顔。なにもこれは学生だけではないようだ。

 しかし、《頼りにする》学などの存在しなかった時代、彼らは、どうやって、こういった巧みな方法を身につけたか。
 彼らは、「ものを実際につくる現場」での日常の作業を続ける中で、「体感的に身につけた」のであり、それを保証したのは、彼らのものごとに対する「直観的な把握力」であったと考えられる。ワットがI型鋼を発案できたのと同じ(10月16日に紹介)。
 くどいほど書くが、いわゆる「学」は、とりわけ、ものづくり:「工」についての「学」は、幾多の工人たちの「直観」の成果を理解する試みの中から生まれたのである。先の学生の例ではないが、今は、これが逆転し、「学」が何でも生み出せるかのように錯覚し、「直観」は非科学的として否定する人が多い。必要なのは、「学」を学ぶことも結構だが、先ず「直観力」を養うことではないか。

 そんなことはない、と主張する方には、尋ねる:
 あなたは自動車の運転を「直観でしている」のではありませんか、と。
 運転中は、瞬時の判断の連続、それは「直観」以外の何ものでもない。
 《理論》の判断など待っていたら、事故を起すのは間違いない。
 また、ある野球の解説者の言:
 ボールを正確に目標に向って投げるために必要な
 球の初速、投射角は《理論》で算定できる。
 しかし、それを「分かること」と、実際に「投げること」とは別の話・・・。

 それはさておき、浄土寺浄土堂、あるいは東大寺南大門に私がこだわるのは、このような形式を復活すべきだ、というわけではもちろんない。その根にある「考え方」をあらためて学び直す必要があるのではないか、と考えるからだ。

 図は、「文化財建造物伝統技法集成」および「国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書」よりの転載・編集したものです。
コメント (1)
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浄土寺・浄土堂、ふたたび・・・・その技法

2006-11-29 19:55:31 | 建物づくり一般

1986年(昭和61年)、(財)文化財建造物保存技術協会から、『文化財建造物伝統技法集成―継手及び仕口―』上下二巻が刊行された。
同協会は、長年にわたり、わが国の重要文化財建造物の保存・修理工事に関わってきているが、これは工事によって同協会に蓄積された資料を編集・集成したきわめて貴重な出版物である。
しかし、残念ながら、この書は研究機関等に配付されただけで、市販されていないから、手に入れるのは容易ではない(私の場合、たまたま目にした古書店のカタログで知り購入)。

このような資料が、社会の一部に偏在し広く開示されないのは決してよいことではない。著作権等の問題もあろうかと思うが、私が知るかぎりの情報を、ブログ上で紹介したいと思っている。

と言うのも、今、わが国の(木造)建築は、建築法令によって、長い歴史と一切無関係な形に変質してしまっているが、それには、このような資料が市販されていないこと、そのため、そのような技術体系の存在自体を、関係者はもちろん、一般の人びとが知らないこと(知らされていないこと)が、大きく影響していると考えられるからだ。

なお、同協会では、保存・修理を行った建造物の一部を「文化遺産オンライン・建造物修復アーカイブ」(試行版)として配信・紹介している。
 アドレスは http://archives.bunkenkyo.or.jp/index.html

同書に、浄土寺浄土堂を例に、「大仏様(だいぶつよう)」の特徴が解説されているので、そのまま引用、紹介させていただく。

  [10月20日の浄土寺浄土堂、先回の東大寺南大門の断面図、
  ならびに上図を参照しつつお読みください]

① 柱は屋根裏まで達しているので、大径長大材が必要となる。
② 和様の積上式構架法と異なり、
  横架材はすべて
  「挿肘木(さしひじき)」「貫(ぬき)」「虹梁(こうりょう)」によって構成され、
  しかも桁行、梁行の材が同高に納まるので、
  横架材の仕口穴は集中的、かつ過密となる。
③ ②の仕口穴は「大入れ(おおいれ)」であるので、
  仕口孔の大きさは柱径に対して比較的細く、
  長辺と短辺との比率が小で正角に近い。
  この点からも、柱を大径材にしないと、割裂の原因となる。
④ 上記の仕口穴の大きさは、数種類に規格化がはかられている。
  また、仕口穴の下端に小溝が彫られている手法は珍しい。
  通気孔であろうか。
⑤ 上記仕口はすべて楔締(くさびしめ)であるが、
  「足固(あしがため)貫」に限り、側面も「楔締」とする手法は他に見られない。
  (建て方にあたり:筆者追加)最初に入れる最も重要な「貫」であるから、
  通りをよくするために配慮したのであろうか。
⑥ 柱頭部の納まりは、「頭貫(かしらぬき)」の上端を柱頂より
  若干高く(浄土寺浄土堂で3寸、東大寺南大門は図*によると4寸)納め、
  「頭貫」の柱上部分を大部分柱頂高さまで欠きとり、「大斗」を据える。
  「大斗」は柱頂高さに平らに据わるが、
  「頭貫」の欠き取り木口(こぐち)が若干「大斗」の皿斗付近に欠込みとなる。
  「大斗」は四方が押えられるので斗尻に「太枘(ダボ)」を設けない。
  これは大仏様の特異な手法で理由はよく分からないが、
  他の大入れ仕口穴の丈(せい)とほぼ同じにしたかったからであろうか。
⑦ 「虹梁」や「貫」(側面に胴張りがあって巾が広い)も
  柱に挿さる部分は巾や丈を落して、これと接続する
  「挿肘木」「通肘木(とおしひじき)」「貫」等と断面の大きさを同じとし、
  継手や仕口を形成する。
  柱の中での工作は引掛りをつけた「合欠(あいがき)」で、
  「四方差」の場合は、断面をそれぞれ合欠とする至極簡単なものである。
⑧ 軸部等の構造部分や軒廻り等の継手、仕口は驚くほど簡単であるが、
  雑作(ぞうさく)材には他で見られない、技法的に特殊で巧妙なものがある。

東大寺南大門は浄土寺浄土堂と建物の性格は異なるものの、昭和5年の修理記録によると(⑥項中の[図*]は、この修理記録を指す)、基本的には浄土寺浄土堂とほぼ同じとみてよく、継手も仕口も簡単である。  [以下略]

 

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東大寺・南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握

2006-11-28 00:41:50 | 「学」「科学」「研究」のありかた

◇厳密さと精密さ、その違い

「冬」の概念の話のときに、自然言語は常にリアリティに触れている、いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない、との物理学者・ハイゼンベルクの言を紹介した。

ところが、近代以降、学問の世界では、物理学を代表とする「数学的自然科学の方法論」が、最も「厳密な科学的な思考法」と見なされ、自然科学はもちろん、工学や人文科学の世界に於いても、重用される傾向が顕著になった。今では、すべて、数値化あるいは数値目標をもって語るのがあたりまえになっている。

しかし、このような状況の到来に対して、警鐘をならした人がいなかったわけではない。以下に、ある人の一文を紹介しよう。
「・・研究の厳密さは(その対象領域により)独自の性格を持っています。数学的自然科学の厳密さは、精密さです。・・数学的自然研究は、正確な計算がおこなわれるから精密なのではなく、その対象領域への結びつきかたが精密さの性格をもっているので、そのように計算されねばならないのです。これに反して、・・生活体についての諸科学は、・・厳密であろうとすれば、必然的に精密さを欠くことになるのです。・・」(ハイデッガー「世界像の時代」桑木 努 訳 理想社)

◇工学とは何か

ところで、「ものをつくる」ということは、学問の世界で言うと、どこに属することになるのだろうか。多分今では、当然のように多くの人が「工学」と答えるはずだ。さらに、「工学」は自然科学系の学問の世界だと大方の方が思っているにちがいない。つまり《理科系》だ。

はたして、この理解は正当だろうか。私の答は、否、である。
「つくられたもの、できあがっているもの」を自然科学的方法論で分析することは、ことによると可能かもしれない。
だが、「ものをつくる」という「人の営為」は、すでに自然科学的方法論の埒外にある。「人の営為」についての言及は、ハイデッガーの言う「生活体についての科学」だからだ。

もともと、工学の「工」は、大工の「工」、「ものをつくること」、「たくみ」という意味。だから、明治初頭の「工部大学校」には、現在の「美術」も含まれていた。
残念ながら、この本来の意味は変質し、「ものをつくること」から「つくられたもの」についての《論考》が主となり、さらに、あろうことか、その《論考》をもって「つくること」に干渉するようにさえなってしまった。

しかも、その《論考》の多くは、先日書いたように、数値化絶対信仰ゆえに、実態・リアリティを、数値化できるように似て非なるものに改変して扱うことさえ平気になった。数値化できないものは、捨て去るか無視するのである。すでにしてscienceとは程遠い。このことに警鐘を鳴らしたのがハイゼンベルクであり、その傾向の根は、研究の「厳密さ」に対する「誤解」にある、としたのがハイデッガーだと言ってよい。

◇直観による把握、《科学》による把握

上掲の図と写真は、東大寺・南大門である。高さ約25m、軒の出約5m。1199年に東大寺再建にあたり重源の指図により建てられた。浄土寺・浄土堂と並ぶいわゆる「大仏様」の代表である。その構想は、あるいは、浄土堂よりも、より明快と言ってよいかもしれない。

この南大門、現在の木造建築の「耐震診断」法を適用すると、明らかに要耐震補強の建物になる。しかし、実際は、建立当時の材で、建立以来800余年にわたり、健在である(柱は礎石に載っているだけ、壁も少ない。重心は高い・・・、すべて今の《常識》に反する!)

では、なぜ、要耐震補強、という結論が出るのか。
それは、「耐震診断法」の基になっている「構造理論」(簡単に言えば、架構を耐力部、非耐力部からなると見なし、耐力部が架構を維持する、という考え方)が、木造建築、特に、古来の日本の木造建築の実像・リアリティを、数値化のために、「似て非なるものに置き換えた上でつくられた《理論》」だからである。しかも、この考え方は、現在建てられる建造物まで律している(建築基準法)。

だが、この考え方によっては、いま、南大門はつくれまい。第一、このような構想・発想はいまの「構造理論」からは決して生まれないだろう。
なぜなら、《理論》に基づく部分的な《知識》がじゃまをして、「全体」を構想するようには頭が動かないからである。
これは、《知識》が直観力を駆逐してしまった現象と言ってよい。「工」が「工」ではなくなったのだ。
一方、南大門をつくった人たちには、生半可な《知識》などなく、あったのは、現象をありのままに捉える「直観的な把握力」であった。その意味で、彼らのやったことこそ、本当の「工学」だったのである。

〇図・写真は「奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一」(岩波書店)からの転載です。
  なお、写真は、渡辺義雄氏の撮影。
  最近の建築写真とはまったく違い、本当に「建築」が撮られています。
  本書を一度是非ご覧ください。
  各写真が大判なので、ここに載せたのは、部分的にスキャンしたものです。
  原版は、凄い、の一言に尽きます。 
 

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「冬」とは何か・・・ことば・概念・リアリティ

2006-11-25 20:28:00 | 「学」「科学」「研究」のありかた

例年よりも相当遅れて、木々が紅葉しだした。遅いとは言え、間違いなく、そこまで「冬」が近づいている。写真は、数日前の、近くの農家の屋敷林の風景。高さ20メートルを越えていそうな見事なケヤキ。
  
ところで、私たちはいつも、冬になった、冬が過ぎて春が来たらしい、などとなにげなく語り済ましている。だが、もしもことあらたまって、「冬」とは何か、と問われたとして、私たちに、「冬とはかくかくしかじかのものである」、と明確に定義・説明ができるだろうか。

もちろん、冬という季節が備えていると思える特性をいくつか並べることはできる。寒い、冷える、太陽高度が低い、日射が少ない、夜が長い、落葉樹の葉が無い、・・特性とおぼしきものは、多分際限なく挙げられるだろう。ちなみに国語辞典には、「四季の一、秋と春の間の季節、太陽暦では12月~2月を指す、天文学では冬至から春分まで、夜が長く四季の中で最も寒い、・・・」とある。

だが、いかにこういった特性を数えあげてみても、また外枠から(秋と春の間というような)規定を試みても、それで私たちが抱いている冬の概念、冬のイメージが語りつくせるわけではない。それらはたしかに冬の属性ではあるけれども、あくまでもある局面で切りとったいわば冬というものの一側面、一断片にすぎず、一方私たちが冬なるものとして心のうちに抱いているのは、そのような断片ではなく、そうかといってそれらの断片を寄せ集めたものでもない。

私たちが「心のうちに抱いている冬」は(この「心のうちに抱いているもの・こと」という意がconcept:概念ということばの本義である)、私たちが、それぞれの「冬の情景・リアリティ」を通して得ている、「ある『漠然とした』冬の全体像」なのである。

ここで『漠然とした』ということばの意味は、冬というものが「あいまい」で「いいかげんな」概念だ、ということではない。なぜなら、「冬」は私たちの中に厳然として存在するからだ。つまり、ここでの「漠然とした」という意味は、抽象的な言辞によっては、その概念の内容を明確に規定できず、「その意味であいまいにならざるを得ない」ということを意味しているにすぎない。

では、どうしたら厳然として存在する「冬」を正確に語り、伝えることができるのだろうか。
それには、私たち個々の「まったく個人的な冬での経験」、「そこでみた冬の情景」を語ればよいのである。


こう言うと、いまの世の中は一般に、なにごとをも数字で比較し判断することに慣れてしまっているから、これではあまりにも情緒的で、しかも個人的だ、同一性にも精密性にも欠け、不確実極まりない、と思う人が多いだろう。
しかし、そうではない。誰かが、窓に息をふきかけたらたちまちのうちに凍ってしまった、と語ったとしよう。そういう経験は私にはない。しかし、私には「分かる」。その情景を想像してみることができる。


もちろん、その想像してみた情景は、伝えてくれた当人の直面した情景と同じという保証はまったくない。それでもなお、氷点下○○度などという表現よりも、想像で私のなかに生まれた「了解」の方が、よりリアリティに近づいていることは確かである(氷点下○○度という表現から、窓に息をふきかけると凍りつく、という情景は、直ちには浮かんではこない)。

つまり、
互いに異なる情景を語ることによって、私たちは互いに、よりリアリティに近づいて「冬」を語り、伝えあうことができる。
それは、私たちは互いに異なった事象にめぐりあいながらも、「冬」についてのある「概念」を、それは決して明確には指示できないのだが、共有しているからだと考えてよい。
というより、それを「共有している」からこそ、私たちは単に「私」の寄せ集めではなく「私たち」という一人称であり得るのであり、そして、「私たち」が存在するからこそ『冬』という「ことば」が存在し、また、その『冬』という「ことば」に、私たちそれぞれの冬の情景を託すことができる。

これが、「ことば」というもの、「概念」いうものの本質であって、人間が、それぞれの集団・社会ごとに、「言語」というものを持ち得た所以なのである。


いま一般に、ある「概念」・ことばの背後には必ず私たちそれぞれの感性に拠ってとらえられたリアリティが存在するのだという厳然たる事実が、忘れ去られる一途にあるように思える。
概念はすべて精密に定義・記述されなければならないと信じこみ、精密にいわば指折り数えられないものは不確実なものとして捨て去るか、あるいは、指折り数えられるように実態を改変して見ようとする《努力》が、《科学》の名の下で重ねられる。
後者の場合、すでに対象は似て非なるものに変ってしまっているにもかかわらず、それに気がつかない(むしろ、気がつきたくない)。


建築の世界でも、対象を似て非なるものに置き換えて得られた《考え方》が横行し、そのおかしさを指摘しても、なかなか納得はしてもらえない。《数値化》できたのだから科学的なのだと、信じて疑わないからだ。

そこで、大分昔読んで、大いに感銘を受けたある物理学者の一文を紹介しよう。
「・・現代物理学の発展と分析の結果得られた重要な特徴の一つは、自然言語の概念は、漠然と定義されているが、・・理想化された科学言語の明確な言葉よりも、・・安定しているという経験である。・・既知のものから未知のものへ進むとき、・・我々は理解したいと望む・・が、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・。というのは、そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。・・」

                      (ハイゼンベルク「現代物理学の思想」富山小太郎訳 みすず書房)

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道・・・道に迷うのは何故?:人と空間の関係

2006-11-23 16:21:49 | 居住環境
◇「地理に明るい」とはどういうことか

先回、道に迷った話を書いた。なぜ迷うのか。あたりの地理を知らない、地理に明るくない、つまり分からないからである(地理=地にきざまれている理屈:その土地の様子)。
地図を見れば分かるではないか、という人もいるかもしれない。最近なら、カーナビを使えば一発だ、と言われるだろう。

しかし、地図を見るにあたっては、先ず、「今どこにいるのか」を知らなければならない。
原野のまっただなか、どうやって今いる位置を知るか。それには、現在位置が分かるところまで、戻るしかない。
カーナビなら、現在位置などすぐ示される。そうかもしれない。
しかし、それは「分かったこと」ではない。「分かった」と言えるのは、同じ場所へ、カーナビにたよらなくても、次からは迷うことなくすいすいと行けた場合のことだろう。
カーナビの場合、人はあたかもベルトコンベアーに乗せられた荷物のように、「指示」に従うだけで、「分かって動いている」のではない。

「カーナビにたよる」ことは、「人に案内されて目的地に行く」のと似ている(タクシーで目的地に行くのも同じ)。二度目に一人で行けるかというと、必ずしもそうではない。自分の中に、目的地までの「案内」が構築されないからだ。カーナビの場合は、おそらく、いつも、いつまでも、カーナビにたよるしかないのではないか。

◇人は、どうやって「地理に明るくなる」か

頻繁に訪れる場所でないかぎり、その場所の地理に明るくなる必要はない。しかし、頻繁に訪れる場所については、回数を重ねるたびに、自然に地理に明るくなる。
初めて訪れるとき、「私に分かっている」のは、その初めての場所への「入口」までである。目的物は、目の前のいわば未知の大海の中にある。だから、「入口」とは、私のよく知っている世界(自由自在に振舞える世界)からの「出口」と言ってもよい。
その未知の大海の中の目的物へ向って、人は、「多分こちらだろう」と「見当」をつけて歩き出す。「見当」をつけないかぎり、つまり、「入口」と「目的物」を結ぶ線上にいるのではないか、と思わないかぎり、足は動かないからだ。
別の言い方をすれば、人というのは、いつも「自分の所在位置の確認」をしながら歩いている、ということになる。
だから、初めての土地では、きわめて不確かで不安な状態が続く。地図を持っていて、地図と対照すると多少は不安は消えるが、ほんとに解消するのは目的物へ到達したときだ。
もちろん、自由自在に振舞える世界にいるときでも、人はかならず「自分の所在位置の確認」を行っている。ただ、不安に感じることがないから、意識に上らないだけにすぎない。

この「所在位置の確認」は、「自分の目の前の空間の様態(目の見える人の場合)」、あるいは「自分の身のまわりに広がる空間の様態(目の不自由な人の場合)」から、感覚的に(その人の感性で)捉えられるのが常だ。「この先には、多分、こんな空間があり、そこは、目指している目的物のある所へ続く」と「勝手な想像」をするのである。人は常に、無意識のうちにこの「勝手な想像」を繰り返している。そして、その「想像」が裏切られなければ、不安は起きない。

◇建物の設計とは

だから、建物の設計とは(街の計画も含め)、『人の「勝手な想像」を裏切らないような空間の様態をつくること』と言ってよいだろう。人の感性に絶大な信をおかないとできない。人それぞれの感性に信をおく、ということである。

こういうと、たいてい、人それぞれ、十人十色、そんなことはあり得ない、と言われるのが常だ。
しかし、
十人十色ということは、ものに対する人の感覚が人によってまったく異なる、ということではない。
むしろ、ものに対する人の感覚は人によらず共通であり、しかし、そこでそれぞれが捉えたものに対してのそれぞれの反応・解釈に、十人十色の違いが生まれる、と考えた方がよいだろう。
そうだからこそ、人の世界に互いに通じる「言葉:言語」が生まれたのだ。


けれども日常、得てして、「ものに対する率直な感覚」と、「感覚で捉えたものへの反応・解釈(簡単に言えば「好き嫌い」)」とを混同してしまいがちだ。そこの見極めのためには、素直にならなければならない、先入観を捨て去るようにつとめなければならないのだが、これが難しい。

過日紹介したA・アアルトの設計は、「人の想像を裏切らない設計」の好例と言えるだろう。
一方、上に掲げた図は、そのまったく逆、人の想像を裏切り、人を不安に陥れることを目指したかのような設計の実例である。
これはある大病院の外来部の平面図である。
この病院では、初診の外来患者はもとより、ときには再診の患者さえも、迷子になる。外来診療室へ簡単にたどりつけないのだ。
患者は、目の前に広がる空間の様態から判断して、平面図の〇で囲んだ《交差点》を直進してしまうのである(外来診療室:網を掛けた部分:へは左に曲がらなければならない)。

最近、このような設計が多い。「案内板:サインで分かりやすくなる」と思っているようだが、それは大きな誤解。
先の病院の《交差点》にも、外来診療部は左へ、という案内板はあるが、人は、案内板にたよるより前に、先ず自分の感覚をたよりに行動するものなのだ。

〇なお、この件については、先に茨城県建築士会会報「けんちく茨城:№62」にも『疲れる建物・疲れない建物』という表題で書かせていただいた(そこでは別のアアルトの設計例を「好例」として挙げた)。図はその際作成したものの転載である。 

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道・・・どのように生まれるのか

2006-11-22 12:14:43 | 居住環境

〇道に迷うのは何故?
先日、所用でひたちなか市の国営ひたち海浜公園の近くに行った(車で)。折悪しく低気圧が通過中とのこと、天候は悪く、ときおり雨が吹きつける。往路は水戸街道:国道6号から入ったため、比較的容易に目的地へ着いたが、復路は東水戸道路を使うことにして海浜公園の南側にあるインターに向った。多分あっちの方角だろう、と思ったのがとんでもない間違い、まったく逆の方角、南に向いているはずが北に向っていたことに、東海村の地名の付いた信号に出会って気がついた。

ひたち海浜公園の一帯は、かつて水戸射撃場の跡地だったはず。まわりは見渡すかぎりの平原。碁盤目に道路が計画されているらしいが、開発中で、すでに建てられている建物も、まわりの草原に埋没してしまっている。角を左に曲がれば東に向う、と勝手に思ったのが間違いのもと、実は北に向いてしまったのだ。目当て(《都市デザイン》の用語で言えばランドマーク)にするものは何もないいわば原っぱ、陽が指していれば、何てこともないのだが、あいにくの曇天でモノトーン。

〇碁盤目の街は分かりやすいか?
一般に碁盤目の道路は分かりやすいと言われ、京都が例に出される。しかしそれは、碁盤目だけによるのではない。まわりが山・丘陵で囲まれていること、しかも東、北、西と特徴のある風景、南はそれに比べ何もない。曇天でも方角が分かる。これが効いている。道標(みちしるべ)が必要なのだ。一面の砂漠を旅する民たちが、夜旅程をかせいだのは、気温だけではなく、夜空の星が方角の標になったかららしい(星座名には砂漠の民の生活にかかわる語が多い)。

〇道はどのように生まれるか
道の計画を今は地図の上で行う。しかし、測量した地図がない時代から道はある。そして、古くからの街道筋などには風情のある道が多い。

1970年代、新しく計画された街の風情のなさが認識されだし、《環境をデザインする》ということが流行りだした。《都市デザイン》という言葉が使われだしたのもそのころ。
そこで、道の《景観》のつくりかた:《デザイン》が盛んに話題になった。たとえば、京都の清水寺への参詣道は、微妙にカーブし、またつま先上がりに登るため、清水の三重塔が見え隠れする。そこで、道のデザインの一要素として、《見え隠れの手法》が挙げられ、道をわざと曲げたり・・・という《デザイン》に反映されたりもした。

〇「清水道(きよみずみち)」の生まれかた
しかし、「清水道」は、そういうデザイン意識でつくられたのではない。第一、この道は一度に、あるデザイン計画の下にできたのでもない。店が軒を連ねるまでには、百年オーダーの時間がかかっている。
しかも、道が微妙に曲がっているのも、見え隠れを意識したものではない。上掲の地図(等高線は4m、国土地理院発行1万分の1「東山」のコピー図の等高線を強調して作成、茶碗坂の直線部の長さが約400m)を見ると、清水への参詣道は、尾根道と谷筋道とがあることが分かる。いずれも地形を素直になぞった道だ。清水坂、五条坂が三年坂(産寧坂)と合流した後の最も多くみやげ物店が並ぶあたりも、尾根筋のとおりに曲がっている。ついでに言えば、三年坂は谷筋道。このあたりは、複雑微妙な地形に応じて人びとが暮している。

山中の岩から清水の湧き出す地は、観音の居られる地、という清水信仰は古くからあり、はるか昔から(今の清水寺建立以前から:清水寺についてはいずれ触れたい)その場所へ赴く道として、尾根をたどるか、谷を歩むかの二通りがあった。多くの山々の登山道、あるいは峠越えの街道などでも同じである。一言で言えば、道筋が分かりやすいからである。参詣客が増え、茶屋が設けられ、その数も増え軒を連ね・・・そして、今の道筋ができあがった。

〇道のつくられかた・その要点
人が道を開くときの要点は、「体に負担をかけないで最短のコースになること」と、「迷わず分かりやすい」ことだ。
前者で言えば、等高線に沿った曲がりくねる道になる。いわゆる「田舎」の道が曲がりくねる理由である。東京・世田谷の道の分かりにくさは有名だが、それはかつての農村の道のままだからだ。よそ者には分かりにくいが、地元の人にとっては問題がない。
後者の一例が「清水道」。
 
もっとも、八ヶ岳南麓には、人工的に、地形に一切お構いなく、谷越え山越え、直線につくった道が遺っている。「信玄棒道(しんげん・ぼうみち)」と呼ばれ、武田信玄がつくった川中島への直行路:軍事用道路である。

ところで、人が常住する空間で、人工的に、何のいわれもなく道を曲げる《デザイン》をされると、これは迷惑至極。そのいい例が筑波研究学園都市の市中。これについてはまたいずれ。 

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RC・・・reinforced concrete の意味を考える-3

2006-11-19 12:13:48 | RC造

 前2回で紹介したM小学校の「地業(地形):地中梁」と「主要部のRC詳細」を、実施設計図から抜粋し編集したのが上の図。
 
 平屋建てが大部分を占めるため、建築面積は広大になる。敷地は火山灰の堆積した台地上にあるが、関東ロームほど堅固ではなく、杭工事が必要。
 そこで、地業(地形)・杭工事や基礎工事の比率を軽減するため、建物の屋根の木造化(校舎)、鐵骨化(体育館)とともに、地業(地形)と基礎に、上図のような方法を採った。
 これは、いわばベタ基礎を杭で支える方法。通常のフーティングと地中梁そして床スラブ(土間コン)を一体にまとめてしまったと言ってもよい。あるいは、竹園東小の2階床を地上に置き換えた、とも言える。
 いずれにしろ、根伐とコンクリート打設を単純化する計画。最大の問題は根伐の肩の部分(45度傾斜部分)。安定した根伐ができるか不安だったが、心配は無用だった。むしろ、建屋の載る部分すべてが同じ根伐深さであるため(ピット部分を除く)、根伐工事はもとより、鉄筋工事、コンクリート工事もスムーズに行われた。
 すなわち、この方法の利点として、形枠工事が減ること、鉄筋の加工・組立てが分かりやすい(梁寸法の種類が少ない)、コンクリート打設が容易である、それでいて所期の目的が十分に(あるいは十二分に)達成できる、といった点が挙げられるだろう。
 なお、図面にはないが、設備配管は、専用ピットを設け、地中梁中の配管は極力避けている。

 上屋の部分の十字型の柱型は、そこだけ見ると型枠が煩雑になるように見えるが、実際は、360mm厚の壁型枠を組むことを先行し、その小口をふさぐという手順を踏めば、それほど難しくはなく、コンクリートの打設も、鉄筋が混んでいるにしてはスムーズに打設できた。
 これは、壁に開けられた開口がハンチ付であること、スラブの端部(壁との接点)にも、逆スラブの箇所を除きハンチを付けたことが効いている。なお、スラブハンチのための型枠には90mm:3寸角の正角材を対角線で切り、使用した。

 ハンチは、隅部での力の伝達をスムーズにするとともに、コンクリート打設に際しては、いわば「じょうご」の役割をしてくれる。そういえば、コンクリートが使われだした大正・昭和初期の頃のRCの建物は、各所にハンチが付いていた(基礎のフーティングにも)。固練りのコンクリートを(人力だけで)打つには、ハンチは必要不可欠だったのだ。
 しかし、型枠が面倒と考えられたせいか、最近ではハンチを見かけることが少なくなっている(その一方で、複雑怪奇な形のコンクリート造は増えている!)。

 「基本的には組積造」、そしてまた「打設時点では流体」であるコンクリート造にとって、ハンチを設けること(流体を流しやすくし、力の流れをスムーズにすること)は、ふさわしい方法の一つなのではないだろうか。
 

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RC・・・reinforced concrete の意味を考える-2:補足

2006-11-17 16:48:06 | RC造
 
 RC・・・reinforced concrete-2の図面が見にくくなってしまいました。
 実施設計図から、多目的ホール2階平面、同断面図のコピーを載せます(編集加筆なし)。

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RC・・・reinforced concrete の意味を考える-2

2006-11-17 13:07:12 | RC造

 先のM小学校の児童玄関(1階)・図書室(2階)の北側に、2階分吹抜けの多目的ホールがある(2階は吹抜けを挟んで両側にギャラリー:図面)。

 この建物の断面は、幅7200㎜の本体(上屋)の両側に、幅2400㎜の下屋を付けた形で、棟全体は切妻形になっている(外観写真)。これは、[上屋(身舎・母屋)+下屋(庇)]という伝統的な架構方式の応用である(この方式は、洋の東西を問わず、古来各地にある)。

 下屋の高さは、本体:上屋より、一段低く、その段違い部分を採光・通風のための欄間として利用。
 上屋、下屋それぞれにRCの深い軒を設ける。軒は、軒先の立上がり部を含めた全体が構造体である(梁と逆梁を併用)。それがそのまま建物の外観に表れる。
 写真は妻側の正面(児童玄関・ポーチが1階、図書室・バルコニーが2階)。

 多目的ホールの大きさは、長手方向は[5400+8100+5400]計18900mm、短手は[2400+7200+2400]計12000㎜。児童玄関・図書室にならえば、1階の長手方向の上屋柱列に、上記スパンごとに柱型が並ぶことになるが、ホールの性質上、それを除きたい。
 そこで、2階ギャラリーの手すり部分を利用して18900㎜を跳ばし、1階の中間の柱型を取り去ることにした。
 手すり分をRCでⅠ型断面の梁の一部と考え、梁の中途を側柱からの片持ち梁で受け、さらに、手すりの中途の360mm角の補助柱と、両端部1800㎜の補強柱付きの壁で屋根梁と床梁とをつなぐ。
 つまり、ギャラリーを構成する床スラブ(厚180㎜)、屋根(=天井)スラブ(厚120㎜)、柱、上下の梁、下屋柱からの片持ち梁、手すり・・これら各部の一体的な協力によって、言い換えれば、いわば筒状の立体で、ギャラリー部分を支えよう、という考えである。これは、『鉄筋により補強されたコンクリート』だからこそできることと言ってよい。
 断面図のように、上屋柱の上部には、上屋の梁と下屋の梁と、梁が2段設けられるが、下段の梁は、木造の「差鴨居」様の働きをすると考えられるかもしれない。

 なお、2階のコンクリートの打設は、先ず下屋の梁の天端までを打ち(柱に打ち継ぎ目地がある)、次いで、その上の上屋部分(上屋内側の360mm角の補助柱も含む)を打つ、という工程をとった。

 腰壁部分をRCにしたのはギャラリーの手すり部だけ。
 360mm厚の壁をくり抜いた構造体の開口部分、あるいは腰壁は、主にレンガ1枚積(場所によってはコンクリートブロック積)で開口の大きさを調節している。
 要は、「必要のないところまでRCにする必要はない」という考え。ゆえに、《耐震スリット》の出番もない。
 また、2階床スラブは、外部に面する箇所では、「水切」のために、梁外面より外に120㎜:柱外面まで出している(「水切」は、壁面の汚れを防ぐ手段として有効である)。

 なお、構造解析・計算は、竹園東小、江東図書館と同じく増田一眞氏にお願いしている。

 図は、実施設計図(手描き)のコピーを編集したもの。
 断面図上の[1FSL]とは、[1階床スラブレベル]の意。
 実施設計図の基本寸法は、すべて構造躯体の位置で指示し、仕上げ位置は、躯体からの寸法で指示している(そのため、実施設計図だけでも施工が可能)。
 写真は、竣工写真より(正面は筆者撮影)。
 ハンチ型の壁と手すり部の配筋、基礎地業については、あらためて紹介します。
 また、M小学校では、体育館の屋根に、山形鋼(アングル)によるトラス・アーチ梁を使ったので、これもいずれ紹介します。
 
コメント (7)
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RC・・・・reinforced concreteの意味を考える-1:補足

2006-11-15 20:53:14 | RC造

 写真と伽藍の部分、見にくいので、そこだけ載せなおします。

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RC・・・reinforced concreteの意味を考える-1

2006-11-15 20:11:07 | RC造

 コンクリート造の壁の真ん中に開けられた四角い開口部では、かならず、四隅に亀裂が入る。これは鉄筋で補強した鉄筋コンクリートでも同じ。いつかは亀裂が入る。開口補強筋は効いた験しがない。
 ならば、基本的に、コンクリートの構築物は(鉄筋補強があろうがなかろうが)組積造として考えたらどうか、と考えて設計したのが、上の建物。正確に言うと、組積造としてのコンクリートで考え、その補強として鉄筋を使う、ということ。reinforced concreteの原義に戻ってみただけの話。そうすれば、きっと、RCの特徴(利点・欠点)が分かるのではないか。

 ここで紹介するのは、1994年に竣工したM小学校の二階建部分。今回は配置図、全体平面図は省略。
 屋根は、不要な荷を減らすため、ここでは木造トラスを使っている(屋根がそのまま天井)。屋根材は瓦葺き。これは、その性能と、万一破損しても交換が容易であるための採用。

 1階では、基本的に、厚さ360㎜の壁で2階床を支えることとし、必要に応じて、その壁をくり抜く、という考え。アーチでくり抜くのが理想的だが、型枠の製作を考慮して、ハンチを付けた開口としている。

 壁の交点には十字型の「柱状」の部分がのこる。この部分は「柱」と呼ぶのかどうか、どこまでが「柱」なんだ、そして同様に、いったいどこが「梁」なんだ、と問われるかもしれないが、そんなことはどうでもよい。
 上の図版の一画に、参考として、ロマネスクの伽藍の解説図を載せた。これはアーチが直交してできる「十字型の柱」様の部分。これと同じ考え方。ちがうのは、2階床のつくり方だけ。この設計では、鉄筋補強のスラブでつくっている。2階床スラブは、1階では天井、つまり「踏み天井」。
 平面図で、柱型間の網掛けをした部分が壁をくり抜いた部分。通常のRC造では梁に相当する箇所。
 2階では、四周と間仕切り部分以外、RCの梁はない。

 無開口の部分を全面RCの壁にするのは無駄なので、原則として、各所とも、くり抜いたハンチ付開口をつくり、その開口に、必要に応じてレンガを積むことにしている(1枚積み)。そのため、開口の高さ方向は、70㎜の倍数になるように矩計を考えている(70㎜=レンガ1枚の厚さ60mm+目地10mm)。腰壁も同じくレンガ積み(室内の支障のない部分は木製)。
 ただ、今回は平面図を載せていないが、断面図の多目的ホール部分の2階ギャラリーの手すり部:腰壁はRCとしている(Ⅰ型断面の箇所)。もちろん、「耐震スリット」など設けていない!。これは、1階で邪魔になる柱を取り去るため、手すりを床を受ける架構として利用したから。これについては、次回紹介する予定。
 また、この建物では、杭工事を要しているが、図で分かるように、通常の「地中梁」を設ける方法を採っていない。これについても、いずれ紹介。

 図面は、実施設計図のコピーを編集。写真は竣工写真から。 

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続・万国博・フィンランド館 1938~1939

2006-11-12 18:59:38 | 居住環境

 上の図は、フィンランド館、中2階への階段まわりの平面詳細と階段詳細図。おそらく、この図を基に施工が行われたと思われる。
 アアルトの図面では、ある箇所の施工に必要なことが、近辺にまとめて描かれている。ほかにも紹介したい図面がたくさんある。もちろん、すべて手描き。出典は前の記事と同じ。

 CADの時代、理屈の上では手間がかからないはず。もちろん、図面上での試行錯誤も手描き時代よりも楽になったはず。しかし、どうも、そうではない。分かりにくい図面が多い。

 最近は、「《実施》設計図」とは名のみ、新たに「施工図」をつくるのが普通のようだ。それならば、「実施」とはどういう意味なのか?
 やたらに枚数が多く、一つのことを知るのにあちらこちらめくって探さなければならない設計図が多い。枚数増やして《手間賃》稼ぎ?と疑いたくなる。
 ある箇所に必要なことは、できれば一枚に、それが無理なら、できるだけ近辺にまとめる、そうでないと図を見るのもいやになる。これは実際に現場に立ち会って身にしみて分かった。

 先年、この点を重視して設計図をまとめたことがある。施工者は、最初一般的通念で施工図を描いていたが、途中で不要と判断、当方の設計図で施工するようになった。余計な人件費、手間が省けたはず。私はCADは使わない旧世代の人間。

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万国博・フィンランド館・・・・オーロラのような壁面

2006-11-12 12:08:31 | 居住環境

 1938~39年にニューヨークで開かれた万国博、そのフィンランド館はA・アアルトが設計した。
 既存のビルの内部を改装した設計である。
  
 写真:Peter Reed“ALVAR AALTO―Between Humanism and Materialism”(The Museum of Modern Art,New York,1998刊) より
 図面:“The Architectural Drawings of Alvar Aalto Vol11―1917~1939” (Garland,New York and London,1994刊) より抜粋。 なお、転載の図面は、実施設計図。

 学生の頃、書物でこの建物を見て、呆気に取られたことを覚えている。オーロラのようにうねる壁の意味が分からなかったからだ。
 しかし、少し経って、私に「建物の設計」とは何をすることか、分からせてくれたのが、この建物であった。
 
 今でもおそらく変りはないと思うが、当時、設計のやり方として教えられたのは、先ず「その建物での人の生活を把握、必要諸室を《合理的な相関図》にまとめ」次いで「その《合理的な相関図》に《形》を与える」というものだった。西山卯三氏の論がその典型、後の「建築計画学」の根底には、このような考え方があった。
 この考え方は、できあがっている建物:「結果」を「分析」する場合には、たしかに一定程度有効ではあるが、「結果」を得るには、つまり「設計行為」にとっては、役立たないと私には思えた。なぜなら、《生活の把握、相関図》はできたとして、どうやったらそれに形が与えられるのだ?
 この考え方には、どこかに欠落があるのではないか、と漠然と考えていた。しかし、公営住宅の計画をはじめとして、多くの公共建築の計画には、この考えが大きな影響を与え、その「波紋」は現在にまで至っている。
 その「波紋」の最たるものは、「人の感覚」と「もの:空間」との乖離である。簡単に言えば、人が素直に感じた通りに行動すると、「もの:空間」に裏切られる事態が増大した。そして、サイン:案内板だらけの街や建物が増えた・・・。

 あるとき、アアルトのフィンランド館の図面を見ているうちに、突然、このオーロラのような壁のうねりは、その一つ一つに意味がある、ということに気がついた。
 入口を入る。目の前に壁の波が広がる。人は、その壁のうねりがかもし出す空間の動きを感じ、感じた通りに体が自然に動く。動いた先々に、フィンランド独特の風景の写真や物産、一画にはアアルト設計の家具も置かれている。どこにも押し付けがましいところがない。いわば知らぬ間に2階への階段を上っている・・・。
 「人の生活:行動」と「空間の形体」は、切っても切れない関係にある、それなのに、「無理して」別建てで考えていたのだ!
 私はアアルトの建物の載った書物を、夢中になって観た。そのどれもが「自然」だった。少なからず、自分の設計にも影響があった。

 けれども、現実には、《生活⇒形》という《一方通行の理論》をくつがえすための「理論武装」をしなければならなかった。
 しかし、これは難しかった。なぜなら、いわゆる「分析型の方法」の方が、分かりやすく、伝えやすく、伝わりやすい、簡単に言うと「数値化が容易」だからである。今の「学」が皆、この《方向》を目指し、数値化できないものまで(この方が本当は多い)《無理して》数値化しようとする・・・。

 そこで、関係しそうな書物を読み漁った。なにしろ、青二才がこんな思いを語ったところで分かってもらえないし、第一、自分自身学習不足。
 とっつきは、今では触れる人も多分いないと思うが、「ゲシュタルト心理学」。日本では、多く《形態心理学》などと訳されるが、元来はまったく意味が違う。
 岩波現代叢書ギョーム著「ゲシュタルト心理学」は、新鮮で大いに参考になった(今も出ているのかな?)。「心理学」は、元来は「哲学(philosophy)」の一部。いわゆる《心理学》と見なすととんでもない・・・。

 注:philo-sophy=「学ぶこと、知ることを愛する」の意。phil-harmonyのphil-。

 要は、人の「もの捉えかた」の話である。
 近代以降、「部分の足し算=全体」という考え方が一般的になってしまったが、人の「ものの捉えかた」は、「全体から部分へ」が本当の姿だ、というのがその理論(articulate:「分節」という語の出所はここ)。

 長くなるので、いったんこのあたりで休憩・・。

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慈光院・・・・片桐石州の感性

2006-11-10 08:52:25 | 建物案内

 「法隆寺」を観たあとの散策の終点「慈光院」のすばらしい写真があったので紹介。『原色日本の美術10 禅寺と石庭』(小学館)からの転載。素人にはこうは撮れない。

 「慈光院」は、大和郡山の西南の小泉にある。1663年(寛文3年)、小泉藩の藩主:片桐貞昌(さだまさ)石見守の造営。
 彼は「石州」とも呼ばれ、茶道「石州流」の祖。小堀遠州と比較されることが多く、この造営は、遠州の「大徳寺・孤篷庵(こほうあん)」に匹敵するという人もいる。
 写真の左手に奈良盆地がひろがっている(写真は、新興の建物群に埋め尽くされる前の撮影)。

このようなつくりの建物は、最近の法律の木造の規定では、つくるのは容易ではない。350年近く健在なのに、今なら《耐震補強》を要求されるだろう。
 どなたか、「耐震診断士」の方、診断してみては?

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法隆寺・東院 伝法堂・・・・奈良盆地の西の縁を歩く

2006-11-10 00:50:41 | 建物案内
 
 「伝法堂」は、法隆寺の東院、夢殿のある寺域にあり、元は上流階級の住宅であったとされている。

 「伝法堂」は、中に入るには許可がいる。しかし、切妻屋根の建物は、その妻面と背面を、外からも近くによって見ることができる。妻面には、写真のように、内部断面がそのまま表れ、中に入らなくても、中の空間の様子は、ある程度まで想像できる(写真は『日本建築史基礎資料集成 佛堂一』より)。

 屋根には、「新薬師寺」と同じく、形を整えるために「野垂木(のだるき)」が使われているが、しかし、断面図で分かるように、「新薬師寺」のような完全な二重屋根ではなく、「地垂木(ぢだるき)」は実際に屋根を支えている。

 屋根は「庇(廂):ひさし」にあたる部分と「母屋(身舎):もや」にあたる部分で勾配を変えるため、「入側柱(いりがわばしら)」の真上で「地垂木」を継いでいる。

[注]
古い時代の木造建物は、本体の切妻型の「母屋(身舎)」の四周に、片流れ型の「庇(廂)」を任意に付け加え、必要な大きさの面積・空間を得る方法が一般的。本体の「母屋(身舎)」を構成する柱を「入側柱」、「庇(廂)」のそれを「側柱」と言う。
「庇(廂)」は、「母屋(身舎)」の屋根の続きで設ける場合と、段差を付ける場合がある。寺院には一続きとする場合が多い。「入母屋」屋根は、四周に「庇(廂)」をまわした場合の屋根型。新薬師寺はその一例。

 写真と図は解体時に明らかになった「地垂木」の継手(『日本建築史資料集成 佛堂一』より)で、下からは見えない。なお、「地垂木」を受ける「母屋」は、「大斗肘木」の中央で継がれ、「肘木」と「母屋」は何箇所かのダボでズレを防いでいる。これも下からは見えない。時代が下り、いろんな継手が開発されると、肘木は化粧材になり、母屋を支えなくてもよいため、細身になる。
 この建物の外面を見ると、「長押(なげし)」の付き方、「長押」を使った開口部の納め方がよく分かる。

[注]
「長押」は、主に奈良~平安時代に使われた軸組補強部材である。鎌倉時代に入ると、「長押」に代り「貫」が登場する。もっとも分かりやすいのは「東大寺・南大門」。「浄土寺浄土堂」も同じで、「長押」や奈良時代式の肘木の使用もない。

 さて、「東院」門前の道を北に歩くと、「法起寺」に出る。その後、盆地の西縁をつくる山というより丘陵沿いに北西に歩く道筋は、かつてはところどころに塊っている集落を縫いながらの気持ちのよい散策路だった。今は、かつての集落は、新興の住宅群にかこまれてしまっている。けれども、両者の差は歴然で、かつての集落に見られる風情は、新興住宅群にはない(あくまでも《住宅群》であって、集落とは言えない)。両者の成り立ちの違いを考えるにはよいかもしれない。

 散策の終点は、大和小泉の「慈光院」。小高い丘の上にあり、奈良盆地を一望できる「書院」が見事。望む奈良盆地は、一面のどかな田園で、遠く、盆地の東の縁をつくる山並みがかすんで見える。その裾をとおるのが「山の辺の道」。まことに心やすまる景色だった。今、かつての田園はベッドタウンと化してしまった。寺では、風景の足元に密集する住宅群を隠すために、隣接地に植林の最中である。
 ちなみに、比叡山をとりこむ借景庭園・書院で知られていた京都の「円通寺」は、高層の某ホテルをはじめとした一帯の開発で乱された風景を見るにしのびず、拝観をやめると聞いている。《まちづくり》とか《景観》とかを好んで口にする《建築の専門家》たちの所業である。この「矛盾」について、どう考えているのだろうか。

 「慈光院」からは、時間があれば、大和郡山市内に残る町並みを歩くのも悪くはない、ただ、たいていの場合、もうくたびれて帰途につくのが普通だ。
 「慈光院」あるいは「借景」についてはいずれまた。 

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