建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

昔の写真から : 諏訪の板倉

2014-02-22 15:43:12 | 建物案内
[文言追加 24日14.35][訂正追加 25日 9.30]
昔撮った写真の中に、板倉の写真を見つけました。
いくつか紹介いたします。ネガが見つからず紙焼きからのスキャンなので、今一冴えませんがご容赦。
30年ほど前、諏訪から佐久への蓼科越えの街道の茅野寄りで見かけた、と記憶しています。もう現存していないのではないでしょうか。

   

土蔵のように見えますが、板倉に土塗を施していて、大きく剥落しています。
剥落部を撮ったのが次の写真。


次は別の建物です。
はっきり覚えていませんが、一階部分は床下になっているのかもしれません。

その土塗壁の剥落部分の近影。


板壁への土塗の方法を知る手掛かりとなるのが次の事例です。上が妻側、下が妻~平側の隅の部分。



板壁竹釘を打付け、下げ緒下げ苧:さげお)を結いつけ土塗をしていた、と考えられます。
写真では分りづらいですが、竹釘が多少残存していたと思います。
下げ緒(下げ苧)の繊維は、トンボと呼ぶこともあり、木摺下地の塗壁の補強のために常用される手法です。
鉢巻になる部分には、縄がからげてあります。
多分、木摺下地とは違い、下地の厚板の収縮の度合いが大きいため剥落が起きやすいのではないか、と思います。
   木摺下地漆喰塗の仕様例を「煉瓦の活用と木摺下地の漆喰大壁」で紹介してあります。
   なお、この記事で、木摺の大きさを厚さ2分×幅1寸5分程度とありますが、実際は、幅 1寸2分~1寸3分 程度です。訂正します。[訂正追加 25日 9.30]

以上の事例は板壁を柱間に落し込んでいるものと考えられます。
は、全厚をに嵌めるのではなく、に小穴を突いて厚さの1/3~1/2ほど嵌めているのではないでしょうか。板~板の間にはとりたてて細工はしていないようです。
また、次の写真のように、隅部にを設けず、井籠(せいろう)に組んで納めた例もあります。板厚は、見たところ、2寸程度です(落し込みの場合もその程度でしょう)。


屋根は、いずれも鞘組が設けてあります。
建物内に入って確認はしていませんが、本体の合掌部に板天井が設けられているものと思われます。
   鞘組については、「日本家屋構造・中巻・製図編の紹介-13 『土蔵』 」で触れています。
屋根勾配が緩く、軒の出が深いのは、諏訪地域の建物に共通しています。

板倉+土塗仕様は、諏訪地域に多いように見受けられます。
板倉にした上に土塗を施すのは何故なのか、分りません。
「土蔵風に見せるため」、などという「現代的な《理由》」ではなく、正当な謂れがあるはずです。
積層の板の間に生じがちな空隙防止のためか、とも思いますが、どなたか、ご存知の方、ご教示いただければ幸いです
   深い軒の出を維持していることから、防火のためとは考えられません。[文言追加 24日14.35]

  この写真を撮った頃、同じ諏訪原村の近在で、主屋の切妻屋根の形にあわせ整形した防風・屋敷林を撮った覚えがあるのですが、見つかりません。
  いずれ見つかったら紹介いたします。
  
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A・AALTO設計「パイミオ・サナトリウム」の紹介― 4(了) :スケッチから:その2

2013-09-08 09:57:24 | 建物案内
このサナトリウムの設計にあたってのA・AALTOの提案の「MOTTO」、今風の言い方で言えば「コンセプト」は、「大気療法」に相応しい病室の窓に施す「工夫」です。そして、提出図面のすべてに、その「工夫」を示す「マーク」が付してありました。その元図が次図です。


この図を見ると、病室南面の窓の欄間を「内倒し」の建具にしてあるのが分ります。
以前に載せた図では、二重のガラス窓の欄間が、内側は「内倒し」、外側は「押出し」になっています([文言訂正9月9日 8.30])。図を再掲します。
       
なお、前回、この図もスケッチであると解説しましたが、これは、このサナトリウムを紹介する「展覧会」用に作り直したイラストとのことです。
なお、病室平面図には、平面的に両側の窓を「片開き」にして、そこからも外気を採りいれています。その部分を再掲します。  
      

次図は、開口部の立面と平面詳細のスケッチです。

そして、これを「清書」したと思われるのが次図です。

L型鋼やT型鋼(Tバー)でつくった枠材に木製の建具を取り付けていると考えてよいと思います。躯体への取り付け法、開閉装置の詳細などは不明です。
   なお、A・AALTOの初期の建物では、枠も木製の例が多くあります(銅板でくるむ例もあります。たしか、銅はフィンランドの特産だった?)。

ガラスは、これも今は見かけなくなりましたが、薄い銅板片や銅の小釘(腐食しにくい金属製の材、真鍮製も見たことがあります))を板ガラス面に添って何か所か框に向け打ちガラスを仮止めし、次いで、ガラス全周に「パテ」を充填しヘラで三角型に押さえる方法が使われているものと考えられます(図のガラス~木枠の三角表示部分。金具は隠れます)。
   パテ:putty :接合剤。炭酸カルシウム、亜鉛華などの粉末を乾性油で固めたもの。弾力性がある。         
              glaziers' putty:窓ガラス固定用のパテ。
           洋風建物などの木造建具のガラスはこの方法で取り付けられていました。
               金属製の場合もパテ止めですが、仮止めをどうしていたか、忘れました!ご存知の方がおられましたら、ご教示を!
           パテは、木材へのオイルペイント塗装の際に、木材の目止めにも使われました。          
           擬洋風・洋風の木造建物のオイルペイントが、よく遺されているのは、このパテによる目止めの効果のようです。
   Tバーは、最近見かけませんが、かつては、鋼製サッシの主要構成部材として使われた鋼材で、いろいろな寸面がありました。
   L型鋼にもサッシに使える小さな断面の材がありましたが、現在もあるのでしょうか?

この窓の断面図が次の図です。ベネシャンブラインドの断面と立面が示されていますが、作動のメカニズムは分りません。


病棟のメインエントランスと主階段・エレベーターの位置については、相当に考えられた様子が、スケッチに残されています。それが次のスケッチです。



この部分は、最終設計図では、次のようになります。比較対照ください(スケッチと図の「向き」が異なりますので、合わせてご覧ください)。

                      
このスケッチでは、どれも、エントランスを入ってほぼ正面にエレベーター入口ドアが見えますが、先回載せた平面図案のように、階段とペアに置いた案(階段室を設け、そこに置く案)もあったようです。
察するに、階段の置き方が「悩みのタネ」だったのではないでしょうか。階段を歩行することが、利用者:療養者・患者にとって主な行動形式であるかどうか、決めかねたのでしょう。
結局は、主にエレベーターを使い、時には階段を使う、あるいは「積極的に階段も使ってもらう」、と考えるに至ったのではないかと私は推察しています。
それは、「従」として扱われる階段だったならば、通常は、「裏勝手のような」様相になるのが普通だからです。つまり、好んで歩く気にはなれない。
   私のいた回復期病院の階段は、素っ気ないものでした。「しょうがないから使うのだ」、と言い聞かせて使う、そういう階段でした。
   しかし、病院スタッフは、ここを昇り降りしていました。せめて、もう少し気分よく昇り降りできるようにすればよかったのに、と思っていました。

しかし、このサナトリウムの階段は、「体調さえ好ければ、エレベーターではなく階段を使いたくなる」、そういう階段になっている、そのように私には思えます。

そういう気分にさせるのは、階段の「向き」が効いていると思います。それにより、森林に向って降りてゆく、あるいは天空に向って登ってゆき踊り場で森林を眺める・・・、簡単に言えば、「歩きたくなる階段になっている」からだと思います。階段室型の階段では、こうはゆかない、こういう気分にはなれないでしょう(階段室型もいろいろ考えている様子がうかがえます)。
また、きわめてゆったりとしたつくり・寸法になっていることも効いていると思います。

主階段の平面設計図と踏面・蹴上詳細図がありますので、下に転載します。先に載せた写真も再掲します。
平面図はトレーシングペーパー鉛筆描きですが、破れて欠損した部分があり、無理してつないであるので、一部歪んでいます。
踏面×蹴上は、340mm×135mmのように判読しました。これは、普通の(かなりよくできた)JRの駅の階段よりもゆったりとしています。


  
           

ところで、階段をはじめ、この建物の床に使われている仕上げ材は、「リノリウム」です。
リノリウムは、コルクの粉末と顔料を「亜麻仁油」系の樹脂(リノキシンと呼ぶようです:リノリウムの名の由来)で固めたシート状の材料で、弾力性があり、抗菌力もあります。床の他に壁にも張られ、かつては高級・高価な材料として使われました(今でもありますが、高級の部類に入るでしょう)。
   こういう材料では、現在は塩ビシートなどが主流ではないでしょうか。

リノリウムは下地になじみやすいので、上図の階段のように、床~立上り部を曲面にして張ることができます。
その「張り仕舞」の設計図(詳細図)がありましたので転載します。

立上りの上端がはがれやすいので、端部を別材(木製、あるいは金属製か?)を打付けて押さえています。
図には、右からSⅠ、SⅡ、SⅢの三つのタイプが描かれています。
書かれている語彙のうち分るのは beton:コンクリート、 linoleum :リノリウムだけ。それゆえ、図から推測すると、次のような仕様ではないかと思われます。
SⅠ仕様は、壁の下地(木製骨組か?)に取付用兼壁の見切になる材(木製か?)を横に流し(釘打ちか?)、壁の仕上げ材を納めた後、リノリウムを立上げ「押さえ材」を打付ける方法。
SⅢ仕様は、壁下地(コンクリートと思われる)の所定の位置に、「木レンガ」を一定の間隔で埋め込んでおき(コンクリート打設時)、木レンガに取付け材を打付ける。あとは、SⅠに同じ。図では、壁仕上げを床躯体まで施工した後、取付け材を付けるようになっています。
SⅡは、左側をSⅠ仕様、右側をSⅢ仕様とする場合と思われます。ただ、右側の台形の材は木レンガなのかどうか不明。
   書かれている語彙の意味を知りたい!フィンランド語の分る方、教えてください!
多分、この三つの場合を決めておけば、建物のすべての床と壁の施工が可能になるように考えてあるのだと思います。Sは、standard のSではないでしょうか。

   現在多用される塩ビシート張りでは、立上げて糊付けするだけの場合が多く、それゆえ、剝れている事例をよく見かけます。
   この図は、それを防ぐための方策を提示しているのです。

   今の我が国の建築家・設計者で、設計図に、ここまで提示する人は少ないのではないでしょうか。
   これは施工者が考えることだ、施工者に「施工図」で描いてもらえばいい、と考える人が、ことによると、大半かもしれません。
   

以上、スケッチや図面をいくつか選んで転載させていただきました。
この多数のスケッチや書き直した多数の図面は、文学者の遺した「原稿」を思い起こさせるところがあります。多くの場合、原稿には書き込みや取り消し線が書かれています。つまり、「推敲の過程」が生々しく遺されています。ワープロで書く原稿は、こうはゆきません。多くの場合「上書き」され、一瞬前の段階の「記録」は残されません。記録を残そうとすると、その方が面倒。
つまり、ここに紹介したスケッチや、同じ個所を何回も書き直している図面は、「設計の推敲の過程」の記録に他ならないのです。

これらからだけでも、「建物をつくるとはどういうことか : 設計とはどういうことか」、「設計図は何のために描くのか」、についてのA・AALTOの考えを多少でも読み取っていただくことができるのではないか、と思っています。
元本の“The Architectural Drawings of Alvar Aalto”(Garland Publishing,Inc. New York and London )には、このサナトリウムで使われている「家具」や「照明器具」などの図やスケッチも載っていますが、また別の機会に紹介したいと考えています。  

A・AALTO設計「パイミオ・サナトリウム」の紹介―3 :スケッチから:その1

2013-08-29 08:30:01 | 建物案内
A・AALTOの描いたスケッチや設計図面を集成・編集した“The Architectural Drawings of Alvar Aalto”(Garland Publishing,Inc. New York and London )という書物(全11巻)が刊行されています。
図面やスケッチは、ほとんどがAALTOの「手描き」です。

図やスケッチは、設計のはじめの段階から、工事の段階まで、大変な数にのぼります。
その凄いエネルギーには、ただ感嘆するしかありません。「退職記念?」に購入し、時折紐解いて、ため息をついています。

その中から、パイミオ・サナトリウムのいくつかを紹介させていただきます。
なお、パイミオ・サナトリウムは、設計が1928年にはじまり、1932年に竣工しています。その間のスケッチ、設計図が集められています。

紹介する目的は、そこに、A・AALTOの「設計という営為に対する考え方」が如実に表れている、と思うからです。
そしてそれは、明らかに、日本の(そしてことによると世界の)現代の「(有名)建築家」の「設計に対する考え方」とは全く異なります。
私は、若い世代の方がたに、こういう考え方がある、ということ、しかもそれは決して目新しいことではなく、かつては、こういう考え方が当り前だったのだ、ということを知っていただきたい、と考えています。
   
   もちろん、A・AALTOを好きになってくれ、などと言っているのではありません。
   「当たり前」になろう、原点に戻ろう、ということを願っているだけです。
   そして、この「当たり前の考え方」で「設計」が為されているならば、「理解不能」な言動など生まれるはずがないのです。
   理解不能な言動が生まれるのは、「設計という営為に対する考え方」のどこかに欠落があるからです。もっと言えば、「考えていない」からです。


この設計は、設計競技です。
先ず、建物位置・平面の決定:提出図面作成:に至る間に描かれたと思われる図・スケッチをいくつか見てみたいと思います。

最初は、当初主催者から提示された計画の基になる敷地周辺の測量図を載せます(1928年測量とあります)。

赤線で囲んだ部分が計画用地(赤線および道の符号は、筆者補筆)。道の符号は、以下の各図共通です。
ただ、図中に描かれているサナトリウムの建物の位置は、次図と少し異なるように思います。

赤線内の地形と、建物の配置の関係:配置スケッチ 

図の縮尺が読み取れませんが、病棟の長さは約90mですので、推測してください。等高線は、次図と同じく@1mと考えられます。

計画地は、緩やかな勾配の丘陵状の地の裾に近い部分と思われます(次図から、約1/30以下の勾配と推定しました。針葉樹林に被われていますから、多分、地面は見えないでしょう)。
図の左に、3本の道がありますが、このうちの上へ伸びる道(「い」と記入)と、下の若干細い斜め右下へ伸びる道(「ろ」)は、上図に載っているY字型の道です。
地形図から想定して左手側にも同じような丘陵があり、「い」の道は二つの丘陵のつくる緩い谷を下ってゆく道、「ろ」 は右手の丘陵の等高線に沿った道と考えられます。

そして、この「い」「ろ」2本の道の間に描かれている道(「は」と記入)は、おそらく、AALTOが現地を訪れて「計画敷地」へのアクセス路として相応しいとして、直ちに見出したルートだったのではないか、と思います。
AALTOの構想は、この道の見出し・設定から始まったのではないか、ということです。
   かつての人びとの建物づくり・住まいづくりも、これと同じ過程をたどっていました。このことについて、下記で触れています。
   私たちは、そのことを忘れて(あるいは、忘れさせられて)しまったのです。
   「建物をつくるとはどういうことか-11・・・・建物をつくる『作法』:その1
   「建物をつくるとはどういうことか-12・・・・建物をつくる『作法』:その2

既存の道 「い」「ろ」 は、この一帯に暮す地元の人びとが行き交う中で「自然に」生まれた、いわば「けものみち」と言ってよいでしょう。つまり、人びとが人びとの感性で見出した「自然な」ルート。
「い」「ろ」2本の道が分岐する地点は、左右の丘陵の間の鞍部:「たるみ」で、分岐するに相応しい「自然な」場所。それゆえAALTOは、アクセス路も、そこから始まるのが「自然だ」と判断したのだと考えられます。

   人が当たり前の感覚で生み出す「道」の様態:「自然な道・けものみち」の誕生については、「道…どのように生まれるのか」で簡単に触れました。
   農山村には、Y字型に分岐する道をたくさん見かけます。私の暮すところにもありますが、分岐する場所は、たいてい「納得のゆく」場所です。
   いわゆる「計画道路」には、Y字路の計画は、ないのではないでしょうか。私は見たことがありません。

図をよく見ると、建物の線が何重にも描かれています。病棟の「向き」:できるだけ南面させること:と周辺の surroundings との関係をいろいろと考えた過程を示しているのではないでしょうか。コンパス(磁石)片手に、何度も森の中を歩き回ったのかもしれません。
アクセス路(「は」)にも、いくつか線が見えます。これも、建物位置と連動して、いろいろ考えられたのだと思います。
   AALTOは、地図の上に、現地を、そして建物が建った後の状景・場景を、常に見て(観て)いるのです。


設計競技提出図面の配置図が下図(図中の標高数字は大きな字で補筆してあります)


縮尺が不明ですが、病棟の全長が約90mですから、90mで高低差最大3mほど。つまり、勾配1/30(3.3%)以下の緩い斜面です。
等高線の形が若干前図と違いますが、「計画・整地後の地形」を示しているのかもしれません。地形の「基本」を壊すことはしていません。
   現在なら、まっ平らにしてしまうのではないでしょうか。
方位は、病棟の軸が東~西です。
   なお、図の左上の「マーク」は、この「提案」の「モットー」を示した「マーク」で、提出図のすべてに付してあり、
   この「提案」のポイントである病室の「窓まわり」の図です(次回紹介予定)。

おおよそ建物を建てる場所を決め、次に、建物をどのように配置するか:レイアウト:の検討がなされます。
この段階のスケッチの量は膨大です。よくこれだけ多くのスケッチ類が残されている、と感心します。なぜなら、大半はトレーシングペーパーへ鉛筆描き。トレーシングペーパーはそれほど耐久性はないからです。中には、トレーシングペーパーの裏表に描かれているものもあります。
以下に、そのうちのいくつかを転載させていただきます。
そこから、AALTOの設計の(思考の)過程が見えてくると思います。


大気療法のための病棟の位置はおおよそ決まっていて、ここでは、いわば裏勝手:サービスなど:へのアクセスを考えているのではないかと思われます。このスケッチは、A4判ほどの紙へ鉛筆描き。


「病棟(前回掲載平面図のA)」と「共用棟(同B)」、「病棟」と病棟東端部の「多用途テラス」との「接続部」の平面、外観などの検討をしているようです。これも紙へ鉛筆描き。

次はトレーシングペーパーへの鉛筆描きスケッチ。両面に描かれています。
トレーシングペーパーゆえに、裏側の線が透けて見えています。

表面(図番 a )にエントランスの立面の検討、裏面(図番 b )では、配置レイアウトの確認と断面の検討をしています。

次も同じくトレーシングペーパー両面への鉛筆描きスケッチ。

表(図番 a )で、アクセス路~エントランスを、平面、断面、パースペクティヴスケッチで検討しています。
裏面(図番 b )は、配置レイアウトの確認スケッチと思われます。

次は、病棟(A)~エントランス~共用棟(B)の平面図のスケッチ。トレーシングペーパーの表裏に鉛筆描き。

a は平面のスケッチ。下段に、裏面のスケッチ( b 図)が透けて見えています。
裏面( b ) は、再度配置レイアウトの確認をしているようです。
階段の向き、エレベーターの位置が最終案と異なります。

下は、同じ場所のもう少し詳しい平面図スケッチ。トレーシングペーパー鉛筆描き。


今回紹介する図・スケッチは以上です。
次回は、病室の窓まわり、家具など、工事段階の図やスケッチを紹介したいと思います。
ただ、数が多いので、選択・編集に時間がかかりそうです。



以上を見ただけでも、同じところの図・スケッチを、例えば同じ場所の平面図を、微細に変えるたびに何度も描いていることが分ります。変更箇所だけを直す、ということはしないのです。
配置レイアウトに至っては、ひっきりなしに描いています。これでいいかどうか、常時、確認作業を厭わずに行っているのです。

現在の設計のやりかたに慣れてしまっている人には、ムダな作業を繰り返しているように見えるかもしれません。
しかし、そうではない、決してムダではない、と私は思っています。むしろ、必須な作業なのだ、とさえ考えています。
そして、そのためには、「手描き」でなければならない、とも考えています。


紙の上に線を描く。手で描こうが機械が描こうが線は線であって同じではないか、と思われる方が、今は多いでしょう。
ところが大きく違うのです。

手で線を描く。その線が何を意味しているか、その位置でよいのか、・・・などを考えないと線は描けないはずです。私はそう考えています。
それは、機械で描いたって同じではないか、と思われるかも知れません。でも、違うのです。

手で描く場合には(定規を使おうが、フリーハンドであろうが)、描き終わった後、「描く」「描いた」という身体的「動作」が、記憶に残るのです。
なぜ記憶に残るか。それは、「考えた」からです。「しばし考えた後、はじめて描くという動作に移ることができた」ということを、体が(頭が)覚えているのです。
それゆえ、描かれた線の向うに「考えたこと」が隠れていて、描いた本人には、その線を見ただけで、「考えたこと」を思い出す、見えるのです。

つまり、「記憶」「記録」が、データファイルにではなく、本人の中に生き生きとして重層的に蓄えられているのです。
これが「手描き」の特徴なのです。
だからこそ、他人のスケッチでも、そこに描かれている線の向うに、おおよそではありますが、その人の思考(の過程)を想像し、辿ることができるのです。


現在、数値制御の木工機械が普及しています。複雑な継手・仕口も加工できます。いわゆるプレカットの機械です。町場の大工さんも使うようになってきました。
ところで、実際の加工は、誰がやっても同じでしょうか。
たとえば、ある仕口の加工を機械で加工する場合、
その仕口を手で刻んだ経験のある方の加工と、刻んだことのない方のそれとで、仕上がりは同じでしょうか?
違います。
手刻み経験者の加工の方が、どうしても上をゆくのです。
それは、加工する木材に対する「見かた」が違うからです。木への対し方が、教科書的、辞書的理解ではないのです。

CAD が普及し始めた頃、設計事務所の対応に二つありました。
一つは、もう製図板も建築士も要らない、オペレーターがいればいい、と考える方、
もう一つは、若い人にはすぐには CAD を使わせない、ある程度製図板上で図が描けるようになってからだ、と考える方。
そうでないと、CAD に使われてしまう、と考えたのです。computer aded ではなくなる、と感じたのです。年輩の方に多かったと思います。
私も後者に属します。人の行動は、その人の感覚に拠る。そして、感覚・感性はアナログである、と認識しているからです。

そして、そう考えれば、AALTOのスケッチの多さも理解できるのではないでしょうか。
このサナトリウムにかかわる患者・療養者、スタッフなどの人びとにとって、この既存の環境: surroudings の中に、いかなる環境: surroudings を用意するのが適切か、AALTOは考え続けているのです。だから、ああでもない、こうでもない・・・とスケッチが増えるのです

そして、スケッチの内容を見ると、どうしたら「斬新な造形になるか」などということは、毛頭も考えてはいないことが読み取れるのではないでしょうか。
それは、パースペクティヴスケッチを見れば明らかです。そのときAALTOの念頭にあるのは、その造形が、サナトリウムの環境: surroudings :として適切であるかどうか、そのあくなき検討のためのスケッチなのです。だから、この場合も、同じ場所が、何度も描かれるのです。

      

A・AALTO設計「パイミオ・サナトリウム」の紹介―2 : 「病室」の詳細

2013-08-24 10:01:12 | 建物案内
[補遺 24日15.00追記]
このサナトリウムのたくさんのカラー写真を紹介されているブログをコメントでご教示いただきました。
そこに、病室各部の色彩や、病室ベッド足元壁面の「でっぱり」がクローゼットであることの分る写真が載っています。
コメントに記載のアドレスからアクセスください。



病室で、ベッドに横になっている患者・療養者の視界に入る「もの」の「様態」は、患者・療養者の「気分」に大きく関わります。
これらは患者・療養者の surroundings にほかならず、しかも、患者・療養者は、いわば「自由を拘束されている」わけですから、否が応でも、それらに接しなければならないない surroundings だからです。
A・AALTOも、この点を重視したようです。

患者・療養者の「視界」に入る「もの」は、頭の位置より前方の「壁(開口部も含む)」と「天井」です。
特に、「天井」は気になります。
今回の入院生活の経験でも、やむなく目に入ってくる「天井の様態:照明器具や種々の機器類、仕上げ・・・」は、かなり鬱陶しいものでした。
特に照明(器具)は、直接目に入るとかなり眩しい。
照明だけではなく、天井自体も、目を覚ましている患者・療養者の目に四六時中入ってきますから、その様態も、自分の家での普段の生活時よりも、思った以上に気になります。それは多分、普段の生活と異なり、「自由がきかない」からだろう、と思われます。
壁や窓:開口も同様で、その様態は、自分の家での普段の生活時よりも、思った以上に気になりました。特に、窓から見える「景色」は気分に大きくかかわります。
   しかし、窓から何が見えるか、それは、病院の「立地」次第です。
   パイミオのサナトリウムは、その点きわめて恵まれています。
   私の病室の窓から見えたのは、病院のまわりの分譲住宅の屋根の波、パチンコ屋のネオン付看板・・・、清掃工場の煙突や飲料会社の巨大倉庫・・など。
   その病院は、既存の山林・畑地につくられた(既存集落はその中に塊状にポツンポツンと散在していた)工業団地に隣接した分譲地の一画にあるからです。
   既存の山林・雑木林は、わずかに「公園」としてのこされているだけです。
   唯一、食堂からは、これらの「雑物」越しに筑波山が見え、ほっとしたものです。
     隣接地が、昔からの街並や集落のだったら、大分様子が違ってくると思います。
     昔からの街並や集落は、現在の新興の開発地とは違い、surroundings の創出に意をそそいでいるからです。
   現在は、「街中」の病院の設計は難しいな、と思ったものです。
     もちろん、病院に限りませんが・・・・。


さて、今回紹介するA・AALTOのパイミオ・サナトリウムの病室は、ここまで念入りに考えられた病室は、当時の病院はもちろん、現在の病院でも、先ずない、と言ってよいでしょう。

はじめに、平面図と天井伏図(設計図)を、次いで、病室の写真を転載します。対照してご覧ください。

①上:病室の平面図 下:天井伏図
原図に縮尺無記入 ベッドの寸法(2.3~2.5m×1.1~1.2mぐらいか)で想定してください

“ALVAR AALTO bandⅠ 1922-1962”所載の解説には、概略、次のような説明があります。
  天井は落ち着いた濃い色調、壁はやや明るい色合いに仕上げられている(探したのですがカラー写真がなく、具体的な色合いは分りません)。
  部屋の暖房は、枕元への輻射を避けベッドの足元を温める天井に設けた「輻射パネル」が主(天井伏図参照)。部屋の他の部分は僅かな熱を受けるだけ。
    熱源については、説明がなく、分りません。
  新鮮外気は、特別な仕組みの窓によって、予熱され室内に採り入れられる(④図参照)。
  すなわち、外の冷気は、ガラスで囲まれた「箱」端部の療養者からできるだけ離して設けられた「採り入れ口」から、「箱」の中を斜めに通過して室内に入る。
    「箱」内を通過中に温められるのか? なお、窓の「開閉」の「仕組み」も、分りません。

     私の「誤解」があるかもしれませんので、解説文の原文を、下に転載します。
   



②病室入口から病室を望む(窓の側が南)
照明器具の上部にあたる一画だけが明るい(天井伏図参照)
天井左手の部分が「輻射パネル」かと思われます(図よりも幅が広い?)


③病室窓側を見る
左手の壁面の立ち上がりが何か、不明です


④南面窓まわりの詳細図
可動のブラインドを外に設ける例は、珍しい。
断面を見ると、陽光をできるだけ採り入れ、なるべく広く視界が開けるように考えているように思います。
窓際の「棚」は、普通のテーブルの高さ程度。
ここに座っての読書など、最高の気分でしょう。ただぼんやりと座っているだけでもいい・・・。
棚下のパイプは、温水または蒸気の通っているラディエーターと思われます。だから、寒い時でも、ここは暖かい。
   「箱」内の空気も、これで温められるのか?
   この窓は、細部にわたり「用」を徹底的に考えた、そのように私には見えます。「形」に「謂れ」があるのです。
   ただ、仕組みの細部が分らないのが残念!ご存知の方、ご教示を!
     「形の謂れ」については、「形の謂れ・補遺」をお読みください。
     
     最近の日本の設計では、既製の各種工業部品の寄せ集めでできている例が増えているように思います。
     そういう製品のカタログのDMが、毎日のように届きます・・・。
     数十年ほど前、アメリカでは、カタログナンバーを書けば設計が出来る、という話を聞いて呆れたことを覚えています。アメリカ化が進んだのかな?!
       既製品を使うことを全否定しているわけではありません、念のため・・・。



⑤病室北側を見る
円形の器具は、洗面器(手洗器)で、AALTOにより設計されています。その断面図が次の図版です。


⑥洗面器の断面
この断面:形状は、描かれている水の「線」から判断すると、「水はね」が洗面器内に収まることを考えて決められているようです。
ただ、写真を見る限り、この洗面器の位置が妥当かどうか、少し気になります(①の平面図ではそれほど気になりませんが、写真ではベッドとの距離が近すぎるように思えるからです)。


以上、パイミオ・サナトリウムの病室について、書物から分ることを紹介させていただきました。
そこで分ることは、この病室は、徹底して、このサナトリウムを必要とする人びと:「患者・療養者」の「目線」で考えられている、という「当たり前のこと」です。
   病室以外も同様です。すべてが、「この病院にかかわる人びと」の「目線」で考えられているのです。
残念ながら、これは、現在の日本の(もしかしたら世界中の)建築家たちから忘れ去られた「視点」かもしれません。


今回紹介できませんでしたが、このサナトリウムの各所で使われる「家具」も、AALTOによって設計されています。その中から、最後に、屋上の大気浴バルコニーで使われている「寝椅子」の設計図を転載します(金属製のようですが、詳細は分りません)。

⑦寝椅子の設計図

図版出典
③④⑤⑦
“Alvar Aalto Between Humanism and Materialism”(The Museum of Modern Art,New York 1997年刊)
①②⑥  
“ALVAR AALTO bandⅠ 1922-1962”(Les Editions d'Architecture Artemis Zurich 1963年刊) 


蛇足
最近設計した知的障碍者居住・支援施設(30年目の増築)の個室では、天井照明は、間接照明にしています。
と言っても、ベッドの枕元の上にあたる部分の天井を、主部の天井よりいくぶん低くし、その段差部分にトラフ型の20Wの蛍光灯を置いただけ(器具代が安い!部屋の大きさに応じて台数を調整)、という簡単なもの。天井の仕上げ材料は、ごく普通に見かける「虫喰い石膏ボード」。
   電気工事担当者から、暗くないか、と心配されました。今は、何でも明るいのがいいらしい。
これは、30年前と同じ方策。メンテナンスが簡単で(管球の取り換えが施設スタッフでもできる)、しかも眩しくない。
結構いい雰囲気になります。手元の照度が必要ならば、スタンドなどを別途用意すればいい。
実は、30年前、低廉な工費のために考えた策の継承にすぎません。
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A・AALTO設計「パイミオ・サナトリウム」の紹介―1

2013-08-18 11:59:00 | 建物案内
「回帰の記」のなかで、surroundings の創出に意を注いだ設計例として、A・AALTOの設計した「パイミオ・サナトリウム」の名を挙げました。
私の年代近辺の方なら知っている設計事例ですが、若い方がたは知らない方が多いかもしれません(「近代建築史」の一事項として、「教科書」にはあるはずですが・・・)。
そこで、いろいろな書物から図面や写真、スケッチなどを編集して紹介させていただくことにします(私は現地を訪れたことはありません)。

サナトリウムとは「療養所」という意味ですが、特に、20世紀のはじめは、日本でも、「結核の療養所」を意味することが普通でした。
当時、結核の治療法として、新鮮な空気と陽光の下で過ごす療法(「大気療法(たいきりょうほう)」が勧められていたのです。
場所として、高原や林間、海岸などが選ばれました。日本では、堀辰雄など、多くの文人の療養した信州・八ヶ岳山麓の「富士見のサナトリウム」などが有名です。
   結核の治療法が変わり、現在、パイミオも富士見も普通の病院になっています。

パイミオ・サナトリウムは、ALVAR AALTOが自身の入院経験を基に設計したと言われています。
すなわち、当時の病院は、患者にとっての surroundinngs の視点を欠いてデザインされていることを体験し(たとえば、はベッドに横たわっている患者に眩しすぎる天井の照明など・・・)それを患者の立場から見直そうとしたのです。それは、病室の設計に如実に現われていますが、今回は、先ずパイミオ・サナトリウムの全容・概要を図と写真で紹介します。

フィンランドは、国全体が森林の、日本の高原のような地域。パイミオは、首都ヘルシンキの西150㎞のトゥルクという町の近くにあります。


①全体俯瞰 針葉樹の森の中に埋もれている

②配置図 ①は、この図の左手の上空からの俯瞰 ループ状の線がアクセス
Aと付してある棟が病棟 B:共用棟 C:厨房、機械室 D:ガレージ E:医師用住宅 F:職員住宅など


③スケッチ このスケッチから、病棟の位置が最初に決まっていたことが読み取れます。すべての病室が陽光を受けるように、病棟は東西軸に一列に病室を並べる。
次に、この病棟に対して、Bの共用棟をどのように並べるか、いろいろと考えているようです。この二棟の関係で、建物に向かう人の「気分」が決まってしまうからです。ただ、二棟をⅤ型に配置することは、かなり早く決まっているようで、むしろ入口回りをどうするか、検討している様子がスケッチからうかがえます。

以前にも紹介しましたが、ALVAR AALTO のスケッチは、単なる「形」の「追及」つまり「造形」確認のためのスケッチではなく、その「形」がつくりなす surroundinngs を事前に確認するためのスケッチであることがよく分るのではないでしょうか。それは、右側のスケッチと、後掲の⑥の写真を見比べるとわかります。


上:④標準階平面図 下:⑤地上階平面図


⑥建物へのアクセスから見た全景 
正面が入口、右手の中層建物が病棟(配置図のA)左手が共用棟(配置図のB)。③のスケッチ参照。

⑦病棟断面図
病室への陽光の採りこみに工夫がこらされています。次回紹介の予定。


⑧病棟の屋上に設けられている「大気浴」のためのバルコニー 
病室からここへ出てきて一定時間過ごすのです。 療養者でなくても居たくなります。⑦断面図参照
地上の散策路も見えます。「大気浴:森林浴」に使われる散策路です。

今回の最後

⑨入口ホールにある中央階段
療養者は普段エレベーターを使うと思いますが、この階段も歩きたくなるでしょうね。
   初めてこの事例に接したとき、
   踏面、蹴上、幅木のおさめ方もさることながら、手摺のつくりかたに感動したことを覚えています。
   手摺をこのようにおさめる(階段の勾配に平行におさめ、なおかつスムーズに段差なく折り返す)のは、断面図を描くと分りますが、結構難しいのです。


次回は、病室まわりの詳細を紹介したいと思います。

図版出典
①③⑥⑦⑧⑨
“Alvar Aalto Between Humanism and Materialism”(The Museum of Modern Art,New York 1997年刊)
②④⑤  
“ALVAR AALTO bandⅠ 1922-1962”(Les Editions d'Architecture Artemis Zurich 1963年刊) 




スナップ・・・・旧 登米高等尋常小学校

2008-05-01 00:49:21 | 建物案内

07年1月06日の「トラス組」に触れたときに紹介した(トラス組・・・・古く、今なお新しい技術-2)「旧 登米高等尋常小学校」のスナップ写真が見つかったので掲載。上の写真。
1993年の正月。東北各地をまわったときのもの。

修理工事は、その3年ほど前の89年10月に終了している。今は「教育資料館」になっているが、当時、開館していただろうか?
なにせ、正月、元旦の午前中かなり早くに訪れていて、中には入れなかったから、外観だけ。

平面図と立面図は、「旧登米高等尋常小学校校舎保存修理工事報告書」から転載させていただいた。

なお、当時、「(財)文化財建造物保存技術協会」の一員としてこの建物を実際に調査され、各種の図面等を作成された石綿吾郎氏からは、たびたびコメントをいただいている。この場を借りて御礼申し上げます。

また、同協会が試行中の「文化財オンライン 建造物修復アーカイブ」(http://archives.bunkenkyo.or.jp/index.html)で観ることができる。
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阿仁・異人館-続・・・・写真補足+北鹿ハリストス正教会聖堂

2008-04-25 00:01:03 | 建物案内

[記述追加:11.54]

阿仁・異人館の入口・階段まわりとベランダの詳細、および小屋組トラス。
設計はドイツ人でも、施工は現地の大工職と考えてよいだろう。
当然、煉瓦は現地での焼成。煉瓦積も現地の職方。

ただ、阿仁では、煉瓦を使用した建物を、他に見かけない。
どういうことなのか、調べてないので分らないが、私たちがここを訪ねたときには、すでにこの建物の他には「鉱山町の名残り」はなかった。もしかしたら、時とともに消失してしまったのかもしれない。

下段の写真が「北鹿ハリストス正教会聖堂」の外観。
大館(おおだて)市の郊外の田園地帯の中にある。大館は、小坂のほぼ西にあたり(先回の地図参照)、「米代(よねしろ)川」のつくりだした盆地。

   註 米代川には、中流で小坂からの「小坂川」が流入する。
      鉱山のある所からの川でありながら、鉱山開発が本格化して以来、
      この川では渡良瀬川のような水質汚染が起きていないことを
      以前紹介した。
      鉱毒濾過装置を当然の事業として当初に設置したからである。
        「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山参照。
                            [説明・記述追加]

川に沿って、国道103号とJR花輪線が走る。大館から東へ約10数kmのところが聖堂のある字「曲田(まがた)」。

日本での「ハリストス正教会」聖堂の代表は、東京御茶ノ水の通称「ニコライ堂」。あと、函館の聖堂が有名である。

この建物の設計は、ニコライ堂の設計あるいは施工にかかわった者ではないか、とのこと。施工は現地の職方と思われる。

内部は観ることができなかったが(観るにはあらかじめ予約が必要)、木造のアーチを四方から立ち上げてドームをつくるという本格的な構造だという。材料は秋田杉とのこと。

   註 大館市のHPから、ある程度の情報は得られる。

秋田県の文化財になってはいるが、なぜ国の重要文化財に指定されていないのか、分らない。

私は寡聞にして、日本での「ハリストス正教会」の布教の歴史はよく知らない。
秋田県の農村地帯に、どのようないわれでこのような聖堂が誕生したのか、非常に興味が湧く。
ご存知の方がおられたら、是非お教えいただきたい。

「阿仁・異人館」・・・・阿仁銀山の外国人技師宿舎

2008-04-23 10:33:12 | 建物案内

[カテゴリー変更 4月24日17.12]

小坂の「康楽館」を訪ねた際、旧・「鷹巣(たかのす)町」から阿仁川をさかのぼった山間の町、旧・阿仁(あに)町も訪れている。
かつて「阿仁」にも鉱山があり(「阿仁銀山」)、そこにある通称「阿仁 異人館」を観るためである。
秋田~青森一帯の地図を上に載せた。
一般には、阿仁は「マタギの里」として知られている。

「鷹巣」から山を越えて「角館(かくのだて)」まで、「秋田内陸縦貫鉄道」が走っている。
その鉄道の「阿仁合(あにあい)」駅の直ぐ近くにあるのが、「阿仁 異人館」(上掲の写真)。写真の建物の裏手を鉄道が走っている。

   註 鷹巣町、阿仁町・・は、合併で現在は「北秋田」市。
      「秋田内陸縦貫鉄道」は、第三セクターの運営。
      元は国鉄として計画され半世紀かけて全通したのだが、
      民営化の際、見捨てられたからだ。
      他の第三セクター運営の鉄道同様、存続の危機にあるが、
      最近、存続させる方向で地元の意向が固まったとのこと。

      なお、「鷹巣町」の先進的な福祉政策は有名だったが、
      それを推進してきた町長が選挙に破れ、また合併によって、
      大きく変ってしまった。と言うより、昔に戻ってしまった。
      この間の経緯・事情については、2年前の2006年に書かれた
      次の記事に詳しく述べられています。
        「福祉先進地、鷹巣町の出来事」

この建物は、明治15年(1882年)、阿仁銀山の外国人技師のための宿舎として建てられたという。設計はドイツ人と言われている。

工法は、木造の骨組に煉瓦を積んだもの。
東京の「鹿鳴館」は明治16年建設というから、それよりも前に建てられていたことになる。

なお、大館では、約50㎡のかわいらしい「北鹿(ほくろく)ハリストス正教会聖堂」(明治25年:1892年竣工)も観させていただいた(中には入れなかった)。

明治中期、各地域は、いまだ江戸時代を引継ぎ、活気に満ちていたのである。
そしてその後、「中央」への集中が進み、徐々に、地域の活気は失せ、現在に至る。
それは、近代化を目指したという明治政府が決して「近代的」ではなく、民主化を目指したという第二次大戦後の政府は決して「民主的」ではなかったからである。

なお、「阿仁 異人館」は、1990年、国の重要文化財建造物に指定された。

康楽館・・・・小坂鉱山直営の劇場

2008-04-22 00:56:33 | 建物案内

[訂正:9.05]

昨年3月11日、13日に秋田県にあった「小坂鉱山」について書いた。

3月11日には、足尾鉱山の鉱毒問題について、世に有名な田中正造の直訴事件のあったまったく同じ年、小坂鉱山では鉱毒除去施設が完成稼動を開始していたことを紹介した。
つまり、都会に近い足尾よりも、山奥の小坂は数等先進的だったのである(その理由についても触れている)。
「直訴事件」があたかも「公害」が問題にされ始めた元年のごとく言われているが、そうではない。
「公害」問題の認識と解決についての先駆者が小坂鉱山にはいたのである。

そして3月13日には、小坂にのこる明治期に建てられた「康楽館」をはじめとするいくつかの建物を紹介している。いずれも、小坂鉱山の経営者によって企画・建設された建物である。

   註 07年3月11日:「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山
      07年3月13日:小坂鉱山-補足

上掲の写真は、先日の軽井沢銀山と同じ年に撮影した冬の「康楽館」の写真。
地図は、「康楽館」のある一帯の国土地理院の1980年代のもの。

地図に見える小坂鉄道(大館と小坂を結ぶ)の小坂駅から北へまっすぐに走る道は、道幅10数m、全長およそ500m。鉱山会社(「同和鉱業」の前身「藤田組」)がつくった街路。小坂鉄道も鉱山会社の経営である。
通りには、見事なアカシヤの並木が続いている。上の通りの写真は、北を見ているもので、丁度右手が「康楽館」にあたる。

   註 アカシヤは、煙害で被害を蒙った山林復活のために選ばれた樹種。
      樹種の研究・選択も鉱山会社に拠るもの。
      現在は、小坂のシンボル的な樹木、アカシヤ蜂蜜も名産になった。

地図で分るように、この通りには、幼稚園や病院などの公共的な建物が並んでいる。これらも、鉱山会社によって運営されていた。

通りは、北の端で鉱山事業所へ向う道にT字型にぶつかるが、その道の事業所に向って左側に、今のショッピングセンターに相当する大きな商店「需要品供給所」があった。これも鉱山会社の運営であった(今はない)。

現在は、事業所内にあった通称「鉱山事務所」が「康楽館」の隣りに移築されたという(07年3月13日に移築前の写真を載せている)。ともに、重要文化財。

「康楽館」は、明治43年(1910年)につくられた木造二階建ての劇場。
外観は、写真のようにいわゆる「擬洋風」だが、内部は、江戸の芝居小屋のような畳敷の桟敷。
回り舞台やドイツ製の映写装置も設置されていて、東西の歌舞伎はもとより、最新の映画なども上映されていた。
また、第二次大戦後も、1970年代まで、東北地域の演劇公演活動の中心的な劇場としての役割をはたしていたから、楽屋には多くの著名演劇人の署名入り「落書き」が残されている。


写真撮影は、12月。劇場は冬季閉鎖で、中には入れない時期。小坂は豪雪地帯。そこに、類稀な経営者:久原房之助による鉱山経営の下、独特の「文化」が育まれたのである。[訂正]
もう今はないかもしれないが、1980年代当時は、ペチカ付きの社宅の団地も無住になって残っていた。

類稀な現地経営者は、本社の意向とそりがあわなくなり、日立へと去るのだが(そのあたりの事情については、07年3月11日に触れている)「康楽館」は、彼の離任後の完成、つまり彼のいわば「置土産」だったのである。

羽黒山 五重塔:補足

2008-04-12 14:39:31 | 建物案内

室生寺の塔と同じ感動を受けた、と書いたけれど、室生の塔はきわめて小さくかわいらしい。同一縮尺で断面図を並べてみると、上掲のようになる。参考までに。

写真は、羽黒山五重塔の上層部の見上げ。

ときには 清々しい話を・・・・羽黒山 五重塔

2008-04-11 19:56:35 | 建物案内

写真を探していたら、かつて訪れた雪の「羽黒山五重塔」の写真が見つかった。

山形県酒田市の東にあたる山地に、修験道(しゅげんどう)の聖地、出羽三山(でわさんざん)がある。羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)、そして湯殿山(ゆどのさん)である。
それぞれの山頂には、出羽神社、月山神社、湯殿山神社があるが、最も人里に近い羽黒山の出羽神社に、この三社を合祭する三山神社がある。
三山神社の社務所から合祭殿へは、杉木立の中を歩くことになるが、この五重塔は、坂道へさしかかる手前、左側の木立の中にひっそりと立っている。
神社に五重塔?と訝る方もおられると思うが、羽黒山には、かつて多くの寺院があって、この塔は、その寺院の一つの滝水寺のもの、多くの堂宇があったのだが、明治政府主導の神仏分離令で、塔だけを残し、取り払われたのだという。

今から25年ほど前、小坂を訪ねたあと青森へ出て、そこから秋田、山形と日本海沿いに南下、酒田の「山居倉庫」、「土門拳美術館」を訪ね、羽黒山へ向った。
季節は12月、雪が降っていた。訪ねる人もいない。
木立のなかは静まり返り、聞こえるのは、雪を踏む足音と、ときおり枝から落ちて舞う雪の「ささあ」という音だけ。

木の間隠れに五重塔が見えてくる。
室生の塔を初めて見たときと同じような感動を味わった。
それは、単にそのときの周辺の環境のせいではなく、塔そのものの姿によるものであることは間違いなかった。

塔は、相輪頂部まで100尺弱。各層の屋根は杮葺き(こけらぶき)。勾配は緩い。
外部の木部が写真では白っぽく見えるが、着彩はなく、素木のまま。

「日本建築史基礎資料集成 十一 塔婆Ⅰ」の解説によると、全体に古式ではあるが、建立は応安~永和年間(1300年代中以後)ではないか、とされている。
解説は、次のような言葉で締めくくられている。
「都から遠く離れた奥羽の地にありながら、地方的なくずれはなく、洗練された姿を見せている。中世の羽黒修験道が中央との繋がりをもっていたことを示す遺構でもある。」(執筆者は浜島正士 氏)

再び・ヴォーリズの仕事

2007-11-28 17:46:48 | 建物案内

[図版差替え:11月29日、1.40] 

いままで気が付かなかったのだが、学研刊行の『日本の民家』第8巻「洋館」編のいわば番外に、下村正太郎邸が「大丸ヴィラ」として紹介されていた。
「番外」扱いとしたことについて、以下のような解説がある。

・・・わが国では珍しいチューダー・スタイルでまとめられ、この様式名をとって「中道軒」とも呼ばれたという。当時の半ば日本化した洋館にはみられない重厚な雰囲気を持ち、そうした本格的洋風建築の代表例ということで、重要文化財指定物件ではないが、比較の意味でとりあげた。・・・

同書によると、
建物は、鉄筋コンクリート造地下一階、地上三階(屋根裏部屋込み)、延床面積1,272㎡。

上掲の写真と平面図は同書から。
全景写真は、先々回の写真と同じアングル。

石造に見える部分は、実は鉄筋コンクリート。見かけ部分に石を使っている。
それでいて重厚な石造に見えるのは、コンクリートの躯体前面に、「石を貼る」のではなく、「積む」方法をとっているからではないか(目地部分にウソがないゆえの判断)。
木造の間にはめ込まれているのは煉瓦積、モルタル粗面仕上げ、いわゆるハーフ・ティンバー。これも張り物ではない。
とにかく、見ていて「安心」できる。

続・ヴォーリズの仕事

2007-11-27 10:19:10 | 建物案内

ヴォーリズの仕事について、石田潤一郎氏の解説を、『関西の近代建築』から、抜粋引用転載させていただく。


・・・ヴォーリズ作品に触れた者は、ほんのちょっとした細部―たとえば階段の寸法―が非常によく考えられていることに気付かされる。おそらくかなりの部分、既成の、しかし良質なパターンの組合せで設計を進めていったことをうかがわせる。
そのあたりは、渡辺節がしばしば同じ増殖モチーフを使い回し、また欧米のパターン・ブックを重用したことと軌を一にしている。

  引用者註 渡辺節(わたなべ・せつ)
        1884年生。鉄道院に勤め、京都駅舎を設計。後に独立。
        村野藤吾は、この事務所で学んだ。

しかし、ヴォーリズにしても渡辺にしても、参照元の選択が独創的かつ的確だったことを見落としてはいけない。たとえば「大同生命ビルディング」(大正14)の陶板による外壁のあかぬけた表情と内部空間の豪快さとは、日本人建築家の思いもかけないものだった。あるいは「下村正太郎邸」(大丸ヴィラ・昭和7)の様式的純度の高さ。また、「関西学院」(昭和4)「神戸女学院」(昭和9)に見る群造形のアメリカ的スケール感。さらには、その小住宅が例外なく湛えている人なつっこい表情。
こうした手法には典拠があるにしても、それぞれの形態の持ち味をよく判ってそれを十全に発揮できるように思いを凝らしてあるので、どの形態も内発的に生み出されたような伸びやかさに溢れている。

  引用者註 最近の建物にも、「昔の形」を付加する例を見かけるが、
         この点が欠けているから、見るに堪えない場合が多い。

ただ、ヴォーリズが日本で、ことに関西で強く支持された理由は、必ずしも意匠上の卓越ぶりだけではないだろう。先に触れたような細部への気配りに示される〈生活の容器〉としての性能の高さにもよっているはずである。
彼の住宅論(W・Mヴォーリズ『吾家の設計』:文化生活研究会、1923年刊)をひもとくと、すこぶる具体的なことに驚かされる。たとえば「食堂でテーブルを使うときは椅子にかけるがサイドボードを使うときは立ってするから・・・テーブルの高さを二尺四寸にすれば、サイドボードは二尺八寸或いは三尺にする」といった具合である。こうした具体的な検討を重ねていく姿勢を裏打ちしているのは「食物と睡眠のことさえ整えば、まず生活ができる。そこに家がある」(同書)というような本質へ立ち帰った合理的思考である。この合理性を日本人は評価したのである。また、一方、ヴォーリズが近江商人の進取の気性を愛したのも、そこに相通じるものがあったからであろう。
・・・・・

ヴォーリズ事務所は、最高でも所員数30名弱、それでいて年平均44件の設計事例があるという。
もちろんCADなどない時代。しかも、どれも密度が濃い。まことに考えさせられる。
いったい今は、何に「思いを凝らして」いるのだろう。

上掲の写真は『関西の近代建築』からの転載。
左が「大同生命ビル」(大正14)、右は「大丸・大阪心斎橋店」(昭和6)。

ヴォーリズの仕事

2007-11-25 21:25:29 | 建物案内

暗い話を続けてきたので、ここで転換。

去る6月28日の「近江八幡」の話のときに、ウィリアム・メレル・ヴォーリズという人物に少し触れた。
アメリカ人で1880年(明治13年)生まれ。伝道師として来日、近江八幡の商業学校に英語教師として赴任。そのかたわら、「近江兄弟社」を設立したり、建築家としても活躍した人物。ただ、建築を志したが、正式な建築教育は受けていないという。しかし、数多くのすぐれた建物をつくっており、かなり現存している。

『関西の近代建築』という本がある。
著者は滋賀県立大学で教鞭をとられている石田潤一郎氏、近代建築史が専門。
中央公論美術出版から1996年に刊行されている。
内容は、関西を舞台にした近代建築史。見事な口絵写真70余点(カラー)と詳細な解説。

その中にヴォーリズが京都(京都市上京区烏丸通)につくった住宅「下村正太郎邸」が紹介されている。それが上掲の写真。昭和7年(1932年)の竣工。三階建。別称を「大丸ヴィラ」と呼ばれるように、当時の「大丸」社長下村正太郎の自邸だった。現在は京都市の登録文化財に指定されている。
同志社大学の近くにあるが非公開。残念ながら、私は訪れたことがない(拝観には許可がいるとのこと)。
石井氏の言を借りると、「様式的純度の高い」建築。

写真は「関西の近代建築」から。
原本の写真、そして印刷は実に素晴らしく、スキャナでは十分反映できていないので、是非原本を・・。

とりあえず、今日のところは、紹介まで。

余談・・・・法隆寺の境内

2007-03-22 20:41:55 | 建物案内

 法隆寺の建物をいくつか例に出しているが、ふと気が付いた。建築に関わっている人で、法隆寺などのいわゆる古建築を観に行く人が減っているのではないか、と。
 最近では、定番だった中学、高校の奈良・京都への修学旅行も減っているらしい。ある建築関係の人が集まる講習会でたずねてみたところ、「東大寺・南大門」を観たことのない人がいたくらいだ。
 「そうだ、京都行こう」などというコマーシャルに誘われて京都や奈良へ行っても、古建築などはあくまでも「観光」の対象、そこに建物づくりのノウハウを観ようなどという人は少なくなっているのではなかろうか(現代に役立つわけがない、と思っているのでは?)。

 それはさておき、今日は、何回も例に出す法隆寺の建物が、境内のどこにあるかを示す伽藍の配置図を載せることにする。
 画面の都合上、西院と東院に分けるが、両図はつながっている(スキャンの関係で、縮尺は多少ズレていると思う)。
 バス通りからの松並木の参拝道は図の下側になる。

 西院から東院への道の両側は「版築」の「築地塀」。時代が経っているので、風化して「版築」の層がはっきり見え、「版築」の工法がよく分かる。

 東院の前の南北に走る道を北へ向うと、法輪、法起寺を経て大和小泉の「慈光院」へ1時間半ほどで着く(「慈光院」は、昨年11月10日に、少し触れた)。


 次回は、西院回廊のすぐ東に、「東室(ひがしむろ)」とともにある「妻室(つまむろ)」の架構について。
 この建物は、寺院:学問所には必須な建物:僧坊であるが、「斗組」を使わない簡素な架構である。