建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

復刻・「筑波通信」 -2 : 『道』楽考・・・・・「それはそれ、昔は昔、今は今」で済ませるか?  

2016-03-31 17:17:44 | 復刻・筑波通信

ヂンチョウゲ:沈丁花

   今回は、いつもの数回分にあたる長い文章になっています。ご容赦ください。
   数回に分けようか、とも考えましたが、かえって分りにくくなると思い、一回にしました。ゆっくり読んでいただければ幸いです。
   また、前半は、地図帳で関東平野の辺りの頁を繰りながらお読みください。探したのですが、適当な地図がありませんでした・・。



『道』楽考・・・・「それはそれ、昔は昔、今は今」で済ませるか?    (「筑波通信」1981年5月1日 刊 の 復刻)

ここしばらく、筑波には新鮮な季節が居すわっている。色とりどりの花と若緑色の葉は地にあふれ、天にはひばりのさえずり、風は穏やかに、そして、夜にはその風にのり、かえるの声が潮騒のようにきこえてくる。素直な自然がうらやましい。
   註 これは、当地域の、例年四月末ごろの変らぬ情景。

私が筑波に移り住んで今年で(1981年)で五年目になる。長年東京に住んで、都会でない風景に慣れていない私にとって(と言うより、都会でない風景の中で長く暮したことのない私にとって――ほんとに戦時中の疎開のとき以来である)、そこで暮すことは、まことに新鮮な体験の連続であった。
   註 1943~45年(昭和19~20年)山梨県甲府市の西隣、竜王町に疎開していた。
このごろ私は、年に数えるほどしか東京に行かなくなった(刺激がないと退化する大勢に乗り遅れる、置いてきぼりをくらうぞ、と《忠告》してくれる人もいる・・・。)。
その代わりというか、この広大な関東平野を歩きまわる(正確には車で乗りまわる)ことが増えた。そして、そのたびに、東京で考えられていることは、大部分誤りに近いのではないか、私が机上で考えていたことも未だ生ぬるい、と何度思ったか分らない。

たとえば、風土、風土とよく言うけれど、栃木の方から茨城へ向けて南下して来ると(矢板(やいた)⇒真岡(もおか)⇒下館(しもだて)⇒下妻(しもつま)⇒土浦という道筋を例に挙げると)進むにつれ、この僅か数十㎞の間で、土の色が変ってしまう。そしてそれとともに家々も街々の明るさも微妙に変ってくる。これは、全く目の覚めるほどの驚きであった。同じ白壁も、栃木では輝くように土地に映え、南に下るほど沈んでしまう、第一白壁が少なくなる。土の色が黒くなるのだ。そして、その目立った変り目が真岡下館の間、つまり昔からの栃木茨城の県境であるというのも非常に興味深いことだ。
因みに、近くを流れる鬼怒川も、その辺りを境にして上流には砂利の川原も見られるが、それから下流は常に泥土の中をその色を帯びながら流れてゆく。

土地、土地に、こんな微妙な違いのあることを、東京に居て分るだろうか、分る気が:分ろうとする気が起きるだろうか。
分るまい。分ろうともしないだろう。「地面」として(土地としてではなく)均質に見るだけに違いない。いったい、そんな違いに何の意味があるか、と思うだけだろう
そして、この土地土地に暮す人たちは、明らかに、この微妙な違いに微妙に対してきたのに(対してきたはずなのに)、その土地土地にまで「東京」的考えが猛威をふるいだしている、というのは、いったいどうしたことか。(不勉強ながら、私の知る限り、この違いについて触れていたのは、地理学の書物であったと思う。しかしそれは、あくまでも「地質」について、ただそれだけについてのみ書かれていたはずだ。)
このように思うのは、私の、「地方」に移り住んだ私の《ひいき目》のせいか。それとも、地元の人にとっては空気のような存在が、私にとって初めての味わいに感じられたからだろうか。
あるいは、こんな風に思うなどということは全く「異常」であって、いかなる違いがあろうとも、我われの最新「技術」をもってすれば、いかなるところにも同じものがつくれるではないか、そんなちっぽけな違いなど気にしていたら日が暮れる・・・、と思う方が現代的な生き方なのだろうか。
もしもそれが「大勢」ならば、私はあえてそのような「現代」には、たとえ「異常」であろうとも同調したくない。私は「異常(なこと)」を言い続けるだろう。なぜなら私は私の日常を《逆なで》されたくはないからだ。
第一、かの東京にだって土地土地の微妙な違いがあることは、その上に密集している家々などを一皮剥いでみれば直ちに分ることだし、その違いに応じて生成してきたということも見えてくる。
私が「大勢」に逆らおうと思うのは、「地方」にいれ込んだり懐古趣味に耽っているからではない。
「それはそれ、昔は昔、今は今」、で済ましてしまうこと、済ましていられること自体が、愚かだと思うからなのだ。

このごろ(1080年前後)、ある仕事がらみで、頻繁に関東平野を横断して歩いている。
私の暮す筑波は、関東平野の東端に位置している。東に10㎞も行くと筑波山から連なる丘陵台地にぶつかり、様相も変ってくる。
   註 ここでの筑波は、現在のつくば市のあたりのこと。そして、現住地かすみがうら市は、この丘陵台地のはずれにあたる。
そして西はと言えば、これは広大にして壮大、はるか彼方までかすかな起伏を繰り返しながら平原が拡がっている(だから、その夕日はまさに一見の価値があり、誰でも、四季それぞれのその表情に思わず歩をとめ、物思いたくなるに違いない)。
そして、よく晴れ空気が透明な冬の一日、少し小高いところからは、稀なことではあるが、遥か彼方に富士山を望むことができる。
同じような日、これは冬に限らず、ずっと近くに関東平野北辺の那須・日光・赤城へと連なる山々が眺められる。この山並みが一つの谷間(上越線が通っている)を挟み榛名へと続き、そこから山並みはほぼ直角に南へ折れ、関東平野西辺の山々:秩父へと連なってゆくのだが、ちょうどその折れ曲がる辺り、碓氷峠信越線国道18号:中山道が超える)の麓へ、頻繁に出かけているのである。つまり、関東平野を、東の端から西の端へと、まさに横断するわけである。

この横断ルートはいろいろあるが、一つは水戸から前橋をつなぐ国道50号に乗る手。筑波から北上し、下館・結城(ゆうき)の辺りで乗り、その後小山(おやま:東北線、国道4号=奥州街道との交叉点)、佐野足利(あしかが)、桐生(きりゅう)、前橋へと先ほど記した関東平野北辺の日光連山の前山や赤城山麓伝いに走ることになる。言うなれば、下毛野国(しもつけのくに)から上毛野国(かみつけのくに:こうづけのくに)そして信濃国へ、という道筋だ。
この道筋の一部は、完全に古代の東山道(とうさんどう:とうせんどう)に他ならない。従って、周辺には古代遺跡が集中している。
このルートは、山々の際を走っているから、先に記した山々もほとんど全容は見えず、見えるのは、それより手前にある山々である。赤城山さえ小さく見える。しかし、道は常にその片側に山並みをかかえ、同じような小山の連続とはいえ、それなりに場所ごとの特徴があるから、だいたいどの辺りを走っているか、夜中でも標識を見ずしても見当がつく。
   註 下毛野国:現在の栃木県に相当
      上毛野国:現在の群馬県に相当
      一帯は、古代、毛野国で、その都に近い側に、遠い方にが付けられた。
最近使っているルートはこれとは違う。それは、先のルートより南へ寄った平野の真っただ中を走る道である。先ず、筑波から下妻を通り、古河へ出る。古河東北線国道4号:奥州街道と交叉し南へ東京寄りに数㎞行くと利根川を渡る。
この辺りで、関東平野を流れる大河川が、それまではどちらかと言えば南東へ流れていたのだが、台地にぶつかって向きを大きく南に変える。だから、同じように平原状ではあるが、筑波から古河まではだいたい台地の上だったのである(したがって、畑作地帯であり、水田はその台地を刻む襞のような小河川、あるいは沼地の干拓地だけに見られる)。
それから先、館林太田新田(にった)、伊勢崎前橋あるいは高崎へと、利根川と平野北辺の山々との間の河川の氾濫原を走るのだ。当然水田が圧倒的に多い(書き忘れたが、先に書いた国道50号ルート沿いは畑地が多い)。
ただし、ここで「当然水田が多い」と書いたが、この利根川南側に拡がる広大な水田地帯が、今見るような「当然の形」を成したのは、そんなに昔のことではなく、江戸時代前期以降であり、館林伊勢崎などの町場も、この辺りが穀倉地帯へと成長するとともに発展したはずである。新田(にった)も館林などよりも古いけれども、国道50号沿いに比べれば、字のごとく「新しい」が、街としては大きくはない。
もっとも、50号沿いの足利などの街も新しく、ここで言っているのは、国道50号沿いは古代から開けていた、それゆえ、古代の官道:東山道もそこを通っている、それに対し、平野部が開けてくるのは、それよりも大分遅れる、という意味である。

四月のはじめ、冬型気圧配置に一時戻ってきた極めてよく晴れ上がったある日、このルートを走ってみた。渡良瀬川を渡り、道はほぼ西北西に館林へと向う。ちょうど赤城山をめざす格好になる。そのことは初めのうちそれほど気にしていなかったのだが、その後の体験は、それを気にしないわけにはゆかない、という気にさせたのである。
館林市内に入った道は一旦北へ向う。それは、東京から北上して日光へ向う奥州街道の一筋西側の道に他ならない。そのとき私の目に飛び込んできたのは、雪をかぶった実に見事な山容の山塊である。一瞬後それが日光・男体山であることに気がづき、それと同時に、それこそわが身を疑った。いったいどこへ向っているのか、と訝ったのである。

先ほどから、私は北だとか西北西だとか書いてきているが、それは、いまこの文章を書きながら、地図を見てもらう方への説明のために、地図を拡げて確認しながら言っているのであって、その時の私には、そのような「絶対方位」の感覚など全くなかった。
そのとき私は、極めて大雑把に、館林伊勢崎と大体その順に西へ向えばよいと思っていたのであり、そのときも単純に伊勢崎方面を指し示す道路標識に従って右折したに過ぎなかったのである。そして、真正面に見事な山塊だったのである。しかも、道の両側の家並みの間にくっきりと浮びあがっている。これは偶然ではない。明らかに「意識的」である。これは「当て(あて)山」なのだ。日光へ向う道は、まさにこの男体山を目当てに、平野部の湿地の中の微高地(周辺より僅かに標高が高く比較的水の心配がない:人びとはそこに住み、まわりの低地で水田を営む)伝いに走ってきたのだ。館林の街は、遠くからは平野の中の島のように見えるが、実際それは、湿地の中に浮いている他に比べ相対的に大きな島なのだ。その大きさと、平野の中での位置に恵まれていたこと(江戸時代の主要通商路である河川に近い)が、その発展を保証したに違いない。これに対し、新田(にった)の辺りは古代の新田開発には適地ではあったが、近世の発展のためには不向きな地であったのだ。
古代以来、人びとの定住地:集落、村や町には、栄枯盛衰があったのであり、今のはその延長上に在る。これは、近世以降に大きく発展した他の平野の中のについて共通に言えることだろう。そして、館林は、男体山を真正面に据えることで成り立ったのだ。おそらくこれは間違いない。

こう分ってくると、館林までの道で見えていた赤城山も、あれも当て山であったことに気づく。それからあとの道のりが俄然楽しくなってくる。それから先、多分、赤城山は、より重要な意味をもってくるに違いない。そして予想どおり、ときには真正面に、ときには右真横に見ながら進むのだ。実際、標識は不要である、というより、山そのものが「当て」すなわち標識そのものだ。しかし、夜は全く当てにならない。当てが見えないから、どこを走っているか、まるっきり見当がつかない。これは、国道50号筋との絶対的な違いである。古代の道が山際を通るのは、湿地帯が物理的に通りにくいということと同等に、あるいはそれ以上に、たとえ夜は歩かなかったにしても、遠くに見えるものよりも、近くのものの方を「当て」にしたかったからに違いない。
この辺りから見る赤城山は、これも素晴らしい。50号筋で見るそれとは比較にならない。そして、その左に見える榛名(はるな)も同様に大きいし、その両山の間の一段奥に壁をなして輝く雪の山脈:上越国境の山々だろう:もまた見事である。
こういった景色を眺めていると、なるほど直ぐの周りは平野だけれど、ここ、つまりこれらの集落:村々が成り立ち得たのは、これらの山々:当てにできる山々があるからなのだ、そんな気が実感として湧いてくる。具体的な証拠はないが、実際そうだったに違いない。
現代人にとっては最早観光の対象:眺めるだけの対象でしかないこういう山々は、ここに住み着く決意をした人びとにとっては、そんなものではない、「頼りになる」「頼りにしなければいられない」ものとして映ったに違いない。
東京に居て、最も近代的・現代的な東京に居て、このことの意味が分るだろうか、実感として持てるだろうか。分りはしまい。持てもしまい。単に「一景観」としてしか見ないだろう。にも拘らず、こういう人たちが「地方」の地域計画や建物を平然としてつくってしまう
私は「景観」という言葉が大嫌いです、と言った「地方」出身の卒業生を思い出す。

さて、館林太田を過ぎて伊勢崎へ向う。右手には、相変らず赤城榛名の雄大な姿が見え続ける。そして、正面に、また見事に雪をかぶった山が・・。どう見たってそれは浅間山だ。あまりのことに驚くほかない。しかしそれは、私の知っている浅間山でなかった。全く初めて見る、こんなに見事だったか、と思わずにいられないほど他を圧して輝いている。
私の知っていた浅間山は、信越線あるいは国道18号:中山道から見た「景色」としての浅間山と、八ヶ岳の東側を小海(こうみ)から小諸(こもろ)に向う道筋で見た、もう少し小ぶりのそれだ(そう言えば、その道も正面にこの山を据えていた)。
これはもう全く偶然ではない。完全に「意識的・意図的」だ。「当て山」という言葉は以前から知ってはいた。「当て山」としての筑波山の存在については、日ごろの実感として分っていた。
遠出をして筑波に帰るとき、筑波山が見えてくると、ああ帰り着いたな、間違いなく帰ってきたな、とほっとするのである。
だから、おそらく関東平野に於いては、他の山々もそういう意味・役割を担っているだろうとは、ある程度予測していたのではある。しかし、これほどまでとは、ついぞ思ってもみなかったのだ。
高崎を過ぎ、安中(あんなか)、松井田(まついだ)・・といよいよ碓氷峠へと昇り始めると、当然ながら、浅間山は手前の山々に埋もれて、あの丸みを帯びた山頂がちらっと見えるだけになる。しかし道は、川に沿い上り、山々のくびれ:峠を目指せばよく、両側には登るにつれ山肌が迫ってくるから、もう先ほどのような「当て(山)」は要らなくて済む。
以上ながながと、筑波から西への、関東平野横断で感じ味わう情景を書いてきた。そしてこれは、なにも関東平野だけでの話ではなく、何処でも、少なくと、旧道沿いでは、同じはずだ。

一度は、道路標識だけに従うしかたではなく、周りに拡がる景色を単なる「景観」として眺めるしかたではなく、歩いてみてはどうだろうか。
そして、もしも何の「情報・知識」もないままに平野の真っ只中に放り出されたとしたら、我われはいったい何を探し求めるか、想像してみるのも一興である。
そう試みてみることで、初めてそのような場所に移り住む気になった人びとや、そういう所を通過しようとした人びとの「心境・情況」に、ある程度は迫り得るのではないか、と思うからだ。
また、そうしないと、村や町も、「できあがってしまったもの」としてしか見えず、「どうしてそうなったか」に対しては、全くと言ってよいほど無関心になってしまうからだ。


先に、「少なくとも旧道沿いはそうだ」と書いた。実際、このルートに於いても、至る所に新道、バイパスが造られている。
そこではすでに先のような「情景」は全く生まれない。もはや目当ては道路標識以外なく、ベルトコンベアに乗っているかの如く走るしかなく、目的に近づいているかどうかは、極端に言えば距離計の目盛だけが頼りになる。
だから、標識と標識との間を走っているときは、まさに「無用な途中」に過ぎず、外に見える風景も白々しく思えてくる。まして標識に、初めて知る、あるいは予想外の地名でも出てくると、これはもう、どうしようもなく不安で苛立ってくる。
その点、「当て山」を正面に据えた旧道では、絶対にそういうことはなく、標識を見ても、もうここまで来たか、あそこに行くにはここで分れるのか、などと悠然と構えていられるのだ。つまり標識自体を、それほど重視しないで済ましている。安心して走っているわけで、無用な途中とは、少しも思わない。

しかし、その旧道沿いでも、その特性を失ってしまうような建て方の建物が増えてきている。そこに暮す人びともまた、その特性が分らなくなってきているのに違いない。
けれども、この人たちの「分らないと、東京の人たちの「分らない」とは、その「意味」が違うだろう。
東京の人たちには、このようなことがあることが分らないのであり、そこに暮す人びとは、そうあることは分っている、しかしそれが空気のような存在であるため気が付かない、そういう意味での「分らない」であると思われる。
そのようなとき、何でも東京風にするのが「近代的・現代的」で、「最新」と思い、思い込まされると、その「分らない」もまた、ますます東京流の「分らない」に近づいてゆき、この「特性」も、どんどん風化してゆくことになる。

これも時代の趨勢、栄枯盛衰の一形態として、黙って見過ごしていればよいのだろうか?
私はそうは思わない。思いたくない。
そもそも「地方の時代」などと語られるが、そのとき、何をもって「地方」と言っているのだろうか?

おそらく、ここまで読むと、何か私が、失われてゆくものへの愛惜の念にかられて、つまり、ある種の懐古趣味で言っているように見えるかもしれない。そうではない
何故「そうではない」のか、について私見を書いてみる、これが今回の本題である。


シデコブシ:紙垂辛夷

先に、村や町を「できあがったもの」としてのみ見て、「どうしてそうなったか」に関心がなくなる・・・と書いた。
しかし、「どうしてそうなったか」について全く関心が示されていないわけではない。
各地域・地方の郷土史研究者、愛好者を含めた歴史研究者、考古学研究者、地理学研究者、あるいは建築史学研究者などにより、各地域・地方の成り立ちについて、立派な「郷土史」が編まれている。それこそ各地競って編纂が行われている、と言って過言でない。そしてまた、各地の新しい開発にともない(皮肉にも)、これまで知られていなかった古代~中世遺跡・遺構が続々と発見され、資料として加わってゆく。そしてまたそういった史・資料をもとに、横断的に(古代の)集落の成り立ち・構成やその変遷等について、あるいは(古代の)道の造られかたについて(「当て山」の存在の考証なども含め)など、それぞれの時代の状況がいろいろと論考されている。
私もまた、私なりの視点でこれらに対し関心がある。しかし、その関心の内容は、いささか違うようだ。

私が「どうしてそうなったか」と問うとき、なるほどこの問の形式は一見「客観的な」装いであるが、私の真意は、むしろ、そこに係わりをもった人たちが「なぜ、どうしてそうしたか」を問うている。
一方、これらの論考のほとんどは、先ず「事実の編年」に終始し、その「事実の流れ」の「変遷」に対して「客観的分析」を加えるという方法(たとえば、ときの政治、経済、社会、技術・・・状況によるいわゆる「要因分析」を行う)が採られ、そういう意味での「どうしてそうなったか」の考察だ、と言ってよいだろう。
しかし、ここでの「事実」は、いわゆる自然現象としての自然界に見られるそれとは明らかに違う。人びととの関係なく存在し得る類のものではない。人びとが何かをした、「その結果としての事実」以外の何ものでもない。「どうしてそういう事実として結果するようになったか」、つまり、「人びとは、なぜ、どうして、そのようにうしたか」は、「目に見える事象」としては、それこそ「絶対に」遺っていないから、論考に際し触れられないし、触れようともしないのが実際ではなかろうか。それが「学的態度」というもので、それに触れるのは「歴史小説」の世界であるかのようだ。

「常陸風土記」をはじめとする往古の「風土記」には、「どうしてそうなったか」に対して、「どうしてそうしたか」という語り口で書かれている。その内容の「現代的意味での事実としての当否」は別として、彼らは極めて「健全であった」と思わざるを得ないのだが、これも私の視点が「異常」だからであろうか。

いわゆる「文化財」という概念は、先に降れた「学的態度」の延長上にあるのではないだろうか。
ある時代の遺物、遺跡、遺構を、「その時代」を代表する「文化」財として扱う。そのこと自体には、私も別段異論はない。
しかし、何のために扱うのか。「学術的価値」の高い資料だからか、その昔こういう時代があった、ということを示すものとして遺しておきたいからか、あるいは「美的価値」の高いいわゆる「芸術品」だからか、あるいはまた単に「古い」からなのか。
もしそうであるならば、敢えて言わせてもらうが、それは、「趣味」「趣向」以外の何ものでもない。学問自体も、それでは一趣味だ。
そうだとすると、風土記の著者たちに比べ、「健全ではない」のではなかろうか。
風土記の作者たちには「今」がある。「今」のために「過去」を見ている。
しかし、「文化財」という概念には「今」が見られない、多分ないはずだ。人類の「文化遺産」として、「えらいこと」をことをやったもんだ・・、と感嘆しているだけだ。

しかし、私たちが「私たちの歴史」を知ろうとするのは、いったい何のためなのだろう?
単に「それぞれの時代の『事実』を知る」ためなのか。「それはそれ、昔は昔、今は今」という事実を知るためか。
そもそも、私たちが「私たちの歴史を知ろうとする」のは、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「扱わない」、と言うより「扱えない」からこそではなかったか。
すなわち、「それはそれ」として独立の事象としてはどうしても扱いかねる、個々の事象相互に連関があるようだ、それはいったいどういう連関なのか、それを知りたく思ったからではなかったのか。

けれども今や、世の中の現実は、全てにわたり、「それはそれ、昔は昔、今は今」になってきている。

この「それはそれ、昔は昔、今は今」という文言が頭に浮んだのは、都市計画や建築設計に係わっている人たちとのある会合の席上である。
この方がたは、先ほどの表現で言えば、「できあがってしまった町」、そしてそれよりも「これから先つくりあげること」に関心がある人びとと言ってよいだろう。
その席で、私が「近ごろ、学生のなかに、畳の敷きかた:並べかたや、障子や襖など引き違い戸で、向って左側が奥に納まるということを知らない人が増えた」という話を持ち出したところ、即座に「そんなこと、どうだっていいんじゃないか、目的がはたせればいいんだ」という反応が返ってきたのである。私にはすぐさま返すうまい言葉が見付からなかった。そして、口には出さず、「それはそれ、昔は昔、今は今、か」と思ったのである。
この「単純機能主義者」:残念ながらこれも大学教師で、都市デザインの権威者で通っている:は、明らかに間違っている。しかしその「誤り」を指摘しようとしたら、それは「ものみかた」の根本にまで遡らざるを得ないから一昼夜をかけても済まないだろう。
私は、その場での反論はやめにした。そして、これは大変だ、思っていた以上に大変なことになっている、とあらためて感じ、どうしようもない白けた気分になったのを記憶している。
彼は、学生たちが何故そういうことを知らなくなったのかについて、少しも分っていないし、分ろうともしていない。知らないからといおって、大したことではない、知らないなら知らないで、それはそれでいいではないか、というのである。
しかし、そうやって済ます前に、彼らが知らないのは、彼らの体験のなかにそれを知る機会がなかったからだ、そしてそれは彼らの住む家が「公団住宅」に代表されるようなタイプの家だからだ(因みに「地方」出身の学生たちはほとんどが知っている)、そして、彼らが何かをつくりだすときの一つの拠りどころは、彼ら自身の自分の家での体験である、という厳然たる事実に気が付かなければなるまい


第一、「目的さえ果たせればよい」ということでさえ、当の本人が常識的な畳の敷きかたや引き違い戸の納めかたを既に知っていて、そこから「目的」なることを「抽象して得た」のだ、ということを忘れている。
それとも、この大学教師は、「目的」も「機能」も、全て、自らの体験とは全く関係なく、自分の頭のなかで「純粋観念」として得たとでも思っているのだろうか。おそらくそうに違いない。と言うより、「忘れている」ことを忘れ、そう思っているのだ。
彼ならびに同類の建築に係わりをもつ人びとにとって、都市の機能も都市の構造も、そして建築の機能も、全て、私たちの体験、彼ら自身の体験とは全然別物として在るに違いない。いや、彼らには、彼ら自身の体験以前に建築や都市の観念が在る、とでも言った方が適切かもしれない。
そう「理解」することによって初めて、彼らの「デザインした」都市や建物が、何ゆえに、私たちの日常を逆なでするものになるのかが、よく分る
(こんなことが分っても何にもならない・・・)。

この人たちは、ある町が「どうして今見る姿になったか」については関心がない。それはそれ、昔は昔だ、と思っているからだ(もちろん家々がどうしてそういう形になっているかについても関心がない、それは建築史学の関心事であって、彼には関係ないことなのだ)。そして、「今は今は」とばかり励む。いったい彼らにとって「今」とは何か。私には、彼らに「今」などない、と思える。何時だっていいのである。時間を超越していると、浅はかにも思い、それが「真理」とさえ勝手に(独りよがりであることに少しも気付かず)思い込んでいるのである。彼らには、「今」は彼ら自身によってできていると思っているのだ。
これは、私には、想像を絶するほど怖ろしいことに思えるのだ。なぜならそれは、人間を、人間の為してきたこと、為していること、すなわち「人間の営為」を、あまりにもばかにしているからだ。

残念ながら今、こういう人たちの考えかた(それはすなわち、ここまで何度も触れてきた現代的、都会風の最新の考えかたに他ならないのだが)が主導的になって、いろいろな町や都市やそして建物の計画が行われているのである。
それがどういうものであるか。要は、「そこ」に居る・在る私たちとは何の関係もないないものが白々しく目の前に立ちはだかるさまになるのである。
おそらく、このような怖ろしいやりかたでものが造られたことは、未だかつてなかったに違いない。いや、なかった、と断言していい

私は、私たちの生活、私たちの日常、そして私たちの率直にして素直なものに対する感じかた、見かたを先ず第一に尊重したい、信じたい、と思う。自信を持ちたいと思う。
いったい、人びとは何時から、私たちの体験、私たち自身に基づくものよりも、「客観的データ」で語られるものの方を信じるようになってしまったのか?
私たちは、「私たちの体験」すなわち「私たちの存在」を忘れ、あるいは見失い、あるいは切り捨て、あるいは知らず、知ろうともせず、ただ徒に「抽象的」に「人間的な」街づくり、「調和ある」開発、「豊かな」農村、「地方の」時代などなどの、おためごかしの言辞をもてあそぶ人たちに、たとえ彼らが「専門家」を称しようが、立ち向わなければならない。
「専門」の何たるかを、問い詰めなければならない。



アブラナ

私たちは、私たちに係わるものごとを「それはそれ、昔は昔、今は今」というかたちで処理することに馴れてしまった、あるいは馴れつつ、または馴らされつつある。馴れてしまうと、人はずっと昔からそうだった、と思っても不思議でなくなるから、ますます「それはそれ、・・・」となってゆく。
しかし、このようになったのは、極く近々のことなのだ。その根は、明治の「近代化=西欧化」まで遡るかもしれないが、ここまで徹底しだしたのは、ここ数十年のことではないだろうか。
敗戦に拠る価値観の転換は、過去の「文化」の単純全否定まで惹き起こした(その同じ論理の上で、真逆なかたちとしての「復古願望」が出現する)。そしてまた、戦後の、信仰に近いほどの「自然科学」あるいはその「方法論」への傾倒は、それに輪を掛けた、と私は思っている。
この辺りのことについては、改めて別に書く。

私たちは、確かにものごと一般を、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「処理する」ことができる。そして、その方が容易である
けれども、私たちの日常は、決してそうではない。
私たちは、「それはそれ、昔は昔、今は今」では生きてゆけないし、第一そのようには決して生きていない。前後の連関のない時間など私たちにとっては存在し得ないように、生きている私たちにとって、「それはそれ、昔は昔、今は今」などということは、論理的にあり得ない

もしも、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「処理する」ように生きているのだと思っている人がいるとすれば(現実にいるわけだが)、それは彼らが全くの「嘘」をついているか、自分自身を全く「見て(観て)」いないからに違いない。
私たちが、私たちは「それはそれ、昔は昔、今は今」として生きていない」と気が付いたとき、そのとき、あのいわゆる「文化財」も初めて私たちの「今」に関わってきて、本当の意味での「文化財」として捉えられるのだ(もっともそのとき、「文化財」と呼ぶかどうかは分らないが・・)。

最近、地名に関するシンポジウムが開かれたという。地名をもっと大事にし、それを破壊・消滅から守ろうという趣旨であるらしい。その趣旨自体には、私も賛意を表する。
しかし、参加者のなかに幾人かの建築や都市の設計・計画に係わりをもつ人たちの名前を見付けて驚いた。私には、彼らは破壊を率先して進めてきた人たちに見えるからである。
私は彼らに、こう訊ねたい。
「今さら地名が大事だって?地名に関心があることは、ないよりはよい。しかし、あなたがたがやってきたこと、やっていることこそ、地名を大事にしないことそのものではないのか?それに対して何らかの自己批判があったのか?それはそれとして脇に置いといて、地名に口を出すのか?」
しかし、何故自己批判を求められるのか、彼らはそのことさえ分らないだろう。
よくは知らないが、彼らがそこに参画するのは、地名は過去の時代の「文化」を示している、そして「今」、彼らは、彼らこそが「今の文化」に創造に係わっている、だから「文化」に係わる「文化人」としてそれに係わるのだ・・・、多分そんなところだろう。要は、「今」都市や地域の「文化」えお造るのは自分たちだという「驕り」に近い「自負」があるからに違いない。それに、「地方の時代」というのも流行りだし・・・。

今や、「地名」まで「文化財」に成り下がって(それとも「成り上がって」?)しまったのである。そのシンポジウムのテーマ:「文学と地名」「歴史と地名」「地域文化と地名」「都市問題と地名」・・・これらは分科会のテーマである:を見る限り、何が語られたかは具体的には知らないので誤解があるかもしれないが、もしも、ある文学がその土地に根差して生まれた由緒ある地名である、あるいはある時代の「歴史」が地名として遺った歴史的に由緒ある地名である、あるいはまた同様に地域文化に係わる由緒ある地名である、・・・・だからそういう由緒ある地名が消滅しないように護り、大事にしよう、というのであれば、ただそれだけがその根拠・論理であるとしたならば、残念ながら、それでは決して消滅を防ぐ手だてにはなり得ない。
なぜならば、それでは単なる懐古趣味に過ぎず、地名もまたまさに単なる「文化財」に過ぎなくなってしまうからだ。これは、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「処理するしかた」の一変形に過ぎないからだ。つまりそれは、地名の破壊・消滅に係わっている側と、全く同じ論理構造なのだ。同じ論理ならば、資本の論理で裏打ちされた側:開発し破壊する側が「勝つ」のは自明ではないか。
だから無意味だなどと言っているのではない。
地名に関心をもつことは、もたないより、そのことに気が付かないよりは、数等よいことだと思う。しかし、単なる愛惜の情や趣味・教養のためならばともかく、真にこのことを考えるならば、考えようとするならば、私たちは、同じ穴の貉(むじな)であってはならないだろう。私たちは、「勝つ」論理をもたなければならないのだ。


カイドウ:海棠

私はここまで、私たちの居住環境:居住空間が、そのつくりかた、つくられかたが、私たちの日常の「感覚」を逆なでするものになってきた、馴染まない、馴染めないものとなってきていることを、半ば嘆きつつ述べてきた。しかし、分った風に嘆いたからといって、どうにもなりはしないのだ。何とかしなければならない。
私たちが、私たち自身に忠実に、「嘘」をつかずに生きてゆけるために、「私たち」が何とかしなければならない。他人に頼んでいたのでは、私たちの「文化」を他人に委ねているのではだめだ。私たちは、「勝つ論理」を私たちで見付け共有する必要がある。

私たちは、「それはそれ、昔は昔、今は今」という処しかたを、この安易なやりかたを、捨てた方がよい。
そして、およそ人が係わった、あるいは係わるものごとに対し、「どうして『そうなった』か」と「客観的」な言いかたで問う前に、「(人びとは)どうして『そうした』か」と問うべきだ。
それはすなわち、「私たちはどうなるか」ではなく「私たち(なら)『どうする』か」という「私たち自身の問題」になってくるはずだからである

そして全く同様に、およそ人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる「学問」そして「学者」に対し、「専門」ならびにその「専門家」に対して、同じ「問いかけ」をしなければなるまい。
この種の学問・専門が、「それはそれ、昔は昔、今は今」的内容である限り、それは、私たちにとっても「それはそれ」でしかなく、そのような「学問」や「専門」が、その「学識経験」の名を借りて私たちの上に覆い被さることを、私たちは自信をもって拒否しよう。
人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる学問や専門が、私たちの「今」と係わらない、ということは、その学問・専門にとって致命的な欠陥なのだ。それでは学問の名に値しない。どうして、私たちは彼らの言いなりになる必要があろう!

                                                                       了


あとがき:最後まで厭きずにお読みいただき、有難うございました。
      随分気張っている、と自分でも思いました。
      ただ、この頃の思いは未だ失せてはいない、と自分では思っています。つまり、相変らず今も同じように思っている。

      皆さまのご意見ご感想をうかがえたら幸いです。
コメント (2)

“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-29

2016-03-20 15:02:15 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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空では雲雀が囀り、が庭先まで訪ねてきてくれる季節になりました。春本番です!
しかし、花粉もいっぱい!花粉症で集中力に欠け、先回から大分時間が空いてしまいました。



   Dating of aisled structures

一般に、aisled structures は、全て早い時期の架構法であると見なしてしまいがちだが、遺構を見てみると、(必ずしも全てが旧いわけではなく)これまで観てきた大半の事例は、ほとんどが15世紀になってからの建設であることが分っている。
たとえば、BORDENBANNISTER HALL(下図 fig75b 参照) 類似の ALLENS HILL FARMHOUSE(下図 fig77a 参照) には、Four-centred doorheads があるが、これに似た壁に埋め込まれた束柱を用いていて、同様のFour-centred doorheadsの出入口を有する EASTRYFAIRFIELD HOUSE は建設時期が遅いことが判明している。
   註 Four-centred doorheads :「四つの中心の円弧の集成で描くアーチ型」の頂部を持つ出入口。前回の中ほどに説明があります。


これらの事例は、通常は、crown-post を用いるか、collar-rafter を採るが、WALTHAMANVIL GREENThe COTTAGEfig77b )では、当初の crown-post 形式の屋根(下手側にその痕跡が認められる)が、それに続く部分は、gueen stutswind braces を用いず細身のclasped-purlin 形式の小屋組(煙で黒ずんでいる)に変えられている。この事例の建設年代は確定できないが、16世紀に入る直前又は直後の建設と思われる。
これらの事例のいくつかは、本格的なaisled 形式とは言い難いが、独立の上屋柱がなく、小屋(下屋柱~側柱間の)大梁の上に組まれている。fig77b、77c は、その例である。
   註 queen struts :桁行方向の補強のために、桁行方向の横材(母屋など)と束柱間に設ける斜材・方杖:筋交。
             参考図として fig61 を下に再掲。から母屋にかけて設けられている斜材queens struts
 
     wind braces : 屋根面で、登り梁・垂木相互を斜材で固める方法のようである。下図参照。
             wind braces は、図のように、queen struts 同様、角材と考えられる。
             日本にも小屋組を固めるくもすじかい雲筋交と呼ぶ方法があるが、それに類似か。
             ただし、くもすじかいは、束~束又は垂木下面に厚15㎜程度の薄板を添える簡易な方法で、通常は束柱相互をで固める。和小屋組参照。
             なお、日本では、本建築に斜材:筋交・筋違を使うことは少なく、専ら仮設的使用だった。語彙に見る日本の建物の歴史参照。 
     collar-rafterfig75a のように、rafter:垂木を頂部でA字型 collar :繋梁で結んで固める方法の呼称か。
     clasprd-purlin roof : 前掲のfig75b の頂部のように繋梁上にclasped : 固定した purlin :母屋垂木を留める方法のことか。

aisled structures は、総二階建ての建物にもある。1466年建設の MOLASH にある HARTS FARMHOUSE では、二階建ての cross wing の裏側の aisle :側廊:下屋部分に二階への階段が設けられている。
このようなつくりは、一見、側廊・下屋部分が、主屋の屋根を葺きおろして増築したように見えるが、そうではなく、EASTRYOLD SELTON HOUSE では、single-aisled の軸組(の壁)で暖炉付の二階建ての hallと、通路およびサービス用の部屋とが仕切られている。この形式と細部のつくりは、それが16世紀に入ってからの建物であることを示唆している。
これらが、裏側への増築ではなく、aisled construction であることは、地上階の部屋が前面から背面へ並んでいること、上屋を支える柱が壁に埋め込まれていて二階でしかそれと分らないこと、この二点に示されとぃる。
   註 このあたり、平面図がないので、詳細が分りません。
概して、遅い時期の建物は、規模、形状も小さくなってきて aisled constructionの建物に似てくる。その中で驚くほど規模の大きな上層階級の事例がある。BENENDENCAMPION HOUSE の現在の hall は、改築されてはいるが、fig78(下掲) のように、両側に側廊:下屋があり、2本の身廊:上屋の柱は、下手側の cross wingを兼ねている。

この建物には、前面の crown post で支えられた屋根の下の桁行2間にわたる chamber :居室の下階には、サービス用の部屋が2室ある。その後側に接して、窯場のある厨房がある。その各部のつくりは、1500年代の建設を思わせる。aisled hall そのものは旧いものだが、上屋柱上部の arcade plate:小屋組を承ける桁代りの壁 の位置を示す痕跡などから、現状は、既存の建物に手が加えられたものと考えられる。元の hall の形状を知る手掛かりは何もないが、建物の幅からは、それがかなりの大きさであることが分り、その付属棟の各部のつくりは、建物の用途が多様であったことを示している。ただ、もしもこの類の aisled hall が1500年前後に建てられ続けていたとするならば、他に事例が見付からないのは不可思議ではある。
遅い時期の aisled structure の事例がイングランド南西部の各地で見付かっている。
たとえば、15世紀後期~16世紀初期の建設と判定される事例が、ESSEXSUFFOLKSUSSEX で見付かった。その多くは single aisles であるが、SUFFOLK DEPDEN で見付かった最も遅い時期の事例には、double aisles とケント地域の事例によく見かけるのと同様の spere truss :間仕切小屋組があった。この種の事例は相対的に規模が小さく、時代の新しい規模の大きな事例に比べると、つくりがよいとは言い難く、おそらくある時期多数を占めた事例がたまたま遺ったものと考えた方がよいだろう。
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次回は Jettied construction および Wealden construction の節を紹介の予定です。
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筆者の読後感
日本では、斜材:brace 筋交・筋違は、いわば脇役ですが(この点については前掲語彙に見る日本の建物の歴史に概要を書いてあります)、彼の地では主役の一部なのです。それが、いわゆる洋小屋:トラス組を生み出す根源だったものと思われます。
彼我の「分かれ道」がいったいどこにあったのか、興味は尽きません。


続・「五年が過ぎ去る・・・・」

2016-03-14 11:26:59 | 近時雑感
今日の毎日新聞朝刊コラム「風知草」に、先の「大津地裁」の「原発稼働停止」という「判断」についての各新聞の論調の「差異」、その根源についてきわめて明快な分析が書かれていました。
特に、再稼働推進論者の《論理》:「ゼロリスクを求める暴挙である」「最高裁判例を逸脱している」に対する指摘は、納得のゆくものでした。以下に、web 版から転載させていただきます。




各地域の新聞から、信濃毎日新聞の12日付社説も web 版から転載させていただきます。
原発推進論の大手紙との最も大きな違いは、軸足が地についていることだと思います。つまり、上から目線でない。


五年が過ぎ去る・・・・

2016-03-11 11:37:29 | 近時雑感

福井県・高浜の原発再稼働に対して、隣県の滋賀県の方がたの提起した「稼働を差止めよ」との訴えに対して、大津地方裁判所の下した「稼働停止」の「判断」を知った時、何かしらホッとしたのを覚えています。それは、最近、最高裁が下した認知症の方の保護監督のありようについての「判断」を知った時も同じでした。
いずれも、一般の人びとの感覚に添った(つまり一般の人びとの「常識」に合う)判断であったからです。

五年前、《想定外の》自然災害により起きた《絶対安全な》原発の爆発事故に遭ったときに皆が感じたはずの「思い」「想い」は、歳月とともに忘れ去られようとしている、そんな感じを抱かざるを得ないような近頃の状況です。
たとえば、わが宰相は、原発の稼働について、最近、「資源に乏しいわが国が経済性、気候変動の問題に配慮をしつつ、エネルギー供給の安定性を確保するには、原子力は欠かすことができない」と語ったそうです。福島の過酷な状況・情況が、まったく分ってないとしか思えません。「安全性の確保が最優先で、国民の信頼回復が何よりも重要だ。」とも付言しているようですが、単なる「美辞麗句」に過ぎないことは明らかです。

あるところで、日本国憲法9条は、日本国憲法第13条あってはじめて保証されるのだ、という論があることを知りました。第13条は次の文言になっています。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする
「経済」の語源、「経世済民」は、つまるところ、この文言の言うところと同じです。つまり、宰相の(頭にあると思われる)「経済(性)」は、本来の「経済」とは別物なのです。

ここしばらくの新聞各紙の社説を読み比べてみました。
大手紙が一紙だけ、宰相と同じ「論」を述べていましたが、多くの社説は、先の「大津地裁判断」を是としていました。
その中で、明解にして明快に論じているのが東京新聞で、同紙は、五年前の社説も再掲していました。論旨は、この間まったくブレていない。以下に web 版から転載させていただきます。


昨日の毎日新聞夕刊に、歌手のクミコさんへのインタビューが載っていました。そこに次のように彼女の言葉が紹介されています。同感です。
・・・それにしても、とクミコさんは思う。私たち日本人の忘れっぽさのことを。
「だるま寺へ向かうため、京都駅に降り立ったとき、暗かったの。もちろん東京駅も薄暗かった。24時間こうこうとしていたコンビニも自動販売機も光を落とした。日本列島が暗かったじゃないですか。あの暗がりの中で、日本人は大きな不安を抱えながらも、これからの社会をどうしていくかについて、皆で真剣に考えたはずなのに。それが5年たって、どうですか。震災前とたいして変わってないですよね」


五年前の記事を読み返してみました。一月後に紹介させていただいたある教師の方からいただいたメールに、原発事故当時の状況が克明に記されていました。

追記 [15.30追加]
今日11日付の毎日新聞「記者の目」もご覧ください。


復刻・「筑波通信」 -1 : 『落』語考・・・・・「ことば」の重さ  (1981年4月)

2016-03-05 10:36:45 | 復刻・筑波通信


追記を末尾に追加しました[3月6日10.15]
変換ミスのご指摘あり、訂正しました(お終いのあたり、「重い意味」が「思い意味」になっていた!)[24日14.40]

「落」語考   (「筑波通信」1981年4月6日 刊 の 復刻)
                                                                                                  
今年(1984年3月)卒業していった学生の一人から、卒業論文にからんで、よく「自然発生的な集落」などと言うけれども「集落って何ですか」、「自然発生的ってどういうことですか」という半ば挑発的にして容易ならざる質問をもらって狼狽えたのは、あれはまだ寒い二月のころではなかったか。
いまは四月、筑波の野にも陽炎がたち、花のにおいも空気にひそみ、そしてその学生ももういない。
そのときの受け答えの内容はさておき、この「集落」の「」の字が、やたらと気になってきた。

集落、村落、部落、・・・この「」の字はいったい何か。

漢和辞典で調べると、「」の字には、「おちる」「おとす」「おちつく」・・「死ぬ」・・・という「落」の字に対する日常的な感覚からみて普通に分る意味に続いて、「はじめ」「完成」という意味があるのにいささか驚く(とは言え、我われは「落成」「落慶法要」といった言葉を、「落」の字をとりたてて気にもせず、それなりの「成句」として平気で使っている・・・)。
そしてその次に、「むら」「むらざと」の意という説明が出てくる。つまり、「落」の字一つに、既に「集落」の意味が込められていることになる。
これは、日常的感覚での「」の意味、そして我われの日常的な「しゅうらく」「そんらく」ということばに対するイメージからは、ちょっと思い及ばない。

集落」を辞書的に説明すれば、「いくつかの住居が集まって生活が展開している場所をいう。・・・集落は村落と都市に大別される。」(平凡社:大百科事典)
しかし、この説明ではあまりにも static 過ぎる。何か知らないが、人が(住居が)まったく偶然に天から降って湧いたかのおもむきがある。
それでは、この語に対する外国語はどうか。
英語、独語では、それぞれ settlementsiedlung になり、辞書によれば、いずれもその本義は、「ある土地への定住」を意味している。つまり、いわば「漂って」いた人びとが定住すること、定住した所なのであって、そこには「天から降って湧いた」という感じがない。人びとの「意志」が感じられる。
因みに setlement の語幹 settle の項をみていたら、「据える」「移住する」「落ちつかせる」「決定する」「片づける」という意味があり、私のひいたその辞書の末尾に、「日本語の『すむ』(住む、済む、澄む)に同様」という説明があって驚いた。
同様に、siedlung の動詞 siedeln は、sitzen 、setzen と同源であるとされ、(動いているものが)「すわる」あるいは「すわらせる」つまり「おちつかせる」という意味がある。
こうみてくると、先に「集落」の説明を static と感じたのは、その説明文のゆえであって、「集落」という語そのものには、もともとこれらの外国語と同様の意味があることに気づくのである。
つまり、「落」の字のもつ日常的な意味、「おちる」「おとす」「おちつく」といった意味が、きわめて重要な意味を担っているのに違いない。もともと dynamic な意味をもつ事象であるにもかかわらず、説明が static にしてしまっていたのだ。

このように、我われが何気なく使っていることばを次から次へと順に辿ってゆくことは、そういうことばをもった我われ人間の心が見えてきて、ふと我に返る場面が多い、言ってみれば収穫の多い作業なのだが、ここでは、単にことばの持つ隠れた意味に驚く以上に、もっと「まじめに」(単なる「教養」あるいは「物識り」的興味としてではなく)驚き考えねばならないことがあるように思う。
つまり今、我われは「住む」とか「住まう」とか「住まい」「住居」ということの(あるいは、ことばの)本来の重い意味を、あまり重く考えていない、あるいは、考えないで当然のことのように済ましてしまうようになってしまってはいないだろうか。

今我われは、特に都会風に住むのに慣れた我われは、ある場所に住むということを、まことに他愛なく考えてしまう。それどころかそういう都会風な考えかたが、それこそが《中央》文化の模範であるかの如く、《地方》へも流れてゆく。
その他愛なさとは、「人はどこにでも住める」、「《ある広さの地面さえあれば》住める」、と考えてしまう他愛なさである。先に見た集落siedlungsettlement ということばの本来の意味は、明らかにこの他愛なさに抵抗を示すはずである。
 
今我われは、再びこの重い意味を考えなければならない時期に来ているのではないか、と私は思う。
確かに、都会には各地から(中央を目指して)人びとが集まり定住するようになっているという点では、《現象的》には「集落」の字義のとおりに見える。
しかしそのとき、その《「定住」は、そもそも先に見た集落settlementsiedlung という語の意味では既にない。人びとは、「ある場所」に辿り着き、落ち着いたのではなく、いわば「金の生る木にたどり着く」、いや、ことばが悪ければ、「《文化》に辿り着く」のだ、すなわち、「都会の《文化》」「都会の《文化的》生活」に。
だから、《文化》さえあればよし、としてしまう。「住まい」で言えば、「近代的、合理的、機能的」な「住まい」であればよし、としてしまう。
いや、それでよし、と思うように仕向ける人たちと、それに安易に従ってしまう人たちがいるのだ。
「住まいの地面」「職場の地面」「公園の地面」「レジャーの地面」・・・、そういった近代的・合理的・機能的に用意された地面があれば、我われの生活が total に遂行し得ると、あまりにも安易に考えすぎてはいないだろうか
このように考えている限りにおいては、ある「土地」の必要はさらさらなく、「地面」がありさえすれば、それで済んでしまう
しかし、立ち止まって考えてみれば直ぐに分ることだが、この考えかたの根には、明らかに、人間(の生活)を理解するには、それをいくつかの要素に分離・分解すればよい、というとんでもない考えが潜んでいる。我われの生活というのは、そんなに他愛ないものなのだろうか。
今の建築や都市についての考えかたのほとんどは、こういう「都会風な」考えかたが基になっている。もはや、「土地」ではなく、いかにその地面の拡がりを「有効に(そこから上がる収益・利益がいかに高く、有効に)」使えるか、という視点で律しようとする。
よく考えてみると、いわゆる環境破壊というのは、この、ある土地に人が住むということの重い意味を見失ったことに発している、と断言して決して間違いでない。ゆえに、土地を地面としてしか見ない人たちが、その一方で自然保護、環境保全・・・を唱えたりするのは(つまり、視点を変えないのでは)、まったく悲劇的な漫画なのだ。

しかし、たとえはじめは「地面」に住み着いたとしても、あるいは「地面」に住み着いているのだという「慣習」に慣らされてしまっていても、人はふと、人が住むのは、「地面」ではなく「土地」であると気付くことがある。(先に「発行の辞」で触れた)東京・中野の教育委員準公選制実現の原動力となった人たちの運動も、この方がたが、この事実に気付き、そしてつい忘れそうになるのを忘れなかったからなのだ。
このように、「地面志向」が「特色」の都会にも、「土地」(の意味)に気付く人びとがいる一方で、いまや、本来地面ではなく「土地」に向い合わなければならなかったはずの農村にまで「地面志向」の考えかたが浸透しはじめているし、またそれを積極的に推進する人たち:専門家!?がいる。それがまた同時に「地方の時代」や「伝統的環境の保護」を説いたりするから、話がややこしくなるのである。
   この《現象》は、「地方」を「都会」「中央」の対立概念と見なすからである。
   因みに、研究社の英和辞典で local を引くと、そこに・・・首都も「一地方」なので local である。・・との注釈がある。
私はよく学生諸君に、文化財なるものを保存する、保護する(すればいい)というのはおかしい、古来人びとはいさぎよく壊し、建て替え、造り替えてきたではないか、どんどん建て替えよう、造り替えよう!
だいたい、《文化財》などと言い出したのは、それを壊してしまった後、それ以上のものを造れそうにない、と(情けなくも)思うようになってしまったからなんだ、と話すのだが、そうすると学生諸君は、まさか、という顔をして聞いている。
悪い冗談かもしれないが、半分以上本気である。
要は、人びとの為してきたことの重い意味を分る気もないままに(分ろうともせずに)、「伝統的環境の保護」だとか「地方の時代」とか、はたまた「人間的な都市」「豊かな農村」「調和ある開発」等々というその場限りのおためごかしは、お断わりしたいのだ。

ことばというのは、何の気なしに使い慣れてしまうと怖ろしい。使う人の考えかたまで、ことによると左右しかねないからだ。
最近ある方の書かれたエッセイに、台湾では国際「障害者」年のことを、国際「残障者」年と表記していることが紹介されていたが(その他、「」学校と言わず「啓明」学校という、などいくつか紹介されていた)、私はそこに重い意味の差、つまり、我われの「障害者」に対する対し方まで左右しかねない重い意味の差を、どうしても見てしまう。
はたして、私たちが日ごろ使っていることばは、その重い意味を担っているだろうか?
 

追記[3月6日 10.15]
関連記事があったのを思い出しました。「客観的」とは何かについての私見です。