明治初期の古写真と呼ばれるものを集めていると、日光を撮影したものを目にすることが多い。
神橋を写したものは定番で、多くは隣にある仮橋の上から神橋の全体像を撮影したものだ。
要するに現在の神橋の写真とほぼ同じアングルで撮られたものである(笑)

今回もそこから写真を撮っている外国人の姿を大勢見かけた。
あまりにイメージ通りの光景なので感動するのかもしれない(笑)
もっとも現在はライブカメラで1秒おきに更新される最新の姿を見ることが出来るのだが・・・

橋を渡ったところで道は突き当たり、左折すると街の中を通って清滝の方に進む。
明治初期の地図を見ると、当時のこの道はウラミロードと呼ばれていたらしい。
人気の高い観光スポットである裏見ノ滝へと続く山道と、途中交差しているからであろう・・と思っていたのだが、グーグルマップの最新の地図と明治時代の古い地図を見比べているうちにそうではないことに気付いた。

この辺りには山の奥へと続く細い道が何本かあり、このウラミロードも本来は山の方へ曲がり裏見ノ滝へと続くのが本道であったようだ。
古い地図上でさらに進むと、何と男体山の裏側を通り、湯元温泉にまで続いている。
しかし現在ではその道は途中で途切れてしまい、グーグルマップで最大に拡大しても確認できない。

イザベラ・バードが日光滞在中、湯元温泉までの小旅行を試みるが、その途中なぜか巨大な中禅寺湖に関する記述がまったくない。
(湯ノ湖に関するものはある)
不思議に思っていたのだが、もしこのコースを通って行ったとしたら、男体山の裏側を通り中禅寺湖の前は通らないので辻褄が合う。
文中彼女はこの険しい道に馬で来たことを後悔し、駕籠を使うべきだったと書いている。

一方神橋で左折してほどなく大谷川の方に降りていく細い道があるが、これは当時中善寺ロードと呼ばれていた道のようだ。
川のすぐ脇の絶壁のようになった場所を通る細い道で、現在は失われているようだが、当時のこの道の写真を何枚か持っている。
中善寺ロードはその後清滝、馬返を通り、現在の第一いろは坂(下りのいろは坂)を通って中禅寺湖へと続く。
つまり現在の120号線はこの二つの道をつなげたようなルートを通っていることになる。

古い地図と現在の地図を見比べると、長い時間をかけて何回も見直さなければ把握出来ないほど、多くの道が失われ様相が変わってしまっている。
日光の場合、恐らく自然の災害によるところが大きいのだろう。
一度古い道の痕跡に沿って歩いてみたいものだとも思うが、もちろんそんな体力は持ち合わせていなし、軟弱者の僕には到底不可能である。
それにクマが出るかもしれないし・・・(笑)

D3 + AF-S NIKKOR 14-24mm F2.8G ED
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