先週、「春風亭一之輔 古今亭文菊二人会」(かめありリリオホール)に足を運んだ。文菊「紙入れ」→一之輔「鰻の幇間」→一之輔「蝦蟇の油」→文菊「青菜」の進行で、革新的でエネルギッシュな一之輔、伝統に忠実で所作が柔らかい文菊の好対照の芸に時が経つのを忘れる。互いを揶揄する枕が客席の笑いを誘っていた。
ノーベル賞作家で母がウクライナ人のスベトラーナ・アレクシエービッチ著「戦争は女の顔をしていない」を原案にした映画を見た。「戦争と女の顔」(2019年、カンテミール・バラーゴフ監督)である。ロシア製作とくればウクライナ侵攻が重なるが、公開は3年前だ。舞台は独ソ戦で壮絶な市街戦が展開したレニングラードで、プーチンの出身地でもある。
日本公開後、2週間足らずなのでストーリーの紹介は最小限に、感想と背景を記したい。國分功一郎(哲学者)らが違和感を示していたが、ウイズコロナで<疫学的に人口を捉え、人間を一つの駒として見るような見方>が定着した。震災関連、戦争についての記述も同様で、死者の数や被害の規模が語られるばかりで、個々の生き様、死に様が埋もれてしまう。「戦争と女の顔」は2人の女性に照準を定め、絶望の果ての希望を描いている。
終戦後もレニングラード市民は、生きるために過酷な日々を送っていた。主人公はマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)とイーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)である。傷病軍人を収容する病院で働く看護師のイーヤは幼いパーシュカを育てていたが、PTSDの発作のために失ってしまう。イーヤを訪ねたのが、パーシュカを託した戦友で実の母親のマーシャである。
バラーゴフ監督は原作に強く感銘を覚えたという。本作にもスベトラーナ・アレクシエービッチの温かい視点と女性の生理が息づいている。マーシャとイーヤが入る共同浴場(恐らく病院内)で多くの女性とともに晒す裸身もひたすら美しい。深夜にナンパされ、初心なサーシャ(イーゴリ・シローコフ)と交わったマーシャは「体の中に何かがないと寂しい」と語る。
パーシュカの父親は戦死しており、マーシャは復讐のために戦った。戦地で受けた傷のために妊娠出来なくなったマーシャは欠落の思いに苛まれていた。。子供を持ちたいという願望は反転し、イーヤに刃を向ける。贖罪のために代わりに妊娠し、自分に預けるよう伝えるのだ。選んだ〝父〟はイワノヴィッチ院長(アンドレイ・ヴァイコフ)である。
サーシャはマーシャとイーヤの部屋に入り浸るようになり、結婚を前提に両親に会ってくれるようマーシャに頼む。訪れたサーシャの実家は、当時のソ連の状況はわからないが、驚くような豪邸だった。両親の趣味もブルジョアそのもので、党の高級幹部と想像するしかない。
アレクシエービッチの原作は、帰還した女性兵士500人の聞き取りを集めたものだ。男性兵士は英雄として迎えられたが、女性兵士の功績は認められなかった。ジェンダーギャップは厳然としており、サーシャの母に〝戦地妻〟と決めつけられたマーシャは否定しなかった。ラストでマーシャとイーヤに希望の光が射したように感じる。すべての人々を苦しめる戦争の意味を問う傑作だった。
敗戦の日が迫っている。戦闘と飢餓で斃れた兵士たち、棄民となった開拓団、日本軍によって殺されたアジアの人々、被爆者、沖縄戦の犠牲者……。死の数と同じだけ物語があるのに、その殆どは語られることなく葬られた。そして今、時計の針を逆戻りさせ、物語を塗り潰そうとする輩が闊歩している。
ノーベル賞作家で母がウクライナ人のスベトラーナ・アレクシエービッチ著「戦争は女の顔をしていない」を原案にした映画を見た。「戦争と女の顔」(2019年、カンテミール・バラーゴフ監督)である。ロシア製作とくればウクライナ侵攻が重なるが、公開は3年前だ。舞台は独ソ戦で壮絶な市街戦が展開したレニングラードで、プーチンの出身地でもある。
日本公開後、2週間足らずなのでストーリーの紹介は最小限に、感想と背景を記したい。國分功一郎(哲学者)らが違和感を示していたが、ウイズコロナで<疫学的に人口を捉え、人間を一つの駒として見るような見方>が定着した。震災関連、戦争についての記述も同様で、死者の数や被害の規模が語られるばかりで、個々の生き様、死に様が埋もれてしまう。「戦争と女の顔」は2人の女性に照準を定め、絶望の果ての希望を描いている。
終戦後もレニングラード市民は、生きるために過酷な日々を送っていた。主人公はマーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)とイーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)である。傷病軍人を収容する病院で働く看護師のイーヤは幼いパーシュカを育てていたが、PTSDの発作のために失ってしまう。イーヤを訪ねたのが、パーシュカを託した戦友で実の母親のマーシャである。
バラーゴフ監督は原作に強く感銘を覚えたという。本作にもスベトラーナ・アレクシエービッチの温かい視点と女性の生理が息づいている。マーシャとイーヤが入る共同浴場(恐らく病院内)で多くの女性とともに晒す裸身もひたすら美しい。深夜にナンパされ、初心なサーシャ(イーゴリ・シローコフ)と交わったマーシャは「体の中に何かがないと寂しい」と語る。
パーシュカの父親は戦死しており、マーシャは復讐のために戦った。戦地で受けた傷のために妊娠出来なくなったマーシャは欠落の思いに苛まれていた。。子供を持ちたいという願望は反転し、イーヤに刃を向ける。贖罪のために代わりに妊娠し、自分に預けるよう伝えるのだ。選んだ〝父〟はイワノヴィッチ院長(アンドレイ・ヴァイコフ)である。
サーシャはマーシャとイーヤの部屋に入り浸るようになり、結婚を前提に両親に会ってくれるようマーシャに頼む。訪れたサーシャの実家は、当時のソ連の状況はわからないが、驚くような豪邸だった。両親の趣味もブルジョアそのもので、党の高級幹部と想像するしかない。
アレクシエービッチの原作は、帰還した女性兵士500人の聞き取りを集めたものだ。男性兵士は英雄として迎えられたが、女性兵士の功績は認められなかった。ジェンダーギャップは厳然としており、サーシャの母に〝戦地妻〟と決めつけられたマーシャは否定しなかった。ラストでマーシャとイーヤに希望の光が射したように感じる。すべての人々を苦しめる戦争の意味を問う傑作だった。
敗戦の日が迫っている。戦闘と飢餓で斃れた兵士たち、棄民となった開拓団、日本軍によって殺されたアジアの人々、被爆者、沖縄戦の犠牲者……。死の数と同じだけ物語があるのに、その殆どは語られることなく葬られた。そして今、時計の針を逆戻りさせ、物語を塗り潰そうとする輩が闊歩している。