酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ブラック・チェンバー・ミュージック」~不器用に疾走する純愛

2022-08-10 08:55:55 | 読書
 ドラマ「空白を満たしなさい」(全5回)を見た。原作は平野啓一郎が2012年に発表した同名の小説である。徹生(柄本佑)は復生者のひとりとして、自殺の3年後に生き返った。企画した商品がヒットしたが、妻の千佳(鈴木杏)と1歳の璃久を残して会社のビルから飛び降りたのだ。誰かに突き落とされたのかもしれない……。徹生が〝犯人〟に想定したのが、人生を否定的に捉える警備員の佐伯(阿部サダヲ)だった。

 社会復帰の道筋は定まらないが、徹生は他の復生者との交流で生きる意味を見つけた。平野が作品で掲げるキーワードの<分人>を、原作ではゴッホの自画像を題材に説明していた。復生者が相次いで消滅する中、徹生は家族の絆を紡いでいく。ラストシーンには自分がいなくなった世界への希望に溢れていた。

 新しい世代の作家に注目するきっかけは平野の「決壊」で、星野智幸や中村文則らを次々に〝発見〟する。阿部和重の作品も、評論を含め当ブログで10作近く紹介してきた。先日、最新作「ブラック・チェンバー・ミュージック」(21年、毎日新聞出版)を読了する。

 評論集「幼少の帝国」からも明らかだが、阿部は日本社会の本質を理解した上で小説を書いている。もともと映画監督を目指していたこともあり、映像が浮かぶような丹念な筆致だ。俺は勝手にロバート・アルトマンを重ねている。人物造形も巧みで、キャラが立った個性が織り成すストーリーに引き寄せられる。「ブラック――」の主人公で、溝口健二を連想させる横口健二も冴えない人生を送っている。

 映画監督だった横口だが、大麻取締法違反で起訴され、デビュー作はお蔵入りになる。執行猶予期間中で40歳を前に結婚式の撮影で糊口をしのいでいる。そんな横口に旧知の組長、沢田龍介から仕事の依頼が飛び込んだ。映画雑誌を見つけるという内容で、沢田は北朝鮮から不法入国した若い女性を連れていた。横口と沢田は便宜上、彼女をハナコと呼ぶ。糸口はヒッチコック関連の評論の一部分だけだ。

 シンガポールで開催されたトランプと金正恩の会談が物語の基点だ。日本でも韓国と北朝鮮の在日大使館の諜報担当者が極秘にミーティングを重ねる。ともに女性で、チョコレート好きというサイドストーリーも微笑ましい。韓国側の韓二等書記官は後半で水際立った救世主になる。自称トランプの隠し子の怪しい動き、ヒッチコック論の書き手(金正日?)を巡る微妙な展開、沢田と対立組織との暗闘、映画関係者の蠢き、協力的な古書店女性経営者……。横口とハナコは運命に翻弄されつつ、東京、そして新潟を疾走する。ヤクザ、ヘイトスピーチ集団と三すくみになる浅草での大活劇がクライマックスだ。

 何が真実で、何が虚構か……。トランプやプーチンが主導したポスト・トゥルースの時代が前提になっている。伏線が張り巡らされた本作も、設定は大がかりだが、小さなフェイクが束ねられ、奔流になって横田とハナコを襲いかかる。回転軸になっているのは横口と沢田のコミカルな会話だ。

 だが、主音は<分断された世界に抗う男女の 怒濤のラブストーリー>の帯そのまま、横口とハナコの純愛だ。人生どん詰まりの横口、そして処刑の危険も顧みず帰国を目指すハナコに、ハッピーエンドはあり得ない。欲望を超越し、互いを思いやる痛切な思いに心を打たれた。ラストに示されるヒントは、渋谷の落書きだった。裏社会の冷酷な処刑人の音楽の趣味など、ユーモアもちりばめられ、480㌻2段組みの長編も一気に読み切った。

 代表作「シンセミア」について、<聖と俗、寓話とご都合主義の境界から神話の領域へと飛翔している>と評した。「ブラック――」にもアンビバレンツに引き裂かれそうになり、そよぎながら重心を保つ阿部の本領が発揮されている。エンターテインメントという点では伊坂幸太郎との合作「キャプテンサンダーボルト」に匹敵する。暑気払いに恰好の一冊だった。
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