酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「猿の見る夢」~桐野夏生が抉るアラカン男の真実

2020-08-06 21:53:26 | 読書
 別稿(7月17日)のタイトルは<レバノンで、コロナ禍の地獄に射す光を見た>だった。そのレバノンの首都ベイルートで二重爆発事故が起きる。時事通信の見出しは<まるでこの世の終わり>で、「現場は核爆発後の終末世界の様相だった」との記事に言葉を失った。微かでも光が射す日が来ることを願っている。

 コロナ禍を巡って、哲学を滲ませる者、強権を振りかざす者とリーダー像は様々だ。自らの疑惑にもコロナ対策にも腰が引けて逃げ回る安倍首相の異様な姿に、40年前、大学の教室で署名を集めていた時の記憶が蘇った。

 〝今回のテーマは軟らかい(環境問題)なので大丈夫〟と高を括っていたが、一筆も集まらない。「趣旨には賛同するけど、どこかで洩れて署名が企業に渡ったら就職出来ない>……、言い換えれば〝空気を読んで自分を殺し、大樹の陰に身を潜める〟という級友の言葉に、この国に未来はないと確信した。

 桐野夏生の「猿の見る夢」(2016年、講談社文庫)を読了した。ページを繰る手が止まらないほどのエンターテインメントだから、あれこれ説明する必要ない。脱線しながら感想を記すことにする。主人公の薄井は59歳という設定で、10月に64歳になる俺と同い年である。

 薄井は銀行から女性アパレルメーカー「OLIVE」に出向する。創業者の織場会長の懐に入り込み、取締役に取り立てられた。織場は薄井に、折り合いの悪い義理の息子、福原社長のセクハラ問題を処理するよう命じる。織場は高齢で持病を抱えているから、薄井は〝会長派〟の旗幟を鮮明にすることを避けている。

 薄井は私生活でも宙ぶらりんで、愛人の美優樹とこの10年、逢瀬を重ねている。さらに、会長秘書の朝川にも心がそよいでいる。桐野は薄井の背後に同世代の男たち――安倍首相やその周辺を含む――を重ねている。共通するのは拠って立つ基盤がなく、空気に振り回される脆弱さ、覚悟のなさだ。

 桐野は薄井に冷淡だ。アパレルメーカーの取締役なら、「世界の流れ」とか言って美優樹の前で格好をつけてもいい。環境問題を軸に今後の方針を考慮しないような会社に未来はないが、そんな発想の欠片も薄井にはない。人間としての規範とも無縁で、周りを窺いながら流されている。

 薄井と俺は一見、真逆だ。金と地位だけでなく家庭に愛人まで持つ薄井と比べ、俺は林子平風にいえば四無斎だ。でも、煩悩、我執、妄想の塊という共通点がある。薄井が持ち合わせぬ思想信条が俺にはあると言いたいところだが、大したもんじゃない。

 星野智幸は「クエルボ」(「「焰」収録)で、主人公の男が元同僚に頼まれた秘密保護法反対の署名を拒否する場面を描いていた。「会社の不条理を看過して沈黙してきたおまえが正義を振りかざすのはおかしい」というのが主人公の本音だが、俺自身を振り返っても、勤め人時代はおとなしかった。デモや集会に参加したのも年に最大2、3回だったから、思想信条を捨てていたのだ。

前半のテーマはセクハラだ。薄井も、そして俺も、女性の服装や髪形を褒めるが、それもセクハラだ。<いつもあなたのことをチェックしてますよ>が無言の圧力になるからである。俺など殆どの女性の眼中にないのだから、唐突に褒めると不気味に思われるだけだ。

 空気を読むのは得意と思っているのは本人だけで、会社、美優樹との関係、家族内のぎくしゃく、亡くなった母の遺産を巡る妹夫婦との確執と、薄井に破綻の兆しが生じてくる。朝川の動きは不穏だし、巨大な黒い影が忍び寄ってくる。

 ブログで紹介した桐野の「柔らかな頬」、「グロテスク」、「ナニカアル」、「バラカ」、そしてブログを開設以前に読んだ「OUT」、「魂萌え!」にはモンスターの存在が見え隠れする。攻撃的であったり、悪魔的であったりするとは限らない。女性の心で目覚めた〝何か〟によって<節度という軌道>から外れ、世界と向き合うパターンだ。本作にもモンスターと思しき存在が登場する。占い師の長峰だ。

 長峰は高齢の女性で、夢で見た光景を伝える。全幅の信頼を寄せた妻史代は薄井家に招き入れた。次男まで籠絡する様子に薄井は苛立つが、奇妙なほど長峰のお告げは当たっており、美優樹まで手の内に入れてしまった。謝礼を拒絶した薄井を待ち受けていたのは想定外の事態だった。

 薄井は確かに猿だが、俺もその一種だ。ちなみに俺の干支は申である。対極に位置する薄井に妙な親近感を覚えてしまった。
コメント
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