酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

映画の中のドストエフスキー

2007-12-28 01:30:16 | 映画、ドラマ
 秋以降、「マシニスト」、「いつか読書する日」、「マッチポイント」について当ブログに記した。3作に共通する小道具がドストエフスキーだ。

 1年間不眠の「マシニスト」のトレバー(クリスチャン・ベイル)は、「白痴」を読んでまどろんでいた。「いつか読書する日」の美奈子(田中裕子)は、「カラマーゾフの兄弟」のページを繰りつつ眠りに就く。 <ドストエフスキーは睡眠薬代わり>という世間の常識に基づく設定といえるだろう。登場人物に複数の呼称があり、間を置くと「この人、誰だっけ」と混乱してしまう。ドストエフスキーは一気読みが可能な学生向きの作家なのか。

 「マッチポイント」でクリス(ジョナサン・リース・マイヤース)は、「罪と罰」をギブアップする。解説書の内容を持論の如く話し、「君のドストエフスキー論は独特だね」と義父に褒められていた。ドストエフスキーは英社交界でも教養を測る物差しのようだが、俺の学生時代(30年前)はその傾向が顕著だった。

 ゲバラが革命のシンボルになったのはこの10年で、当時はロシア革命を成し遂げたレーニンとトロツキーに憧憬を抱く者が多かった。社会主義サークルに参加して死刑判決を受けた(後に恩赦)ドストエフスキーの作品には、付加価値が与えられていたのである。

 先輩に薦められて読んでみると、意外なほどエンターテインメントだった。アナキストの内ゲバを描いた「悪霊」にしても、政治を否定的に捉える姿勢が窺える。革命の先駆者とみるか、それとも魂の救済の追求者とみるか……。ドストエフスキーは複層的なプリズムで、読む側の立ち位置によって、受容する光彩が異なってくるのだろう。

 「それから」と「門」を取り上げた際、漱石を<恋愛小説家>と評した。漱石はある意味、俺のような凡人と同レベルで煩悶する天才だが、ドストエフスキーの主人公は超然としており、恋愛に一定のパターンがある。

 ラスコーリニコフとソーニャ(「罪と罰」)、ムイシュキン公爵とナスターシャ(「白痴」)、スタヴローギンとマリア(「悪霊」)は、それぞれイエスとマグダラのマリアの関係に近似的だ。「白痴」でムイシュキン公爵がロシア正教を称揚するくだりがあるが、ドストエフスキーは19世紀のロシアに、新たな福音書を提示せんと試みたのか。

 <日本のドストエフスキー>と称された高橋和巳は、同世代で同郷(大阪)の開高健とともに<アンチフェミニズム>の色が濃い。両者に恋愛を描いた作品はあっただろうか。

 ドストエフスキー原作と銘打たれた映画で見たのは、「白痴」(黒澤明)、「白夜」(ヴィスコンティ)、「狂気の愛」(ズラウスキ)「悪霊」(ワイダ)あたりか。いずれも巨匠の作品だが、お薦めというわけではない。観念と思弁が滔々と語られるドストエフスキーの小説は、映画化のハードルが高いのかもしれない。


コメント
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