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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「オッペンハイマー」を独自の切り口で綴る

2024-04-05 22:07:28 | 映画、ドラマ
 新宿ピカデリーで先日、「オッペンハイマー」(2023年、クリストファー・ノーラン監督)を見た。アカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞を含め計7部門でオスカーを獲得した同作だが、意外なほど観客は少なく、600弱のキャパで100人ほどだったろうか。ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の懊悩に迫る3時間の長尺だが、緊張感が途絶えることのない傑作だった。

 聴聞会と公聴会のシーンはモノクロで撮影するなど、ノーランの作意が伝わってきた。<科学者の宿命>、<政治と科学>といった切り口で識者が語り尽くしている感はあるが、<量子力学>と<スペイン市民戦争>を切り口に加えて綴りたい。

 起点は1920年代後半だ。ユダヤ系移民のオッペンハイマーはハーバード大卒業後、英ケンブリッジ大に留学する。実験が苦手だったオッペンハイマーは量子力学の研究者として頭角を現した。1990年代、量子力学と東洋哲学をリンクさせる書物がブームになり、何冊か目を通した。本作でもインドの聖典「バガバッド・ギー ター」の中の「我は死なり、世界の破壊者なり」にオッペンハイマーが衝撃を受けた様子が紹介されていた。

 ロスアラモス研究所のトップとして原爆を開発し、〝原爆の父〟と評されるオッペンハイマーだが、冷徹な科学者ではなく、繊細で壊れやすい人であったことが、幾つものエピソードで示される。詩を愛し、数カ国語に通じていたオッペンハイマーは、戦争終結後にトルーマン大統領と面会し、「私の手は血塗られている」と語る。「あの泣き虫を二度と通すな」と怒りをあらわにしたトルーマンの対応は、権力中枢の政治家たちの思いを代弁していた。

 オッペンハイマーは、天から火を盗み人間に与えたギリシャ神話のプロメテウスにたとえられていた。広島と長崎の実情を知って苦悩するが、壊滅的な被害をもたらす水爆製造にはストップをかけていた。意見が対立したストローズ原子力委員会委員長(ロバート・ダウニー・Jr.)は策略を巡らして赤狩りの嵐が吹き荒れる1954年、オッペンハイマーを非公開の聴聞会に呼ぶ。ソ連のスパイ容疑だ。

 1930年代、世界の耳目を集めたのはスペイン市民戦争だった。人民政府を支持するインテリ層は義勇兵として参戦し、フランコ反乱軍と戦う。その内実に迫ったのがポウム(トロキスト政党)の国際旅団に加わったジョージ・オーウェルによる「カタロニア讃歌」だ。オッペンハイマーの友人にはアメリカ共産党の党員が多くいた。最初の妻ジーン(フローレンス・ピュー)と2番目の妻キティ(エミリー・ブラント)はともに共産党員で、キティの前夫はスペインで戦死している。

 オッペンハイマーもシンパシーを抱いた時期はあったが、共産党には加わらなかった。共産主義を信奉している者だけでなく、社会主義者、リベラル、良心的な民主主義者が集っていたが、オッペンハイマーはリベラルで距離を置いていたように感じる。スペインで教条的に振る舞い、人民戦線を裏切った共産党に絶望したオーウェルに近い心情を抱いていたのではないか。それでも、FBIは盗聴するなどオッペンハイマーを徹底的にチェックしていた。離婚後も愛は変わらなかったジーンの謀殺を仄めかすエピソードも収められている。

 赤狩りが終息した1959年、ストローズの閣僚就任の賛否を問う公聴会が開催される。承認は決定的と思われた時、ヒル博士(ラミ・マレック)の証言が波紋を広げる。水爆開発を巡るオッペンハイマーとストローズの対立、盗聴、聴聞会開催の経緯が詳らかにされ、ストローズの閣僚就任は3人の議員によって否決された。そのうちの一人がジョン・F・ケネディである。

 話は逸れるが、赤狩りは決して終わったわけではない。黒人差別、ケネディ兄弟とキング牧師の暗殺は赤狩りの負の遺産を引き継いでいるし、トランプを支持する宗教右派ら保守層は延長線上にある。当時、<非米>というリトマス紙で左派、リベラルを一括りにしたが、二分法で物事を両断する思考が現在も蔓延している。例えば、ガザでのジェノサイドを批判する良識派を<反ユダヤ主義>にカテゴライズする由々しき傾向だ。

 アインシュタイン(トム・コンティ)とオッペンハイマーが話すシーンも記憶に残る。理論的に核分裂の可能性を示したアインシュタイン、そして現実にしたオッペンハイマー……。その時、オッペンハイマーの目にはプロメテウスの業火が燃えさかっていた。

 3時間では描き切れない稠密な物語に魅せられた。立ち位置は異なるが、オッペンハイマーとの友情を守り通したグローヴス陸軍准将役のマット・デイモンなど豪華なキャスティングにも圧倒される。被爆した日本は〝アンサー映画〟を製作するべきではないか。
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「COUNT ME IN 魂のリズム」~ビートに心を刻まれた

2024-03-23 22:38:55 | 映画、ドラマ
 養護施設で暮らす母に面会するため1泊2日で京都に帰った。1927年生まれの母は97歳。すっかり萎んでしまったが、担当者たちの手厚い介護で無事に過ごしている。〝放蕩息子〟は母、亡き父と妹によって生き長らえていることをあらためて実感出来た。いつも通り住職である従兄宅に泊まったが、雪交じりの気候に、「こんなに寒い彼岸は記憶にない」と話していた。

 新宿シネマカリテで先日、「COUNT ME IN 魂のリズム」(2021年、マーク・ロー監督)を見た。21人のドラマーたちが語る熱い思いが胸に刻まれる秀逸なドキュメンタリーだ。併せてWOWOWで放映された「セッション」(2014年、デイミアン・チャゼル監督)の感想を簡単に。バディ・リッチを目指してシェイファー音楽院で学ぶニーマンは、学院最高の指導者であるトレッチャー率いるスタジオバンドのドラマーになる。

 〝無能な奴はロックをやれ〟なんて貼り紙があるように、ジャズ界はロックを一段下に見ているのだろう。トレッチャーのしごきに耐えて主奏者になったニーマンだが、不幸な事故もあり、学院から去ることになる。行き過ぎた指導で職を辞したトレッチャーと再会してバンドに呼ばれるが、それは策略だった。ラストで自分を無視してバンドを主導したニーマンを罵倒するトレッチャーだが、不思議な表情を浮かべる。父子の相克と重なる人間ドラマだった。

 なぜ「セッション」を紹介したかといえば、「魂のリズム」と通じる部分があるからだ。作品中で紹介されているドラマーの多くは、上記のバディ・リッチやアート・ブレイキーらに影響を受けている。ジャズのテクニックをロックに導入したのはジンジャー・ベイカーだった。ジャズを学んだリンゴ・スターとチャーリー・ワッツはビートルズとストーンズで地味なメンバーだったが、証言者はバンドを支えていたのは彼らだったと語る。

 2度にわたって紹介されていたのがザ・フーのキース・ムーンだ。天衣無縫なドラミングで絶大な影響を誇ったが、キースは楽曲と歌詞に注意を払い、バンドのアンサンブルを際立たせる役割を担っていたとジム・ケルトナーは分析していた。映画「BLUE GIANT」で玉田がジャズドラム教室に通っている時、才能豊かな少女が「キース・ムーンになりたい」と話していた。ジャンルは違うが、テクニックを超越するキースは憧れのドラマーなのだろう。

 トッパー・ヒードンはキースに憧れてクラッシュのメンバーになったが、「ドラマーが注目を浴びるというのは勘違いだった」と語っていた。フロントマンのジョー・ストラマーは「ヒードンはバンドの生命線だった。ドラマーが良くないグループは失敗してシーンから消える」と証言している。ドラマーの価値を再認識させられる言葉だった。

 多くのドラマーが憧れたツェッペリンのジョン・ボーナム(ボンゾ)はパワーとテクニックを兼ね備えていたが、ボンゾについては逸話がある。1972年の2度目の来日時、級友たち数人は大阪フェスティバルホール、京都会館でのライブに足を運んだ。大阪でのライブは最高だったが、翌日の京都は時間も短く出来も最悪だった。ボンゾは京都のホテルで女性従業員を襲い、何とか示談で収めたが、演奏どころではなかったという。あくまでも噂で、真相はわからないが……。

 証言者たちの多くが子供の頃からドラマーを夢見ていたことは、ホームムービーの映像からもわかる。鍋をナイフで叩いているシーンが微笑ましい。英米ではロックが文化として定着していることが窺える。聴く側はポップとかヘビメタとかニューウェーブとかジャンル分けしているが、ラストのセッションでも明らかなように、ドラマーたちが親しく交流している姿も感動的だった。俺など〝ロックファンOB〟だが、音楽を楽しむ意味を教えられた映画だった。
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「落下の解剖学」~真実と事実の狭間を彷徨う法廷劇

2024-03-15 22:28:55 | 映画、ドラマ
 将棋ファンは誰が藤井聡太八冠を倒すのかに関心を持っている。竜王戦、棋王戦の挑戦者になり、叡王戦の挑戦者決定トーナメント決勝で永瀬拓矢九段と戦う同学年(21歳)の伊藤匠七段、C級1組への昇級を決めた18歳の藤本渚五段に注目が集まるのは当然だが、〝地獄の奨励会三段リーグ〟を14勝4敗で突破して新四段になったのは、ともに年齢制限が迫った25歳の山川泰煕、24歳の高橋佑二郎の2人である。

 山川は「モノクロームの日々だった」と振り返り、高橋は昇段後に溢れる涙を拭っていた。遅咲きといえる両者だが、山川を上記の永瀬が、高橋を佐々木勇気八段が研究会に誘って後押ししていた。勝者と敗者が明暗をくっきり分ける将棋界の常だが、だからこそ先輩が苦しんでいる後輩に手を差し伸べる〝美風〟が残っていることを感じさせるエピソードである。

 カンヌ映画祭でパルムドールに輝き、アカデミー賞でも脚本賞を受賞した「落下の解剖学」(2023年、ジュスティーヌ・トリエ監督)を新宿で見た。ある男の転落死を巡るサスペンスで、法廷を舞台にしたフランス映画といえば「サントメール ある被告」が記憶に新しい。本作との共通点は、<事実と真実の境界>が次第に曖昧になることだ。

 雪山の山荘に、改築に取り組む教員のサミュエル(サミュエル・タイス)、流行作家のサンドラ(サンドラ・ヒュラー)、視覚障害を抱えるダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)の家族3人と犬のスヌープが暮らしている。ちなみに山荘がある場所はサミュエルの生まれ故郷でもある。階段を落ちてくるボールをスヌープが追いかけたり、散歩に出たダニエルが投げ捨てた枝をスヌープが拾ったりと、〝落下〟のイメージが犬目線で挿入されていた。ダニエルと山荘に戻ったスヌープが、雪道に横たわるサミュエルの転落死体を発見する。

 事故か、自殺か、殺人か……。これが本作のキャッチフレーズだが、後半に進むにつれて法廷がメーンになると、〝家族の解剖学〟の様相を呈していく。冒頭で女子学生がサンドラのインタビューに訪れていたが、最上階で作業するサミュエルが爆音で50セントのインスツルメント盤を流していた。歌詞は女性蔑視的表現に溢れている。サンドラがバイセクシュアルであることが明らかになり、検事(アントワーヌ・レナルツ)は<サミュエルは妻が女子大生を誘惑する邪魔をしたのではないか>と推論を提示する。

 殺人罪で起訴されたサンドラの弁護を旧知のヴァンサン(スワン・アルロー)が買って出る。ヴァンサンは若い頃に一目惚れしたが、サンドラは出会いの時を覚えていないと語る。縮まりそうで縮まらない両者の距離を象徴するのは、サンドラがヴァンサンに「動物に似ていない人は信じない」と話すシーンだ。作家としての感覚が窺える言葉であり、犬のスヌープがストーリーで大きな役割を果たしていることを暗示していた。

 本作の軸になっているのは、サミュエルとサンドラの夫婦関係だ。ドイツ人のサンドラとフランス人のサミュエルは英語で会話する。サンドラは作家として成功し、サミュエルは挫折した。さらに、ダニエルが事故に遭って視覚障害を抱えたのも、自分がヘルパーに運転を頼んだからという悔いがある。証拠として提出された事件前日の口論を録音したテープにも夫婦の深い溝が刻まれているが、サンドラがサミュエルを殺したという確証はない。

 冷徹に事実を見据えるべき検事が、自分なりの〝真実〟にからめとられ、サンドラの小説に言及し始める。弁護団に「小説と本人を重ねるなら、スティーヴン・キングは連続殺人犯だ」と反論され、引き下がる。<真実は一つではなく、個人の数だけ存在する>という陥穽に取り込まれたのだ。

 ハイライトといえば、最後にダニエルが証言するシーンだ。父母の闇を知らされたダニエルだが1年間で成長し、自らの言葉で〝真実〟を語る。体調を崩したスヌープを連れて病院に向かう車中、サミュエルは自らとスヌープを重ねるようにして息子に人生を説く。スヌープはダニエルの盲導犬と感じていたが、サミュエルの〝化身〟であったことに気付く。

 ラストでは帰宅してソファに寝そべるサンドラを癒やすようにスヌープが横たわる。本作の主役はスヌープだったのか……。もう一度見たら、別の構図が浮き上がってくるかもしれない。
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「梟」~闇を一閃する眼差しの力

2024-03-07 20:49:10 | 映画、ドラマ
 スーパーチューズデーを経て、バイデンとトランプの再対決が確実になったが、不確定要素もある。バイデンの高齢批判が抑え切れなくなった時、民主党はミシェル・オバマ氏(元大統領夫人)を担ぐとの臆測が流れている。一方のトランプだが、予備選撤退を表明したヘイリー候補に投票した何%かが本選でバイデンに投票する可能性が指摘されている。そんな折、トランプはイスラエル支持を明らかにした。パレスチナを支持する若年層は従来通り民主党に一票を投じるのだろうか。

 目に見えないところでも大統領選を巡って暗闘が繰り広げられているはずだが、父子の確執を背景にした韓国映画を新宿武蔵野館で見た。映画賞25冠に輝いた「梟-フクロウ」(2022年)で、アン・テジンにとって初監督作になる。テーマになっていたのは1645年に起きた謎の事件だった。冒頭にテロップで流れる「仁祖実録」には以下のように記されている。

 <世子は帰国後間もなく病にかかり、命を落とした。全身は黒く変色し、目や耳、鼻、口から血を流した。彼の顔は黒い布で半分だけ覆われており、側近たちは変色の原因を特定できなかったが、薬物中毒によって亡くなったかのように見えた>

 李氏朝鮮国王の仁祖(ユ・ヘンジ)は明に忠誠を誓ってきたが、台頭してきた清に屈辱を味わわされていた。冊封国扱いされ、世子(世継ぎ)のソヒョン(キム・ソンチョル)は囚われの身になる。世子は西洋文化を取り入れた清の影響を受け、開明的な王になることは確実に思われた。父子だけでなく、宮廷内には明清両派の策謀が渦巻いている。本作は史実(ファクト)と創作(フィクション)が交錯する〝ファクション〟を志向する実験といえる。

 世子帰国が迫った時、病弱の弟の治療費を捻出しようとしていた盲目の鍼灸医ギョンス(リュ・ジョンヨル)は御医ヒョンイク(チェ・ムソン)に認められ、宮廷の内医院に引き立てられる。ギョンスはヒョンイクとともに王、世子、王の側室の治療に当たる。両者の間には〝疑似父子〟の空気が漂うが、ヒョンイクは陰謀に加担していた。父(仁祖&ヒョンイク)と子(ソヒョン&ギョンス)の二重の相克の物語と読み解くことも出来るだろう。

 タイトルの「梟」はソヒョンが昼盲症であることを暗示している。ソヒョンは日中、盲目状態だが、闇の中ではぼんやり見える。本作では撮影、照明の担当者が技術の粋を尽くし、ギョンスと観客が視界を共有出来るよう工夫が凝らされていた。ギョンスの瞳に刺さるように鍼が向けられているポスターが衝撃的で、誰が鍼を持っていたかは記さないが、ホラー、サスペンスの要素が濃いことを端的に示している。ギョンス役のリュ・ジョンヨルの演技には感嘆するしかない。見えていないのに感じ、察知していたことを表現するなんて並大抵では出来ない。

 領相(チョ・ソンハ)の判断により、事態は収拾した。数年後、ギョンスは再度、宮廷に現れ、物語を決着に導く。名優たちのコラボレーションと韓国映画らしいソフトランディングが秀逸なエンターテインメントを支えていた。

 来週11日(日本時間)にはアカデミー賞が発表される。「PERFECT DAYS」(2023年、ヴィム・ヴェンダース監督)が国際長編映画賞を受賞することを願っている。
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音楽は自由と解放を希求する~「BLUE GIANT」&ボブ・マーリー

2024-02-27 21:35:37 | 映画、ドラマ
 老いて感性が鈍った俺は、ロックファンを引退して久しい。ライブに足を運ぶことはなくなったが、部屋でCDを流していることが多く、ロックに限らず音楽を読書の供として用いている。今回は魂を揺さぶられた音楽映画を2本紹介する。まずはWOWOWで放映された「BLUE GIANT」(2023年、立川譲監督)から。

 原作は石塚真一による漫画で上原ひろみ(ジャズピアニスト)が音楽を担当したアニメーションだ。トップミュージシャンがサウンドを担当し、演奏シーンをリアルに再現するため3DCGを多用している。主人公は〝世界一のジャズプレーヤー〟を目指す大(声=山田裕貴)で独学でテナーサックスを吹いている。凄腕のピアニストである雪祈(声=間宮祥太朗)、同郷の友人でドラム初心者の玉田(岡山天音)とともにJASSを結成した。18歳の若いトリオである。

 ジャズ界の現状はわからないが、<組んだ者を踏み台にしていくのがジャズ>という雪祈の言葉には説得力を感じた。不慮の事故で右手が利かなくなった雪祈、プロ志向がなかった玉田はJASSを最後に活動を終え、大は海外に旅立つ。青春映画の傑作で、雪祈の慟哭に感応し、ラストで涙腺が決壊していた。

 大は体を折るようにして音を吐き出す。自分自身を解放し、限りない自由を手に入れるためだ。かつてジョン・レノンは「インテリっぽい音楽は好きじゃない。クラシックやモダンジャズが嫌いな理由も同じ。ああいう音楽を取り巻く連中が嫌いなんだ」と語っていた。あれから半世紀……。ロックは今、解放と自由を表現する手段になり得ているのだろうか。

 解放と自由を志向する音楽映画を新宿シネマカリテで見た。「ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ」(1980年、ステファン・ポール監督/ジャマイカ・西ドイツ合作)である。1979年7月、マーリーの祖国における最後のパフォーマンスになった第2回レゲエ・サンスプラッシュでのライブが収録されている。同じステージに立ったバーニング・スピア、サード・ワールド、ピーター・トッシュのパフォーマンスもたっぷり収録され、当時のジャマイカの人々の様子も映し出されていた。

 マーリーのアルバムはライブを含め数枚購入したが、CD化されたものは持っていない。上記のアーティストやジミー・クリフも同様で、レゲエファンではない俺が作品中のパフォーマンスについて論じても説得力はないが、それでも俺にはマーリーのステージが突出しているように感じた。取ってつけたみたいと思われるかもしれないが、理由を記したい。

 まず、歌詞がゆったりしている。非英語圏の人が聴いても口ずさめるメロディーのリフレインは、カラオケで歌えるような感じで胸に響いてくる。鍛えられたフィジカルで曲を表現するマーリーに突き動かされ、ラストでは多くの聴衆がステージで踊っていた。何より効果的だったのはコーラスとダンスを担当する3人の女性たちだ。ラスタファリのシンボルカラーを纏った彼女たちの明るさがステージを支えているように感じた。

 マーリーはジャマイカの現実を熱く語る。多くの国民は格差と貧困に喘いでおり、レゲエとはスラムやゲットーから生まれた反抗の音楽なのだ。レゲエの根底にあるのはジャマイカの労働者や農民の間に発生したラスタファリ運動だ。エチオピア最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世をシンボルに掲げるアフリカ回帰運動で、菜食主義、ドレッドヘア、ガンジャ(麻薬)常用を生活の基礎においている。最下層からの叫びと宗教的な色彩が融合したのがレゲエだといえる。

 スカパーで放映されたチバユウスケの追悼番組(3時間)を見た。ミッシェル・ガン・エレファント、ROSSO、バースディで残したライブ映像を編集した内容だったが、チバもまた解放と自由を希求した希有なロッカーであったことを再認識できた。
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「哀れなるものたち」~人造人間は自由を希求する

2024-02-19 22:24:02 | 映画、ドラマ
 週末は新宿駅南口で行われた<ウクライナ債務を帳消しに~民衆のための支援を>スタンディングに参加した。日本だけでなく世界で現在行われているのは貸し付けというべき財政支援だ。IMFや世銀は医療、福祉、教育といった公共サービス削減を条件にした融資を推進しようとしている。そのような動きに抗議したのが今回の行動だ。莫大な資源を背景にロシアの攻勢は強まっており、反プーチン派のナワリヌイ氏が刑務所内で亡くなった(恐らく暗殺)。日本人は自由、民主主義、平和の意味を考える時機に来ている。

 新宿ピカデリーで「哀れなるものたち」(2023年、ヨルゴス・ランティモス監督/英米愛合作)を見た。原作はアラスター・グレイの同名小説で、舞台はヴィクトリア朝時代のロンドンだ。ベネチア国際映画祭で金獅子賞、ゴールデングローブ賞でコメディー・ミュージカル部門作品賞に輝いた同作は、「オッペンハイマー」とともにオスカーの有力候補だ。

 「哀れなるものたち」は「フランケンシュタイン」を彷彿させる作品で、主人公のベラ(エマ・ストーン)は人造人間だ。本名はヴィクトリアだったが、支配欲の強い夫アルフィー(クリストファー・アボット)から逃れ切れず、胎児を宿したまま投身自殺する。その新鮮な遺体を目の当たりにした外科医ゴッド(ウィレム・デフォー)は〝マッドサイエンティスト〟としての欲望を刺激され、胎児の脳をヴィクトリアに移植し、ベラと名付けた。ゴッド自身も父に肉体を改造された人造人間だった。

 ゴッドは教え子マックス(ラミー・ユセフ)に、ベラの言動を邸内で記録するよう依頼する。見た目は30代だが頭脳と心は幼児のベラは、歩き方もおかしいし、イライラしたら皿を割るなど手に負えない。少しずつ単語を覚えるなど大人に近づくベラに、マックスは恋心を抱くようになる。ゴッドの勧めもあり婚約が決まったが、ベラは性への欲求を隠し切れなくなった。そこに現れたプレーボーイの法律家ダンカン(マーク・ラファロ)は、ベラを連れて旅立った。

 前半はモノクロで、ストーリーが進むにつれカラーが中心になる。成長によって知性と感性がベラの世界を豊饒にしていくことを映像で示しているのだろう。リスボン、パリ、そして船から見える光景の美しさとベラの姿態がマッチしていた。衣装も素晴らしいが、R18であるゆえん、セックスシーンがふんだんに織り交ぜられている。船上でのダンスシーンが印象的だった。

 本作に重なったのは「悪い子バビー」だった。ベラはゴッドに軟禁されていたが、母に35年間監禁されていたバビーは世界に触れるや、優しさや真理を吸収していく。ベラもまた、グローバルな格差と貧困の現実、哲学を学び、自由に価値を見いだすようになる。一方のダンカンは、前夫アルフィーのように支配欲と嫉妬に取り憑かれて破滅する。

 生計を立てるためパリの娼館で働くことになったベラは女店主のスワイニー(キャサリン・ハンター)と同僚のトワネット(スージー・ベンバ)からフェミニズムと社会主義を学ぶ。併せて男たちの愚かさに気付かされたベラはゴッド危篤の報を受け、ロンドンに戻った。冷徹に思えたゴッドにとって、ベラは父性愛の対象だった。

 ラストでゴッド邸の庭に、ベラ、マックス、トワネット、ゴッドの新しい被験者、アルフィーが集っている。明らかに様子がおかしいアルフィーは、医者を目指すベラによってヤギの脳を移植され、草を食んでいた。彼らは<哀れなるものたち>だろうか。自由を希求するベラをマックスとトワネットが支え、アルフィーは男性史上主義と支配欲から解放された。見ている側も<哀れなるものたち>……。エンドロールが終わった時、そんな感覚に陥ってしまった。
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「葬送のカーネーション」~静謐な風景画に滲む死生観

2024-02-06 21:23:22 | 映画、ドラマ
 映画賞のノミネートや受賞作が発表される時期になった。識者や映画通と感覚がずれているから、〝推し〟がリストアップされるケースは少ないが、感銘を覚えた作品の名を見ると嬉しくなる。「PERFECT DAYS」(2023年、ヴィム・ヴェンダース監督)がアカデミー賞国際長編映画賞部門にノミネートされた。ヴェンダースはカンヌ、ベネチア、ベルリンなど多くの映画祭でグランプリを獲得しているが、アカデミーには縁がなかった。初オスカーに期待している。

 最近紹介したカウリスマキとヴェンタースは小津安二郎にオマージュを抱いていたが、第3弾というべきベキル・ビュルビュル監督の「葬送のカーネーション」(2023年)を新宿武蔵野館で見た。トルコ映画について記すのは「ユスフ」3部作(セミフ・カブランオール監督)以来、12年ぶりで、神秘的かつ祝祭的なムードに彩られた寓話だった。

 本作は祖父と孫娘のロードムービーだ。ムサ(デミル・パルスジャン)は亡き妻の棺を抱え、ハリメ(シャム・シェリエット・ゼイダン)とヒッチハイクしながら国境を越えようとする。祖国に葬ってほしいという妻の願いを叶えるためだ。ムサは恐らくシリアからの難民でトルコ語が話せない。通訳はハリメの役割だ。ムサとハリメも殆ど言葉を交わさない。イスラム社会の美意識を象徴するような静謐な風景は、イラン映画を想起させる煌めきに満ちていた。

 原題は「クローブをひとつかみ」で、英語タイトルは“Cloves&Carnations”だ。“Clove”は香辛料で殺菌効果がある。歯痛を抱えるムサが本作で重要な役割を果たす女性トラック運転手からクローブをもらうシーンがあったが、ムサは消臭剤として棺の中にクローブを入れていた。さらに、カーネーションとは同音異義語で、ハリメは墓に一輪挿していた。ハリメの母への追憶の思いは彼女が描く絵にも表れている。ハリメはカーネーションに、祖母だけでなく亡き母への思いを託したのか。

 小津ファンではないから、監督のオマージュがどう作品に息づいているのか理解出来ていない。だが、監督は小津だけでなく日本文化の〝もののあはれ〟や死生観をリスペクトしているようだ。小津は死を到達点ではなく日常とリンクする通過点として描いた。ムサと祖母が<死>、ハリメが<生>を象徴し、スクリーンに配置されている。

 印象的なシーンも数多い。避寒のため身を寄せた洞窟で、ムサは棺から妻の遺体袋を取り出し、ハリメを入れる。国境手前で拘束された警察署で、ハリメが落としたミルクのガラスコップが割れるシーンには、ハリメの祖国への忌避感が表れているのだろうか。<死は終わりではなく、来世への入り口>と後半に登場する女性ドライバーは思想家の言葉をムサとハリメに語る。

 ムサはラストで国境らしき金網を越える。来世への入り口と感じたが、作品冒頭の難民たちのパーティーに加わっていた。死と婚姻のアンビバレンツが、意識の底で繋がっている。神話、寓話に飛翔した傑作に心が揺さぶられた。
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「ニューヨーク・オールド・アパートメント」~ツインズと母との絆の行方

2024-01-25 20:49:57 | 映画、ドラマ
 NFLチャンピオンシップはNFCが49ers対ライオンズ、AFCがレイヴンズ対チーフスの組み合わせになった。俺はデトロイトに本拠地を置くライオンズを応援している。「アナザーストーリーズ」(NHK)のテーマになっていたが、マスキー法(大気浄化法)への対応を誤ったことをきっかけに、GM、フォード、クライスラーのビッグ3は日本車にシェアを奪われ、凋落の一途を辿る。2013年、デトロイトは1兆8000億円の負債を抱え自己破産した。

 麻薬と暴力が蔓延った市の苦難の道のりと重なるのが地区優勝したライオンズで、今季32年ぶりにプレーオフで勝利を挙げた。QB失格の烙印を押されたゴフが自らを放出したラムズを破るというドラマチックな展開だった。フォード・フィールドに詰め掛けるファンは、ライオンズに再生への希望を託している。チャンピオンシップで戦う49ersは手ごわいが、初のスーパーボウル進出の可能性は十分だ。

 ニューヨークを舞台にしたスイス映画「ニューヨーク・オールド・アパートメント」(2023年、マーク・ウィルキンス監督)を新宿シネマカリテで見た。NYの光景が効果的に挿入されていたが、ウィルキンスはスイス出身で、現在はウクライナ・キーウで暮らしている。生きることの切実さが本作にも反映していた。

 ペルーから母ラファエラ(マガリ・ソリエル)とともに不法入国した双子のポール(アドリアーノ・デュラン)とティト(マルセロ・デュラン)の兄弟が主人公で、演じているのもオーディションで選ばれたツインズだ。中華料理店で働くラファエラを助けるため、当店でデリバリーのバイトをしながら英会話学校に通っている。生徒たちの多くは戦禍から逃れた難民だった。

 学校で双子は年上のミステリアスなクリスティン(タラ・サラー)と出会う。ポールとティトは彼女に恋をし、本作は青春映画の色合いが濃くなる。真夏の公園、双子はクリスティンを挟んで芝生に寝そべった。クリスティンはその時、「コケにされたら、やり返すのよ」とナイフを振りかざす。彼女はクロアチアからの移民で、コールガールを生業にしていた。

 「透明人間のように扱われるのはもう嫌なんだ」……。ティトがクリスティンに話すシーンが印象的だった。デリバリー中、車と接触しても、ドライバーは車体の傷を気にするだけで、ツインズのことは気にもしていない。ラファエラが職場で吐いている子供を介抱しても、母親は「他人の子供に触らないで」と喧嘩腰だ。何の権利も持たない母子は、狭いアパートで身を寄せ合って生きている。ラファエラにも恋のチャンスが訪れた。金持ちで軽薄なスイス系のエドワルド(サイモン・ケザー)が接近し、ブリトー店経営を持ち掛ける。

 クリスティンの写真を渡された双子は、「怖いような、孤独のような」とそれぞれ感想を述べる。クリスティンは男にゴミ扱いされ、信じていた男に裏切られる。彼女もまた透明人間、いや不可視の存在で、絶望と怒りに駆られて暴発する。なりたい動物を聞かれ、「自由に唾を吐けるラバ」とユーモアたっぷりに答えたが、ラスト近くで面白いオチが用意されていた。

 クリスティンとの約束を守るため、ツインズは警察に出頭する羽目になり、強制送還の憂き目を見る。追われる身になったラファエラだが、培った人間関係で難を逃れる。NYには温かな人情が息づいているのだ。ポールとティトは再びアメリカを目指す。母との絆を取り戻すことは出来るのだろうか。
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「ミステリと言う勿れ」~菅田将暉が提示する新たな探偵像

2024-01-16 21:19:24 | 映画、ドラマ
 ネット配信が普及する中、テレビでドラマを見る人は減っているが、アナログ高齢者の俺は死ぬまで〝習慣〟にしがみついていくだろう。そんな俺のゴールデンタイムは日曜午後11時(NHK総合)で、イタリア発「ドック」(シーズン2)終了後、フランス発「アストリッドとラファエル」(シーズン4)が始まった。ともに秀逸なドラマで、1週間後が待ち遠しい内容である。

 国内ドラマでいえば「相棒」だが、劣化を憂えている。原作がないからシナリオライターの力に頼らざるをえないが、犯人の心情を描き切っていないからしっくりこない。充実したドラマはないかと昨年末、日本映画専門チャンネルで一挙放送された「ミステリと言う勿れ」(2022年、全12話)をまとめて録画した。半分ほど見たが、刺激的で面白い。映画版があるのを思い出してチェックすると、公開後3カ月経っていたがシネマート新宿で上映していたので足を運んだ。舞台は広島である。

 原作は田村由美によるベストセラー漫画で、監督はテレビドラマの演出も担当していた松山博昭だ。主演も菅田将暉だから、基本的なトーンはドラマと変わらない。菅田演じる久能整(くのう・ととのう)は20前後の天然パーマの大学生だ。実年齢より10歳ほど若い設定だから、菅田もそれなりに苦労があったに違いない。似たようなコートを着てマフラーを巻いている。美術に造詣が深く、印象派を好んでいる。カレーが好物だが、映画で食べているシーンがあったか判然としない。

 童顔で無表情な整の口癖は「僕は常々思うんですが」で、ツボにはまると延々と話し続ける。周りから「うざい」とか「めんどくさい」と言われるが、例外が一人いた。ドラマ版第2話で整の言葉に耳を傾けてくれた犬堂我路(永山瑛太)だが、逃亡中なので表立って行動出来ない。映画版の冒頭、女子校生の狩集汐路(原菜乃華)に頼まれた事件の解決を整に託すことになる。

 汐路の父(遠藤賢一)は8年前、交通事故死していた。運転ミスで兄妹3人と転落死したというのが警察発表だったが、疑問を抱いている汐路に連れられ、整は莫大な資産を所有する狩集家の遺産相続の会議に参加することになる。ゆら(柴咲コウ)、理紀之助(町田啓太)、新音(萩原利久)の3人のいとことともに、汐路にも蔵の鍵が渡された。与えられたお題は<それぞれの蔵において、あるべきものをあるべき所へ過不足なくせよ>だった。闇に葬られた一族の血塗られた歴史が明らかになっていく。

 ……と書けば、まるで「犬神家の一族」だが、ドラマ、映画を問わず「ミステリと言う勿れ」の楽しみ方は整の特異なキャラクターと言葉に触れることだと思う。記憶力と直感的な分析力はモンクを彷彿させるし、神経質で潔癖な点も同様だ。<子供って渇く前のセメントみたいなんですって。落としたものの形が、そのまま痕になって残るんですよ>という台詞には、整自身が少年期に受けた傷が反映されている。ゆらの義父に反論するシーンでも、父性への生理的反感や常識への抜き差しならぬ不信が表れていた。

 鈴木保奈美、でんでん、松坂慶子、松嶋菜々子、角野卓造らアナログ高齢者に馴染みがある豪華キャストが脇を固め、ラストには大隣警察署トリオを演じる伊藤沙莉、尾上松也、筒井道隆も登場する。だが、俺の目に眩しく映ったのはヒロイン役の原菜乃華だった。ドラマ版はあと数話残っているので、楽しむことにする。
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「PERFECT DAYS」~光と影のコントラストがあやなす再生と希望

2024-01-08 21:50:49 | 映画、ドラマ
 王将戦第1局は後手の藤井聡太八冠が菅井竜也八段を破り、防衛に向けて幸先いいスタートを切った。俺が応援している菅井は気合十分に対局に臨んだが、優勢になってからの藤井の壁を崩せなかった。第2局以降の巻き返しに期待したい。

 昨年の映画締めは「枯れ葉」(アキ・カウリスマキ監督)で、今回紹介するのは映画初めの「PERFECT DAYS」(2023年、ヴィム・ヴェンダース監督)だ。両作には共通点がある。監督が小津安二郎に絶大なオマージュを抱いていることだ。ちなみにヴェンダースには、小津の墓を訪ねる旅、東京の情景、小津ゆかりの人々へのインタビューを絡めて構成した「東京画」というドキュメンタリーがある。

 「PERFECT DAYS」の主人公は渋谷区の公衆トイレ清掃に従事する平山(役所広司)で、カンヌで主演男優賞を受賞した。冒頭で東京スカイツリー近くのアパートで暮らす平山の日常が映し出される。起床し、布団を畳み、窓の外の景色に目を細め、歯を磨き、髭を剃る。部屋を出て、施錠はせず、自販機で買った缶コーヒーを手にワゴンで向かう先は、トップレベルのクリエーターが設計した高品質のトイレだ。平山が車内でセットしたカセットから、アニマルズの「朝日のあたる家」が流れていた。

 ストーリーとは関係がないが、従来の〝汚く臭い〟からこそ人間的な公衆トイレのイメージとは対極にある。洒落た作業着を纏い、テキパキ作業を進める平山にはタカシ(柄本時生)という相棒がいる。平山は遅刻したりサボったりするタカシにだけでなく、周りの人々に優しい視線を注ぐ。カンヌでキリスト教関係者が選考するエキュメニュカル審査員賞に輝いたのは、平山の佇まいが達観した僧侶のように映ったからだろう。

 神社の境内で昼食のサンドイッチを食べ、毎日顔を合わせる女性と挨拶を交わし、フィルムカメラで木々の隙間から木洩れ日を撮る。仕事が終わると浅草駅地下の飲み屋を訪れ、主人(甲本雅裕)と言葉を交わす。帰宅すると銭湯で老人たちと交流し、「野生の棕櫚」(W・フォークナー)、「木」(幸田文)、「11の物語」(P・ハイスミス)を読んで、眠くなったら灯を消す。休日も生活は決まっていて、コインランドリーで作業着を洗い、写真屋でネガとプリントを交換し、古本屋のおばさんの蘊蓄に耳を傾けながら100円コーナーで文庫本を物色する。

 小津ファンはカメラアングルや緻密な構図への影響を感じ、平山が「東京物語」の主人公の名であることに気付くはずだ。本作を貫くイメージは<光と影>で、木々が平山ともに主役になっているのは、平山が「木」を手にしたことからも明らかだ。俺にとって、音楽映画の趣がある。

 平山が行き着けの居酒屋の女将(石川さゆり)が常連客(あがた森魚)の伴奏で「朝日のあたる家」の和訳バージョンを歌うシーンも印象的だったし、ワゴン車ではタイトルのもとになった「PERFECT DAY」(ルー・リード)や「ドッグ・オブ・ベイ」など70年代の名曲が流れる。タカシに連れられて訪れた下北沢のカセットテープ店で、平山はルー・リードやパティ・スミスの作品を手にしていた。読書傾向やお気に入りの音楽から、平山がかなりのインテリであることは窺える。

 穏やかな日常にさざ波が起きる。姪のニコ(中野有紗)の登場だ。家出して平山宅に居候するが、2人の会話や迎えにきた妹(麻生祐未)とのやりとりから、平山と家族との断絶が浮かび上がってくる。平山の見る夢、もしくは心象風景が描かれる。光と影が織り成す抽象的なモノクロームで、テーマは木洩れ日だ。平山はどんな風に生きてきたのだろう。謎に迫るため「野生の棕櫚」を読むことにした。

 ニコはルー・リードが結成したヴェルヴェット・アンダーグラウンドの1stアルバムに参加したアーティストから採ったのか。「今度は今度、今は今」といった平山とニコの会話も面白いし、別れの際に手渡した「11の物語」についてのエピソードも暗示的だ。ニコが気に入った「すっぽん」は少年が母親を殺す物語だ。ニコは既に平山の側に近づいているのだろうか。

 平山が居酒屋の扉を開けた時、ある男が女将と抱き合っていた。隅田川沿いで再会した男は友山(三浦友和)で、がんに全身を蝕まれているという。女将と心を寄せ合っている平山、前夫で別れの挨拶にきた友山……。2人は影踏みに興じる。「影が重なれば、濃くなるだろうか」と平山は問い掛け、「そんな気がした」と友山は答えた。本作を象徴するシーンだった。

 ダンサーの田中珉が演じるホームレスにも平山は優しい視線を注いでいた。全てを受け入れる寛容さこそ、平山の美徳だと思う。ラスト3分間、フロントガラスに写る平山の泣き笑いが心に迫る。流れていたのは「フィーリング・グッド」だ。

 ♪夜が明けて 新しい一日が始まる 私は私の人生を生きる最高の気分だ そしてこの古かった世界は 今や新しく生まれ変わった 私にとって自由な世界に

 肝となる台詞「この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」と通底する歌詞である。本作は光と影のコントラストがあやなす再生と希望の物語だった。
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