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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

初期衝動を保つホワイト・ストライプスの奇跡

2010-05-13 00:22:42 | 音楽
 MUSEの北米ツアーがマイスペースで公開中だ。1万6000余を集めたシアトル・キーアリーナでのライブで、若者(平均年齢は20歳前後?)の熱狂ぶりに、アメリカにおける認知度の高まりが窺えた。

 量的成功はロックバンドにとって諸刃の剣で、〝MUSEは資本主義の毒に侵された〟と批判することも可能だろう。レイジをリスペクトするMUSEだが、初期衝動とラディカリズムをいつまで保てるだろうか。

 さて、本題。ホワイト・ストライプスの「アンダー・グレイト・ホワイト・ノーザン・ライツ」を購入した。カナダツアー'07の模様を収録したライブCD&ドキュメンタリーDVD(エメット・マロイ監督)の2枚組である。今回はDVDについて感想を記したい。
 
 ストライプスは世紀末、ストロークスとともにシーン最前線に躍り出た。4th「エレファント」(03年)まで追いかけたが、ロックから遠ざかっていた時期に発売された最近の2枚は聴いていない。メロディー志向の老いた情念派にストライプスは敷居が高く、来日公演(03年)もパスしてしまった。
 
 手元にある4枚のアルバムはすべて輸入盤なので、<姉弟の2人組>を唯一の〝知識〟として、フレッシュな気持ちでドキュメンタリーを見た。2ピースバンドのサポート抜きのパフォーマンスに、心をズバッと抉られる。

 ドラム担当のメグは無口で声も小さい。デビュー当時はロボット説がまことしやかに囁かれたほどだが、照れながらボーカルを取るシーンは微笑ましかった。普通っぽいメグに〝痛さ〟を覚えるのは、俺の目が歪んでいるからか。ギター&キーボードを縦横無尽にこなすジャックは、普段も冗舌でちゃめっ気に溢れている。静と動の対照的な個性が弾き出す音は、3次元を超えて刺激的だった。

 U2、レディオヘッド、MUSEら〝王道〟――ロックの墓場に通じる道でもあるが――を歩むバンドとは対照的に、ストライプスは大掛かりな舞台装置、最先端の機材、デジタル処理とは無縁だ。

 初期衝動とアナログ志向を維持するため、ジャックは幾つものルールを自らに課している。時間が限られているからこそ創造力を発揮できると考え、スタジオ入りするや曲を作って数日のうちに録音する。セットリストを用意しないこと、同じギターを10年も使い続けること、楽器の位置を工夫することで、ステージでの緊張感を高めている。

 本ドキュメンタリーの肝は、ハプニング的フリーライブだ。「ホワイト・ストライプスが広場に来るよ」といった情報が到着直前、ラジオやネットで流れ、半信半疑で人々が集まると、2人が現れ演奏する。ボウリング場、レストラン、船の上など場所は様々で、公民館でのイヌイットとの交流は興味深かった。

 見終えた後、ウィキペディアで復習し、たちまち目が点になる。<姉弟の2人組>がガラガラ崩れたからだ。ドキュメンタリーでも〝僕たちの従兄弟や親族〟と音楽家やスポーツ選手を紹介していたメグとジャックだが、実際は元夫婦で、ともに別の相手と再婚しているらしい。

 <ホワイト・ストライプスは嘘ばっかり>と批判されたこともあったようだが、ジャック本人が気に入っているバンド評は、<彼らは最もフェイクだけど、同時に最もリアル>である。本質を穿っていると思う。NY派にも感じることだが、ストライプスも自らをトリックスターと位置付けているようだ。

 海外バンドのチケットが売れない現状、日本のロック環境は悪化しつつある。ストライプスの来日公演も難しそうだが、もし実現したら、姉弟を偽装する元夫婦の奇跡のケミストリーを体感してみたい。
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ステレオフォニックスLive at 渋谷~UKロックの熱き奔流

2010-04-29 03:11:59 | 音楽
 「長距離走者の孤独」、「土曜の夜と日曜の朝」、「華麗なる門出」etc……。英労働者階級の真情を代弁したアラン・シリトーが亡くなった。学生時代に読み漁った作家の冥福を心から祈りたい。

 シリトーが示した反骨と怒り、皮肉と冷笑、諦念とユーモアは、モッズからパンク、ブリットポップにも息づいている。訃報を知った当日(26日)、DUO MUSIC EXCHANGE(渋谷)で見たステレオフォニックスも、シリトーの精神を受け継いでいるはずだ。
 
 開演20分ほど前に入場した途端、「?」となった。太い柱が3本並び、ステージが実に見づらい。仕方なく後方の階段を上ると、椅子が2列に並んでいるではないか。水がたまった膝は完治していないので、最高齢の客(恐らく)はこれ幸いと腰を下ろす。そこはメンバー5人(サポート1人を含む)の動きを視界に捉える〝奇跡のシルバーシート〟だった。

 ステフォとはフジロック'98(豊洲)以来、12年ぶりの再会になる。当時の彼らはとっぽいアンちゃんだったが、齢を重ねて研ぎ澄まされた印象を受けた。ケリー・ジョーンズの豊かでハスキーな声に、「ロックはこうでなくっちゃ」と実感する。最新作「キープ・カーム・アンド・キャリー・オン」から多めにピックアップされていたが、以前の6作からも満遍なくセットリストに加えていた。

 ファンと声を大にするつもりはないが、アルバムを全部持っている〟……。このステフォへのスタンスは、パール・ジャムとも共通する。ともに<ロックスタンダード>を体現する骨太の速球派で、両バンドのフロントマン、ケリーとエディ・ヴェダーはフーの信奉者だ。<日本で売れない音の系譜>が何となくわかる気がする。

 佳境に差し掛かり、ケリーの声がリアム・ギャラガーに重なった。ステフォもまた、<オアシス不在>を埋めたバンドだったのか。オアシスが3rd以降、ステフォに匹敵する高クオリティーのアルバムを1枚でも発表していれば、神話が褪せることはなかっただろう。

 後半は1st、2ndからのオンパレードで、フロアは大いに盛り上がる。陰翳に富んだ愛聴盤の5rh「ランゲージ・セックス・ヴァイオレンス・アザー?」からの「ダコダ」で中身の濃いライブを締めくくった。メロディーとビートが程よく混ざり合った音の奔流に熱く揺さぶられ、年甲斐もなく高揚感を覚えた夜だった。

 「こんな小さいとこ(キャパ1000人)でステフォを見れるなんて、ウソみたい」
 「5枚のアルバムが全英1位に輝いた国民的バンドなんだよな」

 出口へ向かう途中、耳にした若者たちの会話である。不況が若者を直撃する現在、ロックを取り巻く環境は悪化しているようで、年明けのカサビアンから来日キャンセルや公演延期が相次いでいる。表向きの理由は「アーティスト側の事情」だが、恐らくチケットが売れなかったのだろう。

 ステフォだけでなく、海外での人気と評価が動員に結び付かないケースが多い。別稿(21日)に記したMGMTも〝売れるNY派〟らしく、新作がビルボードで2位にチャートインしているが、日本での単独公演ならリキッドルームあたりが精いっぱいだろう。

 〝日本は客が集まらないからパス〟というバンドが続出したら、遠からずフジロックもサマーソニックも成立しなくなる。老ファンの杞憂であることを願うばかりだ。




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ポップの万華鏡~MGMTに甦る青春の風景

2010-04-21 00:22:40 | 音楽
 〝現役ロックファン〟に復帰したばかりの俺の言葉に説得力はないが、フジロック'10は世界標準をクリアするフェスだと思う。ヴァンパイア・ウィークエンド(3月7日の稿)、ダーティー・プロジェクターズ(同19日の稿)に加え、LCDサウンドシステム、MGMTと、光芒を放つNY派のトップランナーが苗場に集結する。

 3日間滞在して最先端の音に浸り、ロキシー・ミュージックやベルセバとの再会も果たしたいが、単独行動ゆえ宿をキープできない。そもそも仕事の関係で日曜は無理なので、MUSEがヘッドライナーを務める金曜に日帰りで参加することにした。NY派だけでなく、気になるバンドを幾つ見られるかは運次第(確率3分の1)だ。

 今回は2nd「コングラチュレイションズ」を発表したばかりのMGMTについて記したい。50歳を越えてNY派に夢中になったのは、ポップミュージックに出合った頃のときめきを追体験できたからだ。キャッチーなメロディー、祝祭的な歌心、ナチュラルな手触りが、NY派の共通点といえる。

 1stアルバムのタイトル「オラキュラー・スペクタキュラー」は〝神懸かり的ハッタリ〟という意味だ。MGMTは自らを〝トリックスター〟と位置付けているのかもしれない。

 ジャンルや年代にこだわることなくポップミュージックに親しんでいる人にとって、MGMTは<底無しのおもちゃ箱>だ。1stと2ndを通して聴くと、ノスタルジックな気分になり、思春期の切なさが甦ってくるかもしれない。

 「悲しき雨音」など60年代のスタンダード、ビーチボーイズ、「ジギー・スターダスト」以前のデヴィッド・ボウイ、シド・バレット在籍時のピンク・フロイド、80年代中期のキュアー、モーマス、バンド・オブ・ホリー・ジョイ、パルプ……。

 MGMTを聴いているうちに思い出した曲やアーティストを挙げてみたが、ソウルやファンクのテイストもちりばめられているし、オアシスっぽい曲まである。MGMTとはカラフルなポップの万華鏡といえるだろう。

 曲の輪郭がくっきりしているのは1stの方だ。屈折と狂おしさを増した2ndには牧歌的ムードが漂い、甘酸っぱい青春映画のサントラといった印象だ。MGMTはアート系の大学で学んだベン・ゴールドワッサーとアンドリュー・ヴァンウィンガーデンの2人組だが、3人のサポートメンバーを加えてステージに立つという。坩堝でごった煮した極上のポップを苗場で体感できたら幸いである。

 俺が注目しているのはNY派だけではない。フジロックに来るフォールズの1stアルバム「アンチドーツ」も毎日のように聴いている。英オックスフォード出身のバンドは由緒正しい〝21世紀のUKニューウェーヴ〟で、心の底に刺さるダウナ-なエレクトロポップを奏でている。2ndアルバム発表後に予定されている単独公演(6月)に行くかどうかは、フジの日別ラインアップが決まってから考える。

 今月26日は渋谷でステレオフォニックスだ。キャパ1000人強の会場でUKロックを支えるバンドを見ることができる。日本で人気がないというのも悪いことではない。ライブの感想については、当ブログで記すつもりだ。


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ダーティ-・プロジェクターズの爽快な衝撃

2010-03-19 03:25:35 | 音楽
 02年のお盆の頃、右足に肉離れを発症した。足首に重りを着けて歩く習慣が、過重な負荷になって筋肉を軋ませたのだ。サマソニでモリッシーとリバティーンズを見るはずが、チケットは紙屑と化し、苦痛に呻く有給休暇になった。

 あれから8年、患部周辺が疼き出し、まともに歩けなくなった。〝映画の木曜日〟に「渇き」を見る予定を急きょ変更し、馴染みの整骨院に行く。膝に水がたまっているとのこと。年を取れば、あちこちにガタがくるものだ。

 さて、本題。現役ロックファンに復帰したばかりの俺は今、ニューヨークからの風にそよいでいる。NY派の実力を確かめるために足を運んだクラブクアトロ(渋谷)で、ダーティ-・プロジェクターズにノックアウトされた。

 7時ジャスト、アコギを手にしたゲストのマウント・イアリが現れる。ニール・ヤングを彷彿とさせる曲調と声質に聴き惚れた30分だった。チューニングタイムを経て、いよいよダーティ-・プロジェクターズの登場だ。

 フロントマンのデイヴは左利きのでかいギタリストで、ベース、ドラムとはイケメントリオだ。ギター、サンプリング、ダンスを担当する美女3人と合わせ、フォトジェニックな6人組である。

 オープニングはニューシングル“Ascending Melody”で、アンコールを含め20曲弱、1時間30分ほどのステージだった。予習したのは最近の2枚のアルバムだけだが、「ライズ・アバヴ」(07年)から4曲、「ビッテ・オルカ」(09年)から8曲がセットリストに加わっていた。ちなみに「ライズ・アバヴ」はLAパンクの雄、ブラック・フラッグの「ダメージド」(81年)を全曲リメークした実験的作品である。

 プリミティヴ、ノスタルジック、牧歌的、祝祭的なパフォーマンスを支えるのは、デイヴと女性3人のボーカル隊だ。バリエーションに富んだ組み合わせで、曲ごとのコンセプトの違いを浮き彫りにしていく。歌心とストリート志向がNY派の共通点で、ダーティ-・プロジェクターズもまた、<加工と手作り>、<卓越したテクニックとアマチュア精神>というアンビバレンツを自然体で調和させていた。

 レインコーツを想起させる“Stillness Is the Move”、フェアグラウンド・アトラクション風の“Two Doves”に和んだ次の刹那、ソニック・ユースばりのノイズの洪水が心身に突き刺さる。表情豊かで爽快なライブだった。

 10年前の秋も、俺は幸せな800人のうちのひとりだった。同じ会場で見たMUSEは、青白い雛から怪鳥に成長する。今年は英グラストンベリー、米コーチェラのビッグ2だけでなく、10以上のフェスでヘッドライナー(トリ)を務める。合間を縫って欧州スタジアムツアーを敢行し、締めは16万人が集うウェンブリー2dayだ。

 レイジ支持を公言するなどラディカルに傾斜し、アルバムタイトル通り<抵抗>を訴えるMUSEは、資本主義のシステムを計算ずくで利用しているのだろう。〝いい子〟と評判のマシューだが、恐るべき策士に違いない。

 ダ-ティー・プロジェクターズは今後、どのような飛行曲線を描いていくのだろう。次作は確実にビルボードで5位以内に入り、ライブバンドとしても認知されるはずだ。それでも彼らは怪鳥を目指さず、鳩のようにNYを舞っているのではないか。それこそが分野を問わず、NY派の伝統とプライドなのだから……。

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ヴァンパイア・ウィークエンド~自然体で奏でられた魔法の音

2010-03-07 00:52:07 | 音楽
 フジロック'10の出演アーティスト第1弾が発表され、MUSEがヘッドライナーを務めることが決まった。グラストンベリー'04以降、欧米の主要フェスでヘッドライナーに指名され、コーチェラ'10で〝全冠制覇〟を達成したMUSEだが、その世界観とパフォーマンスが日本で正当に評価されるまで数年を要した。

 最終日のマッシヴ・アタック⇒クロージングアクト(未定)は確定的で、MUSEの登場は初日75%、2日目25%といったところか。当日朝の新幹線で越後湯沢に向かい、帰りは新宿着の夜行バスというスケジュールになりそうだ。

 フジロックに心そよぐのは、MUSE以外にも気になるバンドが多く名を連ねているからだ。ブンブンサテライツ、クリブス、フロッギング・モリー、フォールズ、ジョン・バトラー・トリオに加え、ニューヨーク派のトップランナー、LCDサウンドシステム、ヴァンパイア・ウィークエンドと胸ときめくラインアップだ。

 今回は上記に挙げた中でとりわけ注目しているヴァンパイア・ウィークエンド(以下、VW)について記したい。

 今年1月に発売された2nd「コントラ」と合わせ、1st「ヴァンパイア・ウィークエンド」(08年)を購入した。聴き込むにつれ、キャッチーでありながらどこか歪んだ音に惹き込まれていく。ボーカルと楽器の重なりが新鮮かつ奇妙で、アフロビートとカリブソを取り入れたためか、時折ドラムがずれるのが面白い。

 スミスやポーティスヘッドの1st同様、VWの2枚は、覚醒と耽溺を同時に味わえる貴重な〝麻薬アルバム〟になった。ダーティー・プロジェクターズと交流があるらしく、祝祭的ムードと溢れる歌心が両者の共通点だ。

 VWはNY派としてヴェルヴェット・アンダーグラウンド⇒トーキング・ヘッズの前衛性を受け継いでいるが、その流れだけで論じるのは一面的だ。ローファイ、遊び心、感性に直に働きかけるシンプルな音に、NY以外のバンド――ギャラクシー500、ルナ、ペイヴメント、ホワイト・ストライプスら――の影響も窺える。

 上記はすべてアメリカのバンドだが、最初に聴いた時に想起したのは、UKのスクリッティ・ポリッティだ。「ロックはこうあるべき」という枠組みに捉われず、さまざまな要素を取り入れ、創造過程を楽しむ……。VWもまた、自由を希求する素人感覚の音楽集団なのだろう。

 <商業的成功とは無縁なバンドが後世にDNAを伝える>という神話は、時代遅れかもしれない。コロンビア大の同窓生4人がハンドメイドで提供した2nd「コントラ」は、ビルボードで1位に輝いた。LCDサウンドシステムを含め、NY派はセールス的にも大きな成果を挙げている。だからこそ、彼らを軸にした地殻変動はロック界を根底から揺るがせているのだ。

 知性を大都会の雑踏で攪拌して生まれた音は、大自然の下でどんな化学反応を起こし、苗場に集う聴衆を包み込むのだろう。VWはバンド名に相応しいマジカルな力を秘めている。心地よく血(魂)を抜かれてみたいが、現場で見られる確率は3分の1しかない。グリーンステージが<VW⇒MUSE>になれば、3年前の<MUSE⇒キュアー>に匹敵する陶酔を味わえるだろう。

 まさかとは思うけど、チケットが取れなかったりして……。
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懺悔と快楽の日々~NYからの爽やかな風に吹かれて

2010-01-17 01:43:10 | 音楽
 <民族音楽とデジタルとの融合を追求するフェルミン・ムグルザ、グルーヴ・アルマダ、ジュノ・リアクターらの試みが浸透し、ロックを資本主義から解放する日を心待ちにしている>(08年11月21日の稿)

 <新陳代謝を繰り返し、新世代が既成勢力を駆逐してきたロック界だが、最近は死臭が漂うようになった。21世紀に入って、シーンを揺さぶるムーヴメントは起きただろうか>(09年5月15日の稿)

 昨年暮れに現役ロックファンに復帰し、<ニューヨーク>をキーワードにアルバムを買い集めるや、シーンの地殻変動にたちまち気付いた。無知状態で書き散らかした記事を削除するわけにもいかないから、まずは懺悔し、ポストロックを志向するアルバムたちと快楽の日々を過ごしている。

 NY派は広い意味で<ヘッズ・チルドレン>だ。トーキング・ヘッズは70年代後半から10年間、民族音楽やデジタルの導入だけでなく、様々な方法論(映像を含め)を模索してロックの可能性を示した稀有のバンドだった。そのDNAを受け継いだ者たちが、ハイパー資本主義のしもべに堕したロックを本来の姿に取り戻そうとしている。

 彼らの共通点は、形式にこだわらず多様なジャンルを包括し、自由と共生をテーマに掲げていることだ。いたずらに音を加工することなく、街の息吹を取り込んでいる。懐かしく斬新な<反グローバリズムの優しい音楽>といえるだろう。とりわけ耳に残ったアルバムを以下に紹介する。

 ダーティー・プロジェクターズの「ビッテ・オルカ」は別稿(09年12月30日)に記した通り、俺にとって09年のベストアルバムだ。アズテック・カメラ、スクリッティ・ポリティ、レインコーツ、フェアーグラウンド・アトラクションといった80年代のUK勢を想起させるピュアでポップな音が、干からびた心と皮膚に瑞々しく染み込んでくる。3月のライブ(クラブ・クワトロ)が楽しみだ。

 「ビッテ・オルカ」とセットで愛聴しているのが、グリズリー・ベアの「ヴェッカーティメスト」(09年)だ。中東の雑踏をイメージさせる曲から可憐なバロック風ポップまで、様々な要素がちりばめられている。ダーティー・プロジェクターズ同様、歌心に溢れているが、グリズリー・ベアの方が内向的だ。

 国内盤が13日に発売されたNY派のアルバムを2枚購入した。印象だけを簡単に記すことにする。

 バンド名とは裏腹に、ヴァンパイア・ウィークエンドの「コントラ」はキャッチーでキュートなアルバムだ。<ポピュラーミュージックのスタンダードを変えていくかもしれない>(ライナーノーツから)との彼らへの絶賛は、的外れと思えない。1stを近いうちに購入し、合わせてブログで取り上げることにする。

 レジーナ・スペクターの「ファー」も10年のベストアルバム候補だ。NYということもあり、一聴した時は<おちゃめなスザンヌ・ヴェガ>との印象を抱いたが、ライナーノーツによれば<ブロンクスのビョーク>と呼ばれているという。ピアノをベースにした前衛的フォークといった趣で、クオリティーが高い曲が並んでいる。

 NY派を聴きながら本を読むのが、俺にとって至福の時だ。クリアになった言葉が鈍い脳に刻まれていくように感じるが、次の瞬間、眠りに落ちているのだから、それは錯覚に過ぎないのだろう。




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意志と野性とユーモア~MUSEのライブに芯から燃えて

2010-01-14 00:04:05 | 音楽
 冷たい雨に打たれながら、武道館に続く人波に連なった。MUSEの日本ツアー最終日である。スニーカーはぐっしょり水を含んで足元から凍えていた。

 整理番号が1ケタだったので、Aブロック後方右の特等席をキープする。俺のすぐ前で、学生っぽいカップルと打ち解けていたゴス姉さんは、「ロバート・スミス(キュアー)からマシューに浮気しちゃった」と話していた。彼女は俺と同じアラフィフに違いない。

 ロックが〝微分係数〟を競うジャンルである以上、煌きはいつしか褪せてセピア色のアルバムに納められる。平均年齢が31歳になったMUSEも、いずれ浮気される側に回るだろう。

 かく言う俺だが、かなりの浮気性だ。世間に先んじてMUSEを〝現役随一のライブバンド〟に認定したのは2度目の日本ツアー(01年秋)だが、〝刹那的切なさ〟が失せたらすぐにオサラバする……。そんな覚悟も、演奏が始まるや吹っ飛ばされた。

 冷え切った体は、あちこちでマッチをすられたように熱くなり、心はたちまちショートする。“HAARP”で<調和と美学>を究めたMUSEは志向を改め、骨太で荒々しい3ピースとしてステージに立っていた。異次元の天才マシューを支えるクリス(ベース)、ドム(ドラム)のリズム隊も、存在感をさらに増している。

 ラディカルさを窺わせた4th「ブラックホール&レヴァレイションズ」、ジョージ・オーウェルの「1984」をモチーフにした新作「レジスタンス」と、MUSEは2作続けてメッセージ性を前面に出した。<音と歌詞の一致>を図ったというべきか、計算ずくの不協和音、歪み、軋み、フィジカルな躍動が、ロック本来の硬質な弾力性を浮き立たせていた。

 音を加工することで<ロック以外>に消え、<ロック以下>に墜ちるバンドも少なくない。MUSEもその危険性を孕んでいたが、杞憂に終わった。マシューはストリートに溢れる叫びや怒りに繋がる音を奏でるために、あえてキーボードを封印したのではないか。マシューがピアノを弾かない“New Born”は初めてだったし、“United States Of Eurasia”ではショパンのパートをカットしていた。

 マシューがアジテーターのように拳を突き上げると、聴衆も呼応する。ストレートなプロテストソング“Knights Of Cydonia”を会場全体で歌っているのだから、言葉の壁はないはずだが、メッセージはどの程度伝わっているのだろう。MUSEが好きなら「1984」ぐらいは読んで、管理社会(日本もそう)について考えてほしいと思うのだが(ジジイの独り言)……。

 マシューは9年前、好きな女の子の気を引こうと必死にもがくナルシスティックで自己顕示欲が強い少年みたいだった。「そこまでやらなくてもいいよ」と声をかけたくなるほど痛かったが、あの時の姿勢を継続したことが、現在の評価に繋がっている。笑いを取るのはドムの役割で、アンコールでは着ぐるみ姿で登場した。ロックバンドの真骨頂というべきサービス精神を発揮するMUSEだが、残念なことに日本のファンが最も好きな曲に気付いていないようだ。

 終演後、出口に向かうまで、「やらなかったねj「大阪だけか」と“Bliss”についての会話が幾つか耳に入ってきた。マシューは10代の頃、スペインを放浪し、ロマの下でギターを修業したという〝伝説〟がある。その影響なのか、初期のMUSEには“Bliss”を筆頭に、日本人の情感を刺激するマイナーな曲調が多かった。次回(サマソニ?)ではセットリストに入るだろうか。

 武道館を出ると、雨は上がっていた。漆黒の空高く、鈍色の虹が懸かっていたはずだ。そのはるか彼方、芸術を司る女神(MUSE)たちが骨休めをしている。
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エコバニという名の蜃気楼~異次元のバンドの過去と現在

2009-12-19 05:40:40 | 音楽
 天皇と習近平中国副首席との会談が波紋を広げている。首相在任中は創価学会に気兼ねして本性を隠していた安倍晋三氏が民主党を売国奴呼ばわりする一方、会談実現の根回し役が中曽根元首相であることが判明した。かの石原都知事が容認派に回るなど、保守派の亀裂が興味深い。

 さて、本題。別稿「ロックの旅再び」(12月10日)でヤー・ヤー・ヤーズとLCDサウンドシステムを取り上げた。ニューヨークをキーワードに買い集めた数枚のアルバムは、トーキング・ヘッズの実験精神を継承し、民族音楽など他のジャンルを包括的に取り入れている。5年のブランクの間、ロックは新たな地平<ポストロック>を切り開いていた。

 最先端のバンドと合わせ、エコー&ザ・バニーメンの新作「ファウンテン」を購入した。スタジオ盤を聴いたのはバンド名を冠した5thアルバム(87年)以来だ。まろやかで成熟を感じさせる佳作だが、かつての煌きや鋭さは失われている。

 先日、ミューズのライブがテレ朝の深夜帯に放映された。「世界最強のライブバンド」のテロップに偽りはないが、<デビュー5年以内、アルバム3枚まで>の条件で史上最高のライブバンドを挙げるならエコバニだ。

 U2(83年11月)、エコバニ(84年1月)の初来日公演を中野サンプラザで見たが、両者のパフォーマンスに歴然たる差があった。全米制覇を成し遂げたばかりのU2が駄目なはずはないが、比べる相手が悪過ぎた。エコバニは<神性と魔性を帯びた異次元のバンド>だったからである。

 <80年代のドアーズ>、<ベルベット・アンダーグラウンドの継承者>……。当時のエコバニは最高級の賛辞で彩られ、フロントマンのイアン・マカロックはイアン・カーティス(ジョイ・ディヴィジョン)の死を補って余りある存在と見做されていた。彼らの神髄に触れたい人は、初期の3作を聴いてほしい。

 スモークが焚かれる中、イアンの弱々しい「ハロー」とともに演奏が始まり、テンションは少しずつ上がっていく。感性を切り刻むサイケデリアは聴衆を狂気の淵へ誘(いざな)い、「キリング・ムーン」は官能の水辺に浸らせた。

 イアンが両手のひらを上に向け、スローモーションで指を前に曲げたのを合図に、椅子席固定の会場で後方から人が押し寄せてきた。大惨事に繋がりかねない状況をつくり出した当人は、ステージで薄ら笑いを浮かべている。「この男は第二のデヴィッド・ボウイだ」と確信したのだが……。

 例えば三島由紀夫の「午後の曳航」、ゴダールの「勝手にしやがれ」、ランボーの詩集……。ライブの後、同行した友人たちと、エコバニがもたらした新鮮な衝撃を、若くして達成された他分野の偉業と比べて語り合う。<悪魔憑きもしくは神が宿っている>が、議論のシュールな着地点だった。

 キュアー、ニュー・オーダーとは相互不可侵条約を結んでいたようだが、〝暴言王〟イアンは同世代のバンドたちをメディアでクソミソにこき下ろした。まさに〝アンタッチャブル〟で、輝かしい未来が約束されていたはずのエコバニだが、「イカロス失墜」をなぞるかのように急降下した。

 U2のように成功への執着に欠けていた、キュアーのロバート・スミスのように絶対的な才能がなかった、ミューズのように努力しなかった……。急降下のもっともらしい理由を挙げるのは簡単だが、真実は別のところにあるような気がする。彼らは音霊から見放され、天使でも悪魔でもない生身の人間になってしまったのだ。

 最後に、朝日杯について。先行有利の中山1600㍍ゆえ12番枠にはガッカリしたが、POG指名馬エイシンアポロンを応援する。同馬のプラスポイントは、アクシデントや作戦失敗など悪いことを経験している点だ。来年に繋がるレースを期待したい。
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ロックの旅再び~リスタートはニューヨークから

2009-12-10 00:10:26 | 音楽
 5年前に会社を辞めてから、事実上ロックを引退した。理由は財政緊縮で、〝仕分け作業〟の結果、CD購入を抑えることになったからだ。新譜を欠かさず買うバンドはミューズ、ブロック・パーティー、キングス・オブ・レオン、ソニック・ユース、マニック・ストリート・プリーチャーズぐらいになっていたが、生活に余裕が生じたので、現役に復帰することにした。

 空白の5年間、当ブログで<ロックは滅びつつある>などと記したが、置いてきぼりを食らった者の繰り言だったのか。最前線の音を求め、新宿のタワーレコードに向かう。AではなくZから回ったことが、俺にとって幸いだった。

 いきなり目に留まったのが<Y>のヤー・ヤー・ヤーズである。スカパーで放映されたグラストンベリー'09のハイライトで、カレンOの存在感にゾクッときたのは4カ月前のこと。4th「イッツ・ブリッツ!」(09年)を手にレジに向かった。

 <ビョークが在籍したシュガーキューブスに似ている>が第一印象だった。カレンOはおちゃめなシャーマンといった雰囲気で、同じくニューヨークを拠点にした女性ロッカーなら、パティ・スミスよりデボラ・ハリー(ブロンディ)にイメージが近い。2nd「フィーヴァー・トゥ・テル」(03年)の硬質さにポップを加えた本作は、表情豊かでクオリティーが高いアルバムだ。

 ライナーノーツによると、ニック・シナーはエッジ(U2)も絶賛するギタリストという。そのニックがシンセサイザーをかき鳴らす本作は、エレポップの系譜にも連なる。ボーナストラックのアコースティックバージョンを含め、年季の入ったロックファンは本作に懐かしさと和みを覚えるはずだ。

 「イッツ・ブリッツ!」が気に入ったので、ロック再出発の旅をNYから始めることにした。NY系のバンドをリストアップしてタワレコに向かったが、CDが売れないご時世、シンズなど05年前後に発売された国内盤は殆どが廃盤で、輸入盤を含め入手は難しいと店員から聞かされた。

 購入した中で刺激的だったのは、LCDサウンドシステムの2nd「サウンド・オブ・シルバー」(07年)だ。ライナーノーツによると、LCDはストリーツと似た形態で、ジェームス・マーフィーの個人プロジェクトである。サンプリングした音を重ねた本作は、ロックではなくハウスやテクノに分類され、世界中のクラブで大人気のダンスミュージックという。

 輸入盤を買っていたらLCDの成り立ちを知ることなく、「トーキング・ヘッズとニュー・オーダーの方法論を継承した」なんて書いて失笑されたかもしれないが、俺の直感は果たして的外れなのだろうか? 頑固な俺の耳には聴けば聴くほど、<LCD=21世紀のトーキング・ヘッズ>と響いてくる。

 「サイコ・キラー77」(77年)、「モア・ソングス」(78年)、「フィア・オブ・ミュージック」(79年)、「リメイン・イン・ライト」(80年)と問題作を1年に1枚のペースで発表したヘッズの革新性を、LCDらNY派が受け継いでいることは間違いない。

 俺が「どこかで聴いたことある」と感じるのは当然で、文学や映画と同様、ロックも循環しながら深化し進化する。ヘッズやクラッシュのように民族音楽との融合を志向するバンドがいずれ最前線に躍り出ることを、俺は密かに期待している。

 ブランクを埋めるためには道標が必要だ。日本の音楽誌だけでなく、NMEとQマガジン(ともにUK)のアルバムベストテンをCD購入の参考にするつもりだ。荒みを濾過し、孤独を癒やしてくれるロックとは、死ぬまで付き合うことになるだろう。



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パール・ジャム&ニルヴァーナ~褪せることなきグランジの光芒

2009-11-13 02:21:45 | 音楽
 逃亡の末に逮捕された市橋達也容疑者は、瞬発力と忍耐力を併せ持つ恐るべき犯罪者に違いない。だとしても、両親をさらし者にする権利がメディアにあるだろうか。加害者家族は有形無形の制裁を受けている。愚かしい風潮を助長するメディアに倫理と良心を求めるのは、ないものねだりと言うべきか。

 森繁久弥さんが亡くなった。俺にとって森繁さんといえば、豊田四郎監督の「夫婦善哉」(55年)と「猫と庄造と二人のをんな」(56年)だ。〝雲上人〟になる前の森繁さんは、男の脆さ、情けなさ、哀愁、色気を滲ませていた。名優の死を心から悼みたい。

 前置きは長くなったが、本題に。グランジの2大バンド、パール・ジャムの新作「バックスペイサー」とニルヴァーナの「ライヴ・アット・レディング」(CD&DVD)を併せて購入した。

 チケットマスターに異を唱え、レーベルの反対を押し切ってライブブートレッグを商品化するなど、パール・ジャムは常に尖った姿勢を貫いてきたが、ここ数年、勢いを失くした印象は拭えなかった。エディ・ヴェダーの実質的ソロアルバム「イントゥ・ザ・ワイルド」(07年/サントラ)を経て発表された新作で停滞感を払拭し、チャート的にも全米1位に輝いた。

 スタジオライブ風のシンプルな作りでデビュー時の煌きが甦り、渋いグルーヴと枯れたアコースティックが織り込まれた本作は、疲れた五十路にも優しい音だった。♯2「ガット・サム」、♯4「ジョニー・ギター」、♯7「アンソウト・ノウン」、♯10「フォース・オブ・ネイチャー」がとりわけ心に響く。

 ニルヴァーナのピーク時(92年)のパフォ-マンスを収めた「ライヴ・アット・レディング」については、ブートレッグDVDを購入した際、別稿で記した。自らを浄化するようにシャウトするカート・コバーンは、<刹那>と<永遠>を同時に表現しうる稀有のアーティストだった。

 94年4月、自ら命を絶ったカートは、ジョン・レノンをも超えるイコンになった。<ニルヴァーナのように=既成の概念を根底から覆す>、<カート・コバーンのように=身を削って真実に殉じる>は普遍的に通用する枕詞になっている。

 グランジに括られたバンドには音楽的接点が殆どない。パール・ジャムとニルヴァーナ、そしてサウンドガーデン、ライブ……。彼らの共通点はパール・ジャムの“Ten”( 米国だけで1200万枚)を筆頭に爆発的なセールスを記録したことだけだ。

 パール・ジャムは王道ロックの正統な継承者だ。バンドとしてニール・ヤングのアルバムに参加し、エディはフーと同じステージに立っている。一方のニルヴァーナはパンク再生の使命を負い、革新的であることを求められた。

 ロックスターであることを否定し、儚く美しく悲劇的に散ったカートの絶望と孤独を、エディは宿業のように背負い続ける。だからこそパール・ジャムが奏でる音は、哀調と陰影を帯びているのだ。ニルヴァーナ解散後、スティックをピックに持ち替えフー・ファイターズのフロントマンになったデイヴ・グロールも、カートの影から逃れようともがいたひとりだ。今やロックスターとして君臨しするデイヴに、「ちょっとやり過ぎじゃない」とあの世でカートは苦笑しているに違いない。

 俺にとってレーガンとサッチャーは、“ロックの父と母”だ。新自由主義によって生じた疲弊と矛盾が、ヒップホップ、グランジ、ミクスチャー、マッドチェスター、ブリットポップを育む土壌になる。グランジ発祥から20年、閉塞感を一掃するようなムーブメントは胎動しているだろうか。

 最後に、枠順未定のエリザベス女王杯の予想を。野生児スミヨンはアガ・カーンに主戦契約を切られ、犬猿の仲のルメールが新任としてシャラナヤを駆る。昨年ルメールで勝ったリトルアマポーラに騎乗するのはスミヨンだ。両者の確執が波乱の因になっても不思議はないが、年の功の安藤勝、事情通の武豊は冷静にレースを進めるだろう。

 ◎シャラナヤ、○リトルアマポーラ、▲ブエナビスタ、△ミクロコスモス。馬券はシャラナヤ1頭軸の3連単を考えている。


 
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