弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

瀬谷ルミ子著「職業は武装解除」

2011-09-25 14:11:34 | 歴史・社会
瀬谷ルミ子さんについてはじめて知ったのは、伊勢崎賢治「武装解除」で紹介した伊勢崎賢治著「武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)」のあとがきです。「瀬谷さんは、シエラレオネで国連スタッフとして僕の下で働いてくれて以来の付き合いであるが、まだ二十台の若さですでに二つのDDRを現場で経験した、これからの日本にとって逸材中の逸材である。」「日本の平和貢献の将来は、女性が担う予感がする。」

瀬谷さんについてテレビでは、2009年4月にNHK(NHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さんNHKプロフェッショナル・瀬谷ルミ子さん(2))で、2010年10月にテレビ東京(テレ東「この日本人がスゴイらしい」に瀬谷ルミ子さん)でそれぞれ取り上げられました。

瀬谷ルミ子さんは現在34歳。日本紛争予防センター事務局長の肩書ですが、実態は紛争解決のプロフェッショナルとして世界の紛争最前線で常に活躍されています。
テレビ番組でのナレーションや伊勢崎著書あとがきなどから推察すると、瀬谷さんというのは、世界のどこかで紛争が勃発したときに紛争解決専門家として国連や外務省からお呼びがかかり、紛争地で世界から集まってきた紛争専門家から信頼を集めているのだそうです。紛争解決のプロフェッショナルとして凄い能力を有しているように思われます。
しかし、テレビの映像では、瀬谷さんのそのような凄さは見えてきません。テレビ局のプロデューサーやカメラマンには十分に捉えきれない能力かもしれません。ご自身のブログを拝見しても、普通の30代日本人女性の姿しか見えてきません。

瀬谷さんの能力の実態に何とか迫れないものかと思っていましたが、今回、ご本人の初めての書き下ろし著書が刊行されました。
職業は武装解除
クリエーター情報なし
朝日新聞出版

瀬谷さんが生まれ育ったのは群馬県新里村(当時)。両親と姉、弟の5人家族でした。
瀬谷さんが小学6年生のとき、当時小学3年生だった弟さんが脳内出血に襲われました。1ヶ月後に奇跡的に意識を回復しますが、左半身麻痺が残ったのです。ご両親は、治療費のために夜遅くまで働き、また病院に寝泊まりする生活です。小学生だった瀬谷さんの面倒を見てくれたのは3歳上のお姉さんでした。「この時期に私自身が不自由した記憶はほとんどない。」

瀬谷さんが紛争解決の仕事をしたいと思ったきっかけは、高校3年生の春でした。
『ひねくれ者精神の延長だったのか、小学校の頃から、みんなが知らないようなこと、興味を持たないような「未知のもの」に目が向かう子供だった。』『中学生になった頃から、自分は苦手なことを克服するより、得意なことを伸ばす方がやる気がでるタイプだと感じるようになっていった。』こうしてアフリカなどに興味を持ち、英語の勉強に集中しました。
新聞をめくっていた瀬谷さんの目に飛び込んできたのは、ルワンダの難民キャンプの親子の写真でした。死にかけている母親を、3歳ぐらいの子どもが泣きながら起こそうとしている姿です。
この写真を発端として、瀬谷さんの目標は決まりました。すぐに紛争解決について勉強できる大学を調べましたがありません。その中から中央大学の総合政策学部を選びました。

脳内出血に襲われた弟さんは、家族に支えられながらリハビリを続け、現在は自力で職場まで通っています。
『私は、紛争地で仕事に取り組む上で、「やらない言い訳をしない」ことをポリシーにしている。その原点は、私のもっとも身近な家族が困難な人生に立ち向かう姿勢を見てきたことにあると思う。』

大学には紛争問題が専門の教授はいなかったので、図書館で英文の専門書を読みあさりました。瀬谷さんは大学在学中に「ルワンダに行く」ことを目標としており、そのためアルバイトでお金を貯めては休みに海外に出かけて英語を磨きました。
大学3年の夏にホームステイでルワンダを訪れました。しかしすぐに気づいたのは「自分は役に立たない」ということでした。
『「肩書も所属も関係なく、身一つで現場に放り込まれても、変化を生める人間になる」ルワンダを訪れた20歳の時に強く感じたこの思いが、私の仕事の目標になった。』

大学卒業後は、イギリスのブラッドフォード大学平和学部大学院に進学しました。お母さんはこのときも、瀬谷さんのやりたいことを全力で支えてくれたそうです。
大学院に進学するに際し、紛争解決の分野でさらに自分の専門分野を絞り込む必要がありました。瀬谷さんは「ニーズがあるのにやり手がいない分野」にこだわりました。そしてある日、ニュースに「紛争地では、元兵士や子ども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」を目にして、「これだ!」と声を出していました。「武装解除(DDR)」に取り組むことにこのときに決めていたのです。

大学院では、年8本ほど提出する論文で成績が決まります。瀬谷さんはその中で関心があるいくつかの科目に集中しました。そして学生寮の自室にこもって論文に集中し、学部最高点を獲得するに至りました。
1年で修了する修士課程の最後の3ヶ月は修士論文の執筆に費やします。瀬谷さんは紛争後の和解問題について書くことにしました。そのため、秋野豊賞に応募し、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアに現地調査に行く助成金を獲得しました。ネットの検索エンジンで見つかる限りの関係先にメールを送り、必要なインタビュー先と連絡を取りました。
和解のための調査で現地入りした瀬谷さんは、現地の住民の話を聞くほどに、後ろめたさの感情が大きくなっていきました。家族を虐殺された被害者が、ある日フラッとやってきた外国人から、加害者と和解しない理由を問い詰められたら、それは被害者の心の傷を深めることにしかならない、と気づいたのです。
『この時の経験から、平和をつくるプロセスとは、当事者が望んでからはじめて行われるべきであること、部外者が興味本位でかき乱すことがあってはならないことを痛感した。』

大学院を修了する直前、学生時代にインターンをしていた日本のNGO組織のアフリカ平和再建委員会からルワンダに新しく立ち上げる現地事務所の駐在員に誘いを受け、行くことになりました。2000年10月、23歳のときです。
現地では、事務所探しから備品購入まですべてを一人でこなしました。そして、虐殺で夫を失った女性に洋裁の職業訓練をするプロジェクトを担当します。地元の小学校へ机や椅子を寄付する支援も行いました。
担当プロジェクトが終了する頃、西アフリカのシェラレオネで武装解除が始まっていました。瀬谷さんは駐在の仕事を延長しないことに決めます。次の仕事のあてはありません。2001年4月、自費でシェラレオネに調査に行くことにしました。

以下次号
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