弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

瀬谷ルミ子著「職業は武装解除」(2)

2011-09-26 19:12:53 | 歴史・社会
前号に引き続き、瀬谷ルミ子さんの「職業は武装解除」を取り上げます。

《シェラレオネでDDR担当官となる国連ボランティア》
瀬谷さんは2001年4月、何らつてを持たずにシェラレオネに入りました。当地の武装解除は、国連シェラレオネ派遣団(UNAMSIL)が担当し、ホテルを借り上げて事務所を開設していました。瀬谷さんはそのホテルに宿泊する作戦を立てます。そしてそのホテル宿泊を突破口として、事務所訪問のアポを取り付けたのです。自分で武装解除に対する提案を取りまとめて説明し、2週間の滞在中に大統領直属の国家DDR委員長にまで面談できました。
シェラレオネでは子ども兵について調査し、帰国後にレポートをまとめてそれが学術雑誌に掲載されました。その数ヶ月後、日本紛争予防センター(JCCP)から「UNAMSILがDDR担当官となる国連ボランティアを探している。興味があるなら推薦したい」というメールが届きました。採用され、2002年1月にシェラレオネに入りました。
シェラレオネでは、住民と元兵士の和解を進めるための平和構築プロジェクトの責任者も志願して務めました。自分達が正しいと思って行っていたDDRが、現地社会にマイナスの影響を与えるのではないかと感じるようになっていたからです

《アフガニスタンでDDR担当日本国二等書記官》
アフガニスタン戦争が終わった後、アフガニスタンでのDDRを日本と国連が担当することになっていました。日本がノウハウが何もないDDRを担当することになったのはボタンの掛け違いからだと瀬谷さんは言います。DDRのうちRであれば、職業訓練を通じて貢献可能ではないかと考えてDDR担当国となることを決めたものの、日本人の専門家自体がほとんどいなかったのです。
瀬谷さんは、シェラレオネ赴任1年後の休暇時に日本でのDDR国際会議に飛び込みで参加し、そこで外務省からDDRを担当できないかと要請がありました。アフガニスタンに行くかどうか、瀬谷さんがこれまでで一番悩んだ選択でした。最後は、大変でもより実力が付く選択肢を選ぼうということで、アフガニスタン行きを決めました。駐カブール日本大使館の二等書記官としてです。
赴任して10ヶ月経過後、それまで武装解除の枠組みをつくっていた伊勢崎賢治氏が日本に帰国しましたそのため、DDRの本格段階が始まった2年後の2004年4月からは、DDR運営委員会の委員長をしていた日本大使の特別補佐官として、瀬谷さんは政策協議や司令官との交渉も任されることになりました。
このとき、日本側で武装解除の交渉や方針づくりに関わっていたのは、上司の駒野欽一対支と瀬谷さんの二人だけでした。こんな大事なことを27歳の瀬谷さんが一人で提案して決めていいのかというプレッシャが半端ではなかったといいます。
各国はエース級の人材を投入しています。かれらと単身で交渉する過程で、さまざまな思惑が錯綜するなか、交渉の際に相手の意図を深く考える癖がつきました。

ある休日、カルザイ大統領から急遽会いに来るようにとの連絡が入りました。アメリカ、イギリス、国連は責任者が一人だけ、そして日本は大使と瀬谷さんです。どこも側近を同行せず極秘事項が話し合われるというのに、日本のみは側近として瀬谷さんの出席が要請されたのです。会議では、ファヒーム国防大臣を解任すべきか意見を求められました。
『日本側は、「・・・武装解除を進めたるためには、彼が障害になっているのは事実だ」との意見を伝えた。そして、カルザイ大統領は、国防大臣を交代させることを決定した。・・・このとき、だれも口火を切らなかったので最初に日本が発言したが・・・』
『これをひとつのきっかけに、プロセスは一気に加速することになる。それから1年後には、63380人が武装解除された。』
アフガン復興で日本がやってきたこと(2)で書いたように、2003年9月、国防参謀総長、国防次官以下主要ポストの総入れ替えが行われました。彼らはファヒム国防大臣の派閥所属でした。伊勢崎賢治氏が中心となり、国防省の首脳人事改革が行われない限り、日本の血税はびた一文使わせない、と脅迫に近いロビー活動を行った結果です。
それに加え、その後に国防大臣までもが罷免され、それが瀬谷さんら日本外交団の後押しによるものであることがわかりました。

イスラム教国のアフガニスタンの文化では、女性が前面に出ることを良しとしないので、必要な交渉内容は、要点を事前に大使に伝え、大使が話します。会議の最中に補足が必要になるとメモを大使に渡していました。瀬谷さんは「しょっちゅうメモを差し出していたDDR担当の女性」ということで目立っていたようです。
ファヒーム国防大臣罷免を実現した「日本側の発言」も、瀬谷さんのメモに基づいて駒野大使が発言したのでしょうか。

日本が担当する武装解除は進行するのに、アメリカが担当するアフガニスタン国軍の建設はなかなか進みません。一方でタリバーン復活が勢いを増していました。武装解除された地域に代わりの治安部隊がいない「治安の空白地帯」ができていきました。しかし瀬谷さんには、その流れを変える力がありません。
『私は、アフガニスタンでこれ以上ない経験を積んだ。けれど、大いなる挫折も同時に味わったのだった。』

《国連コートジボワール活動(UNOCI)国連職員》
2005年5月、アフガニスタンでの2年間の勤務を終え、28歳の瀬谷さんは今までの人生で唯一休むことを決めました。
この休みにフランス語を勉強しようと、シェラレオネ時代の元同僚フランス人に相談したところ、コートジボワールに来るようにと勧められました。しかしコートジボワールは治安が悪化し、外国人生徒がみな逃げてしまったために語学学校は開いていなかったのです。一方でコートジボワールはDDRを始める段階にあり、専門家がいない国連から相談を受けるようになりました。その揚げ句、勧められてコートジボワールで国連職員として赴任することになったのです。2006年6月、瀬谷さん29歳です。
国連コートジボワール活動(UNOCI)には1年間だけ勤務しました。国連での仕事のやり方に問題を感じたためでした。

《日本紛争予防センター(JCCP)事務局長就任》
次の仕事として、瀬谷さんはフリーランスの国際コンサルタントを最初に考えました。一方で、日本を基盤とした活動が一向に進展せず、専門家も育っていないという現状からも目を背けられなくなっていました。そんなとき、日本紛争予防センター(JCCP)から事務局長への就任の打診があったのです。当時のJCCPは組織が分裂し閉鎖の危機にありました。知り合いのほとんどが否定的だった中、瀬谷さんは就任しました。2007年4月、瀬谷さん30歳です。
『それから4年あまりが経った今。JCCPは、東京本部のほかに、ソマリア、ケニア、南スーダン、マケドニアに現地事務所を置くようになり、15ヶ国でプロジェクトを実施してきた。スタッフの数は、日本人16人を含む40人ほどに増えた。』
『JCCPの活動分野は、現地にニーズがあるのに、やり手がいないために問題が解決されないままになっているものに特化している。』

ソマリアでの活動は、2009年に国連開発計画(UNDP)からやってきた要請で始めました。
ケニアでは、大規模な暴動で国内難民となった人びとの生活支援を手がけています。ケニアでのプロジェクト責任者は高井史代氏です。
南スーダンでは、ストレートチルドレンや若者に対して啓発と職業訓練を始めました(2009年)。2年間で200人を訓練し、その半数が無事に就職しました。南スーダン代表は日野愛子氏です。
世界の紛争地で、JCCPに所属する女性が活躍しているのですね。

今回瀬谷さんの著書を読むことにより、
・瀬谷さんをここまで突き動かしてきた動機付けとエネルギーの源泉はどこにあるのか
・瀬谷さんはどのようにして、紛争解決プロフェッショナルとしてのスキルを身につけてきたのか
・そのプロフェッショナルスキルの実態はどのようなものか
という疑問の多くが解決したように思います。
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