弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

靖国神社参拝と遊就館訪問

2009-04-07 21:38:37 | 歴史・社会
4月4日、お花見を兼ねて家族で靖国神社に参拝しました。小学校の社会科見学、職場の花見行事で靖国神社の境内に来たことはありますが、しっかりと神社を参拝する目的での訪問ははじめてです。
 
  靖国神社
境内はお花見の人人人でごった返しています。
やっとのことで神社にたどり着き、参拝したところで家族と別れ、私一人だけ遊就館を訪問しました。
 
  遊就館
遊就館の中では、入り口近くの展示場のみは写真撮影許可、それ以外は写真不許可ということで、重要な部分は写真を撮影できませんでした。以下は入り口近くの展示場です。
 
入り口近くのゼロ戦  売店には田母神本が山積み(カメラブレでした)
 
 十五糎(センチ)榴弾砲
 
 十五糎加農(カノン)砲
ずいぶん前に山本七平の著作(太平洋戦争従軍記)を読む中で(彼は砲兵、砲兵士官でした)、十榴(十糎榴弾砲)、十五榴(十五糎榴弾砲)、十加(十糎加農砲)などが出てきていました。今回、その大砲の大きさと重量感を現実に体験することができました。

私は榴弾砲とカノン砲の区別がよく分からなかったのですが、口径に比較して砲身が長く、口径の20倍以上の砲身長さを持っているものがカノン砲であり、それよりも砲身が短いのが榴弾砲、さらに短いのが迫撃砲である、という説明でした。

山本七平氏は、第二次大戦中に砲兵としてフィリピンのルソン島で戦いました。その当時の日本軍の大砲は、移動の際に動力牽引車ではなく馬で牽引します。砲兵の仕事の相当の部分は軍馬の世話だったようです。ルソン島のジャングルの中では馬が調達できず、兵士が大砲を引っ張って歩いたと書いてあったように記憶します。
しかし今回見た15センチ砲はいずれも、あまりにも大きくそして重そうであり、とても人間が引っ張れるようには思えません。
山本七平氏らがルソン島で人力で引っ張ったのは、10センチ砲あるいはそれ以下だったかも知れませんが、それでもとてつもなく重そうに感じました。

800円の入場券を購入し、遊就館の展示見学に入ります。
詳細は次号で。
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私の履歴書・近藤道生氏

2009-04-05 09:08:28 | 歴史・社会
日経新聞の私の履歴書は、女優の香川京子さんの後を受け、現在は博報堂最高顧問の近藤道生(みちたか)氏のシリーズが始まっています。

近藤氏のことは存じ上げていませんでしたが、第1回から興味ある内容が綴られています。

昭和16(1941)年の暮れ、近藤氏は大学2年生でした。
12月8日の真珠湾攻撃の報道を受け、日本中が歓喜で沸き立ちます。近藤氏はひそかに海軍筋の情報を聞きかじっていたので、勝つ見込みがない対米英戦争など始めるべきでないと思っていましたが、時勢はそれを口に出すことを許しません。
近藤氏は下宿を出て東大図書館に行きます。
『そこには旧制武蔵高校で1年先輩だった相浦忠雄さんがいた。誘われるまま二人で図書館の屋上に上がると、眼下に広がる東京の家並みを前に相浦さんは「君、これが全部、焼け野原になるんだよ」と唐突に言う。
「そうでしょうか。日本の軍部もそれまでには手を打つでしょう」と、戸惑いながら相浦さんの横顔をのぞき込んだ。相浦さんは迷いもなく「いやいや、必ずそうなる」と言って口元を引き結ぶ。
相浦さんは、米英を相手に戦争を始めれば、国力の違いから間違いなく負けると思っていた。にもかかわらず、開戦となったからには愛する者のために命を捧げようと考えたに違いない。
商工省に入るとすぐに海軍短期現役主計中尉となり「第一線熱烈志望」の声をあげて前線に出て行った。そしてほどなく戦死した。
相浦さんは武蔵高校、東大を通じて宮沢喜一さんと並び称される逸材で後年、宮沢さんが首相になったとき「相浦さんが生きていればどちらが先に首相になってもいいような人物だったな」と、皆で語り合った。』

真珠湾攻撃の直後、よほどの知識人であっても日本海軍の勝利に快哉を叫んだようです。満州事変以降、国民はまともな情報に接することができなかったのだから当然と言えば当然です。日米開戦の末路を正確に予言できた人はごく僅かだったと思いますが、ここに登場する相浦さんは、その僅かなうちの一人だったのでしょう。


私の履歴書の第2回では、開戦から20日経過した12月30日、近衛文麿公に招かれての箱根での夕食会が紹介されます。このときの近衛公の発言は「アメリカと戦いを始めたのはいかにもまずい。陸軍は私に対米交渉をやらせまいとするし、アメリカは最後になって、中国大陸から一兵残らず撤兵しろとプリンシプルにこだわり、極めて挑発的だった」だったそうです。
私が知っている近衛公は、支那事変勃発時に拡大を阻止するどころか積極的に拡大したこと、日独伊三国軍事同盟を締結して後戻りできない状況にしたこと、日米交渉の最終段階で結局政権を投げ出したこと、といった印象です。真実はどうだったのでしょうか。

近藤氏は、東大法学部を繰り上げ卒業し、大蔵省に出仕するとすぐ、昭和17年9月に短期現役士官として海軍経理学校に出向することとなります(私の履歴書第3回)。

ps さらにこちらにも追加の紹介記事を書きました。
コメント (8)
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地図記号の変遷

2009-04-02 21:26:19 | 杉並世田谷散歩
最近のテレビのクイズ番組で、「“畑”の地図記号は何か」という問題がありました。それを見ながら私は「畑は“ ”(空白)だよ」と反応したのですが、それは誤りであり、正解は“v”でした。

何故私は間違えたのか。

私が若かった頃と現在とで、地図記号に変遷があったのです。こちらの情報によると、“畑”の地図記号は当初(空白)であったものが、昭和40年に“v”に変更になったようです。

私は中学生時代、50年近く前ですが、山岳部に所属していまして、地図としては当時の地理調査所(現在の国土地理院)が発行する五万分の一地形図を用いていました。そのときの記憶が鮮明なため、現在でも「畑は空白」と覚えていたのです。

何故、昔は「畑は空白」だったのか。ウィキペディアに答えがありました。
「日本における近代の地図製作は、明治時代に陸軍参謀本部によって始められた。そのため、軍事行動に関係する事物について詳細な地図記号化が行われている。例えば、軍事行動に支障が生じない「空き地」と「畑」については、区別がなされておらず、記号も設定されていなかった。」

なるほど。納得です。
私が、国木田独歩「武蔵野」を読み解く上で用いた明治20年地図(古地図史料出版株式会社発行)は陸地測量部が作成したものです。
国土地理院の沿革を紐解くと(ウィキペディア)、「1884年(明治17年)参謀本部の地図課・測量課が測量局へと拡充され、さらに1888年(明治21年)5月、参謀本部の本部長直属の独立官庁である陸地測量部となり、以後1945年(昭和20年)の終戦時まで続いた。
終戦に伴い陸地測量部は消滅し昭和20年9月1日付けで内務省地理調査所が新たに発足、建設省地理調査所を経て、1960年(昭和35年)に現在の“国土地理院”となった」ようです。
つまり、明治20年地図は陸軍の陸地測量部が作成したものでした。

地図の余白には地図記号一覧が記載されています。中学時代に慣れ親しんだ五万分の一地形図に書かれた地図記号一覧では、一番目立つところに“堡塁”の地図記号が書かれていたように記憶しています。まさに、陸上戦闘で兵士が身を隠すために最重要の構築物が堡塁だったためでしょうか。

当ブログの「武蔵野」関連記事()で明治20年地図(古地図史料出版株式会社発行)の一部をコピーして使わしていただいておりますが、本日、古地図史料出版株式会社さんから使用許諾のご連絡をいただきました。まことにありがとうございます。
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