弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

松本ピアノと関東大震災

2022-10-23 15:58:17 | 歴史・社会
10月19日の日経新聞朝刊最終ページに、以下の記事が掲載されました。
深き音色の「松本ピアノ」創業者の故郷・君津で弾き継ぐ
鈴木希実(清和大学短期大学部助教)
2022年10月19日 日経新聞
『戦前、現在のヤマハと並び称されたピアノメーカーがあった。千葉県君津市出身の松本新吉(1865~1941年)が創業した「松本ピアノ」だ。音色は「スウィート・トーン」と呼ばれ3代に渡り製造されたが、大企業に押され生産を止めた。この地でピアノ演奏や指導をする私は、この楽器を研究しつつ、実際に弾くことで次代に引き継いでいきたいと考えている。』

新吉は西川オルガン製作所で修業後、独立し東京・築地に工場を構えました。1900年に渡米し、ニューヨークでピアノ作りの技を学んびました。
新吉は02年ごろ築地でピアノ作りを始めました。03年の第5回内国勧業博覧会に出品したピアノはヤマハのピアノと並び最高位を得ました。
翌年には東京・銀座に直営楽器店を構えています。現在の山野楽器店の前身のようです。
06年、築地工場が火災に見舞われました。同年に近くの月島に新工場を設けましたが、14年に再び火災に遭います。さらに再建した工場は23年の関東大震災で焼失しました。

新吉は六男・新治と24年、現在の君津市八重原に工場を設立。戦後も3代目の新一さんが作り続けましたたが、大量生産品に押され2007年に工場を閉鎖。
--以上、日経新聞記事より------------------

私は、以前からネット記事で松本ピアノのことを知っていました。2つの点で強く印象に残ったためです。
第一は、私が新日鐵(現在の日本製鉄)に入社した昭和48年(1973)、最初の2年間、君津市八重原の独身寮で暮らしていたこと、そして結婚した最初の2年間、同じ八重原の社宅に暮らしていたことによります。
八重原は、小糸川流域の平地とその縁の丘陵地帯との境界に位置し、いわば山の中です。地図で調べると、八重原社宅(跡地)と松本ピアノ(跡地)は、丘陵一つを隔てたご近所のようでした。
2007年まで工場が存続したということは、私が八重原に住んでいた頃に、一山超えた向こうに松本ピアノの工場が健在だったことになります。全く持って気づきませんでした。

第二は、関東大震災直後に松本ピアノの周囲で起きた一つの事件によります。
君津市周南の歴史 (1)周南中学校の松本ピアノについて
に簡単ないきさつが記載されています。
『松本新吉の孫にあたる松本雄二郎氏の著した「明治の楽器製造者物語」』・・・
『ついでながら、前出の『明治の楽器製造者物語』には、大正、昭和の世相を伝える記述もあったので、以下、それを紹介する。2つ目の「国家総動員体制の中で」という題は、筆者がつけたものである。
 「震災余話」
 (前略)
 震災直後から朝鮮人蜂起暴動のデマが飛びかい、町内に自警団を作り、不審な者を拘束尋問した。松本楽器で雇っていた朝鮮人夫婦は工場の下働き、妻は賄い婦としてよく働いていたが、月島町内の自警団から彼等に呼び出しが掛かり、これを工場側は宗教上の信念から拒否したが、かばいきれなくなり、安全な場所にかくまうために三男三郎と他にもう一人が、この夫婦を中にして密かに移動中、通りかかった惨殺現場を見た彼等は、逃れられないと観念したのか三郎等の腕を振り切って堀割に飛び込み自殺を図った。妻も続いて入水。水面に顔を出した二人を自警団が鉄棒で撲殺した。
 日本近代史の汚点の部分である。三郎は終生このことを悲しみ、二人を守りきれなかったことを悔やんだ。』(以上、「君津市周南の歴史」から)

関東大震災の後に起きた朝鮮人大量虐殺事件については、その詳細が明らかではありません。私は、上記の松本ピアノの人たちが体験した事件で、朝鮮人大量虐殺事件の一端を理解した気になっています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バーナンキ氏がノーベル経済... | トップ | ジェンダーギャップ会議での... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・社会」カテゴリの最新記事