弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

枝野幸男氏と福島原発事故

2021-11-14 16:47:05 | 歴史・社会
東日本大震災直後の民主党政権の行動に関し、私は当時の枝野幸男官房長官の発言と行動で、以下に記載するように、どうしても許せないことがあります。
この点に関し、当の福島県の被爆者の人たちも同じ思いを抱えていることが、今回の総選挙でわかりました。

【総選挙2021】「政権交代のために投票するが枝野だけは許せん…」 野党共闘の陰で原発事故被害者が抱える「ただちに影響ない」への怒りと葛藤 2021/10/22
『総選挙の投開票日を31日に控え、原発事故被害者たちがジレンマを抱えている。2011年3月の事故発生直後、当時の枝野幸男官房長官が連呼した「ただちに影響ない」が魚の小骨のように喉に引っかかっているのだ。放射性物質は避難指示区域外にも大量に降り注いだが、政府は被曝リスクに正面から向き合わなかった。わが子を被曝から守ろうと必死だった親は「せめて謝罪を」と願う。「枝野だけは許せない」と憤る人も。』

【原発事故と「ただちに影響ない」】「結局、詫びないまま辞めるのか」 総括なき代表辞任に福島から「枝野氏は総括するべきだった」との声 鈴木博喜 (「民の声新聞」発行人)2021年11月13日
『「枝野さんは「『ただちに影響ない』のイメージは強いですよ。〝誰も経験したことのない原発事故〟というのは分かるんだけど、やっぱり正確な情報を発信してくれれば良かった」
 当時、男性の子どもは幼稚園児だった。〝自主避難〟も検討したが、様々な事情でできなかったという。
「避難指示が出なかった区域にだって線量の高い場所はあったから。川俣でも飯舘村に近い地域、山木屋に近い地域、二本松に近い地域…。後から考えると、避難指示が出なかった区域に住んでいるわれわれも(避難指示に)該当したんじゃねえの?っていう想いがあるよね。特に幼い子どもがいる家庭は自力で県外に逃げた。とどまった人の多くは枝野官房長官の言葉を信じてた。だって分からないんだから信じるしかなかった。でも実際どうだったのかね。そのモヤモヤを抱えている人は多いですよ」』

私にしろ福島県の被爆者の方々にしろ、枝野さんの何に憤っているのでしょうか。以下に説明します。

2012年6月の当ブログ記事「米提供汚染地図と枝野官房長官(当時) 2012-06-20」で、私は以下のように述べました。
『去年(2011年)3月23日の後、国際原子力機関(IAEA)が「飯舘村の住民を避難させるべきだ」と勧告したとき、枝野官房長官が自分の口で、「その必要はない」と会見したのを私はテレビでしっかりと見ています(3月31日)。政府が前言を翻して飯舘村住民の避難を決定したのはそれからずっと後(4月22日)でした。』
2011年3月、飯舘村で何があったのでしょうか。2011年3月27日の当ブログ記事「放射能拡散状況の実態 2011-03-27」で紹介しています。
『事故を起こした原発の周囲で、放射能がどのように拡散しているかをコンピュータシミュレーションするソフトがあるらしい、という情報は断片的に聞いていました。しかし、実際に計算結果を見ることができずにいました。
それがやっと、23日に公表され、24日の朝刊に掲示されました。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測)システムという名称だそうです。ちっとも迅速でなかった点は皮肉ですが。
そしてその報道の半日後、24日の夕刊に、米軍機が測定した放射能汚染状況を示すマップが公表されたのです。
 
3月24日朝日朝刊                  3月24日朝日夕刊
上記二つのマップが、極めて似た傾向を示していることには驚かされます。

ただし、2つは対象が異なります。
SPEEDIの方は、「3月12日から24日までの12日間の積算ヨウ素被曝量(ミリシーベルト)」です。
米軍の方は、「17~19日に測定が行われ、数値は1時間当たりの放射線量(マイクロシーベルト)」です。』
放射能汚染地域が、福島第1原発から北西方向に線状に延び、飯舘村まで至っていたことが、米軍機の実測結果で明らかになっており、その事実は3月24日の新聞に掲載されていたのです。飯舘村に至る線状の放射能汚染は、3月15日早朝の2号機の破損に伴う大量の放射能放出と、そのときの風向きが南東の風であって放射能が北西方向に流れ、その日の午後の降雨によって飯舘村に降り注いだ、ということがその後の経緯から明らかになっています。

以上のような事実をも踏まえ、国際原子力機関(IAEA)が「飯舘村の住民を避難させるべきだ」と勧告したものと思われます。ところが当時の枝野官房長官は、自分の口で、「その必要はない」と会見で述べているのです(3月31日)。
飯舘村を中心とする20キロ圏外の避難区域を指定したのは、4月22日になってからだといいます(米軍機による放射能モニタリングデータ・続報 2012-06-19)。飯舘村が放射能汚染された3月15日から1ヶ月以上もの間、飯舘村の子供たちは放射能を浴び続けていたのです。

私はこのときのことを決して忘れません。この1点のみをもって、私は枝野さんを許すことができず、今回の枝野代表の辞任は妥当であると考えているものです。
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