大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年09月12日 | 写詩・写歌・写俳

<2447> 余聞、余話 「 憂 慮 」

     突如なる被災は何を意味するか事に因(いん)あるところを思へ

 自然に関する最近の日本を概観すると、自然災害が頻発している状況にあるのがわかる。これは国民のほとんどが感じていることだろう。8月の末に西日本の一帯で豪雨災害があり、被災地にはまだ収まりがついていない間に、今度は北海道で震度七の大地震が起きた。地震のみで見ても平成二十三年(2011年)三月の東日本大震災以後、熊本地震、今回の北海道地震と大地震が続いている。

 豪雨の災害にも言える。東日本大震災が起きた年の八月の台風十二号による紀伊半島での被災以後、鬼怒川、広島、九州北部、そして、今回の西日本一帯における洪水、土砂崩れの被災がある。それは毎年起き、たて続きの感があり、日本列島のどこで起きても不思議はないと思わせるほど頻発している。科学の進歩で凡その因はわかっていると知れるが、それにともなう災害を防ぐ手立てが及ばないというのが現状である。

 ということで、被災を最小限に止めるところに力を入れるということが進められている。防災マップなどはその一例であり、個々人の防災に対する意識の向上も図られている感がある。しかし、現実生活の優先は免れず、生活の安心に繋がる防災の意識は二の次にされるところがある。原電の場合でも、福島の経験があるにもかかわらず、経済優先の生活環境はなお原電に固執する傾向を見せている。自然災害は人間の意志ではどうしようもなく、受け入れざるを得ないが、原電の場合は人間が作り出したものであるから人間の意志如何によって止めることが出来る。

 しかし、経済優先の世の中に生活を委ねている現代人には原電を止めることが出来ない。日本はそういう状況に直面しているところにあり、大地震によってそれを気づかされたのであるが、今もなお問題を引きずりながら、なお、エネルギーを安易に供給出来る原電に執着する方向性を変えられずにいる。こうした現況を踏まえ、私が思う本題に入りたいと思う。

 地震の場合、現在の能力では予測が不可能で、致し方のないところにあるが、豪雨の場合は予測が可能で、災害に備える体制も地震より整っている。にもかかわらず、それが生かせず、被害を大きくしている感を受ける。これは被災当事者だけでなく、日本人全体の心持ちによるところが大きく、自然災害ではあるが、人災の色合いが強いと教訓されるニュアンスも個々の被災状況を概観すると見て取れるところがある。

 集中豪雨による洪水や土砂崩れの災害は、半端でない多大な雨量によるものであるが、それだけではなく、見えないところにその因が潜んでいるということも考えられる。思うに、それは町づくりに関係している。よりよい町づくりのために押し進められている開発に潜んでいる因と言ってよい。私は最近の奈良県における開発の乱状に危機感を覚える一人であるが、どのように展開して将来をつくり上げて行くのだろうか。それでは、以下にこの開発にかかわる危機感を抱くに至った理由について述べてみたいと思う。

          

 それは少子高齢化にともなう人口減少の国の状況にもかかわらず、開発がどんどん進められ、田畑が宅地化され、町づくりが進められている状況がそこここに見られることである。これは我が地域において感じられることであるが、全国的に見られる傾向として捉えられるのではないか。以前、豪雨災害に関して山の放置状態に一因を見る見解を示したことがあるが、平野部においては無節操に田畑が宅地化され、町づくりが行われていることにも私は危機感を抱くのである。それは、良しとする開発が、悪しきに通じるという点にある。その例を奈良盆地で考えてみると次のようなことが言える。

 まず、奈良県の地形を見ればわかる。ことに青垣の山々に囲まれている奈良盆地の大和平野を想像していただくとよい。そして、その奈良盆地と奈良盆地を囲む青垣の山に降る雨が如何なる流れをもってどこに及ぶかを考えていただくこと。盆地には盆地を囲む山々があり、山々には無数の谷があり、平野部には無数に近い大小の川がある。その川は大和平野のほぼ真ん中を東西に流れる大和川に流れ込み、奈良県の西端に当たる三郷町と王寺町の境を経て、地滑り地帯で知られる亀の瀬渓谷より大阪河内の平野部に出る。つまり、大和平野と周辺の山に降った雨はこの大和川に集中することになる。

 大和平野は瀬戸内海気候に準ずる年間雨量の極めて少ないところで、稲作に欠かせない農業用の溜池が1万以上と多い土地柄にある。こういう自然の事情によって普段の大和川は流量の極めて少ない川であるが、一旦大雨になると、大和平野及びその周辺の山々に降った雨が大和川一つに集中することになる。悪いことに川床が浅く、その上天井川で、昔は洪水が頻繁に起きた。近年、川の改修工事が進められ、このところ広い範囲の洪水は起きていないが、最近の半端でない集中豪雨に遭うと持ち堪えることが出来るかどうか、覚束なく、懸念されるところがある。

 このような土地柄にあるにもかかわらず、大和平野では、保水能力に長けている田畑が徐々に失われ、それに追随するように溜池も埋め立てられ、コンクリートに被われた町づくりが進められている。これは農業の軽視に違いないが、農地や溜池の保水能力、またはその管理を思うとき、半端でない集中豪雨と合わせ、大和平野の事情がいよいよ逼迫してくることが懸念されるということになる。

 今少し詳しく言えば、保水能力を失いつつある大和平野の状況は、宅地の開発で一見発展しているように見える反面、よくない方向に向かっているとも見て取れるというのが私の見方である。保水出来ない水は一気に支流から本流である大和川に襲いかかることになる。倉敷市真備町の例を思い起こせば、その被害が大和平野のどこで起きるか想像出来る。亀の瀬渓谷から流れ出る流量よりも押し寄せて来る流量が多ければ多いほど洪水は大きくなる。それを助長しているのが、無節操な開発であり、その方向性であると私には思えて来るわけである。つまり、現在、押し進められている町づくりはこの可能性をより高めるように進められているということに思いが向かう。

 少子高齢化で空き家がどんどん増えているにもかかわらず、新築の家がどんどん建つといった状況の昨今、保水能力のある大地はどんどんコンクリートに被われ、行き場を失った雨水は一気に氾濫する。果ては、一つしかない大和川に集中する。この傾向を現代はどんどん押し進めているのである。これは「木を見て森を見ず」と同等の様相と見てよいが、現代人は前を向いて進むしかない虫のように進む習性ゆえに立ち止まって考えを巡らせることも出来ず、欲望にまかせ邁進するように出来ているのだろう。果たしてこれでよいのだろうか。

 この状況は全国的に言えることであるが、殊に奈良盆地の大和平野には考慮の必要な問題だと思われる。倉敷市真備町の洪水は集中豪雨の雨量もさることながらこうした現代の町づくりの欠陥を突かれた面もうかがえる。前述の理由により奈良盆地の大和平野がその二の舞にならない保証はないと確信的に思われるゆえにこの「憂慮」の項を立てた次第である。大和川における川の対策は万全なように思われるけれども、はたして川の改修のみでよいのかということも、大和平野という個性的な地形ゆえに「憂慮」が訴えたくなるのである。 写真は二〇一三年九月一五日の大雨で洪水寸前まで水嵩の上がった大和川(王寺町付近、下流に向かって写す。後方は信貴生駒山系の山並)。

 


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