<2585> 余聞、余話 「ハシビロガモとミコアイサ」
生きものはさまざまにありさまざまはそれぞれにあり生きゐるところ
この時季少し広い池にはカモの姿が見られる。見慣れているものとしてはカルガモがあり、マガモ、コガモなどが見られ、池によってはヨシガモ、ハシビロガモ、キンクロハジロ、ホシハジロ、オオバンなどが見られる。斑鳩町の天満池では二週間ほど前から珍しいミコアイサの雌が来てカイツブリとともに忙しなく水に潜っている。迷鳥なのか、この一羽のみであるが、元気よく動き回っている。
近くの池では水面の二、三箇所でハシビロガモが二十羽ほどの群れをつくって水面をぐるぐる渦巻き状に泳ぎ回っている。みんなで力を合わせ、エサを漁っているように見える。一羽のみのミコアイサに比べ、ハシビロガモは賑やかである。このハシビロガモとミコアイサの様子を見ていると、同じカモの仲間ながら生きる姿勢というか、その生き方の違いが見え、生きものというのはさまざまであると思えて来る。
しかし、如何なる生き方、如何なる生きる姿にあっても、みんなそれぞれに生き、同じ時を生きているという共通点がそこにはある。この共通点に照らして思えば、どちらも何か愛おしく思えて来る。これはカモのみならず、すべての生きものに言える。
ハシビロガモの群れは泳ぎ回る渦巻きの形が崩れると、みんなで渦巻きの形を整えにかかる。ミコアイサは潜り上手でカイツブリより長く潜る。その繰り返しを日がな一日やっている。その行動には異なりがあるけれども、生きものが同じ時を生きるという共通点にあって、それを示している。これは確率の問題ではなく、生きる必然のものとして捉え得る種類の光景である。言わば、ハシビロガモはハシビロガモの、ミコアイサはミコアイサの、カイツブリはカイツブリの生を生きているということ。そして、人間は人間の生を生きているということにほかならないということである。
言わば、生(生きるということ)は実に単純で、その単純な生をややこしくしているのはすべて生に付随するものに因ると見てよいように思われる。生に付随するものが単純明快であれば、自ずとその生は単純明快を通すことが出来る。この付随するものは千差万別で、なかなか見通せないが、最も難題なのは欲望ということに違いない。人生に諦観とか達観という観念の言葉が用いられるのは、生において自らが如何に欲望と対峙するかの意識改革の言葉と受け取れる。そして、それは単純明快な人生、つまり、生に通じると言ってよい。
繰り返しになるが、ハシビロガモはハシビロガモの、ミコアイサはミコアイサの、カイツブリはカイツブリの生を生きているということになる。そして、ほかの生きものも同じく、人間もまた人間の生を生きているということになる。つまり、同じ時を生きるという共通点にあって生きものはみんなそれぞれに生きているということなのである。 写真はたった一羽のミコアイサ(左・中)、ぐるぐる泳ぎ回るハシビロガモの群れ(右)。
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