大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年02月03日 | 写詩・写歌・写俳

2586> 余聞、余話 「平成時代最後の節分に思う」

     節分や「鬼は外」なる意味を問ふ

 今日三日は節分、平成時代最後、即ち、新時代に向かっての節分ということになる。最近の世の中を思うに、世の中をリードして行かねばならない御仁、例えば、国家運営に関わっている政治家や官僚、世の中を動かしている企業の上層部に絡む不正が次々に発覚しているのをはじめ、教育の最高機関に属する大学関係者のこれも見過ごせないスキャンダルが飛び出し、また、その一方の社会の末端では相変わらずおれおれ詐欺などが横行し、被害者を出している。言わば、世の中は上から下まで不正まみれで、その実態が浮き彫になっている。

 こうした最近の世の中の様相は、権限の集中及び組織の緩み、或いは過剰な儲け主義、または金権体質の露呈を反映していると見て取れる。この様相は、一部の関係者の仕儀ではあるが、それを許している社会の個々人の内実に負っているところがある。この点を考えると、そこには一人一人の内実を改めなくてはならないということが思われて来る。こうした不正の横行する精神性の劣化は如何なるにおいて生じ来たったのか。そこのところを問いつつ、時代精神における変革と進化を求め、切り開いて行かなければならない。それが新時代には必要であると思える。

                 

 思うに、平成時代最後の節分に意識される鬼は、こうした獅子身中の鬼とするのがぴったりなような気がする。それは個々人の精神に存している一見寛容に思える悪弊、つまり、その悪弊の鬼を追い払い、精神性を高めて行くこと、これが肝心なように思われる。「鬼は外、福は内」の鬼は自分自身の内に存する鬼で、不正を行う御仁はもちろんのこと、不正実行者に寛容な個々人の内の悪弊たる鬼をも追い出さなくてはならないのが新時代には求められるということになる。

 個々人が、自分の保身のために「鬼は外、福は内」と呼ばわるのは人情であるが、外に追いやられた鬼は外で悪さをすることになるから、この言いは社会的とは言えない。個々を優先することは個々の対立を生む素地になるのは当然で、「鬼は外、福は内」は個々人に言うのではなく、社会全体において叫ばなくてはならないということも言えるわけである。

 で、平成時代最後の節分における「鬼は外、福は内」は次なる新時代に向かって呼ばわるわけであるから、その鬼が何たるかを知らねばならないということになる。ということで、最近、世相を賑わしている数々の不正のことをあげなくてはならない。その不正の根源に現代人の精神に巣食う鬼の存在があるわけで、この鬼は外から災いを及ぼす鬼ではなく、言わば、獅子身中の鬼ということが言える。

 戦後、科学技術の進展とともに、日本は西洋化に基づく物質文明による生活の豊かさと利便性を得て来た。だが、その反面において人間の心の問題に当たる精神性を置き去りにし、または軽視し、経済的発展をもって社会の発展の指標とし、時代を進めて来た。

 もっとくだけた言い方をすれば、戦後はずっと儲け主義で国家運営を進めて来た。結果、経済大国として今に至るが、その方針の反作用として、競争に勝つための不正がまかり通り、その社会悪にほかならない不正に甘い個々人の誤った寛容さが生じ、今に至っていることになる。不正は当然鬼に当たるもので、「鬼は外」の対象として次なる新時代に向かって呼ばわるということになる。平成時代最後の節分は、このように次なる新時代に向け、獅子身中の鬼をして鬼と見るのがよいように思われる。旧悪を糾せないならいつになっても社会の成熟は果たせない。―「鬼は外、福は内」。 写真は左から暴れる赤鬼、青鬼、黒鬼(法隆寺西円堂)。  節分や鬼を意識の日なりけり   節分や鬼とは如何なるものならむ


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