<1474> 教訓 との対話
何ごとも 執着せずば 始まらず 執着すれば 惑ひとはなる
奈良の薬師寺には、高田好胤元官主が広めた「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空の心なり」という「心身を養う言葉」というのがある。説教を聞く前などに必ず一同で唱える言葉で、薬師寺では今も続けられている。
偏見に陥らず、執着せず、大らかな心を目指すのが般若心経であり、般若心経が説く空の心であるという。だが、生きとし生ける私たちには、これがなかなか出来ず、思うに任せない。諦観とか、達観というような言葉は、般若心経の空の心を望んで用いられる言葉であろう。
言わば、偏りは常の身に潜み、こだわり、即ち、執着はこれなくしてことは始まらないし、とらわれず、意識することなく、この世の中を渡り行くなど出来るものではないのが生の現実であるから、般若心経の空の心に達することは難しく、空はまさしく理想ということになる。そして、空に達し得ない者は惑うということになり、惑いは心の乱れに通じ、理想にはほど遠くなる。
生きるということは、言わば、空の心の理想も惑いの心の乱れもひっくるめた総合としてあるものであろう。なるべく、理想の空に近づけるように心の状態をもって行くことが望まれる。ということで、一つには般若心経が説く仏教の教えは開かれたということになる。
果たして、私たちは空の心に近づき、幸せを得ているだろうか。身近なところから世界の動向まで見渡してみるに、理想には遠く及ばず、心の安寧は保たれずにいるように思われる。科学技術はそれなりに進歩を続け、その伸びしろにまだ望み遥かなものがうかがえる。だが、一歩我が身の内に立ち帰り、踵を心に向けてみると、進歩の姿はおぼろげに溶解して、果たしてこれでよいのかと自問も聞かれるということになる。けれども、また、これが生きとし生けるものの姿とも考えられ、そして、また、空の心に思いが巡るのである。 躓けばなほも登りの道程に点す心の中の青空 写真はイメージで、薬師寺の薬師如来坐像のアップ。
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