大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年07月28日 | 写詩・写歌・写俳

<330> 山上ヶ岳 随想

    この世にはさまざまな出来事が見られる

    出来事はみな生きているものたちの証

    見るべくあり 聞くべくあり 思うべくある

 山上ヶ岳(一七一九メートル)に天川村洞川の清浄大橋から表参道を登ると洞辻茶屋で尾根筋の大峯奥駈道に出合う。この洞辻茶屋の出合まで登ると急に見晴らしがよくなり、風景が一変して、山頂への目標が見えて来る。気分が開け、再び登りにかかる。そこからは鐘掛岩や西の覗などの岩塊や絶壁が連なり、修験道の修行の場が見られ、御岳にやって来たという実感が湧いて来る。山頂は大台ヶ原に等しい準平原の広場になっていて、修験道の根本道場である大峯山寺が広場の一角を占め、下方の参道脇には宿坊が点在し、祈りの場としての印象がうかがえる聖の地になっているのがわかる。

 山頂には三つのルートから登れるようになっているが、二股になっているところを含め四箇所に女人禁制の結界門があり、そこより山上側には女性の立ち入りが出来ないようになっている。殊に、五月三日から九月二十三日の開山期間中は厳しく、まずこの期間中に結界内に女性の姿を見ることはない。つまり、山上ヶ岳の登山者はすべて男性ということになる。私の場合、信仰心があって登るわけではないが、この山だけは、ほかの山にはない雰囲気がいつ登っても感じられる。これはやはり女人禁制の山であるからに違いない。

 山上ヶ岳の女人禁制については、性の差別であるという抗議の声も聞かれるところであるが、この男性の修行の場である山に対して、この山に立ち入る身として私にも感じられるところがあるので、それを少し書いてみたいと思う。これは、いつだったか触れたことがあるが、如何に時代が変わっても変わらない男女の間柄というものがある。性同一も言われるが、この世の中は男女によって成り立ち、その男女の人間関係が基にあっていろいろな出来事が生まれ、事件なども起きている。ということがあって、世の中のこの根本のところを男性だけの場にして見つめる効用というものがこの女人禁制の山、山上ヶ岳の空間にはあるということが求められて来た。

 このことを踏まえて女人禁制の男が占有する山上ヶ岳の空間を考えるに、女性には性差別のように思われるところのこの空間が、この世の中において有用な一面を持っていることがうかがえ、この空間の意味というものが思われて来ることになる。この空間で出会うのは、言うまでもなく男性ばかりであるが、この男性ばかりの光景というものが重要な意味を持っていると私には思える。

 登山道で擦れ違う者は互いに「ようお参り」と挨拶を交わすが、すべては男性同士、同性であることに気づく。これはどういうことを意味するかと言えば、男女から成り立っているこの世の中で、わずかな場所とわずかな時間ではあるけれど、この空間では男女を切り離し、男性だけになって、そこに自分という男性の身を置くということによって、男女からなるこの世の中というものを見ることが出来るからである。これは経験しないとなかなかわからない感覚であるが、異性を交えない男性だけの世界の大らかさというものがそこには生まれ、この雰囲気の空間から男女の関わりというものが根本にある私たちの日ごろの暮らしというものを顧みることが出来るからである。

  このようにしてある山上ヶ岳の女人禁制の空間は、男女間の差別の場というよりも、男女からなる世の中の人間関係における一つの大きなテーマに対してある空間であって、世の中全般における効用と位置付けて考えた方がよいように私には思えるのであるが、これは山上ヶ岳に登るにつれて感じられて来ることで、この空間に女性が全くいないという実際によるものである。十人、二十人のグループで登る一行にもよく出会うが、これらの一行に老若の違いはあっても、女性は全く含まれていない。ここがこの空間が意味する肝腎なところで、一行の雰囲気を実に不思議なものにしている。何かリラックスと言ってもいいような、大らかな気分が見て取れる。

 これはその集団の中に異性たる女性が含まれていないからで、日ごろ私たちは気づかずにいるけれども、男性は女性を、女性は男性をどこかで意識しながら暮らし、この生活環境の中で、例えば、いい恰好をして見せるようなことから来る緊張感に縛られたりするわけであるが、こんな生活環境から一時的ではあっても、この禁制の空間に身を置くことによって、この気づいてはいないかも知れない緊張感から気分を解き放つことが出来るからである。

 それは一時的であるにしても、否、一時的であるがゆえに効用となることが言える。山を下り、この禁制の空間を出れば、また、男女の交わる世の中、つまり、日ごろの生活環境の中に戻るわけであるが、男性だけの山上ヶ岳での精神的経験は、その意味において役に立つ。信者から毎年一回は登るということをよく聞くが、これなんかはこの禁制の山の効用がよく浸透している現れと言える。西の覗の断崖からロープで逆さに吊リ下げられた大の大人が、誓いの言葉を言わされるとき、周囲からどっと笑いが立ち上がったりしても、それが少しも嫌味なく感じられるなどは、その効用のよい例であるように思われる。

 そんな風景を見たりすると、世の中の事件などはこの男女のことが根にあって起きているのではないかと思われて来たりする。で、或るは、いじめに関わる自殺の問題なども、因を辿れば、本人同士の問題に違いはないが、本人同士以前に、親との関わりや先生との関わりがあり、もっと突き詰めて言えば、根本のところに生存競争の一面とも言える男女から成り立っている世の中との関わりがあると言え、山上ヶ岳の禁制の空間に見る精神的意義のことなども思われて来るのである。

                            

 このように見て来ると、いかに近代化された民主主義の世の中にあっても、男女からなるところの人間関係は今も昔も根本のところは変わりなく、いろんな面にその影響が現れ、これを因にした事件なんかも起き、今も世の中をぎすぎすしたものにしていることがわかる。そして、このような世の中にあっては、一時的ではあるにせよ、自分の身を禁制の空間に置いて自分及び自分に関わる人間関係を見つめることの精神的な意義、効用というものが認められるわけで、ここに女人禁制の必要性が指摘出来ることになる。

 山上ヶ岳の女人禁制は男女から成り立っている私たちの暮らしの中の一つの知恵と言ってよいもので、これは修験道の開祖、役行者の崇められる指標にもなっているストイックに通じると言える。 で、これは提案でもないが、この男女の世の中における効用としてある禁制の場を女性の側も持ち、どこかに山上ヶ岳に等しい男子禁制の御山というものを運営することがあってもよいのではないかということで、私にはこれを奨めたい気もする。女性も上ヶ岳のような禁制の場を持てば、男女平等の意味の上においてもよかろう。女人禁制をなくするよりも、世の中の効用としては、むしろこちらの方がよいように思われる。どうであろうか。写真は左が山上ヶ岳の山頂広場にある大峯山寺。右は絶壁をなす西の覗。

                                          


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