<1879> 余聞・余話 「作曲家船村徹さんの逝去に寄せて」
移ろへる時の定めとともにある人生ゆゑに歌などもある
また一人昭和の人が逝った。作曲家の船村徹さん(84)。心不全で倒れたという報。戦後を代表する作曲家の一人である。だが、亡くなったとは言え、歌は残るという思いがする。昭和三十年(1955年)の「別れの一本杉」(詞 高野公男・唄 春日八郎)に始まり、これは私の青春時代で、私の中ではそれからずっと船村演歌に浸って来たところがある。発表年次に従ってその代表作を見てみると、私には次のような歌があげられる。みな本筋の演歌で、昭和とともにある歌謡曲、流行歌である。
「あの娘が泣いてる波止場」(三十年・詞 高野公男・唄 三橋美智也)、「東京だよおっ母さん」(三十二年・詞 野村俊夫・唄 島倉千代子)、「柿の木坂の家」(同年・詞 石本美由起・唄 青木光一)、「哀愁波止場」(三十五年・詞 石本美由起・唄 美空ひばり)、「王将」(三十六年・詞 西条八十・唄 村田英雄)、「なみだ船」(三十七年・詞 星野哲郎・唄 北島三郎)、「風雪ながれ旅」(五十五年・詞 星野哲郎・唄 北島三郎)、「矢切の渡し」(五十八年・詞 石本美由起・唄 ちあきなおみ・細川たかし)、「兄弟船」(同年・詞 星野哲郎・唄 鳥羽一郎)、「女の港」(同年・詞 星野哲郎・唄 大月みやこ)、「みだれ髪」(六十二年・詞 星野哲郎・唄 美空ひばり)、「紅とんぼ」(六十三年・詞 吉田旺・唄 ちあきなおみ)。
私の中で船村演歌と言えば、ほかにもあるが、概ねこのようである。歌の世界で公私に活躍を見せたことは既に新聞等で伝えられている。昨年授与された文化勲章が全てを物語っているが、その哀愁に満ちたメロディ―は多くの人に愛され、昭和の言わば戦後という時代の歌謡曲という庶民的な文化の一端に大きく貢献した。三十年代で言えば、私には一方に「有楽町で逢いましょう」、「誰よりも君を愛す」、「いつでも夢を」といった憧れのロマン的都会調のメロディ―を生んで来た国民栄誉賞の作曲家吉田正がいて、二人の好対照な歌が深く印象に残っている。
「別れの一本杉」、「なみだ船」、「みだれ髪」の系譜は、前述の通り、人の心の痛みに寄り添う哀愁のメロディ―の系譜と言ってよかろう。自分自身の心情や思いを歌にする傾向が見られ、歌にも時代性がうかがえる昨今であるが、そういう歌の中にあっても、船村演歌の哀愁の調べはこれからも唄い継がれて行くだろう。
冥福は「みだれ髪」を口ずさみながら --- 。 ♪♪ 髪のみだれに 手をやれば 赤い蹴出しが 風に舞う 憎や 恋しや 塩屋の岬 投げて届かぬ 想いの糸が 胸にからんで 涙をしぼる ♪♪ 写真はイメージで、海。
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