山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第36回>

2018-06-30 04:46:09 | くるま旅くらしの話

【今日(6/30)の予定】 

道の駅:美深 →(R236)→ 道の駅:名寄 → その先未定なるも近隣市町村の博物館等を見学することとする。

 

【昨日(6/29)のレポート】 天気:曇り後雨

<行程>

道の駅:おうむ →(R238)→ 道の駅:マリーンアイランド岡島 →(R238)→ オホーツクミュージアムえさし →(R238)→ 枝幸町ウスタイベ岩キャンプ場 →(R238)→ 道の駅:マリーンアイランド岡島 →(R238・D・R40)→ 道の駅:美深(泊)

 

<レポート>

 朝から雨がかなり強くなっていたが、出発する9時頃には止んでいた。今日は邦子どののたっての要望である枝幸町のウスタイベ岩キャンプ場を会場とするカニ祭りのために前日入りする日である。カニ祭りは明日と明後日の二日に亘って行われ、明日は前夜祭、明後日が本番となって終わりとなる。とにかく彼女の願いは、この祭りの際にいつも披露されているよさこいソーラン踊りを見ることなのだ。特に今年は札幌で行われる大会で地元の枝幸から出場したチームが優勝したというので、それを見るのに力を入れているのである。

 祭りは明日からなので、今日はその前に枝幸町にあるオホーツクミュージアムえさしという博物館を見ておくことにして出発する。1時間もかからずにミュージアムに到着する。いつもは傍を通る国道から立派な建物があるなあと感心しながら見て通るだけだったので、入るのは今回が初めてなのである。湧別町の博物館も立派な建物だったが、この博物館も引けを取らない感じの建物だった。湧別町の博物館は重厚な感じがしたが、ここはカタカナ風の軽快な感じのする印象だった。

 中に入ると先ずはこの地の遺跡などから発見されたというデスモスチルスという古代の生物の標本が展示されていた。聞いたことも無い名の巨大爬虫類で、どうやら海の中に潜ったりして餌を探していたらしい。歌登地区の辺りで化石が見つかったらしい。その骨格標本が展示され、丁寧な説明がなされていた。それを初めとしてこのコーナーでは海の生物類の展示がなされていた。枝幸はカニを初めニシンや鮭など多くの漁業資源に恵まれている場所でもある。

 その後は古代の文明から近世に至るまでのこの近郊の人間の暮らしの歴史等を古代の出土品の展示と合わせて解説がなされていた。時に力を入れていたのは、オホーツク文化についてであった。普段あまり耳にすることの少ないこの文化は、枝幸を含めたオホーツク海のほぼ同じ環境を有する何種類かの民族がつくり上げてきた文化であり、近世に至って消滅して行った文化でもある。それらの状況が丁寧に展示・説明されていて興味深かった。

 その後2階へ移って、ここには明治以降の枝幸町の歴史が幾つかのエピソードを交えて解りやすく展示・解説されていた。この歴史については、かなりの数の補助説明資料が用意されていて、無料配布されていたので、追ってじっくり読んでこの町の歴史を追い追いかけてみたいと思った。1時間ほどの見学だったが、大変有意義なものだった。

 そのあと、食事の前にちょっとウスタイベ岩のキャンプ場を覗いておこうと向かったのだが、行って見ると早や満席といった状態で、どこに車を止めて良いのやら困惑するほどの混雑状態に驚いた。何だか知らないけど、むやみやたらにテープのようなものが張り巡らされていて、以前来た時の雰囲気とは全く違ってしまっていた。とにかくどこか空いているところを探そうと中の方へ行ってみたのだが、車の通行路はぬかるんでいて、これで雨が降ったりしたらスタッグをして抜け出せなくなるのではないかと思われるほどの状態となっていた。一旦車を止めてみたものの、これから先もっとたくさんの車が入って来るに違いなく、そうなると悪条件が益々悪くなって楽しさよりも心配の方が大きくなってしまうのではないかと思った。邦子どのもどうやらそれを少しは感じていたらしい。それでカニ祭りの見物参加は止めにすることを提案した。ただ、よさこいソーランの踊りをどうしても見たいというのであれば、我慢してここにいてもいいと思ったのだが、邦子どもも最悪のことを考え諦めることとなった。会場設営の人の話では、年々来訪者が増えており、キャンプ場の整理は町として直接係わっておらず、来訪者の車をいちいちガイドはせず自由にやって貰っているので、テープを張っているのも特に規制などしていないとのことだった。先着の人は数日前から来ている人も多いようで、場所を確保した後車でどこかに出かけているのも散見され、テープを無視して入り込むのもどうかと思われ、実に醜い気持となってしまった。以前はテープなど見られず、前日に来た人も自由に空いている場所に車を入れたみんなで祭りを楽しめたのに、今のこの状況は、過剰な人間が住む身勝手な早い者勝ちの世界のような気がして幻滅感が膨らむのを抑えられなかった。まるで東京の上野や千鳥ヶ淵の花見の場所取り騒動のような感じには、嫌悪感を覚えるだけである。自分的にはカニなどには興味はなく、踊りにも興味はないので、このような醜さの内蔵された世界はまっぴらご免なのである。

もう二度とこの祭りに来ることはないなと思いながらウスタイベ岩の会場を後にした。

そのあとは邦子どのがどうしても風呂に入りたいというので、この後のことも考えて美深の道の駅に行くことにする。美深には温泉がある。その前に道の駅:マリーンアイランド岡島により昼食を済ます。この道の駅の近くには立派なオートキャンプ場があって、以前は電源も無料だったのだが、利用者がでたらめな使い方をしたり、近くの海に入って昆布をとるなどの無法な行為をする者がいたため、一時は締め出しをされ、今でも電源は使用できないように処置されている。泊る人は皆無らしく車は見られなかった。折角の地元の親切に応えられない来訪者を悲しく思う。そのような者が、カニ祭りの会場やキャンプ場にたくさん混ざっていなければいいがと願うのみである。

美深までは山の中をかなり走って、それからR40に出て、美深の温泉施設に着いたのは14時半だった。ここで温泉に入った後は、道の駅の方へ行った泊ることにする。ここには美深アイランドというレジャーランドがあり、その中にはフリーサイトのキャンプ場やオートキャンプ場があるのだけど、今回は滞在するつもりはないので、そちらの利用は敬遠することにした。夕刻が近づくにつれて雨勢はますます強まり、カニ祭りに残らなくて良かったのか、ウスタイベの方の天気は悪化していないのか、複雑な気持ちで夜を迎える。いずれにしても明日からは新たな気持で近隣の自治体を回ることにしたい。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第35回>

2018-06-29 05:53:36 | くるま旅くらしの話

【今日(6/29)の予定】 

道の駅:おうむ →(R238)→ 道の駅:マリーンアイランド岡島 →(R238)→ オホーツクミュージアムえさし →(R238)→ 枝幸町ウスタイベ岩キャンプ場(泊)

 

【昨日(6/28)のレポート】 天気:曇り時々雨

<行程>

道の駅:上湧別チューリップの湯 →(R242・R238他)→ 紋別市博物館 → 紋別市内でコインランドりーで洗濯 →(R238・R239)→ 西興部村郷土館 →(R239・R238)→ 道の駅:西興部花夢  →(R239)→ 道の駅:西興部 →(R238)→ 道の駅:おうむ(泊)

<レポート>

今朝も曇り空が広がって動かず時々小雨がパラつくという空の機嫌だった。いつになったら安定した青空が望めるのか、だけどそうなると今度は猛暑が襲ってくるのではという恐れを抱きながら毎日複雑な心境でいる。

さて、今日は移動しがてら紋別市の博物館とそれから西興部村の郷土館を訪ね、泊りは明後日からの枝幸町のカニ祭り見物のことを考えて、少し手前にある道の駅:マリーンアイランド岡島まで行くことにしようかと考えている。しかし、成り行き次第では違うことになるかもしれない。邦子どのはあまり海に近い場所は敬遠したい人だから、天気次第ではどうなるか分からない。

昨夜のこの道の駅での泊りの車は少なかったようで、10台前後だったようだ。皆さん出発が早くて、自分たちが食事を終えた6時半頃になると、殆どの車はどこか次の目的地に向かった様である。自分たちも9時過ぎに出発する。

先ずは紋別市の博物館へ。今まで何度も紋別を訪れているのだが、紋別といえば冬の流氷と妖精クリオネのことくらいしか思い浮かばず、その歴史などについては知識はほぼ皆無といったお粗末な今までなのである。だから、今日はしっかり見聞しておこうと考えての入館だった。ここは無料となっており、有難いことである。それから40分ほど館内の展示やビデオなどを見て回った。

感想としては、紋別は江戸時代は松前藩宗谷場所に属しており漁業を中心に栄えた所であったこと。幕末は一時会津藩の領地となり、標津と同様ここに北方の守りのための陣屋が設けられていたこと。その後開拓使の支配するところとなり、明治の半ばを過ぎてから山間部への入植が始まったということ。それにここでは農林水産業の他にオホーツクの金産出地として、一大盛況を招いたことなどを知った。特に金鉱については、住友鉱業の鴻の舞い鉱山が昭和48年迄操業を続け、この間にかなりの金や銀の産出があったことを初めて知った。元々は砂金の発見から始まったようだが、最盛期の町の繁栄はかなりのものだったらしい。新た知識を得ることが出来て紋別という町を少し違った角度から見なければならないなと思った。

博物館を出たその後は、郊外近くにあるショッピングモールで買い物をする。この間に何度か利用しているコインランドリーがあるのに気が向き、西興部村の郷土館に行く前に、洗濯をすることになった。西興部村に行くのはそれほど急ぐことでもないという判断である。それから2時間ほどかけて洗濯を終了する。同じコインランドリーにつくばナンバーのキャンピングカーの方が入って来こられて、話を聞けば何と同郷同市即ち茨城県守谷市在住の方なのだった。同じ市内に住む根本さんご夫妻で、今年は初めての北海道ということだった。しばらく旅や旅車のことなどについて話を交わす。自分よりは10歳もお若く、これからが旅の本番だなと思った。今年は7月の中頃までで戻られるとのこと。この後も大いにくるま旅を楽しんで頂きたいなと思った。

そのあとは、今日の次の目的地の西興部村の郷土館を目指す。本当はその前に興部町の郷土館を訪ねたかったのだが、こちらの方は常設の公開をしていないらしく、手続きが面倒なようなのでパスすることにした。西興部村は、人口が千名余の北海道の中でも少ない村の様である。どうして西興部村なのかについても知りたいと思いながらの訪問だった。郷土館は直ぐに判って、中に入る。大きな施設ではなかったが、よく整理されていて、開拓の歴史なども迷わずに理解することが出来た。

村の歴史によると大正14年に興部町からの分村ということだったらしい。その理由はこの村は山間部にあり、往時は海側の方が栄えていたと思われ、その後山間部への入植が進むにつれて、地域としての利害が一致しなくなり、分村に至ったということのようだった。なるほど、そのようなこともあったのだと理解した。村の産業としては農林業が中心だったが、石灰石が採取出来た時代があり、一時はそれが栄えた時もあったけどやがて資源枯渇により閉山となったとあった。その様々な農具や民具等が陳列されていたが、それらの中で最も目を引いたのは、「拝み小屋」と呼ばれた開拓当時の掘立て小屋を再現したものだった。今まで幾つか開拓小屋の復元したものを見て来たのだが、この村のそれは凄まじい感じがした。「拝み」というのは飛騨の合掌造りと同様に両手で拝むような形をした掘立小屋で、飛騨の合掌造りの最上部を地面に建てたような粗末なレベルの小屋なのだった。恰もそれは縄文時代の竪穴式住居のような外観をしており、その内部といえば、竪穴住居よりもレベルが下だったのではないかと思うほどだった。改めて先人の開拓魂の凄まじさを知り頭を垂れる思いだった。

西興部村郷土館の中に復元されていた拝み小屋と呼ばれる開拓小屋の様子。入口が合掌の形をしているのでそう呼ばれたとのこと。

西興部村郷土館の後は、今日の泊りを同じ村の道に駅にしようと行ってみたのだが、20年ほど前に来た時のイメージとは異なっており、花夢と名づけたイメージの雰囲気が感ぜられず、それに草を刈ったばかりの臭いが充満しており、これでは嗅覚抜群の邦子どのが眠れる筈がないと判断し、引き返して興部町の道の駅へ行くことにした。しかし行って見ると、何となく泊る雰囲気ではなさそうなので、いつも利用させて貰っている隣の雄武町の道の駅:おうむへ行くことにした。その途中で空になっていたLPガスのボンベを充てんして貰う。雄武町のLPガス屋さんは良心的なのが解っているので、ここを通る時は必ず充てんをお願いすることにしている。今回もそれは変わらなかった。

間もなく雄武町の道の駅に着いて、錨を下ろす。この道の駅は海の近くにあるのだが、海は見えず標高が15mというから、まあとんでもない大地震があって津波が来ない限りは大丈夫だという安心感がある。すぐ傍にスーパーやコンビニなどもあって至便でもある。自分のアンテナでは地デジは映らないので、今夜のサッカーワールドカップは見ることができないのがちょっぴり残念。諦めが肝心ということもある。早やめの就寝となる。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第34回>

2018-06-28 06:34:16 | くるま旅くらしの話

【今日(6/28)の予定】 

道の駅:上湧別チューリップの湯 →(R242・R238他)→ 紋別市博物館 →(R238・R239)→ 西興部村郷土館 →(R239・R238)→ 道の駅:おうむ →(R238)→ 道の駅:マリーンアイランド岡島(泊

 

【昨日(6/27)のレポート】 天気:雨

<行程>

道の駅:上湧別チューリップの湯 →(R242・.R238・D)→ 佐呂間町開拓資料室 →(D・R333・R242)→ 遠軽町郷土資料館 →(R242他)→ 湧別町郷土博物館ふるさと館JRY →(R242)→ 道の駅:上湧別チューリップの湯(泊)  

<レポート>

 朝から雨。それでも止んでほんの少し明るくなり出したので、ワッカへ行けるかなと思ったのも束の間、再び雨が降り出し、これはもうワッカは諦めて郷土館巡りをするしかないと決めたのだった。今日の予定としては、3か所を訪ねることにしており、先ずは佐呂間町の開拓資料館、次が遠軽町の郷土館。そして地元湧別町の郷土博物館ふるさとJRYである。

 先ずは雨の中を出発して佐呂間町に向かう。佐呂間町は勿論日本で3番目の大きさの湖のサロマ湖に因んだ町の名だと思うが、いつもその湖の傍を走る道しか通っていないので、町の中心がどの辺にあるかなどさっぱり解らない。地図によればかなり山の中に入った場所に役場があるようだ。開拓資料室は役場の傍にあったが、本当に資料室といった感じで、事務所の受付に申し込んで鍵を開けて中に入ることとなった。中に入ると入口にこの町の開拓年表が配布資料として用意されていたので、有難かった。それによるとこの地の開拓は明治27年ごろから始まったようである。最初は湖側での漁業からだったようだが、その後道路がつくられるなどして内陸部への入植が展開して行ったようである。地名の中に、岐阜、伊予、栃木などという所があるようなので、恐らく出身地名をそのまま地名にしたのではないかと思った。展示資料は開拓に関わる今まで見て来た各所の様子と同じようなものが並べられていた。後で年表等をじっくり見ることにして資料室を後にする。

 雨は依然として降り続いており、幾分強まった感じがする中を走り続けて、遠軽町の郷土館についたのは11時を少し過ぎた頃だった。雨は一向に弱まりそうもない。中に入ると、事務室の中にいた方に声をかけ、入館料を支払う。実はこの方が館長さんで、その後約1時間半ほど展示資料やそれらの背景などについて、詳しく丁寧にご説明を頂戴して恐縮した。杉山さんとおっしゃる館長さんは、高校の社会科の先生をされていた方で、専門の社会科の領域のみならず、地学にも造詣が深く、特に地元近くで産出する黒曜石については、特段のコレクターでもあることを知った。伺ったお話を全て記すことは到底不可能なので、特に印象に残ったその一部のみを期すことにしたい。

 まずは黒曜石の世界の話。郷土館の玄関を入ると受付の傍に金網の籠が置いてあり、その中に丸い黒っぽい石が30個以上無造作に入れて置かれていた。何なのだろうと聞くとそれが何と黒曜石なのだという。この石のイメージといえば、縄文時代から鏃などとして広く使われて来ているという知識くらいで、その原石を見たことも無く、一体どのような意思からどのようにしてあの鏃を作るものなのかを知りたいとは思っていた。この黒曜石は北海道では白滝という所が産地として有名なのは知っていたが、その白滝は今は合併して遠軽町の中にあるのである。杉山先生は遠軽町出身のお方で、以前からこの黒曜石に魅せられて、白滝エリアにある赤石山に出かけられ調査をされたとのこと。それのみか世界中の関係ある場所へ出向いて調べられたとおっしゃっていた。ご自宅にあるコレクションの写真を見せて頂いたが、驚いたことにその中に白色の黒曜石があるというのを知り不思議な世界があるものだと、何だか自分も急に地学の世界に入ってしまった感じがした。

 端から異種の世界に入ってしまって、少し当惑しかけたのだが、その後の先生のお話は北海道の開拓の歴史を考える上で大変参考になり素晴らしかった。その中で特に気づかされたのは、北海道の開拓には皆「新天地」を求めてやって来たということである。アメリカの西部開拓がそうであったように、日本では北海道の開拓がそうだったのだ。この視点をうっかり忘れていたのを先生のお話からはっきり取り戻した感じがした。遠軽町の場合は(これは遠軽という捉え方で考えるよりも分村以前の湧別地区として捉えて考えることが大切)新天地を求めてこの地にクリスチャンの大学を作ろうと同志を募り入植することを決意した北海道同志教育会というのがあり、その代表の人物が押川方義という方で、この方は東北学院大学の創設者でもあるという。そのメンバーには後に京都の同志社大学の総長を務めた方も何人かおられるということだから、往時としては相当に力の入った新天地の開拓事業だったのではないか。多くの方々は往時の明治政府の高圧的な政治の在り方に反対の立場の自由民権運動に関わる立場だったようである。遠軽のこの地にそのような歴史があったことを知って開拓というものが、単に地を拓くだけのものでは決してなかったということを改めて思い知った次第である。

 又薄荷栽培についてもその由来を教えて頂いて参考になった。薄荷といえば単純に北見の仁頃辺りが栽培の中心かと今まで思っていたのだが、そうではなくその始まりはこの遠軽の地にあったということ。それがこの地の開拓者たちにとって大きな力となっていたことなどを知り、物事というのは、半端な知識は危険だなと自戒の気持ちとなった。他にも感得することは多多あり、杉山先生には心から感謝とお礼を申し上げたい。

 雨の中を再び出発して、途中軽く昼食を済ませ、今日の最後の訪問先地元の郷土博物館へ向かう。実は今朝の歩きでこの郷土館まで往復しているのである。道の駅からは4km弱の道のりだったが、その時はこの建物が何なのかを知らず、傍に行って見て郷土博物館なのだというのを知ったのだった。とにかくものすごく存在感のある建物なので、一体どうしてこのような建物がここにあるのか理解できない感じだったのである。屯田兵との係わりのある展示がなされているようなので、今日は中に入って見るのを楽しみにしていた次第。

 14時少し前に、やはり雨の中を到着する。邦子どのも初めてこの建物を見て驚いていたようだ。先日美幌の郷土博物館を訪ねた時もその立派さに驚いたのだが、この湧別の博物館は、それを遥かに凌いでいる感じがした。400円也の入館料を納めて中に入る。がっちりしたコンクリート造りの建物は、内部もコンクリートはそのままで、一種の荒々しさを感じさせるものだった。観覧は2階からというので、エレベーターで上がることにした。老人になっているのである。

偉風堂々たる湧別町の郷土博物館ふるさと館JRY。建築家渡辺豊和氏の設計によるもの。

さあ、それから順路に従って約1時間ほど順次内部の展示や解説を見て行ったのだが、それは今までのこの種の展示の在り方とは違った迫力を感ずるものだった。この館は、ほぼ屯田兵の開拓の歴史で占められているのである。屯田兵全員の顔写真までもがその名前と出身地を書いて展示されていた。又この湧別の屯田兵は全国の各地から3隻の船で入植したとのことだが、その船に乗る様子から下船、そして入植地までの道のりの様子から始まり、開拓の様子から一段落までの全てのプロセスがジオラマを使って、或いは様々な資料等を展示して解説されていた。399戸、2569人のドラマなのだった。屯田兵なるものの実態を知ろうとするなら、この施設に来れば大方が理解できるのではないか。そう思った。ようやく1階に辿り着いて、最後に本物と思しき官舎を見る。伐り倒した原木の転がる庭の奥に官舎が建てられていたが、その間取りは二間と台所、それに外にトイレという簡素なものだった。

管内に復元されていた湧別屯田兵の官舎。厚岸の大田屯田兵とほぼ同じような印象を受けた。

 しかし、民間の小作人の開拓小屋と比べれば、雲泥の差を往時の人たちは感じたのではないか。どちらも厳しい自然環境を相手のチャレンジには変わりはないのだから、それらを比較するのはナンセンスなのかも知れない。最後に邦子どのがこの建物について館員の方に訊いていたようである。それによるとこの建物の設計者は渡辺豊和という方で、その設計に当ってのテーマは「恒久楽土の結晶」というものだそうで、それをどう理解するか困難だと話しておられた。博物館よりも建物の方を見たいという来訪者もあるのだと話されていた。

 今日は3カ所の訪問だったが、いずれも内容の濃いものだった。特に遠軽町の郷土館での杉山先生のお話から得るものだ大きかった。機会があれば再訪してお話を伺いたいなとも思っている。

 その後は今夜も同じ道の駅:上湧別チューリップの湯に泊ることにして、3時過ぎ到着。今日は温泉にも入ることにして、その後早速温泉を楽しみ夜を迎える。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第33回>

2018-06-27 04:43:03 | くるま旅くらしの話

【今日(6/27)の予定】 

道の駅:上湧別チューリップの湯 → 天気次第で、悪ければ湧別町や遠軽町の教組資料館等を訪ねる予定。好天の場合は、北見市常呂町のワッカ原生花園を散策予定。予報では悪天候らしい。

 

【昨日(6/26)のレポート】 天気:曇り後晴れその後一時雨

<行程>

道の駅:メルヘンの丘めまんべつ →(R39他)→ 美幌博物館 →(R39)→ 北方民族博物館 →(D)→ 道の駅:流氷街道網走 →(D)網走市立郷土館 →(D・R39・R238他)→ 道の駅:上湧別チューリップの湯(泊)

<レポート>

 昨夜はどうやら雨は降らなかったらしく、よく眠ることが出来た。少し早目に起きて、2時間ほど付近を散策する。近くにメルヘンの丘と名づけられた如何にも北海道の丘の景観を彷彿とさせる場所があり、先ずはそこへ行って写真をとる。この写真は何年か前に撮ったものが、現在自分のパソコンの壁紙として使っており、そろそろ別の季節のものと替えようかと思っていたので、好都合だった。その後は付近の丘の畑の道をしばらく歩きまわって北の大地の農業の展開状況などを感じることにした。試しに一畝がどれほどなのか、歩数を数えてみた。何と560歩もあった。1歩の幅を70cmとすると、約400mほどとなる。これが最長の畝ではないのだから、中にはもしかしたら1kmくらいの畝がある畑があるのかもしれない。現在の農場で使われている機械の中には、ダンプなど問題にならないほどの巨大なものがあるから、1kmの畝を作ってもさほど苦労することなどないのかもしれない。畑の道の後は町中を少し歩いて7時半前に車に戻り食事とする。

大空町メルヘンの丘近くの農場の畑。真ん中から右がビート、左がジャガイモの作付となっている。畝の長さは400mほどあった。

 さて、今日からは郷土館等の訪問再開である。今日の予定は、先ず隣の美幌町の郷土博物館を訪ね、その後網走の道立北方民族博物館を訪ね、最後に網走市の郷土博物館を訪ねることにしている。食事の後しばらく休憩して、10時近く美幌に向かって出発する。30分足らずで到着する。

 先ずその建物の立派なことに驚いた。博物館は、美幌みどりの村の中にあって、ここは広い公園の中にレジャー施設としてキャンプ場などが設けられているようだが、その中での博物館の存在は群を抜いたものだった。どのようなものが見られるのか期待を膨らませながら中に入ったのだが、邦子どのが町の開拓の歴史等の資料はないか尋ねたら、館内にはそのような解説等は無く、一部の農具や民具が展示されているというような話だったので、邦子どのは中に入るのを止めにすることになり、自分一人の見学となった。この町が誕生する以前からの古代の地質。地形等の展示解説から始まり、オホーツク文化に関わる遺跡の出土品の展示や解説などに多くのスペースが割かれている感じがした。それから自然環境の有り様を示すジオラマ等が作られていて、なかなか迫力があった。開拓の歴史等についてはあまり見るものが無かったが、一つ開拓小屋の展示があり、一間の掘立小屋の造りと内部の様子を示した展示には大きく感ずるものがあった。これが開拓の実際の姿ではなかったかと、改めて先人の労苦に思いを馳せたのだった。

開拓小屋の構造を含めた掘立小屋の展示があったが、ほぼ実際の大きさの様に思え、これが開拓の真の姿に近いのではないかと思った。

小屋の中の様子も真に迫るものがあった。このような真の開拓の様子を展示している博物館や資料館は存外少ないのである。

その他には、この地に生息する虫や魚たちなど解りやすい展示があったが、これ等はどちらかといえば小中学生向きのように思えた。町の博物館なのに、町の開拓の歴史についての情報の披歴が少ないのを残念に思いながら博物館を後にした。

 美幌からは無料の高速道を使って女満別空港脇から大空町市街地に入り、昨夜お世話になった道の駅を通過すると、そこから15分ほどで網走市天都山近くにある道立北方民俗博物館へ。ここは2度目の来訪なのだが、以前に来た時からはもう20年くらいは経っているから、初めて来たのと同じ感覚である。この博物館は、北海道の開拓の歴史とは無関係に、世界の北方圏に住む人々の暮らしの姿を展示しているので、今日は参考までに見聞するだけである。日本の北方民族といえばアイヌの人たちであるけど、他の国との係わりがあるというのを生活のための民具や着衣などの比較から感ずること大であった。極寒の環境の中での生き方の知恵の凄さを感じたりしながら1時間ほどの見学を終える。

 その後は近くの道の駅に行き昼食休憩。

 その後、網走市立の郷土博物館を訪ねる。ここは歴史を感じさせる洋風木造建築の建物の中に、自然環境の中に暮らす様ざまな生き物たちのはく製などがずらりと並んでいて、迫力があった。又網走の開拓の歴史についても学ぶこと大であり、参考になった。詳しことは書かない。

 今日の見学予定はこれで終わりにし、今夜も又道の駅:メルヘンの里めまんべつにしようかと向かったのだが、未だ少し早い時間であり、明日の天気のこともあるので、思い切って湧別町にある上湧別チューリップの湯という道の駅まで行ってしまうことにした。突然の変更である。それから1時間半ほど走って、道の駅に着いたのは、4時20分だった。ここには温泉もあり、くるま旅の人たちには人気の場所の一つである。かなりの数のそれらしき車が先着していた。広い駐車場が3カ所に分けて造られているのだが、それらがかなり埋まっているのには少し驚いた。ま、温泉に来ている人も多いのだろうから、夜になれば数は少なくなるのであろう。

明日の天気は思わしくないらしい。空は既に曇り初め、時々雨粒も落ちて来ている。期待はできないけど、それでもせめてワッカ原生花園が見られるくらいの天気にはして欲しいと願いつつ夜を迎える。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第32回>

2018-06-26 05:03:01 | くるま旅くらしの話

【今日(6/26)の予定】 

道の駅:メルヘンの丘めまんべつ →(R39他)→ 美幌博物館 →(R39)→ 北方民族博物館 →(R39・R238他)→ ワッカ原生花園 ⇒ その先未定

 

【昨日(6/25)のレポート】 天気:曇りほんの少し晴れ間あり

<行程>

別海町ふれあいキャンプ場 →(R243)→ 道の駅:摩周温泉 →(R391・R244)→ 道の駅;はなやか小清水 →(R244)→ 小清水原生花園探索 →(R244・R39)→ 道の駅:メルヘンの丘めまんべつ(泊) 

<レポート>

 朝方に一つの課題があって、先日い知人に依頼した品物が朝までに届かない場合は、もう一日このキャンプ場で過ごすことを考えていたのだが、その品物が届いたので、キャンプ場とお別れすることとなった。少し名残があるけど、いずれここには再度戻る考えでいるので、それまでの間しばらくのお別れとなる。

 9時までに出発の準備を終え、先ずは弟子屈町の方へ向かう。今日の凡その予定としては、弟子屈町の道の駅:摩周温泉に行ってこの後の行程などを検討した後、JR摩周駅前の豚丼の店でお弁当を買い、そのあとJR川湯温泉駅に行ってその弁当を食べ、一休みの後は海側に向かい花清水町の原生花園を探訪した後、泊りは網走の道の駅か大空町の道の駅にしようと考えている。どちらにするかは、天気の状況などによって決めることにしている。

 道の駅:摩周温泉についたのは、10時を少し過ぎた頃だった。この道の駅近くに邦子どのの気に入りの店があるらしく、着くと直ぐにすっ飛んで行ってしまった。その後は1時間ほど自分は地図や道の駅の案内、それに資料館や博物館などの情報を確認して、29日に枝幸のウスタイベ岩キャンプ場入りまでの行程などを検討する。その作業が終わる頃に邦子どのが戻って来た。11時を少し過ぎていた。早速豚丼の弁当を手に入れるためにJR摩周駅へ。少し待って、ホカホカの豚丼をものにして、次は少し離れたJR川湯温泉駅へ。15分ほどで到着。川湯温泉駅はいつも摩周の水を汲みによる所である。今日は水の方は既に汲み終えているので、駐車場に車を止め、お湯を沸かしてお茶を入れ、まだ温かい豚丼を食す。ここ摩周の豚丼は、先のしらぬか恋問のこの豚丼とは違って、豪快さが足りないのだが、その分味の方は繊細で違った美味さがある。十二分に堪能し満足した。

 キャンプ場を出る頃は雲が融けて消え、晴れ間が眩しい空だったのに、弟子屈につく頃は雲行き怪しく風邪が強くなって、寒さが戻って来た感じの天気となった。この後は海辺の小清水原生花園を目指すことになるのだが、雨など降らなければよいがと少し心配しながらの走りとなった。13時半過ぎに小清水原生花園に到着する。この寒さでは花たちも少ないのではないかと思いながらの到着だったが、数は少ないけどスカシユリとエゾキスゲの花たちが機嫌よく迎えてくれたので安堵した。又本番にはなっていないようだが、それでもこの二種類の花たちは砂丘の草叢を染めるほどに咲いている場所があって、久しぶりに見る原生花園の景観だった。海辺近くまで歩いてハマナスや浜エンドウなども見つけて、散策を楽しんだ。

スカシユリの群生。この季節からしばらくはこのスカシユリたちが小清水原生花園の主役を占めるようだ。

スカシユリの正体?スカシユリと呼ばれるゆえんは、この花びらの間にある隙間(=黒く写っている部分)にある。写真だとそれは判りにくいが、本物を見ればすぐに納得できる。

エゾキスゲの花。キスゲはニッコウキスゲが有名だが、全国各地にあるキスゲの中では、自分はエゾキスゲが一番だと思っている。透明感のある落ち着いた上品な花は、群生を見るよりも一本一本をしっかり見る方がこの花の美しさを実感できるように思う。

  天気は依然として雨模様であり、風も強い。この上は早く宿を決めてそこへ向かうことにする。当初は網走の道の駅でもいいかなと思ったのだが、行って見るとやっぱり海の傍は敬遠した方が良かろうと、結局大空町の道の駅:メルヘンの丘めまんべつに決める。ここは何度も泊らせて頂いている場所でもある。網走からは15分ほどの至近距離にある。間もなく到着する。

 今日は殆どの博物館や資料館が休みのため、途中の自治体を全てパスしてしまった。折角の機会を不意にしてしまったけど、いずれ今回の旅の間に再訪する考えでいる。邦子どのの計算だと、資料館等の訪問は既に41カ所となっているとのこと。まだまだ始まったばかりなので、100箇所以上は訪ねられるように心して取り組みたい。

 昨日の別海の夜はかなりの雨が降ったようだが、今夜はもう雨音の打音は勘弁して貰いたい。そう思いながら夜を迎える。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第31回>

2018-06-24 15:58:27 | くるま旅くらしの話

【今日(6/25)の予定】 

別海町ふれあいキャンプ場 → 弟子屈方面へ向かうか、又はもう1泊ここに滞在するかも。

 

【昨日(6/24)のレポート】 天気:曇り後晴れのち曇り

<行程>

終日別海町ふれあいキャンプ場に滞在 

<レポート>

 昨夜は少し雨が降ったようで、朝起きると路面が濡れていた。昨日は暑さが心配になるほどのいい天気だったのに、今朝はすっかり元に戻ってしまったようだ。今日は買い物で外出する以外は、このキャンプ場にいて過ごすつもりでいる。明日辺りから再び移動の暮らしに入る予定でいる。6月29日には枝幸町のウスタイベ岩キャンプ場に入ることにしている。邦子どのがどうしても今年のよさこいソーラン踊りの大会で優勝を果たした、枝幸町の踊りのグループのそれを見たいというので、30日と7月1日開催の枝幸カニ祭りに間に合うようにしなければならないのである。ただその前に知人にお願いしたものがあり、それが届くまではここに滞在しなければならないので、明日は今のところ予定がはっきりしない。

 今日は別海町のスポーツ施設などについて、紹介させて欲しいと思っている。別海町は人口約1万51千人ほどの町だが、面積は1320㎢の広大な平地の町で、その大半は牧場であり、飼育されている牛の数は10数万頭にもなるという酪農の町である。自分の住む人口6万7千人の守谷市は面積が僅かに37㎢敷かないから、面積だけで比較すると守谷市の36倍以上の広さになる。その守谷市のスポーツ施設は実にプアーなのだが、それを思い起こしながら別海町の凄さを見に沁みて感じている毎日なのだ。写真を見ながら所感を述べてみたい。

まずは町の行政の核となる役場である。

別海町の中心地区にある4階建の堂々たる庁舎である。守谷市の市役所を凌ぐ大きさである。

次は陸上競技場

歓迎の大きなゲートには、ここで合宿を行って鍛えた有名企業の名や大学・高校などの名前が書かれている。ここには芝生やアンツーカーの400mのトラックが2面あり更に芝のないサブグランドも2面ほどあり、夏期の合宿には好適の場所となっている。近くには郊楽園という温泉を有する宿もあり、夏場はスポーツ関係者で賑わう様だ。

野球場もある

観客席や夜間照明を備えた町営野球場は地区の少年野球や各クラブの大会などが随時開催されいるようで、近くにあるキャンプ場の我々のところまで、夜間のゲームの歓声が聞こえてきていた。

体育館と温水プールも造られている。

町営体育館はバスケットボールのコートが2面は使える大きな規模のものである。

体育館の脇には町民温水プールモも造られており、至れり尽くせりの感が大きくなる。

冬季には町営スケート場が用意されている。

冬になるとこのスケート場は大勢の子どもたちや大人で賑わうのであろう。現在は休養中のようだ。

更に馬場まで造られているのには驚かされた。

馬事愛好同志会というのがあり、この馬場で訓練や大会が催されるのであろう。誠に恐れ入った施設なのだった。

最後は愚痴になるのだが、我が守谷市の場合は、このような大それた施設は皆無といってよい。体育館とグラウンドくらいはあるようだが、必要最小限のレベルにとどまっている。北海道ならではの優遇措置などがあるのかもしれないけど、6万7千人も住んでいる町の何というプアーな状況なのであろうか。別海町を批判などする気持ちは全くないが、守谷市に気合を入れる気持ちは膨らむばかりである。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第30回>

2018-06-24 04:23:55 | くるま旅くらしの話

【今日(6/24)の予定】 

終日別海町ふれあいキャンプ場に滞在予定

 

【昨日(6/23)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

別海町ふれあいキャンプ場 →(R243・D・R244・D)→ 野付半島ネイチャーセンター(原生花園散策)→(D・R244・R272他)→ 中標津町郷土資料館 →(R272・D)→ キャンプ場(泊)

<レポート>

 珍しくも快晴の朝だった。一時の晴れかと思っていたのだが、今日はずっと晴れの予報だとのこと。本当ならばもう少し晴れの日を増やして欲しいものなのだが、今度は暑くなるのが心配なので、今のところはこの程度で満足して喜ぶのが至当なのかもしれない。とにかく今日は久しぶりに野付半島のネイチャーセンターへ行って原生花園の花たちを訪ねた後、まだ行っていない中標津の郷土資料館を訪ねることにしたいと考えている。

 9時少し前準備を完了して野付半島に向けて出発する。野付半島は日本最大の砂嘴である。気の長くなるような年月をかけて、海が砂を運んで陸を作り、そこに植生が生まれて楢等の樹木が生い茂るほどとなり、今度は反対側の海がその陸を侵食しているという、大自然が織りなす実に不思議な活動なのである。砂嘴の先端までは約26kmもあるという。そしてその先端は今なお成長して長くなっているという。ネイチャーセンターはその砂嘴のかなり先端近くに建っているのだが、先端までは数kmはあるのではないか。ネイチャーセンターのある位置から原生花園が内側の海に向かって広がっており、毎年ここへ来るのを楽しみにしている。

 10時少し過ぎに到着して、邦子どのとは別行動で、散策道をトドワラまで往復する。トドワラというのは、かつて繁茂していたトドマツが海食によって枯死させられて、その名残りをとどめている場所である。ネイチャーセンターからは2kmほどはあるのではないか。どんな花が咲いているのか、一種たりとも見逃さずカメラに収めようとゆっくり歩きながらの取り組みだったのだが、残念ながらやはり野草たちの開花には少し早いらしく、見られたのは一番多かったのがセンダイハギ、次がエゾカンゾウ(=エゾキスゲ、エゾゼンティカ)だった。ハマナスも少し咲いていた。他に見られたのは、シコタンキンポウゲ、タチスボスミレ、ウツボクサ、キジムシロ等だった。概して黄色い花が多く見受けられたのが印象に残った。全部で10種余りしか見つけることが出来なかった。ハクサンチドリやクロユリ等もあるかと期待したのだが、残念ながら発見はできなかった。蝦夷梅雨の寒さが影響しているのかもしれないなと思いながら、次の目的の中標津郷土館に向かう。

センダイハギの花。萩といってもヤマハギの仲間ではなく、マメ科の植物である。この花は別海町の花となっている。原生花園の中では現在最も多く見られる花だった。

エゾカンゾウの群生の開花の様子。この花は原生花園の場所ではセンダイハギよりも少なかったが、半島の入り口近くの草原には半ば黄色い花で埋め尽くすというような場所もあった。

 少し道に迷ったあと郷土館へ。たくさんの農具や生活に使われた民具などが展示されていた。開拓の歴史に関わる解説などはなかったが、置かれていた資料などからこの町は戦後の昭和21年に標津町から分村して生まれたのだということを知った。だから、それまでの歴史といえば、標津町と同じということになるのであろう。追って頂戴した資料等をしっかり見ることにしたいと思っている。

 郷土館を出た後は、今日はとにかく天気が良過ぎて暑くてたまらない。この急激な天気の変転に二人とも少し疲れを覚えているので、早々にキャンプ場に戻って静養することにする。静養とは即ち眠ることである。キャンプ場についてからは早速午睡の時間となる。

 夕刻に起き出して外を見ると、今日は土曜日とあってかテント持参の家族組の人たちが多いようで、4~5張りのテントが設営されていた。くるま旅の人ではなく、道内の近隣の人たちが殆どのようだった。1週間も泊っているのは自分たちだけの様である。食事を済ませた後は、少しばかりサッカーのワールドカップなどを見て、早々に寝床に入る。明日は再び天気は雨模様となるらしい。暑さのことを考えるとホッとするけど、暮らしのことを考えると憂鬱な気分になる。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第29回>

2018-06-23 05:49:13 | くるま旅くらしの話

【今日(6/23)の予定】 

別海町ふれあいキャンプ場 →(R243・D・R244・D)→ 野付半島ネイチャーセンター(原生花園散策)→(D・R244・R272他)→ 中標津町郷土資料館 →(R272・D)→ キャンプ場(泊)

 

【昨日(6/22)のレポート】 天気:曇り後晴れ時々雨

<行程>

別海町ふれあいキャンプ場 →(R243・R44・D)→ 根室市自然と歴史の資料館 →(D・R44)→ 道の駅:スワン44ねむろ →(R44・R243・R244)→ 標津町歴史民俗資料館 →(R272・D・R243)→ 別海町ふれあいキャンプ場(泊)

<レポート>

 朝起きた時は相変わらずの霧に覆われた空だったが、散歩から戻り朝食の後しばらくすると青空が見え出し,一気に快晴となった。久ぶりの明るい天気に自分たちも明るい気分になった。昨日の愚痴が天に届いたのかもしれない。

 さて、今日は図書館通いを止め、近隣の根室市と標津町にある郷土資料館等を訪ね回る予定でいる。最初は根室市にある自然と歴史の資料館を訪ねることにしている。ここは9時半が開館時刻となっているので、朝食の後に少し思うことがあって、米子市在住の知人に手紙を書いた。それが済んで、9時半頃根室に向けて出発する。

 快晴の青空の下、時代な牧場が幾つも広がっている大平野の中の道を走るのは真に気分爽快だ。内地では到底味わえない景観だ。まだ見たことのない多くの知人たちに、できるのならこの広い北の大地の気分を持って行って見せてあげたいものだ。そのようなことを考えながら1時間ほど走って根室市花咲にある自然と歴史の資料館に到着する。建物は花咲小学校の隣にあって、小学校の建物は個性的で印象に残るものだった。資料館も同じように建てられているようだったが、中に入るとまるで資料の缶詰館のような雰囲気で、廊下の両側の棚には、様々な書類や資料がびっしりと詰められて続いていた。そのような廊下を通って展示室の方へ行くと、こちらの方は存外に狭くて、二つほどの部屋にこの地の動物たちの標本とそれから縄文遺跡からの出土品、クナシリ・メナシの戦いに関するアイヌの人たちが築いたチャシの紹介資料、幕末ロシヤのラスクマンの根室来航の若干の資料などが展示され、民具や漁具なども少し並べられていた。明治以降の開拓の歴史に関しては殆ど関係資料も説明も見当たらず、少しがっかりした。

 根室市は、戦前までは北方4島へ行く交通の基地として、或いはカニや鮭等の豊かな漁業資源を扱う場所として、栄えて来たのだと思うのだが、それらについての紹介は殆どなかった。他の場所に行けばそれらが見られるのかもしれないけど、今回はここだけにしておくことにして館を後にする。

 お昼の時間が近づいていたので、近くの道の駅に寄り何か食べることにする。途中風連湖の脇を通りかかったら、すぐ傍の水辺に丹頂のつがいがいるのを見つけて、写真を撮ろうと車を止める。邦子どのの話では、ヒナもいてその親が子育ての最中なのだという。ヒナは2羽いたのだが、その内の1羽は亡くなってしまい今は1羽だけが育っているとのこと。これはこの地でこれら親子を見守りながら写真をとっている方から聞いてきた情報だとのこと。いつものことながら、感心した。その後は道の駅に行き昼食休憩。

風連湖にはタンチョウが定住しているらしい。この2羽の傍にヒナが1羽いるらしいのだが、それをキャッチするのは難しい。

 1時間ほど休んだ後、次の訪問先の標津の資料館に向かって出発する。標津まではナビによると80km近くあるので、少し時間がかかりそうだ。標津へは途中から海岸沿いを走る道を行くことになる。先ほどの広大な平原ではなく、右手にはまだ寒さを残している大海が控えている。今日は穏やかなようだが、冬の厳しさは自分などには想像もつかないほどだと思いながら、走っていると先ほどまでの晴れの天気はどこへ行ったのやら、俄かに雲が立ち込め雨が降り出した。どうやら今日は穏やかな晴天とはゆかない天の機嫌の様である。不安定な天気の下を走って、標津の資料館に着く。ここはポー川史跡自然公園の中にあって、資料館というよりも開拓村や遺跡等を中心に展示したりしているようである。センターの中に入って見ると、やはり縄文から始まる各時代の遺跡についての説明やアイヌ文化等についての解説等が中心に為されており、明治以降の開拓の歴史については極めて簡単に終わっていた。公園の中に開拓時代の建物などが展示されていたので、多少は往時のことを思い浮かべることはできるのだが、資料の方は殆ど手に入らず、辛うじて邦子どのが会津藩について書かれたものがあるのを見つけて買って来てくれたので、この地の開拓が会津藩と係わりが深いことを知った次第である。しかしその内容はまだ読んでいないので、これからの課題となる。根室エリアは仙台藩と会津藩二つに分けて開拓が開始されたという紹介がどこかにあったと邦子どのが言っていたが、これもおって確認することにしたい。

 標津の後は、資料館の見学等は止めることにして、中標津で給油を済ませ、その後中標津のスーパーへ寄って買い物を済ませ、キャンプ場に戻る。天気は相変わらず不安定で、キャンプ場に着いた途端にまたまた雨が降り出したと思ったら、直ぐに止んで今度は猛烈な西日が射しこんで目が痛くなるほどの天気となった。なんだかんだしている内にようやく夜を迎える。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第28回>

2018-06-22 05:00:51 | くるま旅くらしの話

【今日(6/22)の予定】 

 別海町ふれあいキャンプ場 →(R243・R44)→ 根室市歴史と自然の資料館 →(R44・R243・R244) → 標津町歴史民俗資料館 →(R272・D・R243)→ 別海町ふれあいキャンプ場(泊)

 

【昨日(6/21)のレポート】 天気:雨のちくもり

<行程>

別海町ふれあいキャンプ場 → 図書館(コインランドり―)→ キャンプ場(泊)

 <レポート>

 今朝も又細かい霧雨の降る空が覆っていた。今日の歩きは、R243の根室寄りにあるロマンというドライブインまで行って見ることにした。この店はここへ来た時には必ず一度は寄るポークチャップを食べさせてくれる店である。別海町には喫食に関わる店が少ないのだが、その中でこの店の存在はひときわ目立っている感じがする。というのもほどよく焼かれたかなりの量のポークステーキが提供されていて、それにケチャップソースをかけて食べるのが楽しみなのである。食べきれない分は持ち帰りとなり、それもまた楽しみの一つとなっている。その店は中心街からは少し離れた場所に位置しており、今朝の歩きには丁度良い目標となる。霧雨の粒が少し大きくなって途中から傘をさしながらの歩きとなった。今日は出発が早かったので、凡そ2時間ほどの歩きとなった。この朝の歩く時間がとても大切だと思っている。移動している日にはなかなか歩く時間がとれないので、このように滞在している間は可能な限り歩くのを心がけなければならないと思っている。

 さて、今日の予定といえば、昨日と同じように今まで見聞した市町村のデータから受け止めた印象等のコメントを書くことなのだが、今日は午前中は車の中でそれを行うことにして、昼食後に図書館に向かい、邦子どのは近くにあるコインランドリーで洗濯に取り組むことにしている。洗濯のことは自分にとっては然したる関心事ではないのだが、邦子どのにとっては何やら気になる仕事の様である。車はコインランドリーに置いて、自分だけが図書館に向かうことにしている。

 ほぼ予定通り進行して、午前中3時間ほど車の中で過ごし、軽い昼食の後は、12時半頃に図書館入りして、それから15時少し前まで資料等を見ながらパソコンに向かう。一段落して仕事を打ち切りコインランドリーヘ行ったら、邦子どのは洗濯をしに来た地元の人たちと何やら会話を楽しんでいるようだった。いつものことではある。

 その後は、今日は気まぐれ行動は無しにして、そのままキャンプ場に戻る。15時半になっていた。天気は相変わらずで、一向に晴れそうもない。

 夕刻になって、今日は地元の大切な知人が来訪されることになっているのを待つ。この人は大へんお忙しい現役の方であり、なかなか時間がとれず、予定をかなりオーバーしてのお越しとなった。4年ぶりの再会である。それからあとは積もる話にしばし時が過ぎるのを忘れた。北海道の地にもこのような知人が何人かいるのを心から有難いと思う。旅というのは、ただ自分だけが好きなことをして楽しめばいいという考えもあるけど、やっぱり人との出会いを創り出し、それを大切に育てることが大事なのだと思う。名残り尽きないまま、取り敢えずのお別れとなった。内容は書かない。

 相変わらずの寒い日々が続いているけど、そろそろいい加減にして貰いたいなと思うようになって来ている。蝦夷梅雨なるものがあると聞くが、内地と同じタイミングで梅雨になるというのは、おかしいのではないか。天気を司る神様がいるのならば、少し真面目に人間どもの心情なるものを汲んで采配して欲しいものだ。そのような愚痴を思いつつ寝床にもぐる。明日は少し動いて根室まで行くことなどを考えている。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第27回>

2018-06-21 04:52:50 | くるま旅くらしの話

【今日(6/21)の予定】 

 終日別海町ふれあいキャンプ場に滞在(日中町の図書館へ)

 

【昨日(6/20)のレポート】 天気:くもり

<行程>

別海町ふれあいキャンプ場 → 町の図書館 → 道の駅:尾岱沼 → 尾岱沼港 → ふれあいキャンプ場(泊)

<レポート>

 滞在2日目の朝はやっぱり細かい霧雨の降る曇天が構えていた。昨日の午後からの青空は、幻だったのではないか。そう思うほど昨日の青空が恋しく思われた。今日も朝の散策に昨日とは反対回りで出掛けることにした。勿論邦子どのは寝床の中で何回目かの惰眠を味わうことになる。別海町の市街地は何度も歩きまわっているので、もしかしたら町に住む人よりも詳しくなっているのかもしれない。いつもは来訪が今の時期よりもかなり遅いので、野草たちの花も多く見られるのだが、どこを歩いて見てもいつもの場所に花たちは見られなかった。目立つのは野生化したルピナス達で、わが世の春を謳歌するかのように至る所に上り藤の花を咲かせていた。今朝も1時間あまり歩いて車に戻る。

 今日も昨日に続いて図書館通いを予定しており、10時からの開館なので、それに合わせての出発となった。今日も一番乗りで館内に入る。パソコンと書類袋を抱えた白髭の爺様が、ここ二日の毎朝開館と同時に入って来るのを、事務員の方々はやや訝しげに見ているのかもしれない。昨日の続きを開始する。資料を見ながら訪れた市町村の成り立ちや出来事を記録していると、往時の様子が自ずと目に浮かび、その町の住人がご先祖様を想う気持になって来る。半分野次馬根性が潜んでいるのだが、野次馬としてもその村や町の歴史や出来事を訪ねるのは楽しい。今日もあっという間に時間が過ぎ、どうにか書類袋一つ分の資料を読み終えることが出来た。しかし、まだ同量以上の一袋が残っている。とにかく一旦切上げることにして車に戻る。

 邦子どのも今日は別海町の歴史関係を調べてくれていて、図書館の方に歴史資料の一部をコピーして頂いているとのこと。その間事務員の方といろいろやり取りがあったようで、少しは首を突っ込んだようだった。元々自分の勝手な思いつきからこの旅を始めており、邦子どのとしては必ずしも興味関心があったわけではなさそうなので、半月も同じようなことを続けていると、些か疲れも増しているのかもしれない。

 多少の気分転換も必要だと考え、にわかに午後の部を取り止め、これから海側にある尾岱沼の道の駅に行き、昼食にすることにして、そのあとそろそろ収穫が始まっているであろう、この地の名物の北海シマエビが手に入らないか見に行くことにしようと提案したら、たちまち同意を得たので、直ぐに出発することにした。尾岱沼の道の駅までは20kmほどであり、30分足らずで行ける筈である。何しろ車の殆ど通らない一本道を行くので、それほどスピードを出さなくても渋滞など無関係なのである。広大な牧場が点在する中の道を走って、厚床という所から左折して国道に入ると、もうそこは海の傍となっており、そこから3分ほど走ると道の駅:尾岱沼に着いた。

この道の駅からは国後島が望見でき、北方領土返還の思いを込めた看板などが幾つか立っていた。ロシヤという国の終戦間際の卑劣とも言える行為には、誰が何と言おうとその正当性を認めることはできない。ロシヤの政治は汚く嫌いである。そのようなことを想いながら中に入るとレストランが営業していて、ジャンボホッキカツ丼というのがあるというので、それを食べてみることにした。邦子どのはホッキ貝が硬かったら食べるのに支障があるのを心配してホタテのカレーをオーダーしていた。食べてみたホッキ貝のカツはとても柔らかくて、邦子どのには残念だったようである。この道の駅からは、冬のある時期になると、四角い太陽が昇るのだという。地元の人でも滅多に見られぬ年に2~3度の現象だそうで、それを見事に捉えた写真が壁に貼ってあった。自分的には太陽は丸い方がいいと思っている。(見当外れの所感である)

昼食の後、少し走って尾岱沼港へ。販売所を覗いてみたが、シマエビはなく、ホタテ貝ももう終了したと書かれた札があるだけだった。店の人の話では、シマエビ漁は今日が開始日だったのだが、霧がかかっていて漁が出来ずあす以降に持ち越しだという。近年は海の状態が悪化し、ホタテの養殖も難しくなり、又シマエビ漁もスケールが小さくなってしまったと嘆き気味の話しぶりだったとか。これは邦子どのの得た情報である。自分はこの近くにある二つの泉源を持つ浜の湯という温泉浴場に入ろうと思ったのだが、行って見ると何と本日定休日となっていた。残念。いろいろガッカリさせられてそのまま今日は欲張らずにキャンプ場に戻ることにして帰路につく。

15時半、キャンプ場に帰着。その後交代でキャンプ場の上方にある郊楽園という施設のモール温泉に行って疲れをとり、夜を迎える。少し変化のあった一日だった。

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