山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

山陽・山陰の道ふらり旅: 第8日

2009-10-31 03:20:07 | くるま旅くらしの話
行程:道の駅:インフォメーションセンター川本→石見銀山世界遺産センター駐車場→石見銀山遺跡散策⇔温泉津温泉:薬師の湯→道の駅:キララ多岐(泊)

川本の朝は江の川からの霧が一帯を包み、晴れという天気予報とは無関係の様相だった。8時半頃から霧は次第に晴れて、やがて青空が覗き出した。住み慣れないと判らない天気である。
今日の予定は、石見銀山遺跡を見聞した後、温泉津温泉に入り、少し離れた道の駅:キララ多岐まで行って泊まる、と考えている。少し早めに行った方が良かろうと、9時前に出発。石見銀山までどの道を行くのがベストなのかはっきりしない。狭い道は避けることにして、県道32号を行くことにした。ところが途中予定していた、県道31号につながる県道46号は、とんでもない細道で、その交差点には曲がらず直進するべしの矢印標示があった。どこかに新しい道でも出来たのかと行く内に、何とR9まで来てしまった。かなり遠回りした感じだが、道は広いので文句は引っ込めることにした。大田市郊外から県道31号に入り、7キロほど走ると世界遺産センターの駐車場に到着。大田市からの県道は立派な道だった。
世界遺産センターの駐車場は、無料で石見銀山遺跡観光の拠点となっている。ここからバスに乗って大森や代官所跡という所まで行くのだが、我々は歩いて行くことにする。その前に腹拵えをする。
銀山遺跡の中間位に位置している銀山公園まで1km強の下りの山道は、里の秋を実感させてくれるいい歩きだった。間もなく五百羅漢のあるお寺に到着。ここは中には入らず、外から拝観しただけ。まずは左手の龍源寺間歩という所まで歩くことにする。小さな川に沿ったその道は、昔ここが一大鉱山だったことを少しも感じさせない、静かな山里の雰囲気しかなく、どこにその様な跡があるのか気づかないほどだった。しかし散策路の一番奥の龍源寺間歩という坑道に入ると、その印象は一変した。
間歩(「まぶ」と呼ぶ)というのは、坑道のことだという。初めて聞く言葉だった。銀鉱脈のあった仙山という山には6百余の間歩があるという。その一つの龍源寺間歩は、観光用に坑道を拡大して見せるように作られている。百米以上の長さがあり、途中から外へ通り抜けられるように作られている。元々高所閉所恐怖症の気のある自分には、坑道などは敬遠したい場所なのだが、その昔の人たちが働いた様子を知る為には、一度は入って見る必要がある。
いやあ、とんでもない現場だった。見学用坑道の脇に幾つかの細い坑道があり、それが本物の坑道なのだ。縦が1mと少し、横が50cm足らずくらいの広さしかない。人間一人が辛うじて身を転換させることができるスペースである。石炭炭坑の坑道とはかなり違う厳しさだ。これはとんでもないことだったのだなと、改めて何度も思った。
坑道を出た後、直ぐ下に匂い袋を売っている店があり、そこの店主の話では、標準的な間歩の大きさは縦4尺、横2尺だったという。その狭い道を数百米もタガネやノミを使って掘り進んでいったというのだから、凄まじい。これ以上劣悪な労働条件はあるまい。銀には毒性もある。暗闇の中で打ち砕いた石の粉塵を吸って、まともに命を長らえることができる人間などいる筈がない。殆どの人夫が短命だったという。現代の感覚では、考えられない過酷さだ。複雑な気持ちで山を下ったのだった。
ゆっくり歩きながら銀山公園まで戻り、その後は大森の町並みを代官所跡まで、相棒とは別行動で散策する。お寺の数が多いのは、当たり前だなと思った。町並みの中に何やらその昔の役人の居宅が幾つかあったが、人夫の悲惨さを思うと、覗く気にはなれず、ほんの一粒の銀を1日の賃金として与えて(どこかのガイドのおばさんは、今の金額では日に7~8千円の高級取りだなどとノーテンなことを言っていたが)人間を使い棄てにした、大久保長安やその配下の連中を尊敬するわけにはゆかない。又彼らを使い捨てにした徳川幕府の一統も尊敬の対象外である。馬の骨はそう思うのである。
些か歩き疲れて、代官所跡まで辿り着き、やがて遅れてやって来た相棒と、帰りはバスで世界遺産センターまでもどる。バスの本数はかなりあり、交通アクセスは整備されているなと思った。
車に戻り一休みする間もなく、温泉津目指して出発。温泉街は道が狭く、駐車場が心配だったが、行ってみると街の入口に公共の駐車場があり安堵した。そこに車を置き、少し歩いて薬師の湯という古い湯に入る。湯船がたった一つでカランも数個の素朴な造りだが、湯の方は千年来の源泉掛け流しの本物である。今日の銀山跡散策を巡る様々な複雑な思いを湯気と一緒に消えさせる。いい湯だった。その昔の銀山で働く人たちもこの温泉津の湯で身体と心の疲れを癒やしたに違いない。
温泉津を後にしてR9に戻り、多岐町(今は出雲市)の道の駅を目指す。50分ほどで到着。少なくなった水の補給ができるかが心配だったが、ここには水汲み場があり、助かった。何やらやっている内に、辺りが暗くなり夜がやって来たようだ。日本海側はTVの映りが悪いが、ここもやっぱりダメだった。しかし、TVを見るまでもなく、食事の後は眠りが待っている。明日は土曜日。さてどうするか。夢の中で考えることにしよう。
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山陽・山陰の道ふらり旅: 第7日

2009-10-30 03:34:58 | くるま旅くらしの話
行程:道の駅:掛合の里→龍頭が滝→道の駅:さくらの里きすき→吉田の街並み(雲南市)→ゴールデンユートピアおおち(美郷町)→道の駅:インフォメーションセンターかわもと(泊)

昨夜真っ暗の中に着いた道の駅は、思ったよりは静かで良く眠れて良かった。ここは道の駅の発祥の地だとか。確か鳥取県にも同じようなことを言っている所があったけど、もしかしたら道の駅というのは、全国では同時期に幾つか造られたのかも知れない。駅舎の脇に水琴窟があるのだが、本物の音よりも大きな録音が鳴り響いているので、せっかくの本物をダメにしていた。文明の利器は古人の工夫した音の情緒をダメにしていた。駅舎の裏は緑地公園となっており、その中に竹下元総理の銅像が建っていた。彼の人はこの地の出身らしい。郷土の為にも貢献大の人物だったのであろう。そう言えば、相生の道の駅の脇にも河本敏夫代議士の銅像が建っていたのを思い出した。生前の活動の様子を多少なりとも見聞していると、少し複雑な感慨にもとらわれる。
今日は石見銀山を見学する予定だったのだが、駅の中にあった雲南市の観光案内パンフレットを見ていて、出雲の神話やたたら製鉄のことなどが気になり、石見銀山は明日にすることにして、今日は近郊をぶらつくことにする。
というわけです、先ずは近くにある龍頭が滝というのを見に行くことにする。出発してしばらく走って、相棒の話で気づいたのだが、どうやら反対の道を来たらしい。もう一度パンフレットを良く見ると、やっぱり違っていた。判りにくいパンフレットである。直ぐにUターンして向かう。15分ほどで到着。途中の道が良いのは、竹下さんの地元だからなのかと、良からぬ勘ぐりなどをしながらの運転だった。小人の悪い癖ではある。
滝は素晴らしかった。駐車場から滝まで300Mほどある散策路は、側を滝からの清流が流れていて、左には秋の深まりを感じさせる山の木々が茂っており、久しぶりに清新な空気を胸いっぱい吸うことができた。滝は雌滝と雄滝があり、下方が雌滝で落差も少なくて優しく、雄滝はその上にあって落差が40Mほどあり豪快に水を落とし続けていた。雄滝の下が大きな洞窟となっており、滝の裏側からも水を眺めることができるのは珍しい。しばらくその景観を楽しんだ。名瀑に相応しいなと思った。
滝の後はパンフレットにある神話コースというのを訪ねようと、案内図を見ながら行ったのだが、掲載されている八本杉や八俣大蛇公園など、それらしきものが出て来ない。パンフレットは派手だが、現地の方には何の案内板も表示も見つからず、ガッカリすると同時に少し腹が立ってきた。紙の上だけの作業が、この様な不親切につながっているのであろう。現地が直ぐに判らないようなパンフレットなど無用である。雲南市が観光行政に力を入れるのなら、為すべきは、調子の良いパンフレットを作って配ることではなく、旅人に迷うことなく現地を判らせ、じっくりその良さを解らせることではないか。もう曖昧な神話コースなどを訪ねるのは止めにして、近くの道の駅に行き、昼食休憩とする。
昼食の後は、さてどうするか。パンフの中では、誑(たぶら)かされる危険性が少ないだろうと、吉田という地区のたたら製鉄の史跡を訪ねることにする。そしてその後は、明日のことを考えて、途中で温泉に入りながら、川本町にある道の駅に行き泊まることに決める。
吉田地区の探訪は良かった。文明開化までの江戸時代では、鉄の需要はさほど多くは無かったと思うが、国内需要の7割をもこの地で賄っていたという。松江藩の工人のトップだった田部家を中心にこの地でたたらによる製鉄がおこなわれていたということで、その昔を偲ばせる白壁土蔵や赤い瓦屋根の一群の家並みが残っていた。たたらの工場跡地へは、道が狭くて行くことができず残念だった。
その後は、昨日来た道を辿り三瓶温泉の方に向かい、そこを通過して美郷町のゴールデンユートピアおおちという温泉施設へ。
温泉博士に載っていたので、ここにしたのだったが、どうやら温泉プールなどかメインの健康スポーツ施設のようで、温泉の方はさっぱりだった。文句をいうわけにはゆかない。早く出ただけである。車に戻ると先に帰っていた相棒が何やら騒いでいるので、良く見ると、何とカメ虫の襲来を受けており、後部にあるドアの辺りに何匹ものカメ虫が取り付いていたのだった。何年か前に白川郷の古民家に泊まった時にもカメ虫に悩まされたことがあつたが、ここのカメ虫の方が積極的のようだ。傍にクロガネモチの木があり、そこからやって来たらしい。とんだ騒動だった。
さて、その後もとんだ騒動となる。川本への道を間違えてR375を大田市の方へ行ってしまい、途中で気がついて引き返すはめになった。温泉施設から出て直ぐだった左折路を、あまりに近かったため標示板を見落としてしまったのだった。工事中と危険箇所だらけの道を往復15キロくらい走らされて、ストレスは倍化した。それにしても、国道とはいえR375は、あまり通りたくない道である。県道の方がずっと立派だという印象が、島根県のこの辺りにはある。その県道40号線も川本近くなって断然狭い道となり、離合を心配しながら、ようやく川本の道の駅に着いたのだった。明るい内にとの予定が、着いた時にはもう日は暮れかけていた。
あれこれ、変化の多い1日だった。変化の源は思い違いや見落としであり、もしかしたらこれには老人性の何とやらが、かなり混じっているのかも知れない。ちょっぴりそんなことを考えながら一杯やって、早めに寝床に潜り込む。
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お詫びと訂正です

2009-10-29 12:43:26 | くるま旅くらしの話
昨日(10/28)の記事の中で、鞆の浦の仙酔島を酔っ払って(?)反対の酔仙島と書いてしまいました。訂正してお詫び申し上げます。馬骨
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山陽・山陰の道ふらり旅: 第6日

2009-10-29 03:53:24 | くるま旅くらしの話
行程:道の駅:アリストぬまくま→クロスロードみつぎ→三次市内ホームセンター→道の駅:ゆめランド布野→道の駅:赤来高原→三瓶温泉国民宿舎・さんべ荘→道の駅:掛合の里(泊)

朝はいつもブログの記事作成から始まる。昨夜は少し飲み過ぎの嫌いあり、目覚めるのが遅れ4時過ぎになる。途中まで書いて少し眠くなり再び寝床に潜る。再度起き出してブログが終わったのは7時をかなり過ぎていた。若者との深酒が効いたようだった。
夢現(うつつ)の中で軽自動車のドアのドタンバタンの音を聴きながら、ようやく踏ん切りをつけて起き出す。相棒に代わって昨夜の洗い物を片付ける。そんなことをしているうちに地産品の販売開始時刻となる。
相棒が先に店に飛び込む。勿論目指す獲物はワタリガニ。あった!2匹入りのを1パック買う。その外にコウイカや野菜類も。念願が叶い満足まんぞくである。
この後は枝豆を茹でたあと、コウイカを煮付け、ワタリガニを蒸かしたりとあとの処理に大童だった。
この間に少し心配な出来事あり。相棒の右の耳の後ろが急に腫れて、冷やすことになったのだった。虫に刺されたわけでもなく、痛みはないらしいのだが、腫れぼったい感じらしい。前にも北海道の旅の際にも同じことがあったとのこと。しばらく横になって患部を冷やす。30分ほどで一応は落ち着いたのだが、原因は解らす、心配である。帰宅したら医者に相談する必要がある。その後の行程では支障はなく、回復したのでひと先ずは安堵。なれども油断大敵。
遅くに起き出したMさんとあれこれ話しながら調理の後片付けなどをしている内に時間が過ぎ、出発は11時を過ぎてしまった。手を振るMさんに見送られて、山陰への道に向かう。今回はしまなみ海道は諦めることにする。山陽の道では、どうも期待を外されることが多いような気がして、早めに切り替えることにした。人が少ない方が、安心して人に会えるような気がする。今日の予定としては、明日石見銀山の史跡を訪ねることにして、近くの適当な道の駅に泊まるつもりでいる。
先ずは県道を走り尾道市の手前でR2に出て、直ぐに右折して県道をR184に向かう。R184は途中までは石見銀山街道となっている。予定通り進んで道の駅:クロスロード御調(みつぎ)に到着。ここで昼食小休止。昼食の方はお茶を飲む程度である。
その後は三次市を目指す。三次市は山間部の交通の拠点の街だ。江の川の橋を渡り、右折してR54へ。少し先から左折してR375へ。この道を辿って大田市の方に向かうつもりで行ったのだが、少し行くと急に道幅が狭くなり、離合が難しくなった上にダンプの往来がやたらと多い。こりゃダメだと、遠回りしても広い道を行こうと、元のR54に戻って松江市方面へ。ナンバー数の大きい国道は要注意だが、300番台だから大丈夫だと思ったのだが、やっぱりダメだった。
途中、二つ目の道の駅:赤来高原で眠くなって、40ほど仮眠する。すっきりして、しばらく走っていると、三瓶温泉への標示板が目に入った。確か「温泉博士」にどこかの施設が載っていたな、と気がつき、調べてみるとあった!「国民宿舎さんべ荘」とある。少し遠いけど届かない距離ではない。とにかく行って見ようと、急遽予定を変更し、県道に入る。
結果的にこれは大正解だった。様々な浴槽が用意された素晴らしい温泉施設だった。暮れかけた秋の空に少し膨らみかけた月が張り付いて輝くのを露天風呂から眺めながら、今ここに居る幸せに感謝。ぬるめの湯は何時間でも入っていられる感じがしたが、まだはっきり宿も決まっていない身には、いつまでも浸っている訳にはゆかない。
車に戻ったのは18時少し前で、辺りはすっかり暮れて暗くなり出していた。来た道を戻り、R54を目指す。最寄りの道の駅:掛合の里にお世話になることにする。真っ暗な山道を50分ほど走り到着。こんなに暗い場所をライトを点けながら走るのは久しぶりのこと。くるま旅では、あまり誉められる行動ではない。明日からは気をつけようと反省する。道の駅にはキャンカーが1台の他何台かの車が止まっていた。
今夜の夕食は超デラックスの筈だったのだが、メインのワタリガニは全くのハズレで、身は殆どなくスカスカで、落胆した。偶にはこんなこともある。カニ以外は期待以上の味だった。食事の後は早々に寝床に潜り込む。
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山陽・山陰の道ふらり旅: 第5日

2009-10-28 07:08:23 | くるま旅くらしの話
行程:道の駅:黒井山グリーンパーク→道の駅:一本松展望園→牛窓・オリーブ園→(倉敷市街彷徨)→(鞆の浦)→神勝寺温泉→道の駅:アリストぬまくま<福山市沼隈町>(泊)

昨夜は予想を超えた最悪の一夜だった。就寝間もなく隣にやって来た大型トラックが、夜明けまでエンジンを掛けっぱなしで、そればかりではなく他にも数台のトラックが同じように騒音と排気ガスを排出し続けていた。逃げ出したかったけど、飲酒運転になるし、隣の道の駅も同じ状態だと思うと我慢するしかない。全くうんざりのストレスのたまった呪いの一夜だった。朝になれば嘘のように事態は解決したが、頭の重さが問題を証明し続けていた。
9時過ぎ出発。先ずは隣の道の駅:一本松展望園に寄る。瀬戸内海や牛窓町の眺望をしばらく楽しんだ。気づいたのだが、こちらの道の駅の方がトラックの悪行を逃れる場所があったのだ。大いなる失敗だった。今日の予定はメインが倉敷の古い街を散策すること。その後は福山市の海側の鞆の浦辺りを訪ね、泊まりは沼隈町の道の駅に厄介になるつもりでいる。
倉敷に行く前に近くの牛窓町出身の竹久夢二の生家やオリーブ園を訪ねることにする。岡山ブルーラインの邑久インターを降りると、直ぐに夢二の生家の案内板があったが行ってみると、そこへの道が通行止めとなっていた。別の道を探すのが面倒なので、夢二生家はパスしてオリーブ園に向かう。20分ほどで到着。素晴らしい景観だった。眼下に牛窓の港を中心に小豆島や数々の島々がバランスよく展望出来る。店の方の話では、空気が澄んでいる時は四国高松の屋島や五剣山、明石海峡大橋や瀬戸大橋も望見出来るという。今日は天気が良すぎて全体が霞んでいた。その後はオリーブ園を散策する。先週末に収穫祭が行われたとか。それでもまだ実の付いた樹がたくさんあった。柔らかい陽射しの中を歩くのは気持ちがいい。1時間ほどのんびりと過ごした。
その後は再び岡山ブルーラインに戻って倉敷に向かう。R2バイパスから倉敷市街への道に入り、すんなりと美観エリアまでは行ったのだったが、それから後はとんだ目にあった。事前に調べていた駐車場は全て普通車用であり、この車が入れるのはどこにも見当たらない。30分ほど探し回ったが、入れるのはコンビニの駐車場くらいで、皆無だった。コンビニなどに強引に置かせて貰うのも一つの手かも知れないが、それはやらない。遂に諦めて呪いの言葉を吐きながら倉敷を後にする。美観地区など糞くらえ! である。もう二度と倉敷を訪ねることはないだろう。倉敷の方でも、そんなアホなどに来て貰いたくない、ということかも知れない。R2バイパスへは工事中で入りにくく、一層イライラのストレスが増幅した。ホンマに単純アホである。相棒は触らぬカミに祟りなしの顔だった。
その後は福山市から芦田川の堤防の道などを通って名所鞆の浦へ。酔仙島にある国民宿舎の温泉に入ろうと行ったのだが、駐車場が入りにくく、渡船の時刻をみるとタイミングが良くないので、ここも止めることにして、沼隈の道の駅に行って、早めに落ち着くことにする。
沼隈の道の駅は我々の気に入りの場所で、その最大の理由は、新鮮な海産物をゲット出来るからである。取り分けて、ワタリガニへの期待が大きい。しばらく休んでいると、バイクでツーリングをしているらしい若者から話かけられた。佐賀は唐津の人で、那智の滝を見に行っての帰りだとか。往復はもちろん、いろいろな場所に足を延ばして見聞を広めているらしい。話好きの人だった。一緒に一杯やっかということになり、その前に近くの温泉に入りに一緒に行くことになった。行きずりの見知らぬ人とこんな話となるのは珍しい。
風呂から戻り、道の駅に落ち着いた後は、M青年と三人での歓談が深更まで続いた。人生論(?)など、老人の思い上がった話が多かったのだと思うけど、その内容については、ここでは触れない。日中のストレスも雲散霧消するいい出会いだった。終わり良ければ全て好しの一日だった。
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山陽・山陰の道ふらり旅: 第4日

2009-10-27 02:34:30 | くるま旅くらしの話
行程:道の駅:あいおい白龍城→日生五味市場→伊部(備前焼)散策→閑谷学校見学・散策→道の駅:黒井山グリンパーク→道の駅:一本松展望園→道の駅:黒井山グリンパーク(泊)

昨夜はかなりの雨降りだった。朝になって、ようやく小降りとなり止みかけた。台風がやって来ているとか、いい加減にして貰いたい。この道の駅は白龍と書いて「ぺーろん」と読み、それはあの中国の小舟での競漕のことから来ているらしく、毎年5月の最終休日にその祭りがあるとのこと。派手な色の建物が賑やかに建っていた。売店の中にど根性という名の酒が一升千円で売られており、面白そうなので、一本買った。10時過ぎ出発。
今日の予定は、備前焼の伊部と閑谷(しずたに)学校を訪ねること。その後は海側にある道の駅に泊まるつもりでいる。先ずはR250で備前を目指す。
赤穂市を通過する。かの主君の仇討ちで有名な連中の地元を通るのは初めてだったが、海近くの千種川が流れ、小高い山に囲まれたのどかな所だった。江戸の殿様が突然の切腹事件を起こして、家中はさぞかし大混乱を来したのであろう。馬の骨から見れば、内匠頭は名君などではなく、明らかにバカ殿様である。仇討ち事件を起こした内蔵助さんたちの心情はできるが、元はと言えば、理由は何であれ、殿様の刃物騒動にあるのだから。そして最も愚かで悲しく恨めしいのは、幕府関係者の治世能力であろう。権力で固めた治世体制がもたらすものは、義という名の悲しくも愚かな抵抗だったのではないか。赤穂の地元は遠い江戸の出来事は大迷惑だったに違いない。その様なことを思いながらしばらく走ると、日生町に入る。日生を「ひなせ」と最初から読めるのは何故なのか、自分でも不思議に思っていたのだが、小豆島行きのフェリーの発着所があるのを見て、その昔高松に住んでいた頃、地図を見ていて覚えたことを思い出した。
少し走ると「五味市場」と書かれた看板があり、面白そうなので寄ってみることにした。この辺は海が島なのか半島なのか判らない山に囲まれていて、湖のようだ。脇に逸れた細道を少し行くと小さな港のそばに広場があり、海産物を中心に扱う大きな建物があった。駐車場も広く、周りには食べ物の店などがあり、観光バスも止まっていた。早速市場の中を覗き廻った。この雰囲気が好きである。活きているワタリガニはないかと探したが見つからなかった。瀬戸内海にきたらワタリガニを食べるのが我々夫婦のささやかな願望なのである。残念。その代わりに、うまそうな唐揚げを相棒が発見。訊くとシズという魚で骨が柔らかいので全部食べられるとのこと。かなりの大きさのものが3入っていて、300円だという。これを買わないという方はない。即ゲット。他にもママカリの唐揚げなどもあったが、無理は禁物。老人は必要以上に食べてはならない。という訳で、温かい内に食べるべしと、車に戻りパクつく。うめえ~。ビールもご飯も無しで、少し淋しいけど美味かった。満足。
一休みのその後は真っ直ぐに備前焼の伊部へ。
駅前の観光客用駐車場に車を置き、街中の散策に。美術工芸の館は生憎休みだった。その後焼き物町を歩く。少し行くと窯出し中と書かれた表示のある店があり、覗くと見学O.K.だとのこと。早速見せて頂いた。窯の中にはまだ半分ほど焼きあがった製品が残っていた。このような現場を見るのは初めてである。3段ほどの上り窯だったが、丁寧な説明を伺ってとても勉強になった。感謝、多謝。相棒は気に入った湯呑みがあったらしく買っていたが、自分が欲しい盃は見当たらなかった。その後は細道を辿って天保窯を見学する。使われていないその窯は、江戸時代に小規模化して造り直したとかいう話を傍の店のおばさんがしていたが、それでもかなりの大きさだった。その店で小さな焼き物の玉を買う。ご飯や水に入れると何やらの効果があるとか。
更に歩いて天津神社に参拝する。たくさんの焼き物が奉納されていたが、狛犬が一番かなと思った。
腹も空いて来たので、最後に駅前の産業会館を覗いて車に戻ることにする。2階のギャラリーを覗いていたら、手頃の盃を発見。思い切って手に入れる。先ほどかったど根性という奴を、これに注いで今夜の楽しみは確定だ。
昼食の後は閑谷学校へ向かう。20分ほどで到着。閑谷(しずたに)学校は文字通り閑静な谷間を切り開いた所に建っていた。池田藩主光政公の発案・創建による武士ではなく、一般庶民を対象とする学舎だった。水戸の弘道館など武士を対象とする学舎は多いが、郷舎と呼ばれるものは少ない。黄門様よりも光政公の方が英明だったのではないか。こんなことを平気で言えるのは、後世に生まれた者の特権である。相棒は敷地の中に入って行ったが、自分の方は歩きたいので、広い構内を奥の方にある、学校整備の尽力者だった津田永忠の屋敷跡などを見て回る。この方は本当にこの学校を大事に考えていた人なのだなと思った。今は草しか生えていない山奥の中で、それでも静に学校を見守っておられるように思った。
閑谷学校を後にして、今夜の宿に向かう。岡山ブルーラインと呼ばれる道に二つ道の駅があり、その二つに行ってみたのだが、最初の黒井山グリーンパークの方がトラックが少ないように思われたので、こちらの方にお世話になることにした。岡山ブルーラインはかなり交通量が多く、トラックが多いようである。トラックは、夜間でも傍若無人にエンジンを掛けっぱなしで、排気ガスと騒音を撒き散らすので迷惑千万である。幾ら勤務中であれ、これを放置しているのは国の失政ではないか。もっと厳しく法規制すべきだ。こんなことをほったらかしていて、エコがどうたらなどのラベルを貼るだけで、環境問題を論ずるなど愚の骨頂である。運転業務の人の気持ちは解らない訳ではないが、甘えて貰いたくはない。法違反ではなくても、環境汚染行為は明白だ。嘘だと思うなら、自車の排気ガスを運転席に取り入れてみればよい。何分生きて居られるのか。その分たけ毎晩たくさんのトラックが何の仕事もしていないのに環境を汚染・破壊し続けているのである。正気の沙汰とは思えない。この
ことに関しては、言い過ぎたとは思わない。さて、今夜はどうなるのか?
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山陽・山陰の道ふらり旅: 第3日

2009-10-26 07:31:15 | くるま旅くらしの話
行程:Tさん宅→(阪神高速・名神高速・R43)→Mさん宅→(R43・R2・新神明道・R2・R250)→道の駅:相生白龍城(泊)

昨夜は就寝は遅かったが、いつもの習慣で朝の4時には目覚めて頭スッキリである。昨日の興奮が少し醒めて、今此処にいる幸せのようなものを実感する。
Tさんにはすっかりお世話になってしまった。久しぶりに本格的な朝ご飯を頂きながら改めてありがたく嬉しく思った。9時過ぎ名残を惜しみつつTさん宅を出発する。ありがとうございました。
今日の予定は、くるま旅の大先輩の、神戸市在住のMさん宅にご挨拶に参上すること。その後は相生の道の駅まで行き、そこに泊まるつもりでいる。Mさんからは、昼食をご一緒にと、嬉しいメールを頂戴している。出発前Tさんから神戸までの高速道のコースを入念に教えて頂いたのだが、大阪・神戸には全く土地勘がなく、自信がない。何とかなるだろうと高速に入ったのだが、案の定、環状道の通行を間違えて池田の方へ行ってしまった。池田が何処なのかもわからない。しばらく走っていると、名神の標示板が目についたので、あれに入れば西宮に行く筈だと、半分安堵する。流れは順調でたちまち西宮へ。結果オーライだった。神戸も車ではめったに走ったことがなく、少し不安があったが、迷うことなくMさん宅に着くことができた。それにしても、神戸の坂は大へんなものだなと思った。
Mさん宅を訪ねるのは初めてのこと。旅では今年の夏7月末の北海道でお会いしたのだった。今回は良い機会を得たと図々しくも参上した次第。Mさんは私とは一回り近い人生の先輩であり、くるま旅の大先輩でもある。知り合ってそれほど時間が経っているわけではないのだが、私は最初にお会いした時から、その魅力に惹きつけられてしまい、ご迷惑も省みずお宅に押し掛けてしまった。元々は引っ込み思案の性格なのだが、この頃は魅力的な人物や嬉しい人物に出会えると、失礼も省みず図々しくお邪魔してしまう。そのことが、残された人生の中ではとても大切なことのように思っている。Mさんもその犠牲者(?)のお一人かも。
いやあ、そのあとは16時過ぎまで大歓待を頂戴し、楽しくも嬉しい時間を過ごさせて頂いた。その中身はあまりオープンにはできないけど、その感動を抑えきれないので、ほんの少し触れたい。
Mさんはもう喜寿を迎えておられるのだが、外見も中身も青年である。実に活き活き溌剌と日々を楽しんでおられる。まずびっくりしたのは、私たちを迎えてくださった昼食は、庭に移動式で作られている竈に炭を熾してのバーベキューだった。完璧と言えるほどのアウトドアの達人なのである。炭を熾こすのも、あっという間の手際よさで、これに合わせる奥様の料理具材の中身もタイミングも実に鮮やかだ。そしてご夫妻の仕事(?)の随所には、創意と工夫が満ち溢れている。それに気づく度に感嘆するのである。
Mさんは電気の知識・技術の超達人である。理論も応用も自由自在のお人なのだ。私のように目に見えない電気には脅威しか感じない者には、Mさんは宇宙から来たマジシャンのような存在だ。今回は嬉しくも、その作品の一つのアウトドア用のランタンを頂戴した。ろうそく用ランタンの器の中にはリチウム電池のバッテリーで点灯する豆電球があり、その電池は携帯用充電器で充電ができるようになっている。それだけではなく、天井には点滅するLEDのようなものが嵌め込まれており、スイッチを入れると、灯り全体が丁度淡く揺れるろうそくの炎のように、暖かく周りを照らすのである。このような優しい明かりを灯すランタンを見たことがない。Mさんは、これをほんの遊び心で作っておられるのである。他にもたくさんの驚きと感嘆の溢れるお家だった。感動と学びの連続の時間だった。そう、奥様の料理の素晴らしさについても述べなければならない。でもそのことには、別の機会に触れることにしたい。とにかく安心して超満腹となったことだけを記しておきたい。Mさんご夫
妻、本当にありがとうございました。
16時過ぎMさん宅を辞した後は、少々道を間違えて、余分な時間を食いながら、19時過ぎ相生の道の駅に着く。暗くなって良く分からないけど良さそうな所のようだ。錨を降ろす。
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山陽・山陰の道ふらり旅: 第2日

2009-10-25 06:11:20 | くるま旅くらしの話
行程:刈谷ハイウェイオアシス→(伊勢湾岸道・東名阪道・名阪国道)→道の駅:針T.R.S→(天理・桜井市・橿原市・明日香村経由)→道の駅:大淀iセンター→(御所経由)→道の駅:千早赤阪→堺市・美原区Tさん宅⇔大阪市上本町近鉄デパート(6階画廊)→Tさん宅(泊)

朝5時起床。6時出発。ハイウェイオアシスを後にして、伊勢湾岸道・東名阪道を快調に走る。天気は雲多くあまりよくなさそうだが、渋滞無しで快晴の気分。たちまち亀山インターから名阪国道へ。こちらも順調で途中道の駅:針T.R.Sに寄り朝食休憩。1時間ほど休んで8時20分出発。天理からR169に出て、桜井市方面へ。目指すのは大淀町の道の駅。目的は枝豆のゲット。この季節、関西には美味なる枝豆が出ている。これは関東にはない優れた食文化だと思いこんでいる。予想通りあった!大束を3束ゲット。6食分はあるでしょう。にんまり。
その後は吉野川沿いにしばらく走り、御所の先の宇佐美で給油の後、少し戻りR309の越水トンネルを潜り抜け、道の駅:千早赤阪へ。ここで昼食休憩。
ところで、今日のメインの目的は、上本町の近鉄デパートで開催中の安達巌の遺作展にお邪魔すること。そのこともあって、Tさん宅にご厄介頂くことになった。13時少し前Tさん宅到着。Tさんには先日拙宅に寄って頂いたばかり。今度は反対にお邪魔することになった。再会は嬉しい。Tさんご夫妻も一緒に遺作展に行って下さり、しかも会場まで車でご案内頂いたのだった。
近鉄デパートには14時半頃に到着。6階の画廊へ。行って見て驚いた!ものすごい人出なのである。私は今までに個展にこれほど多くの人が訪れているのを見たことがない。心配していた画集の販売も千部作ったものが、開催3日目にして完売し、追加増刷をされたという、昌子夫人の話だった。改めて安達巌の力と昌子夫人のパワーを実感すると共に心の底から嬉しく思った。昌子夫人は巌氏の伝記を出版したいと考えておられ、もう原稿も大方出来上がっておられるとのこと。微力ながらもお手伝いさせて頂くことを約して、会場を後にした。遺作展の大成功を見て安堵以上の感動と興奮を覚えながら、Tさん宅への帰途に就く。
帰り道はTさんご夫妻に大阪の主な観光スポットなどを車でご案内頂き、数年前まで仕事で来ていた大阪とは相当な変わり様に驚かされた。大阪は東京とちごうて、ほんまに人間くささを感じる街である。
その夜はすっかりTさんにご馳走になり、その上お子さんを連れて来られた息子さんとも話ができ嬉しかった。最近は現役の若者と話をする機会がほとんどない。我が家にも息子さんと同い年の奴が一人居るけど、親子というのは会話は長続きしないように出来ているようである。息子さんが帰られたその後も、12時近くまで時の経つのも忘れて歓談が続いた。よくもまあ、こんなに話すことがあるものだと、我ながら呆れるほどである。そして嬉しい。感動と嬉しさに満ちた一日だった。
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山陽・山陰の道ふらり旅: 第1日

2009-10-24 05:35:42 | くるま旅くらしの話
行程:自宅→(常磐道・首都高速道・中央道・東海環状道・伊勢湾岸道)→刈谷ハイウェイオアシス(泊)

今日は移動日。ひたすら走るだけ。出発時は曇り空だった天気は、中央道の笹子トンネルを出た時から青空に変わった。途中、幾つかのSAやPAに寄り、昼寝などしながら(計150分以上)少し暮れ始めた頃に伊勢湾岸道の刈谷ハイウェイオアシスに到着。今日はここ泊まり。本格的に寝るのみ。
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生命の画家・安達巌(4)

2009-10-23 01:09:52 | くるま旅くらしの話

<精進、精進、そして精進>

世界身体障害者芸術協会(現在は口と足で描く芸術協会)というのがある。この団体はリヒテンシュタインに本部を置き、身体障害者の芸術作品による自立を目指して、世の中の厳しい環境におかれた障害者の人びとの、芸術に関する才能を発掘し、育てる活動を続けている。【詳しいことは、『口と足で描く芸術協会』のホームページにアクセスして欲しい。協会名をそのまま打てばアクセスできる】 この組織は世界的組織であり、我が国の会員第1号は、無手の画家(「無手の法悦」などの著書があります)としても著名な大石順教尼だった。安達巌は、間もなくその人の弟子となった。

新聞に取り上げられ名の広まった時から、巌青年の人とのつながりが拡大して行く。彼は絵で生きてゆくことを決心し、お世話になった鉄工所を辞め、世界身体障害者芸術協会から頂けることになった奨学金を元に絵の世界に没頭、集中し、精進してゆく。順教尼に師事する傍ら美術研究所に通って絵を学び、新槐樹社という画家の集まりにも参加し、何度も入選を果たし、やがて会友となっている。今まで願っても、やりたくても出来なかった絵に対する学びに、彼は心血を注いだのだった。奨学金に報いるためにも、絵に集中し、絵の完成度を上げることが自分の努めであり、そのことの実現のためには、どんなことでも彼にとっては苦労などではなく喜びだったのである。

その努力は少しずつ実を結び始めてゆく。奨学生となった2年後には絵の実力を認められて世界身体障害者芸術協会の正会員となった。現在の口と足で描く芸術協会でも世界に正会員はたった100名しかいない。当時はもっと少なかったに違いない。正会員になれば、給料も貰えることになり、生活はより安定するけど、一方で何とか協会のために働きたいと、絵で手伝いできることには、私事のことは措いても労を惜しまなかったのである。

そのような暮らしの中で、世の中人のためにという亡き母の言葉を決して忘れることは無かった。ある時、障害を持つ子の小学校の特殊学級に、50号の絵を寄贈したことが話題となり、新聞に取り上げられたのだが、この記事を読んで何人もの方から感動と励ましの手紙を頂いた中に、一人の女性がいた。絵に没頭していた暮らしの中で、時には年齢相応に若い女性との付き合いも夢見たのだったが、なかなかその機会は無かったのだった。それがこの便りを貰ってから、少し経って初めてのデートにつながったのだった.

その女性は宮崎県出身で、中学校を卒業して大阪の会社に就職し、今は美容師を目指してその仕事をしているという。その名は日高昌子。巌の生い立ち・境遇とは違ったけど、ふるさとの家族のことなどを含めて、決して楽ではない暮らしの環境の中にあった女性だった。この馴れ初めが、やがて(というよりも一気に)終生の伴侶へとつながってゆく。何とデートから数週間後、その彼女が、身の回り品を持って彼の住むアパートにやって来たのである。そして、私をお嫁さんにして欲しい、と願い出たのだった。その時の巌には、未だ結婚のことなど全く頭に無かったという。突然の申出でに驚かないのは不思議といえよう。いやあ、驚いたと、その時のことを述懐するのを聞きながら、私は世の中にはこのような女性もいるものなのだと思ったのだった。自分のこれからの一生を託す人をこのような形で選ぶ勇気のある女性は少ないと思う。それなりの覚悟を持って臨んだに違いない。とすれば、男としてもそれなりの覚悟を持ってこの場を受け止めなければならない。それから後に、どのようなやり取りがあったのかは知らない。知らないけど、自分と一緒の人生には想像以上の困難があることを話し、それを乗り越える覚悟があるかを何度も念を押して確認したというような話を聞いたことがある。後になって聞く押しかけ女房の話は笑いながらのものだったけど、その時の二人の話し合いは決して笑えるようなものではなかったに違いない。

巌の決断は早かった。彼女の思いを受け入れることに決めたのである。そして直ぐに婚姻届を出しに役所へ。この覚悟は、今の時代のいい加減な男女の結びつきとは雲泥の差がある。お互いが全責任をもってお互いを生涯の伴侶と決めたのである。そして、それからの二人は様々な試練、困難を乗り越えて画家として成長していったのである。

この後も安達巌夫妻にはたくさんのエピソードがある。東京オリンピックの後初めて開催されたパラリンピックへの参加と金銀銅メダルの獲得、二人の子どもの誕生、宮様の前での実演、TVへの出演、インターナショナルハンディキャップアーチスト展での第1位入賞の数々、恵まれない人たちや学校への絵の寄贈活動、大学での絵の指導、等々、世の中人のためへの活動は挙げるにいとまが無い。それらを個々に紹介してゆくのはこの場では難しい。

【知りたい方は、彼の画集をご購入頂き、巻末の安達巌の歩みをご覧下さい。そこには昌子夫人が克明に調べた彼の人生の主な出来事が記されています ~ 画集の注文先は、〒582-0026柏原市旭ヶ丘1-1-50小生の安達昌子。頒布価格2500円。送料は購入者負担です。私のホームページでも受付けますので、メールにてご注文下さい】

さて、ここからは彼の絵のことについて触れたい。彼の絵には、写実的なものが多い。特に得意とした古民家や農村の風景画は、その大作の前に立つと、まるで本物の世界がそこにあるかのごとき幻覚に一瞬襲われる感じがするほどである。いつだったか自動望遠レンズの付いたカメラで、彼の描いたスペインへの旅の際の古城の風景画を撮影しようとして、いろいろやってみてもカメラが絵を認識せず本物風景を認識して焦点が動いてしまい、なかなか絵をカメラに収められなかったことがある。写実的なのだ。しかし写真も丸写しなどではない。なんとも言い得ぬ温かさが彼の絵にはある。それは彼が独自に編み出した色使いによるものだと思うが、その根源には、彼の絵の対象に対する人間としての温かさがある。景観全体を飲み込む温かさである。それは人間に対する温かさであり、この世の全世界に対する温かさでもある。その温かさをもたらすエネルギーは大きい。それはとりもなおさず安達巌という人間のエネルギーの大きさであり、絵に対する彼の生命を削っての取り組みのもたらす力の大きさでもある。

芸術の真価が何であるのかを私はよく知らないけど、思うことはその作品が、それを受け止め感ずる者の魂をどれほど揺さぶるかにあるに違いない、と思っている。私は、安達巌の作品にはその力が有り余るほど溢れていると思っている。口に筆をくわえながらも、何故あれほどの繊細な表現を追い求めたのか。敢えて手間のかかる描き方を選んだのか。それは写実性を表現するために彼の生命が選んだ道なのではないかと思うのだ。真実というのは一つの事実に過ぎないものかもしれない。とすればその真実を克明に表現することによって、自分の思いをそこに籠めて伝えたいというのが、彼の絵に対する基本的な姿勢だったのではないか。一時、抽象画の世界にも浸った時があったようだけど、抽象画は一般大衆には画家のメッセージが伝わりにくい手法だと思う。安達巌は、あくまでも世の中の普通の、弱い心を捨て切れない人たちのために、命を削り籠めて写実的なわかりやすい絵の制作に力を入れたのだと思う。

遺作展の名称を、昌子夫人は「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」と名付けられた。まさにその通り、彼は短い一生の中で、絵に生命を賭け、生命を削り籠めて作品を生み出し続けたのである。彼にとって絵筆を持つのは口であっても足であっても身体のどこであってもそれが絵を描くために使えるのであれば、それを活かして絵を描いたに違いない。ある時歯がかなり傷んできて厳しい状況になりつつあると聞き、もし口にくわえられないような状況になったら、どうされるのかと訊ねたことがある。その時彼は、こともなげに、なに、未だ両足があるから大丈夫、と言われたのだった。その時、ああ、この人は本当に全知・全身を使って絵を描くと言う命がけの仕事をしているのだ、と思ったのだった。

遺作展などではなく、これが個展であったなら、彼はニコニコしながら、来訪者の前で制作の実演をされたかもしれない。絵描きの人たちは、高名になればなるほど人前で絵を描くことなど決してしなくなる。大道芸などではないと言うプライドがあるのは当然かも知れない。しかし、安達巌は、請われれば躊躇なく実演をひきうけた。そのことについて何を言われようとも気にしなかった。そのような世間のあらぬコメントなどよりも、自分の制作の様子を見た来訪の人びとが、その姿から何かを感じ、生きる活力に役立てて貰えばそれが大切と、その信念を貫いたのだった。私が元勤務していた企業は障害者の作品の絵画展を全国各地で継続して開いているが、その中での安達巌の貢献は大きい。彼の絵を描く姿を見て勇気付けられ、元気を貰った人は多いのではないか。

ずらずらと書いて来たが、どうもうまくまとまらない。今までにもこのブログで何度か紹介しようとしたのだが、安達巌の一生は、私が書き述べるにはあまりにも大き過ぎる。尻切れトンボの感じは否めないけど、安達巌の絵をご覧になる際の何らかの参考になれば嬉しいと思う。

最後に昌子夫人のことに少し触れたい。彼女については、「60歳のラブレター」に関して、このブログで「60歳のラブレターに思う(5/24)」「アンビリーバブル(6/4)」で紹介させて頂いているけど、夫に先立たれた後の彼女の活躍は素晴らしい。夫は生前叶えるべき4つの夢を持っていたという。その1は個展を開くこと、その2は画集を世に出すこと、その3は国会図書館に自分の画集が登録されること、そして最後の一つは天皇家に自分の画集が届くことだった。その夫の夢を彼女はこの3年間の間に思いを籠めて準備をし続け、この度その全てを実現させたのである。経済的にも厳しい中にあって、そのご苦労は並々ならぬものがあったと思う。彼女の健闘に対して、改めて心から称賛の拍手を送るとともに、叶った念願に対するお祝いを申し上げたい。(おわり)

安達巌 遺作展 (昌子夫人の企画運営による)

「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」

期間:10月22日()~28日()

場所:近鉄上本町店6階 美術画廊(天王寺区上本町6--55

後援:読売新聞大阪本社/社会福祉法人読売光と愛の事業団大阪支部

     

 

<お知らせ>

ご紹介した安達巌の遺作展にお邪魔しがてら、山陽道や日本海エリアの小さな旅をしようと考え、今日(10/23)出発することにしました。遺作展は昨日から始まっています。どのような会場なのか訪れるのがとても楽しみです。会場には明日の午後訪ねる予定です。ブログの方は、しばらく携帯での発信となりますが、今回は行程をお知らせする程度に止め、戻ってから改めてブログにて旅の様子を紹介したいと思っています。

 

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