山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

三半規管の老化?

2018-10-19 04:54:29 | 宵宵妄話

 このところ体調不良に悩まされている。旅の後半過ぎの8月の頃から、歩いている最中に眩みを覚えるようになったのである。北海道各地の広大な畑の中の道を歩いている時などに、必ず電柱の上から見張っているカラスたちに気をとられて見上げたりすると、その後に眩みが襲って来て、大地が揺れ動くのだ。大地が動くというのは困惑する現象であり、酷くなると歩くのが困難となり思わず立ち止まってしまう。しばらくじっとしていると、大地の揺れは止まり、元に戻るのだが、地震でもないのに味わう感覚は気分のいいものではない。

 立ち眩みや目まいなどの症状の原因を考えてみると、糖尿病の自分の場合は、高血糖や低血糖それに高血圧などが想定されると考え、先ず眩みを感じた直後に車に戻り、持参していた家内用の血圧計で計って見た。すると想像以上の血圧の高い数値が表示されているではないか。いつの間にか血圧が上がっていて、それが目まいや眩みを引き起こしていたのだと理解した。それで当分の間はそのことを前提に食事等に気をつけるようにしていたのだが、先日定期診断を受けてしばらく降圧剤を飲むことになった。

しかし、血圧が下がってもやはり眩みの症状は改善されないのである。医師の話では血糖値は眩みを引き起こすほどのレベルではなく、原因とは考えられないとのこと。だとすれば、この現象は一体何なのだ。メニエール病というのがあるけど、眩みのレベルはそれと思えるほど大げさなものでもないのである。それで、自分なりにいろいろ考えてみた。

眩みというのは人の平衡感覚を司る耳内の三半規管というのが、その機能に異常を来した時に起こる現象と聞いている。100%そうなのかどうかは解らないけど、メインの要因がそうだとしたら、自分のこの現状もやはり三半規管の不調が元になっているのではないかと、そう思った。としたなら、なぜ三半規管が不調を来しているのか?

あれこれと思いを巡らしていたのだが、くるま旅の環境が3カ月と3週間ということで、少し長かった以外は、食事や睡眠や運動等で在宅時と比べて特に変わったことはしていない。食べ物も在宅時と同じだし、睡眠も在宅時以上の時間だったし、運動は少し減ってはいたけど、毎朝努めて歩くように心がけていた。勿論環境の変化は在宅時とは比較にはならない。しかし、環境が毎日変わるということだけで、三半規管に異常を来すようなことがあるとは思えない。ということで、なかなか納得のいく要因に思い当らなかったのである。

 それで、最後に辿り着いたのが、やはりこれは老化現象の一つの表れではないかということだった。今まで先輩からこのような眩みの話は聞いたことがないのだが、ふと思い出したのは、池波正太郎先生の「剣客商売」の中で、剣の名人秋山小兵衛が某かの剣客との立会いの中で、急に眩暈に襲われて、危い状況となったのだが、気がついて見ればその後身体は自在に動いて相手の剣客を倒していたという話である。その時秋山小兵衛は60歳代後半という設定だったかと思うが、これはもしかしたら池波先生がご自身の体験を巧みに小説の中に取り入れられての話だったのではないか。最初に読んだ時は、へえ、そんなことがあるのか、と半疑で理解していたのだが、今、このような眩みに見舞われていると、はっきりとその事情が理解できて、これは老化の自然現象の一つなのだと思ったのだった。

 老化というのは、身体の変化が1/2勾配を滑るように低下して行くのではなく、階段を下るように低下して行くものだと理解している。しかもその階段は、高さが不揃いで、階段が終わったかと数歩歩いていると、床は突然ストンと低くなって下の段に落ち込むのである。この眩みという奴もその証明なのではないかと腑に落とすことにした。

 つまりはこの現象は、我が三半規管が老化に見舞われて、ちょっと調子を狂わせている状況にあるということなのであろう。身体全体の老化に馴染んで来ていなかったということなのかもしれない。生きものの身体というのは、全体の調和をベースに命を運んでいるのであろうから、いずれは我が三半規管も他の部分と馴染んで、バランスを保ってくれるのではないか。そう思うことにした。これは治療方法など無い自然現象なのだと思うことにした。だとすれば落ち着くまで待つしかないし、それまでの間は我慢するしかない。

 それにしても、この先この身体を組み立てている様々な器官たちが、それぞれどのような老化のプロセスを辿るのか、見当もつかないけど、出来る限り足並みをそろえて行って欲しいと願うばかりである。そして、それらの足並みをそろえさせる脳だけは、あの世に行く指令を発するまで健康であって欲しい。これが一番の願望である。

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相互忍耐50年を迎える

2018-10-11 01:11:33 | 宵宵妄話

妙なタイトルとなった。かなりひねくれた感じもある。昨日、2018年10月10日は、我々夫婦が共に暮らし始めてから満50年を経過した記念日だった。普通だとやれ金婚式だなどと言って、先ずはめでたいということになるのだと思うが、我々にはその実感はない。かといって危機的な状況にあるわけでもなく、至って平穏に昨日から今日へ、そして明日へと時間は流れている。

50年前の10月10日、東京の某所で結婚式なるものを挙げたのだった。その場所を覚えていたのは、その後の10年間ぐらいで、今はもうすっかり忘れてしまっている。家内の方は覚えているのかもしれないけど、自分はずぼらな人間なので、一見真面目そうに見えても、覚えているのは場所などではなく、その日の天気やどうしてその日を選んだのかということくらいか。10月10日はその当時から晴天の特異日で、先ずは晴れの天気が保証されていた感じだったし、それにあやかってなのかこの日が体育の日として国民の休日となっていたからなのである。この日に式を挙げておれば、その後も結婚記念日なるものが晴天の休日として保証されるに違いないと考えてこの日を選んだのだった。

だから、しばらくの間は家内と一緒になった記念日を忘れることはなかった。しかし、いつの間にか国民の祝日は、世の中を覆っている効率主義、効果主義そして経済主義に毒され始めて、根拠の甘い祝祭日は動くことになってしまったのである。今頃は、体育の日はご都合主義で土・日曜日にくっついて動き回るようになってしまったので、雨の体育の日も増えるようになり、自分達の不変と思われたその記念日も、休日とは限らなくなってしまった。このような変更に対して疑念や不満を抱いている同世代人は少なからず居られるのではないか。と、先ず文句を言っておきたい。

さて、そのようなことはともかくとして、何と50年も経ってしまったのである。この50年の越し方をあれこれと振り返るつもりはないけど、ここまで何とかやって来られたのはどうしてなのか、それを二人での暮らしの根っ子のところで考えてみた。

ぐっと濃縮すると二つに集約できるように思っている。一つは何はともあれ、お互いが健康を保持して来られたこと。もう一つは喜怒哀楽に対する忍耐、即ち我慢が出来ていたことではないかと思う。この二つがあっての毎日の積み上げが結果として50年という時間になったように思う。

暮らしの現実は、愛しているとか、労わりあい助け合って、という一見美しいことばで表現できるようなものではない。勿論そのようなものが全くないという話ではなく、現実の毎日の中では、美しくて楽しくて満足できるようなことは、断片的で一時のものに過ぎないということである。

一般的に我慢というのは苦しく辛いことや悲しいことなどに対して使われることばだと思うけど、喜怒哀楽ということになると、喜びや楽しみに対しても我慢するというのは変ではないかということになるのかもしれない。でも、自分には喜び過ぎたり、楽しみ過ぎたりするのは破滅への道につながるように思えるのである。だから我慢する必要があるのだと思っている。喜びや楽しみというのは噛みしめるという姿が一番であり、それを上まってはしゃぐ言動は如何なものか。だから喜怒哀楽の全てに適当な我慢が必要なのではないか。そう思うのだ。二人ともそれをほどほどにやって来られたので、ここまで辿り着けたのだと思う。もしそれが出来なかったら、心は壊れて二人の関係は危いものとなり、その修復は困難になるのではないか。そんなふうに思っている。

健康のことだが、これは勿論心身併せてのものであり、天の加護と自助努力の結果が今につながっているように思う。家内は大病を患ったが、心を壊すこともなく立ち直って元気でいてくれているし、自分もそれなりに健康には注意して身体を動かしている。健康というのは、お互い個体としての自分自身の問題なので、それぞれが持っている身体と心に合わせて保持して行かなければならない。自分と家内の対応の仕方は全く違っているのだけど、ここまでやって来られたのは、お互いの自己管理をそれなりに上手くやって来ているということなのであろう。

さて、このあとも生きて行かなければならない。この先は今まで以上に忍耐を要するできごとが湧きあがって来るに違いない。老と死であり、その引き金となる病である。これらは生きものの全てに与えられた課題であり、何ものもそれを逃れることはできない。二人が本当に力を合わせて生きなければならないのは、これからが本番なのだと思う。

50年も夫婦暮らしを続けていて、二人は今妖怪化していると自分は思っている。ずぼらな自分は妖怪チョンボジジイとなっているし、それが原因で家内は妖怪小言ババアとなっている。この関係では家内の方により多くの忍耐が必要なのかも知れない。加害者よりも被害者の方に我慢がより多く求められているのが古来よりの世情であり、妖怪小言ババアには申しわけないと思うのだが、このチョンボジジイの動きの中には、かなり生来のものが入っているので、我慢が出来なかったらなるべく早く諦めて欲しいと思っている。

そうそう、諦めが肝心なのである。忍耐の終着駅は諦めなのだ。仏教では放念というのだろうか。一切の囚われの心を解き放っての新たな境地、老を重ねた人間には、やがては誰にでも天が配剤する恵みがそれなのではないか。この頃はそのようなことを思っている。

なお、妖怪は不死身だとも聞く。それは困るなと思っている。妖怪化もほどほどのレベルに止めて、人間を保って行きたいと思う。この二人の関係が何時まで続くのかは解らない。しかし、妖怪化が幾ら進んだとしても、もはやこの関係無しでは生きては行けないことは悟っている。この後もいつものように淡々とその状況に合わせて、一日一日を二人で積み上げて行きたい。そう思っている。

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112日という時間

2018-10-01 08:30:37 | 宵宵妄話

 時の経過を「違い」として認識することは大変に難しい。例えば、昨日と今日との暮らしの違いを見出そうとすると、これが難しいのだ。勿論、個々の行為は違っているのは当然なのだが、本質的には多くの場合今日も昨日と同じことをして暮らしていることになり、大した違いなど無いのである。ましてや一緒に暮らしている人間のこととなると、夫婦であっても親兄弟であっても顔も行動も昨日と今日が違っているなどと判るのは、何かとんでもない事件に遭遇でもしない限り、とても見出すことは困難だ。

 しかし、不思議なことに現実は少しずつ変化しており、一日の差が1カ月、1年、10年となるにつれて、その違いは大きくなってゆく。それに気づかないのは、多分当事者も又時間の流れと共に流れているからなのであろう。丁度新幹線の中に座っている人が外の景色を見ない限りその速さに気づかないと同じように、時の流れの中に居る人には自分自身とその周辺にいつも一緒に居る人の変化には気づかないものなのだ。

 さて、今回の旅では112日ぶりに家に戻ったのだが、前置きの理屈に照らして、何よりもその変化に驚いたことがある。たった3カ月と3週間の時間経過なのに、ホ~!と感心し、驚いたのである。それは孫娘の絶大なる成長だった。まるで人間の成長の瞬間をそこに見たという感じだった。

同じ屋根の下に住む孫娘は、出発した5月下旬の時は2歳だったが、旅から戻った9月中旬には3歳になったばかりだった。どんな反応を示してくれるのかなと、ジジババとしては不安と嬉しさの期待の綯い混ざった心境で孫たち(5歳の男児もいる)と対面したのだが、自分たちに気づいた瞬間、大喜びで飛び込んで来てハグしてくれるほどのはしゃぎぶりだったので、何故か安堵したのだった。そして、驚いたことに孫娘はドレスなどを着ておしゃれをしていたのだ。話を聞くと、なんとこの9月から兄と同じ幼稚園に通っているとのこと。今日はお誕生会があって、それでおめかしをして出掛けて、今戻ったとのことだった。思っていたよりも半年も早い就園ということになる。当今、子どもの数が少なくなっているということで、幼稚園の新しい戦略施策が始まっているのかもしれない。社会性を身につけることは大切だが、ちょっぴり早過ぎるとの思いも浮かんだ。しかし、本人は兄が通園している間、遊び相手もなく半端な時間を過ごしているのだから、悪くはないなと思った次第。

惣領の甚六という俚諺(りげん=ことわざ)があるけど、兄に比べて妹の孫娘の方が何事も覚えが早い様で、先取の気に富んでいる様である。だから、早やめの幼稚園通いはこの子には至当なことなのかも知れないと思った。

その後半月が過ぎて、孫娘はほぼ毎日階段を上がって顔を見せにやって来る。兄の方は偶にしか来ないのだが、孫娘は毎回顔を見せたら、長居はせずに直ぐに戻ってゆく。で、一つ気になることがあるのだが、それは今まで兄のことを「にーに」と呼んでいたのだが、いつの間にか、その名を呼び捨てにしているのである。親たちが兄の名を呼ぶのを見ていてなのか、或いは幼稚園に通うことになって自分も対等なのだと気づいたのか、呼び捨てることに決めたのかも知れない。兄に向かって、大きな声で「○○、それはダメじゃない!」などというのを聞いていると、ドキッとして、これは末恐ろしいことになるのではないか、などとちょっぴり不安にもなる。もはや長幼の序などに拘る時代ではなくなっているのかもしれないけど、何だか下剋上の小児版を見ている様な気がして、複雑な気持ちとなるのである。強いことはいいことなのだが、ただ強いだけではつまらない人間になってしまう。人間には強さと同じ分だけの優しさが必要なのだ。できることなら孫娘には強さよりも優しさの方が先行する女性になって欲しいと願っている。

まだ随分と先のことを気にしているなとは気づいているのだけど、とにかくこの112日間で、孫娘はそれだけ多くのことを思わせるほどの成長ぶりだった。旅から戻って一番の変化に驚かされたのは、この孫娘の姿だった。もはや成長が完全に停まってしまっているジイジには、孫娘の成長はとても眩しく見えたのだった。

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旅から戻って正常未達

2018-09-27 04:57:00 | くるま旅くらしの話

 旅から戻って、あっという間に半月が過ぎようとしている。この間毎日ブログの方は覗いているのだけど、日を追うごとに訪問者の数は下降を続けていて、旅の間の1/3ほどとなってしまった。それを見ていると、何だか申し訳ないような、残念な気分になり、何かを書かなければならないと、物書きの本性のようなものが働いて、取り敢えず近況を報告することにしようと、これを書いている。

 旅から戻って最初の1週間は庭の除草と植木や生け垣の剪定に取り組んだ。3カ月半の留守の間、倅の方でも多少は除草などをしてくれていた様なのだが、見る限りでは草たちの方が連戦連勝している感じだった。これを懲らしめようと一草といえども許さじと除草に取り組んだのだが、それが出来たのは最初の1日だけであって、翌日はもう立って歩けないほどの腰痛に見舞われてダウン。それでも1日休んでその翌日には回復し、腰の方も作業に慣れたのかそれほど痛くはなくなった。老人の割には回復が早い方なのかもしれない。

 週2回のゴミ出しで、この週は袋詰めしたものを25個ほどを出すこととなった。草も枝葉も袋に詰めて出すのだが、これほど大量になるとは思わなかった。それでも家の周辺がすっきりすると、旅の間の留守の罪滅ぼしが出来たような気分となり、先ずは一段落。

 その次に取り組んだのが旅の記録の整理。と言っても肝心の150年の来し方に関する各種情報・データの整理ではなく、その前にブログで発信した日々の記録を冊子化することである。自分は旅が終わると、毎回その記録を「でこぼこ日記」というタイトルで冊子として残すことにしている。ブログを開設していなかった頃は、旅日記を冊子化していたのだが、開設後はブログの記事を再度見直しして誤字・脱字等をチエック、編集して冊子とするようにしている。今回も驚くほどの誤字・脱字などがあって、赤面の心境である。当日書いたものをロクにチエックもせずにそのまま投稿する危険さを思い知らされた感がする。

 今回は長旅だったので、冊子は240ページにもなり、これをパソコンを使ってプリントアウトし、20冊分を製本するのは結構厳しかった。全て一人の手作業なのである。それでも出来上がると、後楽の第1ステップが終了しことになり、先ずは安堵する。この冊子化の作業は、以前は1カ月ほどかけてやっていたのだが、この頃はブログがあるので、帰宅後2週間以内には作成完了することを目途にしている。今回もこの日限については、セーフといったところである。

 この二つの作業だけで半月近くかかってしまった。まだまだ雑事が控えている。浮世の雑事は必要悪だと思っているけど、良く考えてみると、我々はその必要悪のために人生を歩んでいるのかもしれない。つまり、必要悪などという捉え方は思い上がりということになるのであろう。取り敢えず当面幾つかの必要悪をこなさなければならない。

 ところで1万キロ以上のくるま旅をしてみると、どうやら今頃になって疲れというものが顔を出してくるようだ。旅の間に疲れを感じることは殆どなかったのだが、帰宅後の暮らしの中では、心身ともに揺らぎが大きいのを感じている。体調管理のバロメーターとして「4快(快食・快眠・快便・快動)」を掲げてやって来ているのだが、このところ快眠と快動が思うようにゆかない。異常というレベルではないけど、今一「快」を覚えないレベルなのだ。ま、第1ステップが終了したので、回復に向かってくれるとは思っている。

 この後は楽しみが大きい。北海道の150年の中には興味ある出来事が無限に詰まっている感じがする。それを自分なりに拾ってゆくつもりでいる。最近のTVの中で、NHKの「チコちゃんに叱られる」というのを時々見ているけど、「ボケーと生きてんじゃねえよ!」という、あのドカン!と来るセリフは、今まで20年近くも北海道を旅していて、何にも知らなかった自分にもピッタリ当てはまる気がしている。人間、緊張ばかりでは生きては行けないけど、それにしてもボケーっと生きている時間の何と多いことか。ま、チコちゃんの様なもの知りになったからと言って、それが浮世の雑事に勝るとも言い切れず、その辺りが人生の面白いところだけど、この後しばらくは可能な限り浮世の雑事を離れて、北海道150年の来し方の宝物さがしをしていたいと思っている。

 このブログには、旅のエッセーなどを紹介できればいいなと思っている。まだまだ普段暮らしの正常化レベルには届いていない現状である。取り敢えず近況報告まで。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第114回(旅を終えて)>

2018-09-16 05:28:01 | くるま旅くらしの話

【旅を終えて】

  旅は終わった。112日。11,235km。訪問した郷土資料館・博物館など約140カ所。112日というのは、約3カ月半となり、11,235kmというのは約3千里ということになる。このような短い期間で3千里もの旅が可能なのは、まさに現代文明のもたらしてくれる科学技術の進歩の賜物なのであろう。

蝦夷の地を6度も訪れ、その様子を克明に伝えた松浦武四郎という偉大な探検家が費やした時間は、何十年にも及ぶ長期だったし、その足跡も微細を極めていた。その功績が光を放ってから150年という時間が経過した今、北海道という大地は、往時の姿を留めている場所は殆どなくなり、熊たちが生息する場所も追いつめられる時間が刻々と迫っているかの様である。

今年の北海道の旅は、格別のものだった。今まで20回近くの北海道行は、只の享楽的なものだったのだが、今回は初めて目的的な旅となった。それには第一に、明治の初めにそれまで蝦夷と呼ばれていた北の大地が、北海道となってから150年の節目を迎えるということを期して、この150年の来し方を訪ねてみようという思いを目的としたこと。それに重ねて今年が家内と一緒の人生を歩み始めてから50年となるので、ちょっぴりメモリアルな旅にしたいという思いがあったのである。

5月の26日に家を出て、6月の1日に函館に上陸して以降の北海道の天気は要約すれば涼しさを通り越して「寒い」という印象が強かった。それは7月になっても8月になっても続いており、時々夏がやって来て暑さが膨らむ時もあったけど、長続きはしなかった。全国的には猛暑がさまざまな事件を引き起こしているというのに、自分達の暮らしの軌跡の中では、それに関わらなかったのは幸運というべきなのか疑問を感ずるほどだった。天変地異の多い今年なのだが、自分達の旅の中では、旅の終わり頃になって、とんでもない台風と大地震に見舞われることになった。否、その前にも大雨で警報のエリアメールが何度も鳴り渡ったこともあった。しかし、その中で最大の恐怖は台風の強風だった。難を逃れようと真狩村の道の駅に待機して台風を迎えたのだが、真夜中の強風は半端ではない風の塊を車の後部にぶっつけてくれて、恐らく瞬間では30m超の風速があったのではないか。ニュースでは、近くの倶知安町では40mを超える風速を記録したとあった。北海道の台風来襲は珍しくも無くなったが、これほどの勢力の台風は稀なのではないか。その台風が過ぎる間もなく、今度は深夜に携帯のエリアメールが鳴って、見れば地震の揺れに注意ということだったが、間髪をいれず揺れがやって来て、しばらく続いた。それは厚真町の山崩れの大惨事の発生となり、北海道全体が1日以上も停電となる事件となった。ブラックアウトとかいう、電力という暮らしの巨大インフラのダウンは、現代文明の世の在り方の脆さを思い知らされる感じがした。大自然との闘いは、北海道では現在もなお続いていることを表象するような出来事だった。

さて、肝心の目的である北海道150年の来し方についてであるが、これを一口にまとめていうのは難しい。敢えて言うならば、開拓の歴史は光と影のせめぎ合いであり、多分に光よりも影の方がどの市町村においても強く潜んでいるのではないかと思った。開拓の原点とも言える「拝み小屋」を見たならば、そこに未来への希望だけが光っていたとは思えない。現実は誰もが重い影を引きずっていたのではないか。150年間その重い影を引きずりながら、無数の挫折を振り払って、現在の北海道があるのだと思った。この150年間は驚異的な速さで北海道を変えていったように思う。それは縄文という食料採取の暮らしから弥生という米生産の時代をパスして、一気に近代化を果たし、現代につなげたというほどのものなのではないか。北海道に弥生時代というのは無かったのだ。石器時代から縄文、擦文の時代を経て、江戸時代となっても暮らしのスタイルを変えなかったアイヌの人たちは、明治という時代になって、一挙に入り込んできた和人たちに有無をいう間もなく取り込まれ、暮らしの環境を一変させられたのであろう。どの市町村に行っても歴史資料館の中にアイヌの人たちの暮らしのことを語るコーナーが設けられているのは、和人の罪滅ぼしのような感じがしてならなかった。影の部分に懸命に光を当てている感じがしたのである。

様々な光と影を垣間見た感じがしているのだが、その中で印象として残っていることを2,3挙げてみることにしたい。先ず思ったのは、明治という時代がどのような実態だったかということを知らないと、開拓の歴史はつかめないなということ。思うに江戸時代というのは差別の時代だった。極端に言うと、幕末に仮に三千万人の人口があったとしたら、その三千万人を、天皇を頂点として三千万人分の順位をつけて差別するのが当たり前の感覚だったのである。明治になって「士・農・工・商」が廃されたといっても、いっぺんに暮らしの感覚が転換できるわけではない。これを転換させるには、民間の力では不可能だったと思う。従って先ずは官主導で開拓の環境づくりが進められたのだと思う。しかし、官の中でも力関係は建前とは別に本音のところでは、相当に差別心が働く状態だったに違いない。北海道の全ての土地は国有から始まっており、それが民間に払い下げられるまでの官の力の中に差別の意識が無かったとは到底思えず、開拓地の選定などに当っては、権力者による旧弊は拭われなかったのだと思う。北海道の開拓の始まりは官の天国だったのではないか。開拓地の大半が不在地主だったというのも、そのことを証明しているといえよう。そして、もしかしたら北海道では官というものの存在が今の時代でも最優遇されているという見方が続いているのではないか。各市町村を回ると、立派な役場や様々な公共施設が市街地の中心部に建てられており、その中で仕事をする者のプライドのようなものを感ずるのである。勿論現代ではその腰の低さは、明治の往時とは比較にはならないのだけど。

次に思ったのは、開拓の最大のインフラとなる道路の建設に多くの囚人が寄与している、否寄与させられているということ。今回の旅で、初めて月形町の樺戸集治監を知った。集治監というのは現在の刑務所である。つまり、何らかの法を犯して罪を問われている人たちを集めて居る場所である。罪の重い人が多く収監されているのは勿論なのだろうが、その罪の性質といえば、この時代ではいわゆる政治犯、思想犯も又重罪に値していたわけである。時の政府や国の思想を無とする人たちを放置しておくことは、国の基盤を固める上で大きな障害となると考えた為政者側は、容赦なく反体制者を捕らえ、重罪としたのだった。殺人者も政治犯も、刑務所内で罪を償うのではなく、開拓のインフラとなる道路建設に使役するという発想は、当時の政府にとって何よりの妙案だったに違いない。かくして多くの囚人たちは過酷な労働を強いられながら何本かの基幹道路をつくり上げたのである。これは囚人道路と呼ばれて、その後の開拓に大きな力となったのである。往時の囚人たちは使い捨ての労働力としてしか考えられず、耐えきれずに死亡しても弔いも出さずに路傍に打ち捨てられていたという。それを供養する場所が現在でも何箇所かあるという話を聞き複雑な気持ちとなった。

開拓の歴史の中で、どこの市町村を訪れても凄いなと尊敬することが一つある。それは開拓に入った人たちの子孫に対する教育への取り組みである。どんなに貧しくとも、粗末であっても子どもたちの教育に関しては決して疎かにしなかった。その精神はすごいなと思った。拝み小屋と同じような粗末な学校が開拓場所の各地につくられていたのである。この教育に対する熱心さは、現代のそれとは甚だ異質なのではなかったか。開拓の精神を後代に繋ぐためには、親以上の知識や技術が不可欠であり、それが子どもたちを幸せに導く原動力となることを、小作人であっても重視する精神がどこの村にも溢れていたのである。これこそが現在の北海道をつくり上げた原動力ではなかったかと思った。

もう一つ思ったのは、光と影の鮮明な歴史を刻んだ領域があることだ。その代表的なのが炭鉱というものであろう。空知エリアには幾つもの良質な石炭を産出する場所があって、黒いダイヤとして我が国のエネルギーの主役を果たしていた時は、万人の人口を有する町が幾つも存在したのだが、今は見る影もなく寂れている。それは空知エリアだけではなく、他のエリアにも見られる現象である。ある歴史資料館を訪ねた時、そこの館員の方が話されたことばが心に残っている。「採(獲)ることによって栄えた町は、それを採(獲)り尽くすと凋落する。だけど、育て、作ることによって支えられている町は凋落することは無い」 漁業や鉱業はその資源を採りつくしてしまうと一挙に繁栄の坂を転げ落ちることになるけど、農業などのモノをつくる産業は生き残れる、ということなのであろう。北海道の未来は、モノをつくり、生み出す働きによって支えられて行くのだなと思った。それが具体的に何なのかは解らないけど、150年でここまでつくり上げられた北海道は、それを維持するためにも様々な領域・分野でモノを生み出し、つくって行かなければならないのだなと、そう思った。

これから今回の旅の後楽が始まる。当分の間は楽しみよりも苦しみの方が多いのかもしれない。しかし、この苦しみは明るい苦しみなので、正確には苦しみなどではなくやはり楽しみなのであろう。これから1年くらいかけて、この旅の成果をまとめてみたい。どのようなものとなるのか、今は見当もつかないのだが、それで良いのだと思っている。

家内にとっては、資料館や博物館めぐりはかなりハードなものだったらしい。50周年記念だと話す度に、「わたしは、このような苦労の多い旅を記念行事とは考えたくない」と拒否され続けていた112日間だった。確かにそうなのかもしれない。もっと楽しくて、幾つものご馳走にありつける旅でなければ、50周年を祝うことにはならないのであろう。しかし、もう旅は終わってしまったのだ。このような金婚の迎え方も面白いではないか。そう思って諦めて貰うしかない。

旅の間にはいつもに増して大勢の方から励ましやご心配を頂いた。やはり旅というのは、自分勝手に好きなことを好きなだけやるというものではなく、多くの方たちとの係わりの中から、それらの力に支えられて成り立つものなのだということを、しみじみと感じたのだった。お世話になった皆様に心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。(2018.9.15記)

 

※この後しばらくブログを休むことにします。旅の間、長文でくどく且つ誤字やおかしな表現箇所の多かった文章の発信をお詫びするとともに、飽きもせずにお読み頂いたことにお礼申し上げます。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第113回(最終回)>

2018-09-15 03:36:11 | くるま旅くらしの話

【昨日(9/14:金)のレポート】 天気:曇り

<行程>

道の駅:常陸大宮かわプラザ →(R118・K)→ 道の駅:かつら →(R123)→ 城里町ショッピングモール → 水戸北IC →(常磐道)→ 谷和原IC →(R294他)→ 自宅

<レポート>

 昨夜は遅くなって雨が降り出し、その後断続的に朝まで降り続いていた。この分だと今日は雨なのかと、帰宅後の荷物の取り出しなどを考えると少し憂鬱な気分となった。しかし、朝方になると雨は止んで日差しも見えるようになってきたので、これなら大丈夫かと少し楽な気分となった。

 常陸大宮市は平成の大合併で出来た人口4万1千人ほどの町で、自分が育った場所でもある。道の駅のある場所は、自分の育った集落からは4kmほど離れているのだろうか。まさかこんな所に道の駅ができるなんて夢にも思わなかったというのが正直なところである。常陸大宮かわプラザと名づけられた道の駅は、清流久慈川の少し曲がった場所にあり、元々この辺りの川岸は竹が密生していて、川の流れなど見えなかった場所なのだが、その竹を伐採して巧みに地形を活かした道の駅の設計となっている。販売されている地産品や生鮮品なども生産者と販売者との連携がまあまあうまくいっているようで、活気が見られるのは嬉しい限りである。ここに泊るのは3度目だろうか。夜間の騒音も少なくて、まあ、茨城県の中では上位に属する道の駅ではないかと思っている。

 旅も最後の日となった。そのまますんなり帰る前に、我が親友に会って簡単な旅の報告をしておかなければならないと考え、水戸市郊外の城里町にある道の駅:かつら迄お越し頂くことになった。当初は自宅近くまで行ってと思っていたのだが、市内中心部では適当な駐車場も無く話もできないので、少し離れているけど出向いて頂くことにした。彼とは高校1年生以来の知人で、大切な親友である。旅の始まりからずっとブログをウオッチしてくれているので、内容は凡そご存知なのだろうと思うけど、お互い顔を見ながら話すのは又格別なものなのだ。

 10時に出発して、途中実家にある畑の様子を見ながら、道の駅:かつらに着いたのは10時半頃だった。間もなく親友の安夫妻も来られて、再会を果たす。この道の駅では話をできる場所がないので、彼が予め見つけていてくれたショッピングモール内の喫茶場所へ移動する。それから2時間余り旅の話やらであっという間に時間が過ぎてしまった。話は尽きないけど、改めてご夫妻が我が家に来て頂けるということで、楽しみをあとに残すこととなった。。13時頃に出発して、水戸北ICから常磐道に入り、谷和原ICまで走って、我が家に到着したのは14時20分だった。

 これで旅は終わった。全日程112日、全走行距離11,235kmの旅だった。

 孫たちがいるかと思ったら、不在だった。そのあとは荷物の運び入れに1時間ほど汗を流す。2階が住まいなので、何度も繰り返す階段の昇降は、老人には厳しい運動となるけど、まだ大丈夫である。一番重かったのは、旅の間に集めた資料や冊子で、膨れ上がった書類袋が5つもあり、加えて本なども数冊あって、運びながらこれらをどう整理するか、これからの楽しみと苦しみを思ったりした。

 17時頃にようやく孫たちが戻ってきた。それからは大騒動となった。驚いたことに下の孫娘はドレスなどで着飾っている。どうしたのかと思ったら、何と今月から幼稚園に通っていて、今日はお誕生会があったのだという。半年も早い入園と聞いて、まあ、そのような仕組みがあったのかと、もう一度驚かされた。上の子も大はしゃぎでまとわりついて離れず、久しぶりのジジバカをしばらく堪能した。

 そのあとは、もう何もする気が起こらず、北海道で買ってきたインカのめざめのジャガイモを茹でて食して夕食とし、一杯やって直ぐに寝床の中へ。全ては明日以降の課題である。やれやれ、どっこいしょ、である。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第112回>

2018-09-14 03:22:16 | くるま旅くらしの話

【今日(9/14:金)の予定】 

道の駅:ひたちおおみや川プラザ →(R118・K)→ 道の駅:かつら →(K・R50・K・R294)→(笠間市・桜川市・つくば市・常総市経由)→ 自宅

 

【昨日(9/13:木)のレポート】 天気:曇り時々晴れ

<行程>

道の駅:とうわ →(R283・R4)→ 一関IC →(東北道)→ 須賀川IC →(R118)→ 道の駅:ひたちおみや川プラザ(泊)

<レポート>

 今日は只管南下の一日。特に書くこともなし。

朝起きた時は雨がポツリと落ちて来ていた。いつものように付近を1時間余り歩き回る。東和町は平成の大合併で花巻市となったが、町中を歩くと、花巻とは関係なくそれなりの歴史を刻んできた町なのだということが分かる。土沢というJRの駅があり、この地区を中心に町が形成されているようだ。宮沢賢治もこの地区を何度も訪れたことがあるらしく、それを誇りとするような記念碑等も建っているようだ。間もなく秋祭りを迎える商店街はそれなりに力を入れているようだったが、今の時代は繁華の中心は郊外に移っているようで、何となく祭りの飾りつけに衰退の色が漂っている感じがした。いろいろな思いを感じながら車に戻る。今日はこの時間が一番充実しているのだろうなと思った。

 8時半過ぎ道の駅:とうわを出発して、そのあとはR283を少し走ってR4に出て、それを一関市迄行った後、一関ICから東北道に入り、仙台を通過して福島県の須賀川ICで下りて、R118を道なりに走って、16時半少し前に道の駅:ひたちおおみや川プラザに到着する。予定通りのコースを予定通り走っただけの一日となった。

 久しぶりに長距離を走って疲れた。早めに寝るだけである。旅もいよいよ明日で終わりとなる。このブログの記事もかなり勢いを失っている。いた仕方ないことである。

 

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第111回>

2018-09-13 04:35:57 | くるま旅くらしの話

【今日(9/13:木)の予定】 

道の駅:とうわ →(R283・R4)→ 一関IC →(東北道)→ 須賀川IC →(R118)→ 道の駅:ひたちおみや川プラザ(泊)

 

【昨日(9/12:水)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:しちのへ →(R4)→ 道の駅:とわだ →(R4)→ 三戸町知人宅 →(R4・R283)→ 道の駅:とうわ

<レポート>

 昨夜は0時前に目覚めてしまって眠れないので、起き出してブログの記事を書いたりしている内に今日となってしまった。そのあと眠ることにしたのだが、眠りかけた頃になってガスの警報機が鳴り渡り、再び目を覚まされてしまった。ガスの警報機は臭いに敏感で、何か傍においていた玉ねぎなどの野菜類の臭いに敏感に反応したようだった。空気を入れ替えてやると騒ぎは収まり元の静けさが戻った。不十分な睡眠のまま6時前には起き出して付近の散策に出発する。

 七戸町の道の駅周辺は、新幹線の七戸十和田駅がすぐ傍に出来て以来、大きく変化し続けており、警察や消防が傍に出来たほか、新幹線の駅横にはイオンが進出して車の往来も多くなって来ている。道の駅そのものは未だ整備中のようで、すっかり出来上がるまでにはあと1年以上かかるのではないか。最終的にどのような姿になるのか判らないけど、以前のような素朴さが失われることは明らかだ。今朝はこの道の駅と新幹線の七戸十和田駅の周辺を大きく一回りしてその変化の様子を確認してみた。新幹線の駅前に繁華街が出現するとは思われず、七戸町の中心街は七戸城の城下町エリアにあり、それは今後も変わらないのではないかと思った。

 さて、今日からは本格的に南下を開始する予定である。ただ、三戸の知人宅には挨拶に寄らなければならないと思っており、それが済んだら、あとはなるべく高速道を使わないようにして、ゆっくりとR4を南下して、今日は花巻市辺りの道の駅に泊り、明日も同じようなペースで南下を続け、仙台エリアに入ったら高速道を利用して福島県内の須賀川市辺りで下りて、一般道を行ってどこかの道の駅に泊り、明後日に水戸の知人宅に寄った後、自宅に戻るといった行程を考えている。

 七戸の道の駅はどうも落ち着かないので、比較的近い道の駅:とわだに行ってゆっくりすることにして8時半過ぎに出発する。20分ほどで到着して、ここで水の補給などを済ませる。多少の買い物などをして南下の体制を整えたあと三戸に向かって出発する。知人の竹林さんには11時過ぎ頃にと電話しているのだが、それよりもかなり早い到着となってしまった。三戸に着いてからしばらく待って、再会を果たす。竹林さんには往路の時にもお会いしてご歓待頂いている。邦子どのの大切な知人であり、ここを通る時は決して素通りはできないのである。ただ今は農繁期であり、お忙しい間を縫っての再会だった。

 竹林さんの話は面白い。農業一筋に打ち込んで現在でもその信念と姿勢に揺るぎはない。身体は小さいけど胆っ玉は飛び抜けて大きな女性なのだ。邦子どのと圧倒されながらいろいろと面白い話をお聞きした。帰りに貴重なお土産を頂戴したのだが、それが何なのかは秘密である。とても充実した時間だった。

 そのあとは今日の宿を予定している花巻市郊外の東和町にある道の駅:とうわに向かう。当初一般道を行く予定だったが、話が弾んで13時を過ぎた出発となったので、途中から高速道を利用することにした。一戸ICから八戸道に入り、東北道に入ってしばらく走り、花巻ICで下りてR4からR283を少し走って道の駅:とうわに到着する。

 この道の駅には隣接していい温泉がある。自分は昨日入っているので、邦子どのだけが入りに行く。これが今回の旅の最後の温泉になるのかもしれない。邦子どのが戻って来て、これはやっぱりビールで乾杯ということになる。十和田の道の駅で買った毛豆と書かれていたダダ茶豆風の枝豆をつまみに、残り少ない車の中での夕食を済ませる。あと2日、無事に旅が終われば良い。明日は少し高速道を走ることになるので、先ずは安全運転で行くことにしよう。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第110回>

2018-09-12 00:14:09 | くるま旅くらしの話

【今日(9/12:水)の予定】 

 道の駅:しちのへ →(R4)→ 道の駅:とわだ →(R4)→ 三戸町の知人宅 →(R4)→ その先未定(どこかに宿泊予定)

 

【昨日(9/11:火)のレポート】 天気:快晴

<行程>

道の駅:いなかだて →(R102・K)→ 田んぼアート第1会場 →(R102・K)→ 田んぼアート第2会場 →(K・R7・R4)→ 道の駅:浅虫温泉 →(R4)→ 道の駅:しちのへ

<レポート>

 朝はスモッグがかかっていたが、その内に次第に晴れて来て、朝食が済んだ8時頃は快晴の空となった。日差しがきつくて、暑くなるかと思われたが、気温は上がらず快適な田んぼアート見物日和となった。

 8時45分頃に出発して、先ずは第1会場の田舎館村役場に向かう。5分もかからぬ内に到着して、9時の開場を待って一番乗りで切符を買ってエレベーターで4階の展望室へ。今年のテーマは第1会場は「映画ローマの休日」第2会場は手塚治の漫画の主人公が幾つか描かれることとなっている。自分は映画というものを殆ど見ていないので、この映画の主人公たちを演ずる俳優も女優も名を知らないので説明ができないので、以下に写真で紹介することにしたい。

先ず第1会場のローマの休日。左側の田んぼの大きさは縦140m×横48m、右側の田んぼは縦140m×横53mである。

 

初めに田舎館村役場の写真である。なかなか個性的な建物で、この手前が田んぼアートの田んぼで、観覧は300円也を払ってエレベータに乗り、この4階に作られた屋上の柵内から見下ろすことになる。更に200円を追加すると天守閣からも見ることができる。

東側の田んぼの絵。「田舎館のあさゆき」とあるのは、この地で作られている米の新しい品種の名称である。

右側の田んぼの絵。これらの複雑な絵が、100%稲を植えて育てて作られているとは、初めて見る人には、とても信じられないであろう。

 次に第2会場だが、こちらは先ほどの道の駅:いなかだてのすぐ傍にあって、田んぼアートともう一つの領域の石のアートの二種あって、田んぼアートは横160m×縦70mの楕円形の田んぼに手塚治作品のキャラクターが6体描かれている。又石のアートの方は「惜しまれる人」と称してダイアナ妃(680㎡)と美空ひばり(1400㎡)がの絵が大地に石を用いて描かれている。写真の方は、手塚治作品のキャラクターは大き過ぎて全部が一枚には収まらないので、2体ずつのものを使っている。

 

作者の手塚先生の似顔絵と名前を知らないかわいい女の子の絵。

これはブラックジャックかな?あまり漫画を読んでいないので良く判らない。

鉄腕アトムは判るけど、この可愛いさの塊のようなキャラクターの名は知らない。

細かく砕かれた石を大地に並べて描かれた絵である。微細な光の変化を巧みにとらえている。

 モノクロの写真と見紛うほどの出来具合は称賛に値するものだと思う。

 最高の天気条件のもとで見た田んぼアートは4年前と比べて格段に芸術性を増した作品となっているように思えた。ローマの休日は7種類の米を用いているということだが、その米たちは葉や穂の色は勿論、丈の高さや葉の広がり具合などそれぞれの様々な特徴を巧みに活用して、みごとな絵としての表現を実現しているのである。絵の大きさに感嘆するだけではなく、傍へ行って良く見てみると、その細かい様子が判り驚嘆するのである。昨年見た行田市の田んぼアートは大きさという点でギネスに登録されたとか聞いているけど、芸術性という点では田んぼアート発祥の地である田舎館村の作品には及ばないのではないか。ま、あまりこれらを比較して云々するのは意味の無いことだとは思うけど。それぞれの作品のそれぞれの見事さを素直に味わえばいいというのが正解なのだと思う。第1、第2会場とも、素晴らしい作品を見ることが出来て、2日間も待った甲斐があったというものである。存分に楽しんだ後は、南下を開始する。

南下なのだが、実は北上しての出発となった。当初は山を超えて十和田湖の脇を通って七戸の方へ抜ける考えでいたのだが、昨日までの大雨で山道の地盤が緩んでいる箇所もあるかもしれないと考え、安全を期して遠回りでも青森市に戻ってR7からR4に入って浅虫温泉経由で七戸に行くことにした。高速道路の通行を予定していたのだが、田んぼアートの見学が思っていたよりも早く終わったので、一般道を行くことにした。

青森市街を通り抜け、浅虫温泉で昼食をと思ったのだが、道の駅のレストランはパスして、少し先の平内町のホタテ広場という所でホタテ主体の食事を摂ることとなった。自分はホタテの串揚げ4本が載っているホタテカレーを食したのだが、満腹になるほどのボリュームがあって、十分満足した。

そのあとはR4をひたすら走って、14時過ぎに道の駅:しちのへに到着。ここには往路でも寄っているのだが、直ぐ傍に東北新幹線の七戸十和田駅が出来て以降、道の駅も構内の大改築工事が続いており、今回も状況は変わらず、工事の車が多く停まっていて、あちこちで工事の騒音が絶えない状況だった。しばらく休憩の後、近くの東八甲田温泉に入りに行き、今日一日の汗を流す。邦子どのは久しぶり(?)の長時間移動に疲れたようで、自分が温泉から戻ってきてもまだ寝床の中だった。17時過ぎにようやく目覚めた様だが、東八甲田温泉は湯の熱さが増しているので、入るのは止めた方が良いとアドバイスした。この温泉は気に入っている一つなのだが、この頃はやたらに熱いので持て余すようになっている。草津ほどではないけど、老人には穏やかな暑さの風呂がゆっくりできるのだ。ということで、食事も軽く一杯やる程度で済ませて、夜を迎える。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第109回>

2018-09-11 04:34:15 | くるま旅くらしの話

【今日(9/11:火)の予定】 

道の駅:いなかだて → 田んぼアート第2会場 →(R102・K)→ 田んぼアート第1会場 →(K・R102)→ 黒石IC →(東北道)→ 青森東IC →(みちのく道・R4)→ 道の駅:しちのへ

 【昨日(9/10:月)のレポート】 天気:雨

<行程>

終日道の駅:いなかだてに滞在(日中、弘前市内コインランドリー迄往復)

<レポート>

 昨夜は朝まで音を立てて雨が降り続いていたが、朝になっても一向に止む様子は無く、むしろ勢いを増すかのような雨の降り方だった。これでは朝の散歩もままならず、何だか暗い気分で朝を迎えた。この雨では予定していた田んぼアートの見物もすっきりしない形で終わりそうなので、この際思い切ってもう一日ここに泊ることにしようと決める。

 この天気の所為で車のバッテリーも赤信号が点きそうになっているので、朝ドラを見る都合上しばらくエンジンをかけることにした。幸い近くに停まっている車も無いし、雨の音で迷惑もかけないで済みそうなのでという判断だった。天気が良ければソーラーが働いてエンジンなどかける必要も無いのだが、仕方がない。今回の旅の中では初めてのことだった。

 朝食を済ませて、さてどうするかであるが、洗濯物がかなり溜まっているので、どこかコインランドリーを探して処理をすることにした。雨の中でも洗濯ができるとは、まことに便利な世の中になったものだと思う。ネットで調べたのだが、クリーニング店と混同した情報が多くてはっきりしない。一昨日ここへ来る途中に黒石市内で何軒かあるのを見ているので、先ずは黒石市内を走って探すことにした。

 直ぐに見つかったのだが、邦子どののチエックでは、機械が古くて洗剤を入れなければならないタイプだという。それでここは止めて別の場所を探すことにした。中心街近くになって店を発見し、ここもチエックしたのだが、ダメとのこと。更にもう少し走って、一軒見つかったのでチエックしたのだが、ここも機械が古くて小さく、とても無理だとのこと。結局黒石市内では邦子どののチエックに合格する店は発見できず、少し遠くなるけど、弘前市内のコインランドリーを探すことにする。

 今日はどうせ何もすることもないので、1日かけての洗濯デ―にしてもかまわないという考えもある。かなりの雨の中をしばらく走って、弘前市の郊外のショッピングモールのあるエリアの中を探すことにした。あてずっぽうなので、とにかく見つかるまで探すしかない。10分ほどウロウロしていると、ドラッグストアの脇にコインランドリーがあるのを発見。邦子どのの話では以前ここでしたことがあり、そのままではダメなのではないかということだった。念のため中に入ってチエックして貰うと、OKマークの動作をしているので、大丈夫なのだなと判って安堵した。とにかく見つかって良かった。

 かなりの雨降りの中を洗濯物を運んで、そのあとは邦子どのの世界である。自分は車の中で、パソコンに向かうことにしている。何種類かの記録の整理が出来ていないので、それらをチエックしたりしている内にあっという間に2時間が過ぎ、もうそろそろ洗濯も終わるころかと行ってみたら、丁度たった今たたみ終えて風呂敷などに包み終えたばかりのタイミングだった。雨は依然として止もうとはせず勢いを保っている。

 12時半を過ぎているので、腹が騒ぎだしている。どこかレストランなど無いかと探したが、どうも勝手が判らない。それで、先ほど見つけた黒石市内のホットモットヘ行って弁当を買い道の駅に戻って食べることにした。結局食事にありついたのは、い時半近くになっていた。自分はこの弁当屋のメニューの中では、焼きサバの入っているのが一番の気に入りである。今回もやっぱりそれを選択した。このところしばらく魚類を食べていないので、久しぶりの焼サバは美味かった。

 そのあとは、もう何もすることがないので、寝るしかない。ということで、夕方近くまで午睡を貪る。目覚めたのは18時過ぎだった。相撲を見るのを忘れていて、稀勢の里がどうなったかが気になり調べたらどうやら勝ったらしいので安堵した。隣町出身の横綱の動勢はやっぱり気になるのである。とにかくもう一旗挙げて欲しいのである。少し静かだなと思ったら、どうやら雨は降り止んだらしくて、外を見ると雲が薄くなっていて青空らしきものも覗いているようだ。いい加減に降り飽きたのであろう。これなら明日は大丈夫だなと思った。

 明日から移動を開始し、本格的な帰途に就く考えである。その前に2日も足止めをしても見ようとしている田舎館の田んぼアートをしっかり目に収めておかなければならない。鬼平犯科帳を見終えて、今日2度目の眠りに就く。

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