山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第3日

2010-11-30 02:25:37 | くるま旅くらしの話

 

 

3日 <10月25日(月)>

 

行 程】 吉和SA → (中国道)→ 山口IC → (R262) → 道の駅:あさひ(山口県萩市) → (R262・K32) → 道の駅:萩往還(山口県萩市) → (R262・191) → 道の駅:萩しーまーと(山口県萩市) → (R262・191) → 道の駅:萩往還(泊)  <267km>

 

はとんでもなく遠い。遠かった。けれど今日は確実に萩に入ることが出来る。維新間近の幕末の時代、日本中を歩き回った志士と呼ばれる人たちのエネルギーは相当のものだったと感嘆する思いがある。今の時代に、救国の理想を掲げて我が身のことも忘れて、只管(ひたすら)に信念を貫こうと動いている人が、この国にどれだけいるのだろうか。自分のことは措くとして、評論家の目で見てもその数は幕末には遠く及ばないような気がする。今日はその中心にあって活動した武士(もののふ)たちの生まれ育った街を訪ねることが出来る。

 

昨夜は高速道SAの割には静かで、心乱されることもなく安眠の時を過すことができた。ここで夜を過ごした車は、もしかしたら我々1台だけだったのかも知れない。夜中に雨がかなり強くなりだして、天井を打つ音で眠りを覚まされたりしたけど、明け方になる頃は小降りになったようだった。何しろ早く寝るので、目覚めも早くなり、何とか二度目の眠りを押し付けるのに苦労するのである。今回の旅では、携帯からのブログ投稿をしないので、旅が本格化するまでは記録を書く気にもなれない。記録の方は明日から始めようと思っている。夜が長いのも明日までのことだ。尤も邦子どのの方からすれば、明日からは寝ている間にパソコンの不吉なキーボードの音に煩わされるということになるのかもしれない。ミニ1Kの住まいでは、この改善はいかんとも仕方なく、諦めて貰うしかない。

 

吉和のSAには直ぐそばに公園のようなものが造られており、そこにはペットの水飲み場なども設けられており、給水には何の心配も無い。ゴミ処理にも心配は無く、本当にありがたいことである。準備点検を終えて出発したのは、9時15分だった。車の殆ど走っていない高速道路を、最後の運転を味わうべくゆっくりと進行する。坂道は時速60kmくらいとなったが、後続車もなく迷惑をかける心配も無い。少し紅葉の始まっている両側の山の景色を味わいながら40分ほど走ると、鹿野SAがあった。ここが山口ICから出る前の最後のSAとなる。ちょっと寄って行くことにした。用を足してトイレから出掛かる時に俄かに携帯が騒ぎ出した。見ると福島県のIさんからの電話だった。出発前のブログをご覧になっていて、我々が萩に向っていることをご存知だったようで、気にかけられての電話だった。Iさんご夫妻も、何年か前に萩を訪れておられ、その時は丁度時代祭りの開催中だったとのこと。長州と会津は仇敵の間柄だったけど、今では友好姉妹都市(正式にはどう呼ぶのかは判らない)となっているとかで、その時にも萩の人たちに温かく迎えて頂いて嬉しかった思い出があるという様な話をされていた。我々のことを盛んに羨ましがられているようで、チョッピリ申し訳ないような気がした。その後の話で、Iさんは難病に取り付かれて2ヶ月ほどは歩くこともままならず、ようやく最近歩けるようになったとか。驚くと共に、羨ましがられる訳の一つがそこにあったのかも知れないと気づいた。健康あっての旅であり、いつ何時我が身に災厄が降りかかるかも知れず、改めて安全運転と健康管理の大切さを確認した次第である。Iさんの一日も早い本復を祈るばかりである。

 

鹿野SAを出発するとほんの少しで山口ICだった。長かった高速道の運転もこれにて終了である。運転の心構えのギアをチエンジして、一般道のR262に入り、山口市方向に向う。今までと違って車も多く、道路の両側にも様々な建物が連なっている。ようやく人間界に戻ってきたという感じがした。郊外のスーパーに立ち寄り少々食材などの買物をする。思いついた時に買っておかないと、先のことは状況によってどうなるか分からないからである。今日の泊りは萩市街から少し離れた道の駅を予定しており、そこに必要なものが売られているかどうかは分からないし、買物をするのを忘れてしまうかもしれない。何度も失敗経験があるので、要注意というわけ。

 

R9と一緒だった区間を走って、R262は山の中の分岐路から萩に向うことになる。これは初めて通る道である。今までの萩行は別の道ばかりで、萩往還と呼ばれるこの道は初めてなのだ。かなり厳しい山道だったので、その昔はもっと大変ではなかったかと、再び幕末辺りの人々のエネルギーのすごさを思わずにはいられなかった。この往還路は、萩から山口を通って瀬戸内側の三田尻(現防府市)に抜ける道を指すのだろうか。よく分からないけど、旅から戻ったら調べる必要があるなと思った。

 

山の中をしばらく走ると旭村というのがあり、そこの道の駅:あさひにちょっと立ち寄ったのだが、まあ、呆れ返るほど何もない。この村では野菜などは販売するほどは作っていないのかなと思った。この村の人たちは何で生計を立てているのだろうかと、不思議に思うくらいだった。何か獲物をと少し期待していただけに落胆は大きかった。しばらく走ると県道32という標示板が目に入った。確か道の駅:萩往還に行くにはこのナンバーの県道を左折するのだと思い込み、しばらくそこを走ったのだが、一向にそれらしき雰囲気が感ぜられない道なのである。おかしいなと思いながら走っていると、何といつの間にか秋芳洞に向うR490などという標示板となっているではないか。何だこれは!と、ようやく道を間違えたのに気がつく。改めて地図をよく見たら、R262から左折する県道32は二つあって、早まって間違った方へ行ってしまったのだった。7kmほど後戻りして、元のR262に出て、本物の県道32に出るまでにはかなりの無駄走りをしてしまった。こちらの県道の方は先日の大雨で地盤が緩み、現在は道の駅までしか行けないとのことで、問題を抱えているようだった。とにかく道の駅に行ってしばらく休むことにする。駅の駅:萩往還への到着は12時20分だった。

 

この道の駅には、吉田松蔭記念館というのがあり、吉田松陰の生涯に関する諸資料の展示・解説とその主な門下生のことなどについて紹介している建物が併設されており、その建物の前には、松下村塾の主な人物の銅像が建っていた。明治の元勲(げんくん)といわれる人たちも何人か居るかと思えば、又そこに至らぬままにこの世を去った人たちも並んで立っていた。この方たちは皆この往還を何度も通って、己の志を果たすために活躍したのであろう。トンネルを二つ潜った県道32の正面には、「萩にようこそ」という大きな歩道橋のような門のようなものが設えてあり、その先は有料道路となっているようである。今は交通が規制されており、先ほどのR262の分岐の所には通行止めとの表示もあった。萩に入るのはこの道の方が遙かに短距離であり、その昔はR262の道は、無かったのか、あっても阿武川沿いの細道程度で、メインはこの県道の方だったのではないか。その様に思った。

 

  

 

道の駅:萩往還にある、県道32号を跨いで作られた「ようこそ萩へ」の歓迎門。しかしこの日は大雨等の災害で、この往還を利用することはできなかった。 

  

吉田松陰と松下村塾については、多少なりの知識は持っているつもりだけど、もう一度ここでおさらいをするのもいいなと思った。邦子どのはあまり知識もなさそうで、松陰先生のことを何故なのか松下さんなどといっている。いい機会なので、今日は二人とも萩について勉強する日とすることにした。邦子どのは早速道の駅の様子を見に行ったが、こちとらは先ずは腹ごしらえを優先することにして、先ほど買ってきたうどんを温めて昼食の準備をする。

 

昼食の後は早速吉田松蔭記念館へ。凡その略歴などは何冊かの本や資料で知っているつもりなので、見るものの中心は残された手紙や書などとなった。読めない字も多いが、書を見ているとそれなりの覚悟とか生き方の強さというようなものが伝わってくる。明日にも命が絶えるかもしれないという状況の中で、これだけのものが残せるとは! この人物には人間の限界を超えたようなものを感じたりした。こうやって、人物の過去を見ながら評価をしたり感嘆したりできるのは、今を生きていることが出来る人間に与えられた最高の特権なのかも知れない。往時の世の中の変転の激しさというものは、そしてその激動の渦を巻き起こした核に居た人たちの、現代に対するコメントは如何様なものなのであろうかと思った。

 

  

  

松蔭記念館。道の駅:萩往還の直ぐ隣に建てられている。吉田松陰を中心に、幕末・維新に貢献した人びとの紹介や諸資料等が展示されている。また、記念館の前には主だった塾生の銅像が造られている。

 

その後は道の駅の売店などを一通り覗いたが、地酒があるのを確認し、今夜はあれで一杯やろうと密かに心に決めたのだった。車に戻って旅の記録の整理に取り掛かることにした。邦子どのは、その後もしばらく館内に残って熱心に勉強しているようだった。この人の勉強方法は、自分で資料を読むというよりも、館内にいる人の解説を聞くことがお好きなようだ。、確かにその方が手っ取り早いのだと思うけど、後で聞かされる話の中では、肝心のことよりもその解説員の方の家庭の事情などの話が多いのは不思議なことだと思う。ま、その人なりの学びの流儀というものがあるのであろうから、それで良しということなのであろう。

 

車に戻ってしばらく休憩したのだが、日暮れまでにはまだかなり時間が残っているので、明日の散策の下見に行くことにした。萩市街近くにはもう一つの道の駅もあり、又駐車場などの様子はどうなのかを見ておきたいということもあった。直ぐに準備して出発する。20分くらいで萩の街に入る。今までは松蔭神社に寄ったほかは素通りしており、城下町としての萩を散策したことはない。従って町割りなどがどのようになっているのかさっぱり分からない。先ほど貰った案内図では、海に突き出た扇状地のような所に城と町が築かれているようである。博物館などの案内表示に従って川沿いの道を進んでゆくと、やがて海が近くなり、そこに指月山が迫ってきた。萩城は指月城とも呼ばれており、海に突き出た標高150m足らずの指月山は、真に目立った山塊である。その麓に城があったらしい。城跡への入口を過ぎると少し先に菊ケ浜というのがあり、そこに無料らしい駐車場があるのを邦子どのが見つけた。直ぐ海の傍で、街の中心街からも近い。ここに車を置けば、明日の市内散策はOKだと思った。でも道の駅で邦子どのが聞いた話では、博物館に有料駐車場があるとのことで、そちらの方が便利かも知れないと思い行ってみることにした。博物館は菊ケ浜の駐車場からは直ぐ近くだった。これならわざわざ300円也を払わなくてもいいと思った。

 

博物館の後は、近くにある道の駅:萩しーまーとに行ってみることにした。ここには以前立ち寄った記憶がある。しかし良く覚えてはいない。行って見るとチョッピリ記憶が甦ってきた。あまりきれいな駅舎ではないけど、まーとというのであれば市場風であるに違いないから、それで良いのかも知れない。ここには水を汲める所がないのが残念である。とにかく今日はここに泊るのはやめて、やはり道の駅:萩往還の方にすることにした。細かな探訪先は明日歩きながら確認してゆけば良い。今日のところはこれくらいにして引き上げることにした。既に16時が過ぎており、暗くなり出している。

 

道の駅に戻ったのは17時頃か。どうしても酒を買おうと、直ぐに売店に向う。地酒の宝船というのがあり、その中から一番好きな純米酒の西都の雫というのを買う。その夜はこれをしっかり味わいながら、早めの就寝となった。

 

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第2日

2010-11-29 04:50:15 | くるま旅くらしの話

 

 

2日 <10月24日(日)>

          

行 程】 小矢部川SA → (北陸道) → 敦賀IC → (R27) → 瓜割の滝  → 若狭フィッシャーマンズワーフ(小浜市) → (R27) → 小浜西IC → (舞鶴若狭道) → (吉川JCT) → (中国道) → 吉和SA(広島県) (泊)  

<574km>

 

今日もひたすらに西に向って走り続けるだけ。当初の考えでは、今日中には何とか山口県入りができるかなと思っていたのだけど、どうやらそれはとても無理なことのようだ。地図などを見ながらの概算ではあと700km近くもあるのである。昨日の走りも500kmを超えており、これに加えて700kmも走るなんてとんでもない。とにかく無理をしないで近づけばよいという考えだけである。

 

昨日は午後遅くなって雲が多くなり出したが、今日は更にその量が増えて全面的な曇り空となっており、この分だと途中から雨となりそうである。特に西の方ほどその傾向は強いようなので、雨の中の走りを覚悟しておかなければならないと思った。食事の後は何もすることがないので、7時過ぎ出発することとなる。車の数は少なく、流れは順調で、間もなく富山を通過し、石川県に入り金沢市過ぎて日本海の見えるエリアの走りとなった。今日も風は殆どなく、海も真に穏やかで、風に弱いSUN号にとってはありがたいことだ。曇りという天気も良い。日本海の側を通る時は、大概は強風にハンドルを取られそうになって往生することが多いのだけど、今日はその心配が全くない。あっという間の感じで福井を通過する。

 

 さて、ここでこれからの行程についてどの道を行くか迷いが出てきた。予定としては米原JCTから名神に入って大阪を通過することにしていたのだが、あのややこしい道を通るのは苦手だし、それに渋滞も予想される。いっそのこと敦賀から一般道を行って小浜から若狭舞鶴道に入り、その先で中国道に入った方が楽なのではないかと思ったのである。しかし一旦高速道を出てしまうと、新たに千円がかかるということになる。本来の料金のことを思えば、たいした出費とはならないのだけど、何だかひどく損をするのではないかという、凡人の心理はこの壁をなかなか破ることはできない。邦子どのに意見を聞くと、大阪・神戸近郊を走るには別料金を取られるに違いないので、別に費用のことでは問題ないのではということだった。それじゃあ、一旦下りることにしようと決心する。一般道を行けばそれなりの楽しみもあるし、特に若狭のエリアでは、大好きな鯖君たちの寿司や串焼きにお目にかかれることができるのだ。

 

 敦賀ICから出て、R27へ入って小浜方面へ。地図によれば、舞鶴若狭道というのは、いずれは敦賀で北陸道とつながるらしいけど、今のところは小浜西ICまでが完成しており、そこから先の中国道につながる区間は、現在無料化社会実験中ということである。要するにタダで通行できるということらしい。無料化社会実験というのは説明を何度読んでも何のことなのか良くわからない。理屈というのはどんなことにでもくっつけることができるという事例の一つなのかも知れない。ま、タダというのはありがたいけど、今回の場合はどうせその先から千円取られるので、大勢に影響はない。全く我ながらチビた考えである。

 

 小浜に向うR27は、何となく懐かしく親近感を覚える道である。ほぼ毎年通っている道であり、寄り道をした場所も多いので、そう思うのであろう。若狭というのは、福井県というよりも京都というイメージの方が強いのは、その昔の都からは遠く離れた関東に育った所為なのであろうか。しばらく走って瓜割の滝に寄り、名水を10Lほど汲む。観光バスまでが止まっていて、その他大勢の人たちが大量のペットボトル持参で水を汲みに来ており、とても落ち着いて汲んでいられる状況ではない。水量も北海道の京極町のふきだし公園や真狩湧水ほどではないので、混雑振りは尋常ではない。早々に退散することにした。

 

  20分ほど走って小浜市中心部へ。真っ直ぐに若狭フィッシャーズマンワーフへ。ここは魚の販売市場のあるところである。毎度この近郊を通るときには必ず立ち寄る場所だ。目当ては鯖の串焼きと鯖寿司。それに何か魚のいいのがあればと目を八方にめぐらせて市場内を歩き回る。向かい側にある市場の方も見て回った。結局は予定通りの買物となった。これで久しぶりに若狭の鯖君たちを味わうことができる。(しかし、実のところ店に並べられている串焼の鯖が本当に若狭湾で獲れたものなのかどうかは判らない。恐らくはノルウエー産などではないかと思うけど、味がよければそんなことには大した問題は感じない。世界の海はつながっているのだ。)

 

  

 

小浜でゲットした獲物。左その全部。右は左の上の方に写っている鯖の串焼きの包みを開いたもの。ジンマシンが出るお方にはお気の毒だけど、これらは私共にとっては、無上の味わいなのである。

 

 楽しみをゲットした後は再び高速道の入口を目指して出発する。小浜市内で給油しようと思っていたのだが、値段が高く入れそびれてしまった。そのまま小浜西ICから高速に入る。この道は初めて通る道である。山の中に造られており、しばらく人家などは見られない風景が続いた。この辺りは高度が低いのか、僅かに漆らしい赤を除いては、紅葉は殆ど見られなかった。しばらく走って、西紀SAという所で少し早目の昼食にする。先ほど買った鯖寿司を食す。鯖寿司には、鯖焼き寿司というのもあり、この2種類を買ってきたので、双方を比較しながら食べてみたが、圧倒的に本来の鯖寿司の勝ちだった。今まで食べた鯖寿司の中では、奈良県の橿原神宮に近い今井町で食べたものが最高だった。鯖寿司はどんなものでも美味いと思っているけど、未だあの味を超えるものを食べたことはない。(余計なことではある)

 

 食事の後に少々休んで再び出発する。吉川JCTから中国道に入る頃に雨が降り出した。大した降りではなさそうだったが、その後は次第に勢いを増し本降りとなった。雨の中の走行は要注意だが、車のタイヤにとっては過熱防止には有効かも知れない。とにかくひたすら走り続ける。中国道に入った途端に、広島まで300kmもあるという案内表示板を見て、少なからずガッカリした。萩は遠い。とんでもなく遠い。北海道の方がずっと近いのだということを思い知らされた感がした。

 

 中国道は空いていた。先へ行けば行くほどその空いている様子が分かる様な気がした。左右は山ばかりで、路面も舗装のやり直しを繰り返してやや疲れた感じがした。昔福岡に住んでいた頃、この道を走って茨城県の常陸大宮市の父母の家まで帰ったことがある。あの時この道を初めて走ったのだったが、滅多に長距離ドライブなどすることが無かったので、それほど疲れも感じないままに走り切ってしまったように記憶している。とにかくそれ以来の通行なので、初めて通行するのと同じ感覚である。しかし今では齢も30年近く増えてしまって、あまり好きでもない高速道という道を通っている気分があり、昔日とは大分に変わってしまっている自分のようだ。だから、中国道が多少くたびれてしまっているのは当然のことなのであろう。この道が空いているのは、恐らく山陽道などが出来て、どうしてもという高速道のニーズが分散されたからなのであろう。やがて日本海側にも高速道が通ずるようになれば、より以上に空いた状況となるのではないか、などと思いながらの走行だった。

 

途中給油をすべく大佐SAという所に立ち寄る。雨は降ったり止んだりという状況である。この辺の高速道のスタンドは、思ったよりも油価が高くなかったのでホッとした。経由1L当り113円は、まあ我慢できる価格である。高速道ばかり走っているので、燃料の消費量が大きいようだ。いつもの旅ではL当り8km以上は走ってくれるのに、今回は7km程度に留まっている。多少急ぐ気持ちもあってスピードが速まっていることも影響しているのかも知れない。既に15時を過ぎており、さて、今日はどこまで行けるのだろうか。

 

山の中の坂道を登り下っての走行を続けて、ようやく広島市郊外の安佐SAに到着。小休止する。これから先どうするか。二つの考えがあって、その一はこのまま中国道を行ってどこか適当なSAに泊ること。もう一つは六日市ICまで行って降り、そこから一般道で一番近い柿木村という道の駅まで行って泊るコース。前者は当初の予定通り明日山口ICから萩に向うのだが、後者の方は予定を少し変えて津和野経由で萩に向うというコースである。邦子どのとあれこれ話したのだが、結論としては、六日市ICからのコースは少し到着が遅くなりそうだし、それに初めての道でどうやらかなりの山道らしいので、安全上は避けた方が良いとの結論となった。話をしている内に次第に辺りは暗さを増し、たちまち夜が近づいてきた。もう走るのは止めることにして、吉和SAという所に錨を下ろす。山の中にあるSAで、PAの少し大きいといった規模で、給油所もない。以前あったのが経営を止めてしまったらしく、施設だけが残っていた。しかし静かであり、泊るのにはむしろ好都合だった。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第1日

2010-11-28 05:37:11 | くるま旅くらしの話

 

 

1日 <10月23日(土)>

          

行 程】 自宅 → (R294・R50)→ 北関東道・大田桐生IC → (北関東道) → (高崎JCT) → (関越道) → (長岡JCT) → (北陸道) → 小矢部川SA(富山県) (泊)  <511km>

 

朝の3時過ぎにはもう起き出して、あれこれと今日の行程などに思いを巡らす。旅の出発の時のいつものパターンである。今回の旅では、今までの考えと打って変わって、最初の目的地までは高速道を利用することに決めている。出発日を敢えて土曜休日とするのも、通行料を千円で済まそうという魂胆が働いているからである。このような旅の仕方が本当に良いのかどうかは判らない。とにかく一度やってみなければということで、今回初チャレンジとなった次第。

 

家を出てからはしばらく一般道のR294を走り、筑西市でR50に入り、それを直進して群馬県の桐生まで行き、未だ部分開通の北関東道の大田桐生ICに入って、関越道に向うのだけど、高崎JCTからはそのまま関越道を行くのかそれとも少し戻って藤岡JCTから上信越道を行くのか決めかねている。とにかく高速道に入ってからどの道を選ぶかを決めなければならない、という真に曖昧なままでの出発なのであった。

 

細かなものの積み込みや点検が終わって、出発は9時半を少し回った頃となった。今日は抜群の好天で、朝からスッキリとした青空が広がっている。朝の内は清々しいけど、日中はかなり暑くなるのではないかという予感がした。日射しが強くてまばゆいほどになると、長距離運転には厳しい状況となる。願わくば少し曇り気味であって欲しいなどと、真に人間の願いはわがまま勝手である。しかし、天気というのは人間のわがままなどを遙かに超えたスケールの大きいわがままであり、これはもうなるようになるしかない。

 

R294は我が家の直ぐ近くを走っているが、茨城県の起点は取手市のR6であり、その終点は福島県猪苗代町近くのR46である。福島県に入るとこの道はかなりの山道となるのだが、我が家近くのR294は、片側2車線のこの辺の大動脈道路となっており、交通量もかなりのものである。R50に入る筑西市までは、結構神経を使いながらの運転を余儀なくされる。とはいうもののその殆どは田園風景の中である。道の両側には、もうとっくに刈り取りの済んだ水田の切り株から、新しい生命の芽生えが一気に育って、早くも稔りにつながらない実をつけて広がっている。その様な景色を見ながら、この地はもしかしたら米の2期作も可能なのかも知れないな、などと思いながらの運転だった。

 

 筑西市は元の下館市である。筑波山の西に位置するから合併を機にこのような名前をつけたのだと思うけど、何となく違和感があり、どうして元のままではいけなかったのかと、通る度に疑念を覚える。都市の名前やその他の地名などは安易に変えるべきではない。何でも新しくすればいいというものではなかろうというのが持論である。合併をするのであれば、一番著名な名前をそのまま使用すべきである。それが見当たらない場合は、仕方がないのであろうが、この齢になってやたらに新しい都市名を覚えなければならないのは迷惑千万なのだ。国が大合併とやらを奨める度に、大切な昔からの名残りが消えてゆくようで、特に旅をする者には、ガッカリすることが多い。筑西などという名になってしまってから、県西の拠点都市だった下館市は消え去ってしまった感じがする。ま、どうでもいいことなのかもしれないけど。

 

 R50に入ってしばらく走ると結城市となる。ここは紬(つむぎ)で有名な所だが、通過するばかりで未だ一度も訪ねたことがない。邦子どのはその結城紬の方にかなりの関心を持っているようだが、これは高価らしいので、君子危うきに近寄らず、である。ここから小山市を通過するまでは、少し車が多くなって渋滞気味である。小山からは栃木県で、ここはその昔家康が上杉を討つべく会津に向う途中に、三成等の西軍が旗揚げしたとの情報に、引き返すための評定を行なった場所だ。でも未だその史跡にも行っていない。近場の史跡訪問などは忘れていることに気づくのは、このような時である。いつも同じ反省ばかりを繰り返している。凡人である。

 

 小山市の郊外にある道の駅:思川に着いた時は、早や11時近くになっていた。この道の駅は人気があって、かなりの収容能力のある駐車場は超満杯となっていた。ようやく端の方に居場所を見つけて小休止。お天道様は益々上機嫌で、車の外に出ても汗ばむほどだった。一息入れて直ぐに出発。その後1時間ほど走ってようやく桐生市内に。高速道の案内板に従って北関東道へ。北関東道は、常磐道から東北道まではつながっているけど、未だ東北道から関越道にはつながっておらず、鋭意工事中のようである。これがつながってくれると、我が家から桐生までは随分と早くなるのになあ、と高速道建設批判のことなどは忘れて、我が身の都合を思った。

 

 勿論この道を走るのは初めてのことである。しかし走ってみると、道路は新品とは思えず、結構傷んでいる所も多いように見えた。道路というものは、一旦使い出せば、新品などというイメージはあっという間に消え去ってしまうものなのかのかも知れない。それでもいよいよこれからしばらく高速道ばかりの運転になると気を引き締める。とにかく一番左の車線をせいぜい90km以下の速度で追い越され続けるつもりである。

 

 しばらく走って、高崎JCTが近づく。どちらに行くかについては、既に決めており、少し遠回りになるけど、新潟県周りで長岡JCTから北陸道を行くことにした。というのも上信越方面は、秋の観光シーズンに入りつつあり、休日の今日当たりは混雑による渋滞が予想されるからである。ラジオの道路情報によると、軽井沢辺りが混んでいるとのことだった。ということで関越道に入ったのだが、いきなり渋滞情報が入ってきて、こりゃあ又失敗したかとチョッピリ不安になった。結果的には僅かな区間だったので、事なきを得たのだった。

 

 関越道を長岡まで走るのは初めてである。群馬県の月夜野ICまでは行ったことがあるのだが、スキーをしない自分には、湯沢や石打など関越トンネルの向こう側には殆ど用がなかったことがその最大の原因だと思う。旅の際には一般道のR17を行くのが当たり前という考え方があったので、高速道のことなど考えたこともなかった。従って関越トンネルを通るのも初めてだった。10kmを超える長さのトンネルは、かなり走り甲斐があった。トンネルは好きではないけど、覚悟を決めて通るしかない。いつものことだけど、出口が見えてきたときは、悪夢から抜け出したような安堵感がある。

 

 トンネルを出て直ぐの場所に土樽という無人のPAがあったので、少し休憩する。谷川岳の裏側の高山に囲まれた小さな台地を削って造られた場所のようで、四方は見上げるような山ばかりだったが、上部の方の樹木は紅葉真っ盛りだったけど、周辺近くは未だ紅葉には遠い感じだった。間もなく11月だというのに、やっぱり今年は季節が1ヶ月くらいは遅れて動いているようだ。猿に餌をやるなという注意板があったけど、猿は居なかった。ここには熊君たちは居ないのだろうか。今年は全国至る所で、熊君を初めとする野性の大型動物による被害などのニュースが喧しいけど、元々の加害者は彼らではなく、人間サイドの方にあるのは明らかなのだから、あまり騒ぐべきではないような気がする。せいぜい深い山の近くに居る時には、熊君たちに早めに恐れをなして遠ざかって貰えるように、予め準備をしておくというのが人道の仁義のような気がするのだけど、如何なものであろうか。そんなことを考えながら、今ここに熊君が現れたら、さてどうするか、などと考えたのだった。

 

一息入れて、再び走り出す。山を降りてからは、長い下り坂が続いてSUN号には嬉しい走りの条件となった。米どころの越後の中でも格別に美味といわれる魚沼ブランド米の産地の中を通って、やがて平野部に入ると間もなく長岡である。長岡JCTからようやく北陸道へ。もう15時を過ぎていた。このままでは金沢を通過するのは難しいかもしれないなと思いながらの通行だった。とにかくひたすら走るだけである。

 

上信越道からの上越JCTを通過した時は、16時を少し回っていた。あと1時間もすれば暗くなり出す。日中はかなり暑い癖に、日暮れだけは確実に冬に向っていることを如実に示しているこの頃の午後なのだ。何とか富山の辺りまでは届きたいものだと、少しばかりスピードをアップする。しかしこの辺りの北陸道はトンネルに続くトンネルばかりで、とても思い通りにはゆかない。何しろその昔は、越後筒石親不知といわれた通行の難所なのである。30近くもあるトンネルを潜って、ようやく有磯海SAに到着。そろそろ給油をと考えていたのだが、この次で良かろうとなどと油断していたら、メーターがリミット近くにまで針を下げてきていて、チョッピリ焦っていたのだった。ようやく満タンにして先ずは安堵する。かなり暗くなり出してきているが、もう少し先まで行くことにする。邦子どのは、昨日は準備に追いまわされていて(本当は追い回していたのだと思うけど)昼寝もできず、今日はずっと助手席に坐り続けてかなりお疲れのようである。無理をして明日以降に響いてはいけないので、次の小矢部川SAにて今日は錨を降ろすことにする。小矢部川SA到着17時35分。少し早いけど疲れたときは早めに休むのが一番。夕食は富山名物ますの寿司を食べて、寝床の中へ。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:旅に出る前に

2010-11-26 18:15:01 | くるま旅くらしの話

 

 

2010年西日本への旅 でこぼこ日記

 

期 間:10月23日~11月12日

宿泊日数:20泊21日

総走行距離:3,414km

旅の人:山本拓弘&山本邦子

旅のくるま:SUN号       

 

<旅に出る前に>

 

海道の旅から戻って、2ヶ月が過ぎた。帰った当初はまさに狂気じみた暑さだった。その後も今年の異常気象は老人の活力を削ぎ続けたが、彼岸を過ぎる頃からようやく、暑いねえ、という口癖のような愚痴もおさまって来たのだった。10月に入って朝夕の冷えが心地よくなり出すと、今まで眠っていた旅への衝動が俄然頭をもたげ始め、それが次第にエネルギーを溜め込んで、もはやジッとして入られない有様となって、遂に出発の日と行き先を決めることとなった。

 

北海道から戻ってからは、暑さと雨降りの日の間隙を縫って、農事に勤しんできた。旅が動ならば、農事は静の世界である。旅は見るものが動くことが多いが、農事は動くものが少ない。汗を流しながら土をいじり、ジッと作物の生長を見守り、作物からは阻害された雑草と呼ばれる草たちの生態を観察する。その様な日々が存外自分の満足できる生き方のような気もして、ある種の安堵感の中で時間を過ごしてきたのだが、旅への衝動は、そのエネルギーの大きさの桁が違うようである。間もなく収穫期を迎える幾つかの野菜たちが制止するのを振り切っても出かけたいのである。これはもう、ひとつの病なのかも知れない。

 

毎年秋になると西方の旅に出掛けることにしている。西方などというと最後の旅となるであろう西方浄土のことを考えたりするけど、まだ当分の間は、たとえそれが極楽であっても遠慮したい。西方浄土ではなく、関東以西への旅であり、自分的にはそこには生きていることを実感できる出会いの宝物が数多く埋もれているのである。

 

 さて、今年の旅は、先ず衝動的に本州の西端に近い萩の街を訪ねることにしている。どうしてかといえば、何のことはないTVの影響なのである。日本の歴史の中で、ドラマの材料を拾うのに幕末ほど魅力的な変革の時代はないように思う。本当は古代だって中世だって変革の時は幾つも存在していて、材料を探そうと思えば幾らでも見つかるに違いないのだが、何といっても江戸の幕末は現代という時間から近いのである。今年のTVの大河ドラマでは、坂本龍馬にスポットが当っているけど、歴史の跡を覗きたいという観点からは、高知という所にはさほど行って見たいという気にはなれない。薩摩の鹿児島は遠すぎる。長州の萩ならば、高速道を走れば、今は1000円に近い料金で一気に到達することが可能である。それに萩はいつも素通りばかりしていたので、一度は足を踏みとどめてじっくり街を歩いてみたいと思っていたのである。

 

萩の街に罪はないのだと思うけど、自分的には長州というのはあまり好きでないイメージが固まっていた。明治維新のリーダーを多数輩出した国であり、薩州と並んで、その功績は大であったとは言えると思うけど、気にいらないのは、閥を作り、恰も公私混同が入り交ざっていたかの感がするからである。中国地方の雄藩でありながら、長いこと貧地に押し込められて、溜まった徳川に対する反発のエネルギーが、新しい国づくりに向ったことは善しとしても、その後の閥の形成は気に入るわけにはゆかない。

 

ま、そうは言うけど日本人にのみならずどんな人種も閥を作りたがる本性があるようである。実際に他国のことを調べたわけではないけど、TVのドラマなんぞを見る限りでは、中国や韓国はもとより、欧米各国においても幾つもの閥と呼ばれる仲間というか贔屓(ひいき)集団のようなものが存在していることは明らかである。仲間を集め、その力を相乗的に使って権力の中に安泰しようとするのは、動物的な本能に基づくものなのかもしれない。我が水戸藩などは、もっとひどい状況だったようだから、長州のことを批判するのは本末転倒もいいところだということかも知れない。

 

どうも脱線が多すぎるようだ。要するにTVの大河ドラマなどを見ていて、急に行きたくなったということだけなのである。自分のくるま旅の場合は、初めから目的地を決めて出発することは少ないように思う。行こうと思えば何処へでも行けるのであるから、何も最初から目的地など決めなくても、方向さえ決めておけば、あとは行き当たりバッタリでも結構面白い旅ができるのである。その様な経験を振り切って最初から目的地を決めて出発するのは、自分としては珍しいことである。大河ドラマが終わる前に、自分なりに長州の歴史の跡を覗いて見たいという好奇心が急に湧き上がったのかも知れない。

 

萩を訪ねた後の日程は全く未定だけど、邦子どのの希望などを取り入れながら、山口市(ここは大内氏の本拠だった所)経由で山陽道を行き、錦帯橋や厳島神社などを観光しながら尾道に至り、そこからしまなみ海道に入って途中の何処かの島で何日か過ごした後、四国に渡って、淡路に向かい、玉ねぎを買ってから明石海峡大橋を渡って神戸に渡り、その後は奈良方面に行きたいと思っているけど、その具体的な内容は全く未定。とにかく関西エリアの後は、信州経由で帰途につきたいと考えている。

 

  

今回の旅でも一番の心配は邦子どのの健康である。健康というのは大事だが、大事をとり過ぎると過保護になって却って健康を阻害することにもなり兼ねない。さりとて、やたらに無理強いなどをすれば、一層具合が悪くなってしまうかも知れない。そこのところは本人自身で決めてもらうしかない。自分がつべこべ言うのは、なるべく控えようと思っている。ま、旅が薬となることは、今年の北海道行で立証済みなので、大丈夫だと思っている。

 

 

さて、今回はどんな宝物が手に入るのか、楽しみだ。

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明日から西日本への旅の記録を掲載します

2010-11-26 03:13:04 | くるま旅くらしの話

このところブログの投稿が断続的になってしまっています。気になりながらもあれこれと所用が飛び込み、書く時間がおろそかになってしまっているようです。

現在、旅に行かない間は、毎週1回(その殆どは水曜日なのですが)1泊して石岡市にあるRVランドの八郷フルーツ農園にボランティアの農作業をしに出かけています。この時にはブログの投稿を休むことになります。ブログの発信は、現在は自宅に居る時にだけ行なうことにしています。ですから、毎週木曜日は原則として休みとなります。

八郷フルーツ農園は、文字通りフルーツ(=果樹)が主体の農場ですが、野菜なども作っており、私の主な作業は今のところそちらの方です。昨日も来春のイチゴの収穫を夢見ながら防寒用のトンネルを作って来ました。用材も場内にある竹を伐って割り、作っています。使用する用具は、出来る限り新しく購入することを避け、傍にあるものを活用するように考えています。この農場の基本的な考え方は、無農薬・無肥料へチャレンジすることにあり、これは農場主のAさんの大切な主張なのです。イチゴの栽培も一つの実験であり、トンネルなしの畝も作って、その差がどのようなものなのかを調べてみようと思っています。無農薬・無肥料というのは、本来の自然のままの環境で、その植物が本来の力を発揮したときに、成果を得ることが出来るのだと考え、その植物の強さをチエックしながらやってみようと考えているわけで、私も一緒になって研究をさせて頂いています。

この仕事は実に楽しく、それは毎週1回小さな旅に出かけているようなものなのです。つまり旅車を駆って、泊りがけで農事の旅を楽しんでいるのです。種を播き、苗を植え、その生長を見守るのは楽しいものです。土と植物との関係を調べ、生長のための最適関係をどう作るかを工夫することは、無農薬・無肥料栽培の基本のように思っています。

先日このような私の取り組みをAC誌(月刊オートキャンパー)の方が取材に来られました。同誌の「車遊人」というコーナーに取り上げられるのだそうです。(2011年1月号掲載予定) 仲間と一緒の取材だったのですが、旅車を駆っての農事通いをしている方は、私の他にも何人か居られるのではないかと思っています。果樹の面倒や野菜作りは、本当は「遊」ではないのだと思いますが、私の場合はAさんに共感してのボランティアということもあって、まさに「遊」なのかもしれません。

ま、そのようなことで前置きが長くなりましたが、近況報告のつもりでした。明日から先日の西日本への旅の記録を掲載することにします。このタイトルをどうするかについて少し悩みました。四国・九州にも行っていないのに、あまりにも大げさになってしまいます。もっと正確にと思ったのですが、そうすると大変長いものとなってしまうのです。やむを得ず西日本で行くことにしました。

まだ記録の全部が出来上がっていません。掲載中に完成できなくて中断することなどないように、覚悟しながら取り組んでゆきたいと思っています。今日はその案内のみです。

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晩秋の実りと花

2010-11-23 06:24:40 | くるま旅くらしの話

 

 長いことだらだらと締りのない暖かさが続いていましたが、11月も終わりに近づいて、ようやく本気で冬に向かい出したようです。守谷市という所は、存外に気候には恵まれている所で、冬もそれほど寒いというほどではなく、我が家ではコタツも石油ストーブも使用しません。少し寒さを覚えるときだけ小さな電気ストーブをつけるか、或いは暖房の空調をするだけです。石油やガスのストーブは空気を濁すだけでなく、部屋の壁なども汚すという山ノ神の堅い主張が通っており、今のところ多少やせ我慢をしながらも何とか冬を過しています。このところ暖冬が続いていますので、ま、この冬も大丈夫だろうと高を括っています。

 守谷に越して来てから6年目を迎えていますが、庭に植えた山もみじのそれらしい紅葉を見たことがありません。我が家の山ノ神に言わせると、そのままにしておけば紅葉が見られるのに、あなたが剪定をし過ぎてせっかくの枝葉をなくしてしまうからだということですが、他所の家を覗いても鮮やかに紅葉しているもみじの木を見ることは少ないようです。守谷の市内で一番目立つ紅葉といえば、街路樹として植えられている公孫樹(いちょう)だと思いますが、こちらの方は正確に言えば黄葉ということになります。本来ならば同じ様に街路樹として植えられたハナミズキなどが渋い紅葉を見せてくれなければならないのだと思いますが、これらの連中はそのような状態になる前に、毎年今一のままで枯葉を落としてしまっているようです。ま、とはいうものの今年は良く見ればドウダンツツジなどの紅葉も見られる時期となっているようです。

他所様のことはともかくとして、我が家においてはこの時期となれば樹木の実りとしては、クロガネモチ、楠天、それにソヨゴの実の輝きが一番のように思います。そして今年も締めくくりの花は皇帝ダリヤです。柿の実も今年はたくさんの実をつけてくれましたが、この時期になると、それらは干し柿となるために物干し竿に吊るされる運命を辿っています。

樹木の実は、やがてヒヨドリたちがやって来て、全てが彼らの腹の中に収められてしまうことになるのですが、今の時期は彼らもまだ関心を向けていないようなので、安全・安心に光り輝いています。樹木に生(な)る赤い実は、クロガネモチもソヨゴも同じ様なものですが、私はソヨゴの実が一番好きです。我が家の庭のメインツリーはクロガネモチですが、その落ち着いた風格よりも、門の傍に植えた頼りない感じのソヨゴになぜか愛着を感ずるのです。

我が家のソヨゴは、土の問題が潜んでいるのか、毎年病葉が多くて、生長も他所の家の同じ頃植えたソヨゴに比べてかなり劣っているように見えます。木があまり大きくならないのは、ある意味では助かるのですが、しかし可哀想にも思うのです。何とかもっと元気にしようとあれこれ考えて消毒をしたり、肥やしをやったりしているのですが、どうも効果が出ているようにも思えません。もしかしたら却って害になるような余計なことをしているのかなと思ったりします。木の診断と手当ては大変難しいことを実感しています。

そのソヨゴに一番救われるのは、この時期の赤い実の輝きです。この輝く赤い実を見ていると、何だか木自体が生命力を回復しているような気がして嬉しくなるのです。もしかしたら枯れないようにするために、或いは枯れても子孫を残そうとして、必死で実をつけているのかもしれません。そのようなソヨゴのひたむきな生き様のようなものを感じて、嬉しくも厳粛な気持ちになるのです。

 

 

もソヨゴは健気にもたくさんの実をつけてくれた。この赤い輝きには、今年一年を精一杯生きてきた思いが籠められているように思う。

 

入ると直ぐ玄関なのですが、その脇に南天を植えてあります。南天には難を転ずるという意味で、縁起の良い木だとも言われますが、特にそのようなことにこだわったわけではありません。この木は大変生命力の強い木で、植えた場所の上は屋根があり、雨が降っても殆ど水が掛からない環境なのですが、毎年バッサリと剪定しても、春になるとたちまち威勢を盛り返して、通路が狭くなるほど葉を繁らせています。今年は例年に無く大きな房の実を幾つもつけてくれました。紅白の実の2種の南天を植えているのですが、白の方は実が見当たらないのが残念です。真っ赤な大きな房を見ていると、今年はここまで来たぞ、どうだ、という彼らの誇らしげな声がどこかから聞こえてくるような錯覚を覚えます。

 

 

に実る南天の実。今年は夏の暑さの所為なのか、例年に無く大きな房が見られた。見ているだけで難は転ぜられているに違いないと思うほどである。

 

そして何といっても、この季節の大空を彩る我が家の花は、皇帝ダリアです。この花は数年前宮崎の飫肥に行った時に、武家屋敷の名残りの家々の庭に幾つも咲いていたのに魅せられ、旅の帰りに懸命に探して、ようやく一株だけ買い求めて持ってきたのが始まりでした。植えたときは瀕死の状態に見えましたが、翌春立派な芽を出してくれ、その秋には巨大に育って、もの凄い数の花を青空に輝かせてくれました。ご近所の方も立ち止まって思わず見とれてしまわれるほどのものでした。

それ以来、毎年元気に育ってくれるのですが、何しろ3mもの高さになるため、風に弱く、支柱をあてがうタイミングがずれると、いっぺんに倒れてしまうのです。何度かそのような事件があって、一喜一憂しながらやってきたのですが、今年は株分けして育てたものが、まだ少し痩せているのですが、幾つかの花を咲かせてくれていて、それを見るたびに、ああ、今年も直ぐに本格的な冬をむかえるのだなあ、という感慨に捉われるのです。この花は、寒さに弱く恐らく茨城県あたりが北限なのではないかと思います。水戸市近くに住む妹の家の庭にも、株分けしたものが植えてあるのですが、いつも花を咲かせる直前に霜が降りてしまい、まだ一度も花を見たことが無かったのが、今年は暖かさがまだ影響しているのが幸いして、たくさん花を咲かせているとの報告がありました。

 

 

ダリアの花。この花は青空に良く似合うのだけど、この日は生憎の曇天だった。

 

これらの木の実や花たちが終った頃に本格的な冬が到来します。さて、この冬は何をしようかと、只今は、あれこれと想いを巡らしているところです。

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国産ライムは焼酎と一緒に

2010-11-22 06:34:41 | くるま旅くらしの話

  先日の西日本への旅の中で、瀬戸内は大三島で手に入れたライムの果実を、只今ひとり悦に入って毎晩食して(?)います。ライムを食するというのは正確ではなく、搾って飲んでいるということになりますが、それも正確ではありません。あんな苦くて酸っぱいものをそのまま絞って飲むということができるはずがないからです。ライムといえば、私の中では酒に注ぐものという固定観念が出来上がっています。

ライムというのは、柑橘類の仲間です。日本の国内ではあまり栽培されていないようで、私が国産の物にお目にかかったのは今回の大三島が初めてでした。最近の瀬戸内地方では、レモンの方はかなり作られており、今では現地でなくても守谷の近所のスーパーでも時々お目にかかることが出来ます。しかし、ライムの方は先ず普通のスーパーでは販売されていないというのが実態ではないかと思います。

随分昔の話ですが、一時カクテルに凝ったことがあり、ジンベースでライムを使ったものを幾つか作って楽しんだことがありました。今ではそのような手のかかることは一切しておらず、シェーカーやグラスなどもどこかに消えてしまいました。当時も新鮮なライムを手に入れるなどはまず不可能といってよく、壜入りのライムの絞り汁を使うだけでした。そもそも本物のライムというのを見たことが無く、壜のラベルに描かれている青い実を見て、なるほどこれがライムというものなのかと思う程度だったのです。

その後本物のライムに出会うチャンスもあり、思ったよりも小さい実であることを知り、レモンとは随分違うんだなと思ったのでした。しかしなかなか気軽にその本物を買うこともままになりませんでした。というのも、レモンに比べてかなり高額だったからです。お酒類のアクセントとして用いる他には飲食の必需品とも思えず、何も無理してそんなものを使う必要も無いと思っていたからです。

ところが今回大三島で4日間過した中で、二つの道の駅を何度か往復したのですが、そのどちらの道の駅の野菜・果実売り場の中にも、ライムを見ることが出来たのでした。売り場に並べられているのは圧倒的にみかんとレモンが多く、数年前にはそれほど多くなかった青いレモンが増えているように感じました。その中に混ざってライムが売られているのに気づいたのでした。うっかりすると見過ごしてしまうほど数は少なかったのですが。驚くほどに安い値段でした。レモンよりは少し高かったのですが、それでも6個入りの1袋が200円なのです。これを見つけたのが着いたその日でしたので、ここを出るときに買って家まで持ち帰ろうと考えました。

とりあえず1袋を買い、どのような使い方ができるかを試してみようと思ったのです。私は酒飲みですから、ライムはどのようなアルコールにフィットするかという試です。手元には焼酎、日本酒、ウイスキーの3種のアルコール類がありました。日本酒にこのようなものを滴らすのは明らかに邪道だと思っていますので、これを避けてウイスキーと焼酎で試したのですが、ウイスキーの方はどうもよくありません。ウイスキーの苦さとライムの苦さが混ざると悪質の苦さとなってしまうようで、どちらの良さも消し飛んでしまう酒の味となることがわかりました。一番まともなのが焼酎でした。持参したのは乙類の麦焼酎でしたが、これは何だか勿体ない感じがして、ライムは甲類の焼酎の方が合っているようです。

その後旅の途中でジンを買い、懐かしいジンライムのホットを作って飲んで見ましたが、カクテルというわけではなく、ジンにライムを絞って入れただけのものをお湯割しただけですので、ちょっぴりキツ過ぎて胃への負担が大きいように思いました。その後の試みでは、安心してライムの香りと味を楽しむには甲類焼酎の20度のものがフィットしているように思います。お湯の冷めにくいコップ(ガラスの厚みのある少し大きめのもの)に焼酎を3~4分目ほど入れ、それに二つに切ったライムの実の半分を絞って入れ、熱いお湯をたっぷり注いで飲むのです。焼酎の持つ癖のある香りが消え、ライムの爽やかな香りが満ちます。そしてそれを口に入れると、ライム独特のかすかな苦味が舌と喉を心地よく刺激してくれるのです。

大三島を出るときには販売所のライムを全部買い上げてしまおうなどと考えていたのですが、店の人に聞くと、入荷は不定期だそうで、いつも確実に入るとは限らないというのです。それだけ作っている人が少ないということなのでありましょう。これは迂闊でした。出発の当日、辛うじて二つの道の駅にあったものを全部買うことが出来ましたが、全部といっても手に入ったのはたった5袋だけでした。

その日からもう半月以上が経ちました。早いものです。帰宅以降、毎日1個ずつのライムを使って、ホット焼酎ライムを大きめのコップで2杯飲むのが、今の私の晩酌の楽しみとなっています。国産ライムには、日本の蒸留酒である焼酎が実に美味くフィットしているように思っています。しょうもない酒飲みの話でした。

 

  

 大三島で手に入れてきたライム。6個入り1袋で200円というのは、格安である。もうかなり時間が経ったので、少し黄色くなり出しているけど、中身の方はしっかりと果汁が詰まっている。ライムはレモンと違って、皮が薄く、果汁が豊かに思う。

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高齢者講習会

2010-11-20 05:20:17 | 宵宵妄話

 

 間もなく12月。運転免許証の更新リミットが近づきました。私の誕生日は12月の中旬なのですが、免許証を見ると来年の1月15日まで有効と書かれています。更新のために動くまでにはまだ時間があると思っていたのですが、今回からは70歳以上の対象者には、事前に高齢者講習なるものを受講することが更新の条件として決められたとかで、通知の葉書が来ていました。面倒くさいなと思いつつも、最近のニュースの中では高齢者が予想を超える事故などを起こしているのを聞き、まあやむを得ないのだろうと思ってはいました。いずれ講習を受けなければならないなとは思いつつも、旅に出かけたりしている内に教習所に連絡するのが遅れてしまって今日に至ってしまったのでした。

今日になって、ようやく近くの教習所に講習会の受講を申し込もうと電話で連絡をしたのですが、イヤア、驚きました。最初に直ぐ近くにある市内の教習所に電話をしたのですが、至近の講習受講可能日程を教えて欲しいと話したところ、受付の若い女性の返答は、4月というのです。思わず来年の4月ですか?と訊きましたら、そうです、それまでは予約は満杯となっています、というのです。こりゃあ、余計なことを言っても無駄だと思い、はあそうですか、と電話を切りました。

ま、少し遠くても良いからと考え、次に隣の市にある教習所へ同じ様な問い合わせをしたところ、何とその返事は前と殆ど変わらず、3月まで満杯ですという、自信に溢れたオッサンの返事でした。こりゃあもうどうしようもないなと思いました。恐らく近隣の教習所に連絡したところで、どこも12月の中旬までに受講が可能となるところなどないはずに違いありません。このままでは座して免許証の期限切れを待つばかりです。知らない間に勝手に更新の条件を変更し、しかも受講のための高額料金を強いるとはとんでもないことだと、何だか無性に腹が立ってきました。このまま車の運転免許証が失効すれば、私の生き甲斐ともいえるくるま旅をすることが出来なくなります。このようなご都合主義的な悪政は許すわけにはゆかないという気持ちが、ムカムカと湧いてきたのでした。

しかしまあ、どこの誰に文句を言って良いのか判りません。連絡の葉書を見ると、不明点についての問い合わせは県の運転免許センターの所定の係りへとありましたので、直ぐに電話をした次第です。事情を話し、このままでは免許の更新ができなくなり困ってしまう、どうすれば良いのか教えて欲しいという旨の話をしました。もし、ルールなのだから自分で何とかしろなどといったら、免許センターに直接出向いてその理不尽さについて話をつけようと思っていました。そこで埒が明かないときには、公安委員会へ出向いて申し立てようなどと、まあ腹立ちというものは、とんでもない無謀な理屈をけしかけるものです。

しかし、担当の方の返答は実に丁寧で、納得のゆくものでした。近隣で空いている所を探すので、しばらく待って欲しいというものでした。電話を切り10分も経たない内に連絡があり、その内容は12月9日に近くの別の教習所で空きがあったので、そこに電話をして欲しいというものでした。すぐに連絡をして確認をし、無事なる受講の確認を得たのでした。ヤレヤレです。

一時の腹立ちはどこへ行ったのやら、ことなきを得て雲散霧消し、逆に感謝と反省の気持ちとなったのですから、これは真に不思議な心の変化なのでした。ご都合主義でいい加減なのは自分の方だったということに、改めて気づいたのでした。案内書をよく読むと、「予約が混雑する場合があります。早めの予約をお願いします。」と赤い色の印が押されていました。更新日までには随分と前に葉書が届いていたので、却ってまだ大丈夫だと考え、直ぐには予約の連絡をしなかったのが、そもそもの間違いだったようです。まさか来年の4月まで予約が一杯になっているなんて、普段の教習所の閑散とした様子からは予想もつかないことだったのです。ものごとは、それが必要・大事と思う時には、直ぐに実行するというのが自分の信念なのですが、今回は迂闊(うかつ)といえば迂闊ということだったと思います。

それにしても70歳になったら誰でも一律に講習を受けるという制度は、本当に有効なのでしょうか。講習を受け終わった方から聞いた話では、コース内での車を用いての運転診断で相当に酷い下手な運転をしている人が居るそうです。しかし、そんな人も免許の更新には何の差支えも無いということでした。とすれば、そのような人にとっては、5,800円也を払ったちょっぴり脅しの入ったゲームを経験させられる程度のもので、下手な運転技術やルール違反が本当に改まるのかどうか疑問です。そもそも何故この講習を受けなければならないのかということについては、案内葉書のどこにも書かれてはおらず、ただ義務があるとだけでした。法制化されるまでにどこでどのような議論があったのか全く知らず、本当にこのような方法がリーズナブルなのか少し疑問を感じます。

運転免許の更新は、5年毎ですから、70歳の人は次は75歳、その次は80歳となります。老化には個人差が大きく、それを見極めるのは至難のことです。5年毎に一応のチェックをしてはどうかということでこの制度が取り入れられたのだとは思いますが、もし高齢者の運転事故防止のために本当に役立つものにしようとするなら、もっと厳しい内容とする必要があるように思います。例えば教員に対しては資格認定の再試験のようなものがあるようですが、車の運転に対しても単に講習を受けるだけで、診断結果がどんなに酷いものであっても更新はOKというのは、形式的過ぎて実効にはさほど貢献しないように思うからです。

ま、しかし世の中の大半の人からは、そのような面倒で悩ましい制度にしたなら、事故は減っても経済活動の面で大きな支障が出てくるとの批判を受けるに違いありません。世の中には70歳を過ぎても車を活用しての様々な仕事に係わっている人が大勢居り、5年毎とはいえ何度も試験のようなことをやらされてはたまったものではないという言い分です。事故を減らすことにこだわれば強硬論となり、経済活動の面からは現在のような仕組みでも一歩前進なのだという言い分になるわけです。どちらが正論なのか判りませんが、全てのものが部分と全体との関係において成り立っているように、世の中の考え方も常に総論と各論との関係を見てゆかなければならず、難しいものだなと思います。

それにしても、私と同じ様な迂闊者は、もしかしたらまだまだ全国に点在して居られるのではないかと思います。もし気づかれましたら、大急ぎで講習会受講の手続きをとられることをお勧めいたします。とにかく、何と言っても、運転をする者にとってこの受講は、法で定められた更新のための義務なのですから。

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常時在旅

2010-11-19 07:18:16 | くるま旅くらしの話

 

 このところあれこれと大小の所用が続いており、何かと落ち着きません。多少旅の疲れも出ているようで、仮眠のつもりで早めに寝たのに、そのまま朝方近くまで眠ってしまって、ブログの記事を書くのも億劫になり、だらけてしまうようなありさまです。

 旅から戻ると庭や畑の植物が気になり、畑にすっ飛んでいったりしていますが、このことについて、ちょっぴり私の考えを話させていただきたいと思います。

 大きく見れば人生も一つの旅であることは間違いないことだと思います。生まれてからあの世に行くまでの間に人は様々な出会いを積み上げ、様々な喜怒哀楽を経験しながら日々を過ごしているわけですが、これらは旅の本質と全く同じものだと思います。

旅の本質というのは、私の考えでは、「出会いと発見のもたらす感動と癒し」ということになります。人生はスケールの大きな旅ですから、出会いと発見は、必ずしも喜びの類だけではなく、苦しみや悲しみの形をしたものが含まれているのだと考えています。私たちが普段の暮らしの中で、旅を旅らしく受け止めているのは、最後のステップとしての「癒し」の部分が大きいものを選ぶからなのだと思います。つまり、日常の暮しの枠からちょっとばかり外に出て、なかなか体験できなかった楽しみを味わい、ああよかったなあという時間を持つことが出来て、心がホッとするというのが普通に言われている旅なのだと思うのです。

勿論私自身もそのような形の旅を望みながら旅に出かけているのですが、この頃は少しばかり旅の考え方というか、暮らしの考え方が変わって来ている自分を感じています。それは、やっぱり人生の全てが旅なのだということを実感するようになって来たことです。つまり、旅というのはキーワードを挙げれば「出会い・発見・感動・癒し」という4つの要素が含まれるわけですが、これはよく考えると日常の暮らしのどこにでも転がっていることなのです。その場をどこに求めるかによって、或いは自分の心のあり様をどこに集中させるかによって、この4つの要素はいつでも満たすことが出来るからです。

私が旅から戻ると、散歩にうつつを抜かし、畑に行って野菜たちを見に行くのも全てこの4つの旅の要素を満たそうとしているわけで、それはとりもなおさず旅をしているということになるのだと思います。畑が旅先になるのか?という疑問には、勿論なりますよ、とお答えしたいのです。散歩が旅になるのですか?という質問にも、勿論です、と答えたいと思います。

畑に行き、土をいじり、草(野菜)を眺め、手を出し、虫を追い払い等などしている間に出会う様々なできごととその発見は、時として甚(いた)く心を揺さぶることがあるのです。そして疑問や謎が解けたときの心の満足は、まさに癒しというものでありましょう。散歩にしても、同じ様な感動が幾つも存在しています。道端の草木だけではなく、歩いているうちに偶然(それは本当は必然なのかも知れません)に出会う、空の雲や風景など、気づけば今までとは全く違った世界がそこにはあり、びっくりさせられるのです。

くるま旅というのは、旅の移動手段の中心に車を使うものだという風に考えていますが、単に車を用いて移動するのを旅というのではなく、その暮らしの中に4つの要素を満たすことが出来て、初めて旅が成就するのだと思うのです。旅の中には動と静のエリアが必ず含まれていますが、私が大切だと思うのは、静のエリアの方です。私のくるま旅も最初は動の世界ばかりだったのですが、この頃は動き回るばかりではなく、目的地に着いたり出会ったなら、しばしそこに足を止めてじっくりその世界を観察したり、その結果に思いをめぐらすことが楽しみとなってきています。それが旅なのだと錯覚して、やたらに車を走らせて仕舞いがちですが、その錯覚行為の中に如何に多くの静の時間を持ち、見たもの聞いたことに思いを馳せることが出来るか、が旅の内容の豊かさにつながるように思うのです。

で、静の世界を重視するという観点から思うのは、家にいる時だって旅をしているのだという実感です。車など動かし回らなくても、出会いや発見、そして感動や癒しは、日々の普段の行為の中に幾らでも転がっているのだということです。「常時在旅」とでも言うのでしょうか。それがこの頃の心境です。

さて、今日はどんな旅となりますことやら。(先日までの旅の記録の整理はまだまだ時間が掛かりそうです)

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食用菊のこと

2010-11-17 05:34:09 | 宵宵妄話

 

 旅から戻って、真っ先にすっ飛んで行ったのは、市から借りている菜園でした。3週間の間に大根や蕪やその他レタスなどの野菜類は大きく育ちすぎてお化けのようになっているのではないかと、心配でした。旅の間にも特に気になっていたのは、食用菊の花の状態のことでした。各地を訪れて菊の花が咲いているのを見るたびに、我が菜園の菊たちはもう花を咲かせ終えてしまっているのではないかと心配でした。

 私の菜園には食用菊のモッテノホカという品種ともう一種類(品種の名はしりませんが、黄色い昔からの食用菊です)の菊が植えてあります。5mの長さの、たった1畝(うね)だけの作付けです。これ以上作ってもその処置が手に負えなくなりますので、これで十分なのです。菊は多年性の植物ですから、一度植えればその後は繰り返して花を咲かせてくれます。昨年は元々家の裏庭に植えていたものを、新しく借りた菜園に移植して株数も少なかったため、ホンの少ししか花を咲かせてくれず、ちょっぴり残念な思いをしたのでした。今年からが本番なのだと意気込んでいたのですが、いざ収穫の時期になると旅に出かけてしまっていることが多いため、なかなかベストの状態で花を摘むことが難しいのです。今回の旅では、出発した3週間前はまだ蕾の状態で、一体どれほどの花を咲かせてくれるのかが判りませんでした。

私が菊にこだわるのは、花を見るためではなく、食べるためなのです。勿論花も大好きですが、あの何ともいえない食感と香りがたまらないのです。食用菊は一般にスーパーなどでも販売されていますが、ほんの少しばかりがパックに入って売られているため、本当にその食感を賞味するためには、菊の花は茹でると小さくなってしまいますので、最低でも一度に5パックくらいは買わなければならないと思います。従って、結構値が張るものとなってしまいます。ですから存分に賞味できるようにするためには、自分の庭や畑で育てなければならないと思ったわけです。

私が食用菊に関心を持ったのは、それほど昔のことではなく、くるま旅をするようになってからのことなのです。子供の頃育った我が家でも、畑の縁に食用菊を植えていましたが、時々大人たちがそれを茹でて食べているのをみて、少し口に入れてみても苦いばかりで、とても美味いなどといえる代物ではありませんでした。

それが俄然目を見開かされたのは、旅の途中で知り合った青森県は三戸町のTさんから、これを食べてみて、と頂戴した食用菊でした。Tさんの話では、これは献上菊といって、昔から南部の殿様に献上して食べて頂いたものなのだということです。南部の殿様はその後盛岡の方に移られましたが、元々は三戸に居城があり、今もその大きな城跡が残っています。殿様が食べてきた菊というのは一体どういう味なのだろうと、興味津々でした。

いやあ、これが大変なものでした。超美味なのです。別に殿様への献上ということで特別の思いがあったわけではありません。食と言うもの、味というものは、本番勝負です。食べてみてその価値が分るのであって、前評判も事前の如何なる宣伝も、賞味には関係無いのです。その時に味わった菊の感触は、何ともいえない上品さに溢れたものでした。歯ざわりの豊かさというのか、歯に優しくフワーッと来て、キリリとした締りがあって、噛めば噛むほどに菊の気高い味わいが滲み出てくるといった感じなのです。甘くも無くわずかに苦味があって、これが何とも言えない上品な大人の味なのです。合わせて飲む一杯の酒も、まさに美酒と変じるというものだったのです。

この時決心したのです。よし、俺もこれと同じ様な菊を作ってやろうと。それから5年ほどが経っていますが、旅から戻った翌年に早速苗を買って来て家の裏庭に植えたのですが、日照不足だったのか期待していたほどの花を咲かせてくれませんでした。市から借りている菜園にと思ったのですが、契約期間に問題があり、移植を見送ることとなりました。それが、その後市が新しく菜園を増やして作ってくれて、その一つを借りることが出来ましたので、直ぐに今まで残っていた菊の株を移植したのでした。そして2年目、今年はその念願が叶うはずの年だったのです。

ということで、帰宅した翌日の早朝に畑に行ってみましたら、イヤア、今を盛りの満開でした。半端な咲きぶりではなく、転倒防止の柵の中で満杯の花、花、花だったのです。嬉しかったですねえ。これでようやく念願が叶うと思いました。菊の他の作物もお化けになるほどのふしだらさはなく、きちんと正調に育ってくれていました。しかし一番嬉しかったのは、何と言っても菊の花たちでした。

 

 

モッテノホカ、右は黄菊。今年はモッテノホカの方が断然多く、しっかりと咲いてくれていた。モッテノホカはその名の通り呆れ返るほど優れた食感の菊である。

 

りあえず大形の袋に一杯だけ花を摘みました。良い香りがしました。1kg近くあったと思います。家に持ち帰り、家内に報告をしました。

 ところで、食用菊というのは、どのようにすれば感動的な(?)賞味が叶うのでしょうか。少しばかりそのレシピ的なことを紹介したいと思います。いろいろな方法があるのだと思いますが、我が家の場合は次のようなものです。

 1.摘んだ菊の花を1個1個ヘタの部分を取り除いて外し、花びらをバラバラにする

2.これを熱湯に2~3分浸して茹でる

3.茹でた花の塊を水に晒して冷ます

4.これをこぶし大くらいの大きさになるように小分けして絞る。

5.しっかり絞り込んだものをラップに包む

6.包んだものを冷凍庫に入れ保存する。

食べるときには、少し硬さが残る程度まで解凍し、これを5mmくらいの幅に切り、それに白だし醤油やポン酢などをかけていただくようにします。真に簡単な作り方、食べ方、保存の仕方ですが、このような方法で、我が家では1年中いつでも食べたいときにこれを味わうことが出来るというわけです。勿論冷凍などせずに、茹でたばかりの物を水に晒して冷まし、固く絞ってそれを切って食べても味はグーです。菊は、ヘタを外さずにそのまま食べても大丈夫ですが、この場合は苦味が一段と強くなりますので、子供さんなどを菊嫌いにさせてしまう心配があると思います。ヘタを取り除いた方が、ずっと上品な味になります。

今年は50個以上を貯蔵することが出来ましたので、毎週1回食卓に載せても大丈夫です。真に食い意地の張った話でした。

  

 

   茹でて、冷凍後の食用菊。こぶし大ほどの大きさだけど、中身の密度は大きい。菊の花の生命がぎっしりと詰まっている。

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