山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

旅の思い出から:女人高野室生寺

2008-03-31 00:00:38 | くるま旅くらしの話

旅の思い出は、北国から一変して関西の古都の話となる。今日は昨年の11月中旬に訪ねた、古都奈良の山奥(往時の)の名刹室生寺のことを書いてみたい。

奈良は京都と違って、心安く名所旧跡を訪ねることが出来るような気がする。もともと歴史的には京都よりも奈良の方が古いのだ。日本国の基盤となる大和朝廷が京都において生まれたという話は聞いたことがない。奈良なのである。ただ、国家体制が固まって以降の治世の本拠地は京都であったから、それと判るものが残されているのは京都の方がはるかに多いのは間違いない。それにしても、くるま旅での京都の訪ねにくさは、一体どうしたことなのかと思う。

関西方面への旅で、訪ねる回数が一番多いお寺は室生寺である。奈良の市街地エリアからはかなり山の中に在るのだけど、名古屋方面から関西へ行く場合は、東名阪道を宇陀市の方へ向かえば、余り苦労せずに訪ねることができる。勿論利便性だけで訪ねるのではない。このお寺には何ともいえない静かな重い温かみを感ずるのである。仏の慈悲の想いがたっぷりと詰まった本物のイヤシロ(=癒代)地を感ずるのである。

  

   室生寺入口。この山門の手前を右折してすぐ先に受付所があり、そこから仁王門を経て鎧坂に向かうことになる

室生寺は、山号が宀一山(べんいちさん)、寺号が室生寺であるが、宀一山(べんいちさん)という山号は耳にしたことがない不思議な山号である。宀一山の字を「べんいちさん」などと最初から読める人などいるのだろうか。宀はうかんむりだけど、これをべんと読むなんて、どういうわけなのだろうと辞書を引いてみたら、ちゃんと書いてあった。宀は、住居の屋根の形を表わすもので、屋根を四方に深く垂れた家という意味なのだそうだ。只の、うかんむりなどと覚えていただけでは、日本語も漢字もわからないのだなと思った。

さて、話を戻して、室生寺は女人高野とも呼ばれている、古くから女人禁制を外したお寺だった。それ故、女性の駆け込み寺などとも言われている。お寺の修業に何故女人が禁止なのかは、今の時代ではまさに不可解であろう。私の中にも不可解という部分が圧倒的に多い。男が女に迷うというのが、煩悩の中では最大のものなのかもしれない。女の体の中から生まれてきているのに、修行僧が女に迷うことを禁ずるというのは、それが俗世(ぞくせ)の迷いを超越する上で、最も厳しいハードルであることを自認していたからなのかも知れない。坊さんの目指す悟りがどのようなものなのかは知る由も無いけど、男とか女とか言う世界を超えないと、そこに辿り着けないものなのであろう。いずれにしても現代では解り難(にく)い世界ではある。

開祖を同じくする真言宗のお寺なのに、高野山は女人禁制に徹し、このお寺は女性を含めた全ての衆生(しゅじょう)の苦悩を受け入れてきた。現代であれば、このお寺にこそ開祖空海の真の衆生に対する思いが伝わっていると言えるのかも知れない。ま、そのような詮索(せんさく)は、今となってはどうでも良いことなのかも知れない。

朱色の欄干の橋を渡るとお寺の入口となる。仁王門を潜って鎧(よろい)坂を登る。この坂の石段を一段登る毎に、み仏の慈悲の心を思うのである。その慈悲の深さが自然と心に沁みてくるのである。慈悲とは、悲しみを慈(いつく)しむことである。人間を理解するというのは、終局においてその悲しみを共感することに他ならない、というのが私の現在の人間理解の結論である。喜びや不満などではない。悲しみなのだ。

  

  仁王門の景観。この年は夏から台風の大風が吹いて、訪ねた11月中旬には始まるはずの紅葉もわずかで、仁王門周辺の樹木は葉をすり減らしていた。

封建時代からの幾多の女性の悲しみを、このお寺がどれほど救ったのかは判らないけど、駆け込み得た女性の悲しみは、石段を一つ登る毎に少しずつ癒されていったに違いない。金堂に辿り着いて両手を合わせて祈る頃には、悲しみの心は大分に浄化されていたのではなかろうか。そのような雰囲気がここにはある。

  

  金堂の屋根の景観。宀の字の意味を表象するかのごとき屋根は、裏側から見たものだが、この景色が好きである。

小さな石段を登って本堂(=灌頂(かんじょう)堂)に参詣し、更に奥の院に向かう坂道を登り始めると、壮麗な五重塔が目に入ってくる。小さいけれど、この建物を見ているだけで、今ここに生きていることを実感できる気持ちとなるのだ。何年か前台風の倒木に打たれて、無残な姿となったのを見ているけど、今はすっかり修復されて、美しい姿を見せてくれている。

  

  室生寺五重塔の美しいたたずまい。わが国最小の五重塔というが、カメラを横にしないでその全景を収めるのは難しい。

五重塔から奥の院までは、かなりの急な上り坂で、長い石段が続く。しかし、ここに来た時には、奥の院まで足を運ばないと、このお寺の本当のありがたさが解らない様な気がして、何時も大汗を掻き、息を切らしながら往復するのである。その上り下りの歩きの一歩一歩の中に、み仏の癒しのことばを聞くのは、私一人だけではないと思う。その昔の男女を含めたたくさんの衆生が、時に涙を流したに違いない。

室生寺の参詣には、他のどのお寺よりも、参詣をしているという実感を私は覚えるのである。女人ではないのだが、このお寺の優しさには救われるものが大きい。この次の関西の旅のときにも、ここを訪ねることを外すわけにはゆかないと思っている。

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旅の思い出から:円満造翁の話

2008-03-30 00:36:36 | くるま旅くらしの話

 秋田県北部出身者の方なら、円満造翁のことを知らない人は少ないだろう。円満造(えまぞう)などという名は知らないとしても、ドンパン節は知っているに違いない。ドンパン節を知らない秋田県人は、インチキだと思う。尤も、最近の若者の中には、最初から故郷意識など無い者も現れているから、無理な話かも知れない。オリンピックでも国歌を歌うのを知らないスポーツバカのような奴も出てきている世の中なのだから、昔のジジくさい話などは、ジジババ世界の限定版なのかもしれない。

 今日は東北の旅で毎度お世話になっている、中仙町の道の駅のシンボルの円満造ジサマのことを取り上げてみたい。中仙町は、合併して大仙市となったが、これ又今は仙北市となった角館町の隣町に位置するエリアである。中仙の道の駅に寄ると、その入口に妙な塔のようなものが建っており、その天辺(てっぺん)に米俵に腰掛けた変なジサマの人形がある。この塔は、実はからくり時計で、変なジサマというのが円満造翁のモデル人形なのである。

  

  道の駅:中仙のシンボルのからくり時計。そのてっぺんに米俵に腰掛けた、円満造ジサマが中仙町を見下ろしている。

 円満造翁は、この地の出身でドンパン節の元唄の作者である。ドンパン節というのは、この円満造翁が即興で作った甚句を元にして、民謡編曲家の故黒沢三一という方が大衆向けに直して世に広められたものだという。ドンパン節は有名だが、実のところ、円満造甚句などというものは、ここを訪ねて、それと気がつくまでは全く知らなかった。

 円満造翁は、勿論実在の人物で、本名は高橋市蔵さん。慶応4年生まれで、昭和20年に77歳でこの世を去られている。宮大工であったが、彫刻も巧みで東北の左甚五郎と呼ばれていたとか。この方は唄作りの方にも才能があったらしく、即興で甚句などを唄い上げるのに巧みであったという。建築の現場で、作業をしながら即興の唄を唄い、棟上式の祝いの時などはそれを一同の前で披瀝し、その巧みな唄が次第に評判となって一帯に伝わっていったのだと思う。これを取り上げてドンパン節に替えて世に広めた黒沢三一という方も素晴らしい。

  

  円満造甚句の碑(ドンパン節の元唄)  

 さて、このジサマはどうやら変人でもあったらしい。身長150cmというから、当時でも小柄な人だったのであろう。何時も普通の人の2倍もある大きさの手製の杉下駄を履き、中折帽のフチを取って山高帽のようにした帽子をかぶり、藤の様に巻いた杖をついて歩いていた姿がずっと語り草となっていたとか。からくり時計の下にその写真とプロフィルが紹介されている。現代ではこのような恰好の人物は珍しくも無く、東京の繁華街へ行けば、チンドン屋さんも顔負けというような風体(ふうてい)の若者は掃いて捨てるほどいるから驚く話ではないが、円満造ジサマと若者の決定的な違いは、その中身であろう。空っぽと万金の知恵が詰まった重さとでは比べものにもならない。

 このような人物が好きである。好きになると会いたくなるのが自分の欠点でもある。先ずはその生家を訪ねた。というよりも町の中を歩いていたら偶然ぶつかったというのが本当のことなのだ。このような時は、何時も不思議に思うのだが、然()して熱心に調べたわけでもないのに、情報が自然と飛び込んでくるというのは、何か特別な縁のようなものがあるのではないか。もし円満造翁がご存命であれば、お会いして面白い話が聞けたような気がするし、一杯やらせて頂くことも出来たような感じがするのである。まだこの方の創られた建造物を訪ねていないので、これからの旅の楽しみにしている。

   

  円満造翁の生家の景観。現在もその子孫の方が住まわれている。

 ドンパン節というのは、即興の替え唄などが無数に追加されて歌われているようだ。面白い表現形式だと思う。現代と違って、当時は楽器など無く、車座になって手拍子をとりながら、即興で甚句の文句を歌いつなげてゆく形だった。50年位前までは、人が集まった時の唄というのは、そのような素朴な形式が主流だった。どんな唄でも手拍子は付きものだった。カラオケなどはずーっと後になって普及したものだ。このような車座の中で即興で唄の文句を作ってゆくというのは、相当ハイレベルな知恵が働かないと出来るものではない。円満造翁はいつもその車座の中心にいて、自在に即興の甚句を作って披瀝されていたのであろう。それが地域で評判となるというのは、凄い才能なのだと思う。

 ドンパン節の替え歌にはいろいろあるが、現在自分に一番縁のある替え歌は、「うちの親父はハゲ頭 隣の親父もハゲ頭 ハゲとハゲとが喧嘩して どちらも怪我(=毛が)無()でよがったな」だろうと思っている。本当に顔が下に行ってしまって、てっぺんが輝きだしている。時々ケンカしたがるのも似たところがある。イヤハヤ。それで、ついでに自分で一つ替え歌の文句を追加してみた。

 うちの母(がが)さはおしゃべりだ

 隣の母(がが)さもおしゃべりだ

 おしゃべり(=シャベル)過ぎるど危ねえど 

 掘った穴っこに落っこちる

さて、どんなものだろうか。30点くらいかな? 最近は手拍子を打ちながらの唄はめっきり少なくなった。

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百花繚乱の春

2008-03-29 02:07:34 | 宵宵妄話

人間の百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の息吹は殆ど感ぜられないが、自然の方は桜の開花を始め、様々な樹木や野草たちが生命の輝きを放ち出している。この時期の散歩は格別に楽しい。今までその存在すらも目に入らなかった草たちが、いつの間にか新緑色に染まって、日溜まりの静けさを躍動の空間に変えていたり、裸坊主の枝しか見せていなかった樹木たちが、あっという間に蕾(つぼみ)を膨らませ、今日はその蕾を弾けさせて青空を染めている。

歳をとってきた所為か、春を待つ心が散歩の度に満たされるような気がしている。若い頃は春の物憂さや、けだるさのようなものが付いて回っていたのだが、最近は素直に大自然の移ろいを野草や樹木たちに感じて、それなりの感動を味わっている。

人間の生死とは無関係に、大自然は、逆らわぬものたちをそのまま受け止め、突き放している感じがする。それに耐えてここまで来た植物たちが、今年の春を迎え、今ここに生命の躍動を謳(うた)っているのであろう。そのありのままの姿が、何だか生死に大騒ぎをしている人間どもに警告を発しているようにも思え、立ち止まっては花に見入ったのだった。

今日も又一家無理心中のような悲惨な事件が起きており、人間社会の脆さ、危うさを改めて感じさせられた。もはや事件のコメントをする気にはなれない。ただ思ったのは、どんなに厳しい苦境に立たされようとも、もし、精一杯に花を咲かせているこの小さな野草に、生きることの意味を問うたのならば、無理心中などは決して起こらないのではないか。哀しいことである。

今日の散歩で出会ったたくさんの花の中から、幾つかを紹介したい。皆普通どこにでもあり、見かけるものたちばかりである。

  

  一番多い花のない草がヤエムグラ。右上の小さな白い花を咲かせているのがハコベ。そして右下の少し葉の大きいわずかにピンクの花を咲かせているのがヒメオドリコソウ。(判りにくくてごめんなさい)いずれもありふれた野草たちですが、この時期の鮮やかな新緑が目立ちます。

  

  守谷の遊歩道に多い白モクレンの花です。コブシの花も多いのですが、今日は青空に映える純白の花びらを強調したくて、この木を選びました。

  

  鮮烈な赤の目立つボケの花です。ボケは木瓜と書き、人間のボケとはとは無関係です。これも遊歩道に植えられているもので、毎年鮮やかに春を彩ってくれます。

  

  これも遊歩道にあるレンギョウの花です。黄色の花を咲かせる樹木の中では、トップ級でしょう。通常は短く刈り込まれていることが多いので、自由奔放な黄色を味わいにくいのですが、これは剪定を手抜きしてくれたおかげで、鮮やかさを堪能できました。

  

  コブシの仲間の、ヒメコブシのピンク花です。これは野生ではなく園芸用の改良種だと思います。民家の庭に植えられていたものを撮らせて頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。

  

  道端に咲いていたスミレの一株。我が家の庭にもスミレは至る所に植えてありますが、この花の美しさは、このような忘れられたような場所にあるものが一番のように思います。春の到来を実感させてくれる野草の一つです。

  

  散歩道脇の土手に咲いていたキジムシロの花です。よく似た仲間にミツバツチグリがありますが、蔓を四方八方に伸ばすのがキジムシロの特徴です。ようやく花を咲かせ始めた状況のようです。

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順境と逆境

2008-03-28 05:52:40 | 宵宵妄話

又またとんでもない事件が起きた。昨日のニュースで、JR岡山駅で電車を待って並んでいた先頭の人が、電車がホームに入る直前に、後ろから来た18歳の男に、突然背中を押されてホームに転落し、死去するという事件が起きた。めちゃくちゃな事件である。托卵(たくらん)で生まれた郭公(かっこう)の雛(ひな)鳥が、そこの巣の親鳥の子を突き落とすという行動よりももっと恐ろしい行動のように思う。

先日土浦荒川沖での気違い殺人者のことを、親の子育てのあり方が大きく影響しているのではないかとのコメントをしたのだが、今度の事件を見る限りでは、子育てのことだけではなさそうだなと思った。社会のあり方そのものにも大きな原因が潜在しているのかも知れない。

タイトルを「順境と逆境」と書いたが、人生は常に順境と逆境が織り交ざってつくられてゆくように思う。順境というのは、心に過大な悩みなど抱くことも無く万事が順調に進んでゆく環境を言い、逆境というのはその反対で、何事も思う通りにならないばかりか、何で自分が……、と打ちのめされ、叩き潰されるような苦しく厳しい境遇を言うのだと思う。

人が願うのは、当然のことながら順境の人生であろう。裕福な家に生まれ、理解ある両親に恵まれて育ち、学問等の才能にも恵まれ、受験の苦しみなど一度も経験したことなく有名大学を卒業し、自分の思い通りの職業に就く。そして良縁に恵まれ、優秀な子供を持って、順風満帆の人生を歩む。それが理想だと考えている人は多いことだろう。

だが、実際の人生では、そのような人物は、この世には只の一人もいないと私は思っている。順境だけの人生などあるはずが無い。皆夫々の大小さまざまな逆境に落ち込み、それを何とか乗り越えてきているのだ。それがまあまあの満足できる人生というものだろう。生まれてから、たったの一度も悩みや苦しみを味わったことが無いなどという人物は、思うに、真(まこと)につまらない人間なのではないか。

「艱難(かんなん)(なんじ)を玉にす」ということわざがあるが、人間を磨くのは決して順境ではない。逆境を乗り越えたからこそ、人間の魅力が輝くのである。大した苦労もせず、順調に東大を卒業して一流企業に就職した人物が、必ずしも社長に成れるわけでも、周囲の尊敬を集める得る人物となれるわけでもない。学歴などの如何を問わず、本物の逆境を乗り越えた人だけが人間として一流と成り得るのである。

逆境に弱いといわれる今の若者に一番欠けているものは、やっぱり耐性なのかもしれない。現役の時、企業内教育の仕事に携わっていた職場の同僚が、何時も「不満耐性」が大切なのだということを強調していたのを思い出す。その頃の自分は、耐性というイメージはどちらかといえば暗いものであり、若者というのはいろいろなことに失敗を恐れずチャレンジしてゆくべきだと考えていたので、その必要性は感じてもさほど強調するようなことでもあるまいと思っていた。ところが、今度のような事件が起こると、耐性のことを考えずにはいられなくなる。彼は先見の明というか、今の世の問題の本質を見抜いていたのであろう。

耐性というのは、我慢、辛抱して自分自身の不満を乗り越えてゆくという心の力である。つまり、逆境を逆境として受け止め、それを乗り越えてゆく姿勢を言うのだと思う。「切れる」というのは、この心の力が極端に弱いから起こる現象なのではないか。無差別の殺人によって己の不満を満たそうなどという切れ方は、もはや人間社会を識別できないほどの異常な行為であり、明らかに耐性の議論を超えた心の働きのように思う。しかし、その原点にはやはり耐性の欠如があるにちがいない。恐ろしいことである。

高校卒業と同時に殺人者となったこの男は、卒業までの間はごく普通の、というよりはむしろ優秀な成績の高校生で、本人もそれなりに学校生活に満足し、楽しんでいたという。直ぐの進学をあきらめ、就職してお金を貯めてから進学したいという人生行路の選択肢は、決して誤りではなくむしろエールを送りたいほどだ。思いが叶わぬ逆境を乗り越えようとする人生プランは、素晴らしいと評価できるではないか。それなのに家出をし、とんでもない行為に至るというのには、やはり本物の耐性が出来ていなかったからなのだと思う。描いたプランとそれを実行しようとした現実とのギャップに、戸惑い、たちまち切れてしまったのであろうか。

耐性は学校での学問・知識習得だけでは決して身につかない。逆境に身を置かざるを得ない状況は、誰でも遭遇するはずだが、その時の親を初めとする周囲の人たちの対応のあり方が重要だと思う。逆境を逆境としてガッシリと受け止める、そのような認識を持たせることが大切なのだと思う。特に親は子供の本当の苦しみを理解し、子ども自身がそれを苦しみとして受け止め、乗り越えてゆかなければならないことを知らせてやらなければならない。いい加減な慰めや、ほったらかしの無責任な対応は子供に本物の耐性を身に付けさせることには全く役立たないのだ。

今の若者に耐性不足が目立つ最大の要因は、親の子供に対する甘さと自分に対する甘さにあるのではないか。小さい時にやたらに可愛がり、大きくなるにつれ、放置若しくは過剰干渉で子供との信頼関係を破壊してゆく親が多いのではないか。子供が本当に困っている時、つまりは逆境にいる時に身命を投げ打ってでも、子供に逆境を乗り越える力を吹き込む努力をしなければ、子供は親を信頼し続けるのは難しくなるのではないか。口先だけで頑張れなどというのは、最も安易で愚かな行為だと思う。頑張っていても巧くゆかないのが逆境なのである。我慢を教えなければ、辛抱心を身につけなければ、どうやって生きてゆけばよいのか、わからなくなってしまうに違いない。

いじめの問題がいろいろなところで浮き上がってきている。今の世はいじめ横行の世のように思えるほどだが、これなども耐性という問題を置き去りにしている。いじめの問題を単にいじめる側といじめられる側の問題としてだけ取り上げていたのでは、いじめ問題の解決は永遠に不可能ではないか。なぜなら、強者(一見強者を装っている弱者を含めて)が弱者をいじめるのは、恐らく人類の有史以来の行為ではないか。その意味では、人間が集団(=社会)の中で生きる際の本能のようなものなのかもしれない。もしそうだとしたら、耐性を鍛えることで凌(しの)ぐしかないように思う。人間は逆境に耐える力を強くすることで、強者の地位・立場を逆転させることが可能な生き物なのだ。子供の頃のいじめられっ子が、大人になってその昔のいじめっ子を自在に支配しているような人間関係は無数といっていいほど存在している。耐性が強いものが最後の勝利者になれるのだと思う。

いろいろ偉そうなことを書いてきたけど、自分自身が耐性の優れた者でもなく、子供に対しても、親としてさほどに良い理解者であったとも思ってはいない。ま、それなりに、ほどほどのレベルでやってきたとは思ってはいるが。とにかく最近の理由(わけ)のわからない事件を思う時、今の世の中は、何かとてつもなく大切なものを忘れているのではないかと思うのである。耐性は子育てのあり方の一つの側面を指しているのに過ぎないのかも知れないが、昨日のニュースを見ていて思ったのは、起こった事件の表面的なことだけを見て世の中が大騒ぎをするのではなく、その真の要因に目を向け、本物の対策を講じないと、これから先この世はまさにハルマゲドンのカオスの中に突入してしまうのではないか、ということだった。

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旅の思い出から:角館の子ども手踊り

2008-03-27 00:25:52 | くるま旅くらしの話

 昨日と同じ秋田県は仙北市角館の旅の思い出です。角館には春の東北や夏の北海道の旅の途中に必ず立ち寄ることにしています。もともとは桜を訪ねての旅から始まっているのですが、何年か前の春の旅の時に、市街地にある西宮家(武家屋敷からは少し離れた所にある旧家で、歴史的建造物の一つである)を訪ねた時、中庭で子ども手踊りという小イベントが開催されるらしく、絣の着物を着た可愛い三人の女の子が、出番を待っているのか、演台のような所で遊んでいました。開始時刻までかなり時間があり、それを待てないため、声を掛けて写真を撮らせて貰ったのでした。三人姉妹のお姉ちゃんに住所を書いて貰い、旅からの帰宅後にそのときの写真を送らせて貰ったのですが、その後ご縁があって、姉妹のご両親とも知り合うことになり、以来親交を重ねるようになったのです。

 私の旅のガイド書「くるま旅くらし心得帖」のコラムの一項に「角館人の発見」というのがありますが、この角館人というのが、三人姉妹のお父さんで、創作の布巻草履作りをしておられます。西宮家の中の一室で実演販売もされているのですが、この方は草履職人を自認されておられますが、只者ではない角館人だと私は見ています。角館という郷土を心から愛し、誇りを持ち、大切にされていることが、話の中で強く伝わってくるのです。会話も草履作りの腕の方も実に巧みな方で、遠からず名人の域に達せられるのではないかと思います。否、もう既に名人の域に達しておられるに違いありません。この方の作られた草履を、我が家でも愛用させて頂いていますが、美しいデザイン、頑丈なつくりで、履き心地もよく、万人にお勧めの作品です。お値段は少し高いかも知れませんが、履いて見ればその価値は判ります。草履は、足の裏のつぼを刺激し、健康上とても有用な履きものなのです。

     

角館の創作布巻草履作りの名人千葉さん。千葉さんは、ホームページやブログを開設され、角館の様子を毎日伝えておられます。[「角館の布巻草履・沙佳屋(さけいや)」参照]

 ということで、この方と知り合って、益々角館のファンとなりました。我が家では味噌などの調味類も角館で調達していますから、私どもの体のかなりの部分に、自動的に角館の味が沁みこんでいるのではないかと思っています。

 さて、何度も訪れているのに、実は子ども手踊りを一度も見ていませんでした。子ども手踊りというのは、角館のお祭り、やま行事の際におやま囃子にあわせておばこたちが踊るもののようで、このお祭りは国の重要無形民族文化財に指定されているとのことです。角館祭りを是非見に来てくださいと、何時も言って頂いているのですが、9月の7日から9日まで3日間のその時期は、なかなかタイミングが合わず未だに実現していません。

 ところが、偶々昨年の春に角館の西宮家を訪ねたところ、丁度子ども手踊りとおやま囃子のイベントが開かれるのにぶつかったのでした。それで、何枚かの写真を撮りながら、可愛いおばこたちの手踊りを堪能したのでした。そのときの思い出を、ほんの少しですが写真で紹介したいと思います。

  

 踊りの開始前の、一同揃ってのご挨拶です。小学生と幼稚園の女の子たちが、これから日ごろの練習の結果を発揮します。

 

 何という歌なのかは忘れてしまいましたが、如何にも子どもたちの手踊りという所作が感ぜられます。

 

 扇を持った舞も組み入れられています。花笠音頭は手作りの笠を持っての踊りでした。

 

 前の方で、幼稚園のちびっ子もお姉ちゃんたちに負けずに懸命にがんばって踊っています。

 

男の子たちは、お囃子を勤めますが、主に小太鼓を敲くレベルのようです。大太鼓と鉦は大人が担当しているようでした。

くるま旅は、時間の使い方が自在です。前回訪問の時は、その自由なはずの時間をうまく使えませんでしたが、最近は大分上手に使えるようになりました。要するに、スケジュールを細かく作らないということが、旅を楽しむ一番のコツのようです。

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旅の思い出から:角館の菅江真澄終焉の碑

2008-03-26 05:09:36 | くるま旅くらしの話

 このところ暗い話題が多かったので、今日からは少し旅の思い出などを振り返ってみたい。今日はその初めとして、昨年も訪ねた角館の街中の散策から出会った、菅江真澄の碑(いしぶみ)ことなどを書いてみたい。

 以前にもどこかに書いたように記憶しているけど、秋田県に入ると所々に「菅江真澄の歩いた道」という標示板が目に付く。菅江真澄とはどのような人なのだろうと、最初は聞いたこともない名前に戸惑ったものだった。何時の時代の人なのかも判らなかった。しかし、その実を知って、我々旅に憧れる者の大先達であることを知り、一挙に親近感が増したのだった。

 菅江真澄という方は、江戸時代後期の人で、往時の三河の国渥美の郡吉田付近生まれの人という。そのような出自に関する詳細については、私はあまり興味がない。学者ではないので、大体判ればそれで充分である。要するに東北出身の人ではなく、今の愛知か静岡辺り出身の大旅行家、若しくは冒険家ということである。江戸時代というのは、現在の日本国からはなかなか解りにくい、300余藩という群小半独立国家の集合体という政治システムだったわけで、その時代に諸国を巡り歩く旅行家というのはそれほど多くいたわけではないと思う。俳聖松尾芭蕉は有名だが、そのほか諸国を巡り歩いたことで名を残した人は少ないのではないかと思う。

 菅江真澄を有名にしたのは、信州、奥羽から蝦夷(北海道道南エリア)にかけての克明な旅の記録を残したことが、単なる旅行家ではなく、後年いわば今日の文化人類学研究の魁(さきがけ)として高く評価されるようになったところにある。民俗学の父といわれる柳田國男をして、民俗学の鼻祖と言わしめている存在でもあった。200冊に及ぶというその著作は、土地の民族習慣、風土、宗教等について、文章のみならずスケッチなどの絵も加えて書かれており、それらは「菅江真澄遊覧記」として、現在東洋文庫(平凡社刊、東洋文庫、全5巻、菅江真澄著 内田武志・宮本常一編訳)の中に収められ出版されている。

  

    菅江真澄遊覧記:菅江真澄著 内田武志・宮本常一訳注 (平凡社刊 東洋文庫)

 私も早速この本を購入して読み始めたのだが、面白いけどなかなか先に進めない。単なる旅行記ではなく、まさにフィールドノートなのである。往時の地方の地誌や文化についてのバックグランドとなる知識を持たない自分には、内田・宮本先生の訳注を参照しながらのたどたどしい読み方で、3年も経つのに3巻目にようやく取り掛かるという有様である。

 この本を読んでいると、くるま旅くらしのあり方に関するたくさんのヒントを得ることが出来るような気がする。私のくるま旅くらしの原点は、アメリカの文豪スタインベックの「チャーリーとの旅 ~ アメリカを求めて」という、当時アメリカでも珍しかった、特注キャンピングカーに、チャーリーという名の愛犬を連れてのアメリカ大陸横断の紀行本なのだが、菅江真澄は勿論車などの無い時代の旅であり、より本質的な旅の面白さを示唆してくれているような気がするのである。あと3巻を読み終えるまでにどれほど時間がかかるのか見当もつかないけど、楽しみながら読んで行きたいと思っている。

 さて、その菅江真澄だけど、この方は秋田に縁が深く、現秋田市の久保田藩佐竹氏の知遇を受け、久保田城近くに在住していた。角館は久保田藩の支藩のあった所だから、当然何度も来訪されていたに違いない。しかしその痕跡などを知る由もなく、毎年角館を訪れていても少しも気づかなかった。

 昨年は、武家屋敷や檜木内川堰堤の桜見物に飽き足らず、今まで歩いたことのなかったエリアにまで足を伸ばして、地図無しに歩き回ったのだが、その中で神明社近くに「菅江真澄終焉の地」の碑があるのを見つけた。犬も歩けば棒に当たるという感じの発見だった。そうか、この地で亡くなられたのか、と旅の名人、大先達に思いを馳せたのだった。享年76歳。40年以上を、秋田を拠点にした旅くらしの人生だった。凄いなあと、改めてその偉大さに心を打たれた。

   

    「菅江真澄終焉の地」 の碑                       碑の説明板

今年は角館を訪ねる機会があるかどうか、今のとこと見通しは立っていないが、今度行った時もまた、神明社を訪ね、菅江真澄の碑に立ち寄って、大先達の旅に思いを馳せたいと思っている。

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殺人犯を生むもの

2008-03-25 04:59:33 | 宵宵妄話

旅に出ず(出られず)、花粉に脅かされていると、神経が過敏になって心が荒(すさ)むようだ。昨日のブログで殺人犯を許すなと書いたが、この頃は理由(わけ)の解らぬ殺人事件がやたらに多い。今日のニュースでは、案の定(じょう)警察の失態ばかりがクローズアップされていたが、本当に考えなければならないことは、警察のあり方などではなく、理由(わけ)の解らぬ殺人者が何故生まれるのかということであり、そのようなものを生んではならないということであろう。そのことについて触れておきたい。

私は犯罪心理学者ではないので、専門的なことは解らないけど、今日的殺人者が生まれる土壌というか、背景には、子供の育て方、とりわけて中学生からの、いわゆる思春期といわれる世代以降に対する親の対処姿勢に最大の原因が潜んでいると考えている。

レビンという心理学者の提唱した仮説に、レビンの行動様式というのがある。B=F(P・E)というものだ。Bは行動、Pは性格、Eは環境であり、Fは関数という意味である。簡単にいえば、人間の行動というのは、その人の持つパーソナリティ(性格)と環境によって決まるという考え方である。この仮説を用いて今回の事件を推察してみると、殺人犯が人を殺すに至った行動の背景には、彼の持つ性格とその生まれ育ち、今日に至るまでの環境が大きく影響しているということになる。 

性格も環境も夫々が独立したものではなく、相互に影響しあう作用をしていると考えられるが、私はこの二つの要因は、人間の成長過程において、親の子供に対する育て方、関係の持ち方が絶大なる影響を及ぼしていると考えている。極端に言えば、殺人犯を生み出すのは、子育てのあり方、親の用意した環境が決定的な影響を及ぼしているのだ。

子供の年代は、性格も環境もそれを決定付けるのに責任を負うのは親しかない。子供の性格は持って生まれきたものなどではない。確かに生得的(せいとくてき)な部分もあるかもしれないけど、その多くは幼少時の親からの学びで獲得したものに違いない。又環境もそれを決めるのは多くの場合は親しかない。子供が自分自身で決めることが出来る範囲などはごく少ないのだ。

人間が、無垢(むく)の状態でこの世に生を受けてから、幼児期を経て少年期、青年期に至り、自分自身でも解らないほどに心は複雑怪奇なものとなり、やがて成人となり壮年期から高齢期へと至り、老人となってあの世へ旅立つという、この人間の一生というテーマは、私にとっていろいろな意味において最大の関心事であり、終生の追求テーマである。人には人なりの、理屈の入る余地のない生き方があり、意識している、いないに拘らず、人はそれによって己の生を運んでいるのだと思う。殺人者には殺人者なりの、殺人に至るまでの生き方があったのだ。

さて、元に戻って現代の親は、子供に対する責任を果たしているのだろうか。人間対人間という平等関係は保持できたとしても、親対子という役割関係はきちんと遂行されているのだろうか。中学・高校・大学・社会人となった子供と夫々の世代において、心の通い合う対話・会話が出来ているのだろうか。そして最大の疑問は、現代の親は、親としての役割をしっかりと自覚しているのだろうか。その自覚に基づいた知識の習得や実践行動を果たしているのだろうか。

若者による殺人事件の多くは、親が子に対する育成責任果を放置したり、その責任の果たし方を著しく誤ったために、歪(ゆが)んで育った人間によって発生しているケースが殆どのような気がする。小此木啓吾著「ケータイ・ネット人間の精神分析」(飛鳥新社刊)や正高信男著「携帯を持ったサル」(中公新書)などの著書を読むと、現代は、親の子育て能力の欠損に加えて、携帯電話やインターネットなど現代文明の最先端を行く利器の普及が、親子のコミュニケーションのあり方を著しく狂わせ、あれよ、あれよという間に、親子の断絶を致命的なものとしているようだ。

家庭という場にあってさえも、親も子もあったものではなく、子は親を「頼みもしないのに自分を生んだ人」、親は子を「何一つ思い通りにならない心配の塊のような存在」などという関係になってしまっている。しかもその実態は、子は成人しても親の家に家賃も食費も払わずにそのまま住み続け、親もそれに対して何も言えず黙認し続けているという、高等動物とも思えないお粗末な親子関係が増えている。いったい人間の親子関係はどうなってしまっているのか!と思わずにはいられない。

子離れできない親、甘えの中にどっぷり浸かって自立できない子供、という構図は、やがて人間社会の基盤を破壊してゆくのではないだろうか。家庭という最小単位の社会を構築する能力を失えば、それによって成り立つ全体社会が存立できるはずもない。子育て能力を失った親や家庭は、ITのもたらす果報を毒として取り込みながら、不安定な危険性を孕(はら)んだ社会を構築して行くに違いない。今回の事件の背景にもこの要因は必ず潜在しているように思われてならない。

今の世の中で最も必要な教育は、親に対する子育て教育ではないか。子を持つ資格も、育てる能力もない親たちを放置したまま、子供の教育が出来るはずはないのである。教師に対する風当たりは大きいものがあるけど、親の不勉強、無責任ほど世の中をダメにするものはない。親というのは、懸命に働き子供を食べさせていさえすればそれで良いのだとか、餌と銭を適当に用意して投下しておれば、子供は学校や塾が育ててくれるなどと思っていたら大間違いである。野生の動物でさえも子供に対して厳しく、そして優しく生き方を教えているのだ。ただ餌を与えているだけではない。そうしなければ厳しい環境の中で生きては行けないのである。このことは、人間社会の中においても、本質的に変わってはいない。

犯罪の影には女ありなどとよく言われるが、本当は女ではなく親なのではないか。国が少子化に懸念を抱くのであれば、その最優先施策として取り上げなければならないのは、親の子育て能力の付与とレベルアップであり、その実現・実行のための方法論を明確にすることではないか。現在何がなされているのかさっぱり解らないけど、銭で解決する施策などばかりを考えているだけなら、余分な担当大臣は不要なのではないか。

親としての我が身を振り返れば、あまり偉そうなことはいえないけど、昨日に引き続いて大言を吐いたのは、やっぱり花粉のなせる業なのであろう。

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殺人犯を許すな!

2008-03-24 05:51:49 | 宵宵妄話

今日は何も書くことがなさそうなので、一昨日の夜にTVで見た世界フライ級チャンピオンの内藤君のことを書こうかと思っていたのだが、夕方のニュースで、比較的ご近所の土浦市荒川沖のJR駅で、多数の方が包丁を持った狂人の男に殺傷されたというニュースを聞いて、無性に腹が立ち、この問題を取り上げることにした。

先ず最初に言いたいのは、このような世間をなめている奴は、狂っているとはいえ、即刻死刑に処すべきである。また、人を殺しておいて、警察に「私を捕まえてごらん」などとふざけた通報する奴を捕まえ損ね、多数の死傷者を出すというのは、明らかに警察のドジである。県警のコメントでは偉い人が「至極残念だ」などと他人事のように言っているが、事件のことなど分らぬまま気違いに殺された被害者サイドは、そのような生ぬるいコメントではおさまらないのではないか。この事件の前に起きている同一犯による殺人事件の捜査本部を設け、かなりの人数を割いて犯人の身柄確保を待ち構えていた体勢の中で、何の情報もなかった一般人が殺傷されるというのは、警察のドジ以外の何ものでもない。更には、張り込んでいた警察関係者までが負傷するとは、とてもプロの仕事とも思えない。やむを得なかったという理由を探すのに不足はないと思うが、この事件に関してはTVの正義派番組よりも、現実はかなりお粗末のように思えて仕方がない。偉い人は、反省などのコメントの前に、何よりもお詫びすべきである。

私の身内には、実は警察関係者が何人かいる。そのような立場からは、黙っていた方が無難なのは承知している。しかし、社会正義という観点からは、警察の今回の事件への対応のあり方は、真(まこと)に当を得ていないと非難せざるを得ない。殺人犯を普通人と同じような感覚で確保できると考えていたのだろうか。今頃の殺人犯の多くは、いわば狂人である。狂人というのはもはや人間ではないと考えるべきであり、それを前提として対処しなかったら、被害は増える一方なのではないか。今回の事件のこのような結果は、警察が狂人と普通人の判断の正確性を失ったことに起因している感がしてならない。

今の世のような、悪が軽薄な裁量で許され、その積み上げが悲劇を生むというような状況を許してはならないのではないかと思うのだ。警察の及び腰を叱りたいが、その前に人間の死に関して、殺された者よりも殺して生きている者に有利というか情けをかけるような法律のあり方を許せない。生きている殺人者を尊重し、殺された被害者を軽視するというような法の考え方は、根本的に間違っているように思えてならない。冤罪などもあり、一概には言えないことは承知してはいるけど、犯人が明らかな場合は、更生など無用のケースが多いのではないか。確かにこの世は生きている者だけで成り立っており、死者の関与する余地など無いのだとは思うが、生きている者と死者とはつながっているのであり、法がそれを軽視し、認めたがらないというのは不公平極まりない、甚だしい誤りのように思う。

犯罪に「時効」という考え方があるが、これなどは犯罪を許す手抜きのように思う。少なくとも殺人事件に関しては時効などあってはならないように思う。時効になったと自ら言いふらし、殺人者が大手を振ってそのあたりを歩き回れるなんぞというのは、どう考えたっておかしな現象である。殺人者に「元」殺人者などと言う呼称は無用だと思う。人を殺した罪は、生きている限り償い続けるべきである。殺人者も人であり、殺すにも一理あるのだから、等しく愛の手を添えるべきなどという甘ったるい発想を断じて許すべきではないと私は思っている。

最近の殺人事件は、狂人が生み出しているケースが圧倒的に多いようだ。もともと人が人を殺すなどというのは、狂人にならなければできることではない。そしてその狂人を生み出しているのは、多くの場合世の中の狂い出した部分にあるような気がする。社会病理とも言うべきことなのであろうか。現代には狂人を生み出す病理の世界が知らず拡がっているような気がする。あまりにも早すぎる文明というのか文化というのか、その進展のスピードについて行けない人間が狂いだしている感がするのだ。その結果、「誰でもいいから殺したかった!」「校庭の隅にある動物小屋の小鳥やウサギたちを思いっきり虐め殺したかった」などという心理と行動が、幾つもの事件を引き起こしている。人類としての自戒は、このような狂った行為を断じて許さないことにあるのではないか。戦争を容認するような博愛の思想は虚偽に過ぎない。

今回の土浦・荒川沖の殺傷事件が、もし狂人の狂人なるがゆえの殺人・傷害事件として、心神消耗とか心神喪失などという理由で無罪になったりしたら、まともに生きている者にとって、この世はバカバカしい限りのものに成り下がるに違いない。気違いは差別用語だが、殺人者に対しては、それほどご大層に扱うべきことばではあるまい。気違い(=精神異常者)は、人を殺しても無罪などという法を決めた奴は、厳しくその責めを問われてべきではないのか。法に則してなどと言いながら、気違いに無罪を言い渡す裁判官は、何の尊敬にも値しないように思う。その意味において、殺人者の弁護士(人)というのは、法の錯乱者が多いように思えてならない。何でも罪一等を減ずればそれが実績などという考え方は、殺人という絶対的な犯罪においては、通用させるべきではないように思える。オウム真理教の様な愚か極まりない裁判においても、長い時間と国税の浪費を貪りながら、ダラダラと審議を続けるような世の中が真っ当だなどとはとても思えないのである。

今回の土浦・荒川沖の事件も、愚かな審議を長々と続けるようなことは止めて貰いたい。殺人者は、即刻鋸引きの刑(土中に埋めた生きた犯罪者を、通行人の心ある者が竹製の鋸で一度限りその首を引くという古の処刑の仕方~これは憎しみの極致での刑の執行というよりも、鋸をひける者がさほど大勢居るとも思えず、犯罪の重さを知らしめ、再犯を防止するための負の手段のように思える)が相応しいのではないか。勿論様々な殺人者がいるのだから、皆一律には行かないとしても、狂人の殺人は躊躇(ちゅうちょ)なく断罪すべきである。狂って命を奪うという行為には、どこを探しても許せる余地などあるわけがない。

いずれにしても昨今の世の中、生命(いのち)というものを軽視する出来事が多い。己の命を軽視し、更にその上で他者の命を軽々しく奪う様な者は、如何なる人間であろうとも、如何なる理由があろうとも、絶対に許してはならないというのが、馬骨の信念である。(花粉の所為もあって興奮気味である)

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庭の野草たち(その2)

2008-03-23 00:01:03 | 宵宵妄話

 今日も閑話休題。普段、他人様のブログを見るのは、特定の人ばかりなのですが、時々有名人のブログなどを拝見すると、意外に猫の写真だとか、単なる町の風景写真だとかがメインに掲載されたりしていて、がっかりすることがあります。明らかに手抜きだなと思うのです。有名になると、それでも見てくれる人が多いのかもしれないけど、私はそのようなブログは二度と見る気が起きなくなるのです。猫ちゃんやワンちゃんがカワユイのは解るけど、そんなのは、あなただけが独り占めして楽しんでいて欲しいな、というのが本心です。

 しかし、我が身を振り返ってみると、時々手抜きをしたくなるときがあります。そんな時は、何だかその有名人の気持ちが分るような気がして、あまり偉そうなコメントはしない方が我が身のためだなと反省しています。今日などは、まさにその日で、花粉の総攻撃を受けて、半日を寝床の中で過ごしたのですが、思考停止の状態で、ブログどころではなく、不本意ながら朝のうちに撮った野草たちの身勝手な紹介で、手抜きをさせて頂きたいと思っています。

 それにしても今日の花粉の飛散量は相当なものでした。薬を飲んでいると、くしゃみや鼻水は止まっているのですが、頭の芯が重く、目はしょぼくれて、とても生きているという実感が湧かないほどなのです。見えないはずの花粉が、総攻撃を仕掛けてくるのが見えるような錯覚に陥るほどです。このような状況の中でも、野草たちは確実に目覚めて、力強く生命(いのち)の躍動を開始しています。

<シラネアオイ>

 

  大地を持ち上げての芽生えは感動的です。このシラネアオイは、越後の米山の道の駅で買って持ち帰ったもので、その時は澄んだ紫の花を数十個も咲かせていました。地植えにして3年目の春ですが、さて今年はどのような咲きぶりなのか楽しみです。

<ミスミソウ(雪割草)>

 

  この花もシラネアオイと一緒に買ったものです。ミスミソウのことを店のおばさんは雪割草といって売っていました。もしかしたら、これは野草ではなく、栽培種なのかもしれません。今白い花が一輪咲きかかっていますが、明日にはその全容を見せてくれるのではないかと楽しみにしています。

<オカワサビ>

 

  オカワサビは、北海道などの原野に自生する野草で、ギシギシに似た葉の、やや大型の植物です。その根を下ろして食用にしますが、わさびの風味と辛さがあり、これを自家製の味噌の中に封じ込めた工藤味噌(小樽の工藤さんが作っておられるので、我が家ではこのように呼んでいます)は、私の大好物です。これはその工藤さんから頂戴した苗を植えつけたもので、3年目の春を迎えました。今年は根の採取が出来るのではないかと楽しみにしています。

<カタクリ>

 

  我が家にたった一株あるカタクリが今年も薄紅色の花をつけて伸びてきてくれました。これは数年前、秋田の山の中で採取して持ってきたものです。関東近辺ではカタクリの群生が時々話題になりますが、秋田の山の中に行くと、一面が赤紫のじゅうたんになった沢などに出くわすことがあり、さほど珍しい野草ではないようです。地元の野菜売り場には食用としてカタクリの花束が積まれているのを見かけたりします。たった一輪を大事にしているなどと話したら、秋田の山の人たちには大笑いをされてしまうことでしょう。

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悪い予感

2008-03-22 07:24:44 | 宵宵妄話

政治のことにうっかり口をつけると大変なことになるらしいので、あまり触れないようにしているのだが、最近の道路特定財源論議や日銀総裁人事、防衛省の不祥事、食の安全確保の問題などを見ていると、この国の未来に不安を抱かざるを得ない。このような曖昧な、場当たり無責任主義でいいのだろうか。

悪いのは誰なのかはよく分らないが、民主主義の脆(もろ)さを露呈した政治が続いているような気がする。欧米においても同じ民主主義政治が行われているのだが、日本国の場合は何だか幼稚で節操の無い感じがしてならない。「世界の中の日本」という強い意識や気構えが政治家の中に本当にあるのだろうか。中国や北朝鮮などにも軽く往()なされている感じがする。アメリカに対しても主体性を発揮しているとはいえない。日米関係は、収益性の良い子会社を親会社がとりあえず大事に扱おうとしているような関係に過ぎず、いざとなれば親会社は邪魔になった子会社を簡単に切り捨てることもあり得るような気がする。

二大政党という発想があり、日本にもそれを待ち望んでいる風潮があるようだけど、そのようなものはこの国には出現しないのではないか。現在の政党間の論議においても、相互に相手の非を責めるばかりで、我らの責任ではないという主張が目立つようだ。政党の拠って立つ基盤が国を思うという点で違っているのであれば、二大政党など生まれるはずがない。

政治をこのような状態にしているのは、政治家だけの責任ではない。政治を野次馬根性で眺めている世の中大衆の側にも大きな問題がある。しかし大衆というのは顔がない。大衆というのは個となった瞬間に消え去ってしまうものなのだ。結局のところ、大衆を変えるのは政治の力しかない。この大衆と政治の関係は、永遠に悪循環を繰り返すのではないか。悪循環を断ち切るには、独裁主義のようなものが現れなければならないのだろうが、今のところその可能性は低いし、又そのようなものを期待したくはない。しばらくは、政治はつまらなくて面白くない、などというレベルでの無関心の世界が続くのであろう。

4月に入れば、ガソリンの消費に関連して大混乱が起こるだろうが、それは直ぐに収まって経済は総じて悪化の方向へ動くに違いない。日銀総裁などいなくても今の日本では大して困らないという発想が政治家にも大衆の側にもあるような気がする。防衛省の一連の不祥事も、やがては緊張感が薄れ、大して時間も経っていないのに大衆の耳目からは遠い話となるに違いない。食の安全の問題も、曖昧なままに国の食料政策などとは無関係に忘れられてゆくのであろう。

この国は幼稚な爛熟期(らんじゅくき)に入っているような気がする。幼稚というのは、熟()れるほどには民主主義の政治が根づいていないのに、早や、どこかが腐り始めたということであろう。社会というものを置き去りにした個人主義が根を張り、溢れる効率主義の中で、個人の利益追求は止まることがない。政治家も大衆も、みんな自分ことで精一杯なのだ。

政治というのは、どうやら政治家のためのものらしい。「国民のために」というのは、政治家がオフィシャルに話をする際の、修飾語として使われる常套句に過ぎない。今の世は、歴史上稀に見る、政治家の影響力が最もプアになった時代のような気がする。政治家の多くが大衆に阿(おもね)いている感がする。選挙のことしか視野に入っていないのではないか。益々複雑化する国際情勢の中で、日本国の主体性の主張まで辿り着けない政治が続く限り、その影響力は復活することはないように思う。

一時でもガソリンの価格が安くなるのは結構だが、そのあとで、経済悪化の揺り戻しに耐えられずに、国全体が政治不信の泥沼に落ち込まないようにくれぐれも留意して欲しいと思う。被害の余波が一番大きいのは恐らく高齢者、すなわち老人たちなのだから。自民党も民社党も党利党略を離れて、本来の政治が何のためにあるのかを真面目に考えて欲しい。それが出来る人物が飛び出して来て欲しい。

時に、くるま旅くらしのことなどは忘れ果てて、頑固老人の想いの迷走は果てしなく続くのである。

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