旅の思い出は、北国から一変して関西の古都の話となる。今日は昨年の11月中旬に訪ねた、古都奈良の山奥(往時の)の名刹室生寺のことを書いてみたい。
奈良は京都と違って、心安く名所旧跡を訪ねることが出来るような気がする。もともと歴史的には京都よりも奈良の方が古いのだ。日本国の基盤となる大和朝廷が京都において生まれたという話は聞いたことがない。奈良なのである。ただ、国家体制が固まって以降の治世の本拠地は京都であったから、それと判るものが残されているのは京都の方がはるかに多いのは間違いない。それにしても、くるま旅での京都の訪ねにくさは、一体どうしたことなのかと思う。
関西方面への旅で、訪ねる回数が一番多いお寺は室生寺である。奈良の市街地エリアからはかなり山の中に在るのだけど、名古屋方面から関西へ行く場合は、東名阪道を宇陀市の方へ向かえば、余り苦労せずに訪ねることができる。勿論利便性だけで訪ねるのではない。このお寺には何ともいえない静かな重い温かみを感ずるのである。仏の慈悲の想いがたっぷりと詰まった本物のイヤシロ(=癒代)地を感ずるのである。
室生寺入口。この山門の手前を右折してすぐ先に受付所があり、そこから仁王門を経て鎧坂に向かうことになる
室生寺は、山号が宀一山(べんいちさん)、寺号が室生寺であるが、宀一山(べんいちさん)という山号は耳にしたことがない不思議な山号である。宀一山の字を「べんいちさん」などと最初から読める人などいるのだろうか。宀はうかんむりだけど、これをべんと読むなんて、どういうわけなのだろうと辞書を引いてみたら、ちゃんと書いてあった。宀は、住居の屋根の形を表わすもので、屋根を四方に深く垂れた家という意味なのだそうだ。只の、うかんむりなどと覚えていただけでは、日本語も漢字もわからないのだなと思った。
さて、話を戻して、室生寺は女人高野とも呼ばれている、古くから女人禁制を外したお寺だった。それ故、女性の駆け込み寺などとも言われている。お寺の修業に何故女人が禁止なのかは、今の時代ではまさに不可解であろう。私の中にも不可解という部分が圧倒的に多い。男が女に迷うというのが、煩悩の中では最大のものなのかもしれない。女の体の中から生まれてきているのに、修行僧が女に迷うことを禁ずるというのは、それが俗世(ぞくせ)の迷いを超越する上で、最も厳しいハードルであることを自認していたからなのかも知れない。坊さんの目指す悟りがどのようなものなのかは知る由も無いけど、男とか女とか言う世界を超えないと、そこに辿り着けないものなのであろう。いずれにしても現代では解り難(にく)い世界ではある。
開祖を同じくする真言宗のお寺なのに、高野山は女人禁制に徹し、このお寺は女性を含めた全ての衆生(しゅじょう)の苦悩を受け入れてきた。現代であれば、このお寺にこそ開祖空海の真の衆生に対する思いが伝わっていると言えるのかも知れない。ま、そのような詮索(せんさく)は、今となってはどうでも良いことなのかも知れない。
朱色の欄干の橋を渡るとお寺の入口となる。仁王門を潜って鎧(よろい)坂を登る。この坂の石段を一段登る毎に、み仏の慈悲の心を思うのである。その慈悲の深さが自然と心に沁みてくるのである。慈悲とは、悲しみを慈(いつく)しむことである。人間を理解するというのは、終局においてその悲しみを共感することに他ならない、というのが私の現在の人間理解の結論である。喜びや不満などではない。悲しみなのだ。
仁王門の景観。この年は夏から台風の大風が吹いて、訪ねた11月中旬には始まるはずの紅葉もわずかで、仁王門周辺の樹木は葉をすり減らしていた。
封建時代からの幾多の女性の悲しみを、このお寺がどれほど救ったのかは判らないけど、駆け込み得た女性の悲しみは、石段を一つ登る毎に少しずつ癒されていったに違いない。金堂に辿り着いて両手を合わせて祈る頃には、悲しみの心は大分に浄化されていたのではなかろうか。そのような雰囲気がここにはある。
金堂の屋根の景観。宀の字の意味を表象するかのごとき屋根は、裏側から見たものだが、この景色が好きである。
小さな石段を登って本堂(=灌頂(かんじょう)堂)に参詣し、更に奥の院に向かう坂道を登り始めると、壮麗な五重塔が目に入ってくる。小さいけれど、この建物を見ているだけで、今ここに生きていることを実感できる気持ちとなるのだ。何年か前台風の倒木に打たれて、無残な姿となったのを見ているけど、今はすっかり修復されて、美しい姿を見せてくれている。
室生寺五重塔の美しいたたずまい。わが国最小の五重塔というが、カメラを横にしないでその全景を収めるのは難しい。
五重塔から奥の院までは、かなりの急な上り坂で、長い石段が続く。しかし、ここに来た時には、奥の院まで足を運ばないと、このお寺の本当のありがたさが解らない様な気がして、何時も大汗を掻き、息を切らしながら往復するのである。その上り下りの歩きの一歩一歩の中に、み仏の癒しのことばを聞くのは、私一人だけではないと思う。その昔の男女を含めたたくさんの衆生が、時に涙を流したに違いない。
室生寺の参詣には、他のどのお寺よりも、参詣をしているという実感を私は覚えるのである。女人ではないのだが、このお寺の優しさには救われるものが大きい。この次の関西の旅のときにも、ここを訪ねることを外すわけにはゆかないと思っている。
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