山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

批判政党と批判者を批判する

2021-01-31 04:09:19 | 宵宵妄話

 書きたくない、書きたくないなと思いながら、しかし、書いておかないと、どうにも気が済まない、すっきりしない気持があり、やっぱり書くことにした。

 只今国会開催中である。コロナを初めとする諸々の議論、論戦が行われている。それはそれでいいのだが、黙って(こちらはTVを見ながらそうするしかない)見て、聴いていると、何ともバカらしい気分になるのを抑えられなくなる。その大半は、不毛の議論に思えてくる。

 その中で最も腹立たしいのは、批判政党の批判者の言動である。毎度のことながら、うんざりする気持ちになる。一見正義漢を装いながら、ただひたすらに相手の非を責めるためだけの不毛の議論をけしかけるだけの時間つぶしをやっているだけにしか見えない。

 戦いに勝つための戦法としては、その基本は相手の弱点や非を責めるというのが定法なのは理解できるとしても、国会での本当の勝利は、それだけでは叶えられるものではない。その非が正されればこの国は本当に良くなるのか? 疑問である。あまりにもそればかりでは、勝つどころか、益々信頼を失うことにつながることになりかねない。

 批判政党は、ここ数十年の間、殆どどんな名前の政党であっても、同じような戦法で、信頼を減らす努力だけをし続けている。そのように見える。たった一度だけ政権をとったことがあるが、いざ本番の与党となった後の様は、目を覆うものだった。たちまち再び分裂して消え去り、力を失った。

 何という信念の無さなのか。志の無さなのか。非を責めるだけでは、政治には何の力にもならないということを、明確に証明したのだった。その愚かな体験をいやというほど味わった筈なのに、未だ性懲りもなく同じ振舞いをし続けている。

 こんなことでは、わが国には永遠に二大政党などというものは生まれることはあるまいと断言して良い。批判政党は批判戦法を捨てない限り、そのような非の材料だけでは天下をとることはあるまい。批判が生み出すものは、脆い幻想の世界に過ぎないのではないか。

 今の世の政治は、愚民に媚びる人気取りの傾向が強まっているようだ。マスコミが後押ししているのは明らかだ。政治の大道を歩もうとする者は、この国をどう導くかについて、高い理想に基づく明確な目標を掲げ、不退転の信念を以てその志の実現実行に取組まなければならない。これは時代を超えて為政者に求められる不変の要件ではないか。

 今の世は、与党も批判政党にもそれらの中身が不明確で、さっぱり伝わって来ない。

 信念の話で言えば、現今の未曽有の緊急事態を招来しているコロナ禍に対処するために、ペナルティを含めた厳しい法案が提出されたのだが、批判政党などの毎度の場違いの反対論に遭って、甘さに腰を折られる結果となった。非常事態なのだ。ウイルスは人も職業も国も選ばず魔の手を繰り出して来ているのである。国民が一丸となってこれに対処するためには、足並みを乱す者が一人も出ないようにするのは当然であり、それを許し緩めたら、まさに蟻の一穴となるのだ。気を緩めるようなレベルの法案では、施行すればたちまち足並みが乱れるのは明らかなのだ。それを何をどうとり違えたのか、安易な方に妥協するというのは、一体どういうことなのか。与党の信念の無さに失望するばかりだが、正義漢面して国をダメにする輩には怒りを覚えざるを得ない。このような安きを求め、厳しさの欠如した思想に流される人間の集まりの政治では、非常・緊急事態に対処することはできず、コロナに駆逐されてしまうのは明らかだ。批判政党がこの国をダメにしようとしているのは明らかだ。

 先日批判者としての人気者らしき人物が、首相の話が下手だからその意が国民に伝わらないのだ、というような偉そうな言を吐いて、さすがに首相が怒って、「失礼ではないか!」と話したという。これを聞いていて、全く無礼千万な奴だなと思った。あまりにも批判のレベルが低すぎる。大統領にも芸が必要なように首相にも芸が必要だということなのかもしれないが、自分はそうは思わない。一国のリーダーに必要なのは芸などではなく、信念と覚悟なのだ。それをどう表現するかは、その人となりの全てであろう。話が下手なら下手でいいのだ。問題はむしろ聴き手側にあると言える。上っ面の目立つ様なセリフばかりを聞いて、それに踊らされている奴ほど、この世に害を為す者はいないのではないか。偉そうに他者を責めるほど己が人の世に貢献しているのかを反省すべきであろう。政治家の思い上がりは醜い。

 アメリカの政治のやり取りの醜さは、このところの世界でも群を抜いている感じがするが、日本の政治手法もそれに倣い出している感がする。批判政党は原点に戻って、この国のために、この国民のために、本当に必要なものは何なのか、それをどう考えているかを示して貰いたい。批判は必要だが、批判のための批判は無用だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい出発とキャンピングカーの基礎知識のこと

2021-01-11 00:10:20 | くるま旅くらしの話

私がくるま旅に興味を覚え、旅車としてキャンピングカーに関わり始めてから20年以上が経った。最初の旅車はバンコンタイプ、これに6年ほどお世話になった後、くるま旅に益々取りつかれ、これを我が終生のライフワークにしようと考え、くるま旅に求められる条件をより多く備えたキャブコンタイプに乗り換えた。

それから17年が経ち、愛車SUN号は、24万キロを走ってなお健在である。SUN号での旅を本格化させた当初は、この車がくたばるか、自分がくたばるか、どちらかが先にくたばりに到達するまで旅を続けようと考え、それが今まで続いている。しかし、傘寿を迎えて、今その心境が少し変わりつつある。

 車も自分も未だくたばってはいないけど、この頃は旅のあり方を少し変えようと考えている。100%車に依存する旅から、より車への依存度を少なくし、宿泊施設等を利用する割合を増やした旅のスタイルに戻してゆこうという考えである。これには二つの理由がある。ここ2年、自治会の仕事や新型コロナウイルスの蔓延で、SUN号を殆ど動かしておらず、それにより車の老化がかなり進み、今後の維持には経済的にも負担が大きくなるのではないかという心配と、長年旅をして来て、再訪、再々訪したい場所が絞られて来ており、移動手段としての車は、必要に応じて安眠が確保できるレベルで十分であり、年齢や体力のことを考えても、キャブコンだけを頼りの長期間、長期滞在の旅には問題が多発するのではないか、という懸念である。

 それで只今思案中である。SUN号を手放すということは、替わりの旅車を手に入れなければならないということだ。80歳にもなって、あと何年乗るつもりなのか、新しい旅車に乗り替えるなんて、普通の同年代の人から見れば、狂気の沙汰なのかもしれない。第一、夫の本人がそう望んでも妻の方が反対するに決まっている。と思われるに違いない。

それはそうだろう、加齢に伴ってこの先どんな危険や病などの難関が待ち受けているか判らないのだ。それらへの備えを考えれば、経済的にも暴挙というべきであろう。特段の金持ちでもなく、蓄えがあるわけでもない。今だって年金を頼りに辛うじて家計が成り立っているレベルなのだ。

 それでも、今思い切ってこの企ての実現に踏み切ろうと考えている。それが可能なのは、難関と思われた家内の承諾を得られたからである。これまでの20余年の旅は、全てが家内との二人旅だったので、家内も旅というものがどんなものであり、どれほど人生の力となるかをよく承知してくれているからなのだと思う。ま、とんでもない男と一緒になってしまったことに、今は諦めがついたということなのかもしれない。

将来の不安をあれこれ案じて保財にこだわるよりも、生きて動ける間は、可能な限り人生を楽しみ味わうことの方が遥かに価値がある、というのが我が持論なのだが、家内もそれに賛同してくれているのだと思う。人は死んでしまえば、何もかもそれ終わりなのだ。生きているからこそ楽しみも苦しみも生まれるのであり、老人となった今では、それ故に今を楽しむことが肝要なのである。思案ばかりしていて、何もしないでおれば、それで終わりとなるだけなのだ。

家内は、買い物一つでもなかなか意思決定の定まらぬ人なのだが、このような大ごとの前では、スピーディな決断をしてくれるのは、真にありがたい。さすがわが女房どのだと感謝したい。(決しておだてているわけではない)

 ということで、只今替わりの車をどうするか迷いながら模索・検討中である。SUN号との別れを思うと、なお複雑な心境なのだが、先に進むためには、通り抜けなければならない試練なのだ。残りの健康寿命があとどれくらいなのか定かではないが、車を新しくすることで、投じた費用を回収するだけのパワーが新しく生まれるに違いないし、又そのパワーを自ら生み出さなければならないと思っている。これには自信がある。

 

ここで一休みして、くるま旅のための旅車について、少しばかり理屈を述べておくことを思いついた。というのも、最近はくるま旅を指向する人が増え、又予期せぬ自然災害などに備えてキャンピングカーを買い求める人も多くなっていると聞いているので、自分の20余年のくるま旅で得た知識と経験から、これからくるま旅を指向される方のために、いささかでも参考になればと考え、キャンピングカーという旅車のことについて、基本的な考えを披歴しておきたいと思った。

 キャンピングカー(本当はアメリカ流にモーターホームと呼ぶのが正しいと思うのだが、何故か日本ではこう呼ばれているので、ここではそう呼ぶことにする)には、現在は様々なものが工夫され広まっている。価格も1千万円を超えるものから軽自動車まで、ピンからキリまで様々だ。くるま旅用の車としては、何もキャンピングカーでなくても普通車や他のタイプの車で充分旅は可能だが、ここではレジャーや旅を目的として造られているものを対象と考えることにしたい。

 旅車の基本的な分類については、日本RV協会のホームページをご覧頂ければ詳しく紹介されている。大雑把にいえば、①トラックなどをベースにした少し大型のものをキャブコン、②バンタイプの車をベースにしたものをバンコン、③小型バスをベースにしたものをバスコンそして④居住部分をけん引して使用するものをトラベルトレーラーという。この4種が旅車の主流だと思うけど、普通キャンピングカーと呼ばれているのは自走機能を持った①②③の車を指しているようだ。

どの車を選ぶかは、どんな目的でそれを使用するかによると思うけど、旅用として使う場合は、どのような旅をするのかによって、①②③の選別、或いは車種などが決まって来ると思う。その選択はまさにオーナーとなる人の考え一つで決まることである。

 ということで、自分の好きなタイプのキャンピングカーを選べばいいだけの話なのだが、もし、くるま旅を目的として買われるのであれば、後悔しないために予め考えなければならない条件が二つある。まずは、そのことについて述べておきたい。

 

その二つとは、①走行性と②居住性であろう。車を使った旅の実態は、突き詰めるとそれは遊びではなく、暮らし(=生活)となる。家での暮らしの環境が、車の移動と共に常時環境が変化する、1日1日の暮らしの積み上げとなるのである。つまりくるま旅というものの本質は、暮らしなのである。移動手段としての車の性能と暮らしの場所としての居住空間のあり方が深く関わって来るものなのだ。

 この二つの条件を同時に満たしたキャンピングカーが理想なのだが、現実はそれを完全に満たしたものは少なく、手に入れるための費用も高額となる。それゆえ、先ずは、このどちらを優先させるかを考えておくことが選択の決め手となると思う。

 

先ず走行性だが、これは運転者と同乗者に関わる条件である。その基本は、安全性、快適性などであろう。これはどのような旅をするかによって決まって来ると思われるが、短期・長期のいずれにおいても、運転者と同乗者にとって、ストレスが少ない車を選ぶのが肝要だ。車のスピードやパワーなど性能だけではなく、椅子なども視野に入って来る。

一般的にはトラックベースのキャブコンの場合は、バンコンに比べて居住性については優れているものの、走行性に関してはストレスが多いようだ。図体が大きいので、気象状況によりその影響が大きくなる。パワーの問題だけではなく、風の影響などもあり、運転がしづらいことがある。又車の取り回しにも面倒なことがある。狭い道や混みあった駐車場などでは扱いにくいことがある。大型になればなるほど、特に駐車について苦労することが多くなることを知っておかなければならない。何処にでも自在に車を駐車できると考えるのは安易過ぎると言えよう。

 

次は居住性だが、暮らしの居住空間としては、リビング、ダイニング、寝室、トイレ、もの入れ(荷物室)などが基本となる。この他に居住のインフラとして考えなければならないものに、電気、ガス、給排水、換気、などがある。これらを満たすために、キャブコンは勿論バンコンにおいても、ビルダーさんは様々な工夫を凝らしている。自分がくるま旅を始めた頃に比べると、装備には雲泥の差がある。これらの要素の中で、最も重要なのは何かといえば、自分の場合は、①足を延ばしての安眠が確保される寝床が不可欠ということ。これが一番だと思っている。座席を倒して平にした上で寝るようなタイプもあるけど、短期の旅では良いとしても長期間の旅ではストレスが多くなり、健康上も問題となって来る。しっかり眠れるということが旅の中では最重要と信じて疑わない。優れた睡眠は、疲労回復のための最高の薬なのだ。

寝床以外の箇所については、工夫次第で如何様にもなる。一つ強調したいのに、荷物の収納スペースの確保がある。持参する荷物は最少化することが肝要だが、実際の場面ではこれがなかなか難しい。荷物の積まれていない展示車などを見ただけでは判らないことがあるので要注意だ。

 

次はインフラだが、これはどれも重要で、その中でも最も重要なのは、何と言っても電気(=電源確保)だと思う。世の中のあらゆる装置は電力を源にしていると考えてよい。キャンピングカーにおいてもそれは変わらないと思う。北海道の旅先でブラックアウトを体験したことがあるが、今の世の中、電気が供給されなくなると大変なことになるのを思い知らされた。交通信号を初めコンビニのショーケースはダメになり、道の駅のトイレに行けば水は流れない。給油しようとスタンドに行っても機器が動かない。世の中の何もかもがその機能を発揮できなくなるのである。幸い我がキャンピングカーはソーラーを積みバッテリーもサブを2個追加してあったので、いつもの通りTVを見ることも可能だったのだが、一般家庭では突然の出来事に惑乱したのではないか。旅車の場合も電気の安定供給は不可欠の要件である。サブバッテリーを用意し、ソーラーを取りつけるなどの装備はおろそかにできないと思う。

この問題の解決には電気を作る発電機があればいいではないかと直ぐに気づく筈である。それに応えて、今は多くのキャブコンには発電機が当たり前のように備わっているようだ。それでいいのだと思うけど、ここで気をつけておかなければならないことが一つある。それはキャンピングカーの公共性ということである。というのも、発電機の多くは騒音を発するものが多いので、その使い勝手を考えなければならないということなのだ。公共の駐車場の中で、自分の都合のいい様に騒音をまき散らして発電機を使っていると、争議が起こりかねない心配がある。最近の発電機は消音に工夫し、騒音も少なくなり、ビルダーさんの努力によりこの問題が解決されているのであれば、杞憂に過ぎないのだが、もしそうでないのであれば、充分周辺に配慮して発電機を使わなければならないことを承知しておく必要がある。電気以外のインフラについては、工夫すればかなり対応が可能だと思う。

 旅車は、在宅時の居住空間と同じ機能を持つべきと考える人も多いのだと思うけど、自分はそれは間違っていると考える。何故なら、旅というのは非日常的な暮らしを求めて動くことに意味や価値があるのであって、在宅と同じというのでは面白味は半減するのではないか。例えば、電子レンジなどを取りつけて、簡便な調理に満足している人などが居られるけど、自分から見ると何だか気の毒な感じがする。旅の中に暮らしの創意が取り込まれていない姿を見ていると、ああ、この人はもうすぐくるま旅に飽きてしまい、くるま旅の価値が解らないままに終ってしまうのではないかと、そう思うのである。ま、余計なお世話なのかもしれない。

 以上がキャンピングカーを買う際に基本的に考えておかなければならない事柄の概要である。この他にも気をつけなければならない細かな事柄が幾つもあるけど、ここでは省略したい。

 

さて、ではどのような選択が良いのか、参考までに自分が考える購入についての心得のようなものを幾つか挙げてみたい。

①最も重要なのは、その車を使ってどのような旅をしたいかを明確にしておくこと。初めに車ありではなく、初めに旅ありである。当たり前のことなのだが、これがなかなか難しい。

②いきなり新車を買うのは疑問?

買う前にレンタルのキャンピングカーでなどで実際の旅を経験しておくことが大切。そして、実際の旅を経験する中で、車の要不要箇所をしっかりチエックしておくこと。

もし財力に余裕があるのならば、最初の車は中古車、それもかなり古いものを購入し、実際の旅を体験した後で、2台目は新車にするのが理想的ではないか。

③一般的な知識や技術・技能として、アウトドアの知識や経験が有効であることを強調しておきたい。旅というのは、本来はアウトドアの暮らしなのである。在宅時の恵まれた環境しか知らないのでは、いざという時の暮らしの知恵が湧いてこないのではないか。くるま旅を指向する方は、アウトドアの暮らしのノウハウを少しでも多く身につけておくことが役立つと思う。

以上が新しくくるま旅を指向される場合の、キャンピングカー購入に当って、必要と思われる基本的な知識である。ご参考になれば幸甚である。

 

さて、ところで今自分が乗り替えようとしているのはキャブコンではなく、バンコンタイプの仕事向けの車で、トヨタならハイエース、日産ならキャラバンクラスの車である。キャブコンのSUN号と比べると居住性は大幅にダウンするのは覚悟している。走行性の方はほんの少しアップするかも知れない。旅の仕方を変え、宿泊施設を利用しながら、必要に応じて車中泊を取り入れるというやり方で、これは自分が最初にバンコンで旅を開始した時と同じ方法であり、20年近くが経って、元のスタイルに戻るということになる。この間に20歳も年をとってしまったので、何かと辛い部分も出てくるのだろうと思うが、それはチャレンジしてゆくしかない。それも老を生きるための一つの目的なのだと考えている。人生には常に生きがいと目的・目標が必要であり、それはチャレンジすることで実現につながるものなのだと思う。その姿勢を貫いてゆけば、記憶機能喪失症(=一般的には認知症と呼ばれている)などに入りこまれる心配など無いのだと思っている。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい出発(再発見と味わいの旅を目ざして)

2021-01-05 06:02:15 | くるま旅くらしの話

くるま旅を指向する者にとって2020年は最悪の凶年とも言うべき1年だった。それは今でも尚続いているのだが、このまま為されるままに過ごしていると、残りの時間の少なくなって来ている老人には、まさに取り返しのつかない1年となってしまう。新しい出発が必要なのだ。

自分は予てから人生80年一区切りという考えを持っていて、人生時計を設けて時を計って来たのだが、午前零時から始まった我が人生時計は、昨年の12月を以て、とうとう再び零時に戻ってしまった。80年で終わる筈の命が延びたのだ。しかしもう時計を動かすことはできない。さらに80年を想定しての人生時計などあり得ないのだ。そこでこれからは未来への時を計ることは止めて、ひたすら現在を楽しむことに力を入れることに決めた。

これからの人生は天が与えてくれる余禄なのだ。この余禄を使う時間は限られており、それがどれくらいで何時までなのかは天のみぞ知るだけである。余禄をどう使うかは、まさに自分だけのものである。

さて、どう使うのか。それはもう決まっている。我がライフワークとしているくるま旅を中心に残された時間を使ってゆきたい。それしかない。

このために何が大事なのかを考えてみた。自分は今80歳なのだ。これからのくるま旅にとって大事なのは、要約すれば二つになる。

その一は、健康の保持。80歳以降の老人に待ちうけている健康問題は二つある。それは「病」と「衰」である。これをクリアしなければくるま旅は成り立たない。そのために、ここ20年近く毎日の歩きを中心に体力の保持に心がけて来た。幸い大した病に取りつかれることも無く、健康を維持して来ているが、油断すればどんな病が取付くのか判らない。糖尿病は30年間の付き合いでほぼ共生できるようになった。最近前立腺の癌が取付いたようだが、軽く慎重に付き合ってゆこうと思っている。病との付き合いが破綻した時は、それは余録時間の終わりが来たと思うしかない。もう一つの「衰」の方は、これはもう不可抗力だ。保持してきた体力がいつまで持つかの問題だが、限界が来た時は、諦めるしかない。

さて、健康の保持を前提として、その二は、旅の内容だ。どのような旅を目指すかである。これも、もう決まっている。旅の目的は「この国の来し方を訪ねること」そしてそのテーマは「この国の再発見と旅の味わい」である。そして、後楽のためにこれからの旅も記録を残すことにする。これからは旅の大先達芭蕉翁に倣って、句作を織り込んだ紀行文で思いを表現して見ようと思っている。

今まで北海道を中心に、20年ほどかけて全国を巡って来たのだが、初めの頃は、がむしゃらに見聞することだけを念頭に置いて走り回っていたのだが、一巡りしてからは、次第に考え方が変わって来た。(このことは、2020.1.3掲載の本ブログにも書いてある)今は、その延長線にあるのだが、この頃は何故なのか、自分は縄文人の子孫に違いないと思い込んでいる。遺跡を訪ねたり、本を読んだり、TVの情報などから縄文人の生き方・あり方を知るにつれて、言うに言われぬ共感を覚えるようになり、それ以来縄文からのこの国の来し方(=歴史)に強く関心を持つようになった。齢80になって、ようやくまともな興味・関心に辿り着いたという感慨のようなものがあり、今は、与えられた余禄の残された時間の中で旅の中にそれを少しでもいいから確認してみたいと思っている。勿論これらのプロセスの中で多くの再発見や新たな出会いがあり、それらの力に元気を頂いて、余禄の中身は満たされたものになるのではないかと思っている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする