山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

わらしべの湯

2016-03-30 05:09:34 | 宵宵妄話

 先週に引き続き「わらしべの湯」に入って来た。「わらしべの湯」というのは、自分が勝手に名付けたお湯の名前である。オフィシャルには守谷市にある常総広域地域交流センター「いこいの郷常総」の施設内温浴施設ということになる。役所という所に住む人たちは物事をより客観的に正確に呼ばなければならないという習性があるようで、この施設もそのような正式名称となっているようである。

 常総広域地域交流センターの母体は、ゴミの焼却施設である。守谷市、取手市、常総市、つくばみらい市の4市の共同ごみ処理施設なのだが、設置されている場所が守谷市なので、実態としては交流センターにやってくるのは殆どが守谷市の市民のようだ。わざわざ他の市から交流のために来訪するというような人は、特別な事情が無い限りいないようである。

 ごみ処理施設というのは高温でごみを焼却するために、その余った熱エネルギーを利用してこのような入浴施設などを含めた多目的な福利厚生施設等を設けていることが多い。守谷市にあるこの焼却場にも、常総広域地域交流センターのほかに、運動場や体育館やプールなど市の体育施設などが併設されてようだ。老人なので、そのような施設の恩恵にあずかるようなチャンスは少なく、実際はどのような施設なのかはさっぱり分からない。

 地元の知人から交流センターというのがあり、入浴施設もあり、その他にもフィットネスジム、レストランなども設けられていて、結構充実しているという話をお聞きした。その中で入浴施設は300円の料金で利用できると聞き、出掛けて見ることにしたのだった。

 旅に出ると、入浴が楽しみで、全国各地の温泉施設を中心にお邪魔して様々な風呂を楽しませて頂いている。今の世はどんな場所でも掘れば何とか温泉を探し当てることが可能なようで、火山国日本の優位性のようなものを感じさせられて、それをありがたく享受させて頂いている。温泉エリアに行くと低料金で存分にその恩恵を受けることができるのだが、茨城県のこの守谷というところでは、近くに一カ所だけ天然温泉と名を売っての入浴施設があるのだけど、料金は超高額なのでとても入る気にはなれない。それでどうしても温泉に入りたくなった時は、比較的近くにある栃木県さくら市の喜連川温泉に行くことにしている。しかし、近いと言っても家からは100kmほどあり2時間近くかかってしまうので、毎日気軽に入りに行くというわけには行かない。

 家の風呂も良いけどサウナや露天など、よりくつろげる浴場があれば良いなと思っていたのだった。焼却場の余熱を利用しての施設だというので、これはゴミ風呂だなと思って、話は聞いていても、まじめに行って見ようという気にはなれなかった。しかし、ものは試しなので、とにかく一回は行って見ようということにしたのである。300円で入浴を楽しめるのなら、というコスト意識もどこかで作用したのかもしれない。

 さて、そのゴミ風呂へ行って見ると、どうしてどうしてこれがもう立派な施設なのに驚いた。入浴施設は2階と3階にあって、2階は女性用、3階は男性用となっていた。受付で下駄箱の鍵を渡すと、それと交換に風呂への入口を開く電子チップの埋め込まれた鍵を貰うのである。それを入口の機械にかざすとレバーがオープンになり、廊下を通って風呂場のドアを開けられるという仕組みである。初めての老人には若干の戸惑いを覚える新式なものだった。ロッカーに脱衣を入れて風呂に入ると、中規模の浴槽が一つと小規模の気泡の湯船と薬用の湯船がそれぞれ一つあり、外のベランダの隅にはサウナ室があり、その脇に水風呂と露天風呂とがあって、なかなか充実した設備だった。300円なので、シャンプーや石鹼は持参しなければならないのだろうと持参したのだが、その心配はなくしっかり用意されていた。こんなに立派な施設があるのに、入りに来なければ勿体ないなと思った。洗い場も広くてカランも10数個備わっていた。温度管理もしっかり行われていて、至れり尽くせりの施設だなと思った。それで、今日2回目の入浴に行ったという次第。

 ところで「ごみ風呂」という意識がどこかにあって、これはまずいなと思ったのである。そこで、自分なりに気にいった名前を付けることにしようと考えた。辞書で「ごみ」を引いて見て、何か気に入るような文語は無いかと探してみたが、あるのは「五味」とか「吾味」とかいうものくらいだった。これじゃあ風呂の施設には使えそうもないなと思い、ゴミをひっくり返して「ミゴ」ならばどうだろうと思った。それで調べたら「藁しべ」のことをミゴというのだと書かれていた。藁しべというのは、稲穂をしごいて除いたあとに残る茎・芯のことである。これが良いなと直感した。というのは、昼間の入浴者は殆どが老人で、皆お尻に皺の寄っている人たちである。自分もまたその一人なのだが、これら老人というのは、考えて見れば藁しべのようなものなのではないか。稔った稲穂をしごいて取り去って、若干は取り残したモミもついているというような存在が老人の姿ではないかと思ったのである。そのような老人が昼間の時間をゆったりと過ごす場所としての入浴施設ならば、これはもう「わらしべの湯」は最適の名称ではないかと思った次第。

 しかし、このような名を公言できるものではないので、これからはゴミ焼却場の入浴施設に行く時は、「これから『わらしべの湯』へ行って来るよ」ということにしたのである。一人悦に入りながら今日その第2回目の入浴を終えたのだった。

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泣きぬれる毎日

2016-03-18 05:10:40 | 宵宵妄話

 どうもこの、最近の、春になりかけの3月半ば過ぎの季節というのは苦手で、何ごとも起きていないのに、泣きぬれる時間が多いのに閉口しています。厚かった面の皮にも無数のひびが入り、それが皺となって定着する上を流れる涙なんぞという奴には、老人はただただ閉口するばかりです。

 涙というのは不思議な作用があるようで、悲しみなど無くても、泣きぬれている内に、何故か悲しみに係わるできごとなどをやたらに思い出すようになります。時あたかも東日本大震災発生後5年を迎え、様々な報道の中から無限とも思える絶望感や途方もない悲しみにたたずむ人たちの横顔が、流れ出る涙の向こう側にクローズアップされてくるのです。あれから1827日(43848時間)以上が経ったというのに、復興は遅々として進まず、被災された当事者の方々の悲しみは、花粉などで流す涙とは全く違って、心の深い淵の中から途絶えることなく湧き続けているのかもしれません。

 泣きぬれているのが続くと、やがて気持は怒りに転化するようです。この季節の泣きぬれる遠因は、人間の環境破壊に対する樹木たちの報復活動にあるように思っているのですが、それはすなわち樹木たちの憤怒がもたらしているものなのでしょう。そのことに対しては何の怒りも覚えないのですが、彼らの憤怒の心情に乗って怒りを覚えるのは、大震災の中で地震の災害よりもはるかに深刻な災害をもたらしている原発事故の事後処理に対する怒りです。

 原発事故の事後処理の最大のものは、今後一切の原発を取り止めるという意思決定であり、その代替案を早急に創出してゆくことにあると思うのですが、その方向は完全に閉じられ、無策のまま時が問題を鎮めるのを待っている感がします。歴史の現実とはこのようなものの積み上げなのかと、飽きもせずに勝手に流れてくる涙にうんざりしながら、怒りを反芻しているこの頃です。

 3月のこの季節は、わが身にとっては思考停止の時間となるのです。薬を飲めば一時小康状態にはなるのですが、しばらくすると再び潤んでくる目と怪しげな鼻水に浸蝕されて、思考は錯乱し、寝床にて安静を貪るということになるのです。今しばらくはブログどころではない、厳しい時間が続きそうです

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現状維持は退歩(なでしこジャパンはなぜ負けた)

2016-03-08 04:58:28 | 宵宵妄話

 大いなる期待を以てなでしこジャパンを応援していた。リオオリンピック出場を賭けたアジア予選への、日本人の注目度は大きかった。勝負事は全て何でもやってみなければわからないのだが、過去の実績を見る限りでは、苦戦はあるとしてもまさか世界で4位にランクされ、アジアでは最上位のチームが予選落ちをするような途を辿るとは、多くの人は想像していなかったと思う。

 しかし、結果は周知のとおりである。その抜本的な原因はタイトルに掲げた「現状維持は退歩」にあるように思う。過去のなでしこジャパンは、試合を見るごとにチームが成長してゆくのを実感できた。何時も同じメンバーが同じようなことをして得点するのではなく、メンバー個々人の動きの中から予想を越えた点の取り方が随時・随所で起こっていたように思う。それを見る度に感動した。恐らく選手各人たちも同じように感動を味わったのではないか。それはとりもなおさず彼女たちが自分たちの成長を確認した瞬間の喜びだったのだと思う。

 しかし、今回のチームは、その戦いぶりを見ていると、どうやらその成長が止まってしまったようである。止まってしまったというよりも終わってしまったという感じが強い。選手個々人は過去以上に厳しい修練を積んで来ていて、技術も体力も向上しているに違いないのに、なぜこのような結果となっているのか。

メンバーの顔触れが殆ど変わらないので、加齢による体力ダウンなどという問題が懸念されとしたら、それは見当違いの指摘であろう。僅か4~5年ほどの時間経過で、チームという集団が老化するなどということは起こる筈がない。それなのに結果を出せないというのは、チームのマネージをする監督を含めて、選手全体が構成するチームとしての成長が止まってしまったからに違いない。そのように思えてならない。

チームという組織で結果を競う競技は、すべてその基本となるのは組織を構成するメンバーの力(体力・技術力・思考力・精神力など)だが、結果を出すにはそれらの力を「一つに合致させる」ことが必要である。しかし、これは超困難なテーマである。この「合致」には様々な要素が複雑に絡むからである。それを実現させるのがチーム力であり、その力の大きさがチームを成長させて行くのだと思う。つまり、チームの成長とチーム力は一体のものであるといえる。今までのなでしこジャパンは、長い時間をかけながらそれを実現させることができたのだと思う。

しかし、チーム力の維持には限界がある。チームを構成するメンバーの力は常に変化し、それに伴って「合致」の在り方が変化してゆくからである。今のなでしこジャパンは、どうやらその時を迎えてしまったようだ。選手個々人のパワーは向上しているとしても、それらを合致させるものが不揃いなのであろう。どんな名監督でもこれをマネージすることは困難なのかもしれない。

「現状維持は退歩」という捉え方がある。「現状維持」というのは、成功や安定という発想の枠組みを変えないことを言うのだと思う。つまりは過去の成功体験を良しとして、それをもたらした発想を捨てきれないということである。これは人間という生き物の根源的な生き方に係わる習いのようだ。あらゆる歴史は、この繰り返しによってつくられているような気がする。そして、大げさにいえば、人間の喜怒哀楽は、すべてそこから発生しているような気がするのである。

これを打破するのは、危険の有無に係わりない、新しい発想とその実現しかない。すなわち「破壊と創造」しかない。国家という社会も企業という組織も、チームというゲーム組織も家庭という小さな組織も、現状維持が限界に達した時は、破壊と創造という新しい発想を実現させるしかない。これが組織生命体の宿命である。自分はそう思っている。

もはや今までのなでしこジャパンは、解体の運命にある。しかし、この何年間での輝かしい功績・成果は永遠に賞賛されるに違いない。それで良しとしなければならない。このことは、既になでしこジャパンに係わった全ての人たちが、様々な形で理解しているのではないか。応援してきた側も理解しなければならないと思う。そして、新しいなでしこが育つことを祈念、期待したいと思う。

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真老からの手習い開始

2016-03-01 00:08:37 | 宵宵妄話

 一つ、古くて新しいことにチャレンジすることにしました。真老を自覚してから、何か打ち込めるようなものを、もう一つ二つやらなければならないなと探していたのですが、あれこれ迷った末に「書」の世界を覗いて見ることにしました。今でも、ものを書くことについては、大切な取り組みの一つなのですが、文章を書きながら時々思っていたのは、書くに際して使っている文字について、「書」という観点からじっくり深入りしてみたいということでした。

 「書」については、子どもの頃から関心がありました。中学の頃はかなりの悪筆で、我ながらこの字は何となしなければならないと思っていました。それで、高校入学時に選択科目であった芸術の三教科(絵画・音楽・書道)の中から書道を選択して申請したのですが、願いは叶わず音楽の方に回されてしまいました。それならばと一念発起して、我流で書の勉強を始めたのですが、他にやることも多くて長続きはせず、時々思い出したように筆を握るという按配でした。それでも書字がどんなものなのかを多少は理解することができ、悪筆も少しは改まるようになりました。

 その後一時ペン習字にチャレンジしたことがあり、この時は競書の会にも参加し、それなりに上部にまで届いたのですが、その後仕事の方が忙しくなって来て疎かになり出し、気づいた時はもはや定年近くとなっていました。そのようなわけで、ずっと宙ぶらりんの形で字を扱って来ていたのです。

 今回はそれらの経験とも言えない中途半端を清算して、新しい気持ちで書字に取り組もうと決めた次第です。硯や墨、それに筆などの用具は、以前からのものが備えてありますので、新しいものは不要です。必要なものとしては、お手本と書字の基本のガイド書ですが、これらも幾つか保持してあり、要するに本当に必要なのは、継続するやる気と行動なのだと、改めてそう気づいた次第です。

 何から始めるかですが、ただやみくもに書けばいいというわけでもありませんので、まずは永字八法から取り組もうと考えています。永字八法というのは、「永」という字には書の基本である八つの要素が備わっているというもので、まずはその要素をもう一度しっかり身につけることから始めようと思います。当分の間「永」という字を書き続けることになると思います。

 参考までに永字八法の八要素というのに触れたいと思います。これは、永の字の筆順で言うと、

最初の点の箇所を「側」と言います。次の左からの横の線を「勒(ろく)」と言い、そこから下におろす線を「弩(ど)」と言います。この線の下部で左上に跳ねる線を「趯(やく)」と言います。次に左から右に滑る横線を「策(さく)」と言い、上から左方斜め下におろす線を「掠(りゃく)」と言います。次は右側に移り、右から左に斜めに引く線を「啄(たく)」と言います。そして最後の左から右下斜めに降ろす線を「磔(ちゃく)」といいます。これで八つの要素となるわけですが、それらは、書の世界では次のように呼ばれているようです。

① 「側」(側は点)

② 「勒」(勒は横)

③ 「弩」(弩は竪)

④ 「趯」(趯は鈎)

⑤ 「策」(策は挑)

⑥ 「掠」(掠は撇(へつ))

⑦ 「啄」(啄は払(ふつ))

⑧ 「磔」(磔は捺(なつ))

この八つの要素には、それぞれに「点画法」と呼ばれる幾つかの変化があって、それらを合計すると35の書法が決められています。つまりは、この35の書き方を覚えれば、どのような難しい字であっても筋の通った書字を書くことができるわけです。

 ま、このような理屈は覚えるだけでは役に立ちませんので、まずはこの35通りの点や線の変化を身体で覚え込むことが必要なのです。面倒といえば面倒ですが、70年以上それとなく温めて来ているものなので、これから死ぬまでの間の楽しみとして、毎日筆を持つことにしたいと思います。

 言い触らしておけば、あとに引くことができなくなりますので、敢えてここで、どうでも良さそうなことをオープンにしておくことにしました。

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