山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

日本三大虚空蔵尊に詣でる

2017-06-26 02:53:33 | 旅のエッセー

小学校の4年生の頃だったか、父に連れられて村松の虚空蔵さんへ十三詣りに行ったのを覚えている。その頃は滅多に乗れなかった汽車(田舎の列車は皆SLだった)に乗れるのが嬉しくて、前夜は興奮して良く眠れなかったのを思い出す。十三詣りがどのようなものかも知らず、父から何か説明があったのかも知れないのだけど、それはさっぱり頭には入らず、とにかく汽車に乗れるのが嬉しくて、当日は上の空でお詣りに行ったのだが、肝心の村松の虚空蔵尊のことは何も覚えていない。

十三詣りというのは、子どもが誕生してから十二支を一巡りして十三歳となった時、ここまで無事に育ったお礼に、知恵と慈悲の仏様である虚空蔵尊(=虚空蔵菩薩)が祀られているお寺にお詣りするという習わしであり、自分の住んでいた茨城県北部では、東海村にある村松の虚空蔵さんにお詣りするのが普通となっていた。水郡線から水戸で常磐線に乗り換えての父と一緒の道行きは、子どもにとっては学校の遠足以上に興奮する小さくて大きな旅だったのである。

そのようなことから虚空蔵尊という名前だけは知っていたのだけど、この仏さまの智慧のことも慈悲のことも知らずに育っており、そのお力が我が身にどれほど肖(あやか)り得たのか。それは今でも如何わしい状態である。それもそのはずで、お参りに行った以降は虚空蔵尊のことなどすっかり忘れ果てており、この歳になってようやく寺巡りの中で、少しずつ認知できるようになったというレベルなのだ。

今年の東北の春を訪ねる旅の中で、日本三大虚空蔵尊と呼ばれている、虚空蔵尊を祀るお寺の内の2箇所に参詣し、村松の虚空蔵尊と合わせてそれらすべてに参詣するのを得たという次第。尤も、この三大虚空蔵尊とか或いは三体虚空蔵尊とか言われているお寺にはいろいろな見方があるようで、もしかしたら自分が参詣した宮城県登米市の柳津虚空蔵尊は、違っていたのかもしれない。でも、もう一つの千葉県鴨川市の清澄寺にも参詣しているから、一応は大丈夫だと思っている。

因みに虚空蔵尊については、次のような取り上げられ方をしているようだ。

<日本三大虚空蔵尊>

・村松山虚空蔵堂 ~ 茨城県東海村

・福満虚空蔵菩薩圓蔵寺 ~ 福島県柳津町

・柳津虚空蔵尊 ~ 宮城県登米市

・日蓮宗大本山清澄寺 ~ 千葉県鴨川市

 <日本三体虚空蔵尊>

・村松山虚空蔵堂(大満虚空蔵尊) ~ 茨城県東海村

・福満虚空蔵菩薩圓蔵寺(福一虚空蔵尊) ~ 福島県柳津町

・朝熊山金剛證寺(徳一虚空蔵尊) ~ 三重県伊勢市

三大と三体とは区分のベースが異なっているようであり、この中で双方に共通して含まれるのは、村松山虚空蔵堂と福満虚空蔵尊圓蔵寺の二カ所だけであり、三大の方は4箇所となっているようだ。これらの中で未だ参詣していないのは、三体の中の伊勢の朝熊山金剛證寺だけである。こうなったら、これは近いうちにどうしても参詣して、漏れないようにしたいと思っている。

 

今度の旅では、偶々福島県喜多方市の道の駅に泊っていた時に、市内観光をする予定が、雨降りだったので面倒になり、近くに他にどこかいい探訪先は無いかと探していたところ、柳津町に日本三大虚空蔵尊の一つの福満虚空蔵菩薩圓蔵寺というのがあるのを知った。しかもピンポイント天気予報を見たら、なんと柳津町だけに晴れマークの時間帯があると出ていたのだ。その時三大虚空蔵尊というのに、東北ではもう一つ宮城県登米市に柳津虚空蔵尊というのがあることを知り、ならば今回の旅でそこへも参詣すれば、三大虚空蔵尊の全部をお詣りしたことになるのだと妙な挑戦心を起こしたのである。

この日はとにかく柳津町の虚空蔵尊に参詣することにして、雨の中を向かった。20分ほどで到着したのだが、不思議なことに、降っていた雨は途中で止み、何と青空が覗く天気となってきたのである。これは虚空蔵尊のご威光の現われなのかなと思うほどだった。福満虚空蔵尊圓蔵寺は、只見川の急流が抉り削いだと思われる巨大な岩石の上に建てられており、海の傍の村松虚空蔵尊とは違った、大自然の厳しさを思わせる場所にあった。道脇の駐車場に車を止めて、急な石段を上がると、威厳を備えた立派な本堂がそこにあった。境内には未だ少し残雪があり、この地の冬の厳しさを思わせた。本堂の中に入り、参詣を済ませたのだが、肝心の虚空蔵尊のお姿は暗くて確認はできなかった。よく分からないけど、もしかしたらここも秘仏となっているのかと思った。元々仏像にはあまり関心がなく、自分の信仰の対象は虚空蔵尊という仏様であり、それは自分の勝手なイメージだけでいいのだと思っている。これは信心という姿からはほど遠いものだと、そう思って納得している。

会津柳津の福満虚空蔵尊本堂の景観。左手には下方に只見川が流れていて、このお寺は岩盤の上に建っている。右手にも幾つかの堂宇が並んでいる。

そのあと境内を歩きながら、さて、村松の虚空蔵さんはどうだったかなと、改めて訪ねる必要があるなと思った。10年ほど前にちょっと立ち寄っただけであり、その後は忘れ果てているのである。もしかしたら、この身に僅かに縋りついていてくれている智慧と思しきものも、あの十三詣りの際に虚空蔵尊が授けて下さったものなのかも知れないのだ。ま、身勝手な感謝心なのだけれど、そんな気持ちになった。

この会津の柳津の福満虚空蔵尊圓蔵寺を訪ねてから5日後、今度は登米市にある柳津虚空蔵尊を訪ねることとなった。こちらの柳津も同じ字を書くので紛らわしいのだが、同じ地名なのである。全国には柳津という地名が幾つかある。こうなるとどうして柳津なのかというのが気になる。それで分かったのは、どうやら柳の木と川というのが絡んでいるらしい。津というのは港であり船着き場という意味だから、柳津というのは、川端に柳の木などがあった船着き場もしくは川港ということなのであろう。確かに会津の柳津も只見川が傍を流れていたし、この登米の柳津も傍を北上川が流れている。偶々その柳津に同じような虚空蔵尊を祀るお寺があったということなのであろう。

登米の柳津虚空蔵尊は、会津のそれとは違って、ややインパクトが少ない感じのお寺だった。杉やケヤキそれに銀杏などの大樹に囲まれた森の中に、小振りのお堂が一つ鎮座していた。その本堂は屋根が六角形か八角形状に造られているのが特徴的だった。お寺の入口に縁起が書かれていたのを読むと、ここの本尊の仏像は行基上人の作であり、その後弘法大師が立ち寄って、本尊の脇に大黒天と毘沙門天の2像を刻んで備えたとか。会津と村松山の虚空蔵尊像は、いずれも弘法大師の作というから、このお寺の方が古いのかなと思った。行基上人は、弘法大師よりも100年と少し早い生まれである。しまし、まあ、本当はどうなのかわからない。境内の一番古い樹でも、樹齢が400年ほどというから、歴史の真実を証するものは何もない。本尊は秘仏ということだから、見ることはできないし、弘法大師作の2像も普通では見ることが出来ないのだから、やはり、仏像など構わない方が正解のような気がするのである。なお、ここの説明書きでは、三大ではなく「日本三所の一」と書かれていた。

仏像のことなど忘れて、境内にあった水を汲ませて頂いた。この水の方が、今日の自分にとっては虚空蔵尊の恵みのように思った。いい加減なようだけど、仏様というのは、常にどこにでもいらっしゃって、人間の喜怒哀楽の出来事をまんべんなく見ておられて、必要な時にそっと手を差し伸べて下さる、そのような存在なのだと思う。拝んでも拝まなくても、信じていてもいなくても、そのようなことは一切問題にしない、それが仏様という存在なのだと自分は思っている。

登米柳津虚空蔵尊の景観。4月下旬だったが、境内にはまだ桜が咲き残っていた。ここは樹木に囲まれた環境にある。

二つの虚空蔵尊を訪ねた後は、やはり地元の村松山虚空蔵尊のことが気になり、旅から戻って1カ月ほど後に参詣してきた。久しぶりの虚空蔵尊は、以前と変わらぬ威厳ある佇まいだったが、途中の道にはひたち海浜公園などが造られていて、すっかり周辺の景色が変わっているのに驚かされた。人間のやることは移り気が多い。それが時代のニーズだとしても、果たして虚空蔵尊の教えてくれる智慧や慈悲に叶っているのだろうか。ふとそのようなことを想いながら、つい先日油断事故のあった原研のある東海村を後にしたのだった。

東海村にある村松山虚空蔵堂の景観。ここは右手300mほど歩くと海があり、その昔は白砂青松の自然の中にあった。境内にはこの裏手に三重塔も建てられている。

 

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出羽の国 最上川

2017-06-21 02:46:59 | 旅のエッセー

最上川は、山形県を流れる東北有数の大河である。大河などというと、世界諸外国のそれと比べて、日本には大河などないと声を挙げる向きもあると思うが、それは河川の絶対的な側面だけを見ているからであって、仮に100kmに足りない川であっても、この国では大河と呼んでも差し支えない川が幾つもある。それは、そこに住む人々の暮らしの、川との密着度によって決まるからである。

最上川は出羽の国(≒山形県)一国だけを流れる川であり、今の世では一県一川ということになる。全長229km、全国第7位の長さであり、流域面積は9位となるけど、そのすべてが山形県ということになるだから、このような川は珍しいと言っていいのだと思う。

 山形県の中を何度も通りながら、最上川に架かる数多くの橋を何度も通っているのに、今までこの川について考えて見なかったのは真に迂闊だった。そう気づいたのは今年(2017)の東北の春を訪ねる旅で、置賜の桜を見ようと長井市に立ち寄ったのがきっかけだった。

 丁度その時、長井市に新しく開設した道の駅のオープニングセレモニーがあり、偶々通りがかりに面白半分に立ち寄って、その人だかりを覗いていたのだが、その道の駅の名称が「川のみなと長井」というので、一寸興味を抱いたのだった。川のみなととは何なのだろうと思ったのである。港といえば海だけのもので、日本には川の港などというものは無いのではないかと思っていたからである。

でも、よく考えて見れば、港というのは人や物を運ぶ舟が出入りする場所なのだから、河岸といわずに港と呼んでも良い場所もあって不思議ではない、そう思ったのだった。しかし、なぜこの長井という場所が港なのか?というのは見当もつかない。傍を最上川が流れてはいるのだけど、港らしい場所など全く見当たらず、理由が解らなかったのである。

 しかし、オープニングセレモニーの会場の中に、何故川の港なのかの由来が書かれた表示板を見て、なるほどと納得がいった。それによると、江戸時代のこの地は米沢藩の治める所であり、長井は最上川の舟運を利用した藩の交易のための一大基地だったということである。往時の輸送手段の最大のものは船便であり、米沢藩においては、藩内で生産された諸物資を長井まで陸送し、そこからは最上川の舟運で日本海の最大の交易港ともいえる酒田まで運んで、全国各地との交易をおこなっていたということなのだ。従って長井という所は、舟運によって栄えた米沢藩の一大交易港都市だったわけである。

 このような歴史のことは、地元の人たちにとっては真に当たり前のことなのだと思うけど、いつも通過するだけの者にとっては、全く気づかない無知の世界だった。セレモニーが終わった後、街の中や最上川の河畔などを歩いて見たのだが、往時の繁栄の証と思われる建物が街中に幾つか見られたものの、港の名残のようなものはどこにも見当たらなかった。今更ながらに、舟運が消え、鉄道さえも活力を失いつつある今の時代では、昔の面影を残すことが難しいことを思い知らされた感じがした。

その昔の面影などどこ吹く風のごとくに、長井市の中心部脇を悠然と流れる最上川。この時期は雪解けの水を集めて水量は豊だ。

 このことがあってから、最上川に対する関心が高まったように思う。こあと、最上川の少し下流にある朝日町の道の駅に泊った翌朝、2時間ほど早朝に最上川に沿った国道や県道を歩いたのだが、雪解けの水で量を増した川は、幾重にも曲がって流れており、一所とてまっすぐに流れている箇所は見当たらなかった。このような川を本当に酒田まで舟を操ることが出来たのかと思うほど流れは急で、危険個所ばかりが続いているように思えてならなかった。往時の船頭さんや船乗りの人たちは本当に命がけで舟を操っていたのだと思った。

長井市の少し下流にある朝日町辺りを流れる最上川。遠望できるのは、昭和12年に造られた旧明鏡橋。今は土木遺産となっている。

 最上川舟唄というのがある。難し過ぎて自分には到底歌えない唄なのだが、聴くことはできる。その歌詞に耳を傾けて見る。

 

酒田さ行ぐさげ 達者(まめ)でろちゃ

流行(はやり)風邪など ひかねよに

股大根(まっかんだいご)の塩汁煮(しゅっしるに) 塩(しんにょ)しょぱくて くらわにゃえちゃ

碁点(ごてん) 隼(はやぶさ) ヤレ 三ヶの瀬(みがのせ)も

達者(まめ)でくだったと頼むぞえ

あの女(へな) 居んねげりゃ小鵜飼乗り(こうがいぬり)もすねがったちゃ

山背風(やませかぜ)だよ あきらめしゃんせ

おれを恨むな風うらめ

あの女(へな)ためだ 何んぼとっても足らんこたんだ  

            (正調 最上川舟唄 ※掛け声は省略)

 

これらのことばを話しているのをまともに耳にしたら、土地の人でない限り、恐らく殆ど意味不明としか受け取れないと思う。でも、こうして書いて見ると、しみじみと土地の船乗りの男の心情が伝わってくる。愛する女性を想いながら、彼女のために命がけで舟に乗って荷を運んでいる、その厳しさ、哀しさが伝わってくるのである。

 唄の中にも入っている難所の、碁点、三ヶの瀬、隼の瀬などの近くを何度も通っており、特に三ヶの瀬辺りは、どうしてこれほど曲がるの?と言いたくなるほど「つ」の字状の流れであり、こんな危険な場所を一体どうやって舟を操るのかと思うほどである。

 この最上川舟唄は、大江町の左沢(あてらざわ)が発祥の地だとか。この左沢は何度も訪れている。最上川の川筋で繁栄したのはこの左沢だけだと思っていたのだが、ターミナルとしての長井があったというのを知って、又新たな気分で左沢を見て見ようと思った。

左沢は現在国の重要文化的景観に指定された場所であり、この地にある楯山公園(元古城のあった場所)に上ると、最上川の舟運で栄えた左沢の町の様子が俯瞰できる。この場所も最上川が大きく湾曲しており、それを巧みに利用して、舟運を以て発展した町の様子を見下ろすことが出来るのである。舟唄から、何度も訪れている左沢の景観を思い出した。

大江町の楯山公園から見た左沢地区。川の両岸の河岸を中心に、最上川の中間の港として栄えた所である。今は国の重要文化的景観に指定されている。

 最上川には、現在は舟運なるものは消え去って、僅かに観光用としての舟が運行されているようだ。何年か前に、最上峡近くの道の駅で休んだ時は、近くに舟乗り場があって、観光客が舟に乗りこむのを、少し驚きを持って見たのを思い出す。舟に乗れば恐らくあの舟唄が流れるのであろうけど、それを聴きながら、舟乗りたちの命がけの思いを思い浮かべることが出来る人がいるのか、どうか。唄は残っても、歴史の持つ厳しさや哀しさが次第に色褪せて行くのは、これはもう運命としか言えないのかもしれない。

 今回の旅で初めて最上川が出羽の国に住む人たちにとって大河であるということを、そしてその意味なるものを知ったような気がした。この川は出羽の国を形成する大動脈であったのだ。この地に住む人たちの暮らしを自在に操って、時に厳しく時に温かく、そして少しずつ豊かにしてきたのである。大自然のその力を、改めて畏敬の念を以て感じたのだった。

 

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置賜の二大老桜樹に想う

2017-06-16 03:56:47 | 旅のエッセー

 山形県南西部に位置する置賜地方の中で、長井市と白鷹町にまたがって「置賜さくら回廊」と呼ばれる、桜の老名木が点在する場所があります。置賜地方は、1万年以上も前から人が住んでいた遺跡の点在する、気候風土に恵まれた土地だった、というのを高畠町の「まほろばの里歴史公園」の中にある「うきたま風土記の丘考古資料館」を見学して知りました。この辺りは、東西にかなりの高さの山が連なり、そのほぼ中央を最上川が流れていて、それに沿って人々の住む町や村が広がっています。太古の地形は、現在とは大きく異なるものだったのでしょうが、それがどのようなものなのかは、見当もつきません。しかし、さくら回廊の桜の古老たちが生まれたのは、1200年ほど前ということですから、その頃は未だ原生林や原野が多かったとしても、全体の地形は現在とそれほど変わってはいなかったように思います。

 その置賜地方にある「さくら回廊」を訪ねるのが、東北の春を訪ねる旅の中での一つの楽しみとなっています。全国に桜の名所は数多くありますが、限られた地域の中に幾つもの一本桜の老名木がある場所は、それほど多くは無いように思います。老樹が多くあるというのは、古来より桜の木が生育するのに適した場所だったという証でもあり、そこは同時に、人間が暮らしの場を持ち続け得た、桜との共存共生の場でもあったということにもなるのではないか。そのように思えてなりません。

 思うに、桜というのは、古来より人々がその花をこよなく愛でた樹木であり、それは自然界の原野にあるそのままの姿を観るだけではなく、人々が暮らしの営みの傍に持ち来たりて植え、代々の時間を共有しながら今日までやって来た、特別な樹木であるような気がするのです。名木と呼ばれているような桜の樹には、単に花の美しさや樹の逞しさだけではない、もう一つの人間の歴史との関係が存在し、観桜の際にはそのことに思いを馳せることが大切なのではないか。そう思えてならないのです。

 さて、理屈はともかくとして、その置賜地方の桜の名木を代表する二本の老樹についての私の所感を述べたいと思います。その二本とは、長井市上井佐沢の久保桜、それから同じ長井市草岡の大明神桜です。今年は久しぶりにこの桜たちを訪ねました。つい2~3年前に訪ねたつもりでいたのですが、記録を見るとなんと前回の訪問から10年が経過していたのでした。桜たちにとっての10年は、人間のそれと比べれば瞬き一つの時間に過ぎないほどだと思うのですが、それでも今回は感ずること大でした。

 最初に訪ねたのは、久保桜でした。久保桜は、長井市の東を流れる最上川の更に東に位置した小さな盆地の上伊佐沢地区にあり、直ぐ傍に伊佐沢小学校があって、そのグランドの片隅に連なる小さな崖の上に、その痛々しげな老体を見せていました。

 

 今年(2017年)の久保桜の様子。大きな包帯を巻いたように巨樹の根元は厚く保護されているのだが、咲かせている花はほんのわずかで、痛々しい感じはぬぐえない。

樹齢1200年といいますから、日本の歴史では奈良から京都へ都が遷される頃に誕生したことになるのでしょう。桜の樹もこれくらい古いものになると、幾つもの口伝があるようで、この桜については、征夷大将軍の草分け的存在である、坂上田村麻呂に係わる言い伝えが残っているとのことです。

それによると延暦11年(792)、坂上田村麻呂が蝦夷征討軍に従事し、この地に来た時に土地の豪族久保氏の娘のお玉がその面倒をみたとのこと。将軍が去った後もお玉は追慕の恋情に耐えられず、翌年に病没してしまった。これを知った将軍が一株の桜をお玉の墓に手植えして、墓標とした、という話です。この他にも様々な口伝があるということですが、真実がどうなのかなどは追求する必要もなく、ただ、今の世に残って花を咲かせ、その生を止めている姿を見て、古に思いを馳せることが大切なのだと思います。

征夷大将軍というのは、今の時代から見ると随分と東北地方に住む人々を見下げた言い方であり、それが江戸時代まで権力者の象徴として用いられていたというのは、良く考えれば変な話だなとも思うのですが、中央に坐する権力者から見ると、往時の東北に住む人たちは、言うことを聞かない厄介な存在だったということなのでしょう。歴史というのは、最大の権力を握った民族や者たちによって正当化されるのが普通ですから、日本国においては、大和民族であり、その当時の天皇(=桓武)の下の中央政府がそれに該当するのだと思います。征夷大将軍となった坂上田村麻呂という人物は、相当の知略に富んだ豪傑というイメージがあり、なかなか従わなかった蝦夷の人たちを、初めて従わせるに至ったということなのだと思います。その征伐として語られる一方的な話の中には、様々なプロセスと出来事があり、東北地方を旅すると、至る所に坂上田村麻呂に係わる伝説が残っているのを実感します。このお玉の話も、勿論真実は解りませんが、お玉の豪族の側から見た時には、本当に美談の如きものになるのかどうか? 自分の歴史解釈の中では違う要素も含まれている感じがするのです。真実を知っているのは、この桜の樹だけということなのでしょう。

今回見たその桜の樹は、10年前とは愕然とするほど衰えた姿をしていました。この桜の樹はかつて四反桜(4反=4a=1200坪)といわれるほど、樹葉と花の溢れる大木だったとのことですが、幕末の頃に根元の空洞部分で浮浪者が煮炊きをしようとして火事を起こし、そのため樹形が一変するほどの酷い事件があったとのこと。その後の人々の手厚い看護の下に今日まで花を咲かせ続けることができたということなのですが、今回見たその姿は、10年前と比べて、がく然とするほどに、急激に樹勢の衰えを感じさせるものでした。10年前は元の洞の部分から二つに分かれていた幹の双方から伸びた枝に花を咲かせていたのに、今回は片方の幹は完全に枯死してしまっていて、もう一方も辛うじて僅かな花を懸命に咲かせているという姿でした。

花は相変わらず艶やかさを保ってはいるものの、全体から聞こえてくるのは悲鳴のようなものでした。人々の手厚いターミナルケアの下にここまで存(ながら)えて来た生命(いのち)も、旦夕に迫っている感じがしたのです。それは花を愛でるという気持を通り越して、何か悲しみのようなものが膨らむのを抑えることができませんでした。生命あるものはいつか必ずその終わりがやってくるという。その1200年の生命が間もなく終わってしまうのではないか。そう思ったのでした。そして、それはどのような手立てや祈りを捧げても、もはや何ものにも止めることができない、厳粛な時間なのだと思ったのです。斯くなる上は、静かにその最後を看取るしかないのだと、観桜の気分とは全く違った、今回の久保桜との出会いでした。

   

 十年前(2007年)に撮った同じ久保桜の景観。このときは左方の幹にもまだ力があり、4反桜のイメージを彷彿とさせる圧倒感があった。

もう一つの、いわば1200年の時間を共にした、同期の桜とも言える草岡の大明神桜の方は、どうなのかと心配を抱えながらの訪問でした。実はこの桜が花を豊かに咲かせているのを未だ見たことがないのです。桜の花は季節の遷り変りに敏感で、気候の微妙な変化に反応するものですから、その年によって花を咲かせるタイミングが違うのです。大明神桜は久保桜とは最上川を挟んで反対の西側にあり、どうやらこちらの方が少し開花期が遅れるようです。今年はどうなのかと期待しながら行ったのですが、やはり少し早かったようで、あと1週間後くらいが観桜の時期になるとの地元の方の話でした。久保桜の方は、力を振り絞って咲かせている花は4分咲きほどでしたが、こちらは蕾は膨らんでいるものの、咲いている花は皆無でした。同じ長井市にあるのに、今回も花を見ることが叶いませんでした。10年前は丁度いいタイミングだったのですが、その年には花芽が膨らみだした頃に、鷽(うそ)という鳥が大挙飛来して、その花芽の殆どを食べてしまったということでした。僅かに咲いている花たちを見ながら、その鳥たちを恨んだのを思い出します。

大明神桜も坂上田村麻呂との係わりがあり、これは田村麻呂が蝦夷を平定した際に記念植樹をした5本の桜の内の1本だと伝えられているそうです。他の4本の桜がどこに植えられたのかというのは判りませんが、それは考えないことにします。この桜にまつわる話で面白いのは、戦国時代末期の東北の英雄である伊達正宗に関する話で、彼がまだ若かりし頃、初めての戦に敗れた時、この桜の蔭に身を隠して生き延びたという伝説があり、「桜子の 散り来る方を頼み草 岡にて又も花を咲かせん」と詠んだとのことです。(ウィキぺディアより)その後、大成し身を立てた後にもこの桜を手厚く保護したという話です。

現在この桜は民家の裏庭の一角に在り、個人の所有となっているようですが、なにせ花の時期となると、一目見ようと自分たちのような者が大勢が押し掛けてくるのですから、実質は町の共有物となっているのでしょう。どのような経過を辿って現在のような所有形態となったのかも興味あることですが、それも又本当のことを知っているのはこの桜の樹だけということになるわけです。もしこの桜の樹が人間と同じことばで語ってくれるとしたら、伊達正宗のこと、そのずっと昔の坂上田村麻呂のことなど、一体どのような話が聞けるのか。そのようなこと思うと妄想は尽きることがありません。

この桜がいつから大明神と祀られるようになったのか判りませんが、久保桜と比べると、人気は今一の感じがしますので、少し遅れてそう呼ばれるようになったのかも知れません。大明神桜は、久保桜と比べての容姿はぐっとスマートでダンディな感じがします。久保桜はどちらかといえば樹幹が太くてがっちりしたタイプですが、それに比べると樹高が高くてすらっとした感じがします。長生きしている多くの樹木は、久保桜タイプが殆どのように思いますが、風雪や雷などの被害のことを考えますと、大明神桜の存在は、格別のような気がしてなりません。

今年お目にかかった大明神桜の姿は、10年前のそれと比べて、殆ど変っていないことに大いなる安堵感を感じました。その時ふと思ったのですが、これから10年も経たないうちに、久保桜の時代は終わり、大明神桜の時代がやってくるのではないか、と。置賜さくら回廊のなかで、名を為していた釜の越し桜は既に完全に枯死しており、久保桜のあの姿を見た後には、1200年を生き抜いて来ている誇りを示せるのは、この大明神桜しかないのですから。この桜には久保桜の分まで歴史の無言の語り部として生命を永らえて行って欲しいと願っています。

(2017年東北春旅から))

  

 今年(2017年)の大明神桜。まだ開花前なので、花の豊さが分からない。少し離れて撮っているので、小さく見えるけど、根元近くの幹は10mを超える巨大さである。この樹は20m近い樹高があるので、すらりとして見える。

 

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浄土幻想(白水阿弥陀堂に想う)

2017-06-11 03:38:39 | 旅のエッセー

今年の東北の春を訪ねる旅の最初の向かい先は、福島県いわき市にある白水阿弥陀堂だった。何故ここだったのかと言えば、一つには我が家から最も近い場所にある浄土を表わそうとした寺院だからである。真老世代(75歳~85歳)ともなると、時々あの世のことも考えるようになるのである。今の世の科学万能の時代では、あの世などある筈がない、と一方的に無視する嫌いがあるのだけど、何千年もかけて人々が描いて来た死後の世界は、科学などでは辿りつけない不思議の彼方にあるのではないか。この頃そう思う気持が強くなって来ている。

平安時代の末期の頃から、人々の間で浄土思想というものが強くなりだした。仏教の世界においては、或いはそれ以外の宗教においても、この世の終わりが来るという恐怖に取りつかれた末世の思想が浮き沈みするのだが、浄土思想の蔓延はそれを裏付ける一つの歴史の証なのかもしれない。この世の終わりというのは、世の中が余りにも汚れてしまっているというのが、一つの大きな要因ということなのかもしれない。平安時代というのは、その名の持つイメージとは異なって、時間が経過するにつれてその汚れや濁りが酷くなりだした時代なのかもしれない。

そのような世の中であったからこそ、人々はこの世では望めない極楽浄土という安寧の世界を求めたのであろう。そして、それを現実の世界に描き出現させようと考えて創り出したのが、浄土庭園といわれる形式の園池を有する寺院だったのだと思う。

人々(と言っても権力や財力を備えた人物に限られるわけだが)は、汚濁した現世の苦悩から逃れるために、或いは汚濁した現世の中に没した人を慰めるために、永遠の安寧が保障される世界を描き、それをこの世に創り出そうと考えたのであろう。宗教というもののもたらす人間の執心は、祈りだけにはとどまらず、何か形ある物を見出そうという、そのようなエネルギーを内在させているように思う。それがどのような形で実現しているのかを示すのが、即ち浄土式庭園と呼ばれるものなのだと思う。

自分は京都にはあまり馴染みがないため、宇治の平等院を除いては、この形式の寺院を見たことがない。それゆえ、浄土庭園の姿は、奥州平泉の毛越寺や福島いわき市の白水阿弥陀堂などを訪ねて確認しているのだが、とりわけて白水阿弥陀堂に往時の建立者の浄土というものに対する思いを汲みとることが出来るように思っている。毛越寺の方は、規模が大き過ぎて浄土からは少し遠い感じがするのだ。寺院の規模が大きく豪勢になればなるほど、本物の浄土というのからは遠ざかるような気がしてならない。

白水阿弥陀堂を訪ねるのは三度目だろうか。ここへ来た時は、往時の世の中のこと、自然環境の状況などを目一杯想像を働かせて思い描くことにしている。恐らく往時のこの辺りは、原生林に近い山野の中にこれらの建物や池などが造られたのではないか。春の今頃の季節は、現在ほど濁ってはいない池の周辺には、山桜などの花と樹木の若芽に彩られた中に、阿弥陀如来を中心とする浄土へ導く力を有した仏たちが祈っている堂宇が佇み、それらが池の水面に静かに影を映して、鎮まりかえっていたに違いない。そこに描かれている浄土の姿は、唯唯大自然に取り込まれて、安寧の中に永遠に息づく心が休む、そのような景観だったのではないか。白水阿弥陀堂は、その姿を容易にイメージさせてくれる場所なのだ。境内を歩きながら、時々立ち止まって眺めたりしながら、想像は膨らみ続ける。

白水阿弥陀堂の景観。池の水面に映る阿弥陀堂は、質素でただ静けさだけをそこに集めてひっそりと鎮座している風情だった。1千年前の人が描いた浄土は、全てが自然の中にあった。

建立した藤原清衡の娘の徳姫の亡き夫に対する思いとはどのようなものだったのか。往時の岩城氏の力とはどれほどのものだったのか。藤原家との関係はどうだったのか。治世の状況はどうだったのか。なにゆえに徳姫はこの寺の建立を思い立ったのか。様々な疑問が湧き起こってくる。本来そのような疑問を抱くのは、浄土を目の前にしては、真に不謹慎なことなのかもしれない。

我に返って、ああ、自分は今現代にいるのだっけ、と気がつく。そして思うのだ。今の世も同じように末世が近づいているのではないか、と。いや、それが近づく速さは千年前以上とは比較にならないほどのものとなっているのかもしれない。平安末期の人たちには、この庭園のような浄土を描く力があったけど、現代人は、果たして浄土を描く力を保持しているのであろうか。残念ながら私自身、今それを描く力はない。もしそのような力を持つ人物がいたとしたら、一体どのような浄土が描けるのであろうか。

この千年の間に、人間は世界規模で、安らぎを与えてくれるはずの大自然を、破壊し続けている。奢り思い上がり続けている者が描く浄土は、大自然とは無縁の、人工物に溢れる偽物に満ちた世界なのかもしれない。そのような世界に馴れ出している者には、浄土を描くことなどできないのではないか。いま、現代人は、浄土から見放されつつあるのではないか。白水阿弥陀堂の浄土景観を眺めながら、ふと、そのようなことを思った。    

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廃用症候群に思う

2017-06-07 23:32:15 | 宵宵妄話

 最近右手の薬指と左手の人さし指がバネ指となり、特に右手の方がだんだんと悪化し、握った時に指がなかなか戻らず、その際の痛みも酷くなりだしたので、終に我慢の限界を超えて手術をして貰おうと考えました。しかし、何年か前に左右の中指を同じ症状で同時に手術したのですが、左の方は元に戻ったものの、右の方は未だに反らせることが出来ない状態なので、又同じことになりはしないかとの懸念を抱いているものですから、できることなら切らないでも回復する方法を知りたいものだと思っていました。

 隣のつくばみらい市に指を扱う医院があるのを知り、そこを訪ねました。そこでの受診では、最悪の状態であれば手術も止むを得ないとして、可能な限り外科的処置をしないで対処してゆくという考え方で、基本的には身体全体のバランスを考えながら血流の改善に取り組むという先生のお話でした。少し時間がかかるかもしれないけど、なるほどと思いました。自分は既に四半世紀に亘って糖尿病との付き合いを続けているのですが、その基本は血流と深く係わっていますので、指だけではない他の部位についても好影響があるのかもしれないと期待しました。それで、しばらく通って様子を見ることになった次第です。

 話はバネ指の治療のことではなく、その医院で頂いた治療方針が書かれた紙に載っていた「廃用症候群」ということばから想うことについてなのです。今までにこのように呼ばれる疾病があるというのを知らず、初めて目にしたことばでした。廃用症候群というのは、別名「生活不活発病」とも呼ばれるもので、それらを大別すると、①局所性廃用症候群②全身性廃用症候群③精神・神経性廃用症候群の三種に区分されるということです。要は、心と身体の両面に関して、普段の生活面での活性が失われることによって起こる障害を、総称して廃用症候群と呼ぶことのようです。

 このことばを見た時思ったのは、ああ、これは人間が動物なのだということを忘れた人たちが陥りやすい病なのだ、ということでした。動物というのは動くことによって環境に適応しながら生きている存在です。すべての動物は、動けなくなった時から、最終ゴールである死というものに向かうことになります。そして、動けなくなるという意味は、自力で動くのが出来なくなることです。すべての動物の中で、人類だけが自力でなくても生命をつなぐことを可能にしているわけですが、そのことを安易に当たり前と考えるのは大きな問題(=危険)ではないかと思います。

 廃用症候群というのは、自らの力で動くことを見限り、他力に依存しながら生きながらえている人たちが落ち込む病のように思われます。人間は動物であり、そのためには心も身体も適当に動かし続けるということが、生き物としての不可欠な条件だと思うのですが、それを怠った時に、この廃用症候群といわれる病の症状が現出するのではないかと思うのです。

 その紙には廃用症候群として、次のような症候が取り上げられていました。因みにそれらを記してみることにします。

局所性廃用症候として①関節拘縮②廃用性筋萎縮・筋力低下③廃用性骨萎縮④皮膚萎縮(短縮)⑤褥瘡⑥静脈血栓症→肺塞栓症、 

全身性廃用症候として①心肺機能低下②起立性低血圧③易疲労性④消化器昨日低下(ⓐ食欲不振ⓑ便秘)⑤利尿→血液量減少(脱水)

精神・神経性廃用症候として①うつ傾向②知的活動低下③周囲への無関心④自律神経不安定⑤姿勢・運動調節機能低下 というような数多くの項目が書かれていました。

 自分は医者ではないので、専門知識もないため、ここに書かれた病の症状が実際どのようなものなのかは良くは判らないのですが、ある程度は耳にしている病名も入っていますので、凡その見当はつくように思います。実際にそのような病で困惑している同世代人を多く見ており、それらを概観すると、どの人も身体的な面では運動不足であり、又精神的な面では思考不足が基本原因となっている感じがします。これらの症候が老人世代に多いのは、加齢に伴って身体も頭も必要以上に使うのは面倒、といった暮らし方に甘んずるようになるからなのではないかと思えてなりません。勿論、中には動きたくても病や怪我のために動けないという方もおられるのだと思いますが、それとてもその現状に甘えてしまえば、結果は同じことになるのですから、要注意です。

 自分的には健康というのは、「快食」「快眠」「快便」の三快に加えて「快動」というのがその基本であり、この四快を継続実践することによってもたらされるものだと、予てより考えているところでしたので、この廃用症候群という病の症候があることを知った時には、これは「快動」の問題が指摘されているのだ、と直感した次第です。

 健康の保持というのは、知識で頭をでっかくするだけでは何の成果もなく、又サプリメントなどの簡便法に安易に依存するだけでもダメなのであり、この四快を加齢に合わせて内容を調整しながら着実に継続実践することでしか実現できないものだと、改めてそう思ったのでした。

  バネ指の話から妙な方へと行ってしまいましたが、同世代の皆さまにおかれましては、楽をすることに溺れることなく、ゆめゆめ廃用症候群などに取りつかれませんようご注意ください。老爺心ながら。

 

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