山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

連立離脱に思う

2010-05-31 04:41:18 | 宵宵妄話

とうとう、というよりも、やっぱりという感想ですが、社民党が民主政権からの離脱を決定しました。至極当然の話だと思います。総理大臣の言動が、ずっと社民党の考え方を支持する方向を向いていましたので、こと普天間基地の移転の問題に関して言えば、本当のところあまりにも調子の良すぎるその言動に一番不安感を覚えていたのは、社民党の面々だったのかもしれません。その不安が、とんでもない形で裏切りの現実となったにも拘らず、内閣に加わっている社民党の党首に対して、閣議結果の了承を求めるというのですから、これを受け入れるわけにはゆかないというのは、小学生だって、少しでも信念のある者ならば、断じて了承できるものでないことは自明のことです。

断腸の思いで罷免をせざるを得なかったというのが、首相のコメントでしたが、この人の腸が切れるなどというのはあり得ないのではないかと思わずにはいられません。どんな鋭いメスだって、この人の腸を断ち切るなんて不可能のような気がします。この人の腸の機能は、地上の如何なる消化困難なものでも、全て呑み込んで消化したという気分になれるほど強力なものであり、普天間の基地移転の問題だって、今のところ少し気分は悪いけど消化しつつある、というのがご自身の感覚なのではないかと思えるほどです。

社民党との考えが相容れないものであることは、多少過去の政治の歴史を理解している者から見れば、初めから明らかだったように思います。社民党の発想は正論です。正論なのですが、治政においては必ずしも正論がその要諦とはなり得ず、より現実的な大局論をクリアーして、初めてそれが力を持つのだと考えます。

日本の政治は日本国の国民のためにあるのは当然ですが、そのためには視点を世界情勢に置いてから始めなければなりません。世界情勢を無視して、日本国のことばかりを論じても、今の世は鎖国が通じる状況ではないのですから、通用する筈が無いのです。わが国に求められている二大政党の基本にあるべき発想は、世界情勢を見極めた上での政策でなければ、決して国民を真に安心させることは出来ないのだと考える必要があると思います。

沖縄の基地問題は、戦中・戦後の悲しい歴史に覆われたものを引き摺って今日につながっており、県民の皆様にとっても心ある日本人の全てにとっても、それが無くなることが悲願ですが、今日の世界情勢を直視したときに、日本国が置かれている現状を考えれば、そうそう簡単に他県や海外に移転できるという話ではないように思います。というのであれば、先ずは我が国が今日の世界情勢の中で、どのようにすれば安定的に国を守れるのか、と言う議論やそれに基づいた大局観を確立することから始めなければならず、そのようなことを無視して耳障りの良い、自国の利益ばかりを強調した主張が通用するはずもありません。現実を直視した上で、沖縄県民の、或いは基地周辺に暮らすことを余儀なくされている人びとの幸せを、どう実現するかを施策として明確にするのが政治の本来のあり方のような気がします。

然るに現実は、一国の最高責任者が、美醜綯()い混ざった言動を繰り返し、いたずらに人心を混乱させ、不信と怒りを結果するということになったのですから、これは愚政というしかありません。

この愚政は民主党だけではなく、社民党も国民新党も共倒れ現象に突入する危険を孕んでいます。そして最も困るのは、漁夫の利を得る者が見当たらないということです。本来なら自民党がその立場になければならないのですが、昨年の選挙での惨敗から少しも立ち直っておらず、分裂現象を引き摺っているばかりなのですから、真に困ったものです。

我々国民としては、いや、私だけのことなのかもしれませんが、次の選挙にどこの誰を信頼して一票を投じて良いのやらさっぱり見当がつきません。一番安易な方法は、分らなければ投票しないということ、即ち棄権するということなのでしょうが、棄権の積み上げは、この国の政治のあり方を益々破滅の方に向けるのは明らかですから、取るべき行動ではないと思います。真に困った現状です。

国政が破綻すれば、年金暮らしの我々の生活も破綻します。さすれば、くるま旅などどこかに吹き飛んでしまうかもしれません。せめてあと十年くらいは残りの人生を、この世に生きていて良かったと思える生き方をしたいと思っているのに、現在の為政者の連中が口先ばかりで、一向に新味のある政治を実現できないのであれば、お先は真っ暗です。無い金を使っての、借金まみれの政策もいい加減にして欲しいものです。八方美人の政策ではなく、選択と集中の実りある施策を期待したいと思います。そして何よりもそれができる強力な意思と力を持ったリーダーが、政党の枠などを飛び越えて出現することを願わずにはいられません。

老人の愚痴でした。

 

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ポピーの花を見に行きました

2010-05-30 06:48:27 | くるま旅くらしの話

先日ポピーの花が見たくなって、下妻市の小貝川ふれあい公園という所へ行って来ました。我が家からは車で40分ほどの距離にあり、気軽に出かけることができます。

ポピーといえば、春の房総を彩る定番の花ですが、この頃は房総によらず、思いもよらない場所での栽培が拡大しているようです。私自身が知らなかったのかもしれませんが、下妻に大きなポピー畑があるなんて夢にも思いませんでした。尤も茨城県北部に育った私には県南についての土地勘が全くなく、守谷に越してきてから初めて、その地勢などについて理解を深めつつあると言うところでもあります。

下妻市の小貝川ふれあい公園を知ったのは、昨年のポピー畑の芥子騒動のニュースを聞いたからでした。ポピー畑の中に、栽培を禁止されている芥子の花が、何と大量に発見されたからでした。その時には、恐いもの見たさというか、生来の野次馬根性の血が騒いで直ぐに出向いたのでしたが、もう時既に遅く、本物(?)の芥子は刈り取られた後でした。慌てて刈り取ったのか、トラックの轍の入り乱れている刈り取った跡地を見ながら、どうして本物が混ざったのだろうかと、不思議に思ったのでした。

というのも、以前東村山市に住んでいた時に、隣の小平市にある薬用植物園を時々覗きに行き、その中で栽培されている芥子は二重の金網の向うに、毒々しい花を遠くから見たのを覚えているからです。遠すぎてその花の葉や茎の特徴などが良く判らず、重たそうな赤い色の花の印象だけが記憶に残っています。あのように厳重に管理されているというのに、いとも簡単に、大勢の人たちが訪れる公園の中にしかも大量に咲いていたというのですから、これは驚きです。野次馬の血は騒ぐわけです。

小貝川ふれあい公園は、関東の暴れ川の一つ、利根川の支流でもある小貝川の河川敷にあって、お花畑の他にも自然観察のエリアや、スポーツゾーンなどを備えたかなり広大な規模の公園です。その中央には、この河川敷のクヌギやコナラの林に住む天然記念物指定のオオムラサキ蝶の姿を模(かたど)ったネイチャーセンターがあり、これを遠くから初めて見た時は、何か新興宗教の御殿でもあるのかと思ったのでした。国道294号線からは、その後姿を望むことになるので、何か得体の知れない建物に映ったのでした。

   

オオムラサキ蝶が羽根を広げた形をイメージして建てられている、下妻市の小貝川ふれあい公園のメイン施設、ネイチャーセンタのユニークな景観。

一度訪ねてからは、すっかり気に入り、機会があれば訪ねるようになっています。また、この中には茨城県では数箇所しかないパークゴルフ場も設けられており、北海道の旅を思い出しながら、プレーを楽しむこともできるのです。茨城県の県北エリアにはパークゴルフ場は無いようですが、県南には土地の余裕があるのか、或いは心の余裕があるのか、無料のパークゴルフ場もあったりして、こちらに移り住んでから、大いに地元に対する認識を改めつつあります。

さて、そのポピー畑を今年はどうなっているのかと訪ねてみたのでした。行ったのは今から10日ほど前でしたが、まだ花の最盛期とは言えず、少し早めの咲き振りでしたが、それでもやっぱりポピーの派手さは、公園の一角を鮮やかに染め上げていました。ポピーの他にも矢車菊やキンセンカ、名は知らない洋花など何種類かが植えられており、心なしかポピーが少なくなっているように感ずるのは、去年の騒動の影響で減反されたのかもしれません。

   

小貝川ふれあい公園ポピー畑の景観。まだ8分咲きといったところか。今年は去年よりも少し作付け面積が小さくなった感じがした。

広い公園の中をぐるーっと一回りすると、30分以上かかります。花畑の散策は疲れを覚えさせない心地良さがありますが、その日はかなりの暑さだったので、これには少々辟易しました。暑さの中でのポピーの花は、その色が鮮やかな分だけ、個々に花の中を覗き込むと、やはりどうしても毒々しさを感じてしまいます。どうしても芥子の悪意ある毒性のようなものを感じてしまうのです。そこには人間の持つある種の悪の本性に似たものが潜んでいるような錯覚に囚われてしまうのです。勿論このようなことは、芥子ではないポピーにとっては甚だ迷惑な誤解なのだと思いますが、何ごともきれいごとや可愛いごとでは済まないのが生き物の世界ですから、ま、私の見方も強(あなが)ち間違ってはいない感じがするのです。

   

ポピーの花を覗き込むと、どうしてもそこに芥子の毒性のようなものを感じてしまう。私だけの偏見かも?

花畑を廻った中では、植えられていた花の中では、一番好きなのはやっぱり矢車菊です。この花は矢車草とも呼ばれており、澄んだ青い色の花の集まりが矢車に似ており、楚々たる美しさを感じます。花畑ではかなりたくさん植えられているのに、あまり目立ちません。遠くから見るとさっぱり引き立たない色なのです。そこがいいですね。ポピーの引き立て役なのかもしれませんが、私にとっては主役よりも脇役の目立たない存在の方が断然好感が持てるのです。「函館の青柳町こそ恋しけれ 友の恋歌 矢車の花」は石川啄木の歌の一つですが、啄木はどのような思いを籠めてこの花を眺めたのか、矢車菊を見る度にこの歌を思い出します。

   

矢車菊の花畑。地味な色で傍に行ってみないと、何の花なのか気づかないほどである。

今年はポピーの中には芥子は混ざっていたのか良く判りませんが、植物の繁殖力というのは、動物の比ではありませんからもしかしたらいくらかは潜んでいたのかも知れません。私たちには専門知識もなく、しっかり観察した経験もないので判りませんが、ポピーが芥子の悪意に犯されないように、この公園が花本来の美しさで来園者を集めることができるように願いながら別れを告げたのでした。

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除虫菊

2010-05-29 04:46:42 | くるま旅くらしの話

市の菜園を借りての野菜作りが楽しみとなっていますが、野菜作りで苦労するのは、雑草と虫害への対処です。勿論その基盤には土造りという大切な仕事がありますが、これは時間が掛かっても、地道に努力をすれば実りが期待できるやりがいのある仕事です。しかし雑草と虫害への対応には、なかなかやりがいを感ずることは少なく、雑草の方は取り終えた直後の一時的な満足はあっても、数日過ぎればたちまち眠っていた種が芽生えますし、虫害に至っては、それまで順調に育っていた作物が、一夜にしてアブラムシどもにダメにされるというような事件も体験したのでした。

雑草の方は根気よく取り続けることしかなく、除草剤などを使ったら、採れた野菜を食べるのは自殺行為に等しくなってしまいますので,これはもう使用厳禁です。長期のくるま旅をしている間は、畑にシートをかぶせて雑草の生えるのを防ぎ、この間は作物を作らないというのがこれまでの菜園の運営スタイルです。夏の旅から戻ってから、秋から冬、そして春という3シーズンが私の野菜作りの基本パターンとなっています。

一番簡単そうで難しいのが虫害に対する対応です。害虫退治の定番といえば、殺虫剤を散布するということなのでしょうが、果樹類ならばともかく、野菜類となると、どんなに安全性が保証されていたとしても、薬を使うのはためらわれますし、使ったこともありません。結局のところ、虫を手作業で取り除くか、多少虫に食われても気にせずに、「こんなに穴が開いているのは、虫も美味いと思ってがぶりついたんだろう」などと負け惜しみをいいながら、その穴の開いた野菜を食べるということになっています。

これを何とかしたいと思っていましたら、ホームセンターで聞いた話の中で、菜園の周りに虫の嫌いな花などを咲かせる植物を植えるという方法があるというのを知りました。なるほど、その手もあるのかと思いました。世の中には知恵者が居るもんだと感心しました。そういえば、畑の周りにマリーゴールドを植えているのを見かけます。最近は特に増えてきているようです。これは知恵者の情報に学んだ人が早速実行に移した結果なのだろうと思いました。僅かに30~50㎡の広さなのですから、その周囲をマリーゴールドの花で囲むというのは難しいことではありません。花に囲まれた菜園の中で、健康的な野菜が収穫できたら、最高の喜びです。それを実行している方に聞いた話では、さほどに効果を実感できているわけではないけど、少しは効いているということでした。

それを聞いて、よし自分も試してみようと、そのことを聞いた去年の秋にマリーゴールドの種を探したのですが、どこにも売っていませんでした。あの花は種を播くのではなく、別の方法で増やすのかなと戸惑いながら、そのままにして忘れていたのですが、この春になって思い出し、念のためもう一度ホームセンターの種売り場に行きましたら、何と幾つもの種類のマリーゴールドの種が置いてあるではありませんか。つまり、秋は播き時ではなかったということだけなのでした。

早速種を買ってきて、育苗ポットにそれを播いて只今育成中なのですが、マリーゴールドは思ったより発芽率がよく、芽生えた苗は順調に育っており、嬉しい限りです。移植できるまでにはまだかなりの時間がかかりそうですが、その時を楽しみにしています。

ところで、これからが今日の話の本番なのですが、欲張りな私は、マリーゴールドの話を聞いて、たちまち思ったのは、除虫菊のことでした。蚊取り線香に代表されるあの強烈な匂いは、蚊を寄せ付けず、日本の夏の風物詩の中には定着している感のする煙の素です。あれほどの虫除け効果のある植物なのですから、その花もきっと虫除けに役立つに違いない。マリーゴールドなんぞを遙かに凌ぐ効果があるに違いないと思ったのでした。よし、自分の畑にはこれも植えまくってピカピカ(?)の作物を作ってやろう、などと思ったのでした。

除虫菊などというのの種など売っているのだろうか、と心配したのですが、ちゃんと置いてありました。早速育苗ポットにそれを播きました。除虫菊の種もマリーゴールドの種も良く似ていて、細い形をしており、黒っぽい実には羽根の様なものがついていて、自然界の中では風に運ばれ、大地に突き刺さるというような機能性を持ったか形の種の姿なのです。自然界の植物の智恵のようなものをそこに感じました。

さて、播いたのはマリーゴールドの直後だったのですが、1週間もする間にマリーゴールドの方は芽が出て、殆どのポットには双葉の可愛らしい苗が顔を出したのですが、除虫菊の方は音信沙汰無しです。これは発芽までに時間がかかる性質なのかなと、水をやりながら芽が出てくるのを待ち続けたのですが、2週間経っても相変わらず何の反応もないのです。こりゃあ、一体どうなっているのかと、育苗の土や水やりに問題があったのかと気になりましたが、他の苗はちゃんと発芽しており、何の異常もありません。

その後しばらく発芽を待ち続けたのですが、僅かに双葉らしいものが2~3個は見られたものの、大半のポットは土があるばかりです。これは大失敗なのだと判断しました。何が気に入らなくて発芽しないのか解りませんが、もしかしたらややこしい性格の植物なのかも知れません。それで気になってネットで除虫菊のことを調べて見ました。いろいろ書かれていました。

先ず判ったのは、この植物はもともと日本のものではなく、外国から移入されたものであること。瀬戸内海地方での栽培が盛んだったこと。蚊取り線香の効果は、この植物を刈り取った後乾燥させて抽出した成分によるのであり、花そのものには虫除けの効果はないこと。現在では、薬用としては殆ど使われていないこと、等々が書かれていました。

また、ある人のブログでは、虫除けになるかと鉢植えの除虫菊を買ってきて庭先に置いておいたら、葉にダニのような虫がつき、これは除虫菊の力で排除するのだろうと期待しながら見守っていたら、一向に虫たちは減ることがなく、逆に増えてきてガッカリしたというようなことが紹介されていました。

除虫菊という名前からは、蚊取り線香にならなくても、ある種の成分が虫を近づけない働きをするに違いないというのをイメージさせますが、薬効というのは、やっぱりある種の化学変化が作用するようですから、言葉だけではダメなのだということが解りました。

してみると、除虫菊の播種に失敗したというのは、ある意味で良かったのかもしれません。せっかく虫除けに植えた除虫菊の葉や花にアブラムシなどがぞっくり集って、虫を防ぐどころか、なす術もなく作物が虫まみれになったりしたら、これはもう腹立ちを通り越して、笑っちゃいますの世界に至ってしまうからです。

一先ずはマリーゴールド君に庭先で頑張って貰って、最小限でもいいから虫除けの力を発揮して欲しいと願っています。

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ちょっと休憩です

2010-05-27 00:28:35 | 宵宵妄話

一昨日から本の製作に取り掛かり、丸三日かけてようやく35部の第2版分が完了しました。諸準備とプリントに二日、製本に一日という作業内容でした。全て手作業なので、少し疲れました。機械での印刷・製本ならば原版が備わっていれば1時間もかからずにあっという間に終ってしまう作業なのだと思います。原資に余裕があれば、出版社に依頼するのが一番ですが、それが叶わないのであれば、自分自身で作るしかありません。

「くるま旅くらし読本」は、販売して利益を上げるのが目的ではなく、より多くの同世代もしくはその近くの世代の方々に、くるま旅くらしを楽しみながら、心豊かに終盤の人生を送ることを提唱したいという、私の願いを少しでも知って頂くための手立てとして書いたものです。

本というのは、見てくれやタイトルだけではなく、やっぱり内容だよな、と思いつつ、自作の本を見ながら、内容も見てくれも今一なのかなあと、自問を繰り返す3日間でした。今回印刷した分は、主としてRVランドのホールに置かせて頂き、ご希望の方にお分けする予定です。コストを回収する分だけの価格として1冊600円を申し受けることにしました。ネットでは千円でお分けしているのですが、400円も安いのは、送料と振込手数料分が不要となるためです。何だか宣伝めいた話となってしまいました。

ということで、ブログを書く元気も足りませんので、休憩です。今日は又冬に向かい始めたような天気で、半袖を止めて長袖に着替えるような按配でした。疲れて庭に出ると、去年のいつ頃だったか忘れましたが、群馬県みなかみ町にある道の駅:たくみの里で見つけて買ってきたホタルブクロが、いい色の花を咲かせてくれていました。ホタルブクロは、普通赤紫の赤が多い色の花をつけますが、このホタルブクロはより紫が濃い花を咲かせています。咲いた花よりも蕾の方がより紫が濃くて、家内の言い方では、それは古代紫となるのだそうです。

   

昨年花が終りかけているころに買ってきたホタルブクロ。花が咲き出すまで、これは何だろうなどと、すっかり忘れていたので、判った時は実に嬉しかった。咲いては嬉しさが倍加した。

疲れたときには、何でもいい、草花を見るのが一番の薬のように思っています

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ウグイス君たちの鳴き声

2010-05-26 05:56:10 | 宵宵妄話

守谷市は緑の多い所です。そもそもその名称からして、大昔にヤマトタケルノミコトが東征に際してここを通った時に、その緑が多いことに感動して「おお、森哉!」と叫んだことに発するというのですから、驚きです。その時代の日本は、恐らくどこへ行ったってコンクリートの建物などなかった筈ですから、この話はかなり眉唾ものです。しかし、内海が入り組んで残っている時代だったでしょうから、緑が多かったのは事実だったと思いますし、現在でもその名残りはかなり感じられる地形です。

緑が多ければ、その森に住む動物も多いわけで、今頃の季節になると、小鳥たちの鳴き声の喧(かまびす)しいことといったら、それはもう夜明けから大へんなものす。様々な小鳥(中には中鳥レベルも混ざっていますが)たちが、それぞれの鳴き方で春を謳歌しています。一番大声で、辺りを憚らず鳴き騒ぐのはコジュケイで、「コッチャコイ、コッチャコイ」と、もう大騒動です。子連れのこの鳥が家族の温かさのイメージにつながるというので、この鳥は守谷の市の鳥となっています。つくばエクスプレスが開通してよりこのところ、少しずつ森が伐り開かれており、心なしかコジュケイ君たちの鳴き声も少なくなり出した感がします。

コジュケイは中型の鳥ですが、同じレベルではキジが目につきます。キジは農家の屋敷林の中などにも住んでおり、時々道路に出たりして歩いています。「キジも鳴かずば撃たれまい」といわれるように、この鳥もまたけたたましく「ケ~ン!」と鳴きますが、守谷のキジは人に馴れていてあまり驚かないのか、殆ど鳴き声を聞いたことがありません。今の時代は、道路を歩いて油断をして、交通事故などに遭わないようにと願っています。

畑で仕事をしていると、まあ、賑やかなのは、ヒバリ君たちです。ヒバリは漢字では雲雀と書きますが、文字通り空中に浮いて、絶え間なく囀(さえず)り続けます。子供の頃、麦畑でその最初から最後までを見届け、舞い降りた地点の近くを探すと、そこに巣が見つかって、可愛い雛たちが一斉に口を開けて餌をねだるのを、そっと観察したことなどを思い出します。守谷のヒバリは、もう麦畑などは殆ど見当たらないので、耕作放棄の畑の草叢の中に巣を作っているのかもしれません。

時々遠くから聞こえてくるのはホトトギスの鳴き声です。この鳥も特徴のある鳴き方をしますので直ぐに判ります。「トッキョ、キョカキョク」という大声です。ホトトギスといえば、托卵を思い出し、あまり愉快な気分にはなれません。大事な子育の仕事を、最初から最後まで他の鳥を騙して任せて、その任された子が一緒に雛になった本来のその鳥の子を巣から蹴落として、自分だけ餌を一人占めにして生き残るというのですから、これは真に悪魔のような性質の鳥です。鳴き声を聞くと、ああ、又あの悪魔の仕業(しわざ)をするために獲物の巣を探しているのかと、気が滅入ります。ま、最近は、人間にだって、もっと酷い子殺しをする親が発生していますから、ホトトギスのことを悪くいうのは、控えなければならないのかも知れません。

この他にも、どうしてこんなに絶え間なく騒ぎまくっているのかと思うほどの狂乱の囀りのヨシキリやオオヨシキリも数多く棲んでいます。勿論雀たちも賑やかだし、ムクドリやヒヨドリ、シジュウカラやメジロなども常連ですし、憎たらしいカラスも下品な声で鳴き喚(わめ)いています

その中で今日取り上げるのは、ウグイス君たちです。以前、このブログで、この地方の訛(なまり)で鳴く「ホケキョケ」の話を取り上げましたが、今年も略同じ場所で、このウグイス君は同じ鳴き方で健在を証明してくれていました。もう、気がついて彼の声を聞くのは3年目となりました。まだその姿を見たことはないのですが、春の今頃になって、彼の声を聞くと、やあ、今年も元気で居てくれたのかと、妙に嬉しくなります。

ちょっとした疑問があったときの会話として、「そうケ?↑」(=本当にそうなの?)と尻上がりのトーンで会話をするのが茨城県県南の地元の普通の話し方なのですが、この地のウグイスまでもが同じようなトーンで鳴くのを知って、可笑しいやら珍しいやらと、妙に嬉しがってはしゃいだのが3年前でした。その後この1羽だけではなく、親戚らしき仲間が違う場所でも鳴いているのを聞いて、これは地元の鳴き方に違いないと、確信を持った次第です。

散歩をしていると、森や近郊には、真にウグイスが多く住んでいるのが判ります。特に小貝川や鬼怒川の堤防には、洪水避けのためか樹木や竹などが植えられ、ちょっとした森や藪の風景が連なっています。ここがウグイス君たちの絶好の住環境となっているようで、今頃の季節ともなると、どこへ行ったって囀りの競演です。

よく聴いていると、鳴き方にも様々な流儀があるようで、以前まではウグイスといえば「ホー、ホケキョ」に決まっていると思ったのですが、これはとんでもない安易な決め付けだったということに気がつきました。鳥というのは、結構他の種類の鳥たちの声を真似るようで、どう考えてもこれはコジュケイの鳴き方を真似ているな、と思われる、変な鳴き方のウグイスもおりました。「ホー、ホッチャコイ」などと鳴いているのです。これには思わず笑っちゃいました。

それらの中で、最近一番印象的だった鳴き声は、先日苗木の幼木の支柱用にと、小貝川の土手に篠竹を採りに行った時に、その藪の直ぐ近くで鳴いていた、ウグイス君の鳴き声でした。汗を流しながら、藪の中で篠竹を採っていると、近くで一羽のウグイスがやたらに大きな声で「ホー、ゴインキョ」鳴きまくるのです。近くに巣でもあって騒いでいるのかなとは思ったのですが,気にもしないで作業を続けていました。

ところがそのうちにその鳴き声が気になり出しました。というのも、妙な鳴き方で、どうやら、「ホー、ゴインキョヨ」と聞こえるのです。ゴインキョというのはご隠居ということであり、これはもしかしたら俺のことを言っているのかな、と思ったのでした。

そう思って聞いていると、確かに「ご隠居よ」と言われているような感じとなってきました。毎日が日曜日の身では、ご隠居と呼ばれても仕方がありません。このウグイス君は、そこのところを見抜いていて、俺に語りかけているのかなと、まあ、勝手に解釈したわけです。その呼びかけの次に、どのようなセリフが続くのかは判らず、ただ只「ご隠居よ」の連続ばかりなのですから、これには結構参ります。人間、何度も何度も繰り返して同じ言葉を掛けられ続けると、腹立ちを通り越して、何だか妙な気持ちとなるようです。少なくともこのウグイス君には参りました。

「ご隠居よ、もういい加減にして家に帰んなよ」と言われているような気分となり、その日はそこで作業を止めて帰ることにしました。そして、翌日は別の場所で、煩わされることなく篠竹の採取に励んだのでした。守谷市近郊の今頃の季節は、このような鳥たちとの変な出会いもあって、旅に出ないで居ても、さほど退屈は覚えないのです。という、退屈紛れの話でした。

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宰相の器量

2010-05-25 04:39:08 | 宵宵妄話

昨日は終日の雨でした。今月は少し歩き過ぎの嫌いがあり、少し静養の日があってもいいやと考え、家の中に籠もってくるま旅くらし読本の追加製作をしようと、その作業に集中しました。今回の本は全くの手づくりですから、印刷はパソコンの原稿をプリントするという作業なのです。ですから集中するといっても、その内容は退屈といえば退屈なものなので、音楽を聴きながら、或いは時にはTVを見ながらの作業となります。何時もはTVも特定の番組しか見ないのですが、昨日はニュースやそれに関するワイドショーの番組などを多く見るという結果となりました。

これらのニュースの中で、最も耳障りで気色悪いのは、沖縄の基地移転に絡む総理の言動の不手際の話と、宮崎県での口蹄疫事件の対応に関する話でした。この二つはいずれも政治に絡む問題であり、特に沖縄の基地移転に関する問題は、一国の首相の言動としては在りうるベからざる内容を有したものでした。

私は政治に関しては、特定の支持政党を持たぬノンポリの人間ですが、関心がないというわけではなく、特に高齢者の仲間入り(自分では本質的に高齢者などの存在を認めない考えがありますが、絶対年齢からは世間の区分に従えば、そのような呼ばれ方の世代に入ってしまっていることは明白です)してからは、政治のありようをチエックし、見極めようとする気持ちが強くなっています。何しろ生活の原資は年金と呼ばれるものに頼るしかないのですから。

民主党に政権が渡った時には、それまでの自民党の政治のあり方にうんざりしていて、ようやく本物の政治への胎動が始まったかと期待したのでしたが、今日までの政権運営を見ていると、ホンの一部の改革・革新の成果を除けば、90%以上は以前よりも不安感が増し、特にそのリーダーたる首相の言動には一国を危うくする危険性を本能的に感じないわけにはゆきません。昨日のワイドショーにおいても、沖縄の基地移転に関する一連の言動問題を巡って、どのTV局も疑念を通り越して、厳しい批判・批難の声に溢れかえっていました。

沖縄県民の怒りは、基地のありようの現実よりも、首相の一連の言動に対する不信感が爆発したものとなっているというのを実感します。戦争の最大の犠牲者だった沖縄県民が、こらえにこらえていた悲しみや怒りを、斯くまでも言動を弄(もてあそ)んで、なおその酷さに気づかないという人物も珍しいなと思いました。この問題に限って言えば、自民党にだって、これほど具体的に沖縄県民をなぶった人物はいないと思います。

宰相の器量については、古代中国の時代からあれこれと取り沙汰されており、国全体を運営してゆくリーダーとしての人徳や力量が問われるわけですが、その心得の基本となって力があったのが、論語であり、孟子だったわけです。そこに書かれている言葉には、現代でも全く不変の重要性を持ったものが数多く存在しています。我が国の歴代の首相も、少なくとも論語くらいは読んでおられるのだと思いますが、現在の首相はもしかしたら只今お勉強中なのかもしれません。

それで、ご参考までにご注意を申し上げたくて、二つの戒めの言葉について、進講申し上げたいと思います。

1.「子曰、巧言令色、鮮矣仁」(子曰く、巧言令色、すくなし仁。)意味:上手を言い、ええ格好ばかりしている人には、仁(人をひきつける本物の人間性)は無いんだよ。

2.「子曰、君子不重則不威。学則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改」(子曰く、君子重からざれば威あらず。学べば固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ。過ちてはすなわち改むるに憚るなかれ) 意味:人の上に立つ者は、重厚な態度がなければ相手がその気になってくれないよ。軽くては、お勉強などしても進歩しないよ。上に立つ者は、自分にも他人にも誠実であって、友とするなら自分よりも優れた者を選び、過ちを犯したと気づいたら即座に改める。これが大事だよ。

この二つの言葉は、いずれも論語の真っ先の項「学而(がくじ)」篇にある有名な言葉です。

お解かりでしょうか?勿論首相は優秀なお方ですから、この程度のことは重々ご承知のことでありましょう。そしてここに書かれた意味に沿って、信念を持って行動しているとおっしゃるに違いありません。しかし、もしそうなら、それは明確な解釈の誤りであり、孔子様の考えとは正反対の言動となります。そして現実に、沖縄のみならず、心ある国民の大半があなたの言動に大いなる疑念を膨らませていることが、その誤りを証明しています。

ちょっと言わせて貰えば、あなたの沖縄県民に対する、何とか基地を県外、国外に移したいという思いは立派です。これは巧言ではないと思います。又沖縄訪問の際の着衣や慇懃な態度も令色ではないかも知れません。そのことだけを採れば心優しい振る舞いだと思います。しかし、言っていることと現実がズレにズレて、結果的に期待を裏切ることになれば、これはもう巧言以外の何ものでもなく、又着衣だって馬鹿にしたわざとらしさに急変します。

更に「過ちてはすなわち改むるに憚るなかれ」については、あなたは、間違いや勉強不足に気づいたときには、実に素直にその誤りを認め、お考えを改められていますが、恐らくこれはこの言葉に沿った信念に基づかれた言動かと思われます。しかし、この言葉の前段にある「君子不重則不威」を忘れていますね。軽い人が間違いを簡単に改めても誰も信じません。なぜなら軽い人は己の間違いに気づいていないからです。

これを書いているうちに、ああ、もううんざりの気分となってきました。この国は、このような人物がリーダーを務めなければやっていけないのか。裸の王様を躍らせている政党とは何なのか。真にお粗末な国にしてしまったのは、やっぱり我々の世代の罪だったのか、と。これからも、しばらくの間は、彼の信念に基づいた誠実で軽薄な言動が続くのかと思うと、うんざりは固定化しそうです。

口蹄疫の問題では、どこかに隠れていた農水相が出て来て言うには、この問題で反省することは何もないというのですから、呆れてあいた口が塞がらない感がしました。これでも政治家なのか?と。この政権は裏でいろいろ選挙のことを画策している大人物の存在を含めて、本物の政治に取り組むのではなく、とにかく選挙に勝利して、ええ格好ばかり言い振り回して、国が危うくなることなどどうでもいいと考えているのか、何ともバラバラな考えの人たちの集まりなのだなと、改めてこみ上げてくる怒りを今はどうしようもありません。政治のことに触れるのは努めて避けようと思っているのですが、毎日TVに向かって悪態をついているうちに、チョッコシその悪態の現実を書いても良いような気分となってしまうのです。 

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オガタマノ木を見に行く

2010-05-23 03:00:56 | くるま旅くらしの話

先月だったと思いますが、庭先に立つと何処かからほのかにバニラのような甘い香りが漂って来ました。どこかで嗅いだことのある香りです。花の香りのようです。それで付近を調べましたら、我が家の前の通りを挟んだ向こう側のIさんの玄関先からなのでした。行って見てみると、そこに1本の木が花を咲かせており、強い芳香はその花から発せられているのでした。う~ん、これは何という木だったかなと、思い出すのに少し時間がかかりました。これと同じ芳香を何年か前に小平(=東京都小平市)の薬用植物園で嗅いだことがあるのです。何という名前だったか、確かオガタマノ木ではなかったか、と思い出しました。それでネットで調べて見ますと、同じような花が掲載されており、芳香性も強いことが書かれていました。やっぱりオガタマノ木だったのだと確信しました。

オガタマノ木は、ネットによりますと、モクレン科の常緑樹で、モクレンの仲間では常緑樹はこの木だけなのだそうです。漢字では小賀玉木、黄心樹、招霊木などと書き、古来より榊などと同じように神前に供える木として用いられたと書かれていました。温暖な地方に自生する高木で、高さは20mにもなるということでした。

面白いのは、一説によれば古事記の天岩戸の項に書かれている、天照大神が天の岩屋戸にお隠れになった時、これを何とか外にお出まし頂こうと、たくさんの神々が集まって天の安の河原で知恵を絞った中で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりになり、桶の上で体を露(あらわ)にさせながら踊り狂って、思わず一同が笑いこけたところを、天照大神が何だろうと岩戸を開けて覗いたのを、待ち構えていた天手刀男命(あまのたじからおのみこと)が大力を発揮して岩戸を引き開いたという話の中で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が両手に持っていたのがこのオガタマノ木の枝だったということがあります。本当なのかどうかは判りませんが、招霊木と書かれるのも、その強い芳香性が、何か人間の気を引き寄せる力があると考えられたからなのかも知れません。とにかく甘く優しい香りなのですが、強烈ともいえるほどなのです。

で、この木のことを調べておりましたら、なんと茨城県のかすみがうら市に樹齢400年ほどになるこの木があるというのを知りました。かすみがうら市は、私の住いからは1時間程度で行ける距離にあります。花期は4月ごろですから、もう既に終ってしまっているので、花の香りは嗅げないとしても、葉の香りもかなりあるということですので、そこへ行けばオガタマノ木を実感できるのではないかと思いました。

場所を調べていましたら、その近くに宍倉という地名があり、ここには江戸時代の前までは宍倉城というお城があったということです。実は私の家内の旧姓は宍倉と言い、以前から茨城県に宍倉という地名の所があるというので、一度そこを訪ねてみたいと話していました。この地が聞いていた同じ場所なのかどうかは判りませんが、地図を見る限りではかなり広いエリアのようですので、もしかしたらルーツに係わる何かがあるのかもしれません。オガタマノ木のある素鵞(そが)神社は、その宍倉の少し先の場所なのです。こりゃあ好都合だということで、今日(5/22)早速そこを訪ねたと言う次第です。

かすみがうら市は、旧霞ヶ浦町、玉造町、千代田町が平成の大合併で一緒になってできた市ですが、宍倉城址も素鵞(そが)神社も旧霞ヶ浦町(元出島村地区)に属しています。今までこのエリアを訪ねたことも通過したこともありません。私にとっても家内にとってもこのエリアは、全く未知のゾーンなのでした。町の名前の通り、霞ヶ浦に面しているこのエリアは、恐らく海抜20mにも満たない平地が広がっている穀倉地帯だったのだと思います。

家を出て、つくば市を経由して国道6号線に出てから、土浦バイパスを通過して少し行くとJR常磐線の神立駅に向かう県道があり、右折してこの道を直進し、駅前近くの十字路をで左に曲がって踏み切りを通過し、道なりにしばらく走ると左手に小学校が見えてきました。これが宍倉小学校でした。家内は自分の旧姓と同じ名前の小学校名を見て、少しばかり感無量の顔をしていたようでした。城跡がどこなのか判らないので、とにかくその近くと目される神社やお寺を訪ねて見ることにしました。

少し行くと、神社があったので車を止めて参拝しました。鹿島神社というひと昔前の村社で、江戸時代の初め水戸光圀が再建に尽力し、ご神体を寄付したというようなことが、由緒書に書かれていました。何か宍倉城のことなどが記されていないかと見てみましたが、何も見出せませんでした。少し先に松翁山最勝寺と浄土宗のお寺があり、ここにも車を止めて参詣したのですが、お城に関する情報は見出せませんでした。家内は、近くに宍倉という姓の人が住んでおられないかを知りたかったようですが、訪ねようにも人影を全く見かけませんので、訊く術がありません。それにこのあたりの農家は皆豪農といった感じで、恐れ多くて屋敷の中に入って行きにくいのです。ま、後で電話帳などで調べてみようかなどと言いながら、お城のことは諦めてオガタマノ木の方へ行こうと出発しました。

ところが100mも走らない場所に、宍倉城址の案内板があるではありませんか。なあんだ、ということで、道脇に車を止めさせて頂いて、細い道を歩いて城址に向かうことにしました。150mほど先に本丸城址があり、2千坪ほどの敷地は今は畑となっていました。城郭全体はかなり広いものだったようです。説明書きによると、関が原の戦い後、佐竹氏が秋田に転封となり、この城の主だった佐竹氏の部下の菅谷氏も藩主と共に秋田に移ったため、廃城となったということです。本丸を取り囲んでいたらしい堀の跡は、竹藪となっており、400年前の面影を僅かに止めている感じがしました。

   

宍倉城址の景観。本丸は農耕地の畑となっていた。つわもの共が夢のあとという感じがした。

宍倉という地名と宍倉という姓とがどのように関連するのか、さっぱり解りませんが、全く無関係ということはないでしょうから、もしかしたら家内のご先祖様は、何らかの形でこの地と縁(ゆかり)があったのかもしれません。ま、これは家内の問題であって、馬の骨を自認する私としては、ご先祖が山の麓に埋もれた馬の骨のような存在であっても、一向に構わないのです。これから先のことは全て家内に一任です。ここまで案内させて頂いたことで、私の役割は済んだと思っています。

さて、いよいよ目的本命のオガタマノ木のある素鵞(そが)神社に向かうことにしました。再び車に乗って走ること15分、地図によれば豆腐屋さんの角を左に曲がれば神社だというイメージだったので、それを目印に行ったのですが、豆腐屋らしきカンバンも店も全くなく、そのまま通り過ぎてしまい、何か変だと、少し戻って神社を発見するという不手際でした。地図で強調されている豆腐屋さんは、カンバンを出して居らず、店も入口のガラス戸を閉めれば豆腐などどこにあるかという格好で、これはもう地元の人だけがとうの昔から知っているので、余計なものは一切不要という感じなのでした。それなのに、何故Yahooの地図にはこの店だけが取り上げられているのか、理解に苦しみました。

素鵞(そが)神社は、最近石造りの鳥居を新しくしたようで、小さいけどスッキリした形(なり)をしていました。鳥居を潜ると直ぐ先に階段があり、それを登ると拝殿があります。参拝の後、境内を見渡すと2本の大木があり、拝殿の近くにあるその内の一本が訪ねていたオガタマノ木でした。もう一本は階段の下にあって、ケヤキのようでした。オガタマノ木は幹周りが3mほど、樹高が20mくらいでしょうか、ガッシリとした樹容を誇っていました。樹齢400年といわれているようですが、まだまだ勢いは盛んで、花の咲き終わった新葉の辺りからは、ほのかな香りが漂っていました。花の盛りの頃には、境内一杯に芳香が満ち溢れていたに違いありません。我が家の向かいのIさんの木は、今年初めて花を咲かせたと思える若木ですが、この境内の大木は、何という貫禄なのだろうと、しばしその姿に見入った次第です。来年は花の時期に必ず会いに来るぞと思いました。

 

左はオガタマノ木の全容。右はオガタマノ木の幹の様子。かなりの大木だが、まだ十分に若さを感ずる木でもある。

ひょんなことから宍倉城址と素鵞(そが)神社のオガタマノ木を訪ねることになりましたが、このような日帰りのちょい旅もいいものだなと思った次第です。

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清澄寺を訪ねる

2010-05-22 03:41:03 | くるま旅くらしの話

先日房総を訪ねた時の話です。清澄寺(せいちょうじ又はきよすみでら)というのをご存知でしょうか。清澄寺は鴨川市の天津小湊から北へ5kmほど坂道の県道を登った所にある名刹です。天津小湊のすぐ近くに安房小湊がありますが、ここには有名な誕生寺があります。日蓮上人縁(ゆかり)のお寺です。清澄寺は、その日蓮上人がまだ少年の頃に、最初に入ったお寺であり、得度した所でもあるということです。

日蓮という方は大変個性の強い方で、信念を曲げなかったために、何度も法難といわれる災厄に会われた方ですが、日蓮宗を今日につなげる確たる基盤を作られたということでは、大変なパワーの持ち主だったといえると思います。千葉県出身では、最も著名な人物として挙げても良いような気がします。一般的には日蓮といえば、その人生において初めよりも終りの方がより影響力が大きかったこともあり、身延山の久遠寺や東京大田区の池上本門寺などの方がより有名な縁のお寺となっているように思います。しかし、生まれたのは安房小湊であり、出家したのは清澄寺だったのですから、これはやはり忘れてはならない事実だと思います。

その清澄寺をいつか訪ねてみようと思っていたのですが、なかなかチャンスが作れず、近くを通っても見過ごして来ていたのでした。今回ようやく訪ねることが出来、いろいろと学ぶことも多くありました。

千葉県といえば、平坦な土地が多く、高山などというものは全くありません。最高峰は南房総市の北部にある愛宕山で、高さが僅か408mというのですから、関東地方の中では格段の低地だということができます。因みに東京都の最高峰は雲取山で、これは2000mを超えた高さだということをご存知でしょうか。お寺の近くにある清澄山は千葉県では2番目の高さだとお寺の案内板には書かれていましたが、377mというのは君津市の鹿野山より2m低いようですから、これは勘違いなのだと思います。

ま、それは措くとして、外房黒潮ラインと呼ばれる国道128号線を左折して、天津小湊へ向かう県道81号線を反対の北側に向かって進むと、道は急に細くなって、急坂を登り出しました。337mといっても、海から僅かに5kmほどしか離れていない距離ですから、少し走るとこれはもう深山幽谷の感じがする世界でした。その日は天気があまり上機嫌ではなかったため、お寺の近くは雲が湧き、時々霧が立ちこめるといった様子で、寒さを覚えるほどの状況でした。

駐車場に車を置き、参道をしばらく歩くと、小さな門前町をなす店などの先に山門が見え、「千光山清澄寺」とありました。傍にお寺の由緒などを書いた案内板があり、それによるとこのお寺の創建は772年といいますから奈良時代の初め頃ということで、かなり古いお寺だというのが判ります。開基は不思議法師という方だそうですが、そのような方の名を聞いたことはありませんでした。当初は天台宗のお寺で、平安時代に大層栄えて房総第一の大寺となったとありました。12歳の日蓮が出家・得度したのは鎌倉時代ですが、この時も天台宗のお寺として名を成していたということです。その後次第に廃れ出したのを、江戸時代の初め徳川家康の帰依を得て再興がなされ、この時に真言宗に改宗したとのことでした。そして江戸時代が終り、明治・大正・昭和に至り、何と戦後の昭和24年4月に日蓮宗に再改宗したと書かれていました。従って、現在は日蓮宗であり、日蓮上人との縁(えにし)が、昭和に入って維持が難しくなり没落しかけたこのお寺を救ったということのようでした。

   

千光山清澄寺の山門。何様式というのか解らないけど、ちょっと変わった小ぶりの山門だった。

千年以上もの時間を超えて、その辿った歴史の重さを思いながら山門を潜り、境内に入ると、左手に本堂などがあり、右手には研修所らしき新しい建物がありました。境内はうっそうとした杉や楠などの大木に囲まれており、古いけれども清新な空気で満たされていました。神社仏閣を訪ねた時に一番癒されるのはこの空気です。このお寺にも それはたっぷりとありました。

   

湧き立つ霧に囲まれ、深山幽谷の趣きのある境内の様子。連休明けのこの日は、人数も少なくひっそりとした佇(たたず)まいだった。

本堂にお詣りしたあとは、右隣にある中門という江戸時代に造られた茅葺屋根の門を潜り、その向うにあるこれはその昔の本堂なのか庫裏なのか、茅葺の屋根を防護板で包んだ古い建物を覗きました。中には、名工左甚五郎作の鎮火牛という木彫りの牛の像が金網に囲われて鎮座していました。暗いので、写真を撮ることはできませんでした。このお寺もその昔は、このような茅葺の質素な建物であったのではないかと勝手に想像し、何だかこのような建物により多くの安堵感を覚えたのでした。

   

中門の景観。茅葺のこの門は、江戸時代初期に創建され、後期に改修されて今日に至っているとか。

中門を入ると直ぐ左に楠の大木がありました。恐らく樹齢千年以上を数えるものなのでしょう、市の天然記念物に指定されていました。それらの大木の周囲には鎌倉時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や梵鐘などがあり、このお寺の由緒を証明していました。創建間もなく植えられたこの楠の大木は、今日までの間の人間のやることをどのような目で見てきたのかと、訊ねて見たい気がしました。

   

清澄寺の大楠。愛媛県の大三島にある大山祇(おおやまずみ)神社境内にある樹齢15百年超の楠には及ばないけど、北限に近いこの地では、貫禄十分の樹木である。

本道の石段を降りると、左側に杉の大木があり、近付いてみるとこの樹も千年を超えた存在であり、千葉県内ではかなり著名な一木のようでした。高さが47m、幹周りが14mもある大木です。縄文杉には及びませんが、樹形は日本有数のものではないかと思いました。近くに居たおばさんが、「昔遠足で来た時も、千年杉と呼ばれていたけど、あれから随分経つのにやっぱり千年杉で変わらないわ」などと言っていました。生きている樹木の年齢を数えるのは、恐らく100年単位でないと、その数は増えないのではないかと思います。人間の持っている時間と彼らの持っている時間は、本質的に違うのだと思いました。

   

清澄寺の大杉。樹高が高すぎてとてもカメラの視界には収まらないため、幹周り14mというその姿を撮った。洞には手当てが施され、樹勢は益々盛んであった。更にあと千年以上の生命の延長を目指して欲しいと願った。

境内を一回りするには大き過ぎる感じがして、奥の方に行くのを止め、近くの池を何ということ無しに覗きました。何やら説明板のようなものがあるので近付いて見ましたら、何と県の天然記念物に指定されているモリアオガエルの産卵が見られる場所という案内だったのです。もしかしたらその卵が見られるかもしれないと探しましたら、あった!あったのです。3ヶ所ほどそれがありましたが、ツツジの木の枝のかなり高い箇所にも白い泡の塊があって、この小さな池にも珍しい生命の変遷が息づいているのだというのがわかりました。

   

池の傍のツツジの木の枝に産み付けられたモリアオガエルの卵。実物のを見たのは初めてだった。これはカエルのオス共の集団作業のようであるが、真に変な智恵を持ち合わせた奴らではある。

僅かに1時間ほどの時間でしたが、満たされた気分でお寺を後にしたのでした。それにしても日蓮上人のこの辺りに及ぼす影響力は、すごいものだなと、このお寺の歴史を知って改めて思ったのでした。

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アラ炊きが好き

2010-05-21 03:57:18 | くるま旅くらしの話

私は魚大好き人間です。勿論食べものとしての魚であって、観賞や研究などの対象ではありません。鯉を除く魚であれば、どのようなものでも食べるのにためらいはありません。しかし、鯉だけは食べません。どういう訳か、自分の中では鯉という魚には格別の親近感があり、鯉を食べるというのは、自分自身の身体の一部を食べてしまうような感覚があり、ダメなのです。鯉を食べるのは、罪悪感があるのです。洗いも鯉こくも食べるなんてとんでもないことです。ですから、長野県などへ行った時でも決してその様な料理店には入りません。(尤も、最近はあらゆる種類の料理店に入ることは無くなっていますけど)

最初から脱線してしまいました。好きな魚の話でした。とりわけて好きな魚はいわゆる光物類で、その中でも何といっても第一番目は鯖です。何度かジンマシンに見舞われた経験もありますが、それは鯖の所為ではなく、鯖を食う奴の方に問題があるのだ、という理解ですから、めげることはありません。世の中には一、二度ジンマシンに出くわしたくらいで、生涯鯖を敬遠し続ける人がおられるようですが、真にお気の毒なことだと思っています。こんな超美味の魚を遠ざけてしまって、何の人生か、などと思うほどです。

旅をしているときの楽しみは無数にありますが、その中での一番は、やはり美味い食べものに出くわすことかも知れません。私の場合は、新しい食べものを探すよりも、好きな食べ物にもう一度出会うことの方により大きな喜びがあります。その意味では、日本海側を旅することが必要です。時々日本海側を訪ねたくなるのは、大好きな鯖の串焼や押し寿司に出会えるからです。越後から山陰道エリアまで、日本海沿いにはどこへ行っても鯖君たちが主役の素朴な食べものにお目にかかれ、手に入れることができます。特に鯖街道を持つ京都エリアは、憧れの場所です。

古都京都と呼ばれる表側は、どうにも閉鎖的で、どこのお寺さんも維持保存の名目でお金儲けばかりを心がけているようで好かんのですが、裏の日本海側の京都は、同じ京都とは思えぬほど寛容で、歴史の探訪も食材も素晴らしいものがたくさんあります。京都の表の顔は妙に気取っている感じがしますが、裏の方は素朴で、本当はこの地の方が表を支えて来たのだということが判ります。気取った京都はあまり好きではありません。

再脱線のついでですが、どうして関東には丸ごと一本の塩鯖を売る店が殆ど無いのでしょうか?どこの魚屋もスーパーの売り場も、皆ペラペラの半身や四つ切にしたようなものばかりしか置いてはおらず、何故なのだという疑問を禁じえません。山陰道に行けばどこでも普通に売っている串焼なども、関東では全く見かけません。全国に鯖ファンは結構多いように思うのですが、どうして関東では決まりきったものしか売られていないのか不思議です。全国からの寄せ集まりが東京人の正体だとしたら、マーケットは丸ごと一本の塩鯖と串焼などは、せめて半分の店くらいには用意していても良いような気がします。東京で、鯖を含めた串焼の専門店を経営したなら、かなり売り上げが期待できるのになあと思うのに、その様な考えの人が現れないのを時々慨嘆しています。

閑話休題。今日のテーマはアラ炊きでした。アラ炊きというのは、魚のアラ(刺身や切り身などを調理した後に残った頭、骨、鰓(えら)などの残滓)を煮た物です。煮魚の中では、勿論鯖の味噌煮なども好物ですが、刺身用の高級魚と呼ばれているもののアラ炊きを賞味するのが一番好きです。例えば鯛などは、刺身なんぞよりもアラ炊きの方が数倍も美味いように思っています。根が貧しく卑しい馬の骨なので、その様な遺伝子が染み付いて離れないのかもしれません。甘辛く煮たアラ炊きには、その魚の旨味のエッセンスが随所にとり残されているように感じています。現代人の多くは、ものの本当の美味さを知らず、幼児的な味の感覚しか持っていないのではないかと思うほどです。

さて、ここからが本番なのですが、先日短い房総の旅をした際に、ようやくありついたキンメダイのアラ炊きのことを書きたいと思います。房総を旅する際には、地元の漁師料理を食べさせてくれる、保田港にある「番屋」という店に寄ることにしています。この店の宣伝をするつもりは無いのですが、この店に行くと新鮮な地場の魚を中心とした様々な魚を、安価で食べさせてくれます。そのメニューの中に何種類かのアラ炊きがあり、その中でキンメダイのアラ炊きを一度食べたいというのが長年の念願でした。というのもこの店では、その日用に仕入れた食材がなくなると、そこで今日オーダー受付は終りとなってしまうのです。今まで何回かキンメダイのアラ炊きを注文しようとしたのですが、店に着くのが遅かったために、なくなってしまっていたり、ひどい時は並んで注文をしている間にメニューの看板が外されてしまったりして、何時も思いの叶わぬ事態に甘んじて来たのでした。前回来た時も、やむなくスズキのアラ炊きに変更せざるを得なかったのです。

そのようなことから、今回は少し早く店に到着することを心がけて、開店間際に店の扉を潜ったのでした。いつもだと昼時近くは略満席に近い混み様なのですが、10時を少し過ぎた時刻では、さすがにお客さんは少なくて、念願のキンメダイのアラ炊きも問題なくオーダーに応えて貰うことができました。

キンメダイというのは、鯛の仲間ではなくキンメダイ目キンメダイ科に属する深海魚だそうで、東京近郊では伊豆半島あたりが有名です。因みに鯛というのは、スズキ目スズキ亜目タイ科に属する魚だそうで、スズキの親戚のようなことらしいです。ま、そのような専門的なことはともかく、要するに食べて美味ければそれでいいのです。

というわけで、ようやくありついたキンメダイのアラ炊きにしばし集中しました。恐らく1匹分のアラなのだと思いますが、大皿に盛られたその分量はかなりのもので、もしこれがアラでなかったならとても一人で全部を平らげるのは無理と思えるほどです。アラの良くてちょっぴり哀しいところは、それほど大量に見えても、食べられる箇所は殆どないということで、僅かに残っている顔面の筋肉や目玉の周りのゲル状のものなど、こう書いてみると何だかちょっぴり悪食の感が出てくる気がします。ま、しかしそれらを丹念に、丁寧に賞味させて頂きました。キンメダイ君に恨まれるのか感謝されるのか、よく判りませんが、折角頂戴して味わう生命なのですから、感謝をこめてしゃぶり尽くした次第です。

自慢ではないですけれど、自慢なのは、私の魚の食べ方は基本的によほどに骨の堅い魚を除いては、跡形も無く平らげるということです。メザシでもサンマの塩焼きでも食べた後に残すものは何もありません。家内などは今の歳になっても、小魚を食べると喉に骨が刺さるなどと恐れをなしているのですが、私の場合は小骨の存在など認めていませんので、喉に引っかかるはずが無いと思っており、事実そのような目にあったことはありません。

しかしさすがにアラ炊きになるような魚の骨は、これはもう食べるというのは無理で、しゃぶるだけで終わりです。古希を迎えている男が、形振り構わず30分以上も魚の骨をしゃぶり続けている姿は、下品としかいいようが無いと思いますが、そもそも生き物は品などを考えないのが本性なのだという信念がありますので、一向気になりません。30分以上も美味を求めてしゃぶり続けても、実際に吸収するカロリーは少なく、健康にもグッドなのですから、アラ炊きは最高の食べ物だなと思います。十二分に満足して、お皿にもう一度新しい骨の山を築いて、今日の念願は果たされたのでした。真に他愛ない話でありました。

     

 左は食べる前の大皿に山盛りにされて出されたキンメダイのアラ炊き。右は一回り小さなお皿に盛り上げた食後の残滓。ウメガッタァ~。

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ボランティアを開始する

2010-05-19 04:14:41 | くるま旅くらしの話

連休明けから週に2日ほどボランティアを始めました。多くの場合、ボランティアと言えば、地元の名所旧跡のガイドや公共施設の清掃などがイメージとして浮かび上がりますが、私のボランティアはそのような公共性のあるものではなく、私と同世代同年齢の知人の夢を実現するための手助けなのです。その夢とは、簡単に言えば実験農園の運営ということなのです。従って、私のボランティアというのは、農園のお手伝いということになります。そのことについて触れたいと思います。

キャンピングカーに興味・関心をお持ちの方なら、AC(オートキャンパー)誌などをご覧の方なら、RVランドというビルダー会社をご存知の方が多いのではないかと思います。RVランドは、私が現在住む守谷市に拠点を置いておられたのですが、数年前丁度私が守谷市に越してきた直後の頃、隣の常総市に引越しをされました。RVランドは、単なるキャンピングカーのビルダーというだけではなく、この業界では日本一と思われる広大な常設のキャンピングカーの展示場を持っておられ、自社製のキャンピングカーは勿論、何社かのキャンピングカーの展示をはじめ、多数の各種中古車が広大な敷地の中に展示されています。又展示場だけではなく、会員制のキャンプ場もその中に設けられており、キャンピングカーを用いたくらしの体験ができるような工夫も施されています。車だけではなく、車を使ったくらしの実際を体験できるというところまで手の届いているという会社は、この業界の中では数少ないのではないかと思います。

私のボランティアの知人というのは、このRVランドの社長のAさんなのです。Aさんとは、守谷市に越してきて間もなく、「くるま旅くらし心得帖」という拙著を著わした頃に、「キャンピングカースーパーガイドオンライン」の町田編集長を介して知り合いとなった間柄で、その後時々常総市に越されたRVランドをお邪魔して話を交わすという関係でした。Aさんは私と同年同月の生まれであり、その経歴も実務経験も全く違いますが、人生の考え方については賛同し合うものが多く、ご近所に心を許して(?)話の出来る知己を得たと、嬉しく思っています。

そのAさんが、一昨年だったかのお邪魔した時に、「今度八郷町(現在は茨城県石岡市)に土地を買って、農場を作ることにしました。遊びに来てください。又時々一緒に手伝ってください」という話をされました。かなり広大な土地のようで、この土地を使って果樹や野菜などを作り、キャンピングカーのお客様などにもお越し頂いて、一緒に土の生み出す成果を味わい、大自然の良さを感じて頂きたいというような話でした。もともと野菜や果樹栽培などに興味・関心のある自分にとっては、このAさんの話は、実に面白そうな魅惑的な話だったのです。

ところが、そのお話を伺ってから、気になりながらも現地をお邪魔しないでいる内に、あっという間に1年以上が経過してしまいました。そして連休前の4月末に、思い立ってその農園を訪ねたのです。ちょっぴり道に迷いながら、たどり着いたそこは、想像を超える広さでした。一辺が約120mもある正方形の土地で、面積は約1万5千㎡(4500坪)もあるのです。入口に「八郷フルーツランチ ・果樹総合研究農園 ・会員制滞在型体験農園」という看板がありました。

   

RVランドフルーツランチ(果樹農園)の案内板。一見、キャンピングカーとは無縁のように思われるけど、この農園の目指すところは、キャンピングカーライフにもつながっている。

扉を開けて頂き、中に入って農園と各施設をご案内頂いたのですが、その内容は想像を遙かに超えるものでした。園内には様々な果樹や樹木が植えられ、所々の畑には何種類かの野菜が作られていました。又ビニールハウスもあり、その中では南国系の果樹や野菜などが栽培されていました。その他に果樹の加工の研究を行なう施設があり、様々な用具などが所狭しと置かれていました。いやあ驚きました。来る前まではこれほど本格的に取り組まれているとは想像していなかったものですから、Aさんの夢の大きさに圧倒された感じがしました。

   

RVランドフルーツランチの景観。広すぎてとても1枚の写真には収まらない。向うに見える林は筑波颪(おろし)から農園を守る防風林である。

   

園内にあるブルーベリー園。まだ幼木の面影を残しているが、昨年もジャムを作れるほどの収穫があったという。今年も豊作が期待されている。

その後いろいろとお話を伺いましたが、この広い農園を、現在は週に3日間泊りがけで出向いて来ておられ、この間何人かのお手伝いの方の力を得て面倒を見ているということでした。トラクターやユンボなども備えられて、力作業は大丈夫のようでしたが、細かな作業となると、なかなか行き届かない現実があるようで、見たところでは、例えば木の苗の植樹の後の支柱なども、不安の残る手当ての状態なのでした。農業というのは、細かなところに如何に手を届かせるかというのが勝負の一つとなるのは、私自身も農家の出であり、遠い少年時代の経験ではあっても、その大切さを思い出すのはそう難しくはありません。Aさんは農業経験が殆ど無い方のようですから、ご苦労の大きさを察することができます。

私は、Aさんの夢の実現のお手伝いをすることを決心しました。二人の老人が(このような言い方をすると、Aさんは気に入らないに違いありませんが)意気投合して果樹や蔬菜の園芸栽培に汗を流すという光景があってもいいように思ったのです。私には旅がありますので、100%のお手伝いはできませんが、都合のつく時間には必ず来て、一緒にこの樹木たちの手入れや野菜作りに汗を流そうと決めたのです。思ったのではなく、決めたのです。それほどに、Aさんのこの農園経営に傾ける情熱と、そのベースにある考え方に同感、同意を覚えたのでした。(これらの考え方については、おってご紹介したいと思っています)

ということで、その第1回目を先週開始したのですが、第一番目の作業は、約400本もある果樹の幼木に確実な支柱を設えるということでした。このために、事前に5日間ほど毎日小貝川の堤防脇に出向いて、支柱用の女竹を採りました。支柱は1本の苗木に3本必要なので、もし400本全てならば、1200本の女竹が必要となります。これはかなりの数です。とりあえずは約500本ほどを採取して持参しました。

2日間で約100本ほどに支柱をあてがいましたが、実に楽しい時間でした。一本一本、幼木たちと対話しながら、女竹を地に打ち込み、その3本を紐で結い、木が一番風雨に耐えられやすいポジションに落ち着かせるという作業は、単純なようで結構味わいがあり、退屈無しの作業でした。100本の木では、百回の対話を楽しむことができるのです。この後、数年は彼らと毎年対話をしながらメンテナンスに取り組むことになるのだと思います。

   

支柱を添えた後の樹木たち。このあたりには各種のサクランボが植えられている。実がなるまでには、あと数年はかかるかもしれない。

第1回目はそのような作業に終始しましたが、夜になってAさんとの一杯やりながらの歓談は、まさにお互いが生きていることの楽しみを味わえるひと時でした。これから先、このような時間がずっと続くことを、そしてAさんの夢が私の夢と重なって、見事に実現することを願っています。これからもこのボランティアの話は時々出てくることでしょう。何だか旅の一場面のように思えるのです。

<今回はここまでです。なお、これからはブログを時々休むのは、泊りがけのボランティアの時が該当することになると思います。今日は第2回目の出発日です。>

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