山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

反省と出発

2012-05-30 23:47:30 | その他

  九州の旅から戻って半月以上が経ち、ようやく普段の暮らしに戻りつつあるというところです。ブログに掲載した旅の間の出来事などの記事を冊子にまとめる作業が一昨日終了し、まさに一段落したという気分です。この間2度ばかりブログの記事を読みなおしたのですが、それにしてもまあ誤字・脱字の多いこと呆れるばかりです。それだけではなく、前後関係から見ても意味不明の文章があったりして、よくもまあこんなことをそのまま記載したものだと恥入っている次第です。

弁明できるとすれば、二つばかり理由があり、その一つはパソコンが小さくて画面もキーボードも小さいため、暗がりの中では文字や記号が良く見えないということと、もう一つは何しろ早朝(というより深夜といったいいのかも)の作業であり、老人には寒さが次第に思考を鈍らせ集中力を欠かせて、取り敢えずとにかく何とか早く終わらそうという気持ちを膨らませて、それに妥協してしまうということなのでした。肉体と精神と、共に老化が始まっているという証なのでありましょう。しかし、弁明出来ない最大の要因は、これはもう文才の無さということであり、改めてそれらを思い知らされたここ数日間でした。

 間もなく5月も終わろうとしています。ブログを開始以来これほど長く掲載を怠ったのは、もしかしたら初めてなのかもしれません。その怠慢からそろそろ脱却しなければと思っています。旅から戻ってこの半月の間、新緑の季節だというのに明るいニュースは殆どなく、連日天気までもが荒れ模様で、昨夜も夜遅くまでドンパチ、ゴロゴロと大騒ぎでした。地球環境を掻き回している人間どもの行為に対して、天の意も乱れを禁じ得ないというところなのでしょうか。いろいろな面で、いろいろな点で今の日本国は閉塞感が満ち、停滞感、沈滞感が重く横たわっている感じがします。

 さて、何から再開すればいいのか、只今それを模索中です。とにかく自分自身からの閉塞感から抜け出さなければならないと思っています。こんなに良い季節なのに何時までも暗い気分を持ち続けるなんて愚の骨頂です。こんな時には外に飛び出して邪悪なものを吐き出し、新鮮な空気を胸一杯に吸うことが大切なのだと思います。明日からは新たな気持ちで自然の観察から始めたいと思っています。

          

「2012 九州ぐるっと旅くらし でこぼこ日記」完成。158頁となりました。10部作製は保存用とすることにしました。

   

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旅の区切り

2012-05-22 00:00:21 | くるま旅くらしの話

 九州の旅から戻って早くも1週間が過ぎ去りました。この間にやったことと言えば、庭の除草と医者通いくらいで、あとは旅の間にお世話になった方々へのお礼の便りを書いただけでした。毎度そうなのですが、旅が終わると半ば虚脱状態のようになり、なかなか元のペースを取り戻すのが難しいのです。今でも元に戻ったとは言い難い状況ですが、どこかでしっかり区切りをつけておかないと先に進みにくくなってしまいます。

  その区切りをつける方法ですが、自分的には旅の記録を冊子にまとめることと考えています。その記録を名付けて「でこぼこ日記」と呼んでいます。でこぼこ日記は既に20冊を超えていますから、私どものくるま旅も20回以上になっているということになります。

 さて、そのでこぼこ日記なのですが、今回からは旅から戻ってから改めて筆を起こすのではなく、旅の間に毎日ブログに掲載していた記事を、多少は見直しを加えることにして、そのまま冊子にまとめることにしました。試しにどれくらいのページ数になるのかとまとめて見ましたら、B5判の大きさで160ページほどになりました。今回の旅のブログは、携帯ではなくモバイルPCで作成しましたので、いつもよりは長文となってしまったのです。加筆修正などすると更にページ数が増すことになります。果たしてそんな厚さの印刷物を冊子に出来るのか、製本の技術に不安を抱いています。というのも、全て手製だからです。何ごともチャレンジだと考え、取り敢えず10冊ほど作ってみたいと思っています。

 今回からこのでこぼこ日記だけではなく、長年の宿題にしていた旅のエッセーを書くことにしています。ブログの記事とは違った、旅の中で拾った様々な宝物について、写真なども使ってのエッセー集にまとめたいと思っています。これらのエッセーは、旅での出来事を少し温めてからでないと動き出しませんので、少し時間がかかると思っています。秋ぐらいまで掛かってしまうのではないかと思っています。

 何もこんなことをわざわざここで公言するようなことをしないでもいいとは思うのですが、自分に対してねじを巻くためには、時には言いふらすことも必要なのではないかと思っているものですから。司馬遼太郎先生の本の中に「言い触らし団右衛門」というのがありますが、彼の主人公と同じような心境なのかもしれません。

 ところで、夏の北海道行の凡その日程が決まりつつあります。と言っても、出発の時期と帰宅の時期だけの話で、それ以外で決めているのは、道東に定点を決めてあまり動き回らないで腰を据えて北海道の夏を味わうということです。出発の時期は7月の第1週です。今年はどうしても浜中町の散布(ちりっぷ)という所にある原生花園のハクサンチドリの花を撮りたいと思っているからです。恐らく7月の10日前後辺りが花の最盛期ではないかと予想しています。群れ咲くハクサンチドリの花たちを思い浮かべるだけで、もう胸がドキドキしてきます。富良野などの人工的な花畑も素晴らしいですが、原生花園の花たちには本物を感ずる心の喜びがあります。帰りはリミットを9月の第3週辺りにすることにしました。家内共々医療機関のお世話になっている身なので、これ以上の滞在は何かと支障が出てくることになり、致仕方ありません。

 旅から戻って直ぐに又旅の話をするのは不謹慎なことなのかも知れませんが、私の中では、老人世代には先送りの過ごし方は禁物だという考えが強まってきています。「あとで、その内に、次の機会に」などと言ってやりたいことを先送りしていると、何もせぬままに人生が終わってしまうような気がするのです。老人は何ごとも思い立ったら吉日で臨むべきはないかと思うのです。今できることを今行うことが大切だと思うのです。出来ないことを無理してやるというのではなく、出来ることをやるのです。どう頑張ってみても、或いは運が良かったとしても、自分の思いが思い通りに実現できるのは、せいぜいあと10年くらいのような気がします。それを過ぎれば身体の方が言うことを利かなくなるのは自明のことです。勿論その前にとんでもない病に見舞われるかも知れず、生命の保証など何もないと考えるべきでしょう。そう考えると、今できることをやっておくことの重要性が解るのです。

 ま、このような考え方には全く問題がないというわけにはゆきませんが、残りの人生を考えると、私ども夫婦の考え方は一致しており、やはり旅を優先させたいということなのです。タイトルとは少し違った話となりましたが、九州の旅を終えての現在の状況報告でした。

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‘12年 九州春旅レポート <第43日=5月13日(日)>(最終日)

2012-05-14 00:42:23 | くるま旅くらしの話

【行程】

東名道:足柄SA →(東名道・首都高・常磐道)→ 谷和原IC → 自宅         <141km>

【レポート】

 足柄SAは予想以上のトラックの騒音だった。うっかりトイレに近い場所に車を留めて寝てしまったため、気がつけば両側にトラックが密着してエンジンをかけたまま停まっているという状態で、最悪だった。まあ、諦めていることとはいえ、どうしてこんなにエンジンをかけたまま寝なければならないのだろうかと、疑問は消えない。エンジンを切っている車もいるのだから、これはもう運転者の心掛けなのだと思う。とするならば、法的な規制を加える必要があるのではないか。夜間ずっとエンジンをかけている間に排出されるガスによる大気汚染は、法的な規制を加えるに十二分な酷さだと思う。朝の箱根の清新なはずの空気も相当に汚されている感じがした。

 旅も今日で終り。東京まではあと1時間ほど。上手く行けば午前中には帰宅が可能である。東名道は何のトラブルもなく通過。首都高も殆ど渋滞なしで常磐道に入り、我が家への到着は10時3分だった。出発したのが8時5分だったから、富士山麓の足柄SAから2時間足らずで来てしまったのは驚きだった。旅の日数は43日間。総走行距離は6,076kmだった。

何はともあれ、事故に出会うことも起こすこともなく、相棒もつつがなく、又車の方も大したトラブルもなく一同元気で帰宅できたことは祝着至極のことだった。変な自賛である。これらのことは、自分たちの心がけや力でできたことではなく、旅を見守って下さった多くの方たちのお力の賜物であり、旅で出会ったたくさんの方々から頂戴したお力によるものだと思う。

 旅の締めくくりはしばらく後にすることにして、先ずはブログからも離れて、少し静養することにしたい。この後、夏には今年も北海道行を意図しており、束の間の静養で英気を養うことにしたいと思っている。裏庭の野草園のエビネたちはもう咲き終わってしまっているかと思っていたのに、それにキンランまでもが加わって、満面の笑顔で迎えてくれたのは嬉しかった。

我が家の野草園のエビネたち。まん中の小さな黄色の花はキンラン。丸い葉っぱはイカリ草。細長いのはカンゾウたち。皆春を喜んでいるのが実感できて嬉しい。

 

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‘12年 九州春旅レポート <第42日=5月12日(土)>

2012-05-13 05:05:19 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:シーサイド高浜 →(R27)→ 上中町・瓜割名水 →(R27)→ 北陸道敦賀IC →(北陸道・名神道・東名道)→ 東名道:足柄SA(泊) <434km>

【レポート】

 昨夜来の悪天候は朝になっても変わらず、風雨はかなりキツイままだった。せめて朝のニュースぐらいは聞きたいものだと、アンテナの方向を決めるのに参考になる建物がないかと探したのだが、どの住宅にもアンテナなどは全く見当たらなくて、設定するのを止めた。どうやらこの辺りは原発誘致の恩恵を受けてアンテナなしでもTVが見られる環境が出来上がっているのではないかと思った。原発は地元の人にたちにとっては、功罪大なるものがあるようである。

早々に出発することにして、近くにある新しい道の駅:若狭おばまを目指す。ここでトイレ処理などをした後、次は名水の瓜割の滝に寄り最後の水汲みをして敦賀市へ。ここで給油をした後、北陸道に入り、その後は名神、東名と進み、三ヶ日JCTからは新東名道へ。この道は実にいい走りだった。なんでも新しい物が良いのは世の常だけど、高速道は特にその良さ加減は最大級だなと思った。時速100kmで走っても何ら違和感なし。特にトンネル内は安定感抜群だった。幾つかの新しいSAなどに立ち寄ったが、どこも超満員で辛うじて駐車場所を確保したのだった。新しいといってもそれを実感するのはトイレくらいで、その他の売店などの中身は既存のSAなどと少しも変わってはいない。人間というのは、先ずは期待し、やがてたちまち失望する動物の様である。

今日中に帰宅するのも可能なのだが、今日は400km以上走って疲れたので、新東名道から東名道に入って最初のSAの足柄に泊まることにして錨を降ろす。

【今日(5/13)の予定行程】 

道の駅:東名道:足柄SA →(東名道・首都高速・常磐道・R294)→ 自宅 

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‘12年 九州春旅レポート <第41日=5月11日(金)>

2012-05-12 06:02:37 | くるま旅くらしの話

【行程】

米子市弓ヶ浜・Aさん宅 →(R431・R9)→ 道の駅:大山恵みの里 →(R9)→ 道の駅:大栄 →(R9)→ 道の駅:はわい →(R9)→ 道の駅:ようか但馬蔵 →(R9・R175)→ 道の駅:舞鶴港とれとれセンター →(R27)→ 道の駅:シーサイド高浜 (泊) <276km>

【レポート】

 今日からは帰宅のための移動日となる。Aさん宅を出た後は、ひたすらに山陰路を舞鶴方面へ向かって走り続ける。山陰の高速道は未整備のため分断されており、すべて無料区間となっている。8年前とほとんど進展していないということは、何だか為政者の怠慢の様な気がした。途中幾つかの道の駅に寄りながら、道の駅:シーサイド高浜に錨を降ろす。高浜は福井県にある幾つかの原発の一つがある場所だけど、今は原発は活動を停止している。道の駅はその最も近い距離にある感じだけど、今日は強風が吹いており、原発はその風よけの衝立の向こう側にあり、まあ大丈夫だと思いながらの泊りだった。それ以外に書くことなし。

  強いて書くとすれば、寒いということくらいか。どうやら日本国全体が異常気象の中に嵌ってしまっているようだけど、山陰路はどこも強風が吹いていて、車の外に出ると寒いのだ。外気は10℃前後を指しており、冬に逆戻りの感がある。高浜も同じだった。

  久しぶりに300km近くを走り、なぜか疲れた。駅にある温泉ではない風呂に入り、夕食を済ませて早々に寝床に潜り込む。今日は書くことが無くて良かった。読まれておられる方も馬骨子と同じではないかと思った。

【今日(5/12)の予定行程】 

道の駅:シーサイド高浜 →(R27・R8・北陸道・名神道・東名道)→ (未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第40日=5月10日(木)>

2012-05-11 04:46:09 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:津和野温泉なごみの里 →(R9)→ 道の駅:夕陽パーク三隅 →(R9)→ 道の駅:サンピコごうつ →(R9)→ 道の駅:ロード銀山 →(R9)→ 道の駅:あらエッサ →(R9・R431)→ 米子市弓ヶ浜・Aさん宅 (泊) <242km>

【レポート】

 今日からは帰宅に向けての移動日である。只ひたすらに関東はつくば市の方向を目指せばいいのだけど、滋賀県辺りから高速道に乗るまでの間は、気が向いた所には寄ってゆきたいと考えている。それで昨日急に思い立ったのが、旅の知人で米子市は弓ヶ浜にお住いのAさん宅訪問だった。突然のことなので少しとまどいもあったのだけど、メールをしてみたらご在宅の返事を頂戴した。それで、今日はお邪魔することにしている。Aさんには以前にこちら近くに来た時もお会いしたくて連絡したのだったが、その時は生憎不在されており願いが実現できなかったのだが、今回はそれが叶って嬉しい。今日は先ずこの願いを実現するのが目的であり、それ以外のことはそこまで行ってから考えることにしている。

 津和野の道の駅の一夜はトラックの騒音など全くなく静かで、二度寝の熟睡の時間を送ることができて満足だった。でもあまりにも静かで、朝をかなり過ぎても何の動きもないので、何だかこの町の活力が萎えているような気がして少し心配になった。朝方からもう少し元気があってもいい町なのではないかと思った。ま、ここは本来の町筋からは少し離れた場所なので、致し方ないのかもしれない。でも外部から訪れた者にはかなり重要な場所だと思うので、何かもう一工夫あってもいいのではないかと思った。

 9時少し前出発。山の中をしばらく走って、やがて益田市に出て、海側へ。益田市街は新しく造られた道を通ったので、混雑や渋滞を避けることができ、思ったよりも早く通過することができた。山陰エリアは未だ高速道路が全通しておらず、おもな都市と中国道につながる路線は幾つか出来上がっていても、山陰道自体は未だ分断的に出来上がっている状況で、やはり今の時代では不便ということになるのだと思った。例の仕分けという奴では、どのように位置づけられているのだろうか。今頃の政治家さんたちのやることは一貫性が無くて判らない。高速道路の無料化も一時的な気まぐれ政策に終わっているし、失望に次ぐ失望が今でも続いている。

 浜田市街を通過するについては、表示の案内板ではバイパスと高速道路の識別がはっきりせず、ナビは旧道をガイドするのでそちらに向かったのだが、結果的にはわざわざ遠回りの混雑地帯を走ることとなり、不慣れな者には不親切な案内だなと思った。このような箇所が時々散見されるのに対しては、自分の非を認めるよりも、交通行政の欠点を責める気分になってしまうのは、いつもの通りである。そろそろ給油をしなければと思いながら走っていたのだが、まあ、何と軽油の価格の高いこと。島根県に入って以降価格表示をしていない給油所が増えたのに合わせて、表示している所でも皆ガソリンとの価格差が20円にも至っていないのである。全国ほとんどの場所では、例えばガソリンが152円ならば軽油は20円安以下の132円よりも下なのに、このエリアでは136円を上回っている所が殆どで、一体これはどういうわけなのかと思った。このエリアでは軽油の需要が低いのかそれともその反対なのか、どうも解し兼ねる価格建てである。背景にどんな事情があるのか知らないけど、善良な顧客を業界全体で騙しているのではないか、などと思った。そのような中で、茨城県辺り並みの価格の店をようやく発見して給油を終える。その店は安来市近くにあって、それまで我慢して給油しなかったのが報われた思いだった。ちなみに価格はL辺り123円だった。

 途中幾つかの道の駅に立ち寄りながら、昼食なども済ませ、米子市に入ったのは16時頃だった。津和野から米子までは大した距離ではないと思い込んでいたのだが、いざ走ってみると島根県の面積の広いことに驚いたのだった。詳しいことは解らないけど、この県を東西に横断する距離と茨城県を南北に縦断する距離とでは、島根県のそれの方が長いように思った。Aさん宅をお邪魔する予定時刻も連絡の度に遅くなって、到着したのは16時半近くだった。

 道の入り口の所まで、道が判りにくかろうとわざわざ出迎えてくださったAさんにご案内頂き、無事お宅に到着する。初めての訪問だった。Aさんとは北海道の旅で何度かお会いして、そのお仲間の方たちともいつか自然と知り合いになっている。旅の知人の連鎖というのは、面白いもので、どういうわけなのか気の合った人とのつながりの輪が広がってゆくのである。友達の友達は皆友達よ、というのは真理である。人の輪とか絆とかいうものは、そのようにして形成され、強まってゆくものなのだと思う。Aさんご夫妻とは今までそれほど親しく話などしないままに来ていたのだけど、今日はお宅をお邪魔してどんな話が聞けるのか楽しみである。

 Aさんは根っからのアウトドア志向の方のようで、広い庭の脇にはピザを焼く竈が設えられており、その上には簡易風の小屋も設けられていた。すべて手造りとのこと。自分の知り合いの中には、このような物作りの万能の方が多い。全くその反対の位置にいる自分とは不思議な組み合わせなのだが、とても真似はできないので、ただ感嘆しながらその作品を眺め、その余慶に与るだけなのである。これが自分の宿命だと達観することにしている。そのご自慢の竈で焼いて頂いた奥様手作りのパイを頂きながら、まあ、その他のごちそうにも舌鼓を打って、頂いたお酒の美味かったこと。結局ここに泊めて頂くことになり(というよりも初めからそう決まっていたという感じ)で夜遅くまで酒を酌み交わしての歓談となった。嬉しくも楽しい時間だった。(歓談のことは大切な思い出なので書かないことにしています)旅の中での最も充たされた時間の一つが、知人との楽しい交流であることは間違いない。今日はそれをしっかりと味わえたのだった。突然の訪問だったのに、快くお迎え頂き、素晴らしい時間をご用意いただいたAさんご夫妻に心から感謝申しあげます。ありがとうございました。Aさんの庭には旅車が3台も泊まれるスペースが用意されており、真に羨ましい次第であった。その中に車を留め、満たされた気分のままに静かな一夜を送ったのだった。

【今日(5/11)の予定行程】 

道の駅:米子市・弓ヶ浜Aさん宅 →(R9他)→ (未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第39日=5月9日(水)>

2012-05-10 06:39:29 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:おおとう桜街道 →(R322)→ 小倉南IC →(九州道)→ 吉志PA(給水)→めかりPA → (九州道・中国道)→ 小郡IC →(R9)→ 瑠璃光寺 →(R9)→ 道の駅:長門峡 →(R9)→ 道の駅:願成就温泉 →(R9他)→ 津和野市内散策 → 道の駅:津和野温泉なごみの里 (泊) <124km>

【レポート】

 今日は九州からおさらばする日である。移動日となるわけだが、寄りたいところもあるので、適当に進路を決めて進むことにしている。予定としては、北九州の都市部の混雑路は避けたいので、小倉南ⅠCから高速道路に入って山口県の小郡ICで出て、そこからは国道9号線を辿ってゆくことにした。今日は相棒の希望もあり、津和野の道の駅まで行ってゆっくり小京都の町を散策し、その後で温泉のある津和野の道の駅に泊まることにしようかと考えている。

 大任の道の駅は良く眠れて朝の目覚めも快調だった。この道の駅ではもう一本新しく温泉を掘り当てたとかで、現在も掘削工事が行われているようだった。近々より規模を拡大して、道の駅を日本有数のものとしてゆく考えを持っておられるようである。1億円の自慢のトイレもその先行投資だったのかも。せっかくなのでその1億円のトイレを味わってから出発することにして、9時を待つ。前回は写真を撮るためだけにトイレに入っただけだったが、今日は心行くまで(?)その座り具合などを楽しんだ。まあ、快便だったと言っておこう。売り場には朝採りの新鮮な野菜が山ほどに並んでいたが、車の中は飽和状態に近いので、買うのは止めて出発となる。

 香春岳の麓を走る道を小倉の方に向かって走る。この辺りは石灰岩の山が多く、それを採取してセメントを作る大規模な工場が幾つかある。この山の近くの地下には黒ダイヤが大量に埋まっていたのかもしれない。しかし今はそれらの殆どを掘り尽くして、その後に今の日本が出来上がっていると考えてもよい。大宰府に政庁があった時代には想像もできなかった時代がすでに過去となってしまっている。この先にはどのような変化の時代が待っているのだろうか。ここ百年余りの間に人類の歴史は猛スピードで進化・革新を遂げたけど、それは今では地球にとって本当に必要なものだったのかと思われるくらい、環境に影響を及ぼし始めているような気がする。田川から小倉に向かいながら、今、自分たちがこうして旅ができる幸せと、その反面につくばの竜巻などこの頃急激に変化を見せる気象の在り様など思いながら、北九州のエリアが今の日本をつくるのに寄与した役割などを思った。少しオーバーだけど、老人の思いは若者とはやはり違うのである。

 小倉手前の小倉南ICから高速道に入る。久しぶりの高速道の走りである。少し走って、吉志PAという所で、今朝汲めなかった水を補給する。大任の道の駅はトイレや温泉など優れた施設や設備を備えているけど、水を汲んだり飲んだりする設備がない。何だか大切なものが抜けているように感じながら出発したのだったが、高速道のSAやPAには、所々給水所が設けられているのがありがたい。くるま旅の者にとっては、水はお金を出しても補給しなければならない重要な生活の必需品だからである。先ずは補給が終わって安堵する。その後は馬関海峡を俯瞰するめかりPAに立ち寄り、しばらくその景観などを楽しんだ。そこから1時間弱高速道を走り、中国道の小郡ICで降りて国道9号線へ。この道がこれからしばらくご厄介になるメインの道である。間もなく山口市に入り、瑠璃光寺に立ち寄る。

 保寧山瑠璃光寺は国宝の五重塔を備えている。このお寺のことは良く知らないけど、この五重塔は素晴らしい。数ある五重塔の中でも最も美しいものの一つに間違いない。国宝に相応しい佇まいだと思う。この近くを通る時には必ず寄ってその姿を拝観することにしている。今日も本堂に坐し般若心経を唱えたあと、じっくりとその姿を味わったのだった。今日は太陽の光の関係で、池に映えるその姿までは望めなかったが、いつ見てもその優雅な姿には心を洗われるものがある。新緑に包まれて今日の五重塔も見事な立ち居振る舞いだった。拝観の後は近くの蕎麦屋に入って昼食。久しぶりの蕎麦は美味かった。

     

瑠璃光寺五重塔。その美しいたたずまいは、真に国宝にふさわしいと思う。この景観が永久に残っていてくれたらと思うのは自分一人だけの願いではないと思う。

 再び車を走らせ、今日の目的地の津和野を目指す。途中にある道の駅、長門峡や願成就温泉などを覗きながら津和野市内の有料駐車場に着いたのは、14時少し前だった。津和野は何回か訪れているけど、今日は特に相棒の要望が大なのでここに泊まることにしている。夕方まで心行くまで町の風情や所要を果たして欲しいと思っている。自分的にはそれほど感じているものはなく、秋月などの町並みとさほど印象は変わっていない。小京都というけどちょっとオーバーな気がしている。車を入れるとすぐに飛び出していったのは毎度のことであるけど、自分の方はなんだか疲れてしまって直ぐには出てゆく気にもなれず、先ずは午睡から始めることにして1時間半ほど寝床で惰眠を貪る。

 15時半ごろ起き出して散策へ。城下町の面影を残すメインストリートを往復して津和野の町の感触を確かめる。古い造り酒屋さんで地酒を一本求める。津和野は町役場があたかも殿様の屋敷の様な存在なのが面白い。町の施設の幾つかは昔の武家屋敷跡らしき所に設けられているようで、今昔が一体化して存在している感じがする。それらの屋敷を隔てる小さな堀の流れの中に育った鯉たちは何年か前に見たときよりも数回り巨大化しているように見えた。鯉という魚は一体どれほどまで大きくなるのだろうか。人を恐れるでもなく、大きな目玉をこちらに向けて挨拶する奴が何匹もいて、やっぱり鯉こくなどを食べるというのは間違いだなと思ったりした。自分は魚大好き人間でけど、鯉だけは食べる気がしない。食べるのが可哀想なのだから仕方がない。30分ほど歩いて、そろそろ引き上げようかと思っていると向こうから相棒が歩いて来るのにであった。元気である。このエネルギーはある種の慾と結びついているに違いないと思うことがある。これからツワブキの佃煮の様なものを探して駅の方まで行くのだという。目当てのものが見つからなかったらしい。ついて行く気にはなれず、そのまま反対方向を歩いて土産物屋などを覗きながら車に戻る。相棒は先着していた。やっぱり見つからなかったようだ。時代は変わっているのであろう。

     

津和野町役場の門構え。如何にも町の中心部という存在感のある建物である。付近にナマコ塀の白壁が続いており、この中で働く人々はどんな思いを持ちながら毎日を過ごしているのかなと思ったりした。

 道の駅に向け車を走らせる。ここからは2kmほどの距離で、5分もかからない。途中のいつもの道が工事中で通れず、迂回を余儀なくされた。道の駅は車も少なく閑散としていた。ゴールデンウイークが終わって、今は一息ついている時なのかも知れない。駅舎の中を一回りしてみたが、ここで販売されているのは殆どが加工品であり、地元産の野菜や食品などは殆ど並んでいなかった。お菓子類などは多いけど、津和野を印象付けるものは少なくて、何だか先ほど見てきた津和野の町のイメージとはつながっていない施設のように感じた。温泉の方は、昨日も入っているので敬遠した。入浴料600円は少し高い気がする。夜まで少し時間があるので、TVなど見ながら過ごす。

 明日は山陰路を鳥取県は米子の先辺りまで行くことになるのかなと思っている。今回は九州以外のエリアの地図を持参していないので、詳しいことが判らず、過去の経験などを思い起こしながら京都の裏側まで行って、琵琶湖周辺から高速道に入ろうと考えている。15日の帰宅予定だけど、休日を利用しての高速道の走行を考えると、13日の日曜日の帰宅となるかも知れない。まだわからないけどそんなことを相棒と話ながら夜を迎えたのだった。

【今日(5/10)の予定行程】 

道の駅:津和野温泉なごみの里 →(R9)→ (未定)

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‘12年 九州春旅レポート <第39日=5月8日(火)>

2012-05-09 07:13:03 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:たちばな →(R3・R442・K15・R385)→ 道の駅:吉野ヶ里 →(R365)→ 吉野ヶ里遺跡公園 →(R385・R34・R500・R322)→ 秋月城址 →(R322)→ 道の駅:おおとう桜街道 (泊) <124km>

【レポート】

 考えてみれば、もう5月に入って1週間が過ぎ、旅はあと残り1週間となっている。今日は九州観光の最後の日とすることにしている。明日は北九州から山口県に入り、しばらく山陰路を行くことにしている。当初は山陽道を行こうかと考えていいたけど、天気も少し安定して来たようだし、気温は北側の方が低いはずだから、持参した着衣のことを考えると山陰の方がいいのではないかと考えた次第。夏用のものを殆ど持ってきていなかったのだ。福井からは琵琶湖を回って東海側に出て今度は太平洋側を行こうかなと思っている。ま、しかし実際にはどうなるのかはその時の天候や気分次第である。

 昨夜は終夜傍を通過するトラックの騒音に時々眠りを脅かされた。国道3号線は九州を走る大動脈の一つであり、連休の終わった今は物資の移動が相当に激しくなっているのを実感させられた。旅だなどと言って、こんな所で夜を過ごしている者が、その動きの音をとやかくいう資格はないなとは思いつつも、やっぱりもっと静かな場所を選んでおけばよかったと思うのは、凡人と証である。この道の駅には湧水があり、早朝から汲みに来ている人も散見された。自分たちも出発の前に少し水を汲んだ。ここはTVが全く映らないので、ニュースや朝ドラは、今日の最初の目的地の吉野ヶ里遺跡の駐車場に行ってから朝食の後に楽しむことにしようと、6時過ぎに出発する。久留米などの大都市の混雑を避けるにはその方がベターだとも思った。

 吉野ヶ里遺跡公園までは1時間足らずの道のりだった。しかし駐車場の入り口まで行くと、開場は9時からだと書かれていて、入場は不可だった。ここで待つわけにもゆかず、やむなく道の駅:吉野ヶ里まで行くことにした。ここからは10kmほど山に入った所である。こんなことなら昨日無理をしても吉野ヶ里の道の駅まで来ておけばよかったと思った。遺跡を過ぎると間もなく急な坂道を上り続けることになり、燃料の少なくなっているSUN号には負担と心配の多い道だった。道の駅は福岡県と佐賀県とを分ける背振山系の中腹ほどの高所にあり、眺めは抜群だったけど、吉野ヶ里という駅名には何だか違うのではないかという印象を受けた。7時半前の駅構内には泊りの車は殆どなく静かだった。TVも良く映った。朝食の後朝ドラなどを見て、その後吉野ヶ里遺跡公園に向かって出発。

 坂を下って20分足らずで到着。もう入口はOKだった。吉野ヶ里遺跡はその卑弥呼説のニュースなどを聞いてから久しくなるけど、来訪するのは今日が初めてである。一度は見ておかないと、と予てから考えてはいたのだが、なかなかその機会がなかった。さて、どんなものなのか、興味津々である。入場料の400円は、シルバーは半額となっており、これは良心的だと思った。中に入るとその広大さに驚かされた。弥生の太古の町づくりがどのようになされていたのか、凡その見当はつけてきたのだったが、ここに来て見ると、その実際のスケールの大きさは予想をはるかに超えたものだった。環濠集落の遺跡は幾つか見てきているけど、ここのそれは今まで見た中では最大のものだった。復元した各種の建物などが点在しており、幾重にも環濠が掘り巡らされているのを実物大でかなりリアルに見たのは初めてだった。なるほど、卑弥呼説が生まれるわけだと思った。資料館のDVDを30分ほど見て凡その予備知識を入れた後、南内郭、北内郭などを見て回る。何しろ広大なので、全域をまんべんなく見て歩くのは1日では無理である。主なものだけを見るにとどめることにした。来訪者の殆どは小学生の社会科学習の子供たちで、勉強の準備の用具などはぶら下げてはいるものの、気分は遠足と同じのようで、まあ、賑やかなこと。時々調子を狂わされたけど、子供は大人の、ましてや老人の調子を狂わすくらいで丁度いいのである。叱ったりはしない。北内郭が王宮の在った場所と推察されているらしい。ちょっぴり威厳のある高さのある建物が建てられていた。それを撮っている時にカメラの電池が切れてしまい。それを機に引き上げることにする。     

        

吉野ヶ里遺跡公園内の見張り櫓の上から見た集落の様子。ここは南内郭であり、環濠内には大人と呼ばれる治世の幹部の家があり、柵の外には一般人の集落があるようだった。

 弥生時代というのはインドや中国あるいはギリシャやエジプトなどでは既に幾つもの王朝などが栄えた時代である。その中では、このような形の小さな集落は国家とは言えない未開の場所に過ぎなかった

と言わざるを得ないなと思った。しかし、大和朝廷というものも、その始まりは同じようなプロセスを経て伸展していったのであろう。神話の国と呼ばれる霧島や高千穂などを見て来て、この吉野ヶ里を見ていると、日本国の成り立ちの、神話とその現実との落差を改めて思ったのだった。人間の空想力は無限であり、どんなものでもどんな時間田空間でも自在に創造してしまうのだと思う。だから神話はどのようにでも創ることが可能なのだと思った。そのような心構えでもう一度古事記などを読んでみようかと思った。

 吉野ヶ里を後にして、九州での最後の観光地訪問先となる朝倉市の秋月城址に向かう。途中鳥栖市郊外で給油を済ませ、リンガーハットでちゃんぽんを食する。これが九州で食べる最後のちゃんぽんとなるのかも知れない。美味かった。秋月には13時半ごろ到着。いつもの駐車場に車を留める。いつもというのは、福岡に住んでいた時代には何度もここに来ているからである。駐車場の場所だけは未だ忘れてはいなかった。しかし、その後の城址へ行く道は忘れていて、わざわざ遠回りとなる道を選んだのだった。記憶とは曖昧なものではある。秋月藩は、福岡黒田藩の支藩の一つであった。ここも今では小京都などと呼ばれているけど、わずかに残る武家屋敷の町並みがそれらをイメージさせるのであろう。この場所が気に入って、特に相棒にはいろいろと思い出があるらしい。その後2時間ほどあちこちとその昔を訪ねて歩き回っていた。自分の方は黒門を見ればあとは用がないので、車に戻り午睡を楽しむ。小さな都の中で眠る時間はリッチなものだなと思う。観光というのは目を見開いて動き回るばかりではない、などと勝手な論理での眠りだった。15時半ごろ電話がかかってきて、疲れて坂を上って戻るのがつらいので車で来てほしい、と下方にある石造りの眼鏡橋の辺りにいるらしい相棒からだった。眠りを覚まして車を動かす。どこかで話し込んでいたらしく、その後はあれこれとその話を聞かされることとなった。

     

秋月城の黒門小さいのだけど、何度見ても飽きのこない歴史の深さをしみこませたその姿である。

 秋月の後は、来た道の延長線をどこまでも走ると、4月初めに泊まった道の駅;おおとう桜街道に出るので、今日はそこに行って泊まることにしている。福岡にもう一度寄ることも考えていたが、どうも大都市は苦手で、敬遠することにした。大宰府や都府楼跡などへは行くチャンスは未だ何回かはあるだろうと思っている。秋月からは嘉麻市の方に向かうのだが、嘉麻というのは何とも妙な市名である。4町が合併してできた新しい市なのだけど、なかなか場所のイメージが湧かない。嘉麻郡というのがあったのかもしれないけど、福岡在住時代でもこのエリアに行ったことが無く、せいぜい耳にしたのは嘉穂町の大衆演芸劇場のことぐらいだった。今日はその辺りを始めて通ったのだが、八丁峠とかいう山道はトンネルもかなり上の方に1つあるだけで、相当に厳しい国道だった。しかし、坂を下りて平地になってからしばらく走っていると、突然道の駅:おおとう桜街道の案内板が現れ、あと2kmと表示されていた。一気に緊張が緩んだのだった。1ヶ月ぶりくらいになるのだろうか、もう桜は鮮緑の葉桜となって迎えてくれた。ここには1億円のトイレがあり、相棒はさっそくもう一度写真を撮るのだとか言って出かけて行った。ここには温泉もあるので、今日は九州最後の夜の疲れをここで癒すことにして錨を降ろす。

【今日(5/9)の予定行程】 

道の駅:おおとう桜街道 →(R322)→ (未定)→  道の駅:津和野 (泊)

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‘12年 九州春旅レポート <第38日=5月7日(月)>

2012-05-08 05:47:20 | くるま旅くらしの話

【行程】

道の駅:原鶴 →(R386他)→ 日田城下町散策(咸宜園他) →(R210)→ 道の駅:うきは →(R210)→ 筑後吉井商家町散策→(R210)→ 道の駅:くるめ →(R210・R3他)→ 八女福島町商家町散策 →(R3)→ 道の駅:たちばな (泊) <87km>

【レポート】

 原鶴の道の駅の一夜は快眠だった。駐車場が国道から少し離れた所にあり、夜間のトラックなどの通行量も少なくて静かだった。朝になってニュースを見ていると、真っ先に報道されているのがつくば市をはじめ、茨城県、栃木県エリアを襲った竜巻による被害のことだった。常陸大宮市は自分の育った所であり、報道の中に含まれている多くの地名は皆馴染みのある場所であり、知人も多い。災禍に巻き込まれていなければいいがと思うと同時に、被害にあった方々の悲しみや苦悩を思った。お気の毒である。お見舞い申し上げたい。竜巻というのは、自然現象の中でも、局所を襲う性質の悪いひねくれた奴だと思う。どうしてこんなことが起きるのか、科学的な解析ばかりでは解けない何かがある様な気がしてならない。気を付けるといっても、一体その時に何をどうすればいいのか対処のしようがない気がするのだ。

 今日は伝統的建物群保存地区の探訪ばかりを予定している。先ずは昨日の日田の探訪の続きがあり、その後はうきは市の筑後吉井商家町、更には八女市の福島町の商家の町並みを歩くことにしている。自分としては、このような昔の町並みに多大の関心を持っているわけではないのだけど、相棒の興味関心に引きずられるままに、いつしか今という時代を知る上で、これらの歴史の遺産ともいうべき人々の暮らしの跡を覗くのも面白いなと思うようになった。それにしてもどちらかといえば理系志向の相棒が、どうしてこのような遺産やお寺などに関心を持つようになったのか良く解らない。もっとも彼女のそもそもの関心は、それらの建物の構造や形状などに向けられている部分が多い様で、それが建てられた経済活動の在り様とか為政の在り方などについては、あまり興味はない様なのでやはり理系なのであろう。

 原鶴の道の駅は8時から地産物の販売が開始されて活気を呈していた。ジャガイモが食べたくて探していたのだが、新ジャガは皆メークインばかりで、茹でてそのまま食べるのにはあまり適していないので、このところの各地の野菜売り場などでは買うのを敬遠していた。期待していたここも、やはり同じ品種のものしか出荷されていなかった。九州では今頃出荷されるのはメークインが中心となっているらしい。キタアカリや男爵などの品種はどうなっているのかなと思った。それでも鮮度がいいのとたくさん陳列されているのが嬉しくなって、お昼に食べることにして買うことにした。自分はジャガイモを主食にしてもいいと考えている人なのである。勿論相棒とは無関係であることは言うまでもない。

 原鶴を出発し、昨日の道を戻って日田の町へ。昨日と同じ場所に車を留める。たちまち、あっという間に相棒は豆田町の巷の方に消え去っていった。よほどに昨日心残りがあった箇所があるらしい。そのパワーには呆れるばかりである。普段の家事のグータラなどはどこへ飛んで行ってしまうのか、不思議でもある。こちとらは今日は咸宜園を訪ねるだけにしているので、それほど急ぐこともない。記入遅れになっている日記が数ページもあるので、それを書きながら先ほど買ったジャガイモを蒸かしている内にたちまち1時間以上が経ってしまった。ものを書くというのは結構時間のかかる仕事で、一度に何もかもというわけにはゆかず、日記でさえも毎日書くことができず、しばらく温めるということが多い。ブログだって本当は休みたいと思っているのだけど、どうも空白はいけませんという強迫観念の様なものがあり、旅の間は毎日書くようにしているので、そのしわ寄せが日記などに及んでしまうのである。まさに自縄自縛の世界であり、愚かだとは承知しているのだけど、ま、これは一種の習慣性の病の様なものなのかも知れない。

 で、一段落の後ようやく車を離れて咸宜園に向かっての散策を開始する。豆田町との境に小さな堀の様な川が流れており、只の用水路かなと思いながらその側道を歩いていたら、しばらく行くと説明板の様なものがあり、そこに「中城河岸」と書かれていたので驚いた。その昔は、この川(=運河)はかなり川幅も広く、年貢米などの搬送のために筑後川につながっての水路として使われており、そのこともあってこのエリアは港町と呼ばれているのだとか。港といえば海の傍と決まっていると思い込んでいる者には、山に囲まれた日田の地に港などと言う地名があることを理解できるはずがない。一つ新しい発見をした気分となった。

咸宜園はどこなのか、なかなか見つからなかった。地図も案内書も持たずに、行けば直ぐに判るものとタカをくくって出て来たのだったが、どうやら遠回りとなったらしい。淡窓2丁目とかの地名の書かれた電柱の表示板を見ながら、広瀬淡窓という人物のこの地における影響力の大きさを改めて思ったのだった。私塾の主催者でありながら、全国からの俊才を引き寄せたその力は、相当なものだったのであろう。しかし自分はこの方の著書などは読んだことが無く、一体何をどう教えられたのか、何がそれほどに人々を惹きつけたのかさっぱりわからないのである。江戸時代の書物の中で読んだものといえば佐藤一斎の言志四録くらいであり、朱子学にはあまり興味がない。佐藤一斎に少しく傾倒したのは、陽明学の精神が随所に籠められていたからである。論語孟子はその教祖(?)の真意に拘わらず幕府の御用学問である朱子学となってしまっているので、そこのところがどうも素直になれないのが、自分にはある。淡窓先生がこれほど多くの人に尊敬されているからには、単なる御用学ではない何か心を惹くものをお持ちだったのであろう。咸宜園にたどり着いて、その跡地に立っている遠思楼という書斎や秋風庵と書かれた看板の掛かる建物を見ていたら、管理事務所の方なのかが出て来られて、来訪者の名簿に記載して欲しいと依頼された。その方の話によれば、咸宜園に学びに一人も来ていない往時の国としては、沖縄と北海道だけだとのことだった。わが常陸の国からは2名が来ているとのこと。かなりこだわりを持って江戸時代の国の名をおっしゃっていたけど、我が常陸の国のことはあまりご存知ではなかったようで、何回か常陸というのを話させられて、ようやく納得されたようだった。九州の天領にプライドを持つ人には、坂東の果ての如きにある常陸の国などは知るにも及ばない地方なのかも知れない。

     

咸宜園跡の中に建てられている遠思楼。小さな2階建ての建物の中で淡窓先生はどんな思い巡らしておられたのだろうか。

ところで、日田は天領では最も有名な場所の一つだと思うけど、自分的には天領という言葉はあまり好きではない。幕領というのが正しいと思っている。天領というのは、天子が収める領地という意味であり、幕府が天子であるわけがない。そもそも天子などと言うものはどこにもいないと思っている。天使の方はたくさんいると思うけど、天子などというのは太古の権力者の思い上がりの言葉か、あるいは架空の理想人物像に過ぎないと思っている。だから天領などと言うものはあるはずがない。それなのに天領などと思い込んでいるのは見当違いの錯覚なのだと思う。ま、こんなことを言うと、日田を愛する人からは総攻撃を受け、首を絞められるかも知れない。天領などと言うのはどうでもいいことだけど、日田という町のたたずまいは昔から好きだ。山と川と水と樹木と、人間が豊かに生きる為の環境条件が整っている感じがする。幕府がこの地に目に付けたのも、九州を抑える心臓部として最適と考え、選んだのかもしれない。咸宜園は、その中核的な存在としてこの地に多くの人材を育てたのだと思った。

11時半近くになって車に戻ったのだが、相棒の方はといえば、音信沙汰なしである。今まででこの種の待ち合わせで、この人が先に連絡をよこしたことが無い。携帯電話というのは、連絡が来るのを待つための用具だと思っているようだ。今日もおそらくどこかで話し込んでしまって、戻るのを忘れているに違いない。どうなっているのか確認しようと電話をすると、今戻りの途中でそちらに向かっているとのセリフ。これも常套句である。正確には、「これから戻ることにします(だからつべこべいうな)」ということに違いない。なぜなら、戻るまでにはそれからかなりの時間を要しているからである。毎度のことなので、もはや腹も立たないし、大してイライラもしない。やがて何やら荷物を抱えて問題人が戻ってきた。

食事をうきはの道の駅で食べることにして出発。その後の車の中では、相棒の一方的な報告攻めに会う。その中で最も興奮していた話は、土鈴を作っておられる方と知り合ったらしく、その素晴らしさを盛んに話していた。土鈴といえば相棒に良く似たというよりもそっくりのものがあり、孫たちが幼少の頃にそれを取り出して見せて、これは誰だ?と訊くと、ババタン!と言っていたのを思い出す。何やらそのようなことまでも話をしたらしく、ついにはその方から立派なご本まで頂戴して戻ってきたのだとか。後で見せて貰ったら、その方のお父さんの著作で、立派なハードカバーの表紙には「日田土鈴」と書かれており、作陶のプロセスなども紹介されている写真集だった。吉田東光というその方は土鈴づくりの名工で、その作品は切手にも取り上げられているとか。吉四六さんの作成プロセスが掲載されていたけど、このようにして作品は創造されてゆくのかと、アーティストの神業をそこに感じたのだった。相棒のおしゃべりと時間のすっぽかしも、時には宝探しに役立っているのだと、少しばかりは得心したのだった。

うきはの道の駅での昼食の後は、近くにある筑後吉井の白壁通りと呼ばれる伝統的建物群保存地区へ。事前に観光協会で頂戴した絵地図は、かなりの間違いがあって現地では大いに戸惑わされた。先の院内の石橋の時もそうだったけど、絵地図というのはそれを作る人の心がけによって相当に差があるようで、強調したいものだけをオーバーに書きたくなるのか、細部のことは順序が逆だったり省略したりしていて、イライラすること夥しい。観光協会というのは多くの場合あまりいい仕事をしていないなと思っている。自分の自慢ばかりを吹聴するような姿勢は、インチキの観光案内なのではないかと思った。筑後吉井の白壁通りについても、そのような白壁通りがなぜ残っているのかについては何の説明も見受けられなかった。現地に行けば解るじゃろ、ということなのかも知れない。筑後吉井は筑後川を挟んで昨日泊まった原鶴温泉と対峙するロケーションにある。ここにこれほど立派な商家の建物群が残っていたなどとは、7年間も福岡に住んでいたのに全く知らなかった。何を以てこれほど栄えたのか殆ど解らないのだけど、筑後川の水利がもたらした交易による富の蓄積によることは明らかなのであろう。これらのことを知るのは、帰宅してからの課題である。我々の旅は現地を楽しむばかりではなく、帰ってから苦しむなどいうことが結構含まれているのである。あまりにも白壁土蔵の町並みが立派過ぎるので、何だか違う空間に入り込んだ感じがした。ここは修復が行き過ぎて、逆に昔の面影が新品になってそこに現出しているような感じがしたのである。それにしても建物個々の規模は大きいものであった。

     

うきは市にある筑後吉井の商家の建物群。相当に豪勢な造りに圧倒される。右隅でカメラを構えている人もいる。

筑後吉井の町並みを歩いた後は、八女に向かう。途中道の駅:くるめにて小休止。ここは未だ久留米市のはずれであり、久留米絣の情報を得たいと出かけて行った相棒だったが、その願望は叶わなかったようである。久留米の市街地を抜けて、八女市の方へ。八女市には中心街に福島町商家町という伝統的建物群の保存地区がある。実はこの中に相棒がお茶を買いたいと思っているこのみ園というお茶屋さんがあり、そこへ行けば両方の目的が叶うというわけである。ナビは正確に案内してくれた。「このみ」とは漢字では「許斐」と書く。難しい読み方なのでこのみと店名を表示されたのかもしれない。お茶の方はすでに新茶が造られていて、相棒の願いはようやく達成できたのだった。何しろ関東一円どころか静岡エリアまでもが原発事故の影響を避けることはできない状況にあり、相棒は相当に神経質になっているようで、お茶は九州なら安全と予てから思っていたようだ。紅茶なども作っておられるようなので、この先も何かと頼りにできそうなお店だった。相棒がお茶屋さんと話している間、近くの別の家の方が、キャンピングカーに興味をお持ちの様だったので、どうぞ中を見てくださいを話したら、急いで娘さんを呼んでこられて二人で熱心に見ておられた。くるま旅は憧れなのだという。ぜひ実現してほしいと話したりした。

その後は福島商家町一帯を散策する。ここは筑後吉井とは違って、もっと正直にその昔の面影が残っていると思った。落ち着いた(というのは少し寂しいというのも入っているけど)雰囲気の町並みには、その昔の繁盛した商家の姿が随所に残っていた。ここも初めて来る場所だった。この地がどのような産業で栄えたのかはさっぱりわからない。これも帰ってからの宿題である。17時を過ぎており、車に戻って、今日の宿は近くにある道の駅:たちばなにすることにして出発。15分ほどで到着。

     

八女市福島商家町の建物群の中の一つ今里家住宅。こちらは表通りに面した方で、右手奥に豪勢な庭などのある住まいが続いている。

ここは国道3号線に面しており、夜間の交通量も多かろうと少し心配したけど、他の道の駅も皆似たり寄ったりの条件なので、まあ何とかなるだろうと錨を降ろす。ここには湧水があり、それを汲みに来る人も多くあって、これは嬉しい発見だった。ごみ処理もOKだし、問題は車の騒音だけである。今日もかなり歩き回って疲れたので早々に寝床に入る。

【今日(5/8)の予定行程】 

道の駅:たちばな →(R3・R442・R385)→ 吉野ヶ里遺跡探訪 → (未定)→ 秋月城下町散策 →(R322)→ 道の駅:おおとう桜街道 (泊) 

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‘12年 九州春旅レポート <第37日=5月6日(日)>

2012-05-07 05:03:50 | くるま旅くらしの話

【行程】

里の駅:山香風の郷 →(R10他)→ 杵築城下町散策 →(R210・R10・R500・K11・R210)→ 道の駅:ゆふいん →(R210)→ 日田市城下町散策(豆田町商家町)→(R386)→ 道の駅:原鶴 (泊) <142km>

 

【レポート】

 山香風の郷は道の駅ではなく、里の駅である。大分県には里の駅というのがあり、くるま旅の者には、道の駅に準ずる施設として利用を考えることができてありがたい。このような発想は今のところ他の行政体には無いようだ。車旅の環境は真に貧弱で、我々は常に変わり者扱いである。高額な旅車を買って、公共の施設を無料でぶらぶら旅をして、時に迷惑をかけている連中などと思っている人は多い。実際に迷惑をかけている人もいるのだからあまり反論もできないのだけど、先ずは国や地方公共団体は、もう少しくるま旅の環境整備に力を入れて欲しいと願っている。くるま旅というのは、車社会の中では必然的に生まれてくる旅の文化といっていいのだと思う。車が社会の中で個人にとっても生活に不可欠なものとなっている以上は、これを用いて新しい旅の在り方が生まれてくるのは当然であろう。道の駅は、本来はくるま旅のための施設ではなく、より多目的な車社会のための施設である。これを利用せざるを得ないのは、他に利用できる施設が見当たらないからである。くるま旅はキャンプではないから、キャンプ場は多くの場合利用には不適である。ロケーションも設備も長期滞在時以外は敬遠せざるを得ない。旅館やホテルは、もともとそれらを利用しないで済む気楽な旅を楽しむのがくるま旅なのだから、共存しにくいケースが多い。有料で駐車場を提供してくれるというようなシステムも一部考えられているけど、使いにくい。やはりくるま旅専用の施設やそれを利用できる仕組みが欲しいのである。勿論それは有料で、水、電気、トイレ、ごみ処理などの生活の基本機能を備えたものであり、料金もリーズナブルなものであって欲しい。そのような施設が全国の随所に設けられれば、新しい旅の文化が育つに違いないし、そのことは、これからの高齢化社会ではある意味では一つの社会教育的な価値を生み出す基盤にもなりうるのではないか。現役をリタイアした後、くるま旅で改めて今まで生きてきた世の中をじっくり見て回ることは、いろいろな意味で新たな人生の刺激になり、心身の健康にも大きく寄与できることなのだと思う。大分県の里の駅が、そのような発想をベースに設けられているとは思わないけど、今一つ高い見地から国や地方公共団体がくるま旅の環境づくりに力を入れてくれたらいいのにと、まあ、愚痴付きの夢想が広がったのだった。

 その里の駅の山香風の郷は、風もなく快適な一夜だった。昨夜は泊まりの車もかなりあって、ゴールデンウイークの最後の賑わいだったようである。今日は先ずは昨日ちらっと下見をした杵築の城下町を散策し、その後は相棒が探訪を楽しみにしている日田の城下町(といってもここは天領だったけど)に向かう予定でいる。旅も愈々終盤となり、残りの時間も1週間余となってきている。大分県を終えて福岡県に入れば、県南の方を少し廻ってもう後は帰途につくだけである。

 杵築を訪ねるのは初めてのことだった。ここがどんな所なのかよく判らない。隣の日出町の城下カレイは知っているけど、まだ本物を味わったことはない。その日出の隣が杵築なのだということくらいしか知らなかったのだけど、伝統的建物保存群の資料の中にこの町が含まれていたので、ちょっと覗いてみようということでやって来たという次第。どこへ車を置けばいいのか、しばし迷ったが、商人町といわれるエリアの所にある観光客用の駐車場を見つけ、そこに車を留める。風の郷で貰った観光案内の資料に寄れば、杵築の街並みは商人町と呼ばれる谷底の様な狭い平地にメインの通りがつくられており、その南北両側が武家屋敷となっていたようである。つまり商人町を挟んで武家の住まいがそれを見下ろしていたということの様だった。杵築城というのもあったようで、今は新しい城が復元されて建っているけど、その規模は小さく、これは城主の住まいというのではなく、見張り台の様な機能を持ったものではないかと思った。

 凡その地形や町割りなどを頭に入れた後、散策に。商人町は昨日までお城祭りというのがあったようで、今日はその休養日なのか、休んでいる店も多い様で、静かだった。味噌や醤油などの製造販売の店などが今でも現役を続けていた。武家屋敷は南側の高台を南台と呼び、北側の高台を北台と呼んでおり、先ずは北台の方へ行ってみた。武家屋敷に行くにはどの場所も急な坂を上らなければならず、その坂付近にあった店の商売などを採ってか、酢やの坂とか紺屋の坂などの名前がついていた。北台の武家屋敷には土塀のわずかに残存ずる家が3~4軒あり往時の雰囲気を漂わせていた。現在も子孫の方が住んでおられるとなると、往時のままというわけにはゆかず、これはもう仕方のないことである。何よりも昔を語っているのは、石垣ではないかとここでも思った。庭なども残ってはいるけど、これは手入れをしないと続かないであろうから、その石組などを除けば、植木などの大半は新しいものとなっていると思われ、文化遺産の保存というのは、難しいものだなと思った。

     

杵築城下町、北台の武家屋敷跡の景観。土塀の左手先の方には、藩校の時習館があったとのこと。今は杵築小学校が建てられている。落ち着いた雰囲気の如何にも武家屋敷という感じがした。

 相棒とは歩きのペースも探訪の目的もかなり違うので、一緒だったのは最初の坂を上った時だけで、その後はフリーである。11時半を車に戻るリミットとしている。9時少し前に着いているので、時間的には余裕があるとは思うけど、相棒の場合は、誰かを捉まえて話し込むという習性があるので、時を忘れる場合が多く、油断はできないのである。北台の武家屋敷を見たあとは、坂を下り杵築城の方へ行ってみた。城は川が海に流れ込む辺りに突き出た小さな山の上に築かれており、傍まで行くと実に間近に周辺の町の様子が展望できる。ただ、そこから眺めた町の様子は、規模的には小さくて、この地が交易や産業で栄えるような場所ではなかったように感じた。展望は広いのだけど、町はこじんまりとしているのである。この城に上った殿様も3万2千石の身の小ささを実感していたのかもしれない。良く解らないけど、相棒が仕入れた情報では、杵築藩松平家は、九州の見張り役の様な任に当たっていたとか。殿様も家老以下の武士たちもこの城に立って、その責任感に燃えていたのかもしれない。武家の社会とはそのようなものである。

 城をあとにして、次は南台の武家屋敷や寺町などを歩いてみた。こちらの武家屋敷はどうもそれらしさを感ずる場所が少なくて、少しがっかりした。又お寺の方も5つほどが集められて建っているというので行ってみたが、あまりお寺らしいお寺に見えなかったのは、その昔これらのお寺は、いざという時の武士たちの宿泊所や集合場所として考えられていたという名残の様なものが影響しているのではないかなどと思った。宗教目的の寺ならばもっと荘厳さがあってもいいのではと思った次第。坂を下りて、車に戻ったのは、11時15分だった。相棒の所在は判らない。暫く待ったがそれらしき気配なし。駐車場にボチボチ車が入ってきて、うっかりすると抜け出るのに苦労することになるかもしれないと心配になり、相棒に電話をする。今坂を下りている所だという。しかしその割には着いたのが少し遅かったのは不思議だった。どうやら時間が少し足りなかったようで、何やらの生菓子を手に入れ損なったなどとのたまっていた。でも杵築城下町の散策については満足だったようだ。

  杵築を後にして、日田に向かう。海の近くを走って、別府からは急坂の連続だった。一気に山の中に入り、鶴見岳のロープウエイ乗り場を通過して更に山奥に進むと、急に展望が開けて雄大な由布岳が姿を現した。それほど高い山ではないけど、湯布院から見上げるこの山の姿には心を奪われるものがある。やがて坂を下って湯布院の町へ。と思いきや、ナビに従ったら湯布院の中心街を避けて旧道を国道210号線の方へ行ってしまった。湯布院は人気の場所でもあり、今日は観光客で混んでいたろうから、結果的にはこれでいいのだと思いながら坂を上ってゆくと、湯布院の道の駅に出たのは意外だった。とにかく、ここに寄り弁当類を買って昼食とする。日田まではまだ遠い。一息入れて出発。

 15時少し前に日田に到着。カンカン照りの天気で、真夏のような暑さだ。日田は山の中の町であり、暑さは一層ひどい感じがした。目的の伝統的建造物群の商家町である豆田町の傍まで行ったが、駐車場が判らず一時困惑した。何しろ道幅が狭いので、見つけにくいのである。江戸時代の大通りなどと言っても、現代では車の離合がやっとというくらいの道幅のものが殆どだったのではないか。ようやく見出して車を留める。相棒はたちまちすっ飛んで消えてしまった。こんな場合は疲れない人になってしまうのである。豆田町は小さな地域だけど、商家が密集している感じで、往時を思い起こさせる雰囲気があり、なるほどなと思った。相棒は10年ほど前まで文化財や建築物に関わるボランティアガイドをしていたこともあり、この種の町や建物の探訪にはひときわ情熱的なのである。今回の旅のテーマの中に伝統的建造物群が入っているのも相棒の要望があってのことで、自分としてはさほどは重大な関心はない。でもまあ、実際現地に立ってみると、それなりに感ずるものはあり、勉強にはなっていると思う。一通り町中を回って、疲れてしまい車に戻って小休止。相棒が所在不明なのは毎度のこと。今日の宿をどうするかなどを検討する。三つの候補地の中から、温泉に入ることを考えて原鶴が良いかなと思った。原鶴は福岡県の杷木市にある温泉エリアにある道の駅である。

     

日田市豆田町の御幸通りの景観。この一帯はこのような雰囲気の商家の跡が満ち溢れていた。

 日田といえば咸宜園であり広瀬淡窓であり、日田の生んだ大偉人であろう。そこを訪ねるつもりだったのだが、疲れてしまってもういいやと思っている頃になって、ようやく相棒が戻ってきた。息せき切っているので、何をそんなに急いでいるのかと訊いたら、どうやら自分に文句を言われそうなので急いで来たとのこと。何でも他人の所為にする人ではある。時計は16時半近くになっていた。まだ見残している所が多くあるらしい。じゃあ、明日もう一度来るかということになり、少し遠いけど先ほど選んでおいた近くに温泉のある原鶴の道の駅に泊まることにして出発する。

 原鶴温泉は福岡在勤時に職場の懇親旅行などでも来ており、家族で近くにも来ており、もうその昔の故郷に近い存在なのである。8年前の旅の時にもこの道の駅には何回かお世話になっている。この道の駅の地産品売り場には新鮮な野菜類などが豊富に並べられており、近郊にも人気のある場所でもある。8年前と少しも変わらないその様子だった。夕食の食材を確保した後、近くにある温泉へ。光泉の湯というのへ入る。肌のすべすべする感覚となる湯で、良く温まって疲れを取り去るのに努める。温泉の後は再び道の駅に戻って、錨を降ろす。

 今日は日中に倅からメールが入り、住まい近くの茨城県のつくば市が竜巻の様なものに襲われて被害が出ているとの内容だった。我が家には被害はなかったようで安堵したが、雷鳴と共に雹や霰が降ったとのこと。農家などではかなりの被害を受けたのではないか。原発事故の余波も収まらないのに、再びの天災には驚くばかりである。夕方のニュースを見ていたら、中学生の方が亡くなったという。よほどに酷い大自然の暴威だったようだ。家を壊され、怪我をした人もたくさんおられたようである。一日も早い回復を念ずるのみである。

【今日(5/6)の予定行程】 

道の駅:原鶴 →(R386)→ 日田城下町散策 → (未定)

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