山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

超美味宮廷麺を食す

2011-03-31 00:16:54 | 宵宵妄話

 今日は久しぶりに車で東京へ行ってきました。行先は武蔵野市役所です。戸籍謄本を必要とすることがあったため、本籍地のある自治体の役所に出かけたということでした。私どもの本籍地は武蔵野市となっています。なっているというよりも、していると言った方が妥当です。結婚した時に住んでいた場所を本籍地として新しい戸籍を作ったのでした。こうしておけば、どこへ引っ越しても自分たちの家というものの原点が判るという考え方からそうしたのですが、当初私の父母は不満だったようです。自分たち(=親)の戸籍から見ず知らずの土地に、断りもせず勝手に新しい本籍地をつくるのかという思いが強かったのだと思います。しかし、私としては独立するためには新戸籍の本籍地も一新したいという思いが父母の思いを無視したということになったのでした。親不孝ということなのでしょう。

何しろ四国・九州まで引っ越しを重ねた暮らしでしたので、その後何度か戸籍謄本の必要な手続きをする度に、真に以って不便極まりない思いをしてきたのですが、それでも自分たちの暮らしの始まりはここにあるのだという思いが勝って、本籍地を変更しようとは思わないまま今日に至っています。

武蔵野市役所は、JR中央線の吉祥寺や三鷹駅からバスなどで行くか、あるいは西武新宿線の東伏見駅から歩いてゆくか(バスがあるのかもしれません)というロケーションにありますが、東京エリアでは駅中心に繁華街が広がっていますので、市役所はこれら3つのいずれの駅からも少し不便と思われる場所に立地しています。今回車で行くことにしたのは、電車やバスの乗り継ぎが面倒くさいことと、もう一つは久しぶりに昔の住まい近くを覗いてみたいと思う好奇心からでした。それに家内と二人で行くには、費用的にも安上がりという思いもあったたからでした。

何しろ武蔵野市役所へ行くのは、守谷市に越してきて以来初めてのことなので、どの道を通ってゆくのがいいのか、現地の状況がどうだったのかよく覚えておらず、ネットの地図などでいろいろ調べてメモなどを持参しての出発となりました。ナビなし主義では、このようなときにちょっぴり後れを取っているのを実感しますが、あれこれと調べた分だけ、ボケ防止には薬となっているに違いありません。8時半に出発して、武蔵野市役所に着いたのは、11時頃でした。常態している渋滞などでもっと時間がかかるかと思いましたが、案外順調に行くことができラッキーでした。

戸籍謄本取得の手続きは直ぐに終わって、あとは帰るばかりです。2時間半もかけてやって来てとんぼ返りはあり得ません。その昔は武蔵野市をはじめ、西東京市、小平市、東村山市などに何度か居を替えて住んでいましたので、少し走ると残っている面影が思い出されてきます。武蔵野市から小金井市にかけて残っている千川上水や玉川上水の側道は通勤を兼ねた散歩道として随分と親しんできており、この季節どこへ行けば二輪草の集落があるのか、小さな滝の音を聴けるのか、或いはこの辺りが南限といわれているイチイの木たちはまだ元気なのが残っているのか等など、直ぐに思い出すことができます。今日は車なので降りて歩くことはしませんでしたが、五日市街道に沿って玉川上水を遡(さかのぼ)る道は、思い出に溢れるものでした。

そして、結局行き着くところは、とびっきり美味い中国麺のお店です。実のところ、今日の本当の目的は、私的にはこの中国麺を食べに行くことだったと思ってたのです。謄本の方の所用は家内の方でしたから、私はただの運転手に過ぎず、めったにありつけないご馳走を期待するのは当然といえば当然のことと内心正当化していた次第です。

小平市や東村山市に住んでいる時から、贔屓(ひいき)にさせて頂いている中国麺の店があります。その名を「なにや」と言います。中国麺というのは、中華麺、ラーメン、あるいは支那そばなどといわれるものとは少し違っています。このお店を経営される松村さんは「宮廷麺」をつくっていると情熱をこめて話されます。古来中国の皇帝が食されたものをつくっているということです。それゆえに「宮廷麺」と呼んでいるわけなのです。

松村さんのこの宮廷麺にかけるこだわりの情熱は半端ではありません。皇帝の方の食するものといえば、ただ美味いというだけでは不十分なのです。いくらうまいものを食べていても、食べすぎれば健康を害すようなものはだめなのです。美味いのと同じくらい、或いはもっとそれ以上に身体に良いものでなければならないのです。このことは中国でその昔から言われてきている「医食同源」という考え方に一致します。なにやの宮廷麺は、この考え方をしっかりと守って作り込まれているのです。麺も具材類もすべて松村さんが自分でしっかりと吟味し、選び作っておられて、そのこだわりは半端ではありません。

たとえば以前伺った話では、麺をつくるに使う小麦粉にしても日本中を駆け回って探されていますし、麺づくりに使う塩も手作りのものを日本各地の製塩所を訪ねて厳選して使っており、一般で使われているかん水などは一切使用していないとのことです。野菜類等も地元の農家の皆さんとタイアップして有機栽培のものを使うだけでなく、昔野菜(その昔地元で栽培していた江戸・東京野菜と呼ばれているもの)などを活用したメニューを加えるなど、様々な工夫を織り込まれているのです。

このようにして作られた宮廷麺が美味くないはずがありません。私は初めてこの店を訪れて最初にその一杯を賞味した時、直ちに、これは本物だ!と思いました。中国皇帝の食したものと同じ宮廷食をこの店で味わうことができるのは真に幸せなことです。値段も一般のこてこてラーメンなどとさほど変わらず、特にこの世代となりますと、同じ値段ならば、脂ぎったラーメン類などは敬遠せざるを得なくなるのですが、なにやの中国麺は段違いの上品さで、健康にも貢献してくれるのですから、こんな嬉しいことはありません。

地元近くに住んでいた時には、自分たちばかりではなく知人友人にも紹介して大いに味わって頂いたのでしたが、今は遠く離れてしまって、それもできず残念です。もしこのブログを読まれて、興味をお持ちの方は、是非一度「なにや」を訪ねて皇帝の食した宮廷麺を賞味して欲しいと思います。今は、美食にうつつを抜かしているような世情でないのは重々承知していますが、今日は久しぶりのチャンスでしたので、思いっきり甘えさせて頂きました。申し訳ありません。

 

   

 

「なにや」の入り口の様子。小さなお店だけど、落ちついた大人の雰囲気がある。勿論、若い方たちにもフィットする味だと思う。特に女性には。

場所等は(小平市学園西町1‐26‐25 ☎042-342-2929 西武多摩湖線一橋学園駅徒歩3分 ※麺が無くなり次第終了となりますので要注意。月曜定休日)

 

 

  

 

今日食べたのは、左の海藻麺と右のジャンボ三色餃子。海藻麺は文字通り海藻の具が主体だが、何といっても特徴あるのが翡翠麺といわれる、ほうれん草等を練り込んだ緑の麺。程よいスープの味と相まって、絶妙の味がする。ジャンボ三色餃子は3個がワンセットだけど、大きいので、今回は1個ずつにして貰った。家内はこの後帰宅するまでの車の中で、数回「美味かったあ~」を思い出しては繰り返していた。とりわけて久しぶりの餃子の味に感動し続けていたようだった。 

 

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茨城県の交通マナー

2011-03-30 05:25:09 | 宵宵妄話

  先日家内の運転免許証の更新手続きのために、隣の常総市にある警察署に出掛けました。何年か前から運転免許証の更新は最寄りの警察署でOKとなりましたので、遠方にある所轄の取手警察署ではなく、より近い常総市の警察署に行くことにしています。守谷市には警察署がありません。最近時々思うのは、警察署の設置基準についての疑問です。人口なのか、過去の犯罪発生率なのか、それとも行政区分に係わらずに担当エリアを決めて設置しているのか、あるいは他に何か基準があるのか、現在の警察署がどういう基準で置かれているのかが分かりません。常総市(元水海道市)の方が守谷市よりも市制の施行が古いので、そのままの基準で現在の警察署が置かれているのだと思いますが、人口は常総市がほんの少し多いだけです。人口密度は常総市の3.3倍もあり、エリアが狭いので、取手警察署配下の交番が3ケ所あるだけで何とかなるという考えなのかもしれません。しかし、このような体制で6万人を超す市民の安全を本当に守ることができるのか、県や市としての税金の使い方は正しいのか、少しばかり疑問を感じています。短期間で居住者が急増した町などでは、このような問題が結構内蔵されているのではないかと思います。

 ま、そのことは措くとして、今日は免許所更新に絡む交通マナーについての嘆きです。新しい免許証を持った家内が警察署の玄関から出てきて、車に乗り込んだ後に盛んに話すことには、茨城県は交通事故の発生状況が全国ワースト上位に入っているというのに、講習会の講師の人がまるで他人事のような調子で話をしているという、そのことに対する憤慨でした。いやしくも交通事故を減らすべき行政に係わる人ならば、自県の悪化状況を他人事のような調子で話すとは何たることか!という憤りのコメントです。

 私に向かって憤られても仕方ない話で、いささか迷惑なのですが、この場合やはり調子を合わせざるをえません。警察署の安全講習会は、転勤族だった故に、もういろいろな場所で何度もお世話になってきていますが、未だ、なるほどと感動した覚えはありません。そもそも感動を期待する方がおかしいのだと思いますが、願わくば受講者の気持ちを考えて、感情や思いのこもった話を聞きたいものです。というのも、多くの場合講習会の講師の方々は、新しい情報や法知識にかかわる部分を淡々と伝えられるだけで、それが何がしかの名調子というのか、役所流の乾燥したトーンの話しぶりなのに失望することが多いのです。ま、話をされる側からすれば、特段の変更のない限り、来る日も来る日も同じ内容の話をしなければならないのですから、一々受講者の顔を見ながらシャカリキになってやってはいられないということなのでしょう。その気持ちはわかるのですが、交通事故というのは、不慮の事故として痛ましい内容を伴っており、運転者に対する教育としては極めて重要で、受講者にはもっともっと本気になって考えてもらわなければならないテーマだと思うのです。ですから単なる行政の情報伝達者の立場からだけでなく、人間としての生き方の基盤の一つとして、運転者は絶対に事故を起こしてはならないという厳然たる心構えを強く強調する必要があると思うのです。

日本国においては(世界中どこも同じなのかもしれませんが)社会教育というのか、大人に対する教育が極めて不足しているのではないかというのが、私のかねがね思っていることの一つです。その内容は子育てに関するものなどいろいろあるのですが、交通安全に対する教育もその一つです。本気で事故防止に取り組むのなら、免許の更新は絶好のタイミングなのですから、もっと中身を濃いものにする必要があるように思います。録画を見せて形式的な講習などでごまかさないで、本人が本当にその気になって安全運転に取り組む意識付けをするような内容を付加すべきです。そのためには受け身で聞き流していれば済むような講習ではなく、たとえば自らが全国民に向かって安全宣言をするような施策を取り入れるべきです。行政は、本気ならば、大衆の安易を求める態度に媚びるべきではないと思います。

ちょっと本題から外れかかっていますが、元に戻して、茨城県下の交通マナーというのは(ひど)いものだと思います。全国を車で旅をして回っていてしみじみ思うのは、地方というか田舎に行くほど交通ルール遵守に対する意識の低さと、その証明としてのマナーの悪さが目立つということです。大都市も決してマナーが良いなどとは思いませんが、基本ルールを守るという点では、田舎の方よりはずっとマシだという気がします。というのも都会であれば、ルールを守らなかったら即事故につながるということを多くの運転者が肝に銘じているからなのだと思います。交通量が多い分だけ事故に出くわすチャンスも増えるわけで、しょうもないバカ者を除けば、誰だって気をつけているわけですが、田舎の場合は自分だけは大丈夫だなどと思い上がった気分の人が多いようです。

茨城県の交通事故の発生度が全国のワースト上位に顔を出すのは、茨城県が田舎であり、運転者に田舎者が多いことを物語っているように思います。事故の詳しい内容がどうなのか判りませんので、個々のコメントはできませんが、多発の要因を(くく)るとすれば、田舎者の思い上がりが最大の原因になるのは確実のように思います。事故の潜在的要因にはいろいろあると思いますが、最も危険なのは自分は運転が上手だなどという思い上がりと、相手の人は自分の気持ちを判ってそれに応じてくれるはずだという安易なうぬぼれの心理です。

この二つの要因に基づく危険運転を感ずる現象は、守谷に引っ越して来て以来、車に乗る時はほぼ毎度味わされています。それがどんな時かといえば、メイン道路を走っている時に、横道から飛び出してくる車の余りにも多いことです。ほんの少しでも前車との間隔を空けると、後に続く私の車など見向きもせず、当然のようにサッと横道から入ってきます。横道からメイン道に出る際に、一時停止をしない車が多く、一時停止をしても、止まる位置が飛び出し過ぎている車が多いのです。停止線で一旦止まって、左右の安全を確認してからソロっと出るというのがルールだと思いますが、そのようなことをする車は少なく、最初から前に出ないとなかなか本道に入れないので損をしてしまうなどと、安全よりも急ぎ優先と考えている人が殆どのようです。中には初心者マークをつけながら、早くも飛び出しを狙う女性などもいるのですから、危険やら呆れるやらヒヤリのしっ放しです。

また、スピードに対する感覚も異常のような気がします。時々石岡市の八郷町を走ることがありますが、道幅が狭くなった県道や市道でも恐るべきスピードで走る人が多くて、一体ここはどうなっているんだと驚くばかりです。何しろ田舎では一家の大人一人に車1台は当たり前であり、日中でも道を歩いている人など殆ど見かけません。皆車で移動しているのです。ですから車の運転には慣れていて、よく通る道についてはスピードを出しても何の不安も抱かないほどの過信があるのかもしれません。しかし、たまにしか通らない私から見れば、そのスピードは無謀運転としか思えないほどなのです。

八郷町の農園に行った時は泊った翌早朝に、いつも2時間ほど付近を散歩するのですが、7時を過ぎる頃になると、県道に入る横道から農家に住む通勤の人たちの車がひょいひょいと出てきます。側道の歩道を歩いていると、その横道に出くわすたびにヒヤッとします。歩行者など眼中にない感じがするのです。横道から飛び出しぎみに出てきて、傍の歩行者などには目もくれず、本道の左右ばかりをきょろきょろして大丈夫と思えば、サッと出てゆくという運転者が殆どであり、それは男女の性別とは無関係なのです。これじゃあお年寄りが事故に遭うのは当然の成り行きでしょう。夜間だったら、お年寄りの事故に遭う確率は数倍に跳ね上がるに違いありません。

このような状況は、恐らく八郷町以外のエリアだって同じことなのでしょう。田舎道の恵まれた道路環境に甘えた運転意識は、この県全体の交通事故多発のバックグラウンドとして共通しているように思います。電車やバスで通勤している人たちは、ほんの一部で、田舎に行けば行くほど交通手段は車依存の世界になっているのです。そこが歩行者などは二の次にした、思い上がった運転者が中心の交通環境となっているとしたら、これは(げ)に恐ろしき世界です。

守谷市では東京首都圏に通う人はバスや電車を利用していても、家から駅までの距離が少しでもあれば、歩くなどという考えはなく、朝夕は送迎の車で駅前は引きも切らぬ混雑です。日中の買い物等も自転車や歩きの人は少なく、主婦と言われる人たちも殆どが車を使っており、ショッピングモールなどの駐車場はいつも車で一杯です。これらの車の運転者に、前述のような運転感覚の人が多いのですから、本当に要注意です。

事故の現場や内容が具体的にどのようなものが多いのかが良くわかりませんが、恵まれ過ぎた運転環境を軽視し、己の運転力を過信している人の多いことが事故を減らさせない最大の要因と言えるのではないでしょうか。私自身も茨城県出身であり、わが故郷を敢えて田舎者の住む場所とバカにするような言い方をするのを、決して心良しとはしませんが、交通安全の視点からは、普段のあまりのひどさに目をそむけたくなる感じがしています。

あくまでも基本は運転者個々人の心構えや意識にかかっていることであり、警察関係者をとやかく言う話ではないとは承知していますが、交通安全は国全体の、行政の係わる重要テーマであり、事態の改善の旗振りはやはり当局・関係者にお願いするしかないと思います。ですから、ワースト上位から早く抜け出すためにも、県や警察の当局・関係者は、他人事のような言い方をしないで、講習会の受講者への遠慮など無用にして、情熱を持って運転者の安全運転意識向上に揺さぶりをかけるような話をして欲しいと思います。

 

(この稿は大震災が発生する前に書いたものです。)

 

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VHFの敗北と恩恵 

2011-03-28 23:10:35 | ホト発句

                                                         

 

             

 

             あと四月(よつき) 地デジは無駄を 強要し

 

               青空に 地デジさまさまの 年度末

 

コメント:

 

常総市のとある場所を散策していたら、アンテナの取替え作業をしているのが目に付いた。車に取り付けたクレーンで20mもあろうかと思われる高さでの作業で、見上げる青空がまぶしかった。地デジへの完全移行まであと4カ月ほどとなって、アンテナの取替えを余儀なくされたのだと思う。TV局側の事情はともかく、いつもの番組を見るだけの側からは、こんな無駄なことをどうして?という気持ちが(くすぶ)っているに違いない。しかし、取り付ける側からみれば、この作業は年度末の特需のようなものかもれない。ま、当世いろいろあるわな、ということでありましょう。

 

<追加コメント>

 この写真は東北関東大震災発生以前に撮ったものであり、発句の方もそのときに思いついて書いたものです。暇にまかせて世の中を眺めていたことが嘘のような気がします。今はとても、‥‥‥。

 

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ミモザの春

2011-03-27 20:59:10 | その他

 11日14時46分、大地震が発生してよりこの方、日々の暮らしがすっかり狂ってしまいました。あまりにも酷い惨状を唖然としながらTVを見続ける毎日が続きました。連日被災地の厳しい状況を見続けていると、何だかこの世を見る感覚がおかしくなってきてしまうようです。加えて、原発の事故の成り行きはさっぱり見えないまま、悪化の一途をたどっており、それは同時に比較的近くに住んでいる自分たちには、新たな二次災害の悪い予感を膨らませるものとなっています。

今まで70年と少しばかり人間という奴をやらせて頂いてきて、終わり近くになって、今まで見たことも経験したことも無い地獄の有様を、一挙に目の当たりに見せられているような気がしています。地獄というものが、これほど近い所に、あっという間に現出するものだということを、今思い知らされているような気がします。

しかし、幸いなことに私自身は未だ傍観者の立場にいることができています。直接津波に飲み込まれ、九死に一生を得た人、自分は生き残れていても身近な最愛のものを一度に失ってしまった人、そして考える間もなく避難所暮らしに突入されてしまった人たち。被災された多くの皆さまの悲しみや苦悩に比べれば、傍観者があれこれ世迷言を言うのは、許されないことなのかもしれません。

 

この半月の間忘れていた庭の隅に本物の春を告げてくれる二輪草や碇草が芽吹いていました。毎年彼らを見ていると、健気さの中に力強さを感じてほっとします。いつまでも我を忘れていてはいけないということを教えてくれているようです。

もうひとつ、今年もお隣の庭に植えられているミモザの木が、これぞ春といわんばかりの花を咲かせてくれています。このミモザの木は大木というほどのものではないのですが、守谷市内をくまなくといっていいほど歩きまわっている私からは、市内で見かけるどのミモザの木よりも豊かにミモザの花を見せてくれている一本だと思っています。歩道に覆いかぶさるように花の房枝を垂れているので、それを気にされたお隣のご主人が枝を払おうとされているのを見て、あわてて制止させて頂いたのでした。

ミモザの花は、鮮やかな黄色で、この花を見ているとこの季節に猛威をふるう杉の花粉のイメージと重なってしまうのですが、これはミモザに対しては真に申し訳ないことです。震災や放射能のことはしばし忘れて、樹木たちが春を寿ぐ姿にこの世の救いを味わう時間を大事にしたいと思っています。

 

 

 

お隣のミモザの花。ミモザはマメ科の植物で、花が咲き終わるとたくさんのマメの房が垂れ下がる。3月下旬のこの時期が花の最盛期で、鮮やかな黄色が青空に映えて美しい。

 

 

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今の気持ちは?という質問

2011-03-26 11:04:30 | その他

 「今のお気持ちはどうですか?」「今の気持ちは如何ですか?」というアナウンサーやインタビュアーの投げかけ質問を聞くことが多いのが気になっています。マラソンの勝者や逆転満塁ホームランをかっ飛ばしたヒーローへの質問の定番となっているようですが、そのような場面以外でも、多くのアナウンサーなどはこの質問を使うのにためらいがないようです。

被災地で、直面した現状にどう対処しようかと苦悩中の人に対しても同じように「今のお気持ちは?」などとやっているのを見ていると、そのあまりの安易さに腹が立ちます。「黙れ!」と言いたいのを抑えて見ていますが、時には思わず「バカ!」といってTVのスイッチを切ることもあります。質問者の無神経さ、心遣いのなさに怒りを覚えます。丁寧語を使えばどんな質問をしてもいいのか、質問をするような仕事についている人たちは、不断からもっと人間の気持ちについての勉強をして貰いたいものです。

今回の被災報道の様々な場面でのインタビューを聞いていて、一番腹が立ったのは、ある避難所で不安におののきながらも表面は元気にしている高齢近いお二人のご婦人に対するインタビューのやり取りでした。長期間の避難所暮らしであり、周辺当局がもっと条件の良い場所への移転を勧めている状況の中で、そのご婦人たちは移転を拒み続けているのでした。そのことについてのやり取りの中で、

(インタビュアー):もっと良い所へ避難はされないのですか?

(ご婦人):いや、避難したくはない。

(インタビュアー):この避難所が良いということですか?

 (ご婦人):‥‥‥。

というようなやり取りがありました。言葉は正確ではないですが、これだけ聞いていると別に普通じゃないかと思われそうですが、私はインタビュアーの「この避難場所が良いということですか?」という投げかけに唖然としました。何という無神経さだろうと思いました。ご婦人たちの気持ちをどう汲んでいるのかと思いました。ご婦人たちが一番行きたい所は自分の家なのです。そして他所に移転などせずにここに止まりたいのは、ここが自分たちが長い間暮らしていた場所だからなのです。決して、断じて避難所が気に入っているなどということではないのです。そのことは、ご婦人たちの「‥‥‥。」という反応を見れば判ります。

私は人の気持ちというのは、元々安易に聞くものではないと思っています。聞くものではなく感じ取るものだと思っています。効率的な考え方からは、まどろっこしいという批判を受けそうですが、「気持ちを聞かせろ」といわれて、自分の心の中を的確に話せる人など稀有のことであり、せいぜい相手が思っているのに合わせるくらいしかできないはずです。それはやらせと同じことのように思います。

気持ちというのはこちらが察するものであり、聞き出すものではないというのが私の考えです。何でも言葉に出して確認しなければ本当のことは解らないなどと考えるのは、アバウトもたいがいにせい!という世界ではないでしょうか。恋人でもない女性に向かって、いきなりお前の気持ちを聞かせろなどという男は、生涯恵まれた結婚はできないのと同じです。

この大事件の緊急事態の中で、記者やアナウンサーの人たちも目いっぱい頑張って仕事に打ち込んでいるのは良く判りますが、不断の人間理解に対する鍛錬をもっとお願いしたいと思います。時間に追われる報道という仕事の中で、早く目的を達したいという気持ちは判りますが、視聴者から見た時に人間性を疑われるような内容の発言などが飛び出さないように、不断から自分の人間理解力を鍛えておいて欲しいと思います。どこかの放送局では、大地震の報道と自分たちの暮らしは別との考えから、醜態をさらけ出したとの話がありますが、人間としての表裏や二面性は免れないとしても、人間理解に対するしっかりとした背骨を持っていて欲しいと思います。報道に係わる方々が皆そのような人ならば、我々はブレない安心感のある報道の恵みを受けることができるのですから。

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炊き出し隊帰投せり

2011-03-25 06:29:54 | その他

 

帰投(きとう)などということばは日本国ではもはや死語となっているのかもしれません。これは軍隊用語です。使命を果たした航空機や艦船が基地に戻ってくることを意味する言葉です。炊き出し隊使命果たしてってというす。

 東北太平洋沖地震が発生して、現地の被災状況が判明するにつれ、その惨状のあまりのひどさに心を痛めていましたが、老人としては何もすることができず、ただひたすらに一人でも多くの、被災者の方々の悲しみを分かち合いたいと思いつつ、ブログにその思いなどを綴っていたのですが(それは今も同じです)、その時に、今までブログ記事に時々コメントをお寄せ頂いておりました神田の古本屋さんこと、東京は神田にお住まいのHさんから、1通のメールが届きました。3月16日15時前の発信だったのですが直ぐにはメールに気付かず、それを読んだ時には16時半を過ぎていました。

そこには、ヨットの係留仲間が協力し合って被災地を訪ねて炊き出しをするというプランが書かれており、ついては、現地に向かう途中で給油をしたいので、その基地として幾つか挙がった候補地の中に守谷があり、守谷市当局からも給油ができるようにバックアップをして頂くことはできないものか、という相談が書かれていました。そのプランによれば、大型のキッチンカー1台、冷凍冷蔵車1台、それに巨大鍋・炊飯器等々を準備し、1回3000食の炊き出しを2回行うという内容です。壮大なプランだと思いました。そこには炊き出しの考え方として3つが示されていました。①多くの被災者に温かい料理を食して頂く②健康維持に必要な野菜類を多少なりとも摂取して頂く③巨大鍋での調理なので、ちょっとしたイベントになると思われ、被災された方々とワイワイ下準備するので、ほんの一瞬でも被災されたことを忘れて頂けるかもしれない(お子さんたちに少しの笑顔でも戻ってくれるかもしれない)、という3項目です。素晴らしい心遣いだと思いました。諸手を挙げて賛同です。感動しました。

市役所の執務の終了時刻が17時ごろだったと気がつき、直ぐにすっ飛んで向かいました。あと5分というところでぎりぎりセーフでした。直ぐに担当部署に出向き、資料等をお見せしながらその主旨を説明し、何とか支援・協力頂けないかとお願いをしました。しかし残念ながら市として特定の給油所との契約などはしておらず、市役所自体も行政に必要な車を動かすための給油手配に苦慮しているという現状らしく、主旨はご理解頂き賛同も頂戴したのですが、給油のための基地としての活動は無理ということだったのです。確かにその時の状況ではどの給油所にも車の長い列が並び、首をかしげたくなる状況でした。ということでせっかくの要請にこたえることができず、その旨をお伝えしたのでした。

その後何度かメールでのやり取りがあって、Hさんたちは万難を排して準備を整え(当初の6000食分の材料調達は叶わなかったようです)18日の夕方、被災地の茨城県の北茨城市に向けて出発するという報を受けたのでした。最後の報には、車の燃料調達のために、これから船の燃料を抜きに行くと書かれていました。安易な出発ではなかったのです。被災地への支援は自己完結でなければならず、炊き出しに必要なもの以外にも自分たちの対応のあり方も予め決めておき、その中には目的を達した後に車の燃料が途中で切れた場合は、車を安全な場所に乗り捨てて帰途に就くということまで書かれていました。すごいなと思いました。

それから5日経って、昨日無事帰宅したという知らせと一緒に長文のご報告を頂戴しました。それによりますと、訪ねたのは①茨城県北茨城市(炊き出しなし)→②仙台市NPO事務所→③気仙沼避難所(炊き出しなし)→④気仙沼市唐桑避難所(1500食の炊き出し)→⑤石巻市鹿妻小学校避難所近くのセブンイレブン跡地(3000食の路上炊き出し)→(帰途)ということでした。

これらの行程の中で、せっかく現地に着いても「炊き出しなし」という所があるのは、そこへ行った時にはもはや炊き出しのニーズが無くなっていたとのことでした。現地の物資状況は時々刻々と変わり、15分もの間に劇的に変化するケースもあるとのことでした。レポートの中では、最も困ったのは、現地における最新の情報が的確に把握できないという現実だったとのことです。マスコミ等での報道は、現場の現実と映像等が必ずしも一致しておらず、昨日と今日とを一緒くたにして扱っていることが多いのです。昨日と今日とでは違っているのです。このことについては、私自身も予てより報道の中身に疑問を感じていましたが、やっぱりと思いました。TVの報道は、映像にはちゃんと日時を明示すべきだというHさんの話は至当です。

このように現地での混乱する情報に困惑されながらも、現地で活躍するNPOと協力しつつ、又ボランティアで現地を訪れている愛媛、大阪の方たちと合流して炊き出しを行い、持参したすべての材料を使い切り、所期の目的を果たして戻られたのでした。

レポートの中には現地の惨状の様子にも触れられており、炊き出しの場所も決して清潔な場所ではなく、火山灰が降り積もったようなヘドロ、ゴミ、車の残骸とそれらの全てがもたらす異臭という、通常では考えられない劣悪、非衛生な状況の中だったとありました。又移動する途中の様子として、震災の揺れで倒壊などの被害をこうむった家屋は殆んど見当たらず、被災の全ては津波によるものであったという、その怖さを改めて思い知らされる話でした。この他にも幾つかの話題がレポートされていましたが、それらを紹介するのは別の機会にさせて頂くことにします。

Hさんのレポートを拝見して一番感ずるのは、そのチームの実行力の素晴らしさです。又その考え方の素晴らしさです。緊急時の支援は、一人の力ではなかなか実現できるものではありません。どうしても仲間が必要です。そして周到な準備と果敢な行動が求められます。大型のキッチンカー1台、冷凍冷蔵車1台、トラック1台、乗用車2台、そして巨大鍋等の用具類の調達。これらは明らかに炊き出し隊という一つのチームであり部隊です。自己完結の行動がとれる目的的組織体です。このようなことを思いつくにはそれなりの知恵と経験が必要であり、同じ強い志を持った人の集まりが必要です。Hさんたちのお仲間は、それらをたっぷり備えたすごい集団だと思います。

この方たちは日本のことを考えておられます。同時に東京のことも考えておられます。私はお仲間の詳しいことは殆んど知らないのですが、その発想や動きの中からそれを感じます。宮城県を中心とする東北エリアがずっこけたら日本はどうなるのか、それが東京とどうかかわるのかについて、深い洞察を持った上での行動なのだと思います。第二次の隊の派遣も検討なさっておられるようです。原発事故との絡みもあり、これからの救援にはより厳しさが加わるに違いありません。老人隊などという発想もおありのようですが、どうやら体力的に無理があるようです。真正正銘の老人である私は、志願してもあまり役に立ちそうもないと今回も遠くからエールを送るだけです。でも、何かお役に立つことがあったら、是非手伝わせて頂きたいと思っています。

日本にはこのような方たちが、他にもたくさんおられることを誇りに思います。

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現場に味方する

2011-03-24 06:00:01 | その他

  大地震による被害は、未だ死者、行方不明者の真数を判明させ得ないほどの惨状ですが、辛うじて生き残ることを得た方々にも、避難所での過酷な暮らしを余儀なくさせ、さらには現地に止まって苦難に耐えようとされる方にも、人的災害が加えられようとしています。救援のために残されている時間は少ないのだということを肝に銘じてせめてこの人的災害だけは、国を挙げて回避しなければならないと思います。

これらの被災状況に加えて深刻なのは、人災ともいえる原発事故の成り行き不安とその実害影響の広まりです。一日も早い事故の終息を何よりも願っていますが、高濃度の放射線の恐怖に耐えながら、現場で懸命の作業に取り組まれている方たちには、その勇気と汗に対して心から敬意のエールを送ります。

仕事の世界ではそれがどのような種類のものであっても、事業は現場(=直接部門)とそれを支えるスタッフ(=間接部門)で成り立っているという考え方があります。企業の場合、経営を成り立たせている根幹、すなわち利益を生み出すための稼ぎを行っているのが現場です。工場ならばモノをつくっている人たちであり、サービス業ならば、商品を以てお客様と直接接している人たちです。その製品やサービスを企画したり売れ具合を計算したり、社員の面倒を見たりしている部門ではありません。これらの様々な役割が組み合わされて組織が動き、事業体としての成果が生み出されているのです。しかし、この中で何と言ってもいざという時の事業の核となる力は現場にあるのです。社長や企画部門や総務・経理部門などではありません。

ま、このようなことは組織の中で仕事をした人ならば、誰でも判っていることです。しかし、実際の評価は必ずしも現場ではなく、間接部門が牛耳っており、現場は単なる戦力として見下されているというのが、意外と多いように思います。特に最近はこの傾向が強くなっているようで、人間重視よりも収益重視の経営が不況とともに力を得ている感じがします。

とにかく、私は現場の味方をします。現場が現場としての強い使命感を持つ人材でつくられ動いている、それこそが優れた企業だという信念は、現役時代から不変です。大して汗も流さず、あるいは現場とは異種の汗しか流していないくせに、その勘違いに気付かず得々として経営陣やスタッフが思い上がっているような企業は、世の中が経営数値をいくら評価していても、ダメ企業だと思っています。事業というのは、現場を忘れた経営を始めた瞬間から崩壊の芽を内包したといえるのだと思っています。

さて、言いたいのはそのような一般論ではなく、東京電力という企業の原発事故における現場とスタッフ、取り分けて経営陣の対応です。東京電力は現場の人たちの動きを見る限りでは、優れた企業だと思います。現場が社長を見放してはおらず、懸命に復旧に取り組んでいます。社会的使命のために、命を脅かす危険をものともせずに、ぎりぎりの安全レベルの中でも自分の為すべき作業に取り組まれています。これはこの会社が優れた人材を保有している証というべきでしょう。

しかし、よく考えると、果たしてこの人たちは経営陣のことや会社のことを考えて命を懸けているのでしょうか?残念ながらそれはノーに違いありません。なぜならこれら現場で働く人々に比べて、この会社の経営トップは、世の中に対してあまりにも姿を見せていないからです。どこで何をして、どのように行動し、会社と社会のために何をされているのかがさっぱり見えてきません。謝罪というような行動一つにしても、その担当は副社長と決まったらしく、かなりずれたタイミングでTVに現れましたが、社長といえばどういう人なのかも判りません。総理大臣に何やら怒鳴られたという話が聞こえてきますが、このエライ人たちは現場に出向いて必死に作業をする人たちに一言でも励みの声を掛けているのでしょうか?

地震の発生は東電の仕業ではなく、東電は全くの被害者です。しかし原発事故は人災であり、これを運営している東電の責任範囲にあることは明確です。勿論国や政府にも責任はあります。何といっても原発の必要性を主張し、その安全性を強調したのは東電であり、それを認可したのは国なのですから。

実際の原発の設計や企画はアメリカへの発注によるもので、発電所関係装置の主体はその企業にあったといいますから、安全基準を甘く見過ぎた責任の一端はその発注先にもあるのかもしれません。しかしそのような責任論はともかくとして、実際に原発をつくったのは、現場の人たちです。様々な設計仕様に基づいて、その通りの製品や機械装置の据え付けを行ったのは現場です。ですから今回の事故では現場にも何がしかの責任があると考えられるかもしれません。

しかしこれはナンセンスな議論です。なぜなら、この天災に対しては完全といっていいほどに安全レベルを甘く見た基本設計のミスだったのですから。そこまでは予想できなかったというのは、このような事故が起こってしまった現実の中では、理由にはなり得ません。それは言い逃れに過ぎないのです。なぜなら安全の神話を裏切り、甚大な社会的被害を現実化してしまったからです。東電の幹部は、このことを真っ先に自覚すべきであり、自覚したとすれば、もっと迅速に対策を講じるよう先頭に立って采配を揮(ふる)い、被災地に対しても然るべき行動をとるべきだったと思います。少し様子見が過ぎるように思います。このような人たちを私は決して尊敬しませんし、評価できません。

これに対して現場の人たちは、トップの人たちが良かれと企画し設計した装置をその通り完成させたわけであり、この危機的状況の中では、いうなれば最大の被害者であるともいえるのです。それにも拘らず、社員ばかりか関係・協力会社(=下請け、孫請け等の)、更には縁もゆかりも無かった消防や自衛隊の人たちまでが、命を賭して何とか事態の悪化を食い止めようとしているのです。この懸命の努力・尽力を、東京電力のトップを含めた会社ぐるみで評価するなどとてもできることではありません。

微妙な立場の方もたくさんおられると思います。私の親類縁者の中にも東電に勤務している者もおり、複雑な思いもありますが、私は誰が何と言おうと、現場の味方です。ハイパーレスキュー隊のどなたかの奥様がおっしゃったように、今日本を救うのは、現場の人たちの働き一つにかかっているのです。原子力安全保安院改め原子力危険不安院や遠くから現場に指示をしているスタッフや管理者ではないのです。指示や評価をしているだけでは、現場・現地は少しも変わらないのです。的確な指示を受けて現場が懸命にそれを実行・実践して初めて問題事態が改善に向かうのです。

昼夜を分かつことなく危険極まりない現場で、事態悪化防止のために必死の作業を続けておられる関係者の皆さまのご安全と、その勇気、尽力にエールを送ると共に、一刻も早くその努力の成果が実ることを心底願っています。

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小枝の力で生きる大木 

2011-03-22 22:22:23 | その他

                                                         

 

             

 

        大木は 小枝に拠りて 天を打つ

  ストレスを 小枝に分けて 春を待つ

 

コメント:

 

常総市に報国寺というお寺がある。歩きの途中で、市の中心部の高台に目立つ本堂の建物が見えたので、気になってちょっと立ち寄ったのだが、それなりの歴史を感じさせる古刹のようだった。お寺は人々の魂が鎮座するイヤシロチである。そこには必ずと言ってよいほど大木などが茂っているのだが、このお寺には森のような茂みはなく、何本かの樹木が墓地の周辺に点在しているだけだった。その中にこの銀杏の大木があった。樹齢200年くらいだろうか。しかし可哀そうに大きな枝はことごとく失われて、小枝ばかりが必死に身を守るように紺碧の空を目指していた。それはこの樹の生命の主張のように思えた。

 

東北関東大震災に思うのは、人間はそれが集まれば大木だということだ。一人ひとりの力は小枝に過ぎないけど、どっこいそれらを集めれば、生命(いのち)大木だ。被災地人々大木に、ま、全国小枝様々提供ている。東北という大木は、(そび)存在る。必ず

 

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不安と覚悟

2011-03-21 10:21:18 | その他

大震災の発生から今日で10日目を迎えました。この間(な)(すべ)被災地報道見続け、モニタネット情報大事件進行見続た。トーンブログ記事ず、ただただ被災関係者無事安全健康た。

そして今外には放射能を含んだ雨が降り注いでいます。本当は春の恵みの雨のはずなのですが、深まりゆく原発事故への疑念は、安全を呼び掛ける慰めたっぷりの報道に反比例して膨らみ、複雑な思いで恨みの雨を眺めています。

黒い雨を思い出しています。といってもそれを直接見たことはなく、広島や長崎に住んでいたこともありませんが、私の中の原爆投下の悲惨状況のイメージの中には、鎮まった死の世界に音も無く降る黒く重い雨が、大地を黒くべっとりと染めている様子が不気味に広がります。

津波は天災でした。しかし、原発事故は紛れもない人災です。引き金が地震だったのは間違いのないことですが、原発をつくったのは人間なのですから。これは言い逃れができません。このあと、人災が天災にすり替えられることがないようしっかり注視してゆく必要があることでしょう。未だ事態は進行中であり、今は現場で(まさ)対処作業取り組てい安全成功す。

目に見えない凶悪な魔物(まもの)悪辣行為人間しいら、ジタバタ一切最悪来訪覚悟た。無理ようが、最悪の時が来てもまることにし、その時が来るまでは、きう対策ないっていす。は、被災地懸命ようてい大勢贅沢小問題ら。

それにしても、津波で被災された方々の地に、これ以上人災の余波が二重に降りかからないことを心から願っています。何よりも、当面困難に遭遇されている福島県浜通りの皆さまには、一刻も早くこの事件の解決がもたらされることを願い、心の平安がやって来ることを祈っています。

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被災受難者への祈り

2011-03-19 05:51:48 | その他

          被災受難者への祈り

 

一億二千数百万の祈りを 天に届けよう

天の怒りの犠牲となられた人たちのために

 

祈りだけで何が救えるのかと

そう思う人は勇気ある人たちだ

祈りだけで何も救えないとわかっていても

祈るしかできない人は 

ひたすらに祈るしかすべはない

 

思いはさまざま

 

人がもし天のように万能ならば

被災ということばなどあるはずもない

あったとしても 仮定に過ぎないのだが

人は心をねじ切られるほどに無力だ それが現実だ

そして何もできない

 

一億二千数百万の祈りを 天に届けよう

天の怒りの犠牲となられた人たちのために

 

 

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