山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第18日)

2008-09-30 05:23:02 | くるま旅くらしの話

18日 <511()

旅も残り少なくなった。多分明日は帰宅することになるだろう。今日は温泉に入りたいので、白州町の近くにある道の駅:蔦木の宿に泊ってもいいな、などと考えている。昨夜は風雨が荒れ狂って、車体を揺り動かすほどだったが、朝方になって風は治まり、雨も上がる感じになってきた。しかし雲は厚く、自慢の常念岳は全く見えない。いつものようにトイレの処理をし、水を汲んで出発の準備をする。ここの道の駅の野菜売り場は、8時半オープンだが、8時には気の早い人たちが数人並んでいた。オープンと同時に我々も店に入って、目当ての野菜などを買う。野菜の苗も売っていたので、庭に植えようと大葉の苗を3本ほど購入したりした。

今日は先ず、先日旅の初日に福島の伊東さんから聞いたワサビ園に行ってみようと思う。確か頂戴したお土産には大王ワサビ園とか書かれていた。地図を見たけどそのような名前はどこにもない。しかし犀川の近くに御法田わさび園というのがあるので、もしかしたらそこではないかと出向く。ダメもとでいいのだ。ワサビがゲットできればいい。迷いもせず10分ほどで到着。やっぱり勘は当っていて、そこが大王ワサビ園だった。

いやアー、見事なワサビ田に驚かされた。ワサビといえば、すぐに静岡のわさび漬けなどを思い出すが、伊豆のワサビ田などは殆どが山間の渓流沿いに作られているのだが、ここは平地に清流が流れていて、一面がワサビ田になっている。規模の大きさは日本一というが、まさにその通りだと思う。黒い日除けのような覆いが畑の上に列をなして設けられていたが、栽培に関係するのであろう。

     

広大なワサビ田。黒い日除けのような物に覆われている箇所もあり、陽光や水温の管理が大変なのだなと思った。

時間をかけて畑の中の散策コースを見て回った。ここまでつくりあげるには、先駆者の方の並々ならぬご苦労があったに違いない。元々は荒れた湿地帯に過ぎなかったのであるから、よくもまあ、ここに目をつけられたものと思う。先駆者や創業者といわれる人々には、我々凡人には推し図ることのできない膨大な夢の、志のエネルギーが燃えていたに違いない。園内を歩きながら改めてその凄さに脱帽した。

再び雨が降り出しているが、ここは天気が良ければ日本アルプスの峰々が一望できる景観の素晴らしい所に違いない。近くを流れる清流にはバイカモ(梅花藻)が揺れて、川岸には麦わら葺の水車小屋が二つあって、水車が回っており、何ともいえないのどかな風景である。これを描かない手はないと、かなりの人がスケッチブックを広げてその風景を描いていた。どうやら団体で絵の勉強に来ているらしく、先生と思しき人が、あれこれと指導をされていた。

   

水車のある風景。新緑に染まった田園の一角の川辺の景観は、絵心を誘われずにはいられない感じがする。

ワサビをおろしたのをその場で食べてみたが、甘い食感に驚いた。高価でなかなか買うまでには至らなかったが、邦子どのはお土産にと何やら求めていたようである。ワサビコロッケというのを売っており、それを1個買って食べてみたが、なかなかの味だった。雨はなかなか降り止まない。

充分に楽しんで、出発。昨日のR19を戻り、R20の甲州街道を目指す。塩尻で左折してR20に入るとすぐに道の駅:小坂田公園がある。雨も止んだし、11時半とお昼も近いので、小休止することにする。時間に余裕があるので、昨日馬籠宿で採ってきたアケビの芽茎と少し前に栃尾で採った蕗がまだ半分残っていたのを茹でたり、煮付けたりすることにした。外にカセットガスのコンロを出してそこで一連の作業をしたが、駐車場は広いので迷惑をかけることはない。この道の駅はトラックが多い。昼飯時なので、お弁当を食べている運転手が多いようだ。我々も軽く食事をする。食事をしながらふと思いついた。上諏訪に日帰り入浴の片倉館という温泉があるのだ。なかなかの名湯で、千人風呂というのが有名だ。そこでゆっくり旅の汗を流そうということにした。夜は勿論、朝風呂でも、昼風呂でも、我々は温泉に入る時間帯などにはこだわらない。入りたいときに入るのが一番なのである。

小坂田公園からは30分ほどで片倉館に着いた。上諏訪に寄るのは久しぶりだ。懐かしさを覚えるのは、若い頃、霧が峰や美ヶ原に登るために、ここに殆ど毎年やって来ていたからである。当時は列車で来て、バスに乗って山小屋を目指したものだが、今は寝床付きの車があるのに滅多にやって来なくなってしまった。少し反省の気持ちが湧く。雨もすっかり上がって、新緑の街路樹にそよ風が吹いていて、爽やかな気分である。片倉館は以前と変わらぬ落ち着いた雰囲気の中にあった。

入ってゆくと料金が150円も上がって500円となっていたのには驚いた。それにここは衣服のコインロッカーが有料なので、以前と比べると随分高額となっていた。心なしか、風呂の方も何だか寂れた感じがした。お湯の方は変わりなかったが、全体としては入場者が少なくなっているのだろうか。5年ばかりの間にいろいろ変わるものなのだなと思った。真昼の入浴者はさすがに少なくて、2、3人くらいしかいない。皆ご老人ばかりである。斯く言う拓もまた老人の一人なのであろうか。未だ少年のようなつもりでいるのだが、身体の方は確実に老人への道を辿っている。

風呂から上がって車の中で少し休んで、出発。ここで風呂に入ってしまったので、今日の泊りは、もう少し先にすることにする。どこにするかはまだ未定。とりあえず道の駅:白州に向かう。

白州は名水の地である。サントリーの工場もある。道の駅にも水汲み場があって、汲む人が絶えることがない。小休止して、少なくなってきていた飲料水を補給する。今夜が最後の夜となるので、ビールもゲット。いろいろ考えて、今夜は甲府から秩父に向う道の途中にある、道の駅:牧丘辺りに泊まって、明日は秩父を通って家に帰ることに決める。この先、渋滞なくスムースに行ければ、雁坂トンネルを通って両神温泉の道の駅でもいい。とにかくレッツゴーである。

白州の道の駅を出て、少し行くと武川村がある。今はここも白州町と同じ北杜市となってしまったが、ここの神代桜は日本三大桜の一つに数えられる名木である。立ち寄りたい気持ちが動いたが、もうとっくに花は散ってしまったろうし、時間も遅いのでパス。韮崎から甲府に入って、R140へ入り秩父に向かう雁坂トンネル方面へ。既に17時を過ぎているので、秩父に抜けるのは明日にすることにして、予定通り牧丘の道の駅に泊まることにする。間もなく到着。ここは平成の合併で、今は山梨市に編入されている。文字通り、小高い丘陵に広がる町である。丘というよりも山といった方が実態を表しているかもしれない。トラックなどが騒音を撒き散らさなければ良いがと思ったが、そのような心配はなく、静かな一夜を送ることができた。今回の旅も明日で終わる。

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第17日)

2008-09-29 05:33:15 | くるま旅くらしの話

17日 <510()

ずーっと降り続いていた雨も、朝方にはようやく飽いて上がったらしい。広い駐車場なのに、わざわざ傍に来て駐車したトラックが、エンジンをかけたまま停まっていた。全くうんざりする。少しでもトイレに近い所で眠りたいというのは判るが、エンジンを切らないというのには何か訳でもあるのか? 排気ガス問題など、運送業界は屁とも思っていないようだ。流通経済におけるトラックの重要性は、充分承知しているが、横暴な運転が多いし、事故も多い。何かが狂っているとしか思えない。騒音に悩まされると、オーバーな批判が迸(ほとばし)って沸いてくる。やれやれ。

今日は木曾街道を北上して、信州は松本の先の堀金村にある道の駅に泊まり、明朝野菜などを買い、その後は甲州街道経由で帰路につこうと考えている。木曾街道は久しぶりだ。昔の宿場町も幾つか残っており、又新しい気持ちでそれらを訪ねてみたい。15日までには帰るつもりだったが、邦子どが15日予定のフォークダンスの練習に出席したいというので、少し繰り上げることにした。

8時頃出発。R19を目指してR21を小1時間ほど走ると、「志野・織部」という道の駅の看板が目に入った。まだ聞いたことのない道の駅の名前である。名前から、焼きものに関係があるに違いない。そういえば、この辺りは瀬戸や多治見に近い美濃焼の産地だったなと気づいた。焼もののことは良くわからないが、名前程度なら、辛うじて知っている。ちょっと立ち寄ることにした。9時前で開店までしばらく待った。

このエリアの産業振興の基地としての役割を担って、最近開設されたようだ。入っていくと魅力的な焼き物が数多く並べられていた。拓の関心のほとんどは酒器に行く。燗をした時冷めにくい形の徳利か、ごく薄の盃がお目当てなのだが、残念ながらここには見つからなかった。邦子どのは何やら気に入った物があったらしく、2、3点買っていたようだった。

間もなくR19(木曾街道)に出て、今日はこの道を中心にずーっと北上する予定である。新緑の中に紫の藤の花が、あちこちにこぼれて咲いている。そこに柔らかな光が当って、なんともいえない美しさである。それにしてもこのあたりには、野生の藤が随分たくさん生育しているようだ。

恵那を過ぎ、中津川を過ぎてしばらく行くと、馬籠宿の案内板が目に入った。木曾街道からは少し中に入るが、久しぶりに寄ってゆこうと右折して坂道をしばらく登り続ける。ようやく峠に出て少し下ると、馬籠宿の駐車場が見えてきた。1時間ほど休憩予定。

ここに来るのは3年ぶりか。藤村の実家があった所でもある。島崎藤村という人がどのような人なのか、作品がどの様なものなのか、実の所あまり良く知らない。超有名人なので、名前だけはしっかり覚えているし、受験に出るような作品名だけは何となく覚えているに過ぎないというのが、拓の藤村に対する知識の全てである。真に失礼と言うべきであろう。

   

 馬込宿は細い坂道の両側に宿の建物が続いている。

細い急坂の石の段々道の両側に、その昔の宿が軒を連ねている。遥かに恵那山を望む風景は、明治のその昔とあまり変わっていないのかも知れない。中山道の宿場町として、今日の方が有名になっているようだが、江戸時代はさして規模の大きい宿場だったとも思えない。この長野県山口村は平成の大合併で、越県合併を実現して岐阜県中津川市に入った。もともと美濃の国に属することを誇りとしていたらしいのが、戦国から江戸時代の力関係で信州に属されていたのを、地元の人たちは心良く思っていなかったらしい。これで岐阜県の面積は少しばかり増え、長野県の面積は減ったということになる。渡り鳥がこの話を聞いたら、一体どのようなコメントをするだろうか。人間と言う奴は、真にこだわりの動物よなあ、と嗤(わら)うかもしれない。しかし、血の雨を見ることも無くすんなり合併が進んだのは、少しは人間どもの知恵が進化した成果なのかもしれない。宿場町の一番上にある見晴らしの良い広場に、何やら合併の経緯が書かれた看板が建てられていた。

拓がここで一番感動したのは、そのようなことではなく、この広場近くでアケビの芽茎を発見し、それが無尽蔵とも思えるほどたくさんあって、採るのに夢中になれたということだった。勿論、邦子どのとは全く別行動で、従って自由なのである。とにかく目に入るものの全てがアケビの芽と茎なのだ。先日の数倍は採れたと思う。これは企業秘密のごとく取り扱わなければならない情報だなと思った。坂を下りながら正気に戻って、宿場町の今昔を思い浮かべたりした。不謹慎ではある。

馬籠の次は妻籠宿と決まっている。妻籠も同じ山口村かと思っていたら、こちらは信州の南木曽町だった。妻籠は馬籠から一山越えた場所にあり、車なら直ぐの所だが、歩けば結構な距離がある。それでも今日のウオーキングブームで、歩いている人が多い。多くは我々と同世代の人たちで、おばさんが多い。今日もそれらしい服装で歩いている一団を見かけた。

   

 妻籠宿の景観。こちらは川の畔の作られた平地に宿がある。

妻籠は、馬籠よりも少し大きい宿場町だ。何とかいう細い川の片側に沿って、1km弱ほどだろうか、馬籠と同じようにびっしりと宿が密集している。そこを往復した後、駐車場に戻り、ご飯を炊き、邦子どのが馬籠でゲットしてきたウドを天ぷらにして昼食とする。天気はあまり良くはないが、雨は大丈夫。新緑に染まりながらしばしゆっくりする。

14時少し過ぎ出発。周囲の山々の新緑が何ともいえないほど美しい。特にその中ではカラマツの緑が独特の色合いで山を彩っている。落葉する針葉樹としての春の色なのかもしれない。1時間ほど走って、奈良井の宿に着く。ここには道の駅があって、すぐ傍を流れる奈良井川に木造の太鼓橋が架けられている。釘などを一本も使わない工法によるものらしい。しばし休憩。

   

 奈良井、木曽の大橋。総檜造りの太鼓橋。

奈良井は、馬籠や妻籠よりも遥かにスケールが大きい宿場町である。その昔は奈良井千軒といわれるほど、中山道では重要な宿場町で、多くの宿屋が軒を並べていたようだ。この宿場町が好きなのは、水場があるからである。旅人の疲れを癒す第一のものは、何といっても冷たくて美味い水である。馬籠にも妻籠にもそれらしいものは見られないが、ここには数箇所の水場があり、今でも清冽な清水が迸っている。拓はそれだけでもう充分にこの宿場町が好きになってしまっている。邦子どのとは別れて、これは馬籠も妻籠でも同じなのだが、一人ちんたらと街中を散策した。ここにもアケビの芽茎が結構たくさんあった。

   

 奈良井宿の水場。このような水場が数箇所設けられている

16時半、奈良井を出発。一路松本を目指す。わがSUN後は、塩尻の手前で、オッドメーターが7万kmを突破した。4年と2ヶ月が経った。大いに活用してこの車にも旅をさせてやりたい。

塩尻を過ぎ、松本市内に入ると渋滞が始まった。ノロノロ運転がしばらく続き、ようやく市街地を抜け、郊外の堀金の道の駅に着いたのは、18時頃だった。何だかすぐにでも降ってきそうな空模様である。ここには数回来ているが、殆どが雨の中だったような気がする。今日も危ない。それでも来るのは、この道の駅で売られている野菜などが高品質で安価だからである。

ここは南アルプス常念岳の眺望が素晴らしい場所で、その麓近くは野菜の生産地として有名で、日本アルプスサラダ街道という名の県道が走っている。レタスやセロリを初め、季節の野菜が超リーズナブルな値段で販売されている。気に入っている道の駅の一つである。少し離れた所に日帰り入浴のできる温泉もあるのだが、今日は何だか面倒くさい気分なので、そのままここで寝る予定である。

車を停めて、いつものように付近を散策していると、近くにJAの経営する農事用材を中心とするホームセンターがあり、何と肥料のドライブスルーというのをやっていた。さすがに安曇野のJAだなあと感心した。ハンバーガーだけではなく、今の時代は軽トラなどの肥料のドライブスルーがあるのである。堀金村は、平成の大合併で、今は安曇野市となっており、少しハイカラになったのかも知れない。

夜になって、夕食を過ぎた頃からやはり雨が落ちてきた。雨だけではなく、風もかなり吹き荒れて、旅の終わり近くは、とんだ悪天候の歓迎を受けることになった。

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第16日)その1/2

2008-09-28 01:55:43 | くるま旅くらしの話

16日 <59()

旅も16日目に入り、そろそろ帰宅日を考えなければならない。このまま信州経由で家に向かっても良いのだが、それではあまりに芸()がない。ここまで来たのだから、世界遺産の白川郷にも寄りたいし、その道筋ならば、荘川桜や少し足を延ばして郡上八幡にも行って見たい。郡上八幡は特に邦子どのの要望大の場所でもある。

と言うことで、R156を南下するコースを選択することにした。今朝も依然として雲が多く、山からの霧が直ぐ近くまで降りてきて立ち込めている。今日も晴天は望めないのだろうかと、山越えに少し不安を感じながら出発。

庄川の脇に沿って走り、たちまち庄川峡に入る。庄川は岐阜県のひるがの高原のあたりが水源地で、日本ではなかなかの大河である。道は、曲がりくねり、トンネルや洞門を幾つも潜り抜けながら、次第に高度を増して行く。気がつくと、天気は一挙に五月晴れに変わっていた。山の中は雨や霧が酷いのではないかという予想は完全に外れた。こちらは最初から晴天だったのかもしれない。真っ青な抜けるような空に、目も眩むような新緑の山々。そして深い渓谷もグリーンに染まっている。春の陽ざしがやわらかく全体を包んでいる。何という素晴らしさだろう。思わず道脇に車を停め、外に出て胸一杯にこの空気を吸わずにはいられなかった。今の季節では最高の景観の一コマではなかろうか。

   

飛騨路の春。雲一つない紺碧の空に、新緑が眩しい。

9時半近く、道の駅:平に着く。この道の駅では、和紙の製造販売をしている施設があり、邦子どのの関心事の場所だ。30分ほど休憩する。拓も五箇山和紙と呼ばれる便箋を買い求めた。この頃は手紙の殆どをパソコン印刷にしてしまっているので、和紙に手書きで書くチャンスは少ないのだが、それでも時々は筆などで書いてみたいと思う。

道の駅を出て少し走ると、道は谷底に向かって下り、庄川にかかる橋を渡って、庄川の反対側を行くようになる。その少し先に世界遺産の五箇山相倉集落がある。ここは先日豪雨で入り口の道路脇のがけ崩れで通行が出来なくなったというニュースを聞いたが、もう大丈夫なのだろうかと、確認したい気持ちもあって行ってみることにした。入口の所は工事中で相互通行となっていたが、バスも通れるように修復されていた。このような場所では、道路の修復は大変だと思う。もう何度も来ているのだが、1時間ほどかけて集落内を散策する。合掌造りの個々家の写真を撮るなら、白川郷よりもこちらの方が良いように思う。白川郷は人が多すぎて、落ち着かない。

   

相倉集落の遅い春。残雪の中にようやく春の息吹が感じられ出したようだ。

相倉集落を出て白川郷に向かう。途中から、道は富山県と岐阜県の県境を何度も入り組ませ通っている。飛越街道などとも呼ばれているらしい。岐阜県に入ってしばらく走り、白川郷に入るトンネルの少し手前に、山本豆腐店という五箇山豆腐を売る店があり、来れば必ず寄る店だ。拓は五箇山豆腐の大ファンである。この豆腐の特徴は縄で縛って持ち運びが出来るほど堅い。そして大きさも都会で売られている豆腐の3倍はある。京都の湯豆腐は有名だが、拓にはあまり関心がない。あのような軟弱な食べ物をよくもまあ好む人がいるものだと思っている。雅(みやび)というものが解らない人間なのであろう。五箇山豆腐は、粗っぽいチーズの味がする。殆ど冷奴で食べているが、工夫すればたくさんの食べ方が出来るのだと思うが、手間暇をかけるのがめんどくさい。というよりも、拓の場合は、荒削りのままの豆腐の生の味が何よりも魅力なのである。というわけで、今回も巨大な豆腐を2丁ゲットした。

   

白川郷に向うトンネル手前の山本豆腐店でゲットした五箇山豆腐。普通の豆腐の4倍ほどもある。

間もなく白川郷に着いたが、集落は人が多いので、今日はそこへは行かないで、合掌造りの集落全体の展望が利く、城山展望台へ直行する。写真を撮るなら、ここが一番のお薦めの場所だと思う。

  

城山展望台から見下ろした、世界遺産白川郷の景観。遠くに見える山は、未だ厳しい冬の様相をしていた。

写真を撮った後、引き返して道の駅:白川郷に戻り、昼食。食材は先ほどゲットした豆腐の刺身。さすがの拓の偏食欲を以てもこの豆腐を一度に1個食べるのは不可能である。割り箸などで切ろうと思えば、確実に折れてしまうほどの堅さだ。美味じゃあ、などといいながら豆腐だけの昼飯とは相成った。邦子どのには呆れられるばかりである。

1時間ほど休憩して、南下を続ける。南下といっても坂道を登り続けているという実態だ。白川郷の集落はパス。世界遺産の中心地をパスするなって、随分と贅沢な旅だなと反省したり、優越感を味わったりしながらしばらく走ると、御母衣(みほろ)ダムの異様な景観が目に入ってくる。日本で最大のロックヒルダムなのだ。コンクリートではなく、石積みで築かれたダムで、ビーバーが倒木等で作っているダムを人間どもは石や砂礫を積み上げて造っているようなものである。最初見た時は驚いたが、何度も通っているうちに驚かなくなった。ダムの脇の坂を這い上がって平らになった道を少し走ると、荘川桜にたどり着く。

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第16日)その2/2

2008-09-28 01:55:10 | くるま旅くらしの話

荘川桜は、ダム建設で地底に沈む集落の二つのお寺の庭にあった桜の老巨木2本を、何とか残そうと往時の技術を駆使して、ダム脇に移植したもので、何度も拝見しているが、まだ花が咲いている所を見たことがない。ところが、今回は何と、なんと今が真っ盛りの満開のタイミングでお目にかかれたのである。

   

 満開の庄川桜。奥の2本がダムに沈む湖底のお寺の境内から移植されたもの。

2本ともアズマヒガンという樹種で、樹齢は4百年とか。ダム建設では、様々な喜怒哀楽入り乱れての事件や問題が錯綜したのだと思うが、それらの昔日の人間の営みを浄化するように、おのれ自らも大きな厄難を被ったにも拘らず、2本の巨木は、美しい花を枝一杯に咲かせて微笑んでいた。もうすっかり桜のことは諦め忘れかけていたのだが、ここで今年の桜の有終の美ともいえる満開の荘川桜に逢えて本当に嬉しかった。

   

 庄川桜の逞しい幹。美しい花を咲かせる源泉は、この逞しい幹の示す生命力にあるに違いない。

更に南下を続けて、今日は忙しい走りの日である。先ずは郡上八幡を目指す。そういえば、平成の大合併で荘川村はとうとう高山市となってしまった。高山市はヤケクソと思われるような合併をして、とうとう日本最大の面積を持つ市となってしまった。人口は10万に満たないが、面積は東京全土よりも広いのである。大きいことは良いことで、行政の効率はどのようにアップするのだろうか。荘川桜のような著名な樹木ばかりではなく、山奥の名もない樹木にまで地域を守る力が及んでゆくのだろうか。人間の考える事はいつも片手落ちのような気がしてならない。それが人間の限界であるのかもしれない。

20分ほど走って、ひるがの高原の分水嶺公園という所に立ち寄る。ここは同じ水源から一方は太平洋へ長良川となって注ぎ、もう一方は日本海へ庄川となって注ぐという、日本列島の背骨の場所の一つである。真に分水嶺というべき場所だ。しばし記念写真などを撮りながら付近を散策。

   

 蛭ヶ野高原、分水嶺公園の分水嶺。左は太平洋に注ぐ長良川となり、右は日本海に注ぐ庄川となる。

ここからは、まさに分水嶺を実感するかのように、今までの登りが一転して、道は下り坂が主体となる。天気が崩れだして時々小雨がワイパーを求めるようになった中を、道の駅:白鳥に到着。初めて寄る道の駅だが、今日は休みのようで何も無い。直ぐ出発。続いて坂を下って平地になってからの道の駅:大和という所に立ち寄る。ここも初めての所。同じ郡上市内ということであるからなのか、この道の駅も休みだった。とにかく郡上八幡まで行ってみることにして、直ぐ出発。

郡上八幡の市街地は、R156から左折してトンネルを潜って直ぐの所に細長く広がっている。邦子どのがこの町に関心が高いのは、勿論夜を徹して踊り続けるという、この地の盆踊りがあるからである。拓としては何故そのような踊りが始まったかを知りたい程度であるが、恐らく阿波の盆踊りと同じように、当時の殿様の思い入れか何かから始まっているに違いない。今日はもう時刻も16時近くなっているので、せめてお城だけでも見ておきたいという考えである。

というわけで、お城の下の駐車場へ。ここからは歩いて、ということにして登り始めたのだが、予想外の急坂で、邦子どのは早くもギブアップ。置いてゆくことにして一人で登ること約20分、かなり汗をかいて本丸に到着。

   

 郡上八幡城。本来の建築物ではないが、それなりに古城の雰囲気をもって、山頂に建っている。

どうやら入場料を取られるらしいので、天守閣には入るのを止めて、周囲から四方を展望する。天守閣でなくてもそれなりに城と町との関係は解る。竹田の岡城ほどではないが、ここも攻めるのには難しい城のようだ。しかし天下に打って出るためには、このような城に留まっていてはダメであろう。平安な治世の世の中では、城下に住む民衆のシンボルとしてはいい感じだと思うが、戦国であれば、守りの城であって、大した影響力は持てないのではないかというのが拓の感想である。それにしてもここまで登って通わなければならない家臣団は大変なことだったと思う。

帰りは10分もかからずに車まで戻る事ができた。この間、邦子どのが何をしていたのかは分らない。近くに公園があり、そこに今NHKの大河ドラマで主人公になっている、山内一豊の賢妻千代と言う人が、この地にゆかりがありということで、銅像が建っていた。ドラマの設定では近江の方の出身となっていたようだが、僅かに400年ほど前のことに過ぎないのに、乱世では、なかなか本当の史実をつかむのは難しいのであろう。果たして千代さんご自身はどう思っておられるのか。

16時半出発。今日の泊りは近くの美並の道の駅にでもしようかと思ったが、R156に面しているらしいので、泊るのには不適であるかもしれない。もしそのような時は、少し遅くなるけど、以前に泊ったことのある美濃加茂にあるテーマパーク「日本昭和村」の道の駅に行くことにして出発。間もなく美並に着いたが、予想通りトラックが多い上に、狭くて長良川も近い。これでは無理だと考えパスする。

関市内で給油して、R418に入って道の駅へ向かう。少し暗くなりかけた18時過ぎに到着。天気は思わしくなく、雨が降り出しそうな空模様である。ここには温泉ではないけど、入浴施設もある。昨日も入っているので、風呂は止めにして早めに寝ることにする。

いつも夕暮れ時にお邪魔しているので、このテーマパークがどのような性格のものかさっぱりわからない。テーマパークでゆっくり遊ぶというような考えを持っていないので、拓の場合は東京ディズニーランドでさえ行ったことがないし、行く気も無い。単純に静かだろうと考えて泊めさせて頂くだけである。もう、心は帰宅モードになっているので、明日も早めにここを出て次の目的地に向かうことになると思う。これについては、邦子どのも賛成のようである。但し東京ディズニーランドのこととなると、彼女の場合は、話は別となるのだが。

夜半から雨が降り出し、本降りとなったようである。

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第15日)

2008-09-27 06:07:30 | くるま旅くらしの話

15日 <58()

よく降る雨も、さすがに飽きが来たのか、朝7時を過ぎる頃にはようやく降り止んだ様で、一帯は霧がかかっていた。勿論黒部渓谷の向こうの山などは全く見えない。この立山連峰などの高山のため、越中富山に行くときは、弁当を忘れても傘は忘れるな、などと天気のことを言われるのかもしれない。しかし、拓の知っている夏の富山は、もの凄い炎暑の街だし、冬の富山では酔っ払って、融雪用の溝に落ちたことくらいしか覚えていない。魚が美味いし、米も美味い、そして人情も温かな良い所だ。富山人は暗いと思い込んでいる人が結構居るようだが、拓の知っている富山人は、皆明るくて頭のいい堅実な人物ばかりである。(いつの間にか富山人の評論になってしまった。失礼)

 勢堂氏の住いは、北陸道富山ICの近くらしい。地図では比較的分りやすいので、何とかなるだろう。今まで、ナビ無しでも訪問先に行けなかったということはない。殆ど一発でいっているので、今回もそれ程心配はしていない。10時少し前に出発。R8から市内に入って、常願寺川の橋を渡ってR41へ。これを道なりに行き、IC近くで左折すればいいはず。

富山市は大都市だなと思った。富山県の人口の1/3以上がこの町に集中しているのではないか。人口も40万人を超えている筈だ。市街地はさすがに車が多く、所々渋滞していて時間を食った。勢堂家の近くまで来て、近所の方に詳しく道を尋ねようとしていたら、何とご本人が車でやって来た。気にしていたらしい。申し訳なし。でも無事到着できてよかった。

早速お宅に上がりこんで、挨拶を交わし、長いご無沙汰を埋めるべく歓談、歓談。勢堂氏とは20年近く前、研修の旅でヨーロッパ各国を廻ったとき、同行した仲間でもある。その後何となく気が合って、お付き合いしていた仲なのだが、先日無事退職したとの挨拶状を頂き、そのはがきの中に、これから百姓をやるというようなことが書かれていた。どのような百姓ぶりなのか見せてもらおうと、今回の佐渡行に併せて訪ねてみようと思った次第である。先日のメールでは、只今田植えの最中ということだったので、今日の訪問となったが、農作業の疲れも見せず、奥さん共々元気に迎えて頂き嬉しくもありがたかった。何のお構いもなく、などと言いながら奥さんの作って出してくれる料理を、遠慮もしないでパクパク食べながら、あれこれと話が弾む。

農業のことを聞くと、何と奥さんの実家の田んぼを借りて三反歩も作っているとか。こりゃあ、本格的だ。実家の農作業の手伝いも借りる条件の中に入っているというから、益々本格的である。今は農業といっても、機械作業が中心だから、彼の場合はお手のものだろうと思う。何といっても、もともと技術屋さんなのだから。

直ぐ隣が息子さんの家で、学校から帰ったお孫さんは、自分の家に戻らずおばあちゃんとおじいちゃんの所に、「ただいま」と帰ってくる。お孫さんとは良い関係が出来上がっているようで、自分達のように年に数回も会えない状況とは随分違うなと羨ましく思った。

15時近くまですっかりご馳走になって、暇を告げようとすると、何とお土産として玄米30kgの入ったものを持ってゆけという。びっくりした。実は、秋に新米が出来る頃にもう一度来るよ、と冗談を言って別れようとしていたのだが、今ここで、いきなりこれほど大量の米を頂戴するなんて、夢にも思っていなかった。本当に驚いた。しかし良く考えれば驚いてばかりでは済ませない。彼らご夫妻の温かいプレゼントとして、有難く頂戴しようと気持ちを切り替えた。本当にありがとうございました。

勢堂ご夫妻にお礼を言って、教わった道をひたすら道の駅:井波に向かう。本来は砺波のチューリップを見ようと思っていたのだが、勢堂氏の情報では、昨日で祭りが終わって、今日から数日は片づけでお休みだとか。ま、チューリップは新潟でも見てきたし、来年でもいいやとあっさり諦めた次第。

近道を教えてもらったので、1時間ほどで道の駅に到着。ここは何度も来ている所で、かなり勝手も知っている。井波は今度の合併で南砺市となった。市という実感はない。何といってもここは彫刻の町である。閑乗寺を終点とする木彫りの店の並ぶ商店街は、独特の雰囲気がある。加賀百万石関係の一切の彫刻を、その昔ここに住みついたお抱えの仏師や木地師たちが担って制作していたという。その伝統は、現代にも脈々と生きているようだ。到着後しばらく、少し離れた所にある商店街まで歩いて散策する。以前来た時と少しも変わっていない、静かな町の佇(たたず)まいがそこにあった。

駅に併設されている入浴施設(温泉ではない)に入って、車に戻り、勢堂ご夫妻やお孫さんたちのことなどを振り返って話しながら、一杯やっていつもと変わらぬ夜を過ごす。

この日は、特に掲載するような写真を撮りませんでした)

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第14日)

2008-09-27 06:06:29 | くるま旅くらしの話

14日 <57()

朝から雨。どうやら今日は終日雨のようだ。勢堂氏との約束で、明日お宅を訪ねることにしているので、今夜は富山に近い宇奈月の道の駅に泊まろうと考えている。日本海に沿って走るR8に点在する道の駅に立ち寄りながら、ゆっくり西上()するつもりでいる。

8時少し前出発。昨日来た道を戻って柏崎でR8に。あとはこの道を黒部市まで直進するだけである。R8に入ると直ぐ、正面に雪を冠した山が見えてきた。何という山なのか分らなかったが、多分米山ではないかと勝手に判断する。米山は米山甚句にも唄われている名山だ。その山の麓の海側を走るR8の傍に、道の駅:米山があった。休憩に立ち寄る。

雨は今の所は小止みの状態である。トイレの近くに野草類を売っている所があり、そこにシラネアオイの鉢が幾つか並べられていた。拓はこの花が大好きで、函館山で自生の花を見た時からの大ファンなのだ。しばらく眺めている内にどうしても欲しくなり、1,500円の奴を一鉢ゲット。ついでに雪割草も一鉢。家に持ち帰り我が家の野草園に植えて仲間を増やしてやるつもり。我が家の野草園は、日除けも完備しているので、育ててゆく自信はある。今年の春も春欄を初め、ニリンソウやカタクリ、それにイカリ草やクモマ草など、もちゃんと花を咲かせてくれている。雪割草というのはオオミスミ草のことらしい。これで来年は、少し賑やかな早春を迎えることが出来るだろう。

米山を出た後は、杜氏の里と名のつく道の駅:吉川に寄ろうと向かう。ここはR8から少し内陸部に入った所にあるのだが、道を間違えてしまい、広い田んぼや森の多い里の中を迷った末にようやく発見。ここで1時間ほど休憩。山菜などをゲット。邦子どのはエビネを一鉢買っていた。隣の建物に杜氏関係の資料が展示されていた。この町から全国とは言わないが、かなりのエリアに酒造りに出かけているとのこと。地酒も売られていたが、このところ飲み過ぎの嫌いがあるので、買うのは自粛した。

再びR8に戻って、次の道の駅:能生に着いたのは、11時半頃だった。かなり雨が降っている。この道の駅は海産物の販売所が、駅の建物の脇に併設されていて、地元の魚貝類やカニなどをゲットすることが出来る。それが楽しみで寄ったのだが、今日はカニが一番の売り込み商品らしく、どの店もカニ、カニと、カニ一色に近い状況だった。拓ははっきりいってそれほどカニに魅力は感じない。

しかし、邦子どのは大好物なのである。昼飯時近くだった所為もあり、カニ(松葉ガニ)を買うお客さんが多い。店の一番端に休憩所があり、見ているとプラスチックの丸い大きな桶の中に、買ったカニを幾つも入れて家族連れの人たちがぞろぞろ入ってゆく。行って見ると、何とそこで大勢の人が黙々とカニを食べているのだ。カニの一斉食いである。これじゃあ我々も参加しないわけには行かないのではと、邦子どのに声をかけてカニを食べることにした。

雨降りはかなり激しくなっているのだが、そんなことにはお構い無しに、皆黙々とカニにかぶりついている。さすがの邦子どのもこの光景を見て少しためらいがあったようだが、やはりカニの誘惑には逆らえず、出かけていってカニをゲットしてきた。獲れたてのものではないので、実際食べてみると、スカスカの所も多くて、見た目よりは不満が多い。邦子どのはカニの身を引き出すのが得意で、それを貯めて食べる主義である。その具を車の中に持っていって昼食にすることにしてSUN号へ。鯖の串焼などを作って売ればいいのにと思うのだが、ここには焼き物は皆無である。拓はお付き合いで足を2、3本食べただけ。

昼食の後、明日の勢堂氏のことを考え、住所と地図の確認をしようと地図を探したら、何と持参してきたのは東北と関東地区の分だけで、他の地区の分を忘れて来てしまっていた。東北の地図には、新潟県までは載っているが富山県は載っていない。凡その場所は出発前確認していたので、イメージとしては見当がついているのだが、やはりいざとなれば地図がないとどうしようもない。富山の後に信州や飛騨の方面へ行こうとすれば、そこの地図が必要なのに、うっかり忘れて来てしまっていた。SUN号にはナビを付けていないので、地図がなければ、あとは勘を頼りとするしかない。何処かで富山の地図だけでも買う必要がある。

しばらく休憩の後出発。40分ほどで親不知ピアパークという名の道の駅に到着。ピアパークというのは、どういう意味なのか。最初はピアとビアと間違えて、どうしてこのような所にビールなのかな?などと疑問に思った。調べれば何のことはない、難所の親不知を北陸高速道が通っており、その橋脚の下にこの道の駅が造られている。英語で橋脚のことをピアというらしい。とんだお笑いである。この道の駅にも魚介類が販売されているが、能生とは比べものにはならず、パスして次に向かう。

次は富山県との県境近くにある市振の関という名の道の駅である。この関所がどのような役割を担っていたのかはよく分らないが、越後と越中との境にあるのだから、軍事や経済上での何らかの重要な位置づけであったのは確かだろう。何しろ江戸時代というのは、この狭い日本を300余の小国家が集って区分統治をしていたのである。その時代が終わってから、未だ150年も経っていないのだ。あらためてそのことに気づくと、驚かずにはいられない。この道の駅に着いた頃は雨も少し小ぶりとなってきた。売店で地図を探したら、丁度欲しい情報の入ったものが見つかった。これで明日はもう大丈夫である。

直ぐに富山県内に入って、宇奈月に向かう。宇奈月といえば、黒部渓谷の入口にある温泉で有名な所だが、今日お世話になろうとしている道の駅は、それよりもかなり手前にあり、近くに温泉があるかどうかは分らない。富山県は日本でもリッチな県の様だ。名目上の所得は東京などの大都市圏には及ばないが、住宅を初め生活のベースとなるものについては、遥かに上を行っているし、又この大自然に囲まれていれば心も豊かになるのではないかと思う。立山連峰の厳かな峰々を仰いで育てば、自ずと精神の健全性も培われるのではないか、などと勝手な想像を巡らしながら40分ほど走り、黒部川の橋を渡って左折して、間もなく目的の道の駅に到着した。15時だ。少し早すぎる到着だが、今日の泊りはここに決めている。

道の駅構内には、「宇奈月麦酒館」というのがあって、どうやらここで地ビールの製造と販売を行なっているらしい。これは良い所に来た、と早速館内に入ってみる。「宇奈月ビール」というのが商品名らしいが、案内のパンフの説明によれば、ここのビールは本場ドイツの品評会でも入賞しているとか。飲んでみないと分らないが、来て早々ビールというわけには行かない。いつものように情報を求めて付近を散策するのは拓の役割。温泉はないかと案内板などを見てみたが、勿論この構内にはなく、隣は友学館という名の博物館のような建物が建っていた。2kmくらい離れた所には保養施設のようなものがあるらしい。そこへ行けば温泉があるのかもしれないが、今夜は我慢することにして動き回るのをやめる。

夕方になると、麦酒館のバイキングとビールを求めて三々五々人が集まってくる。我々にはバイキングなどは不要で、ジョッキのビールだけが欲しいのだが、持ち出すわけにも行かないので、我慢することにした。だが、我慢は効かず、邦子どのが売店へ行って3種類の缶ビールを買ってきた。

     

 地ビールの一つ、宇奈月ビール。なかなか味わいのあるビールだった。

トロッコ、カモシカなどと商品名が書かれていた。今日も日本酒でいいやと思っていたが、目の前にあるとそうはいかない。少し飲ませてもらったが、なるほどここのビールは、ドイツのビター系のようだ。黒ビールとまではいかないけど、褐色系の色合いをしており、ほんの少し苦味があって、拓の好きな味だった。これなら2Lくらいは直ぐにいけるなと思ったが、そのようなことすれば糖尿君が黙っているはずがない。残念だけどコップ一杯ほどで、諦める。

雨は降り続き、夜の間も止むことはなかったようである。

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第13日)

2008-09-26 04:12:29 | くるま旅くらしの話

13日 <56()

昨夜の泊りは何台かのキャブコンやバンコンもあって、この道の駅が結構利用されているのがわかった。我々の隣には札幌から来たらしいOX(横浜モーターズ製のキャンピングカー)が泊っていた。好い天気である。昨夜は真夏並みの気温だったので、オートバイで来てテントに寝た若者達も、寒さ無しで熟睡できたことであろう。この道の駅は駐車場の広い割にはトイレが小さく古くて、何かアンバランスの感がする。

さて、今日は何としても寺泊の浜焼きをゲットしたい。その後は、少し先にある道の駅:良寛の里和島というところへ行き、良寛様の足跡等を知りたいと思っている。それから先のことはあまり考えないで、先ずは出発。

昨日の道を寺泊に向かって行ったのだが、朝が早い所為か、駐車場はまだ混んではいなかった。8時前なので、店はまだ開いていないのではないかと思って行ったのだが、何軒かは既に開店していて、お客さんも結構来ている。駐車場は、かなりの収容能力があるのだが、昨日はここが満車だったのだろう。今日もこの後、混むに違いない。店を覗いて、昨日の売れ残りかもしれないが、来るのが早すぎたので、文句は言わないことにして、鯖の串焼、カレイの串焼などをゲットした。目的が達せられれば長居は無用と、直ぐに出発。この間わずかに15分だった。

海岸線の道から内陸に向かって左折して、少し迷いながら和島の道の駅に着いたのは8時半頃だった。少し早すぎた嫌いがある。勿論まだ店などは開いていない。

   

道の駅:良寛の里わしまの景観。良寛の里というテーマパークの中心的存在となっているらしい。

この道の駅は「良寛の里」と名づけられた、和島村(今は長岡市)の小型テーマパークの中に造られており、まさに里というのに相応しい環境にある。朝も早いので来訪者は殆どいない。ここでゆっくり過ごすことにして、一息入れたあと、付近の散策に出発。

近くには、歴史民族資料館や良寛様の記念美術館などがある。先ずは歴史民族資料館へ。和島村の歴史や生活の有り様などが詳しく展示されていた。次に記念美術館へ行ったが、ここは有料で良寛様の書などが展示されているらしい。原書を見ても解らないので、ここはパス。この村が何故良寛の里なのかといえば、それは良寛様晩年の面倒を見た木村家というのがここにあり、良寛様のお墓もそこの菩提寺にあるからということらしい。

ガイドの資料も何も持ってこなかったのだが、昨日の国上寺の五合庵だったかの解説で、木村家のことを覚えていたので、それでは歩いて探してみようと見当をつけて行ってみることにした。拓の直感は結構当るのである。村のお寺や神社というのは、大抵は杉や欅、榎や松などの大木に守られている小高い箇所に多い。高台から展望してみるとそのような箇所が幾つかあって、どれがそうなのかちょっと迷ったが、右手の少し大きな森がそれらしく思われた。近くに集落もある。ということで、行って見ると、お寺ではなかったが、やっぱ良寛様ゆかりの神社だった。すぐ近くにお寺もあった。

   

隆泉寺本堂。田舎にあるごくありふれたお寺の一つである。偉ぶらない良寛様に相応しいお寺のように思えた。

隆泉寺というお寺が木村家の菩提寺である。良寛様の墓を中心に、左手に実弟由之の墓、そして右手に木村家の墓が設えられてあった。般若心経を誦して参詣する。木村家というのは、心底良寛様を尊敬されていたのだなと思った。人と人との結びつきは、時代を超えてその力強さ、素晴らしさが伝わってくる。良寛という人物も時代を超えて人々の尊敬を集め得る立派な方であったに違いない。禅僧の功徳は、説教ではなく実践にあり、良寛様はまさに行いを以てその道を示されたのだと思う。本物だ。

   

良寛禅師墓。墓碑には、良寛様を慕った村人たちの思いが籠められているようだった。

隆泉寺近くにある先ほどの神社は、宇奈具志神社といい、ここは昔出田の宮と呼ばれていたらしい。そこも良寛様ゆかりの社であるらしく、なにやら説明の看板があった。参拝をして戻ると、鳥居の前に手づくりの和絵ローソクを製造販売している店があり、このようなローソクは飛騨の古川ばかりかと思っていたのだが、そうではないことが分って、認識を改めた。記念に中程度の大きさのものを2本買う。

12時前に車に戻って、一休み。道の駅には結構車が増えていたが、良寛様の墓まで行くような人は、居そうも無さそうだ。歩いてこのようなことをするのは我々だけなのかもしれない。車の便利さだけに溺れてしまうと、手抜きの世界しか見えなくなるような気がする。やっぱり手足を動かして、停まって見ることが発見には不可欠な条件のように思う。まだここを去る気になれず、時間もあるので、昨日採ってきた蕗を煮ることにした。湯がいてから皮をむいて、その後で味付けして出来上がり。上等の出来上がりだった。ついでにアケビの芽茎も湯がく。これらは今夜の肴となる予定。お昼は今朝ゲットした鯖の串焼。若狭の浜焼きには少し及ばないような気がするが、ウメ~。文句は無い。いい加減な昼食だ。一杯やりたいところだが、さすがにそれは控える。

近くに神戸ナンバーのバンコンが停まっており。邦子どのが声をかけると、川西市からやってこられた山崎さんご夫妻で、これから北海道に向かうとの話だった。うらやましい。名刺を交換し、この夏の北海道での再会を期すことを約して別れる。

今日は高柳という所の道の駅で泊ることに決め、14時に出発。良寛の里和島は良い所だった。今度こちらに来るときには、また立ち寄りたいと思った。あれこれ良寛様のことを思いながらR116を20分ばかり走ると、道の駅:ふるさと西山公苑というのがあったのでちょっと立ち寄る。ここは、かの宰相田中角栄氏の出身地らしい。彼の日中国交回復の偉業を讃える為なのか、駅の構内に中華風の妙な建物があった。行って見るとこの町と姉妹都市だかの提携をしている中国の何とか言う町との交流施設だとか。彼の地の物産品などが展示販売されていたが、あまり活気は無かった。何だかわざとらしい感じがする施設だった。直ぐ出発。

柏崎市郊外で左折してR252に入って高柳町方面へ。1時間ほど走ってじょんびの里という妙な名の道の駅へ到着。かなり混んでいて、車を上手く停められそうな場所がなく、少し迷った。ここも小さなテーマパークのような所で、特に子供の遊び場が多いらしく、今日は土曜日なので家族連れで賑わっているようだ。しばらく我慢すれば車も減るだろうと、様子を見ることにした。

邦子どのは、こどもの日用にと得意の紙工作で、風車(かざぐるま)を幾つか作って、子供に出会ったらプレゼントしようと思っていたらしいのだが、和島の道の駅ではそれらしき子供が見当たらず、残念がっていた。ここには丁度喜んでくれそうな子供たちがいるようだ。早速近くの親子を捕まえて、風車を渡していた。柏崎辺りから来たのであろうか、小学校低学年と幼稚園くらいの姉妹は、そのプレゼントをとても喜んでくれて、親はそれ以上に恐縮して、邦子どのは満更でもなさそうだった。彼女のいつもの手である。

そうこうしている内に暗くなりだしたので、併設されている寿楽の湯という温泉に入りに行く。65歳以上は100円引きという。拓が老人扱いの恩恵を受けて温泉に入るのは始めての出来事だった。有難いような、情けないような複雑な心境である。あと5年も経てば、気取っていないでそれが当然という顔になるのかもしれない。

夜半から雨が降り出した。明日からは、又、雨となるのかもしれない。じょんびの里の「じょんび」というのはこのあたりのことばで、ゆっくりくつろぐという意味らしい。人出が多くてはじょんびは無理のようだが、夜になると全く静かになって、雨の音だけが天井を叩いている。

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第12日)

2008-09-25 03:58:17 | くるま旅くらしの話

12日 <55()

4時半ごろ起床。今日もいい天気だ。先ずは、朝一番でアケビの芽茎と蕗などの山菜を採りに行く考えでいる。道の駅の東を流れる川の向こう側に蕗らしいのが見える。アケビもあの辺りには自生しているに違いない。遠くにある橋をぐるーっと回ってそこへ行って見ると、あるある、丁度食べ頃の蕗の葉がたくさん自生していた。どういう土地なのだろうと見てみると、その崖のような所は地震で崩れた土手で、小さな棚田のようなものがあった所らしい。今は下の方に機械工事で作られた新しい少し大型の棚田らしきものがあったが、まだ使われてはいないようだ。地震の凄まじさを改めて思い知らされた。蕗の傍に予想通りアケビがたくさんあり、早く摘んで頂戴とばかりに揺れて芽茎を突き出している。昨日おばあちゃんの話と実物を見ているので、何の心配も無い。小一時間ほどで蕗もアケビの芽茎もかなりの量となった。満足である。いそいそと車に戻って朝食。

今日はここを出て、海側に行きたいと思っている。寺泊か出雲崎に行って浜焼きをゲットしたい。鯖かイカの串焼きなど、久しぶりに海の幸を味わいたい。何しろ先日の佐渡では、魚は辛うじて黒メバルの煮付けを食べただけ。それ以降、魚類は全く食べていないのだ。これはどうしても実現する必要がある。

その前に、栃尾を更に奥に入った、入広瀬村辺りに行けば山菜がゲットできるかもしれない。いい山菜が手に入れば我が盟友・酒友の近藤さんに少し送ってやりたい。それに入広瀬は先の大地震でかなり被害を受けた所と聞いているので、その後の回復状況も見ておきたいと思った。

R290を山に入って行くと至るところに工事中の看板が立っていた。途中山古志村への標示板があったが、今回はそちらへ行くのは遠慮した。やはり地震の被害は相当のものだったようだ。至るところに道路補修の看板があり、壊れた田んぼを作り直すためのブルドーザーらしき建設機械が多く見られた。山の中の道を上り下りしながら入広瀬村(魚沼市)にはいると、そこは未だ冬だった。雪解けの水がいたるところを流れ走っており、根元に解けきれない雪を1近くも積らせたまま桜の花が満開となっていた。

     

 入広瀬村の道の駅からの景観。消えぬ雪。半分凍った池。しかし桜の花は満開だ。

不思議な花見の世界である。これでは山菜どころではないなと思いながら、道の駅に着いたのは9時前だった。未だ開店していない。案の定、駅の建物の傍にある小さな湖は8割以上が凍っていて、雪が載っており、わずかに解けた箇所に鴨らしき鳥達が何羽か泳いでいた。この状態では名物の山菜も未だ雪の中だと諦めて引き返すことにした。

来た道を戻る。工事中の箇所では離合のための信号機が随所に設置されており、あまり通る車も無いのに赤信号でたっぷり時間を使わされた。途中ご老人達が、道の脇に山菜を並べて売っている所があったので寄ってみた。山ウドやタラの芽や蕗のトウなどが並べられていたが、見た目の割にはびっくりするほど高い値段だった。

お婆ちゃんは売ることに一所懸命で、お客の顔も見ずに吹っかけているし、爺ちゃんといえば売るよりもSUN号に興味があるらしく、近寄ってきて「あの車は、何を積んで運んでいるのだ?」と質問された。一瞬邦子どのはどう答えていいか解らず、「人を積んで運んでいるの」などと、間の抜けた受け答えをしていた。「あれは寝床などを積んでいるのだよ」といったら、邦子どのも気がついて「台所、流しやトイレも積んでいるんだよ」と少し調子を合わせてつなげた。爺ちゃんは「そうが、んだら家を積んでいるのと同じだな。宿の心配しなくていいな」といって、それからは大して興味もなさそうな顔をしていた。今まで、いろいろな場所で、いろいろな人にキャンピングカーについて質問を受けたけど、「何を運ぶのか?」という、このような優れた質問は今まで無かった。記念すべき最高の質問だなと思った。

再度栃尾の道の駅に寄り、山菜はないかと探すが見当たらず、諦めてもう一度訪問の記念に、油揚げを食べて出発。とりあえず燕市にある県央地域地場産業振興センターというのを目指す。そこへ行くと燕の金物が安くゲットできるという情報がある。スプーンなどを少し買いたい。

その前に、会いたいと思っている富山の勢堂氏へメールで予定などを聞く。しばらくして返信があったが、田植えの最中らしい。ゴールデンウイークが未だ終わっていないし、行楽地はまだ混むだろうから、それならば田植えが終わった連休明けがいいだろうとアポイントをとる。

長岡方面に出て、R8を北上する途中の見附市郊外で、ふと気がつき近藤さんに佐渡の「イカトロナガモ」他を送ろうと決め、梱包材などを買いに立ち寄る。宅急便もOKだったので、一挙にことは済んで安堵。メールで美味いものの話ばかり知らせて、それだけでは意地悪根性となってしまう。ほんの少しだけど是非味わって貰いたいというのは酒飲みの友情か?

燕市の県央センターには12時ちょっと過ぎに到着。早速金物等の展示即売場へ。魅力的なものがたくさん展示されていた。欲しいものはやはり高価だ。適当な値段の包丁とスプーンなどを購入した。本格的な出刃包丁が欲しいのだが、高くて手が出ない。恐らく死ぬまで手に入れるのは難しいのであろう。

次に目指したのは弥彦神社。せっかくだから寺泊に行く前に参拝しておこうと考えたわけ。ところが行って見ると超渋滞で驚いた。連休なので、大挙参拝客が訪れて大混雑なのである。これでは参拝どころではない。やっとの思いで渋滞を抜け出し、それならば寺泊へ行って串焼をゲットしようと考え向かう。ところがここも魚市場からまだかなり遠いのに、橋を渡るともう渋滞が始まっている。やはり連休の人出の所為らしい。これじゃあどうにもならないと愚痴をいいながら諦めて、今日の泊まりを予定している道の駅:国上(くがみ)に向かう。

途中、「国上寺」の看板が目に入り、まだ時間が早いので、ちょっと立ち寄ってみようと、左折して坂を上る。全く名も知らぬお寺で、偶然に、気まぐれに行って見たのだが、何とそこは良寛様にゆかりの五合庵のある名刹だった。偶然というのは恐ろしいけど素晴らしくもある。おかげさまで思いもかけぬ歴史の一端を学ぶことが出来た。

お寺の境内を歩くのは気持ちがいい。神社もそうだが気持ちを洗われるような気分になる。若い頃はそうでもなかったが、歳を取るにつれて、このイヤシロ地(風水で心を癒す力を秘めた場所ということらしい)の感覚が、心と身体に伝わってくるような気がするのである。お寺は元々人々の魂が安息している場所だと思っていたが、この頃は益々それが確信的になってきている。お寺といえば墓地を想い、お化けとか幽霊とかを思い浮かべる人が多いが、拓の場合は、そのような感覚は殆どなく、したがって怖いというイメージも殆ど無い。真っ暗闇の中の墓地の怖さは、化け物ではなく、生きた人間の悪さに違いない。そう思っている。

   

国上寺本堂。鮮やかな新緑の中に重厚な建物が静かに来訪者を迎えてくれていた。

さて、思いもかけず立派なお寺に参詣できて有難かった。五合庵というのは、良寛様が、遠地での厳しい修行を終えて戻られてから20年を過ごした場所だというが、それは本当に素朴な住まいだった。元々はこの寺の阿弥陀堂の建立に生涯をかけたという万元上人という方に贈られた住いで、日に五合の米が併せて贈られたことから名づけられたとのこと。

   

五合庵全景。良寛禅師は更なる修業を積みながら、ここで20年を過されたという。

現在の建物は大正3年に建て替えられたものだというが、雪国のこの地での江戸時代の暮らしは、歌に歌われているほど、のどかなことばかりではなかったに違いない。良寛様といえば、子供たちと手まりをついて遊ぶ姿を何となく思い浮かべるが、禅僧の世界はもっと厳しく深いものがあると思う。そのほんの一部が子等と遊ぶ姿なのだと想う。拓も密かに庵というのを結んで暮らしてみたいと想ったりしたのだが、今ではもう無理なようだと諦めている。自分にはそれほどの厳しさに耐える覚悟が備わってはいないようだ。

境内を一巡りして、五合庵から千眼堂吊橋というのを渡って、駐車場へ戻る。15時を過ぎていた。道の駅を目指す。

   

千眼堂吊橋の景観。五合庵の細い山道を下りて、深い谷に架かるこの橋を渡ると、元の駐車場に戻れる遊歩道が作られている。

10分ほどで到着。ここには「手まりの湯」という温泉が併設されている。もう2日ほど風呂に入っていないので、一段落してから温泉へ。2日分の垢を洗い流すつもりでゆっくりと湯に浸かる。1時間ほどで出て、車に戻り、いつものように一杯やって、今日は終り。

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第11日)その1/2

2008-09-24 04:31:24 | くるま旅くらしの話

11日 <54()> その1/2

今日からは特段の目標の無いちんたら旅である。予定といえば、3月に退職したという挨拶状を頂いた、昔の勤務先仲間の勢堂氏の住む富山市に、百姓をやっているというその姿を拝見しようと立ち寄ることぐらいしかない。あとは飛越信州の山の中を適当にぶらついて帰途に就くだけである。本のこともあるので、遅くとも15日までには帰宅したいと考えている。

さて、今日は越後の山側の方へ行ってみることにした。先の大地震で被災の酷かった山古志村などは未だに半数以上の方々が避難所生活を余儀なくされている。物見遊山で当地を訪れるのは申し訳ない気がするので、山古志地区は遠慮してその近くあたりに行ってみたいと思いながら出発。R8で白根市を通って、三条市からR289に入り、途中から左折してR290をしばらく行くと、栃尾の道の駅に着いた。いい天気だ。白根あたりのR8は両側に田んぼの広がる越後の穀倉地帯を走っていたが、三条を経て栃尾に近くなると田んぼは多いが、もはや平地ではなくなって、遠くに雪を冠する山々が見えてくる。山古志村(今は合併で長岡市)あたりには、未だ雪が残っているのかもしれない。

栃尾の道の駅に来るのは初めてだ。栃尾といえば、何だか隣の栃木県にあるような錯覚があり、栃尾で有名な油揚げも栃木県からやって来ているように思ったりしていたのだが、それはとんでもない間違いで、ここ越後の栃尾が本物なのだ。栃尾は市だったのだが、今度の平成の大合併で長岡に編入されたらしい。よく判らないが、とにかく油揚げはここが本場だというので、早速道の駅の構内で売っているそれをゲットして食べることにした。

未だ9時15分で、店は開いたばかりである。それでも数人が行列を作っていた。ここの油揚げは一般の市販されている奴の厚さが3倍、大きさも4倍近くもあるほどの巨大なものである。それを焼いて中にネギやキムチ等の具を入れて食べるのである。大きいので、1枚を二人で食べて丁度いい。SUN号に持ち帰って、ねぎを刻んで追加して食べる。なかなかグーである。思いもかけない食べ物との出会いであった。

その店の近くで、おばあちゃんが山菜を売っているので、行って覗いてみると何やら細い蔓状のものが売られている。何かと訊くと、アケビの蔓の芽だという。アケビのことは何度も耳にし、見てもいるのだが、どこをどのように採って食べるのか実はよく分らなかった。それで、俄然乗り気になっておばあちゃんに食べ方を訊いたら、単純にさっと茹でて、それをそのまま胡麻和えやマヨネーズ和えで食べたり、或いは酢醤油でもいいという。卵とじも美味いよ、という話だった。なあ~んだ、そんなことかと妙に納得。早速小さな束1把200円を二つゲット。後で食べてみて納得したら、今度は自分で採りに行く考えでいる。

昨日まで佐渡の野山では幾らでもアケビの花盛りを見てきたのに、知識が無いというのは愚かだなあと、盟友近藤さんのことを思い出しながら、反省した。彼ならば抜け目なく、この旅であればもう何度もアケビの芽茎を腹に収めていたに違いない。ようやく一つ追いついたという感じである。食べ物のことになると、あらゆる領域で、我が盟友の近藤さんの博識経験豊富には遠く及ばず、ただ驚くばかりである。

道の駅の案内パンフを見ていると、「雁木あいぼ」というイベントが今日も開催されているらしい。何のことかよく分らないが、今日はもう移動しないで、ここに腰を据えそれを見物することにしようと決める。町の中心部までは、道の駅から片道3kmほどだという。ガイド担当の娘さんは、我々が歩いて行くというのが信じられないらしく、何度も近くの駐車場へ行く道を説明してくれた。勿論、車で行く考えは無い。

日差しが強くて、少し暑かったけど、いい天気でいい気分だ。この辺には未だ春がたっぷり残っていて、オオイヌノフグリやホトケノザなどの野草たちが道端に愛らしい花を咲かせていた。30分ほど歩いて町の中心部へ。

細い道の両側に商店街の建物が櫛庇(しっぴ)して1km以上も続いている。その商店街には雁木と呼ばれる狭い幅のアーケードのようなものが作られ、つながっていた。説明パンフによると、冬の豪雪対策として昔からつくられており、その部分の土地は私有地なのだという。各戸の所有者が自分の土地を出し合って公共の庇(ひさし)を作っているということらしい。冬の町の様子を写した写真があったが、今ののどかさからは想像もつかないほどの深い雪だった。

   

  栃尾のメイン通りの雁木。ここからは山古志村や入広瀬村も近く、冬の豪雪地帯であることを思わせる。

「雁木あいぼ」とは何を言うのかと、商工会青年部()と思しき、祭りの実行委員の人に訊いたら、「あいぼ」というのはこの辺りの方言で、散策するという意味とのこと。つまりは「雁木の街中をゆっくり散策してみよう」という主旨のイベントらしい。 (その2/2へ)

 

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南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第11日)その2/2

2008-09-24 04:31:01 | くるま旅くらしの話

 11日 <54()> その2/2

 町の中心部には、立派なお寺があり、行って見ると「清龍山常安寺」とあった。説明板を見ると、ここは上杉謙信ゆかりのお寺で、謙信が若き頃ここで育ち、ここで旗揚げをしたという由緒ある場所らしい。栃尾は城下町で、謙信ゆかりの場所だということを今日はじめて知った。遅れているなあと反省する。

   

常安寺山門近くの景観。あぶらあげの幟が目を引く。

常安寺の本堂の中では、この地の栃尾てまりという民芸品の展示会が開かれており、様々な模様の美しい手まりがたくさん陳列されていた。その昔、栃尾は絹の産地であったらしい。それゆえ、このような民芸品が今日まで残っているのだろう。

常安寺の境内脇に作られた100を超える急な石段を登ってゆくと、広い平地がありそこが秋葉神社だった。秋葉神社といえば火伏せの神様として遠州(静岡県)にあるのが有名だが、この栃尾の神社も日本の二大霊山として崇められているそうだ。それにしては神社の境内は樹木が少なく殺風景で、それほど大げさな場所とは思えなかった。建物そのものは、小さいけど落ち着いた雰囲気を持っており、やはりここがイヤシロ地であることを証明しているような気がした。

   

常安寺の裏手の丘の上にある秋葉神社の景観。境内に樹木が少なくてやや殺風景の感は否めない。

石段を降りて常安寺に戻る途中の土手に、キクザキイチゲが可憐な花を咲かせていた。気がつくと、境内の庭には、大きな残雪の塊があり、何だかじくじくぬかるんでいるなと思ったら、水はそこから滲み出していたのだった。真冬には、このお寺は雪の中に埋まってしまうのかもしれない。上杉謙信という人は、雪が無かったら天下を取ったのかも知れない。結局雪に邪魔されて中途半端な遠征ばかり仕掛けているうちに病に倒れて志を空しくしたのではないか。しかし、その根性というか精神は、深い雪の中で練り上げられたのであろうか。あの時代を引っ張る力のあった相当な人物だったに違いないと思った。

邦子どのは機織りのイベント会場に入ったきり出てこない。何やら織り機に向かって坐って、指導を受けているようだ。以前から織物をしたいといっていたから、まあ我慢して待つことにした。その織物の会場の脇で、地元の民話を語り聞かせるコーナーがあり、そこに坐って聞いてはみたのだが、雑音がうるさい上に語り部のおばあちゃんのことばが殆どわからなくて、結局何の話やらさっぱり解らなかった。まるで、どこか異郷の場末で、呪術師の予言を聞いている感じである。昼過ぎになって、ようやく織物の勉強が一段落したらしくて、戻ってきた邦子どのと合流。

商店街には○○小路と呼ばれる脇道が幾つもあり、夫々に稲荷小路とか十二山小路だとか昔からの由緒ある名前が付けられていた。それらを覗きながら帰路へ。

  

メイン通りからの横道には、歩く旅のまちづくり委員会が設置した、小路名とその由来を書いた案内板が幾つも見られた。左は十二山小路、右は出雲小路の案内板。

途中味噌を造っている古い店があり、そこに立ち寄って醤油の実という酒の肴に万能らしい食べ物などを買う。黒く輝く柱を見ると、この店の重厚な歴史を感じた。しかし、雁木の商店街全体は、両津の街がそうであったように、ここも全体としては化石化の方向へ向かっているように思えた。この地での商売は、これから益々大変だろうなと思いながら、来た道を戻って道の駅のSUN号へ。

もう一晩、今日もここに泊ることにして、ゲットしていたタラの芽などの山菜を天ぷらにし、それを肴に一杯やってゆっくりすることにする。アケビの芽茎も茹でることにした。

今日は、ほんとにいい天気で、ゴールデンウイークの最中の所為か、道の駅は車で溢れかえっている。SUN号は最初から邪魔にならないような所に停めてあるので、大丈夫。タラの芽の天ぷらは最高だ。邦子どのの天ぷらを揚げる技術は、山菜に関してはプロ級と言ってもいいように思う。この人を褒めるようなことはあまりないのだが、これだけは褒めざるを得ない。でも付け加えれば、天ぷらを揚げる気になってくれるのが滅多にないのが残念である。今日は考えが一致したのが幸せであった。

アケビの芽茎も茹でてみたが、これもなかなかグーだった。卵とじなどめんどくさいことをしなくても、生醤油だけでも充分いける。よし、明日は採ってくるぞ、と闘志が湧く。一杯やった後は、急に眠くなって、しばらく午睡。このグータラさが旅の楽しみの一つである。

16時過ぎ、午睡から目覚める。道の駅の車も人もかなり少なくなった。栃尾の町は、三方を山に囲まれた盆地にあり、何というのか知らないが一本の川が町の中を流れている。この川が時々暴れて氾濫するらしい。道の駅からは。南東方向になるのだろうか、雪を被った5つほどの峰を持つ山々が白く輝いている。観光案内所の人に訊くと、守門岳という山だとのこと。なかなかの名山である。

今日はかなり歩いたので、本当は温泉に入りたいのだが、近くにはそれらしきものは見当たらない。日が暮れてゆく時間に合わせて、ちんたらと過ごす。薄暗くなってきたが、今夜のここでの泊まりは、我々の他にも数台のマイカーが残っていた。夜は、入ってくるトラックもなく、静かな時間を過ごす。

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