goo blog サービス終了のお知らせ 

山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

桜咲き、そして散る

2018-03-31 04:50:51 | 宵宵妄話

 今年の桜は例年よりもかなり早く開花を始めたようだ。守谷市近郊の桜も遅れをとらぬようにと咲き急いでいるようで、あっという間に満開となり、まだ4月も迎えていないのに早や散り始めている。

 このシーズンは花粉の飛散の激しいこともあって、何年か前までは泣き濡れながら花を見に行っていたのだが、この頃は花粉対策も万全を期せるようになり、飲み薬やマスクなどを用いて、ようやく落ち着いて花見ができるようになった。

 守谷市近郊にも何箇所か桜の名所があるのだが、自分たちは隣のつくばみらい市にある小貝川の福岡堰という所に見に行くことにしている。我が家からは車で15分くらいの場所で、ここには堰の脇に造られた農業用水用の堀の堰堤に沿って、1.2kmほどの桜並木がある。秋田県角館の桧内川の堰堤には及ばないけど、往復2キロ半の満開の桜を眺めての散策は、一時の夢の世界を味わわせてくれる。

   

つくばみらい市福岡堰の桜並木。用水に浮かぶ花もみんな桜である。

 今年も家内と二人で手づくりのお弁当を持って出掛けて来た。3日ほど前に近くを通った時は未だ2分咲きくらいだったので、満開までにはあと4~5日くらいかかるのかなと思っていたら、急に気温が上がったせいなのか、今日来て見たらまさに満開の最高潮に達していたので驚いた。

 花はそれがどんなものであっても皆美しい。それらの中でもとりわけて桜を美しいと思うのは、樹木の厳つい黒さに反した優しげな色の花とその数の多さ、そしていっぺんに花を広げ、あっという間に散ってゆくという時間の速さ。冬が終わって本格的な春が来たのを告げてくれると共に、その一瞬の早業の中に人々は人生の有り様を垣間見ることができるからなのかもしれない。

青空を埋める花の世界は、さまざまなことを思い浮かべさせてくれる。

 花の溢れる並木を、時に空を仰ぎながら歩いていると、様々なことが思い浮かべられる。思い浮かぶのは、その殆どが遠い昔のことばかりである。特に強く浮かんで来るのは何と言っても子どもの頃の思い出であり、それには入学式のイメージが重なるのが不思議である。もう70年以上も前のことなのに、はっきりと思い出すのである。

村の小さな小学校の校庭に植えられていた桜の老木たちは、小学1年生となって新たな暮らしを迎える小さな子どもたちに、優しい眼差しを向けるかのように満開の花を咲かせて見守っていてくれていた。上級生となった翌年も又同じようにして、小学校で迎えた6回の入学シーズンには、いつも桜の花が背景にあったように記憶している。どんなに歳をとっても、この優しく懐かしい思い出が消えることはない。

 「桜咲く 少年の日に 会いに行く」

これは山形県置賜さくら回廊の名木の一つ、伊佐沢の久保桜の近くにあった句碑なのだが、作者の名を失念してしまっているのに、この句だけは忘れないでいる。自分がこの時期になると、毎年桜を見に行きたいという衝動にかられるのは、まさにこの句の思いと一致している。名句だと思っている。

 そのような感慨を抱きながら福岡堰の桜を堪能したのだった。それが3日前だった。今日は3月末の日。桜は早くも散り始めていることだろう。そこで思い出すのが、良寛様の句である。

「散るさくら残る桜も散るさくら」

出雲崎の良寛堂を訪ねた時、改めて良寛様の生きざまの凄さを思い知った感じがしたのだが、それはこの何気も無い様子の句に全てが籠められているように感じるのである。それは自分が間もなく傘寿を迎える歳周りになって、より一層強く思い知らされている気がするのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人類は「旅」で地球を乗っ取った

2018-03-25 11:14:24 | くるま旅くらしの話

 昨年来ずっとこれからの旅のあり方を考えている。残り時間の少なくなった人生をどう生きるかの中で、自分たちのくるま旅くらしにかける比重は大きい。どのような旅をすれば悔いのない人生を終えることができるのか。そのような大げさなことを少しまともに考えて来たのである。

 最近の旅でずっと気になっていたのが、この日本という国は一体どのような国なのか。どのような歴史を刻んできたのか。子どもの頃からあれこれ学んできた知識はあるけど、その実際を確認するような意図が働いたことは少なく、旅をしていてもただ漠然と名所旧跡などを観光するだけだったのである。それが相棒(=家内)の影響もあって、神社仏閣や古民家、重要伝統的建物群保存地区、重要文化的景観、城郭・城址などを訪ね歩いている内に、だんだんとそれらを意識するようになった。それらを考えるようになって、そうだ、これからの旅ではこの日本という国の来し方を訪ねることをテーマとしようと思うようになった。

 旅というのは元々観光が原点となっていると聞く。観光というのは光を観ると書く。これを自分流に解釈すると、観光というのは、未知の世界にまばゆい光を当ててそれを観るということではないか。つまり既知・既住の世界ではない場所・対象に出向いて、そこに新しい発見と感動を見出した時、人はそれをまばゆい光の世界で受け止めるのではないか。一口に観光旅行というけど、その本質はそのような非日常の世界に、新たな感動を見出す、その期待に溢れた旅をそう呼ぶのであろう。

 そのように考えると、日本国の来し方を訪ねるというくるま旅も又観光旅行の一種となるに違いない。そう考えると、民俗学や考古学の学術・研究に携わる人たちの旅も、皆その本質は観光の旅ということになる。これをさらに敷衍(ふえん)して考えると、人は観光のために旅をしながら生きているのではないか。未知に対する新しい発見、感動を求めて、人々は様々な分野で旅をしながら生きているとも言えるような気がするのである。

 話がかなりオーバーとなっているが、そのような「この国の来し方を訪ねる」という旅のテーマを決定的にしたのは、昨年の秋、倉敷に住む知人宅をお邪魔した時に、知人に楯築遺跡という古墳というのか墳丘というのか、古墳時代に先駆けてのかなり規模の大きい遺跡を案内頂いて、そのあと古墳と墳丘墓についての講演を聴講したことだった。それまで古墳などというものに対しては表面的な関心を装うだけで、大した興味も覚えなかったのである。

 しかし、この遺跡の見学やら講演を聞いて気づいたのは、この国の来し方を訪ねると言うなら、古墳時代を置き去りにはできないはずだし、それよりももっと以前の弥生や縄文時代はどうだったのかについても、予めある程度の知識や自分なりの考え方のコンセプトを持っていなければならないのではないか、と思ったのである。

 それで、昨年末から古墳について書かれた何冊かの書を読み、古墳といえば前方後円墳くらいしか考えていなかったのが、それだけだはないというのを知り、更には古墳時代の前にある弥生時代というのは何なのか、更にはその前の縄文時代というのはどのような時代だったのか、そしてさらにその前の旧・新石器時代とはどうなのか。そしてついには、人類とはどこで発祥してどのように今日に至っているのか、等々とんでもない大掛かりな世界に迄目が向きそうになった。2ヶ月ほどかけて、古代や超古代の人類のあり様に関する何冊の本から得た知識として。幾つかを得ることができた。

 まだまだ人類の発祥の歴史の仮設の一部をほんの少し舐めたに過ぎないのだが、それによると人類の発祥はアフリカ大陸の中だったらしい。人類は、猿人→原人→旧人類→新人類というふうに進化したという。新人類に至ったのが約20万年前とのこと。これが今のヒトの祖先と考えると、アフリカで生まれた人類は、20万年を掛けて現在に至っているということになる。

一体どのようにして今日に至ったのかは興味深いテーマだが、どうやらそれは旅によるものらしい。といっても、アフリカから世界各国にちょっと旅するというようなものではなく、人々は20万年をかけて、後戻りをしない旅に出かけたのである。20万年前の地球がどのようなものだったのかは想像もつかないが、現在のような大陸の形が形成される前に、ヒトの祖先は皆歩いて新天地を求めて旅に出かけたのであろう。その最初はやはり観光の精神だったのではないか。既知の世界には無い新しい世界を求めて、何万年もかけて少しずつヒトの祖先は地球の大地を移動していったのであろう。

ところで、我が日本国の場合はどうなのか。凡そ1万5千年ほど前に(その当時は氷河期でまだ日本列島は大陸と地続きであったという)、この国の祖先は二手の方向、即ち南部方面と北部方面からやって来て、当時まだ半島だったこの地に住みつき、その後これらの人たちが混淆して和人(≒大和民族?)となり、縄文時代をつくってきたという。その後氷河期が終わり、融けた氷が海面を押し上げ、やがて日本列島が誕生したという。ここから日本固有の縄文時代が始まったわけである。一口に縄文時代というけど、石器から縄文土器にたどり着くまでには1万年以上もの時間がかかっているのだから、これは大変なことである。

弥生時代というのは、大陸からの稲作技術がもたらされたことによる一種の産業革命のようなもので、紀元5~6百年前の頃からというから、その始まりは中国大陸で孔子様が活躍された頃となる。縄文と比べれば極めて短い期間の新しい時代だったことが判る。それでも縄文と並べて取り上げられるのは、この時代が稲作という革新的な食料生産技術を獲得普及させたことで、縄文時代の狩猟・採取に依存する不安定な暮らしを大幅に改善・向上させ、安定的な食料を確保することができるようになったからであろう。

弥生時代の始まりを紀元前5~6百年と推定するならば、その終わりは紀元300年頃となるから、弥生時代というのは、およそ1千年足らずの期間だったということになる。日本国という国家体制が固まり始めたのは、古墳時代の後期頃からであろうから、それから現代までの歴史は、弥生時代の凡そ倍近くの長さとなっていることになる。

歴史というものを考える時、自分などは古墳時代より以前については、単純に弥生時代とか縄文時代と決めつけていたのだが、その長さについてはあまり念頭に入っていなかった。しかし、歴史というものを時間軸で見直してみると、縄文の圧倒的な長さ、そして僅か1千年足らずで国家体制までつくり上げた弥生時代、それから現代まで既に2千年近くが過ぎており、特にここ100年ほどの科学文明の進化は、目覚ましいというよりも行き過ぎの感じすらある。その科学文明を介して、今では単一国家や民族などの集まりを超えて、超スピードで暮らしの中の様々なものが世界化している感じがする。

このように人類の歴史を概観してみると、それらの動きの始まりが観光を求めての旅であったことに深い感慨を覚える。日本国の来し方については、さらに多くの情報を集めておく必要を痛感している。もう一度日本の歴史について書かれた本などを通読しなければならないと思っている。今までにも何回か読んでいるのだが、今回は改めて「旅」という視点から、時代がどのように変遷して行ったのかを捉えるようにしてみたい。

花粉まみれの季節の中で、この頃考え取り組んでいることである。取り敢えずの近況報告としたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「こっちゃ来い」たちの恋の季節

2018-03-12 05:35:10 | 宵宵妄話

「こっちゃ来い」が鳴いている。「こっちゃ来い」は、守谷市の市の鳥である。本名をコジュケイという。漢字では小綬鶏と書く。ものの本によれば、この鳥は中国原産で、何時の時代か日本に持ち込まれ、それが野生化して今日に至っているとか。丁度チャボを一回り小さくしたくらいの大きさの鳥で、飛ぶのがあまり上手ではなさそうで、空を飛んでいるのを見たことが無い。守谷市が市の鳥に指定したのは、小綬鶏たちがあのカルガモの親子たちと同じように、雛鳥たちをひきつれて藪の中を歩いているのが愛らしく、親子仲良くというイメージからだという。小綬鶏たちの多くは、農家の屋敷林の中や取り残されている林の藪の中、それに川の土手の竹や篠の藪の中などでくらしているようだ。人間をかなり警戒しているようで、人から見られるような場所には滅多に顔を見せることはない。同じ仲間に雉がいるのだが、雉の方は人間を恐れる度合いが少なくて、畑などにも姿を見せているようである。守谷には雉も小綬鶏も結構多く住んでいるようで、この季節は鳥たちのノドの競演で結構賑やかとなる。

さて、「こっちゃ来い」の話である。この鳴き声を「ちょっと来い」と聞きとめている人も多いようようだ。だが自分的にはこの鳥は関西弁が似合うのではないかと勝手に思っている。何しろ鳴き出せばその引き攣った叫びは止まらず、誰が何と言っても「こっちゃ来い」なのだ。「ちょっと来い」は関東の標準語的な発声で少し冷たい感じがするのだが、「こっちゃ来い」の方が少し温かくて地力がある感じがするのだ。東西のご婦人が、大声で人を呼ぶ競争をしたととしたら、その迫力において西方の、とりわけて大阪のおばちゃんに叶う筈が無い。この鳥の鳴き声はそのおばちゃんを凌ぐほどのものなのだ。

守谷市の「こっちゃ来い」は、ほぼ一年中何処を通っても耳にすることができるのだが、この花粉が舞う季節になると一段と声量を増し、が鳴り立てる頻度も多くなりだす。恋の季節という奴らしい。しかも彼らの恋は全員が盲目的と言ってよい。周囲がどうであろうと、犬が近づこうと私という人間が傍にいようと、そのようなことには一切構っていられない、傍若無人となるのである。

今日は朝の歩きで小貝川のコースを2時間ほど歩いた。この間堤防の下方の狭い川原の竹と篠の藪の中で、集団になって「こっちゃ来い」が重唱というのか、斉唱というのか、リズムもメロディもハーモニーも一切無視してぶち壊しの大声をあげていた。それに呼応するかのように500mほど離れた田んぼの向こうの民家の屋敷林の中から負けじと「こっちゃ来い」とやり合っている鳴き声が聞こえてくる。空を見上げると何時の間に舞い上がったのか、雲雀がこれ又賑やかに訳の判らぬ囀り声をあげて天を目指して騒いでいる。ふと気がつくと、竹やぶの中にウグイスがいて、小さな声で「ホーホケキョ」と鳴いている。彼女たちも間もなく「こっちゃ来い」につられて、「ホー、コッチャコイなどと鳴くようになるのだ。

昨年の日経BP社の行った「住みよい街2017」の「シティブランドランキング」で、守谷市は東京武蔵野市と福岡大野城市と並んで、全国1位となったとか。守谷市が、武蔵野市や大野城市と比べて間違いなく優れているのを強調するとすれば、この鳥たちの鳴き声の豊かさを挙げることができるのではないかと思う。「こっちゃ来い」は少し鳴き方に品が無いけど、茨城県の県南の温かさを象徴しているような気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心は幾つある?

2018-03-07 04:50:19 | くるま旅くらしの話

 先日家内が見ていたTV画面を覗くと、どこかのお寺の尼さんらしき人が映っていて、2~3人で何やら楽しげに精進料理のようなものを作っている様子だった。しばらく見ていると、そこは奈良県桜井市にある音羽山観音寺というお寺で、登場しているのは女性のご住職と見習いの尼さんの方とお手伝いの方だとか。家内の話では、とても面白いらしく、是非ともここへ行ってみたいのだという。

 しばらく見ていたら、画面が変わって、見習いの尼さんがどこかの中学校へこれから講演に行くとのこと。どのような話をされるのかと興味を覚え、益々吊り込まれてしまった。見ていると、行った先は天川村の中学校なので驚いた。というのも、天川村は、奈良へ行く時には一度は行かなければならない場所と考えているのにまだ行っていないのである。ここは古代からの歴史の詰まっている場所で、日本の来し方を知る上では大事な場所と考えているのである。

 その中学校は、全校の生徒数が10名足らずというので、これにも驚かされた。どのような話をされたのかを知りたかったのだが、ほんの一部しか放映されなかったのが残念だった。その講演の中で「皆さん、心というのは一つですか?」と問いかけている場面があり、これがとても気になった。中学生たちがどんな答えをするのか、どのような話の展開になるのかと期待していたのに、又々すぐに別の画面に替わってしまいガッカリしてしまった。TVの放映目的はその講演ではなく、別のテーマにあったらしいので仕方がない。

 中学生の年代の子どもたちに「心は一つか?」と問うのは優れた視点だと思った。振り返って自分のことを思う時、中学生の頃は自分がいったいどんな人間なのかについて迷いに迷ったものである。思春期というのは心が揺れ動き始めるときであり、自分は二重人格者ではないか、或いはそれ以上の多重人格者なのではないのかなどと自己嫌悪に捉われたりして困惑したのを覚えている。今考えると、それを突き詰めるのを途中で思いとどまって、元のいい加減な世界に戻ったので難を逃れてここまで生きて来られた様な気がする。多感な時代には、信頼できる大人からのしっかりしたアドバイスやヒントが欲しいものである。この尼さんも又ご自分の多感な時代を思い起こされてこのようなテーマを取り上げて話されたのかもしれない。

 さて、この歳になって、自分は今、心というものをどう考えているのだろうか。あの多感な頃から60数年が過ぎて、改めて自分の中を覗いてみた。答えは次のようになる。「心は一つである。だけど限りないほどに変化するものだ」と。

 60数年の間に様々な体験をしている。この間に心の居場所は転々と変わったように思う。しかし、根っこのところは少しも変わっていない。だから、心というのはやっぱり一つなんだと思う。その一つの心が変幻自在に動き回るのだ。この変化は止めようがない。心は「場」に応じて変化する。「場」が変われば心の居場所も変わるのである。悲しい場面では心も悲しくなり、嬉しい場面では嬉しい心となる。だけど根っこは変わらない。同じなのである。

 それはちょうど、竹や篠などと同じように見える。竹の生命は根っこでつながっている。一つの根っこから膨大な数のタケノコが生まれて、そのまま成長すると大きな竹藪となる。根っこは同じでも成長した竹の一本一本は皆違っており、一つとして同じものはない。だから別々の生命のように見える。しかし、根っこが枯れると全ての竹は枯れてしまう。心というのも普段は様々に変化して、置かれている「場」に対応している。しかし根っこは一つなのだ。自分の心が他人と同じとなることはないし、他人の心を自分と入れ替えることも無い。今はそのように思っている。二重人格も多重人格も全て心の変化であると捉えれば、もはや悩むことも無い当たり前のことなのだ。

 それでふと思い出した詩がある。萩原朔太郎が若かりし頃に書いた詩であり、「純情小曲集」に収められている作品である。改めて昔を思い起こしながら味わってみた。

 こころ

 

こころをばなににたとへん

こころはあじさゐの花

ももいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや

ああこのこころをばなににたとへん

 

こころは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言うことなければ

わがこころはいつもかくさびしきなり

 

 これを読んで、改めて萩原朔太郎という方は詩人なのだなあと思った。多くの詩書き人は変人が多いようだが、この作品を書いている頃の朔太郎はかなりのロマンティストであり、それなりに心というものの本質を見抜いていたようだ。若い頃に感じる理由のない哀しみのようなものを伴った心の変化を詩っているようだ。余計なことは考えずにしばらく味わうことにした。

それにしても、天川村へは行かなければならない。今年中に何とか実現したいと思っている。それから音羽山観音寺も訪ねてみたい。でもこれは、かなりの難行となりそうだ。北海道の旅から戻った後、秋が来るのが待ち遠しい。花粉の季節の中で、いま、このようなことを考えている。

 

 ※お詫び:天川中学校の生徒数を10名足らずと書きましたが、追って調べたところ全校では17名とのことでした。訂正してお詫び申しあげます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平昌オリンピックの最優秀アスリートは誰か?

2018-03-02 04:55:51 | 宵宵妄話

 オリンピックの放映が終わると、たちまち話題は消え去って、新たな刺激を求めるかのように、TV放映側もその聴取者も関心を別の対象へと向けて行く。その結果オリンピックの功労者への関心も弱まり、一時の話題へと変化してゆく。世の中の移り変わりは、このような大きなイベントがあった時の様子を眺めていると、いつも同じトーンで流れているようだ。それは恰も鴨長明が方丈記で述べている川の流れの観察と変わらないようだ。平安時代の終わりごろも世の中の移ろいというのは、本質的に不変ということなのであろう。しかしまあ、長明さんの観察に比べて、現代のそれは何と騒々しくて、本質なるものの見難いことか。

 いきなり難しげな話となったが、先月の韓国平昌オリンピックについては、過去最高のメダル獲得となる成績を挙げたとかで、マスコミは騒いでいた。皆、メダルの数など大した問題ではないと心の隅で思っているのに、マスコミはやはりそのことに拘っての報道をせざるを得ないようである。ま、それはこ業界の宿命なのかもしれない。

 さて、今回のオリンピックのメダル獲得のアスリートについてなのだが、国民栄誉賞なるものの授与についての話なども出ているようだが、一体誰にそれを与えるべきなのだろうか。自分なりにそれを思ってみた。一番簡単なのは、金メダル獲得者全員に与えるという方法であろう。しかし、そのようなことをしたとすれば、今後に悪しき事例を残しかねない。だから基準は金メダルではない。やはり国民に最大の感動を与え、生きる力を与えた人ということになるのだと思う。

 しかし、その判断を誰がどうするのかとなると、これは難しい。現実の世界では、総理や官邸の意向が左右することになるのだと思うけど、国民というのは一人一人の価値観は皆違っており、その判断基準も異なっているから、オリンピックのように複数の候補がある場合は、選定をする側は困惑するに違いないと思う。それは又仕方のないことでもある。

 そこで気楽に選定できるのは、授与に直接無関係の個人の立場での勝手な判断の物差しである。これは国民の評価と食い違っても特段の問題はない。と、いう前提で自分なりの今回のオリンピックでの、国民栄誉賞を授与されるべきナンバーワンアスリート選んでみることにした。

自分が選ぶのは、スピードスケートの小平奈緒選手である。この人こそが国の誉を体現した人物ではないか。自分は固くそう思っている。 

 ではなぜなのか。その最大の理由は彼女の31歳に至るまでの競技歴史の中にある。この歳(と言ったら真に失礼となるけど)になって、追求してきた氷上のスピードに花を咲かせていることなのだ。彼女の場合は、世界レベルでの存在感が、若い頃よりも遥かに上まっているのだ。そしてオリンピックの大舞台でその存在を証明したことが素晴らしい。この競技に対する彼女の思い入れとその継続的追求エネルギーの、如何に大きかったことか。必ずしも恵まれているとはいえない環境の中で、自らの努力でこの成果を獲得できたのは、まさに「継続は力なり」の証明であり、しかも只の継続内容ではなかったのである。師を求め、工夫を凝らして己自身の身体を鍛え上げ、それを氷上のスピードで体現するというのは、人間なればこその偉大な意思と努力の結果ではないか。

 今の世の中の(否、何時の世の中でも)人々の頭の中にあって、実行できていないことは多い。その中にあって、小平選手ほど明確に自分の思いを実現している人はいないと思う。見習うべき第一の人物のように思うのだ。

 異論もあると思う。怪我を押して復帰して金メダルを勝ち取ったフィギアの羽生選手、姉妹で金銀銅の三種のメダルを獲得したスピードやパシュートの高木姉妹、或いは4年前の雪辱を、努力と執念を持って達成したジャンプの高梨選手など、皆素晴らしい人たちばかりである。その内の誰を選んでも間違いではない。

しかし、それでも敢えて小平選手を選ぶのは、やはり年齢が語る金メダル獲得に至る彼女のプロセスである。他の候補選手たちにはこれからの活躍の場がより多く残されているのである。勿論小平選手にだってこれからのチャンスは十分あるに違いない。しかし、物理的には力の衰える限界線は同じとは言えないと思う。競技によって体力等の限界の差はあると思うけど、自分としては、羽生選手や高木姉妹のような若い世代に比べれば、小平選手の今回の快挙には、もっと重い歴史があるのだと思わずにはいられない。

だけど、彼女にはまださらに上を目指すものがあるようだ。記録への自分自身への競争ということらしい。アスリートの宿命は、皆殆ど同じであり、それは「己に克つ」ということなのであろう。克己というのは、アスリートだけではない全ての人間に求められる生きる姿勢なのかもしれない。現在の小平選手の場合は、競技に対する克己へのチャレンジがまだ残っているということなのであろう。大いにエネルギーを燃やしてチャレンジして欲しいと思う。そして、燃え尽きる時が来たなら、今度は新しい世界での克己にチャレンジして欲しいと願っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする