山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第8日)

2015-01-31 00:01:54 | くるま旅くらしの話

<この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 

第8日:11月24日(水)

 <行程>

日向市:お船出の湯 →(R10・R218)→ 道の駅:青雲橋 →(R218)→ 道の駅:高千穂 → 神楽奉納:高千穂町黒口集落公民館(終夜見学) 〔泊〕  <106km>

 6時半起床。よく眠れて気分がいい。今日もよい天気なのだが、残念なことに海面からかなりの高さまで、水平線上に雲があり、日の出の写真は諦めるしかない。広い駐車場には我々の他1台の車があるのみ。近くの林間にツワ蕗がたくさんあり、今日も澄んだ黄色の花を咲かせている。どうしても家に連れて帰りたくなって、2、3本採らせて貰った。濡れ新聞に包んで、ビニール袋に入れておけば大丈夫だと勝手に決める。持ち帰って庭の隅に植えるつもり。このようにして山のお花畑は荒らされてゆくのか、などと少し後ろめたさも感ずるが、ツワ蕗くらいならば許されるのではないか。高山植物なら絶対にしないことなのだが。

今日は高千穂へ行くことにした。27日には元勤務していた会社の保養所がある湯布院へ行くことが決まっているので、それまでの間は高千穂などでゆっくりしたいと考えた次第。高千穂はその昔一度行ったきりで、どうだったかもあまりよく覚えていない。神話や伝説の里でもあり、神楽などの盛んな地方でもある。今回はそれらをじっくり訪ねてみたいと思っている。

延岡からR10を左折してR218へ。この道はその名も神話街道というらしい。高千穂峡につながる五カ瀬川沿いの道を進むと、やがて道は川から離れて次第に高度を増し、川は下方に細く見えるようになっていった。川沿いに鉄道が走っているのも見える。終点が高千穂駅で、この線を高千穂鉄道というらしい。詳しいことはよく分からないが、鉄橋やトンネルがたくさんあって、鉄道の旅人には憧れの一つなのかもしれない。暫く走って道の駅:青雲橋というところで小休止。かなりの山の中だ。日之影川という五ヶ瀬川の支流に架かる橋の名が青雲橋というらしい。その橋の袂につくられた道の駅だった。

高千穂の道の駅には12時少し過ぎに到着。ここを基点に2、3日ゆっくりする予定。駅構内に観光案内所があり、そこで夜神楽の予定などを聞いてみた。神楽は、クニバアの昔からの関心事である。タクジイの方はそれほどでもないが、高千穂に来ればやはり本物の夜神楽とやらを見てみたいという思いはある。聞くと、丁度最近神楽が始まったばかりで、今日は一つだけ黒口という集落で奉納されるという。さっそく行って見ることにした。

案内図を貰って、直ぐに出発。神楽の始まりは16時頃からだというが、道に迷いながら我々が到着したのは13時を少し過ぎたばかりの頃。開始には随分と時間前だが、駐車場が少なかったので早く来てよかった。先ずは昼食。タクジイはその後一杯やって午睡。クニバアが何をしていたのかは知らない。いずれにしても今日はここで一夜を過ごすことになるのだから、眠っておくことは大事だという考えである。

さて、ここから先は翌日の夜明け7時過ぎまで、神楽の舞いは延々と続いた次第であり、それらを逐次書くのは大変なこと。タクジイは深夜(=早朝)の3時頃まで見学の記録を書き続けたが、ついに寒さと睡魔の誘惑に負けて車に戻ってしまった。クニバアが最後まで見続けたのには少々驚いた。昼寝もせずに寒さも忘れて頑張れるのは、やはり並々ならぬ関心事だからなのであろう。少しは見直してもいいかと思った。

神楽のことは初めてのことでもありよく分からない。そもそも神楽というのは何なのであろうか。現地での午睡から醒めると、クニバアが何やら神楽についての立派なプリント資料を貰ってきていた。この町の歴史民俗資料館の学芸員の方から頂いた資料だとか。とても読む気になれないほどの膨大な厚さの高千穂神楽に関する本格的な論文だった。福島明子という方が書かれたものである。タクジイには、それをここに書けるほどの力は無いので難しい話は止める。

要すれば高千穂の夜神楽とは、代々集落の人たちが氏神様に対して今年の実りの御礼と来年の豊穣を願って、自分たちの気持ちを伝えるために、この高千穂の地に伝わる神々の天岩戸の伝説を中心とする寸劇を、舞という形で表現して神前に奉納する儀式のようだ。この様な書き方は些か問題があるかもしれないが、タクジイのレベルで簡単にいえば神楽とは、つまりはそのようなものではないかという理解である。

神楽の会場に来ていた学芸員の方からの解説などから解った主なことといえば、

①神楽というのは踊りではなく「舞い」である。踊りと言ってはいけない。

②舞い手がつける面を「オモテサマ」と呼び、面(めん)と言ってはいけない。

③奉納される舞いは、全部で33番ある。舞の順序は初めと終わりのいくつかは決まっているが、そのほかは集落やその時々によって異なる。

④舞いの音曲は太鼓と横笛と鈴だけである。それから、舞いは男中心であり、女は舞い手にはなれない。(すなわち女人禁制) 

⑤舞の舞台は基本的に注連縄(しめなわ)の張り巡らされた2間四方の座敷(内注連)で行われる。舞によっては外の場所で行われるものもある。

 

夕方16時頃、集落の氏神様を、神主や氏子代表たちなど衣装を整えた人たちが迎えに出かける。やがて笛や太鼓の音を鳴り響かせながら、小さな神輿に担がれたご神体がやって来た。何と、今頃の神様は軽トラに乗ってやって来るのだ。その神輿の中に鎮座しているご神体は、何か陶器のようなものでつくられているようだった。そのあといろいろな儀式があって、我々も集落の皆さんと一緒に中に入って神主のお払いなどを受けた。何しろご神前に金一封を奉納させて頂いたので、壁にタクジイの名前が書かれた奉書が張り出されている。祭りに金一封などを寄付すると名前を貼り出される、あれと同じようなものだが、タクジイとしては初めてのことなので、記念にそれをカメラに収めたりした。

18時15分、彦舞という最初の舞が始まった。彦というのは神様たちが天から降りてこられる時に道案内を務めるという猿田彦大神のことをいうとのこと。天狗のような魁偉なオモテサマをつけた舞であった。これが明日の朝まで続く長い夜神楽の始まりだった。

次々と舞が続く。タクジイはそれらを一々メモしながら鑑賞していたのだが、それが可能だったのは、夜明け前の3時近くまでだった。前記の通りである。神楽というこの素朴な舞の音曲は、僅かに太鼓と笛とそして舞手が手に持つ鈴だけである。しかも見ていると、限られた人たちだけで、それらの全てが上演されており、出演者は殆どの人がオールマイティのようだった。すなわち、舞だけではなく笛も吹くし、太鼓も叩くのである。集会所の中は、かなり冷え込みがきついのだが、舞手たちは皆大汗をかきながらの熱演であった。きっと皆神楽が大好きで、この時が来るのを待ちかねていたのではないか。もし自分がこの土地に生まれたら、さてどうなのか、この人たちと同じように、やっぱり神楽に入れ込むのではないかなどと、踊りの類の苦手なタクジイも人並みな感興に打たれたりしていた。

零時には少し間がある頃、小用を兼ねて外へ出てみると、天空に月が輝き、その周辺にオリオンややカシオペア座の星などが、いつもの数倍の大きさで輝いていた。冬に近いはずなのに、それほど寒さを感じないのは、神楽の熱気のせいだけではなく、やはり今までの暖かさの続いた今年の異常気候の所為なのであろうか。この神楽の里は、霧の名所でもあるとか。これから明け方にかけて、五ヶ瀬川に注ぐ幾つかの細い支流が霧を生み出し、里全体を包んで行くのかもしれない。

そして、その霧は3時過ぎ車に戻る時には、まさにその通りの世界が展開していた。里を囲む峰々の黒い頂を残して、真っ白な川霧が地面から湧きあがり、神楽の灯りを朧にしながら、空に向かって広がっていた。まさに夢幻という光景である。この光景がもう何百年も続いているのであろうか。その広がり行く白い霧は、まさに里に鎮座する神々を包む棉のような気がした。下手な句を詠む。

夜神楽の里は眠らず霧の中  馬骨

3時過ぎ、クニバアを置いてタクジイは車に戻り仮眠へ。朝7時過ぎ目覚めると、既に神楽は終わってしまったらしい。近くからクニバアの話し声が聞こえてきた。一眠りすれば、目覚めてからも最後の舞を見られるのではないかと思っていたのだが、油断が過ぎたようである。残念。車の外へ出てみると、霧が晴れかけていた。今、旭日が昇るところらしく、僅かに色づいた空が白い霧の帯の上に澄んで輝いていた。如何にも神楽の里の夜明けという感じである。

クニバアはオートバイでやって来た舞手の一人と何か話していたようだったが、後で聞くと雲海の上に輝く日の出を見るのなら、近くに「国見が丘」という所があるので、そこへ行くといいと教えて貰ったとのこと。今日は、時既に遅しである。明日にでも行ってみようと思った。

【コメント】

◆ツワ蕗の話ですが、この時連れて来た一株は、今でも我が家の庭のクロガネモチの木の下で、元気に花を咲かせてくれています。冬に向かう晩秋の頃に、澄んだ黄色の花を咲かせてくれるこのツワ蕗には、いつも10年前の九州行の旅の思い出が付き添っていて、連れて来たという罪悪感よりも、生き続けてくれている喜びの方が遥かに勝っていることを告白しておきます。これからも大事に見守って行く考えでいます。

◆この日、初めて見た夜神楽の一夜の思い出は、この旅の中で見出した最高の宝物でした。この種の祭りなどにはあまり関心の無かったタクジイも、この一夜の経験の後は、神楽という人間と神との関係に、かなり興味を持つようになりました。芸術性という点では、歌舞伎や能などには及ばないのかもしれませんが、庶民の神に対する素直で素朴な感謝の意を込めた舞の表現には、ただそれを見ているだけで心を打たれるものが幾つもあります。もう一度夜神楽を見に行きたいと思い続けているのですが、未だその願いが叶っていません。夜神楽の始まりは11月の半ば過ぎからということですので、冬の旅を意図しない限りは実現が難しいのです。でも、思い切って1カ月ほど滞在して幾つかの集落の夜神楽を見てみたいと密かに思っています。

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第7日)

2015-01-29 01:49:20 | くるま旅くらしの話

<この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 

第7日:11月23日(火)

 <行程>

道の駅:酒谷 →(R222・R221・R223)→ 霧島神宮 →(R223)→ 道の駅:霧島 →(R223・県道・R268)→ 道の駅:ゆーぱるのじり →(R268・R10)→ 宮崎西IC →(東九州道)→ 西都IC →(R219)→ 西都市:風土記の丘 →(R219・R10)→ 道の駅:日向 〔泊〕     <221km>

 飫肥の女子衆は働き者だ。朝6時半には、もう駅構内にある地場農産物加工場の灯りが点いて、作業が始まったようである。男衆たちも、軽トラを駆って畑で採れた野菜などを運んで来て売店に並べている。開店は8時半だというのに、1時間前には全ての品揃えが終わっているようだ。今日もいい天気だ。出発前に、例の木立ダリアの花を撮る。そのあと野菜を少し買い入れて出発。今日の予定は少し遠いが、霧島神宮辺りへ行って、韓国岳や高千穂峰などの霧島連山を見てみたい。それから先はあとで決めることにして。

R222を直進して都城へ向かう。途中の山道には、飫肥杉の植林が見事な箇所が幾つかあった。その昔はもっともっと豊かな杉林が広がっていたのであろうか。最近は何処の地方でも山の手入れが利かなくなって、荒れる状況が続いているとのことだが、この辺はどうなのであろう。

都城はこの辺の交通の要所らしく、多くの道が交差して入り組んで走っている。少し迷いながらR221に入って高原町でR223へ左折し、霧島方面へ向かう。霧島バードラインとも呼ばれているから、この道は多くの鳥たちの姿や鳴き声が聞かれる森の道なのであろう。お池という湖の脇を通る頃から登り坂が続き始めた。勿論初めて通る道である。確かに森の中ばかりを走っており、樹木以外は何も見えない。かなり経ってようやく眺望が開けるようになった。間もなく霧島神宮に到着。折角だから参拝することにして、麓の駐車場に車を入れる。本殿まで少し遠そうだが、近い駐車場はかなり混んでいるようなので、我慢して歩くことにする。

参道を10分ほど歩いて本殿に到着。来た時からかなりの人出である。何かイベントがあるらしい。入口の鳥居近くで中学生らしい集団が何やら演奏会のようなものをやっていた。指揮者の女性の先生だけが、やけにノリまくってタクトを振っているのが面白いと思った。生徒は皆冷静だ。薙刀や弓袋などを持った人も多く歩いている。幟が幾つも立っていて、見ると「ほぜまつり」と書かれていた。今日は勤労感謝の日で休日だ。それで何かあるのかなと思った。「秋だ祭りだ!ほぜまつり」というキャッチフレーズの案内ビラがあったので、配っている人に「ほぜまつりとは何ですか?」かと聞くと、ほぜとはこの辺りの方言で「豊穣」のことをいうのだとのこと。つまりほぜ祭りとは、豊穣祭のことで、昔からこの地では、今年の豊穣を感謝し、来年の豊穣を祈って、霧島神宮の神様にその気持ちを伝えるために、いろいろなスタイルで郷土芸能などを奉納するらしい。なるほど、なるほど。それで弓矢や薙刀などの小道具を携えた人が、たくさん往来していて混んでいるのだ。見物人よりも奉納に係わる人のほうが多いように思った。

 参拝を済ませたあと、本殿近くの境内で奉納されている「俵踊り」というのをじっくり見物した。どうやら田起こしから稲刈りまで、そして収穫した米俵を担いで踊るまで、1年の季節を通した一連の農作業のプロセスを、コミカルなスタンツ(寸劇)風にアレンジした踊りのようなものだった。農村の人たちの芸はかなり細かくて、例えば田起こしの場面では、牛に鋤を引かせる様子を演じるのだが、牛の糞まで転がすという演出なども含まれていて、どっと大笑いだった。最後に嬉しい稔りの詰まった俵を担いで踊るのだが、さてこの地方は、今年は本当に豊作だったのだろうか。踊りに参加した人たちの表情からは不作の影は見えないように思った。12時半頃車に戻ったのだが、その頃には人出は益々増えて、駐車場は全て満杯になっていた。

 腹が空いたので、近くにある霧島の道の駅に行き、食事にすることにした。この道の駅からの眺望は素晴らしかった。桜島を望むのはちょっと無理だったが、遠く錦江湾方面に続く平野の眺望が眼下に広がり、振返ると霧島連山がすぐ近くに望まれる。温泉もあるらしい。改めてゆっくり来たいなと思った。名産の黒豚入りのカレーライスなどを食べる。

 しばし休憩して、さてどうするか。地図を眺めている内に、比較的近くの西都市にある風土記の丘という所へ行ってみることを思いついた。西都市には西都原古墳群というのがあるが、昔そこを訪ねたことがあり、埴輪の置物を買った思い出がある。その埴輪は今度の引越しの前に壊れて(壊して)しまって今は無い。

 先ほど来た道を戻って、高原町から県道29号で野尻町へ抜け、R268へ。近くに野尻の道の駅があったので様子見に立寄る。温泉もあってなかなか良さそうだったが、今日はまだ泊るには早い時間なので、予定通り西都方面に向かう。高岡町でR10に入り暫く走ったが、一般道では時間がかかりそうなので、東九州自動車道を使うことにした。宮崎西ICから入り、西都ICで降りて西都市へ。風土記の丘には15時ごろ到着。

昔来た時の記憶は定かでないが、何か別の世界に来たような気がした。広大な公園風の敷地には、幾つかの古墳とそれらを包むように幾つものコスモス畑が作られており、満開の花が風に揺れていた。夢のような景色である。今頃、もう12月近いというのに、これほどの広大なコスモス畑を見られるなんて思っても見なかった。古墳のことなどはしばし忘れて、花畑の景観を楽しみながらの散策であった。いい所だ。古の人たちがここに眠っておられるその理由が分かるような気がする。それにしても、お墓をこのようにいじり回してしまっていいのだろうか。ご先祖様に申し訳ないような気もした。

 もう暫くここに居たい気もしたが、泊るわけにはいかないので、2度目になるけど、今日は先日泊った日向の道の駅近くの、お船出の湯に行って泊まることにして出発。

 少し暗くなりかけた頃、お船出の湯に到着。この妙な名前は、よく分からないが、その昔何とかいう神様がこの場所から船出をして、何処かに向かって旅立たれたという神話から名づけられたらしい。記紀などの本は殆ど読んでいないので、よく分からない。先日の日の出の素晴らしさからは、そのような伝説があっても不思議ではないような気もする。日向とは、真に日本の国らしい地名だ。

 先日は温泉に入らなかったので、今日は是非とも入ろうとさっそく入浴へ。なかなかいい湯だった。P泊のことを受付に聞くとOKとのこと。先回は遅かったので黙って泊ってしまったが、今回は大丈夫。一杯やって就寝。ああ、今日も結構走ったなあ。

【コメント】

◆この日は、くるま旅ならではのいい旅をしました。少し欲張って、走り過ぎの感は否めませんが、旅の内容としては当たり日だったと言えると思います。そのことについて少し書きたいと思います。

先ず第一は、霧島神宮のほぜ祭りに出会ったことです。この日は単純に鵜戸神宮に続いて同じ神宮の名のある霧島神宮にちょっと立ち寄っての参詣を思い立っただけなのですが、偶々ぼぜ祭りという、この地の豊穣を祝う祭りの日に出会って、本物の地域の暮らしぶりを垣間見ることが出来たのでした。このブログでは、俵踊りだけを紹介しましたが、これ以外にも趣向の違った素朴な、様々の郷土芸能が奉納されており、この地に住む人々の霧島神宮に対する信仰の深さを体感したのでした。もし、この日を外したら、このような地域に根付く伝統のありのままの姿を知ることはできなかったと思います。思いつきの旅路での類(たぐい)稀なる収穫でした。計らずも格別な旅の醍醐味を味わった時間でした。

その二は、西都原の風土記の丘で見た、コスモスの咲き溢れた世界です。コスモス畑といえば、この2004年の一年前に、四国の旅で訪れた高知県大月町(土佐清水市の隣町)のその広大さが印象に残っていますが、ここ西都市の風土記の丘のコスモス畑も、それはそれはみごとなものでした。この公園内には大きなコスモス畑が複数個所あって、それらがきれいに手入れされていて、11月も終わりに近づいているというのに、まるで最盛期の花のように自分たちを迎えてくれたのでした。西都といえば古墳のイメージが強いのですが、この一面のコスモス畑の風情は、古来よりこの地に眠る祖先の皆様には、大きな慰めになっているに違いないと思ったものです。その印象は、今でも心の中に強く残っています。

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第6日)

2015-01-27 04:27:44 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

第6日:11月22日(月)

 <行程>

 道の駅:日向 →(R10)→ 鵜戸神宮 (R10・R220・R22)→ 飫肥市:飫肥城他探訪 →(R222)→ 道の駅:酒谷 〔泊〕 <130km>

  明け方の4時頃外に出てみると、北斗七星やカシオペア座の星々が大きく煌いていた。北極星も迷うことなく、「あれがそうだ!」と直ぐに確認できた。久しぶりに澄んだ美しい星空を見ることができて、感動一入(ひとしお)であった。それからもう一度寝床にもぐりこんだのだが、6時過ぎになって珍しくクニバアが先に起き出したので驚いた。どうやら日の出の写真を撮りたいらしい。駐車場の直ぐ下が海で、水平線が僅かに赤くなっているのが望まれる。水平線近くに薄い雲の層が黒く山のように邪魔をしているが、あの辺りから日が昇るのであろうか。日向の名に相応しい日の出が見られそうである。昨日は暗くてよく判らなかったが、明るくなるに連れて、ここはなかなか眺望の素晴らしい所であることが分かってきた。駐車場の近くの木々の下には、ツワ蕗の群れが凛とした黄色の花を咲かせていた。晩秋から初秋にかけての海岸近くの林などに多く見られるこの花が好きだ。

 そうこうしているうちに日の出となった。海の果ての一箇所が赤く染まり、暫くするとポコンと太陽が顔を出した。日向の日の出だ!クニバアは何回もシャッターを切っていた。写真はクニバアの方がはるかにレベルが上である。タクジイも2、3枚。果たしてどのような代物が撮れたのか、楽しみではある。

 我々の他にもう一台昨夜からここに泊った人がいて、同じように写真を撮っておられた。クニバアが話しかけたらしく、タクジイも何となく話しに加わる。お聞きすると、福岡からお見えになっているとのことであった。巨樹と苔に関心をお持ちのようで、椎葉近くにある神社の御神木が倒れたのを知り、わざわざそれを訪ねられたという。その樹の根元にあった苔を、神社に断って採って来られたとか。その一部をおすそ分け頂いた。山野さんとおっしゃるその方は、福岡市は室見川沿いにお住まいとのことだった。タクジイたちも昔福岡に住んでいた頃を思い出し、懐かしさと共に格別の親近感を覚えた。あれこれ旅や写真の話などをする。楽しい出会いのひと時であった。再会の機があることを念じながらお別れして、出発する。

 今日は、とにかく先ずは鵜戸神宮へ行くことである。日向という所は宮崎県では北部にあたり、県都宮崎まで70kmも離れている。ひたすら南下を続け、宮崎市内でR10と別れてR220に入り、青島を過ぎ、青い海と白い波が眩しく輝く日南海岸を暫く走って、ようやく鵜戸神宮に到着する。今回の旅は、ここが最南端拠点の予定である。

 「鵜戸さん参りは、春三月よ~」というシャンシャン馬道中唄、といってもこの一節しか知らないのだが、鵜戸神宮といえばこの唄の頭の文句だけが突出して記憶されおり、タクジイには初めて訪れる全く未知の世界なのである。神宮というからには一般の神社などより歴史や由緒ある所なのであろうか。神宮、大神宮、大社、神社などと神を祀る社の呼び方にいろいろあるようだが、どのような違いがあるのか良く分からない。神様にも格式や序列があって、尊称が異なるのであろうか。とにかく鵜戸神宮というのだから、格も高い神社なのであろう。

 R220を左折して細い道を海に向かう時には、長い距離だと離合がめんどうだなあと心配したが、直ぐに駐車場に着いたのでホッとした。車を降りてさっきからシクシクしていた腹具合の調整に、トイレに直行する。いざという時には、神様よりもトイレの方が最優先というのが人間の本性である。

鵜戸神宮は、駐車場から急坂を登り下って、とんでもない海岸の崖っ淵にあった。今まで見たどのような神社よりも変わった場所である。洞窟の中に本殿があって、いかにも神秘的である。何やらいろいろと由緒やいわれが書かれていたが、よく分からない。とにかく敬虔な気持ちになるのは確かである。

本殿の直ぐそばに、海に突き出た亀石という巨石があり、そこに穿たれた小さな桝形がある。そこに土を焼いて造った運玉という直径1cmくらいの丸い玉を投げて、上手く入れば願が叶うという。男は左手、女は右手で投げるのが決まりだとか。タクジイはそのようなことには滅多に係わらないが、クニバアの方は存外軽薄で、やりたがる。なかなか上って来ないので振り返ると、やっぱり、その運玉投げにチャレンジしていた。どうせ失敗ばかりだろうと見ていると、なんと何回目かにちゃんとその桝形の中に運玉が入ったではないか。一人ジャンプして手を叩いて喜んでいるのは、あれがもう直ぐ還暦を迎えるお人なのかと呆れかえった。それにしても何の願をこめたのであろうか?存外、宝くじのようなものなのかもしれない。

 鵜戸神宮に来た甲斐があったな、と思いつつ再び坂を上り下って駐車場へ。ここには、九州に住む人たちを中心とする、何百万という善男善女が訪れたのであろう、石段には磨り減って凹んでいる箇所が幾つもあった。

 さて、これからどうするか? 13時半になっている。日南市には初めて来たので案内も何もよく分からない。NHKの朝ドラで「わかば」というのをやっており、飫肥の町がメインになっている様なので、飫肥市というのがあるのかと地図を見てみたのだがそのような市はなくて、日南市の中に飫肥町があるというのを知ったのが、出発前のタクジイの知識レベルなのである。とにかく飫肥まで行って飫肥城などを見て、適当な場所があればそこで泊ってもいいなと考えながら出発する。

鵜戸神宮から更に南の方に向かって少し走り、油津で右折してR222へ。燃料が少なくなっていたので、スタンドで給油。給油していると急に空腹を覚えた。車だけが腹ぺこなのではなかった。気がついてみれば14時を過ぎているのに昼食が未だだった。近くにあったちゃんぽんのチェーン店にて食事を済ます。飫肥城到着15時。

 飫肥城脇にある駐車場にSUN号を停めて市内散策を開始する。お城の中や、その付近の屋敷町、更には商工者の住んでいた地域などをじっくりと歩き回った。藩校振徳堂も訪ねた。何人もの要人を輩出した学問所は素朴で、松下村塾のたたずまいとよく似ていた。明治時代に活躍した外交官小村寿太郎はここで学んだ人らしい。城下町としての風情は津和野よりも上ではないかと思った。この飫肥の町と油津を含めて、どうして日南市などというつまらない呼称にしたのか、失望するばかりである。新しい街づくりの姿勢としてこの名を選んだのであろうが、都市の名は歴史に根づくものである方がしっくり来る。日南だなんて、南の外れほどの軽いイメージしか浮かばず、つまらない平凡な名だなと思うのはタクジイだけであろうか。言わせてもらえば、飫肥市の方が遥かに判り易い。

 市内を歩いていると、家々の庭先にダリヤ風の美しい花を咲かせている小木が見られた。関東では見たこともない花である。もう冬間近かだというのに、このような花が今を盛りと咲いているのは、やはり南国ならではのことかと羨ましく思うと共に、この木を持って帰って植えることは出来ないだろうか?などと無謀なことを考えたりした。旅に出ると、このような思いにとらわれることがよくある。無理をしても結局は上手くゆかないことを知っているくせに、無理をしたがるのである。木々にとっては大迷惑のことなのであろう。

 街のスーパーで食材と一緒に地元産の焼酎を一本買う。TVドラマ「わかば」のPRの札が掛かっていた。この地も焼酎の名産地の一つなのであろう。今夜一杯やるつもりである。1時間半ほど歩き回って、飫肥の町の風情を満喫して車に戻る。どうやらここに泊まるわけには行かないようだ。R222を少し行った先に道の駅:酒谷というのがあるので、そこへ行って泊まることにした。20分程で到着。山の中である。

 少し早く着いたので、近くを散策する。隣接して公園のようなものがあり、駐車場の脇に先ほどの花の木があった。クニバアが、近くにいた人にその名を聞くと「木立ダリア」というのだそうだ。なるほど、さもあらんという名であった。公園の丘の向こう下はダム湖となっているらしく、遠くに湖水が光っていた。車に戻ったが、道の駅の売店などに働いている人の車以外で駐車しているのは、我々だけのようである。夜になればきっと寂しい場所となるのであろう。クニバアが耐えられるのか少し心配が脳裏を掠めたが、知らん振りを通すことにした。これから先、又移動するのは勘弁してもらいたい。 18時には夕食を済ませて早めに寝ることにした。(心配するようなことは何もない一夜であった)

【コメント】

◆この日に訪れた飫肥の町は、重伝建(=重要伝統的建造物群指定地区)の一つでした。この当時はそのような文化財があることも全く知らなかったのでした。又、昨日泊った日向の道の駅近くの美々津という所も、同じ重伝建の港町として指定されているのを知ったのは、かなり後のことでした。情報を持たないままの旅は、内容がプァとなるということを、今では自戒しています。

◆木立ちダリアのこと~この旅の中で出て来る、ダリア風の花を咲かせる大型の植物は、自分としては、ここの飫肥の地で初めて見かけたものでした。3mを超えるほどの高さの上部に、無数の大きな花をつけて咲くその姿に魅せられて、大変興奮しましたが、今では我が家の近辺にも、或いは全国各地の何処にでも数多く見かけるようになりました。木立ダリアというよりは、皇帝ダリアと呼ばれているようです。この花はメキシコが原産地ですから、どちらかといえば暖かい気候を好むようです。茨城県はその北限に近いらしく、11月に花が咲き始めても、霜が降りるような寒さになると、一発で全ての花を枯らしてしまいます。北国では暖房の措置などをしないと、開花させるのは不可能のようです。我家でも、この旅の間に見つけて連れ帰った苗が無事に根付いてくれて、毎年大輪の美しい花をたくさん咲かせてくれています。この花の開花時期には、旅に出ていることが多く、今年も咲き始めの頃に2~3個の花を見ただけでしたが、旅先の各地で、たくさんの花を見ることが出来て満足しています。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第5日)

2015-01-25 06:01:29 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

第5日:11月21日(日)

 <行程> 

道の駅:おふく →(R316他)→ 美祢西IC →(中国・九州道)→(壇ノ浦SA)→ 小倉東IC →(R10)→ 道の駅:やよい →(R10)→ 道の駅:日向 [泊]  <329km>

  出発して5日目になる。ようやく今日九州入りとなる。どのようなコースで廻るのか何も決めていない。まずはとにかく最遠の到達予定地である鵜戸神宮まで行くことに決め出発。九州に入る際は高速道にすることにして、美祢西ICから中国自動車道へ。車で関門海峡を渡るのは20年ぶりくらいになるだろうか。下関側にある壇ノ浦SAにて小休止。巨船が橋の下をゆっくりと通過して行った。今では瀬戸大橋や明石海峡大橋などの巨大な橋が出来てあまり驚かなくなってしまったが、この関門海峡に架かる巨大な橋は、往時は感嘆しきりの景観であった。人間のやることはとてつもなく大きい。しかし、それゆえに疑問や不安を常に内包しているのかもしれない。九州を前にして、タクジイの妙な感慨である。

 九州自動車道に入り、小倉東ICで降りてR10へ。今日は、このR10を行ける所まで南下するつもりの移動日だ。先ほどの関門海峡を渡るのと同じように、車で九州の地を走るのは20年近く久しいことである。どのような按配なのか、交通マナーは少し良くなっているのか、などなど、いろんな想いが駆け巡る。

苅田を過ぎ、行橋のバイパスを行くあたりから何故か知らぬ渋滞が続く。何のためのバイパスなのだとイライラが積もった。バイパスの右手には、自動車専用らしき有料道路も造られているのに、一般道がどうしてこんなに混むのか理解できない。道路行政のお粗末現象の煽りを喰らっているのかも知れない、などと役人に対する悪意は強まるばかりであった。特に昼食を予定していた道の駅が何れも満杯で駐車できず、ようやく昼飯にありつけたのは、14時近くになって、日出町にあるリンガーハットだった。この間のイライラは爆発寸前だった。

しかし人間(というよりもタクジイだけのことかもしれないが)、腹が満たされると先ほどまでの憤懣をケロリと忘れて、たちまち別のことを考えているのだから、呆れたシアワセ者である。別府、大分を過ぎて弥生町という所にある道の駅に立寄る。夕食の食材にジャガイモが欲しかったのだが、ここの地元農産物の中にそれはなかった。カボスだけがやたらに多く並べられていたが、いくらたくさんあっても、カボスだけでは煮物をつくることは出来ず、どうにもならない。

暗くなった中、延岡を過ぎ、今夜の泊りは日向から少し山寄りに入った東郷という道の駅にしようと考えていたのだが、日向市に入り、暗くて右折の標識を見落とし、通り過ぎてしまったらしい。図体のでかいSUN号でのUターンは面倒なので、そのまま市街を通過して、少し先にある道の駅:日向に行くことにした。日向の道の駅はR10脇にあり、P泊向きの条件ではない。でもすぐ近くにサンパークという遊園施設のようなものがあり、お船出の湯という妙な名の温泉もあるようなので、そこへ行ってみることにした。

着いて見ると、広い駐車場があってなかなかいい所である。暗くてよく見えないが、崖の下は海らしい。駐車場の中には椰子の大木が何本も植えられて、夕闇の中に南国の風情をつくり出していた。19時近くになっており、見上げる空には半月と無数の星が煌いていた。温泉に入るのは止めて、夕食を済ませて寝ることにする。何せ、幾つもの渋滞に巻き込まれながらの300km超の走りであったので、疲れた。こんな時には寝るのが一番の薬である。

【コメント】

◆この日も無謀な走りの一日でした。ま、特段の目的もない移動のための一日でしたから、このようなことがあっても仕方がないことなのですが、それにしても勿体ない時間の過ごし方だと言わざるをえません。福岡、大分の両県を一気に走り抜けてしまっていますが、もう少し事前に探訪のポイントを絞り、下見の気分で通り抜ける必要があったと思います。復路において大分県各地の探訪を予定していたので、このような走りとなったのですが、予め幾つかテーマを設けておけば、もっと内容のある時間を持つことが出来た筈でした。10年後の今では、決してこのような無駄走りはしないのですが、この時は少しエネルギーの使い方を取り違えていたようです。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第4日)

2015-01-24 05:24:40 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 

第4日:11月20日(土)

 <行程>

道の駅:サンエイト美都 →(R191・R9)→ シルクウエイにちはら→(R9他)→ 道の駅:津和野温泉なごみの里 →(R9)→ 山口市:瑠璃光寺 →(R9・R435・R316)→ 道の駅:おふく[泊] <155km>

  夜が明けて、明るくなるにつれて美都の湯元館の周囲の状況がハッキリしてきた。懐かしい山村の景観だ。ふと中越大地震の山古志村を思い出した。といっても山古志村に行ったことは無い。だけど、偶然にも地震が起こる前までは、近々行きたいと考えていた場所だったのだ。でも、今はあんなにひどい被災地になってしまうなんて。気の毒を通り越して慰めの言葉も無い。もしこの美都に、今、震度7を越えるような地震が発生したら、山古志村と同じようなことになるのか、と想っただけでもぞっとする。この平和な情景が一瞬の内に地獄と化すなんて、こんなに恐ろしいことは無い。山古志村の方たちの心情を想った。同時に地震などの災害の無い、この村が平和であることの、当たり前の大切さを再認識したのだった。人は、当たり前の平和をこそ、不平不満を言わないで存分に素直に享受すべきである。

9時半出発。途中日原という道の駅にちょっと立寄ったあと、津和野に向かう。津和野も何回か来たことはあるが、久しぶりだ。新しく道の駅も出来ているらしい。古都の雰囲気の漂うこの町は、今でも大勢の観光客で溢れているのだろうか。20年以上のブランクがあり、どうなっているのか楽しみもある。

着いて見た津和野の道の駅は、山口県寄りの郊外に造られていた。温泉施設も付帯しており、P泊向きだなと思った。しかし町の中心部からは少し離れているので不便な気もする。とにかく駐車場にSUN号を停めて、付近の様子を窺うと、ぶらりバスというのがあり、1日乗り降り自由で切符は300円とのこと。それを利用することにした。車で来てバスに乗るというのはあまり合理的でない気がするが、たまにはいいことなのかもしれない。バスを降りる所までは一緒だが、それから先はクニバアとは別行動とすることにし、13時過ぎにはSUN号に戻ることを決めて出発。

津和野は四方を山に囲まれた、亀井家4万石の城下町である。歴史読本にそのように書いてあったが、それ以上のことは何も知らない。町を行く多くの人の殆どが亀井家のことなど考えたことも無いのではないか。だから安心して観光が出来るのだと思う。でもタクジイの場合は、亀井家のことを疎かにするのは、少し罪悪感のようなものを感じている。町というのはその規模の大小を問わず為政者の姿勢が反映されて出来上がったのだと考えるからである。

バスを降りて1時間ばかり散策。表通りよりも裏通りの方に興味があるのはタクジイの悪い癖か。バス通りは歩く気がしない。津和野の場合はアーケードも何も無い剥き出しのバス通りなので、敬遠するのは当然である。バスの通っていない観光向きの道路にも表と裏がある。まずは表の方を外れまで歩き、次にその裏側をもう一方の端まで歩く。それが何時もの歩き方である。津和野の町は思っていたよりも狭くて、JRの駅から道の駅に向かう古い町並みは3kmにも満たない距離だった。往復2回ほど歩くことになった。20年以上も前に来た時よりも昔が少なくなっており、新しい昔が付加されたように感じた。城下町としては角館(秋田県)や秋月(福岡県)の方により以上の感興を覚える。この辺は人により様々な印象があることであろう。

造り酒屋には必ず立寄る。「初陣」という名の酒を造っている店で一升瓶の奴を2本仕入れた。重いけど我慢できるのが不思議だ。酒飲みのタクジイだけど、吟醸酒は敬遠する。米を半分近くも削るのが気に入らないし、口当たりが旨いだけで酔い覚めが悪いものが多い。酒は酔い覚めの良し悪しが問題なのだと、この頃特に思うようになった。酒の飲み方にも入口と出口がある。入口は良くても出口の悪いのは本物ではないのではないか。それで、酒は上撰・本醸造のレベルが一番と思っている。ぬる燗でゆっくり飲める奴がいい。(実は、あまりゆっくり飲んだことが無いのだが…) 脱線多謝。

酒を買ってしまうともう用は無いというのがタクジイの性分なのだ。直ぐに帰りたがる。我ながら困ったものだ。何しろ1升ビンが2本もあるので重い。4kgはある。これをぶら下げたまま歩くのは結構こたえる。ぶらりバスの停留所で時刻表を見たが20分以上も待ち時間がある。しょうがない、バスが来るタイミングが合うまで、停留所を先取りして歩くことにしようと、道の駅方向に向かって歩き始めた。

次の停留所は丁度いいタイミングかな?と期待しつつ、酒2本をぶら下げて歩いているうちに、何と道の駅が見える所まで来てしまった。こうなるとバスに乗るのがバカバカしくなって、もう通過するバスなどは見向きもせずSUN号まで歩いてしまった。片道切符でよかったものを、楽をしようと考えたのがそもそもの間違いだったと、空しい結果論を自分に浴びせ掛けた。バカモン!であった。それにしても4kgを持ちながら3kmも歩き続けるのはきつかった。

クニバアはまだ帰っていない。帰るのを待つのを止め、お湯を沸かしてお茶を淹れ一人で軽く昼食。やれやれ。やがてクニバアがバスで戻って来た。ぶらりバス運行の不満と歩き疲れの愚痴を、一くさり勝手に話しかけつつ一休みする。その後14時過ぎに津和野をおさらばする。

R9を1時間ほど走って15時過ぎ山口市郊外の瑠璃光寺を訪ねる。ここは室町時代の周防の実力者大内氏の菩提寺で、五重塔は国宝である。今回で3度目の来訪か。何時見ても美しい建造物である。晩秋の遅い午後の陽を浴びて、周囲に未だ残る紅葉の名残りを絡ませながら、五重塔は気高くそびえていた。また、池に映るその姿もカメラ愛好者にはたまらない被写体であろう。多くの人がカメラを向けていた。40分ほど散策、休憩して出発。

そろそろ泊りのことを考えなければならない。まずは秋吉台の方へ行ってみて、温泉などがあればそこに泊ってもいいし、ダメなら美祢市の外れの方にある「おふく」という名の道の駅に泊ることにして、瑠璃光寺を出発。R435に入って美祢市に向かう。途中、「みとう」という名の道の駅もあったが、ここに泊る気はなくパス。秋吉台も一見したかったが、早や暗くなりかけており、車の燃料も残量が僅かとなったので先を急ぐことにした。美祢市の入口で給油。そこから20分ほど走って道の駅:おふくに到着。ここには温泉もある。さっそく入浴の準備をして温泉に。温泉は悪くはなかったが、昨日の美都のほうが遥かに優れていると思った。

車に戻り、一杯やって就寝。寝たあと、度々騒音で眠りを妨げられた。ここはR316沿いにあるため交通量が多く、トラックも多く停車している。連中はエンジンを切らずに終夜騒音を撒き散らす。又、キャンピングカーも4台ほど泊っていたが、滅多に無い遠出なのか、子供も大人も夜遅くまではしゃいで騒ぎまくって、もう、「タイガイニセイヨー!」と叫びたくなるほどであった。もうここには二度と泊りたくないなと思った。

【コメント】

◆旅先での夫婦の観光などについての考え方ですが、私どもの場合は基本的には別々に好きなように時間を使うことにしています。元々長旅の場合は、否応なしにいつも二人顔合わせの時間を強制されざるを得ないわけであり、時々は夫々が自分の好きなように時間を使うことがあってしかるべきと思っています。

勿論一緒に訪問や見学をすることがあっても何の異存もないのですが、100%いつもベッタリコンというのは、疑問を感じます。どちらか一方が相手に寄りかかり過ぎるというのは、主体性を失うということであり、余り健康的ではないという感じがするのです。夫婦といえども元々は別々の主体的な個人であり、自分を失わないということが大切だと考えています。(少し難しげな話となりましたが、別々の時間を持つことによって、夫々が新鮮な自分を作れるような気がします)

◆宿泊場所の選定についてですが、この日の泊り方はあまりにも不用意で、当然の報いを受けたのではないかと思います。道の駅に泊まるような場合は、トラックヤードが設けられているような場所なら助かりますが、そうでないケースが多いので、やむを得ず泊る場合には、駐車場全体のレイアウトなどを確認し、トラックなどが入ってきたり仮眠で駐車したりする可能性の最も少ない場所を選ぶように留意することが大切です。この日の「おふく」の道の駅の場合は、最初からもう少し離れた場所を選んで泊るべきでした。

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第3日)

2015-01-22 04:52:19 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトして、コメントを付したものです>

 

第3日:11月19日(金)

 <行程>

道の駅:大栄 →(R9)→ 道の駅:ポート赤碕 →(R9)→ 道の:社ご縁広場 →(R9)→ 道の駅キララ多岐 →(R9)→ 道の駅:夕日パーク浜田 →(R9・R191)→ 道の駅:サンエイト美都[泊] <270km>

  大栄の道の駅は全国第1号登録ということらしい。国交省の道の駅の施策がいつ頃から始まったのか知らないけど、一番最初というのはとにかく価値があるものらしい。記念碑が建っており、その脇にどういうわけなのか、TVのアニメで時々見たりする名探偵コナン君の銅像が建っていた。緑青が貫禄を見せていたが、どうしてなのかその建立の理由は書かれてはおらず謎であった。

 朝8時ごろから軽トラがどんどんやって来て、地元の農産物を運び込んでいた。多くの道の駅と同じように、ここも地域の農産物などの販売・PRセンターの機能を果たしているようだ。鳥取県は砂地でのラッキョウ、山芋、スイカの栽培などが盛んで、その他にも花卉類やイチゴの苗なども作っているようだ。それらの産物がふんだんに並べられて、店が開店したのは8時半過ぎだった。

早速野菜などを仕入れる。特に欲しかったのはイチゴの苗なのだが、幾らなんでも未だ旅の始まりであり、これから先1ヶ月近くも持ち歩くわけには行かない。茨城の地元では1株200円近い値段の苗が、ここでは80円で売っている。種類が違うのだろうが、家の門扉脇、3mほどのレンガで作った生垣の端に植えるのに15株ほど欲しかったのだ。旅くらしでの買い物には、このような欲求と、置かれた現実が不一致というつらさも時々ある。仕方ない。

 大栄を出て少し行くと赤碕の道の駅がある。パスしても良いのだが、ここには海産物が置いてあるので、どうしても見たくなる。チョット覗くつもりで立寄る。未だ開店したばかりで品揃いも終わっていないようだった。やはりカニ中心のようだ。買うつもりは無い。少し先にある農産物売り場を覗いたら、巨大な梨が置いてあった。今頃ほんとに収穫できるのかと不思議に思ったが、見たところでは貯蔵熟成したという感じではない。それならば結構喜んでもらえるかなと思い、日頃格別お世話になっている親友の遠藤さんに送ることにした。お化け梨だった。尤も遠藤さんなら、本物のお化けでも何でも喰ってしまうだろう。(?)

 赤崎の道の駅からはひたすらにR9の西進を続ける。名峰大山を左方遠くに望みながら、米子、安来、松江を過ぎ、宍道湖の南岸を通って、出雲から大社町へ。途中休憩したい道の駅もあったが、どこも駐車場が満杯でパス。12時をかなり廻っている。腹も減ってきたので、出雲大社に参詣しがてら蕎麦でも食べることにした。大社近くには道の駅もある。13時少し前に到着。少し疲れた。

 出雲大社に参詣するのは久しぶりだ。初めて訪ねたのは、確か転勤で四国は高松に住んでいた頃だから、もう30年近く前になるかも知れない。未だ子供たちも幼稚園に行くか行かないかの頃だったと思う。懐かしいというよりも忘れてしまっているといった方が正しいようだ。境内は閑散としていて団体客も少ないようだ。最近は結婚する人が減り、縁結びの神業が効かなくなったので、人気が落ちたのかもしれないなどと不謹慎なことを想いながら、未だ独身の倅のことをお願いして参詣を終える。

 その後、直ぐ近くの蕎麦屋に入って、出雲蕎麦という奴を食す。美味だあ~、というほどではなかったが、まあまあの味だった。この頃は感動するような蕎麦を食べたことが無い。名物に旨いもの無しとも言うらしいから、本物は痩せた土地の、山の中のおばあちゃんと友達になって、自家製の手打ちそばをふるまって頂くというような幸運に恵まれない限り、決して食べられないのかもしれない。

 1時間ほど休んで出発。これから先どこまで行くのか、行けるのかは、まだ不明。行ける所まで行って、何処か適当な道の駅にご厄介になるつもりでいる。大田、江津を過ぎ、浜田市郊外にある道の駅に着いた頃は、もう薄暗くなり始めていた。ここに泊ってはどうかと考えていたが、高台で眺望はいいけどバイパス通りで交通量が多くP泊には向いていないようだ。地図などを調べたら、益田から広島に抜けるR191に美都という所があり、そこの道の駅に温泉があると書かれていた。よしっ、そこにしょう、と決め出発。

夕方の車の混む時間帯で、益田までは結構時間がかかった。暗い中を市内で左折し、R191に入る。美都は直ぐだと思っていたのだが、存外に遠くて、これ又かなり時間がかかった。トンネルを幾つもくぐった。道路の直ぐ脇下を急流が走っているようだ。道幅も所々狭くなっている。真っ暗で周りが良く見えないが、かなりの山の中らしい。人家も途切れ車にも殆ど出会わない。こりゃ大丈夫かと助手席を見ると、案の定クニバアは複雑な顔をし始めていた。

18時40分、ようやく道の駅に到着。しかし売店の灯りは消え、駐車場は斜面にあり、温泉らしきものなど何も無い。看板に偽りありのガイド書には慣れているが、ここもひどいもんだと思った。温泉があるというからには近くに何かあるだろうと、暗い中、坂道を降りてゆくと、確かにそれらしきものがあった。覗いてみるとどうやらこれがその温泉らしい。湯元館と書いてあった。駐車場はそれほど広くは無いが平らではある。中に入って訊いて見ると、感じのよい青年が駐車場に泊ってもOKと言ってくれた。これで安心。やれやれ。クニバアもホッとした様子。

 二日間風呂に入れなかった分も併せ、ゆっくりお湯に浸かって疲れと汚れを落とす。ソフトな泉質のいい湯だった。美都というのは考えてみれば我が故郷の水戸と同じ「みと」という発音である。アクセントは違うのかもしれないが、何となく親近感を覚えた。何といっても、応対してくれた青年の爽やかさがいい。今の時代、爽やかな魂を持った青年を殆ど見かけたことがない。

温泉から車に戻り、一杯やりながら少し遅い食事を済ませる。

【コメント】

◆道の駅:大栄に何故コナン君の銅像があるのかについては、帰ってから調べたところでは、原作者の青山剛昌氏がこの町の出身なのでした。老人は、時々漫画の動画を見て楽しんでおり、コナン君についても時々覗いていて、なかなかしゃれたアイデアだなと感心したりしているのですが、その作家となると全く覚えていないのです。これは真に以って失礼なことであり、今後はしっかりそれも覚えておかなければいかんなと反省した次第です。

◆この日の午後の時間の使い方は、全くなっていません。この季節は、18時以降の車の運転は控えるべきで、もっと早く、浜田市の近郊の道の駅に宿をとるべきでした。幸いに結果オーライでしたが、いつもそのような幸運に恵まれるとは限らず、もし美都という所が案に相違した場所だったとしたら、何か問題が起こっていたかもしれません。旅車はどこにでも自在に泊れるという考え方は、表向きの利便性を強調する時には使いがちなことですが、実際にはどこでも自在というわけにはゆかず、しっかりと安全性を確認して一夜が送れることが重要だと考えます。

 

谷和原在住の林様へ → HPのメールでは届かないことが判明し、大変失礼しました。小生へのご連絡は、RVランドにお問い合わせ頂ければ分ると思いますので、恐れ入りますがそのようにお願い致します。馬骨記

 

 

 

 

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第2日)

2015-01-20 04:09:45 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトして、コメントを付したものです>

 

第2日:11月18日(木)

 <行程>

養老SA →(名神道・北陸道)→ 木之元IC →(R8・R27他)→ 三方五湖レインボーライン・第1展望所 →(R27他)→ 瓜割りの滝 →(R27)→ 道の駅:シーサイド高浜 →(R27) → 道の駅:舞鶴港とれとれセンター →(R27・R175・R9)→ 道の駅:農匠の郷やくの →(R9)→ 道の駅:村岡ファームガーデン →(R9)→ 道の駅:大栄〔泊〕  <367km>

  さて、今日はどうするか。本当は、今頃は福知山付近の道の駅にでもいるはずだったのに、東名の集中工事のおかげで、未だ関が原すらも越えていない。これから混雑する京都や大阪の高速道を抜けるのは気が重い。因みにSUN号にはナビなど取り付けていない。タクジイはナビ無し主義なのである。それで予定を変更して、米原から北陸道に入り、木之本ICで降りて一般道で山陰路を行くことにした。

 北陸道は今日も空いていた。琵琶湖は見えないが、長浜辺りには戦国時代末期の、数々の戦に絡む著名な場所名が出てくる。何時の日か、これらの場所をゆっくり巡り歩いてみたい。そのようなことを考えながら走っているうちに、たちまち木之本ICへ。ここからR8へ入り、一路敦賀に向かう。敦賀からはR27に入り、舞鶴まで道なりに進む。

敦賀は何度も通っているのだが、いつも素通りの通過となってしまっている。ここには名所の気比の松原や気比神社、それに自分の故郷の水戸に由縁のある、幕末天狗党の乱の連中が、最後に首を切られて埋められた終焉の首塚などもある。ついでに言うけど、自分は最後の将軍であった徳川慶喜という人物が嫌いである。水戸から一橋家に養子に入り、親父の水戸徳川斉昭の思惑通りに将軍となったのだが、歴史の大きなうねりに翻弄されたとはいえ、概ね優柔不断(多くの将軍はそうであったし、果断な意思決定をした将軍は、スタッフを困惑させる存在だったように思っている)であり、頭脳明晰だったという評価もあるが、自分はその種の頭の使い方が優れているとは思わない。何よりも憤懣やる方ないのは、天狗党の五百人近い同郷の仲間を見殺しにしたことである。今となってみれば、天狗党の発想や行動は、非難される向きがあっても仕方ないとは思うが、それにしても婦女・幼児を含めた五百人近い人を殺す意思決定をするとは何ごとか!ずいぶん昔に、その首塚に行って冥福を祈ったことがあるが、近所に住む人たちの噂では、今でも亡霊が時々現れるとか。多くの鎮魂の碑が建てられていたのが印象的だった。

 少し脱線してしまった。言いたかったのはそのような敦賀の街を素通りばかりしていて申し訳ないということである。今回もまた。ごめんなさい。

 敦賀から美浜を過ぎて少し行くと、三方五湖というのがあって、それを展望できるレインボーラインという有料道路の案内板が見えた。9時を少し回ったばかりで、このまま走り続けるばかりではつまらないので、ちょっと立寄ってみることにした。名前だけは知っているが、三方五湖がどのようなものか見たことがない。急に細くなった道を行くと、たちまち曲がりくねったかなりの急坂の続く道となった。なかなか有料道路の入口が見えない。15分ほど走ってようやく到着。料金は千円也。少し高いのでは?と思ったが、今更引き返すわけにも行かない。この道は本来ならば周回できるらしいのだが、現在は工事中の箇所があり、途中から引き返さなければならないとのこと。とにかく千円分は楽しまなくっちゃあと、何時もの浅ましい根性が頭をもたげる。ものすごい急な坂道だ。我がSUN号はディーゼルなので比較的坂道には強いのだが、あまりの急勾配なので、大丈夫かと少し心配になった。この坂道はどうやら島(半島)の急峻な峰を巻いて造られたものらしいのが後で分かった。暫く行くと一挙に展望が開けた。曇り勝ちの天気であまり遠望は利かないが、それでも見下ろす海や湖は滅多に見られる景色ではない。第一展望台という所の駐車場に車を停めて暫く休憩。若狭湾と三方五湖が眼下に見渡せる。なかなかの絶景である。それにしても大自然は良くもまあこのような造作をするものである。その不思議な働き、力には只ただ恐れ入るばかりである。若狭湾が時々光るのは、ブリ君やサバ君が冬を待ちかねて飛び跳ねているのではないか?などと相変わらずのお粗末な迷想(?)を膨らましたりしているタクジイであった。

 存分に景観を楽しんで元の道に戻る。R27は「丹後街道」とも呼ばれているらしい。「国道27号線」などというよりも遥かに親しみを覚える呼び名である。デジタル発想の利便さを否定は出来ないが、アナログの考え方の方が自分には合っているような気がする。丹後街道はアナログの世界での呼称に違いない。R27はデジタルであろう。そのようなことを考えながら三方町を通過して、上中町にある瓜割りの滝へ。ここは、通る時には必ず立寄り、水を汲む場所である。山麓の、瓜割りの滝という小さな滝から流れ出る清冽な水は、名水として有名だ。若狭には幾つかの名水がある。何しろ奈良東大寺のお水取りの水は、若狭の神宮寺からお水送りの神事として送られているほどなのだから。その神宮寺はこの上中町にある。

この瓜割りの滝の水を汲むには、300円也の水汲みの手形が必要で、何年か前それを購入した。10L入りのポリタンにそれが貼ってあり、手形は期限なしということだったので、堂々と水を汲むことにしている。確かに旨い水である。SUN号の80Lの水槽を満たし、空になっていたペットボトルを満たす。お礼に清掃料金とやらの箱に200円を入れる。満足。まんぞく。

 出発。天気が思わしくなく、雨が降り出した。この辺りを通る時はどうも天気が不機嫌のようだ。暫く行って、高浜町にある道の駅にて休憩。売店でサバ寿司を買ってきて、お湯を沸かしお茶を淹れて昼食にする。自分は大のサバ好きで、若狭や山陰路の旅では、サバ君に逢えるのをほんとに楽しみにしている。今回の旅では、今日が初めてのサバ君との出会いだったが、ここのサバ寿司は今一の感がした。結構な値段だったのに。でも不満というほどではない。雨は本降りとなっている。

 舞鶴の市街を通り抜けて、郊外にある「舞鶴港とれとれセンター」という妙な呼び名の道の駅にて小休止。ここは海産物の販売施設がある、いわゆるお魚市場という奴だ。かなり人気のある場所らしくて、前回は駐車場が超満車の状態で、やむなくパスしたのだが、今回もかなり混んでいた。辛うじて空き場所を見つけて停めることが出来た。今はカニのシーズンで大賑わいだ。あれこれ見て廻る。魚大好きのタクジイにとっては、魅力溢れるものばかりで、嬉しいストレス(?)が溜まる。しかし、やたらに買っても体に支障があるので、結局ものにしたのは、サバの串焼き1本だけ。若狭湾のサバは格別の美味さがあり、スーパーで売っている冷めた串焼きでも味はグーである。(実際は若狭湾のサバは僅少で、その大半はノルウエ―産のようである。でも不満はない)クニバアはカニ。今日もセコガニ(=雌ガニ)のボイルした奴で我慢するようだ。それでもサバの串焼きよりは高価。

 さて、夕食の食材(完成品)を手に入れたからには、あとは行けるところまで行くだけ。舞鶴郊外から由良川に架かる橋を渡って、R175へ。由良川沿いを福知山に向い、福知山からR9へ入る。R9は日本海側を走るメイン国道である。この道をちんたらと山口県まで行くつもりでいる。R175の山を越えた日本海側に豊岡の市街や城崎温泉などがあるのだが、そこを流れる円山川の今年の水害の凄まじさは記憶に新しい。未だに回復しきれていないのではないかと思い、こちらの道を選んだのだが、R175の左を流れる由良川にも、今年の水害の名残を示すものが随所に見られた。川岸にある木々のとんでもない高さのところにビニール袋の残骸などが引っかかっていた。今年は、本当に天災地変の多い年であった。改めて被災者の方々にお見舞いを申し上げたい、素直にそのような気持ちにならずにはいられない。

 一路、鳥取方面へ。夢千代日記で有名な湯村温泉のあるその名も温泉町を通過する頃は、あたりはもう真っ暗となった。途中鳥取市内で給油をした後、去年泊まったことがある大栄町の道の駅まで行くことにした。少し遅くなるが、その分明日ゆっくりすることにしたい。大栄町の道の駅の売店はなかなか魅力的なのである。

大栄の道の駅に着いたのは19時近くだった。既に辺りは真っ暗となっている。昨日の442kmには及ばないが、今日も367kmも走っていた。SUN号は、今日途中でメーターが44,444kmを超えるのを確認した。あまりいい数字ではなさそうだが、死線を越えるとでも受止めれば、これはめでたいことなのかもしれない。購入後3年8ヶ月であるから、まあよく乗っている方であろう。この辺りには温泉などの入浴施設は無いらしい。舞鶴での獲物を肴にして一杯やって就寝。

ところが真夜中になって、スケーボーや太鼓を叩いて遊ぶ高校生らしき若者が騒いでいるのに起こされ、目が醒める。こんな連中を相手に掛け合いをするほどの体力も無いので、裏の駐車場の方へ避難する。まったく、今頃の世の中の若い奴らははどうなっているのか? うん、だけどチョイ待ち。良く考えてみれば、形は違うけど、自分らも若い頃には友達の家に遊びに行って、大声で歌など歌って夜遅くまで騒いだこともあったっけ。この年頃の人間の持つエネルギーは、勉強だけに向かうほど容量の小さいものではないのだから、大目に見てやってもいいのかもしれない。ま、少し寝そびれてストレスも溜まったけど。

【コメント】

水戸の天狗党の乱については、正直なところ時代背景の正確な捉え方が出来ておらず、もしかしたら誤解をしている部分が大きいのかもしれません。幕末において、その前半では水戸藩が国内を騒擾させたことは疑いもない事実です。結果的に只騒がせただけで、空中分解的に多くの人材を死滅させてしまったのは、御三家の一つに属していたとはいえ、家格などという実力の伴わない形式の配藩制度の歪みが溜まった結果ではなかったか、などと考えてしまいます。水戸の思想(尊王の精神)や人材(藤田東湖やその周辺の人たち)が、明治維新の早期の点火役を担った筈なのに、何の成果も無く時代の藻屑と消えたのは、結局は幕府という体制側にしかおられなかった立場の悲劇ではなかったかと、自分は思っています。

 ◆この日の367kmという走行距離は、初日の442kmというのに比べてもさほど変わらぬほどの長距離で、しかもその大半は一般道であることを考えると、明らかに走り過ぎです。目的地に着くまでの通過コースと考えれば、先を急いでもおかしくはないのでしょうが、10年後の今の自分ならば、決してこのような無理はしません。せいぜい福知山市近郊の道の駅、例えば加悦(かや)か夜久野辺りに泊まるのが適切な宿の取り方ではないかと思います。鳥取県の中ほどまで行ってしまうとは、呆れ返った無謀です。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第1日)

2015-01-18 05:15:22 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトして、コメントを付したものです>

 

第1日:11月17日(水)

 <行程>

自宅→(R294)→ 谷和原IC →(常磐道・首都高速・東名道)→ 海老名SA →(東名道)→ 富士川SA →(東名道)→ 浜名湖SA →(東名道)→ 浜名湖SA →(東名道)→ 上郷SA →(東名道・名神道)→ 養老SA[泊]   <442km>   

 

 さあ、出発。先ずは高速に入る前に給油を済ませ、安心して都心を横切る必要がある。何時もの守谷の給油所に行き満タンにする。10時少し過ぎ、本番がスタート。直ぐに常磐道に。我が家からは3分ほどで谷和原ICなので、いきなり高速走行という感じになる。事故だけは禁物。慎重に発進。直ぐに守谷のSAに寄りハイウエイカードを買う。とりあえず1万円の分を2枚。予定では、大阪吹田の中国自動車道経由で舞鶴自動車道の福知山まで行くつもりなので、3枚は不要。本当はカードよりもETCの方が安上がりなのだが、SUN号にはまだ取り付けていない。どうも、新しい機械装置に対しては、なぜなのか抵抗感があり、先走って賛同する気になれないのは、老人に近づいている証なのか。

東京西多摩や川崎に住んでいた時は、北海道や東北からの旅の戻りの時は、いつもこの常磐道守谷SAに到着すると、小休止して一息入れた後に、さあ、これから東京の混雑を抜けるぞ。最後の一(ひと)勝負だ、という感じだったのだが、守谷に棲むことになった今では、だいぶんに気分が違う。これから先は、特別のことでもない限りは、このSAに立ち寄ることは殆ど無くなるのだと思う。不思議な感じもする。

 守谷SAから三郷の料金所を抜け、首都高に入り浅草方面へ。ここまでは順調に流れている。その後の首都高も概ね順調に走って、渋谷を通過して用賀から東名道へ入る。ここまでもまあまあ順調に来ていたのだが、しかし、東名道をほんの少し走った途端に、大渋滞が始まった。何と今日は東名道の集中工事というのが行われていたのだった。「厚木まで20km近く渋滞」という電光板の標示があった。こんなことなら、中央道を通ればよかったと悔やむが、後悔先に立たず。もう遅い。やむなくそのまま東名を行くことにしてノロノロと走り続け、海老名SAに着いたのは12時半頃だった。小休止して一息入れる。その後は大渋滞の中を、途中富士川SA、浜名湖SA、上郷SAと休みながら、名古屋に届いたのは20時近くになっていた。もううんざりだ。名古屋まで来るのに10時間もかかるのはひどすぎる。これはもう高速道などというべきではなく、ただの有料道路に過ぎない。

このような渋滞の中で、路肩をすいすいと行く車が時々出て来る。たいていはベンツか黒塗りのセルシオなどの高級車だ。普通ではない、つまりは法治国家に住んでいるという心得のない奴らの乗った車で、呆れかえって腹も立たない。世の中、99.9%は法を守るまともな人間がいるから成り立っているのであり、このような非人道的な奴は本来厳しく駆除すべきではないか、などととんでもない発想をしたりするのは、こちらもかなりストレスが溜まっているからなのであろう。それにしてもこの集中工事のおかげで、別途名古屋までの中央高速道の料金が安くなったりしているというのは理屈に合わない。知らないで来てしまった者に対しては、そのようなことをするのではなく、低速のお詫びとして東名の通行料を安くすべきではないか。道路公団というのは、民営なのか官営なのかよくわからないが、役人まがいの連中の考えることは、いつも片手落ちで、何かを忘れている気がする。

 とにかく、名古屋からは名神道なので集中工事は無い。俄然高速道路らしくなった。21時を少し廻った頃、ようやく養老SAに着く。疲れたので、今日はここ泊まりとすることにした。12時間近くかかって442kmを走ったことになる。平均時速40kmにも満たない、腹の立つ高速道路だった。辺りは真っ暗である。直ぐに就寝。

【コメント】

◆この時代は未だETCは普及し始めた頃で、新しいものに対して臆病なタクジイは、今はもうなくなっているハイウエイカードなどをわざわざ購入しているところが如何にも化石人タイプであることを思わせます。現在はETCもナビも取り付けてあります。

◆旅先の交通にかかわる情報は、特に高速道の場合は、事前にネットなどで状況を確認しておくことが大切です。この時はそれを怠ったため、かなりのエネルギーの損失を蒙りました。要注意です。

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2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(はじめに)

2015-01-17 00:01:38 | くるま旅くらしの話

初めに

この記録は、今から10年ほど前に九州・山陰エリアを旅した時のものです。一部記録の誤りを訂正し、漫遊紀行としてリライトしたものです。それだけでは面白くないと考え、これからくるま旅を本格化されようとされている方に、少しは参考になるかと、「10年後の現在の目線」でのコメントを、必要に応じて付加してみました。コメントは青色の字で記しています。なお、登場される人物の皆さんは、全て仮名で記しています。

 

<旅の概要>

・旅くらし人:タクジイ&クニバア

・旅くらし車:SUN号

・期間:2004.11.17 ~ 2004.12.16 

・宿泊日数:29泊30日     

・総走行距離:<4,970km>  

 

旅に出る前に

   2004年、10月末をもって現役を完全引退した。待って、待ち続けた定年という奴がようやく手に入った。定(停)年ということばは、考えてみればおかしな表現だ。長期雇用契約が終了したという意味なのだろうが、漢字のイメージからは、もうそこで人間としての動きが止まってしまう、つまりこれ以上は活動停止の年ということだから、あの世への旅立ちのようで、あまりいい感じはしない。きっぱりと過去(=今までの仕事中心のくらし)と決別をし、新たに自分の時間を、自分自身が王様となって支配して行くという意味での、せめて「帝年」とでも書いてもらいたい。これからは自分が王様なのである。

 とにかく、今それが手に入って、しばらくはワクワクした気分だったのだが、考えていたことをいきなり行動に移せるわけでもなく、あっという間に1週間が過ぎ、10日が過ぎて、ワクワクの実感は薄れてゆくばかりで、何だか毎日何もせずに無駄暮らしをしているような気分になってきた。待てよ、こんなはずではなかったぞ?と不安になって来た。ホームページを立ち上げようなどと一応は取り組んで、それらしきものを作ってはみたが、よく考えれば掲載する材料があまりにもプアーである。よって、ますますワクワクはアレレレとなって行った次第。

 このような不安状態から脱却するためには、何と言ってもこれからの目標である「くるま旅くらし」を実践するしかない。そう思って、11月の14日から九州方面へぶらり旅くらしに出掛けようと考えていた。が、たちまちその出鼻を挫かれたのだった。でこぼこコンビの相棒である家内(=クニバア)が、出発予定日の数日前になって突然の腰痛に見舞われ、寝たり起きたりの半病人となってしまったのである。このような時に、普通の夫というものは、妻に対して労わり、同情するものなのであろうが、自分(=タクジイ)の場合は本気で(半分くらい)怒っている。この種のドジは許しがたいのだ。なぜなら、度々腰痛に見舞われ、その原因も体重超過と筋肉の不鍛錬によるものというのが解っているのに、何の努力もしないままに、又また同じことを繰り返して起こしているからだ。しかもこの大事な(?)ときに。

 いっそ取りやめようかと思ったのだが、本人は意外としつこくて、九州へはどうしても出掛けたいらしいのである。何しろ彼女にとっては18年ぶりの九州行であり、福岡にある我が家の状況確認や知り合いを訪ねたいという楽しみもあるのであろう。それで、相当に痛い筈なのにどうしても行くという。「旅をしながら治すから」などと言っている。それほど言うのなら、ま、何とかなるか、と安易な妥協心が揺れ動いて、やっぱり行くことにした。それでも少し大事をとって、3日ばかり遅れた出発と相成った次第である。

 九州には福岡に7年間(1979~1986)住んでいて、持ち家(マンションだけど)もそのまま貸家として置いてある。我々家族にとっては、福岡は第二のふるさとのような所である。自分はつい先日まで(完全引退の前まで)、福岡での仕事をやらせて頂いていた。子供たちも、長男は小学校から高校1年まで、二男は小学校から中学2年まで暮していたので、彼らにとっては、福岡が故郷そのものとなっているようだ。だからもっと頻繁に訪れてもよい場所なのだが、関東からは何しろ遠くて、お金もかかる。結局、仕事とは無縁の相棒だけが、18年前の引越し以降一度も里帰りをしていない、ということになっていた。それで今回はその里帰りを含めて、九州の東半分を主力に、宮崎県の鵜戸神宮辺りまで行って引き返すという案を決めていた。途中せっかくの久々のチャンスなので、湯布院にある元勤務先保有の保養所にも1泊させて頂き、まだ現役でがんばっている管理人の井口さんご夫妻の顔も拝したいと考え、関係者の方々に我がままをお願いした次第である。本当はもっとゆっくりしたいのだが、年末にはどうしてもやらなければならないことがあり、12月の15日頃までには帰宅しなければならない。

出発前に大ざっぱに決めているのは、この他にとりあえず往路は東名、名神、中国、舞鶴道で福知山まで行き、そこからはR9などの山陰地方の一般道を使って九州へ向かうということだけである。例によって宿泊先などは一切未定である。出たとこ勝負で行くだけだ。

 山陰の方は、先日の大雨で豊岡市の大洪水があり、今頃どこまで回復しているのだろうか、あの辺りを通るのは不謹慎ではないか、などという気持ちもどこかにある。11月も半ば過ぎとなるので、大山や出雲大社の辺りは、もう相当に寒いのではないか、などと思いを巡らしている。津和野や萩などにも寄ってみたい。こんな按配だと、九州に入るのがかなり遅くなってしまうのかもしれない。いずれにしても毎日が思いつきの連続となるだろうから、もしかしたら考えていることの殆どが実現しないかもしれない。何を考えているのかって? それは秘密。というより自分でもよく分らないのだ。ある種の夢というか、願望というか、気まぐれというか、期待というのか、特別の楽しみが旅の前にはある。

クニバアのドジで出端を挫かれたのだが、そのおかげで出発前の準備の時間はたっぷりあり、用意万端整った。タイヤも冬用のスタッドレスに替え、オイル交換も済ませた。バッテリーの充電もガスの充填もOKである。水も今回は新しいペットボトルを12本買い込んだ。食糧、衣料品、その他の携行品の積み込みも済んで、さあ出発となる。時に11月17日午前10時である。

【コメント】

 まえがきについては、特にコメントすることはありません。いつもの長ったらしい能書きを、我慢しながらお読み頂ければありがたく思います。ま、リタイア後間もない方ならば、一時味わう複雑な心境を、タクジイも同じように味わって来ているということをお汲み頂ければ幸甚です。複雑な気持ちを抱いて悩む時には、それを超えるためのしっかりした目標を持つということが大事だと思っています。そしてその目標に向かっての行動の継続が重要です。タクジイは、そのようにして今まで生きてきましたし、これからもそのつもりです。

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ジジババ くるま旅漫遊紀行 掲載の案内

2015-01-16 05:36:49 | くるま旅くらしの話

 長いことブログのアップをサボってしまい、申しわけなく思っています。この間なにもしていなかったわけではなく、先日の晩秋の旅の後楽と、それから10年前の旅の振り返りなどをしていました。冬のシーズンは、自分にとっては旅の後楽のシーズンであり、時には前楽の季節となることがあります。つまりは、実際の旅には出掛けないということであり、来し方の旅の振り返りやこれからの旅の準備の期間となります。

 只今は、もう一度10年ほど前の2004年の九州・山陰への旅を取り上げ、あれこれ思いを巡らせているところです。10年も前の旅を何故取り上げるのかといえば、それは10年後の自分の目線からは、いろいろと反省しなければならない事項が目立つからであり、この間の成長のあり方というか、旅のあり方についての何かヒントが見出されるのではないかという思いがあるからなのです。単純に10年前の旅を懐かしむという気持ちも大いにあるのですが、今は旅のヒントの再発見のつもりで取り組んでいます。

 それで、これらの旅の記録のリライト作品を「くるま旅漫遊紀行」と呼ぶことにしています。旅人もその時から10歳歳をとり、今は名実ともにジジババとなりました。何年か前に、同じ発想で漫遊紀行を掲載したことがありますが、これは未だ発酵が不十分で、中途半端なものとなりました。今回は、その時よりは少し目線が変化しているように思います。

 明日からそれらを順次掲載することにします。特にこれからくるま旅を始めようとされている方、或いはくるま旅を本格化されようと考えておられる皆様に、何かお役に立つような、ヒントになるものがあればいいなと思い、毎日の旅のあり様に対して、10年後の旅人本人の目線でのコメントを付加することにしました。

 写真の掲載は敢えてしないことにしました。相変わらず長文だけの書き方なので、読むのが大変だとは思いますが、自分の基本的な姿勢が、「想像を愉しむ」ことにあり、書き手も読み手もそれを大事とすべきと、かなり頑固な信念が居座っているものですから。想像を逞しくして頂いて、「ヨシ、自分たちもそこへ行って見よう!」と、ご自分自身の旅を創り出して頂ければ、最高だと思っています。写真は、ご自分でその時に存分に撮ればいいのだと思います。身勝手すぎるのは重々承知して入るのですが。

 又、連日の長文では、読まれるのが疲れると思いますので、基本的には隔日掲載にしたいと思います。しばらくお楽しみ頂ければ幸いです。

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