山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

「走る別荘:車中泊の旅」をみて思ったこと

2024-02-10 08:11:31 | くるま旅くらしの話

     TV(BS-TBS)で「走る別荘・車中泊の旅」という番組を見ています。番組の内容は、タレントや俳優の方たちが車中泊の出来る車を借りて2泊ほどの短い旅に出掛けて、途中地元の野菜や肉などの食材を調達して、思い思いに調理をして車中泊するというもので、この間に様々な人との出会いなども紹介されていて、これはもう自分たちの旅そのものなので、大興味があるのです。

ここで紹介されている車中泊の旅が自分たちの場合と違うのは、その長さなのです。何の長さかといえば、一つは期間であり、もう一つは走行距離なのです。期間でいえば、私たちの場合は10日以上を旅くらしと称しており、その場合の走行距離は1,000km以上となることが普通なのです。このような旅くらしを私たちは20数年続けて来ており、最長は2018年に「北海道の来し方(=歴史)150年を訪ねる旅」で、期間は112日(=約4カ月)、距離は11,235kmでした。これは特別の旅で、普通は1~2カ月ほどの旅くらしとなります。

 「走る別荘:車中泊の旅」をみていると、その出演者の方たちが気の毒になります。たった2~3日で車中泊の楽しさを可能な限り詰め込んで見せようとする意図があるため、それなりの面白さはあるというものの何だか窮屈に感じられてしまいます。番組で紹介されているような車中泊を1週間、1カ月と続けたら、どのような出会いに恵まれるのか、想像するだけでも楽しさが膨らむのではないかと思います。

そうなのです。私たちはそれを実現・実行して来たのです。

先日の番組では、渡部豪太という俳優の方が、会津の喜多方市や会津若松市や奥会津を訪ねる旅をしたのが紹介されていました。それを観ていると、磐梯町の道の駅や喜多方、会津若松の街などが紹介され、ゴールは金山町で天然炭酸水をゲットし、近くの温泉に入って終りという内容でした。これを観ていて、その殆どが何回か訪ねた場所であり、勿論内容は違うのですが、懐かしさを覚えずにはいられませんでした。このような番組を見ていると、それまでいささか意見が違って険悪化していた家内との関係もたちまち改善されてしまい、笑顔まじりでの共通の思い出の話題が膨らむことになるのです。

 渡部さんの訪ね先は予め良く知った方が決めておられたのだと思いますが、喜多方の造り酒の家で酒水を汲むというのは参考になりました。私も水には関心があり、全国の名水のある場所を訪ねていますが、酒水を汲んだのは北海道増毛町(国稀)と青森県弘前市(豊盃)の酒造りの家だけで、喜多方でも出来たのだとは気づきませんでした。天然炭酸水の方は知っていますが、未だ温泉には入っていませんでした。(この番組では、天然の炭酸水はこの場所唯一だと紹介されていましたが、確か大分県の直入町にはラムネ温泉というのがあり入ったことがあるのですが、あれも炭酸水ではなかったかと思いながら見ていました)今度行ったら、彼の訪問先を参考にして自分たちも会津地方をもう一度訪ねて見たいと思いました。

 私たちのくるま旅は、予め決めておいた場所を訪ねるケースも勿論ありますが、偶然の出会いも数多くあり、むしろその方が旅の楽しみを深化させてくれるように思っています。未知のものとの出会いは常に不安と期待が綯い交ぜであり、これが旅の醍醐味なのだと思いますが、既知のものであっても旅には新たな発見が多いのです。例えば何度も訪れている名所旧跡の観光地であっても、一回だけで見られる箇所はほんのわずかであり、それはただそこに行っただけという記憶に止まるに過ぎないことが多いのです。私たちは、名所旧跡の観光地は何回か再訪して始めてその価値が判るのではないかと思っています。何度訪ねても必ず新しい発見があり、飽きることはないのです。

 今年は能登を訪ねるつもりで私なりに準備をしていたのですが、とんでもない大地震に見舞われてしまい、珠洲も輪島の街もその他のエリアも壊滅状態となり、とても訪問できる状態ではなくなってしまいました。毎日被災された方々の様子を見るにつけても一日も早い回復を祈らずにはいられません。老人となってしまった今では、旅車ですっ飛んで行って手伝おうとしても、ただ邪魔になるだけで何の力にもなれません。ただ祈ることしか出来ないのがもどかしく残念です。完全に復興が成し遂げられるまで、果たして生きていられるのかが心配ですが、存命の限りは再度能登を訪ねたいと思っています。先ずは、能登町に行って真脇遺跡を訪ねてイルカ漁が盛んだったという6千年前の縄文時代の人々の暮らしに思いを馳せてみたいと思っています。

 TV番組の意図を飛び出し、外れた感想となってしまいましたが、くるま旅には生きるために必要な力を気づかせてくれる大きな大きな力があり、くるま社会となっている今の時代には、より多くの人たちに旅の力を感じて欲しいなと考えている老人なのです。

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アルメリアの花に寄せて

2024-02-03 08:53:38 | 宵宵妄話

 アルメリアという花をご存知でしようか。和名を浜簪(ハマカンザシ)と言います。花言葉は、「思いやり」「心遣い」「歓待」というのだそうです。実に適切な花ことばだと思います。

 4、5日前、近くのホームセンターへ寄って冬に販売されている花たちを見ていましたら、横の方にこのアルメニアの小さな鉢が置いてありました。寒い所為なのか、カンザシ風に良く咲いている花はたった二つで、モヤモヤと茂った細い葉の中に蕾が3つほど並んでいました。何だか急に嬉しくなりました。

 私には、この花に旅の思い出がくっついて離れないでいるのです。そのことをほんの少し書いて見る気になりました。何のことかと思われることでしょうけど、この花にまつわる私の大切な旅の思い出の一つなのです。

それは、北海道の北端の町、稚内を訪れた時のことでした。この町を何度も訪れているのですが、ここへ来ると、いつも稚内公園の脇にある森林公園キャンプ場に泊ることにしていました。稚内公園は、稚内の市街地を下方に見下ろし、遠く樺太の島を望むことができる高台にある広大な公園で、その森林の脇に造られた無料のキャンプ場は、くるま旅の者には真にありがたい施設なのでした。

広い公園の中には、高さ80mもある開基百年記念塔を初め幾つかの記念施設や記念碑などが作られています。キャンプ場の近くなので、車を置いてから歩いてそれらの施設を見聞するのが楽しみでした。施設だけではなく、広大に広がる大きな景観を味わうのも楽しみでした。稚内は、太平洋戦争が終るまでは、日本領だった樺太へ渡る基地の港であり、ここから遥かに見える島との間を大勢の人たちが行き交っていたのです。その時代の頃を想像しながら、更には宗谷岬から樺太が島なのか大陸と繋がっているかの確認のために向かって北海の荒海を小舟に乗って旅立った郷土の英雄、間宮林蔵(この方は守谷市の隣のつくばみらい市の出身で、我が家から2kmくらいの所に生家があるのです)の樺太冒険の旅のことなどを想い描きながら、ここからの大きな景色を見るのを楽しみにしていたのです。

何回目かの訪問の時に九人の乙女の碑や氷雪の門のあるエリアを歩いていた時に、足元に作られている花壇に赤紫の丸い穂のようなものを付けた花が咲いているのに気がつきました。それまでに見たこともない花でした。私は野草や草花の観察に興味関心があって、知らない花を見つけると、確認しないではいられない人間なのです。花壇にあった表示板には「アルメリア」と書かれていました。それまで見たことも聞いたこともない花でしたが、何故か強く印象に残ったのです。すぐ傍に氷雪の門や九人の乙女の碑などがあったので、この花は北国に咲く花なのではないかと思ったのでした。おとなしげに咲いている花たちを見て、この花は、終戦末期に、邪悪で悪辣で極悪非道な人間の権化そのもののロシア人軍隊が攻め入って来る直前に、命の限りを尽くして電話局員としての使命を果たしながら自決せざるを得なかった9人の乙女たちの魂を慰めながらここに咲いているに違いないと、そう思ったのです。それ以来樺太や稚内、北方領土などの言葉を耳にする度に、あの稚内に咲いていたアルメリアの花が眼前に現れるようになったのです。

コロナのパンデミックに襲われて5年以上も旅をしないままでいる内にアルメリアのことはすっかり忘れていたのですが、思いがけもなくその名の名札を付けられた小さな鉢に入った花を見つけて、直ちに買うことを決めたのでした。

今その鉢は私の机の上を日中の日差しを探して移動しています。草花たちは皆日差しが大好きですから、水やりと一緒にその願いを叶えてやるように、私なりに努めているのです。

私の所にやって来てから10日ほどが過ぎました。当初たった二つだけだった開花した花はすっかりその役割を果たして消え去り、蕾だった花が二つほどその後を次いで丸く咲き始め、新たに幾つかの蕾が膨らみ始めています。毎日ほんのわずかですが、花たちの命の動きを見つめていると、あの稚内の思い出が様々に甦って来るのです。20年に亘るくるま旅の中では、数多くの野草たちの草花に出会って、心を慰められて来ていますが、その中でも印象に残る花の一つがアルメリアで、それを今毎日身近に見ていられることに幸せを感じています。

      

 私の机上のアルメリアの花。記事を書いている間に少し大きくなりました。稚内では、この花は花壇として咲いていました。

 

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