山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第25回(最終回)>

2015-06-25 11:36:18 | くるま旅くらしの話

【昨日(6/24)のレポート】     

<行程>

 道の駅:喜多の郷 →(R121・県道・R49・R294)→ 道の駅:東山道伊王野 →(R294)→ 道の駅:にのみや →(R294)→ 自宅 (泊)

<レポート>

旅の終わりの日が来た。今日はとにかく安全・無事に家に帰りつくことが第一である。喜多方の朝はやや雲が多い感じだが、晴れで今日も暑くなりそうである。昨日のうちに給油を済ませているので、途中は必要最小限の寄り道で済ませるつもりでいる。8時少し過ぎに出発する。先ずはR121を会津若松の方にかい、途中左折して県道を日新館の方に進み、R49に出て猪苗代湖方面に向かう。直ぐにR294の交差点で右折して、そのあとはこの道を我が家まで辿って行くこととなる。R294は、太平洋岸近くを走る国道6号線と会津から新潟に抜ける国道49号線とをつなぐ道で、もう何度も喜多方行には利用させて貰っているけど、我が家に戻れば重要な生活道路の一つとなっている。しかし、福島県を走るこの道はとんだ山道で、守谷辺りでは想像もつかない車数の少ない細道となっている。道を辿るというのはなかなか面白いもので、様々な景色と暮らしが付着しているのを実感する。

猪苗代湖は見えないけど、その近くを通ってしばらく走ると、次第に山が迫り、上り坂となる。ピークは勢至堂峠であり、その下を通るトンネルを通過すると、今度は下りが始まって、天栄村辺りに来てようやく平地となる。ここまで来ると間もなく白河である。白河の市街地を抜けて少し走ると、間もなく栃木県域に入る。谷あいの田んぼの中をしばらく走って、道の駅:東山道伊王野に到着。まだ11時前だったが、ここで大休止して早めの昼食とすることにした。一つは、今日の女子サッカーの対オランダ戦が気になっており、もう一つはこの道の駅には巨大水車が設えてあり、その水車を利用して挽いた蕎麦粉を用いて作った、食数限定の蕎麦を食べることができるからなのだ。蕎麦の方は11時からの営業開始なので、先ずはBSアンテナを合わせて、サッカーの方を見ることにした。ゲームは開始されて間もなくで、先ずは1点先制したようである。見ている限りでは、五分五分の動きなので、目は離せない。しかしいつまでも見ているわけにはゆかないので、適当に切り上げ、蕎麦の方に向かう。珍しく並んで待ったので、希望通り水車引きの粉で打ったもりそばを食することができた。ややキャラメル色がかった透明感のある蕎麦で、コシもしっかりしており、味も抜群だった。十二分に満足して食堂を後にする。少し休んで、サッカーの観戦は諦めて先に進むことにした。

その後はひたすら運転に集中して、イチゴとちおとめの一大産地である二宮町(今は真岡市)にある道の駅で小休止し、その後はノンストップで守谷市の自宅に到着。到着時刻は、15時5分だった。喜多方からは丁度250km。1日に家を出発してから総走行1,934kmの旅だった。

孫にはもう顔を忘れられて、不審顔で見られるかなと覚悟していたのだが、そんなこともなく笑顔で迎えられて、安堵した。後片付けなどに追いかけられて、その後はわけのわからぬままに夜を迎える。

 

旅の整理とまとめをしなければならないけど、しばらく旅ごころを鎮めるのに時間がかかりそです。ブログはしばらく休憩とさせていただきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第24回>

2015-06-24 04:56:53 | くるま旅くらしの話

【今日(6/25)の予定】 

  道の駅:喜多の郷 →(R121・県道・R49・R294)→(白河市経由)→ 道の駅:東山道伊王野 →(R294)→ 守谷市自宅  

 

【昨日(6/23)のレポート】     

<行程>

 道の駅:R290とちお → 道の駅:いりひろせ(魚沼市)→ 道の駅:奥会津かねやま(福島県大沼郡金山町) → 道の駅:尾瀬街道みしま宿(大沼郡三島町) → 道の駅:会津柳津(やないず)(河沼郡柳津町)→ 道の駅:会津坂下(ばんげ)(河沼郡湯川村)→ 道の駅:喜多の郷(喜多方市)(泊)

<レポート>

栃尾の道の駅は静かだった。寝る頃は、車は我々の一台きりだったが、その後数台が来て泊ったようだった。何しろ油揚げで大宴会(?)をやったので、TVを見る気も起らぬうちに睡魔が襲来して、あっという間のあの世行きだった。眠りの境の向こうは、あの世なのだと自分は信じている。人は毎日あの世に行って、元気を取り戻して、戻って来るのだとも思っている。

さて、今日は旅の最後の遊山ドライブを予定している。新潟すなわち越の国の山を超えて会津に入り、点在する道の駅の幾つかを訪ねながら、もう一度喜多方に泊って、明日は一気に帰宅するつもりでいる。天気予報は、会津地方やこの長岡エリアも雨で、局所的には雷や大雨が予想されるとか。空を見上げてもそのような気配は微塵もなく、青空が広がり始めているのに、何と場違いな予報なのだろうと思った。相棒は早や少しビビリ出している風だったが、それを無視して今日はどうしても予定通りのコースを行こうと思った。というのも、今日のコースはまだ一度も辿ったことがなく、随分昔から一度通って見たいと思っていたからである。

朝ドラを見終えた後、直ぐに出発する。天気はますます晴れの兆候を示していた。先ずは最初の道の駅:いりひろせ(=入広瀬)に向かう。ここは九年前の5月初めに一度訪れたことがあるのだが、その時はまだ雪がかなり残っており、すぐ傍の小さな湖も凍りついたままだった。その先に行くのは危険だと判断し、引き返したのを覚えている。当時は村だったのだが、今は合併して魚沼市となっている。このような市の形が全国にたくさん誕生したのが平成の大合併策だったと認識している。行政の効率化には功があったのかもしれないけど、何だかこれによって日本の懐かしい部分がかなり削ぎ落とされてしまった感じがする。20分ほどで入広瀬の道の駅に着く。まだ店は開店前で静かである。勿論雪などなく若葉に囲まれた鏡池が静かに光っていた。一息入れて直ぐに出発する。

ここから先は初めての道である。国道252号なのだから、まさか離合困難な道などではあるまいと信じての通行だった。途中、相棒が川の中に融けきれない雪が残っていたのを見た、などとのたまわっていたが、まさかそれほどでもあるまいと信じないことにした。道は次第に山の中に入って行き、急な坂を上りはじめた。小一時間ほど登った所が峠で、六十里越峠というらしく、眼下に奥只見のダム湖が青く深い色を湛えていた。近くの山には雪渓の白い筋が何本も見え、遠くには尾瀬の燧ケ岳らしき山が構えているのが見えた。峠にはこの道の開道を記念しての、当時の総理の田中角栄氏揮毫による石碑が建てられていた。「会越の窓開く」と会った。この近くには、現在トンネル掘削中の八十里越峠というのもあり、地元ではその開通が待ち焦がれているようだ。六十里とか八十里とか聞くと、何年か前に読んだ戊辰戦争の会津の立場を中心に書かれた「会津士魂」のことを思い出す。読んでいただけではこの峠の厳しさは解らない。ここへ来て見て、初めてその戦に係った人たちの厳しさが少し解るような気がした。その雄大な眺めをしばらく楽しんだ。

  

六十里越峠の展望台から南方を望む景観。何という山なのか知らないけど、沢には雪が残っている。下方は田子倉湖。全体が霞んでいて、雨の予報は全くの見当違いだった。

坂を下って、間もなく只見の町中に入る。ここにある電源開発による水力発電所は、その昔自分の父親が仕事で出張して据え付けた発電機がある筈の場所だった。まだ小学生だった頃に、1カ月近い出張から戻った父から聞かされたのを思い出す。只見という所が、とてつもない山奥で、不便な所なのだと、父親が強調したので、頭の中に刻印されていたのである。ずっと、どんな所かと思っていたのだが、来る機会がなかった。今日来て見ると、六十里越峠を越えて来たせいか、それほど山奥という印象はなく、それなりに拓けた所だと思った。もう半世紀以上が経って、すっかり様相が変わってしまったのであろう。その発電機はまだ健在なのか、それとももうとっくの昔に寿命を終えてしまっているのか、知るすべもない。親父は既にあの世に旅立ってしまっている。

その後は再びR252を走り続けて、間もなく道の駅:奥会津かねやまに到着。売店などを覗いたが、特に目立ったものもなく、一息入れてから出発する。R252道沿いには、ダム湖あり、渓流ありで、それが右に見えたかと思うと、今度はたちまち左側に見えたりして、飽きない景色が続いていた。間もなく道の駅:尾瀬街道みしま宿に着き、ちょっと中を覗く。何処も同じような品揃えで、特に欲しいものもなく直ぐに次に向かう。次は会津柳津という道の駅だったが、ここも同じ感じだった。ちょっと目立ったのは、郷土民芸品の会津の赤べこくらいか。もはやこの年になっては、それを買う思いもない。直ぐに出発して、間もなくR49に入り、会津坂下の道の駅:あいづに着く。ここでしばらく休憩する。

もうすでに正午を過ぎており、昼食の時間なのだが、今日はもう一度会津のソースかつ丼を食べておこうと、前回寄った十文字家に寄ることに決めている。まだかなり混んでいるはずで、駐車は困難と予想して、しばらく駅舎の売店などを覗いて回った。30分ほど経って、十文字家に向けて出発。予想は違わず上手く駐車スペースを確保することができた。今日は、自分は磐梯カツ丼というのを、相棒は前回と同じヒレカツ丼をオーダーした。磐梯カツ丼は、勿論地元の名峰会津磐梯山に因んだ命名で、何と4切れもの大型のカツが載って出て来た。一度に全部平らげるのは無理と解っており、2切れが限界である。残ったのはテイクアウトして今夜のおかずとする。2食分でも余るほどのボリュームだった。大いに満足して店を出る。

今日は喜多方の道の駅に泊る予定なのだが、その前に相棒の要請で、コインランドリーがあったら、洗濯を済ませておきたいとのこと。探しながら行ったのだが、なかなか見つからない。旧道の方は諦めてバイパスの方に行ったら、ようやく発見した。相棒が覗いて見てOKということなので、車を駐車場に入れて、それから2時間ほどは洗濯の終了待機時間となった。洗濯が終わりかける頃に、近くの山の方から雷鳴が轟くのが聞こえ出して来た。今日は雨の予報だったが、今までのところは雨どころかとんでもない上天気で、気温は30℃近くになっており、蒸し暑さに辟易しながら外れた予を呪っていたのだが、ここへ来て急に予報に従うべく天が気を変えたらしい。涼しくなるのはありがいけど、雷だけは止めて欲しものだと思った。

16時近くようやく洗濯が終わり、道の駅に向かって出発する。空はますます険悪になって来ていて、黒雲が奔る間隙に雷光がキラめき轟音を発していた。途中給油に立ち寄ったのだが、終える頃にとうとう雨が降り出した。道の駅に着いた時は豪雨になりかけた雨の中だった。いつもの場所に車を停めて、しばらく騒ぎの収まるのを待った。時々直ぐ近くに落雷の轟音が響き渡り、肝を冷やす状況だった。車の天井が妙な音がするので外を見たら、何と雹が降って来ていた。大きい奴だとソーラーをやられるかもしれないと心配したが、大したこともなく直ぐに雨粒に代わって安堵した。30分くらい雷鳴の中を断続的に降る雨に悩まされ脅かされたが、17時を過ぎると一段落したらしいので、温泉に入ることにした。今、ここの温泉施設は一部に不具合があるらしく、17時からの入浴料は150円となっていた。真に良心的な営業である。温泉でなくてもこんな料金で入れる風呂はめったにない。1時間ほどで車に戻る。もう先ほどの騒ぎはすっかり収まって、空には少し膨らみ出した月と宵の明星が輝き出していた。最近の天気予報は大騒ぎすることが多いけど、自分が子供の頃の夏といえば、毎日この程度の夕立があったものだと思い出す。しかし、このような性質の悪い夕立は少なく、もっとあっさりしていたように思う。

一雨あって、少し涼しくなったところで、今回の旅の最後の晩餐が始まる。昨日は油揚げだったが、今日は昼の残りのカツである。何と豪華なことか。めったに肉を食べない自分には珍しいことなのだ。相棒に呆れられながら、一杯やって、少しの間、鬼平犯科帳の再放送番組を見て寝床に入る。鬼平犯科帳はどの放送分でも全てストーリーは既知のことなのだが、それでも飽きることはない。原作者の池波正太郎先生のファンなのだ。役者が誰であっても構わないし、鬼平だけに注目しているわけでもない。テーマとその表現の間合いのようなものが自分を引きつけて止まないのだ。池波先生は、人間の人情心理というものの把握描写の超達人だった方だと思う。そんなことを考えながら眠りに着く。明日は久しぶりに本物の孫の顔を見ることができる。今までは持参した「オイシィ~」の写真を見るだけだった。安全運転で行こう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第23回>

2015-06-23 02:33:53 | くるま旅くらしの話

【今日(6/23)の予定】 

  道の駅:R290とちお → 道の駅:いりひろせ(魚沼市)→ 道の駅:奥会津かねやま(福島県大沼郡金山町) → 道の駅:尾瀬街道みしま宿(大沼郡三島町) → 道の駅:会津柳津(やないず)(河沼郡柳津町)→ 道の駅:会津坂下(ばんげ)(河沼郡湯川村)→ 道の駅:喜多の郷(喜多方市)(泊)

【昨日(6/22)のレポート】     

<行程>

 道の駅:国上(くがみ) → 燕三条地場産業振興センター → 道の駅:漢学の里しただ(三条市)→ 道の駅:R290とちお(長岡市栃尾)(泊)

<レポート>

今日からは本格的な帰路に入る。となると、もうこの旅のシリーズでは特に目的もなく、大して書くこともなくなる。一応、これからは新潟県の南部の山沿いの道を福島県の会津の方に向かって進み、もう一度喜多方の湯でも味わって、家に帰るつもりでいる。目的としては、まだ訪ねたことがない道の駅などを巡って行くことになると思う。

国上の道の駅は、朝方から雨が降り出し一時はかなりの強さとなった。昨夜はすぐ傍にトラックがやって来て、真夜中もエンジンを掛けっ放しの奴がいて、最近では珍しい悪質なドライバーだった。この頃はそのような人が減り、この業界も少しは改善が進んでいるのかなと思っていたけど、まだまだ個々人の心がけに依存する状況にあるのだろうなと思った。雨は7時くらいまでには止んで、青空も見え出したが、南の山側の方は厚い雨雲が垂れ込めて、穏やかならぬ形相の空だった。明日は会津への山道を辿ろうかと考えているので、あまりひどい雨の時は、思いとどまらなければならない。どんなものかと心配しながらも、今日は先ず燕三条の地場産業振興センターという所にある展示即売場で刃物を買い、その後はまだ行ったことがない道の駅:漢学の里しただに行き、更に今日はその近くの道の駅:R290とちおに泊ることにして、近くの温泉にも入って、旅の終わり近くをゆうくり過ごしながら明日の天気の様子を探ってその先を考えることにしようと決める。

国上の道の駅は、駐車場だけは立派で、それに温泉が隣接しているということだけは優れているのだけど、それ以外はまだまだ工夫が必要な場所だなと思う。トイレなどの基本設備は老朽化しており、来る度にレベルダウンがひどくなっているようだ。次回までに少しでも改善されることを願いながら、8時半過ぎ出発する。雨はすっかり止んで、青空が広がり出し、急激に気温が上がり始めたようである。燕三条の地場産業振興センターまでは30分足らずの近さであり、9時過ぎには到着する。

ここには何度か来たことがあり、我が家の包丁などの刃物の幾つかはここで買い入れている。今日は相棒が終生使えるようなぺティナイフとそれから評判の爪切りを買いたいとのことで、自分としては特に欲しいものはない。9時半の開店まで少し待って、展示即売場に入る。地場の中心産業である打ち刃物や食器類などの高級製品がずらりと並んでおり、見ていると欲しくなるものは限りがない。一本10万円を超える包丁なども並んでおり、いきなり相棒がそれを見て店の人に訊ねたりしているので驚いた。一生使えるのならまだしも、二生、三生も使えるようなものは買うのは遠慮して貰いたい。結局それはひやかしだったようで、ぐっと価格ダウンして一生もののレベルで収まったので安堵した。爪切りは評判通りの優れモノだったようで、高額なので迷ったようだったが、試し切りをして見てその素晴らしさに感動したらしく、意を決して買うことにしたようだった。孫への土産の小さなスプーンとフォークも買い入れた。1時間ほどのショッピングタイムだった。

その後はナビに従って道の駅:漢学の里しただを目指す。漢学の里という妙な名称は、この町出身の漢学の大家で「大漢和大辞典」などの編者でもある諸橋轍次博士に由来するものらしく、行ってみると駅構内に博士の記念館が建てられていた。しただというのは、下田と書き、それが町名だったというのを知るのには時間がかかった。実のところ大漢和辞典は見たことがなく、諸橋博士のことも知らなかったのである。折角だから記念館を覗こうと思ったのだが、行ってみると今日は生憎の休館日で、中に入ることはできなかった。下田町は、今は三条市に入っているけど、道の駅のある場所はかなりの山奥にあり、途中ヒメサユリの名所という案内板が何箇所かあり、自然の豊かな場所である。雪が解けた後の春にはヒメサユリを始め何種類もの野草たちが春を歌うのだろうなと思った。一度訪ねてみたいものである。

昼飯を構内の農家レストランで食す。天丼だったが、地元でとれた野菜類の天ぷらは、美味く、そして米も上等の味がした。昼食の後は、しばらく午睡を楽しむ。日射しはかなり厳しいけど、風が良く通って、気持のよい眠りを得ることができ満足。相棒はどこかへ行っていたようだ。14時半ごろ出発して、栃尾に向かう。栃尾市は合併して今は長岡市となっている。9年前に栃尾を訪ねた時に油揚げとアケビの芽を知り、感動したのを思い出す。栃尾の油揚げは、今は関東にも進出して守谷のスーパーでも販売されている。その本場の油揚げを今日は是非食べることにしている。そのためのネギも買い入れて用意している。下田から栃尾までは20km足らずの近い距離で、1時間もかからない。

R290を走っていると、栃尾エリアに入って間もなく、油揚げを製造している工場らしき建物を道脇に見つけ、そこで直売も行っているという案内板を見て車を停める。入って見ると、かなり規模の大きな所らしく、何種類かの油揚げを作っているらしい。標準的なものを買うことにした。栃尾の油揚げは大型なので、一人1枚あれば十分なのだが、3枚買い入れた。1枚150円である。地元価格だなと思った。これで、狭い町中で買う際の駐車場の悩みも解消したので、安心して道の駅を目指すことができる。

15時過ぎに道の駅に到着する。ちょっと駅舎の売店などを覗いた後、近くにある温泉に行くことにして移動する。1kmほど先に日帰り温泉施設の「おいらこの湯」というのがあった。9年前には無かったような気がする。「おいらこ」を「おいこら!」と読み違えてしまう。「いおらこ」というのは、「私たちの家」という意味らしい。相棒が売店の方に聞いてきた情報である。なるほど、と思った。その「おいらこの湯」は、極めて良心的な営業をされていてありがたく思った。65歳以上の高齢者の料金が250円と、半額なのである。設備も新しく気持が良かった。勿論温泉も源泉が54℃の優れモノである。嬉しい気分で1時間ほどの入浴を楽しませて頂いた。

16時近くに道の駅に戻り、錨を下ろす。我々の場合、錨を下ろすというのは、泊る覚悟を決めて一杯やるということである。少し早いけど、早速買っていた油揚げを取り出し、中に刻んだネギを入れて、フライパンで焼き始める。焦がさないように弱火で焼くのだが、早くビールにありつきたくて火を強めにしてしまい、やっぱり少し焦がしてしまった。評判になっている栃尾の道の駅で売っている醤油というのを先ほど買い入れており、それを油揚げに掛けて食べ始める。うめ~である。3枚買った内の2枚は焼いて、残りの1枚は半分こして自分は焼かないで食べることにした。こちらの方が素の味がしてより美味い感じがした。い加減な二人なので、今日はもうご飯を炊くなど面倒なことは止めて、夕食はこれで終わりとすることにした。

18時くらいまではどうにか眠りを抑えていたのだけど、とても19時まで持たせるのは無理で、その前にとうとう我慢できず寝床にもぐりこむ。相棒の方が元気なようで、何時まで起きていたのかは判らない。明日は会津の山里を走りまわって、明後日はいよいよ帰宅するかと思いつつ、あっという間の爆睡となった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第22回>

2015-06-22 05:25:05 | くるま旅くらしの話

【今日(6/22)の予定】 

  道の駅:国上(くがみ) → 燕市・産業会館(刃物製品の見物?)→ その先未定

 【昨日(6/21)のレポート】     

<行程>

道の駅:芸能とトキの里 → 両津港フェリー乗り場 →(佐渡汽船フェリー)→ 新潟港 → 道の駅:国上(くがみ)(泊)

<レポート>

 佐渡と別れる日が来た。約半月の滞在の中で、5回の能の鑑賞と2回の狂言、更には文弥人形も見ることができて、もう十二分に目的を果たせたと満足している。まだまだ佐渡一国を十分に味わったとはいえないけど、これ以上の長居をするのなら、佐渡の土地の中に入り込まなければならず、それは今回は無理なことである。芸能についてもまだまだほんの入り口に辿り着いたという程度で、これから再度反芻しながらその面白さのようなものを求めてみたいと思っている。

 朝は昨日の遅い就寝の疲れもあって、5時少し前の起床となる。普通の人から見れば早過ぎる起床なのかもしれないけど、もう20年以上も前から昼夜逆転の時間の使い方に慣れて来た自分には、遅い起床なのだ。ブログの作成に手間取り、終了が7時半近くになってしまった。途中相棒に集中力を断ち切られたりして、少し焦った。相棒からすれば、毎朝早朝からカタカタとキーを叩く奴には超迷惑をかけられているに違いないのは解っているのだけど、少しでも邪魔されるとこちとらは大迷惑なのである。そのようなイザコザを繰り返しながらの旅の毎日なのである。

 今日はこの道の駅の駐車場で軽トラ市というのが開催されるらしい。どんなことが行われるのかさっぱりわからないけど、7時を過ぎた頃から準備の車がやって来て、何やら落ち着かない雰囲気になってきた。軽トラ市というからには、農家の人たちが荷台に野菜などを積んで来て販売するのかと思っていたが、どうやらそのようなものではないらしい。驚くことに家具や家電製品なども並べられ始めたのである。慌てて車を所定の駐車場の方へ移動させることにした。9時の開始時刻近くになると、車がどんどん増え出し、たちまち満車近い状態になり出したのには驚いた。外に出てみると、これは大規模なフリーマーケットのような状況になっていた。島内の人たちが楽しみにしているイベントの一つなのかもしれない。手当たり次第に近くに違反的に車を停める奴もいるので、こりゃあここに無用の者がいるのは邪魔になるばかりだと判断して、少し早いけどフェリー乗り場の方へ移動することにした。フェリーの出航予定時刻は12時40分である。9時半前に到着して、当然一番乗りとなった。そのあとは、フェリー乗り場の売店を覗いたり車の中で休憩して過ごす。

 12時少し前に乗船予定の「ときわ丸」が港に入ってきた。来る時は「おけさ丸」というのだったが、新潟⇔両津航路はこの2隻のフェリーが交互に航行しているようだ。2隻ともほぼ同じくらいの大きさで、北海道に渡るときにいつも利用している、大間から運行しているフェリーよりは2回りほど大きいように思った。間もなく着岸する。大型の船が岸壁に着くのを見るのは楽しい。子供のような気分になって、その様子をしばらく眺めた。フェリーなので当然積んだ車両を下ろさなければならないのだ、一見してはその開口部が判らない造りとなっていた。しばらく眺めていると、舳先の方が割れて、ゆっくりと上の方に一部が上がり始め、やがて車を吐き出す板が降りて来て、一連の仕掛けを覗き見ることができた。いつもの大間航路の船とは違うなと思った。

 

 

ときわ丸。上は着岸したばかりの姿。これを見る限りでは、車はどこから出てくるのか判らない。下は舳先が持ち上がって車両の出入りの開口部が見え出している。

 間もなく乗船の案内が為されて、フェリーに乗り込む。観光バスなども載っていたけど、まだまだかなりの余裕があるようだった。車を離れて、客室の方に入る。往路のおけさ丸に比べて、いろいろな設備が、かなり上等の感じがした。ずっと新しい船のようだった。佐渡へは直江津⇔小木航路があり、こちらには「あかね」という新造船が4月から就航し、観光の力となることが期待されている。まだ乗ったことがないけど、この船は双胴タイプの高速船で、直江津⇔小木間を1時間台で航行するとか。一度乗って見たものだと思った。ときわ丸は新潟港まで2時間半の航行である。乗っている間少しも揺れを感ずることなく、快適な航行だった。佐渡の地元発行の新聞などを読みながら、あっという間に新潟港に入る。

 15時15分に新潟の土地に戻り、一路国上(くがみ)の道の駅を目指す。明日は一応燕三条に行くことを決めているので、近くにある道の駅:国上を宿にすることに決めている。ここには温泉もあり、それも楽しみだ。途中少なくなっていた燃料を補給する。佐渡では130円(1L当り)もしたのが、新潟エリアでは120円程度だった。10円の差は運賃分なのだろうか。何だか怪しげだ。佐渡の人たちはいろんな面で高い買い物を強いられている感じがしている。17時少し前に道の駅に到着する。もう少し早く着いたら、寺泊まで行って魚を買おうかなどと考えていたのだが、それは無理だった。道の駅は車がかなり多く停まっており、何か慌ただしい感じがした。イベントでもあるのかと覗いてみたが、特段なにも行われてはいなかった。どうやら今日は日曜なので、駅に隣接する公園などに遊びに来ている親子連れなどで賑わっているようだった。風呂に入ろうかと温泉の方を覗いてみたのだが、かなり混雑しており、そこへ又何組かの人たちが風呂の用具を入れた籠などを持って続々とやって来ている。これじゃあ、ゆっくり温泉を味わうのは無理だなと判断し、入浴は止めては止めに休むことにした。相棒は、既に寝床に横たわっていた。

 まだ佐渡から戻ったという実感は湧いて来ていない。明日になればもうここは島ではないのだという感覚が戻るに違いない。もう間もなく旅は終ることになるのだが、どの道を通って帰るのか思案中である。今夜どうするかを決めるつもりでいる。佐渡ではしばらく雨が降らず、農家には心配な事態が近づいていたが、本土の方は梅雨入りしてぐずついた天気が多いようなので、明日からの山を通らざるを得ない道では、天気が気になるところである。最近は局所的な大雨という事件が多く、その局所が何処なのかが解らないので、これが困ったことである。あれこれと思いを巡らしている間に眠りがやってきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第21回>

2015-06-21 07:11:28 | くるま旅くらしの話

【今日(6/21)の予定】 

  道の駅:芸能とトキの里 → 両津港フェリー乗り場 →(佐渡汽船フェリー)→ 新潟港 → 道の駅:くがみ(泊)

 【昨日(6/20)のレポート】     

<行程>

 道の駅:芸能とトキの里 → 七浦海岸(夫婦岩) → 相川エリア散策 → 正法寺ろうそく能鑑賞 → 道の駅:芸能とトキの里(泊)

<レポート>

今日も昨日と同じ状況で朝を迎える。予定がないというのも困ったことで、先ず考えたのは、まだ七浦海岸という名所に行っていないので、そこを訪ねることにした。そして、その後は、もう一度相川を訪ねることにした。というのも、相棒が無名異焼の窯元を訪ねて急須を買いたいということなので、ついでに古い町並みも歩いてみることにした。その散策が終わったら、どこかで時間を過ごし、夕刻からは、いよいよ今回の佐渡での最後の能の鑑賞となる正法寺でのろうそく能に向かうことになる。

9時近くに道の駅を出発する。今日は土曜休日で、道路は何時もの朝の混雑は見られなかった。先ずはもう何度も往復した佐和田エリアへの道を行き、市街を抜けた後、途中から山越えの道を左折して、海岸線に沿っての道を行くことにした。七浦海岸というのがあり、ここは幾つもの巨岩・奇岩が海岸近くに立ち並んでいる場所である。夕刻ならば、夕陽を見る名所でもある。しかし、今日は少し雲が多くて、暑さのために空気が膨らんでいるので、写真に収められるほどの夕陽を見るのは難しいのではないか。間もなくその七浦海岸に近づいて、その中心とも思える夫婦岩という二つの巨岩が並ぶ場所に着いた。ここでじっくりその景観を楽しむことにして、車を置いてその巨岩の傍まで歩いて行ってみることにした。9年前は駐車場付近から写真を撮っただけだったが、今日はたっぷり時間がある。ゴツゴツと並みに浸食された岩の上を歩くのは、真に歩きにくい。夫婦岩は近づくにつれて、凄まじい様相をしていた。元々巨大な一つの塊だったものが、長い間並みに浸食されて、今は奇怪な形で二つ寄り添った姿となっているようだった。大自然の不思議を感ぜずにはいられなかった。しばらく磯で遊んだ後、車に戻る。爪に毛の生えた大きなカニなどを捉まえて、しばし童心に帰った時間だった。

  

佐渡七浦海岸、奇岩夫婦岩の風景。全国各地に夫婦岩は多いけど、佐渡のこれは強烈な印象を受ける。

その後は、相川の町の中を通り、昨日の技能伝承展示館の脇を通過して、少し上にある佐渡奉行所跡付近の駐車場に車を停める。相棒の要請が、この近くの中京町という所に無名異焼の窯元があり、そこへ行いたいということなので、先ずはそこを目指すことにする。来た道を少し戻ると版画村美術館というのがあり、その脇辺りの細道が中京町への入口のようだった。版画村美術館というのは元裁判所があった建物らしく、レンガ塀に囲まれてなかなか風情のある景色を醸していた。少し行くと時の鐘を打つ鐘楼が見えて来た。これは気に指定の史跡となっているとのこと。案内資料では、この辺りが昔の佐渡金山の町相川の中心街だったようだ。京町通りという時鐘のある場所付近から始まる坂を上る細長い道は、下京町、中京町、上京町と続いており、その一番上に拘置所があったということで、この筋を中心に昔の相川の町が形成されていたらしい。ゆっくり歩きながら道の両側に並ぶ家々の景色を楽しんだ。中京町エリアに入り、相棒の言う無名異焼の窯元を探したが見つからなかった。後で知ったのだが、sの窯元は既にかなりの昔に廃業となっていたのだった。何しろ相棒の調べた本のデータは、9年前に佐渡へ来た時かったものなのだが、発行は20数年前となっているので、今ではもう役に立たない部分が含まれていたのだった。少し行くと相棒の興味・関心その物を扱っているような裂き織りの機作業をしている人がいる店があり、こりゃあ、この先時間がかかることになるなと思った。その後相棒が予想通り、その店に入り込んで腰を据えらたらしいのを見たあと、一人付近を歩き回ることにした。

相川の中心街は、長崎や平戸などに似たとんだ坂の町だった。そして石の町でもあった。坂の地形に家を築くには石垣が不可欠であり、京町通りを外れると、細い石段の坂道が何本も造られていた。遊郭の跡などもあったが、皆石垣の上に造られた建物だったようだ。下方に海が見渡せる景観は、一時の遊びには慰めになるとしても、そこに住み働く人たちにとっては、さて、どんなものだったのだろうか。また、相川には特にお寺が多いと感じた。金山での過酷な労働がお寺を必要としたに違いないが、森の樹木に隠れて見えないその中にいくつものお寺があり、墓が並んでいる景色は、浮いた観光気分をたしなめるものがある。やや複雑な気持ちになりながら、車に戻ることにした。

  

版画村美術館付近の相川の風景。この先の方に京町通りがあり、そのあたりが町の中心街となっている。

12時近くになってようやく相棒が戻ってきた。もうかなり暑くなって来ており、気温は30℃近くになっているのではないか。版画村美術館は次に来た時に回すことにして、昼食を佐和田の海岸にある駐車場で摂ることにして出発する。海のそばならば、風があって暑さをしのぐには好都合との考えだったが、これは正解だった。食事を済ませ、しばらく午睡を貪る。

15時近く出発して、途中在庫が少なくなっているカセットガスのボンベと飲料水などを買い入れ、ろうそく能の開催される正法寺の少し先にある、順徳上皇が流された時の御所のあった黒木御所跡前の駐車場に車を入れる。少し遠いのだけど、この駐車場ならば車を安心しておくことができると思った。ろうそく能の開場は18時であり、まだまだ時間がある。とにかく暑くて困惑した。風が殆どないのだ。TVを見ようとしたら、アンテナの調子が悪くて、上手く映らない。かなり手間取ってようやく写るようになったが、TVを見る気も失せてしまった。そのようなことをしている内に17時を過ぎ暑さも収まり、開場の時間が近づいて来た。

ろうそく能は指定席となっており、場所取りは不要である。自分たちは早めに券を買っているので、番号は9と10である。どうやら最前列のようだ。慌てることはない。開場の15分前くらいに正法寺に入る。ろうそく能は正法寺の本堂で上演されるのだが、何故正法寺なのかといえば、それは申楽能の大成者である世阿弥が、佐渡に流された時に過ごした場所がこのお寺だったということからとのこと。境内には世阿弥の供養塔が幾つも建っている。立派なお寺で、本堂も大きい。既にかなりの人が集まっていていた。18時半から受け付けが開始され、いよいよ本堂の中へ。薪能とは大分雰囲気が違う。本堂なので、演場の上には、何本ものきらびやかな装飾が吊り下げられている。その向こうには祭壇があり、木魚や鐘なども置かれたままだった。

  

開演前の本堂内の様子。演場を取り巻く2方が観客席になっている。撮影禁止なので、これしか撮れない

間もなく開演となり、先ず最初にお寺の関係者の儀式があり、御詠歌が詠われ、厳かな読経の時間となった。一連の儀式が済むと、次は特別講演として、芥川賞作家で法政大学教授の藤沢周氏の「世阿弥と私」というタイトルでの話が始まった。30分ほどの短い話だったが、真に深い内容の啓示に富んだ話だった。それらをここに書くのは難しい。

講演が終わった後、いよいよ能の上演となった。今日の演目は「井筒」である。今日のシテは、観世流の能楽師の松木千俊しで、重要無形文化財に指定されている方でもある。「井筒」の話も在原業平と紀有常の娘の恋に係る話であり、杜若構成に似ているものである。「つゝ井筒 いゞつにかけし まろがたけ 生いにしけらしな 妹見ざる間に」の歌からの表題でもある。ろうそくが灯されて、いよいよ上演となった。最初はワキの登場で、これは旅の僧。そして間もなくシテの登場。その後のストーリーの展開は、他の演目と基本的には変わらない感じがした。シテの所作に注目したが、さすがに今まで見た演者とは違うなと思った。所作に無駄がなく、声もよく通って耳に心地が良かった。まだ鑑賞のレベルはレベルというほどにも至っていないけど、それなりに感ずるものはたくさんあった。本堂内は集中した緊張に溢れているように思えたが、一瞬その情景は演場で披歴されるシテの舞を五百羅漢が取り巻いて見ているような錯覚にとらわれた。我々は、特に自分などは修業もしない堕落した羅漢の一人だなと思った。

20時半過ぎ上演が終わって、そのあと寺宝であるという、「雨乞いの面」の公開があった。この面は鎌倉時代の作で、世阿弥が用いたとも聞いた。鬼の面である。面とはめんではなく「おもて」と読む。要注意である。何しろ席は舞台の一番前だったので、その面の公開は目の前だった。ラッキーな気分で真っ先にその黒っぽい怖い面を見せて頂いた。

  

公開された「雨乞いの面」。暗い道内の中なので明瞭な写真を撮るのは難しかった。

ろうそく能が終わり、本堂を出ると参道の両側には地面に置かれた小さな雪洞に火が灯っており、何とも幻想的な世界が現出していた。その中をゆっくり歩いて車に戻る。観光バスなども停まっており、今日の観能来訪者は200人を超えていたようである。

  

帰り道の参道には、両側に雪洞が灯されていて幻想的だった。ほっとした気分になった。

21時半近く、道の駅に戻り、遅い就寝となった。これで佐渡での暮らしは終了し、明日はフェリーに乗って新潟へ戻ることになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第20回>

2015-06-20 04:03:44 | くるま旅くらしの話

【今日(6/20)の予定】 

  道の駅:芸能とトキの里 → 七浦海岸 → 相川エリア散策 → 正法寺ろうそく能鑑賞 → 道の駅:芸能とトキの里(泊)

 

【昨日(6/19)のレポート】     

<行程>

 道の駅:芸能とトキの里 → 両津大川集落屋外版画美術館 → 羽吉の大桑(両津エリア)→ 佐和田のスーパー → 新穂潟上温泉 → 道の駅:芸能とトキの里

<レポート>

佐渡に上陸してから半月を経過し、目的の能楽の鑑賞も明日の正法寺でのろうそく能のみとなった。佐渡一国を味わうなどと大げさなタイトルを付けた旅だが、この一国の正体のようなものが、朧ながら見えて来ているようには思っている。それは一言でいえば、日本という国の象徴のようなものであり、「衰退」ということになるような気がしている。どんなに盛んな国でも、或いはどんなに隆盛を極めた場所でも、そのまま永遠に栄えることはない。これは歴史の証明するところであり、佐渡は金銀の採掘の衰えと共に、次第に国としての活力を衰微させて来ているという印象である。10万人を超えたという人口も、今はその半分近くに近づいており、じわじわと新しい変化への対応ニーズが強まっているようだ。為政の関係者の人たちは、それなりに頑張っているのだと思うけど、行く先は厳しいように思う。今のところそのような所感である。

今日も特に予定はないのだが、このまま何もしないでここに止まっているというのもつらいもので、やはりどこかに出かけなければという、ある種の脅迫感(?)のようなものが背中を押す。それで、今日は先ず、先日小佐渡の海岸線を小木に向かって走った際に、津神神社というのがあり、そこの大川集落の方たちが「大川屋外版画美術館」というのを展示しているのを知ったのだが、その時はざっと2~3枚の家の壁などに張られた版画を見ただけで通過してしまった。それが少し気になっていて、今日はもう一度そこを訪ねてじっくりと見させて貰おうと思った。そしてその後は、これは9年前にも訪ねている、旧両津市郊外にある「羽吉の大桑」と呼ばれる樹齢1300年といわれる桑の老木を再訪して今の状況を知りたいと思っている。この二つの目的の他に、佐和田のスーパーに依頼している所用があり、それを済ませたら、道の駅近くにある新穂潟上温泉に行って、夕方まで静養滞在することにしたい。

ということで、9時少し前に「大川屋外版画美術館」のある津神島公園に向かって出発する。20分ほどで到着して、早速集落の各戸の様々な場所に、大小思い思いに展示されている版画を、順次写真を撮りながら歩き回った。この「大川屋外版画美術館」だが、その主旨が次のように説明されていた。

「大川集落は、元歴元年(1184)頃に村づくりが行われ、それ以来幾多の変遷を経て今日に至っております。なかでも長年伝えられた伝統芸能や文化、行事、産物等が集落の人々の助け合いや支えあいにより色濃く残されています。先人が残したそれらを自分たちが再認識するために、14年間に亘り約100枚の版画を摺り、カレンダーを作成しました。そして、この度佐渡市のチャレンジ事業を始め下記の多くの方々のご協力を得て、版画作品を印刷し、外壁に掲げ、「大川屋外版画美術館」として鑑賞して頂くことにしました。<設置者:大川区・佐渡市・佐渡を版画の島にする会><協力者:社団法人佐渡版画村・大川版画クラブ・(株)ラミー・コーポレーション・(株)ミマキエンジニアリング・デコラ(株)・ヤマダ畳センター・(株)造形社>

大川集落のこの地は、古来縄文時代より人が住んでいたらしく、土器類なども発見されているとか。また、近世では北前船の風待ち港としても栄えたという歴史があり、2.5kmほどの海岸線の、山が迫る小さな谷あいの集落に、今は約50戸の人たちが暮らしている、とも書かれていた。早速その集落の中心の細道を歩いて、外壁に掲げられた版画を見て回った。主旨にあるように、版画には人々の暮らしの中の様々な情景が描かれていた。農事や磯働きの老婆の姿や逞しい漁師の姿、或いは祭りの鬼太鼓、それから馬に乗っての嫁入りの姿などなど、どの絵にもこの集落の暮らしぶりが見事に表現されていた。

 先の小木の宿根木集落と同じように小さな谷間に密集した集落は、まさに「集落」であり、そこに「個」の感覚を見出だすのは困難なのを感じた。人々の暮らしはプライバシーなどの入り込む余地のないほどに仕切りのない集団生活の感じがした。このような狭い集落でもちゃんとお寺さんがあり、そこにも何枚かの版画が掲げられていた。それらの白黒での表現の芸術作品を全てカメラに収めたのだが、さて、漏れはなかったのか。 それにしても面白い試みだなと思った。佐渡には各地に様々な古い文化と暮らしが残っており、それらを版画で記録して残そうという試みは、素晴らしいと思う。版画には素朴で真髄を捉えた表現の力があると思う。佐渡の暮らしの歴史や文化を数多くの版画で残すという試みには、大いなるエールを送りたい。この大川集落地区以外で、その後この活動がどのように展開されているのか、知るところまでは行かないけど、市の関係者は、世界遺産登録などと騒ぐ前に、地元に根を下ろすべきこのような事業をしっかりと支え、前進させて欲しいものだとも思った。

  

大川屋外版画美術館の作品、「わらぞうりを編む老婆」 一心に作業に集中する老婆の表情までが見事に表現されている。

  

大川屋外版画美術館作品「大川の結婚式(馬で嫁ぐ)」 集落の人々の喜びの顔があふれ、馬までが何やら嬉しそうだ。

その後は旧両津市の商店街を抜けて羽吉の大桑に向かう。商店街にはかなりの長さのアーケードがあり、往時の繁栄ぶりを思わせるのだが、今はその反動なのか、衰微したシャッター街と化したその姿に悲哀感のようなものを感ぜずにはいられない。車社会の時代から完全に置き去りにされた町並みが、次第に幽霊化して行くような印象を受けた。わずかに残っている商店の前には、何台もの路上駐車の車が、他の車の往来を無視して停まっており、外部から来た者には異常な風景としか思えない。島の他の地区にも、このような古い町並みが残っている箇所が幾つかあったが、両津のここが一番ひどいように感じた。

間もなく県道から横道に入って、羽吉の大桑のある場所へ。9年前は広い畑の中にあったように記憶していたが、それは完全なる誤りで、桑の樹は屋敷林らしき杉林の近くにあった。9年前に来た時は、まだ若葉の出揃う前で、老樹の痛々しさが目立つ印象だったが、今回はすっかり若葉も生長して生い茂り、遠くからではそれが桑の木一本の姿とは思えないほどの大きな緑の塊に見えた。近くに行ってみると、何本かの柱に支えられて、緑を茂らせて頑張っている老樹がそこにあった。この老樹にはさすがに実を付ける力はないらしく、山桑というからには小さな実が付いている頃なのにと思って探したのだが、見当たらなかった。それにしても1千年を超えての生命を保っている生き物には、やはり圧倒されるものがある。来て良かったと思った。その後は、近くにあるお寺の境内に苔梅という梅の老樹があるので、ついでに会いに行くことにした。こちらの方は、2代目が100年を経過した頃ということで、桑の老樹と比べるとやや貫禄不足の感は否めなかった。お寺の境内は荒れ果てていて、ここにも現状維持の難しさを見せつけられた感じがした。

  

羽吉の大桑。緑の小山の中には何本もの支柱に縋りながらも、尚逞しく生命を構える老樹の姿があった。

老樹に会ったあとは、来た道を戻り、両津の町中からR350に入り、佐和田エリアにあるスーパーを目指す。そこで所用を済ませた後は、新穂潟上温泉へ。12時半ごろの到着だった。もう動くのは止め、夕方まで静養することにした。昼食は先ほどのスーパーで手に入れた大型の黒鯛の刺身とその兜煮を炊い、て大御馳走会となった。もうあと2日ほどの滞在となるので、佐渡の魚を堪能したいと思っての大盤振る舞い(?)なのだ。食事の後は入浴のことなど忘れて、寝床の中に。相棒はその後もずっと起きていたらしい。15時半頃目を覚ますと、温泉に入りに行くところだった。風呂から戻って来るまでの間、再び寝床で転寝を続ける。戻ってきた相棒の話では、何と入浴中の湯船の窓から、飛んでゆくトキを見たとのこと。どうやらこの辺りにトキの巣があるらしく、夕方近くになって戻って来たらしかった。転寝の者には果報はないということ。

その後一人入浴に行く。浴槽から空を眺めたが、トキもカラスも見られなかった。ところが、車に戻ると、相棒はその後何度もトキが空に舞うのを見たとのことで、写真にも収めていた。しかし、夕暮れで相手は動いているので、なかなか良い写真とはなっていなかった。残念。しかし、佐渡に来て自分はまだ一度しかトキを見ていないのだが、相棒には今日は特別サービスの日だったようだ。大いに喜んで貰いましょう。

18時頃道の駅に戻る。一台の車も停まっていなかった。いつもの位置に車を止め、さて、ここにお世話になるのは何回目となるのだろう?小木に2度だから、13回の宿泊となる筈だ。黒鯛の漬けで一杯やって、今日は終わり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第19回>

2015-06-19 04:54:46 | くるま旅くらしの話

【今日(6/19)の予定】 

  道の駅:芸能とトキの里 → 羽吉の大桑(両津エリア)→ 七浦海岸方面 → 道の駅:芸能とトキの里

 

【昨日(6/18)のレポート】     

<行程>

 道の駅:芸能とトキの里 →  相川技能伝承展示館 → 佐渡金山跡 → 道の駅:芸能とトキの里(泊)

<レポート>

いい天気が続いている。朝起きて外に出ると、一晩冷やされた空気が胸に気持いい。6時半過ぎ、既に太陽は、道路の対面にある本間家能舞台の向こうの山の上に顔を出していた。今頃の日の出は4時台に入っているようだ。今日もまた暑くなるのであろう。昨夜は道の駅に泊った車は数台で、北海道などからの車が複数あったようだ。くるま旅のシーズンが本格化し出したのだなと思った。

今日の予定は今のところ決まっているのは、相棒が昨日の相川技能伝承展示館に出向いて9時から裂き織りの実習体験に取り組むということだけである。裂き織りは相棒自身も小さな簡易織り機を持っており、病を患って手術を受ける前まではそれなりに作品作りをしていたのだが、病が癒えた後も身体が思うように利かないらしく、ずっと止めていたのである。今回の織り機はより大型のもので、予てからこのような織り機で一度織ってみたいと考えていたようなので、いいチャンスなのだろうと思った。又術後の身体のハンディを乗り越えるためにも、このようなチャレンジは大切なのではないかとも思っているので、是非モノにして欲しいものだと思う。

朝食後まだ時間があるので、しばらくいつもの朝ドラを見たりして過ごす。8時少し前に出発する。泊っていた車はすべて出発済みで、今日も自分たちが最後の出発となった。今日は寄り道などをせずにひたすら相川を目指す。8時頃の時間帯は通勤などの車が多いようで、途中の道はかなり混んでいた。佐渡の道路事情はそれほど悪くはないのだが、路上駐車がかなり目立つのが気になっている。商店街でも田んぼの中を通る公道でも至る所に車が止めてあり、どういうわけなのかと疑問を抱かずにはいられない。商店街などは駐車場が殆どないため、路上駐車があるのは予想できるのだが、その他の道でも多いのは、車の危険性に関する感性が運転者として欠けているからなのであろう。交通行政上も怠慢ではないかと、関東の混雑圏に住む者としてはどうしても批判的にならざるを得ない。路上駐車が交通事故発生の要因の一つとして重い位置を占めていることを、取り締まり当局はより厳しく知らしめるべきではないかと思った。

8時半少し前に相川技能伝承展示館前の駐車場に到着する。既に観光バスが一台先着していた。裂き織りの体験実習は、相棒の話によると、中学生や小学生の団体での申し込みが多く、いつも数日先まで予約が埋まっており、相棒の場合は偶々運よく今日のこの時間帯に、一人分が空いていたということらしい。間もなく予約時間が近づいて、相棒はいそいそと館の中に入って行った。およそ2時間ぐらいかかるということらしいので、この間に近くの佐渡金山跡に行ってもいいかなと思っていたのだが、その前に未整理の記録などをチエックしておこうと取り組む。あれこれやっていたら、あっという間に1時間半が過ぎて、金山を訪ねる時刻は過ぎてしまった。相棒が戻ってからにしようと決める。

  

技能伝承展示館。展示館とあるけど、展示品類は少なく、裂き織りと無名異焼の体験実習場となっているようだ。新潟県内の子供たちの来訪が多いようだ。今日も子供たちが無名異焼きに取り組んでいた。

11時を過ぎても相棒が戻って来そうにないので、近くにある鉱山に係る工場群の跡地らしいコンクリートの廃墟の方に行ってみた。案内板によると、この地は北沢地区工作工場群と呼ばれる所だったらしい。金鉱から掘り出された鉱石の洗鉱・製錬施設の他にも器械製作や鍛造・木工工場など幾つかの工場があった所らしく、明治に入ってから昭和27年まで稼働していたとの説明があった。真ん中に細い谷川が流れていて、この川も往時は重要な役割を果たしていたのであろう。鉱山事業では重量のある鉱石を扱うので、採鉱から製品の出荷までのプロセスは山の上から海に向かって各種の施設が構築されており、①大立・高任地区は採鉱場所 → ②高任・間ノ山地区は鉱石の選別 → ③間ノ山・北沢地区は選鉱と製錬 → ④大間港は製品の積み出し という風にレイアウトが為されていたとのこと。北沢地区は一大工場群だったということである。しかし廃虚と化した今では、風化し始めたコンクリートにツタの葉などが絡みついて、何だか一時代の夢の後のような虚しく寂しい景色だった。佐渡の金山といえば、採鉱場所しか人々の目に入らないようだけど、このような施設もしっかり目にしておかないと、本当の金山の歴史は理解できないのだろうなと思った。

  

技能伝承展示館脇に広がる、北沢地区工作工場群の跡地の景観。小さな谷間を削って造られた各種工場の中で、コンクリート製のこの洗鉱施設は廃墟と化して、不気味な感じがする。

11時半頃に相棒が戻ってきたのだが、直ぐにカメラを持って戻って行った。何やら機織りなどの現場を写真に収めておきたかったらしい。12時近くに戻って来て、昼食とする。暑いのでそうめんにした。奈良の桜井市の三輪そうめんである。ここの山本というそうめんが日本一だと思っている。相棒はにゅう麺、自分は正統派の食べ方。夫婦別々は我が家の常識だが、他所では異常に違いない。そんなことを思いながらの昼食だった。相棒は久しぶりの裂き織りでやや興奮しているようだったが、裂き織りに対する製作情熱のボルテージが少し上がったようで、なによりのことだなと思った。人間、身体を動かしての創造力発揮が重要なのだ。それを失うと認知消滅の世界に誘われてしまう。これを機に意欲を燃やして欲しいなと思った。

昼食の後しばらく休憩して、ちょっと金山跡の方を覗いてから佐和田海岸にでも行って昼寝でもしようかと出発する。急な坂道を上って少し行くと道遊の割戸が見えて来た。初期の露天掘りの跡で、山に斧を打ち込んで叩き割った感じの景観は、人間の金というものに対する執念の凄まじさのようなものを感ぜずにはいられない。金などに無縁の自分には理解できない景色である。しばらく先に行って、一番上の駐車場に車を停め、割戸の方へ歩いて行ってみた。遠くからの景色とは違って、かなりの荒れ模様の岩石荒廃の場所だった。往時の人たちの激労の跡地は、その疲れが崩れ果てて何とも虚しく凄惨な感じがした。

  

佐渡の金山跡を代表する道遊の割戸の景観。この裏側の方は岩石の崩壊がかなり進んでいるようだった。

その後、下の方の駐車場に車を移動し、歩いて幾つかの間歩(まぶ)の入口を覗いた。ここでは坑道のことを間歩とはあまり呼んでいないようである。石見銀山を訪ねた時は坑道などという呼び名は一つもなく、初めは間歩の意味が解らなかったのだが、解って見ると間歩の方が何だか時代の繁栄した実感ある呼び名の様に思える。この金山も昔は間歩が当たり前の呼び名だったに違いない。遠足らしき子どもたちの一団が、坑道の中に入って行ったが、坑道ではなく間歩なのだと覚えて欲しいものだと思った。自分は坑道の中に入る勇気はなく、間歩の前に立つだけである。そこに立つと外の暑さとは無関係の冷えた空気が噴き出ていた。冷気というよりも霊気のようなものを感じた。数百年の人間の執念が怨念化して間歩の奥に籠りこびりついて、背筋を冷すほどの冷気となって噴き出て来ているのかとも思った。もうこれで金鉱跡の探訪は十分だと思った。

  

無名異の間歩。名前から察するにこの坑の辺りから酸化鉄を多く含んだ岩石が産出されたのであろうか。不気味な感じのする間歩である。

鉱山跡の散策に結構時間がかかって、その後は佐和田海岸に行くのは止め、少々の買い物などを済ませた後、道の駅に戻って休むことにした。何となく旅疲れが出て来ているように感じている。こんな時は無理をせず、寝るのが一番。早めの夕食を済ませて、19時前には寝床の人となる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第18回>

2015-06-18 06:01:46 | くるま旅くらしの話

【今日(6/18)の予定】 

  道の駅:芸能とトキの里 → 佐和田海岸 → 相川技能伝承展示館 → 道の駅:芸能とトキの里(泊)

 

【昨日(6/17)のレポート】     

<行程>

 道の駅:芸能とトキの里 → 長安寺 → トキの森公園 → 佐和田地区(佐和田海岸) → 相川技能伝承展示館 → 道の駅:芸能とトキの里(泊)

<レポート>

 今日から20日の夕刻の正法寺のろうそく能までの時間は、フリーの未定の時間である。今日一つ決まっているのは、相棒が一昨日の羽茂祭りでの地元の羽茂高校芸能部の皆さんの佐渡おけさ等の踊りを見て感動し、地元の商工観光協会の方に相談して、何とかその高校生の踊りを収録したDVD等の記録を頂戴できないものかとお願いしたのが叶って、わざわざテープの記録をDVDに移して作成したものを受け取ることになったのである。その記録を佐和田海岸で待ち合わせて受け取ることになっているのが午後14時ごろなので、それまではフリーなのである。

 今日もいい天気で暑くなりそうだ。全国各地で風水害が起こっているというニュースをTVで見ているけど、幸いなことに佐渡は今のところ安泰である。しかし、雨が少ないので、田んぼの多いこの地域では、農家の皆さんは雨降りを大いに期待されているのではないか。しかし、溢れるほどの大雨は勘弁して欲しいというのが願いではあろう。この頃の異常気象には全くどの業界も油断できない。とにかく急ぐ必要はないので、10時ごろまで道の駅でのんびり過ごした後、買い物などをしながら佐和田の方へ向かうことにして出発する。

 道の駅を出て直ぐの所に長安寺への案内標識があるのだが、先日自分が朝の散歩でその近くまで行って引き返しており、後での相棒の調べでは長安寺には古い仁王像があり、それが普通と違った怖い顔をしているとのこと。どんなものなのか、ちょっと寄って見ようということになり、左折して長安寺方面へ。自分的には先日歩いた道を今日は車で向かうこととなった。先日引き返した直ぐ先に長安寺への案内表示板があった。しかし、道が細くて離合困難である。入口付近の空き地に車を停めて歩くことにした。

  

長安寺の山門。佐渡にはお寺が多い。古刹、名刹も多いようだが、保存や手入れが難しく、後継者の問題も抱えていて、この先が心配なお寺も多いようだ。このお寺もその一つのようだった。

久知川という小さな川の両側が舗装道路となっていて、そこを100mほど歩くとお寺への入口があった。かなり荒れており、幾つかの石塔などが散在していた。無住なのかなと入って行ったら、おばあさんが一人で草取りをされていた。挨拶をすると、本堂の障子戸を開けてどうぞ見て下さいと勧められた。後でこの方がこの寺のご住職と知った。何年か前にご主人を亡くされ、今は自分が住職をしていると話されたのだった。そのあと、本堂の中をいろいろご丁寧にご案内頂き恐縮した。このお寺は830年代に創建されたとのこと。1200年の歴史を刻んでいるとも話されていた。本堂には立派な彫刻が随所にみられ、住職がご主人も気づかなかったという古い時代の木彫の狛犬が奥の部屋の中に飾られていた。鑑定団に依頼すれば国宝級のお宝が眠っているのかも知れない。15分ほどいろいろな貴重品を拝見して大変勉強になった。お礼を申し上げて寺を後にする。おばあさんの住職さんお一人では、このお寺はこの先どうなるのかと、人口減に悩む佐渡の未来を不安に思った。

  

「長安の森にわかれを惜しむ」という題の住職さんの詩。最愛の夫に先立たれた後の覚悟の心境のようなものが伝わって来て心を打たれた。

 車に戻る途中に大きなケヤキの大木があり、佐渡の市の木のアテビを思い出した。名前は知ってもその実物を見たことがないのである。その時、近くの家の方が外に出て来られ、それをチャンスと見た相棒が、声をかけてアテビのことを訊いたところ、その方は家の方に案内してくれて、玄関の中の柱を示して、この柱がアテビの木なのだと説明して下さった。少し黄色味を帯びた材質で、その方の話では、青森ヒバに似ているとのこと。どうやらアテビは建築材としても優れたものらしい。更に話を伺うと、昭和40年代の頃この辺りでも建築ブームが起こり、その際に自分の山に生え育っていたアテビの木をたくさん切り倒してしまい、その後に植林をしなかったものだから、今ではかなり減ってしまって、最近になってようやく行政の方も植林に力を入れるようになってきたとのことだった。一緒に顔を出された奥さんから冷たいお茶を頂戴したりして、突然の来訪者なのに丁寧にご説明を頂いて恐縮した。これでアテビのことは解決した感じだ。あとは本物の木を探すだけである。

 車を発車して、佐和田の方に向かう。先ほどの道を戻りいつもの道を走っていると、相棒がもう一度トキの森公園によって欲しいという。9年前に来た時にトキの森公園の売店で佐渡の裂き織りの作品を買ったとかの記憶があり、もう一度寄って確認したいとのこと。逆らう理由も必要もない。右折して田んぼの中の道を少し走るとその公園の駐車場に着いた。相棒はいそいそと売店に向かって飛び出して行った。自分の方は待つだけである。ふと車の前の林を見ていたら、何と青森ヒバによく似た木があるではないか!杉の木に混ざって何本か見られるのは、アテビに違いない。そう確信した。早速写真に収めた。要するに今まで気づかなかっただけである。名前を知り、本物を確認すると、確実に新しい知識が増えたことを実感するのは嬉しい。もう、アテビは大丈夫だと思った。次の課題は、青森ヒバとアテビはどう違うのかということか。これはそう思っているだけでいいというレベルの課題である。相棒はなかなか戻って来なかったが、トキの保護されている施設を見る気にはなれず、そのまま相棒の帰還を待った。

  

アテビの木。トキの森公園の脇の林の中に、杉の木に交じって堂々と枝を打ち広げていた。

 ようやく相棒が戻って来て、今度こそは佐和田に向かう。途中スーパーでお茶や食材などを買う。佐和田の海岸に着いたのは丁度正午ごろだった。目の前は海水浴場で、さすがにまだ泳いでいる人はいない。広い駐車場には何台かの車が止まって、昼どきの時間を過ごしていた。我々も野菜炒めに焼きそばを作って昼食とする。海からの風は心地よく暑さをコントロールしてくれていた。相棒はコックリに止まらずテーブルに顔を伏せて眠ってしまった。14時が近づいてきた頃、商工観光協会の方が、DVDを持って会いに来て下さった。SUN号は目立つので、このような場合好都合である。少し立ち話をして、御用がお有りとのことで直ぐにお別れした。念願のDVDを手に入れて相棒は嬉しげな満足顔をしていた。

 その後は相川エリアの下見をしようと出発する。20分ほどで相川郷土館という所に到着。相棒がその隣にある相川技能伝承展示館という所に行きたいと話していたので、何かなと思ったら、そこは裂き織りの体験ができる設備と、それから佐渡の焼き物として有名な無名異焼の体験ができる設備が備わっている展示館だった。どうやらその裂き織りの体験をしたい様子である。自分の方は特にそれに関心もなくしばらく待っていると、どうやら明日の予約がとれそうらしく、予約してもいいかというので、これに反対する理由はない。早速申し込んで、明日も又ここに来ることが確定した。

 道の駅に戻ろうかとした時、相棒が指さすので見たら、なんと後のBSアンテナが途中から折れ曲がってしまっていた。先ほど佐和田海岸でTVの設定をした時に伸ばしたアンテナを、降ろすのを忘れてそのまま走ってしまい、どこかで引っ掛けて壊してしまったようだ。これはまずいなと思った。このままではTVが見られなくなるので、何とかしなくてはならない。ということで、その後は佐和田地区にあるホームセンターによりポールを買い求めて道の駅に戻り、どうにかTVを見ることはできるようになったという次第。ドジが増えるのは老人の疲れが溜まり、集中力が切れ始めたという証か。反省しながら夜を迎える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第17回>

2015-06-17 04:33:45 | くるま旅くらしの話

【今日(6/17)の予定】 

  道の駅:芸能とトキの里 → 佐和田地区方面 → 相川地区方 → その先未定

 

【昨日(6/16)のレポート】     

<行程>

 小木港駐車場 → 度津神社参拝(羽茂地区) → 蓮華峰寺参詣 → 小木港 → 妙宣寺再訪 →新穂潟上温泉 → 道の駅:芸能とトキの里(泊)

<レポート>

 昨日は終日祭り見物、その前日も夕刻からの文弥人形と鷺流狂言の鑑賞、更にその前日も牛尾神社の神事などと付き合って、連続3日の様々な種類のイベント見物は、結構疲れることだった。小木港の朝は、もう付近の早朝散歩にトライする元気は残っておらず、何時もなら4時には目覚めるのに、ブログを書き始めたのは5時半過ぎで、それを終えるまでにかなり時間を要してしまった。今日までに芸能に関する鑑賞はほぼ終了して、あとは20日の正法寺のろうそく能を残すだけとなった。今日からそれまでの間は、特に予定も作ってはおらず、まだ訪れていない金山跡のある相川地区などを中心に、佐渡の名所などを気の向くままに訪ねることにしている。

 さて、今日はどうするか。考えた結果、昨日祭りがあった羽茂地区に佐渡一宮の度津(わたつ)神社があるので、先ずはそこを訪ねることにした。この神社はまだ一度も訪ねたことはなかった。由緒ある神社なので是非参拝したいと思った。10時少し過ぎ出発する。昨日の薪能のあった草苅神社を脇に見て少し行くと正面に立派な赤い鳥居が見えて来て、その奥に度津神社があった。早速参拝する。今日も天気が良くて、気温は上がり始めて蒸し暑い。神社の境内の中は樹木に囲まれていて、実に爽やかである。駐車場が樹木と無縁の場所なので、午睡を貪るというわけにもゆかない。

  

佐渡一宮の度津(わたつ)神社の鳥居。朱色が木立の森に映えて一段と鮮やかに見えた。

参拝を済ました後は、傍にある市立の植物園というのを見学することにした。佐渡に来てから佐渡市の市の木に指定されている「アテビ」というのがあるのを知り、それがどんな木なのかを知りたかったのだが、この植物園の木に付けられている名札には、アテビは見当たらず、皆既知の木ばかりだった。奥の方にも植物園は広がっているようなので、そちらに行けばあったのかも知れないけど、何しろ暑いのでその気にはなれなかった。市の木というのであれば、目立つ場所に植えてくれればいいのになあと思った。樹木の下は野草園となっていたが、自分的にはそのほとんどは既知のものであり、新しい発見は殆どなかった。最近は殆ど手入れが為されていないらしく、案内板も樹木や野草たちも風雪に為されるがままで、荒れ放題だった。このような状態の場合は、弱い野草たちは消え去ってゆく運命にある。名札があってもそこには実在しないものが結構多くみられた。この種の施設は、何処においても造った当初はちやほやされるけど、少し時間が経つとメンテナンスを疎かにして、気づけばダメになっているというケースが多い。佐渡のこの植物園もその運命に載りかかっている感じがした。是非そのようにならないことを祈りたい。

 1時間ほど滞在して、その後は近くにある名刹の蓮華峰寺に参詣することにして出発。このお寺は9年前にも参詣しており、その歴史とスケールの大きさに感動したのを覚えている。今回も必ず参詣しようと思っていた。15分ほどで到着する。

 蓮華峰寺は、山号を小比叡山という。もともとこの辺りの小高い丘は、そのように呼ばれていたのかも知れない。境内には村社の小比叡神社も同居している。このお寺は真言宗であり、開祖は空海との伝承があるとか。3千坪もある境内にはたくさんのアジサイに囲まれて金堂、骨堂、弘法堂の重文始め、山門や八角堂など特徴のある古い建築物が幾つも建っている。

   

蓮華峰寺の国重文指定金堂の偉容。アジサイ寺を代表する壮大な建築物である。

 その中をゆっくり歩いて回った。どの建物も建築や仏像に興味を持つ人たちには、超魅力的な存在だろうなと思った。自分的には、骨堂という茅葺の小さな建物に興味を覚えた。何故なのかはわからない。新潟県では最古というこの建物は、きりっとして建っていて、小さいながらも只ものではないという存在感がある。アジサイはまだ2分咲きくらいのレベルで、梅雨の最盛期を迎える頃は、まさにここはアジサイ寺に相応しい世界になるのだろうなと思った。

  

小さいけど堂々たる姿を今に見せている骨堂の建物。9年前と少しも変わらぬ佇まいだった。

 相棒とは別行動だったが、後で聞くと石段を下る途中で、スタッフに取り巻かれて上って来る女性人気歌手に出遭い、階段を塞いでやってきた人たちに、どうして道を開けて頂けないのかという主旨のことばを掛けたら、その歌手の方が反応してくれて、彼女のその後の対応がとてもよかったらしく、一緒に写真を撮ったなどと嬉しげに話していた。自分はあまりそのような世界には関心がなく、先ほど階段下ですれ違った何かのモデル商売の人がスタッフを引き連れて写真でも撮りに来ているのかと思っただけだった。因みにその女性歌手は伍代夏子という方だったとのこと。ま、いろいろ歩き回っていると、そのような有名人との出会いもあるあるのだろうと思った。

 蓮華峰寺参詣の後は、昼食を小木のフェリー乗り場内にあるレストランで食べることにして向かう。佐渡ではブリカツ丼というのが有名らしい。相棒はそれをオーダーしていたが、自分はトンカツ定食にした。ぶりは何といってもカマを焼いた奴が一番だと思い込んでいる。ま、食べ物の嗜好のことは、それぞれの自由な世界である。

 昼食を済ませた後は、暑いし早く休みたいので、潟上温泉に行って、入浴するなり午睡をとるなりすることにして出発する。その途中に、先日訪ねた妙宣寺を再訪し、文弥人形の「檀風」の場であったこのお寺の地と、そこにあった日野資朝の墓を訪ね、更に一子阿新丸が隠れたという松の木跡も確認することにした。小木から真野までは30分以上時間がかかった。一昨日来訪した場所をもう一度訪ねるというのは、佐渡ならではのくるま旅の面白さかなと思いながらの運転だった。妙宣寺に着いて、早速日野資朝の墓に参詣する。相棒は一昨日はこの墓の存在に気づいていなかったとのこと。先日撮り忘れた日野資朝の歌の碑を写すことにした。

  

日野資朝の歌碑「秋たけし檀(まゆみ)の梢吹く風に澤田の里は紅葉しにけり」とある。文弥人形の演題の「檀風」はこの歌から作られているのが判る。

 そういえば先日うっかり見過ごしていたのだが、日野卿がこの島に流されて来てここに幽閉された時は、この地はお寺などではなく、阿新丸が仇と狙う本間何某かの居城である雑太(さわだ)城があった場所なのである。そう思うと、あの「檀風」という芝居の情景がここに重なって、ぐっと想像力が膨らんだ。いい経験だった。その後隠れ松の跡地に行き、枯れた松の残っているのを見たのだが、本物何かどうかは知る由もない。相棒の要請で、この仇打ちに関係の深い大膳神社にももう一度寄った後、新穂潟上温泉へ。

 一眠りした後温泉へ。風呂から上がって体重を計ったら、2kg近く減っていたので驚いた。今までは減るのを喜んでいたけど、60kgを切るというレベルは要注意だと思った。今日は久しぶりにトンカツを食べたのに、何が不足だったのか。少し反省した。枇杷茶を飲むのが少なかったのも一因なのかもしれない。こんな時には早く寝るのが一番である。

 その後道の駅に行き、夕食を済ませ、寝るはずだったのだが、男子サッカーW杯アジア地区第2次予選の対シンガポール戦があり、これを最後まで見てしまった。選手は一所懸命やっているのだろうけど、何だか空回りばかりしていて、引き分けになるというさっぱり面白味のないゲームだった。こんなことなら、TVなど見ずにさっさと寝ればよかったと寝床にもぐりこむ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第16回>

2015-06-16 07:16:39 | くるま旅くらしの話

【今日(6/16)の予定】 

  小木港駐車場 → 真野方面へ(未定)→ 道の駅:芸能とトキの里(泊)

 

【昨日(6/15)のレポート】     

<行程>

道の駅:芸能とトキの里 → 羽茂本郷:草刈神社駐車場 →(羽茂まつり見物→夕刻草刈神社での薪能鑑賞)→ 小木港駐車場(泊)

<レポート>

今日は一日草刈神社の薪能用の駐車場に滞在して、羽茂まつりの中に暮らすつもりでいる。早朝の5時少し前に起床して、水の補給などを行った後、5時半少し前に羽茂本郷の草刈神社に向けて出発する。この地では大きなお祭りの一つらしく、毎年6月15日の定例開催となっているらしい。かなりの混雑となるのではないかと考え、早朝の内にベストの駐車ポジションを確保しておくことにした次第。6時から交通規制が始まるということになっているが、既にその情報は調べてあり、コースも駐車場の場所も承知している。6時10分に駐車場に到着し、最初の目的を完了する。まだ車は1台も来ていないのかなと思ったら神社の関係者らしい人の車が先着していた。見物の人の車は皆無で、もちろん我々のSUN号だけだった。お湯を沸かし朝食を摂る。このようなおかしな行動は、我々のくるま旅では時々行われることであり、くるま旅ならではできることではある。

食事の後、しばらく休憩していたら、駐車場脇の草刈神社に向かう細い砂利道を、何やら黒い布切れを一緒に纏った一列が10人ほどの被り物がやってきた。何だろうと思ったら、どうやらそれは獅子の様で、草刈神社にお祓いに参上するらしい。相棒が聞いてきた話である。その獅子は胴体が奇妙に膨らんでいて、まるで先日小木の宿根木の磯で見つけた海牛が丘に上がったような気がした。

その後はやって来る車も増え出して、祭りのスタートらしいふれ太鼓の行列が動き出したようである。9時半過ぎに町の歩行者天国になっている商店街の方に祭りの様子を見に行く。最初に見たのは先ほどの獅子の戸別訪問(?)の様子だった。10人20本の足に先頭に大きな獅子頭があり、最後尾には牛のような尻尾が作られていた。その巨大な獅子が商店街の一戸ごとに挨拶をして回るのだが、何しろ図体がでかいものだから、頭と尻尾までがうまく連動しなくて、苦労されているようだった。それが又滑稽さがあって面白いのであろう。

    

何と呼ぶ獅子舞なのかは分からないが、とにかく普通にはない図体の巨大な獅子が、律義に商店街の戸別訪問(?)をするのは大変だ。

    

獅子の胴体の中で蒸しあがったお父さんたちは、一休みして子供神輿をやり過ごしていた。

しばらくすると向こうから神輿の一団が、「わっしょい、わっしょい」とやってきた。子供神輿である。神輿は3基あって、小学生の高学年、次が低学年、そしてもう一つは小さな幼稚園児らしき子どもたちのものだった。付添いの親も大勢いて、微笑ましい情景が展開していた。

このような調子で続々と様々な出し物が繰り出されて来ていた。商工会のブースで、初めて今回の祭りのプログラムを頂戴した。郷土芸能として有名な「つぶろさし」や「チントンチン」とかいうのは何時からかと見たら、午後に予定されているようなので、一先ず車に戻って休むことにした。相棒はその後も引き続いて祭りの中に残って、昼ごはんの少し前に戻ってきた。

暑い。晴なのだが、霞がかかったような天気で蒸し暑く、気温は30℃近くになっているに違いない。窓を開けると風が少し通って助かるのだが、日射しは強くて、これじゃあ人ごみの中を歩き回るのは最小限にしなくてはと思った。熱中症などにならぬよう冷えた枇杷茶をたっぷり飲む。昼食の後は、祭り見物は少し遅くなってからにすることにして、しばらく午睡をとることにした。何といっても今日の目的は薪能であり、それはこの祭りの締めのイベントでもあるようである。19時を過ぎてからなので、それまでは祭りの中の「つぶろさし」の競演だけを見ることにしようと思った。そのイベントは2回あって、2回目が16時近くに行われるので、それを見に行くことにして、しばらくTVなどを見たりして過ごす。

15時半ごろにもう一度祭りのイベントが行われる商工観光会館前の十字路広場に向かう。祭りの勢いもやや弱まったようで、人々の集まりもこの一カ所が中心で、それ以外の商店街などはひっそりとしていた。15時少し前から「つぶろさし」という滑稽な舞いの競演が始まった。この舞は、このエリアでは3エリア残っているということで、「村山鬼舞いつぶろさし」「飯岡妹背神楽つぶろさし」「寺田太神楽つぶろさし」の三種のつぶろさしが披歴された。いずれも似たような舞いで、その内容は子孫繁栄を祈願した真に風俗的、直截的な舞いで、つぶろという、穀類や野菜類の種を保存していたという細長い筒状の入れ物を男性のシンボルに見立て、いわゆるヒョットコ面の男と、オカメ面の女が戯れ舞うというもので、相当にリアルなので、若い女性などには刺激が強過ぎるのではないかと思ったりした。これほどあからさまに性の奔放さを表現している民俗舞踊らしきものを見たことがない。これは佐渡の武士社会でも公家社会でもなく、真に佐渡らしき土着の百姓文化だなと思った。いやあ、驚いた。

   

郷土芸能「つぶろさし」の一場面。いやはや何とも恐れ入った景観である。

それで車に引き返そうと思ったら、そのあと地元の羽茂高校の生徒による芸能発表があるというので、相棒の希望で残ってカメラに動画で残すことにした。これは結果的に良かった。というのも、佐渡おけさなどの民謡や踊りの本物を見せて頂いた気分になったからである。全国大会出場を目指すという高校生たちの男女の踊りは真剣で迫力があり、且つ優雅さに溢れていて、つぶろさしとは違った清涼感があった。ほんの一部だけの披歴だったけど、高校生たちに感謝と、これからの活躍への大きなエールを送りたい。

   

地元の羽茂高校芸能部による宵の舞の披歴。宵の舞は相川地区に残る伝統の舞らしい。男女そろって均整のとれた踊りだった。

17時近く車に戻り、薪能の開催を待つ。18時から仕舞が開始されるので、間もなく草刈神社の能舞台前に持参した椅子に腰を下ろす。仕舞は薪能の本番前に、謡の一部を踊りで表現するもので、高校生などが披歴することが多いようである。今夜も地元の高校生と、それから特別に鼓童のメンバーによる披歴もあった。太鼓を叩くための修練で鍛えられている鼓童の若者たちの謡や舞の姿は、さすがに動きに無駄が少なく、いいものだなと思った。しかし、観客の中に絶えることなくしゃべり続けている一組のばあさんがおり、舞台など全く気に掛けないそのババアぶりに、これが田舎の普通の能文化なのかなと思ったりした。

   

仕舞が終わって、火入れを待つ草刈神社能楽堂。迫る夕闇の中に浮かび上がる殿堂は、幻想的で優雅である。

神輿の帰還を待って火入れが行われるとのことなのだが、予定時間を過ぎても神輿が戻らず、10分ほど遅れての開演となった。今日の演目は「西王母」というもので、これは中国の話をもとに作られた筋書きである。そのあらすじは次のとおりである。(三省堂「能楽ハンドブックより)

里の女が帝王に、三千年に一度花咲き実のなる桃が今咲いたが、これは君の御威徳よるものとしてささげたいと奏聞した。帝王はさてそれは聞き及んでいる天上の西王母の園の桃であろうと喜び、天上の仙女の姿を目の当たりに見るのは不思議なことだというと、里の女は真はわれこそ西王母の化身であると明かし、桃の実を結ばせようといって天に上がった。  帝王が管弦を奏して天女の天降るのを待っていると、やがて侍女を従えた西王母は光り輝く妙なる姿で現れ、帝王に桃の実を捧げ、舞いを舞い、天上に上る。

この上演が始まったのだが、最初の準備の中で舞台に帝王が座る座所を作る置物の制作に手間取り、全体の流れを少し怪しげにするなど、素人、庶民の姿が垣間見られて却って親しみを感じる舞台だった。能のストーリーの展開には、4回目となると多少は慣れて来て、前段から後段への移り変わりも少しずつ理解、予想できるようになってきた。しかし、スートーリーの中に空想力を膨らませてのめり込むにはまだまだ無理がある。鼓や笛太鼓のタイミングなどはまだまだ判っていない。それでもこの芸術表現の日本的不思議さというところは、なんとなく見当がついてきた気がした。

   

暗闇の中で演じられている西王母の一場面。そこには切り取られた空間が鎮座していた。

20時半近く全てが終了する。200名ほどいた観客は、道端に数十個の雪洞の灯る砂利道を噛みしめる音を立てながら、駐車場の方へ去って行った。われわれもその後ろの方から歩いて車に戻り、今日の宿の小木港の駐車場に向かう。9時前には着いて、今日の長い賑やかな一日が終わった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする