旅から戻った後の10月以降は絶不調の体調となって、今日まで来ている。10月は風邪が治らず、11月になって少し良くなったかと思ったら、今度は眩みがひどくなり出して、歩いている途中に物につかまらないと危ないというレベルに至ったりした。それが小康状態となった先日には、予約をしていた前立腺がんの生体検査で一日入院を体験し、現在はようやくその検査後の血尿が収まりつつある。この期間、あわよくば関西方面の旅をと考えていたのだったが、旅どころではないというありさまだ。何事にも「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」という箴言(しんげん)は当てはまるようで、自分の人生も老期を迎えてどうやら禍の部分に足を突っ込んだような気がする。これは宿命なのだから、ジタバタしたところでどうしようもない。
ところで、寝ながらの読書なのだが、この間に北海道の旅で得た資料の何冊かを読んだりしているのだが、(肝心の資料の整理の方はほとんど進んでいない)それら本などをざっと読んだ状況ながら強く思ったことがある。北海道の開拓の原点となっているのはつきつめれば、二つになるのではないかということ。政・官・民を含めて様々な人物が登場し、様ざまな形で開拓への貢献をされているのは重々承知のことだけど、究極的に現実の開拓は二つの象徴的な人たちによって成り立っていると思った。その一つは拝み小屋に住んで現実の開拓に取り組んだ最下層の人たちであり、もう一つは北海道開発のための絶対的な基盤となる道路をつくった囚人たちである。
拝み小屋というのは、開拓の最前線で入植者が大地を切り開く際に住いとした小屋であり、それはあたかも縄文時代の竪穴式住居を想わせる、それ以下のレベルの掘立柱もない、地べたに草葺の三角屋根の住まいなのである。その形は合掌造りの上部を地べたに据えた形に似ていたので、このような名で呼ばれたのであろう。借り住まいの小屋ではあったのだと思うけど、開拓の最前線での力仕事に従事する人たちは、そのような小屋に寝泊まりしながら、日中虻や蚊の大群に襲われながら、或いは熊の出没に対峙しながら、原生林や原野の中で鋸や鉈を振い、大地を切り開くための鋤鍬を振い続けたのである。拝み小屋はその象徴なのだ。多分に、この小屋に住んで開墾に携わった大半の人たちは、最下級の武士や農家の小作人たちであり、やがては何時かそれらの土地が自分のものとなることを願っての必死の取り組みだったに違いない。往時の内地における土地制度は飽和状態にあり、小作人の人たちが自らの境遇から抜け出すためには、新天地での開拓は辛くても夢の実現には可能性の高い選択だったのだと思う。
北海道の開拓の功績者には、名目上は幕藩時代の殿様や或いは明治の高官だった人の名が挙がっているけど、それらの殆どは不在地主としての存在であり、自ら汗を流して開拓に携わることなど無かったのである。大地が拓かれて行ったのは、まさにこの拝み小屋に住む人たちの汗に血の混ざる働きがあってのことなのだ。そこには無数の挫折があり、それらの積み上げの成果に少しずつ日が当たる様になって行ったに違いない。この大地に鍬を振りおろす作業に従事した人たちは、それが官であれ民であれ、本物の開拓者だったといえよう。自分はそう思う。真の開拓者は、それは拝み小屋に象徴される人たちである。
次にもう一つの大きく重要な役割を担わされ、生命を削って北海道開拓の礎を築いたのは囚人たちの力であった。明治14年に北海道に初めての樺戸集治監が開設されたが、その後空知、釧路にも設置されて、内地から続々と囚人が護送され送り込まれたのである。それらの囚人は、当初は農地の開拓や耕作などに携わっていたのだが、間もなく道路の敷設や炭山での石炭の採掘作業、或いは硫黄の採掘作業等に従事させられることになり、その後は、特に道内の道路敷設作業に多くの囚人パワーが向けられることになった。これは国策であり、安価な労働力を用いて開拓の最大のインフラとなる道路の建設に囚人を活用することにしたのである。
自分は今回初めて月形町にある樺戸博物館を訪れたのだが、それまで月形町の町名の由来を知らず、この町に樺戸集治監なるものが存在したことすらも全く知らなかった。樺戸博物館を訪ねて、初めて月形町の命名が樺戸集治監の初代典獄の月形潔という人物から来ていることを知り、更に博物館の建物そのものがその昔の集治監の本館であり、博物館となる前は町役場庁舎であったことを知り、驚きを止められなかった。直ぐに樺戸集治監の歴史を記した「樺戸監獄」(熊谷正吉著)を買って読み、更に吉村昭著の「赤い人」を先日読み終えたのだが、その凄まじい内容を知るにつれて、北海道の開拓が生易しいものでなかったということを、別の切り口からも思い知らされたのである。
集治監という言葉は現在存在しない。同じ役割に近いものとして、刑務所と拘置所がある。罪を犯した者が刑務に服する場所が刑務所なのだが、往時の集治監はその刑務作業が所内の所定作業などではなく、集治監が管理する土地の森林伐採と開墾、そしてその土地での自給自足のための田畑の耕作作業等、極めて体力を消耗する重労働だった。囚人たちは手鎖に繫がれ、足枷をはめられながら厳しい監視のもとにその労働を強いられたのだった。
囚人には強盗殺人などの凶悪犯も多かったが、往時の国内事情からは、いわゆる国事犯といわれる国の政策に反逆する行動を犯して捉えられた者も多く含まれており、今日のような犯罪者の内容とはかなり違った状況にあったということができよう。世の中には溢れるほどのそのような者が居り、これを収容するだけでも多大の費用を要し、又その維持のためのコストも膨大なものとなった。このような国情の中で、為政者は北海道に着目し、ここに集治監をつくり、囚人の労働力を開拓のインフラである道路の敷設、或いは富国強兵策推進のためのエネルギーとしての石炭の採掘等に振り向けることを考えたのだった。この施策は囚人に対する懲罰という目的だけではなく、安価な労働力を以て開拓の基盤づくりに寄与させるという、一石何鳥もの成果が期待できるものだったのである。
当時の考え方としては、囚人を人間として取り扱う更生などという発想には極めて乏しく、只管(ひたすら)に懲罰を加えて罪の深さを思い知らせるというのが凶悪犯罪者に対する当然の扱いだったのであるから、道路敷設も石炭の採掘作業も劣悪な条件の中で、只の使い捨ての労働力としか考えられなかったのだと思う。道路工事で疲弊して死に至った者は、そのまま道脇の原野に打ち捨てられ、他の者には鞭を打ち振るって作業を続けさせるというような、強硬な現場状況だったとのことである。この辺のことは「赤い人」などの叙述が詳しい。人間の非情・冷酷ぶりの極限を見たいのなら、この北海道開拓における囚人の労働とそれを看視し鞭打つ役割を担った看守との関係を見れば、時間はかからないのではないか。
結果的に700キロ余りの囚人道路がつくられ、これをベースに北海道の開拓は確実に始動したのである。勿論、道路の敷設・建設には囚人だけではない数多くの現場作業者の汗と涙が関わっているに違いないのだが、その最大の尽力者はやはり囚人たちなのだと思う。「赤い人」を読み終えて、しばらく複雑な気持ちとなった。この囚人たちの尽力と功績を、現代に生きる自分達はどう受け止めればいいのか。
開拓に係わる様々なエピソードは無数にあるのだと思うが、まだ旅の中で得た資料の整理は始まったばかりなのである。知ることの楽しみよりも、この頃は次第に苦しみのようなものが増え出している。大きく北海道開拓の原点が何なのかを想う時に、今気づいている最も象徴的なものは、「拝み小屋」と「囚人道路」、この二つである。ブログをずっと休んでいるので、取り敢えず現状報告のつもりでこの稿を書いている。それにしても、この体調の絶不調は何とかしなければならない。