山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

京都他短か旅:まえおき&第1日・第2日

2016-11-29 06:12:56 | くるま旅くらしの話

 <まえおき>

今月の18日から25日まで、京都他の短い旅をしてきました。報告するほどの内容も無いのですが、新しい試みもあり、取り敢えず概要だけでもお知らせしておくことにします。

今回は思いつきの旅というほどのもので、その目的が3つあって、かなりいい加減なものなのです。

目的のその1は、SUN号のサブバッテリーがたった2年で二つともダメになり、やむなく交換したのですが、それがちゃんと働くのかを見極めたいということ。

その2は、ついでに京都の裏ばかり見ていないで、そろそろ表側の探訪も開始したいと考え、その方法としてパーク&ライドで京都探訪にチャレンジしてみょうと思ったこと。

その3は、更についでのことなのですが、関西エリアのミカンや柿の里を訪ねて新鮮な果物を手に入れて来ようと考えた次第なのです。

ということで、1週間ほどの短い旅をしてきました。このところ何だか天の機嫌が悪くて、気持よく晴れた日が殆ど無く、曇天に雨が加わるという、カメラ向きではない日々の連続でした。足かけ8日間の行程の半分は移動の時間であり、関西といえども旅らしき旅をするにはやはり1ヶ月くらいの時間は必要だなと、改めて思いました。では、以下にその行程概要・所感などをいつものスタイルで紹介させて頂きます。(馬骨拝)

 

第1日<11月18日:金> 天気: 晴れ

 <行程>

自宅 → 谷和原IC →(常磐道・首都高・東名道)→ 海老名SA →(東名道・新東名道)→ 清水PA →(新東名道)→ 浜松SA(泊) 走行:286km

 <レポート>

守谷市の市長と市議補欠選の不在投票を済ませてからの出発となった。天気は朝から快晴で車の中は暑さを感ずるほどだった。

最初から高速道の運転となる。しかし、常磐道から首都高の三郷エリアに入ると渋滞が始まり、箱崎付近までノロノロ運転が続いた。その後渋滞は解消したが、渋谷付近で再びノロノロ運転となり、首都高を脱出するのはやはり難儀だなと思った。

東名に入ってからは流れは順調で、集中工事も今年は既に完了しているとかで、何の問題も無い。最初のSAの海老名で昼食休憩をする。生姜焼き定食を食べる。そのあとも流れは順調で、御殿場へ。ここから新東名道に入り、清水PAにてトイレ休憩。このPAはSA並みのレベルの規模なのに驚かされる。

そのあとはしばらく快調に走って、浜松SAに到着。今日の宿はここと決める。浜松餃子を買って来て夕食はその他に豆腐だけ。酒類は販売されておらず、手に入らなくて残念。大相撲を見た後は早々に寝床の中に。これで今日は終わり。

 

第2日<11月19日:土> 天気:雨のち曇り

 <行程>

浜松SA →(新東名道)→ 岡崎IC →(新東名道・伊勢湾岸道) → 刈谷HO(ハイウエイオアシス) →(伊勢湾岸道・新名神道)→ 東員IC →(R365・R1)→ 道の駅:関宿[三重県亀山市]→(R1)→ 道の駅:あいの土山[滋賀県甲賀市] →(R1・k)→ 道の駅:アグリの郷りっとう[滋賀県栗東市] →(K他・琵琶湖大橋経由)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ[滋賀県大津市] →(K・R161) → 比良とぴあ♨ [滋賀県大津市]→(R161他)→ 道の駅:びわ湖大橋米プラザ(泊) 走行265km

 <レポート>

昨夜半から降り出した雨は次第に強さを増し、明け方はかなりの大雨の様相を来していた。それでも8時近くなると次第に小降りとなり、高速走行にも安堵感が出て来た。しかし、空模様は依然として厳しかった。8時15分にSAを出発する。今朝のSAは満車に近い状態で、新東名道のSAは、どこも泊りや立ち寄りの車で一杯だった。少し走って、岡崎SAに寄って見たのだが、ここも超満員に近くて、トイレまでの距離もかなりあり、休憩は止めにして直ぐに出発する。

そのあとは順調な流れで、雨も止み空もかなり明るくなってきた。大して風も吹いていないようなので、この分なら伊勢湾道も大丈夫だろうと思った。新東名道は伊勢湾岸道へは東名道を回らなくても直接伊勢湾岸道に行けるようになっており、大分時間的にも楽になっていた。 

伊勢湾岸道に入ってすぐに刈谷HOに寄る。ここで伊勢のういろうと名古屋のえびせんべいを買い入れる。この頃から再び空の様子が悪化し出し、雨が降り出した。出発後は湾岸道を只管四日市方面へ。途中、名古屋港には車を満載した巨大なコンテナ船が何隻も停泊しているのが見えた。名古屋の工業力・経済力の底力のようなものを感じさせる景観である。まるで夕方のような暗さの道をしばらく走って、間もなく東名阪道へのJCTにかかる。ここで新名神道の看板がある道があり、もうつながったのかと勘違いして、東名阪道へ行くのをためらいつつ、そのままその新しい道に入ってしまった。これは大失敗で、少し走ると道は工事中であり、四日市郊外の名も知らぬ場所が終点となってしまっていた。仕方がないのでR356という表示のある道を四日市市街の方に向かって走り、R1を目指すことにした。

 R356は、初めのころは田舎道のようで、給油スタンドも無く流れも順調だったのだが、市街が近づくにつれて渋滞が始まり、それがかなり長い時間続いた。少なくなってきた油を途中のスタンドに寄り給油する。高速道のスタンドよりはリッター当り20円以上安い価格で入れることが出来たのは、まさに怪我の功名か。やがてようやくR1に出て、ここから流れは順調となった。鈴鹿、亀山に入り、間もなく道の駅:関宿に着く。ここで小休止。昼食をと考えたが、環境が良くない(トイレの臭いが漂ってくる)ので取り止め、先にある道の駅:あいの土山に向かう。ところが行って見ると此処は駐車場が超満車で留める場所が皆無の状態。諦めて道の駅:アグリの郷りっとうまで行って昼食にすることにした。

13時半近くに道の駅:アグリの郷りっとうに到着する。新幹線が直ぐ近くを走る道の駅である。ここもかなりの混雑ぶりだったが、どうにか駐車を確保することが出来た。昼食はうどん。昨日作っておいた栃尾のあぶらあげの煮たのを入れて、きつねうどんとしたのだが、やはりこのあぶらあげは不向きのようで、邦子どのは食べるのを断念したようだった。自分の方はそのような食のムダは一切しないで完食する。ここには近江の名物のフナの熟れずしが売っているのだが、今日は止めにした。一休みの後、出発して琵琶湖大橋経由で道の駅:びわ湖大橋米プラザに向かう。

間もなく到着する。ここが今回の京都探訪の拠点となる場所だ。どこへ車を置いておけばよいのか等についての下見を行う。第2駐車場もありどちらが良いのか迷う。長時間駐車お断りの看板もあり、明日は日曜休日であることを考えると、やはり第2駐車場へ留めるべきなのか。明日には決断しなければならない。下見のついでに売店で近江の地酒を一本買い入れる。高島産の地酒で、萩の露という銘柄だった。今夜から楽しむことにした。

そのあとは、温泉に入ることにして比良トピアに向かう。この温泉施設は、以前もお世話になっており、既知の場所でもある。距離は少しあるのだが、湖西バイパスを通れば時間的には15分ほどで行ける場所だ。15時半過ぎに到着して温泉を楽しむ。ここは70歳以上の人には料金が割引となっており、我々高齢者には真にありがたい。そのことに感謝しながら入浴を終え、来た道を戻って、今夜の泊り予定の道の駅:びわ湖大橋米プラザに到着する。駐車場はまだかなりの混雑ぶりだった。何時ものように早い夕食を済ませ、早い就寝となる。

 

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越後・信濃路の旅:第8日(最終回)

2016-11-17 03:54:55 | くるま旅くらしの話

第8日<10月22日:土> 天気: 晴れ後曇り

 <行程>

道の駅:道の駅:あがつま峡→(R145他)→道の駅:中山盆地[群馬県吾妻郡高山村]→(R145・R291)→沼田城址散策[沼田市西倉内町]→(R120)→(金精峠経由)→(R120・R119・R293)→(R293・K)→道の駅:はが[栃木県芳賀郡芳賀町](泊) 走行199km

 <レポート>

 吾妻峡の情景

 新しい道の駅には新しい匂いがする。道の駅:あがつま峡にはそのような雰囲気が漂っていた。昨日15時過ぎに此処に着いてから、ゆっくりと温泉に浸った。この道の駅には日帰り温泉施設があって、天狗の湯との名前が付けられていた。道の駅の物産販売所の名前も天狗となっており、この地は何か天狗というのに所縁があるのかもしれないなと思った。詳しい詮索は止める。

     

新しい道の駅:あがつま峡の景観。芝生の広場の向こうに見える建物の右手は天狗の湯。左は物産販売所てんぐ。山間地の中にこれだけの平地を確保するのはなかなか難しいことだったと思う。

 朝起きて、しばらく道の駅の周辺を散策する。この道の駅は直ぐ下を流れる吾妻川の上にあって、かなりの広さがある。駐車場の他にドッグランのスペースを含めた広場があって、子どもたちも遊べるような遊具も幾つか並んでいた。孫たちを連れてきたらさぞ喜ぶだろうなと思った。この辺りは吾妻峡の入口に当るのであろうか、直ぐの上方には、八ッ場ダムが完成した暁には湖底に沈む(?)ことになるという川原湯温泉が近い。一体どのような景色になるのだろうかと思ったりした。

 沼田城址を訪ねる

 先日その場所を探しあぐねて探訪を断念した沼田城跡をもう一度訪ねることにした。ここまで来れば沼田は近いのだ。中之条町から国道145号線を辿れば、沼田に出ることが出来るのである。この国道は日本ロマンチック街道などとも呼ばれているのだけど、ドイツのロマンチック街道というのになぞらえて名付けられたようだが、本場のそれを通ったことがないので、何がロマンチックなのかはさっぱり解らない。

 旅をしていて、訪ね先が見つからないというのは、何といっても屈辱感が否めない。くるま旅の場合は、どうしても駐車場に拘らざるを得ないので、この屈辱を味わわざるを得ないこととなる。沼田城跡は今は公園となっているというので、先日は軽い気持ちで行ったのだが、見事空振りとなってしまった。今回は先日辿ったのとは違う別の道を行こうと思っている

 沼田の街が近づいて、しばらく先日と同じ道を行ったのだが、途中から誘惑に負けずに、頑固に思った道を行くことに決めて進む。何やら曲がりの多い道をしばらく辿っていたら、沼田公園の入口近くにある駐車場に着くことが出来た。どうってことないほどあっけない感じの到着だった。先日のあのギブアップは何だったのかと呆れ返る思いがした。

 駐車場に車を入れて、今は公園となっている城跡を散策する。真田昌幸やその一族があれほどこだわった沼田城というのはどんなものだったのか、そのような想いを膨らませながらの散策だった。しかし、もう幾つも真田家に係わりのある城を見て来たせいなのか、感動は薄かった。というのも、名胡桃城から始まって、松代城、上田城、小諸城と見て来たのだが、松代城を除けば皆同じような立地形状の場所に建てられているからである。この沼田城も下方に利根川の流れる急崖の上に造られており、戦国時代の戦のニーズに巧みに応える工夫がされた城郭となっていた。現在の城跡の様子は、うっかりすると急崖の上にあることなど忘れてしまうほどの、健康的な公園広場となっていおり、戦の厳しさを偲ぶものなど皆無という感じだった。しばらく、地元の人たちがジョギングしたり、散策している中を歩いた。沼田城の印象は思っていたよりも小さなものだった。

     

沼田城址公園の本丸辺りの景観。ここには天守閣も櫓も何も残っていない。明治の初めの頃の対応が不足していたのかもしれない。残念なことである。

 

 日光の秋探訪は先送り

沼田城跡の探訪を終えた後は、予定では関越道に入って帰途につくことにしていたのだが、一日帰宅を延ばして、ここから山越えで日光に出て、栃木県の北を通る国道294号線経由で帰ることにした。沼田市のメイン市街地は崖の上の丘にある。日光へはその丘の上を走る国道120号線を行くことになる。あの有名な尾瀬の入口に向かう道でもある。その入り口のある片品村の方へ向かってしばらく走ると、吹き割の滝というのがある。東洋のナイヤガラなどと書かれた看板があるけど、ナイヤガラには遠く及ばす、東洋にはもっとスケールの大きな滝も幾つもあるだろうと思いながら傍を通り過ぎた。吹割の滝はもう何度か訪れている。

 道は尾瀬の入口を過ぎて、次第に高度を増す。栃木県との県境の金精峠を越えれば、あとは下りとなり奥日光へと向かうことになるのだが、金精峠の少し手前には丸沼高原というのがあり、ここは標高が1500mほどはあるのだろうか、かなり紅葉も進んで目立つようになっていた。道の脇にスキー場があり、多くの車や観光バスが駐車場を埋めていた。リフトもフル回転しているようで、スキー場には未だ雪は積もってはいなかったが、草の上をスキーを履いて滑っている人たちが何人か見られた。ここでしばらく昼食休憩とする。

     

丸沼高原スキー場の景観。この辺りは高地とあってか、四辺の山も紅葉が始まっていた。

     

紅葉の中に身を沈めて暫しの休息をむさぼる我が愛車SUN号。早やオッドメーターは21万キロを突破している。

 実はこの道を通ることにしたのは、日光の紅葉を見て帰りたいと思ったからなのである。特に期待しているのは竜頭の滝なのだが、さてどんなものだろう。この辺りとさほど変わらないように思うのだが、山奥の気候は判らない。昼食の後、金精峠に向かう。峠の下にあるトンネルを潜ると、今までの山道の景観が一変して、奥日光の山々を俯瞰しながら下る道となった。幾重にも曲がりの続く道は、運転にもかなり気を使う。対向車が少ないのが救いでもある。しばらく坂を下り続けて、中禅寺湖が近くなりだした。間もなく竜頭の滝の上部にある駐車場に来たのだが、超満車の状態で全く止める余地なし。下の方へ行けば何とか車を置けそうな場所があるのではないかと思いながら下ったのだが、目ぼしい場所は全て車で埋め尽くされていて、全くのお手上げ状態だった。もうやむを得ない、竜頭の滝は断念する。それに思ったほど紅葉は進んでおらず、10日ほど早い感じもした。

 そのあとは観光地日光の大渋滞に巻き込まれる。中禅寺湖畔の道路はどこまで行ってもノロノロの大渋滞で、せっかち性分の自分には大迷惑だった。それにしても日光というのは凄い集客力を持っている大自然なのだなと思った。東照宮などの観光地は下方の街の方にあるのだが、中禅寺湖から上は大自然しかない。偶々今日は土曜休日とあって、家族連れなどのマイカーが多かったのかもしれない。紅葉を見るのなら、自分たちのような気まぐれ気分での来訪は許される筈も無く、予め計算した予定を立てて来なければ無理なのだというのを思い知らされたのだった。

 この日は栃木県の芳賀町まで足を伸ばし、そこの道の駅で今回の旅の最後の夜を迎える。

註:旅は翌日を持って終了しましたが、今回の旅のブログへの投稿は今回をもって終わることにします。馬骨拝)

 

 

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越後・信濃路の旅:第7日

2016-11-16 10:51:05 | くるま旅くらしの話

第7日<10月21日:金> 天気: 晴れ

 <行程>

道の駅:みまき →(K)→ 布引観音参詣[小諸市大久保] →(K・R141)→小諸宿・小諸城址懐古園散策[小諸市丁] →(R141・R18・R146・R145)→ 道の駅:八ッ場ふるさと館[群馬県吾妻郡長野原町] →(R145)→ 道の駅:あがつま峡[群馬県吾妻郡東吾妻町] (泊)  走行68km

 <レポート>

 布引観音を訪ねる

旅も終りに近づいている。今日は先ず、直ぐ近くにある布引観音(布引山釈尊寺)を訪ねるつもりでいる。この道の駅には何回か泊っているのだけど、近くに布引観音があるのは知っていても未だ行ったことがなかった。良く牛にひかれて善光寺参りということばを聞くけど、それが何に由来しているのかをきちんと知っている人は少ないように思う。布引観音は、その善光寺参りに深く係わるお寺なのである。

 その牛にひかれて善光寺参りのいわれというのは、次のようなことらしい。参道の入り口に小諸市の掲げる詳しい説明板があった。

「昔、信心のうすい老婆が住んでおりました。この老婆が千曲川で布を晒しておりますと、どこからともなく一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。老婆は驚いて、野を越え、山越え、牛の後を追いかけましたが、ふと気がついてみますと、善光寺の境内まで来ておりました。老婆は、やっとのことで牛に追いついたのかと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで姿を消してしまったのではありませんか。驚きと悲しみに疲れ果てた老婆は、あっけにとられてその場にたたずんでしまいました。日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明がさし、その霊光の尊さに思わずひざまずいて、菩提心を起こし、一夜を金堂にこもって罪悪を詫び家に帰ってまいりました。ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹きつけられているではありませんか。老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが、断崖絶壁のことで取るすべはありません。一心不乱に念じているうち、布と共に石と化してしまったということです。この布引山の断崖には、今も白く布の形をした岩肌が眺められます。布引観世音菩薩が、牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許(もと)に導いて教化をしたのだそうです。この話は、信濃四大伝説の一つとして今に語り伝えられています。 小諸市」

 かなり長い説明内容だったが、一応全文を掲載することにした。良く読み考えると、何だか変だなと思う箇所が幾つかあるけど、まあ、それは措くこととしたい。

道の駅を出て10分足らずで布引観音下の駐車場に着いた。早い時間帯の所為か、参拝者は他にいないようだった。車を置いて早速参道へ。かなり急な坂道である。直ぐ上にお寺さんがあるのかと思って、歩き出したのだが、これがとんもない長い急崖を登る参道だったのである。

歩き始めると間もなく巨岩が現れ、それは馬岩と名付けられていた。しかしその形が馬なのかどうかは判らない。群盲象を撫でると同じですぐ傍からでは、ものの正体は判らないのである。とにかく巨岩の連続だった。また巨岩の間には、善光寺穴などというのがあり、この穴は善光寺とつながっているのだという。そんなことがあるわけがない、と考えるのは信心のない証拠なのだろうけど、科学的にはあり得ないことも、信心の世界では不可能はないのだろうなと思ったりした。

 なかなかお寺の建物が見えて来ない。急な坂道が続いているので、姿の見えなくなっている家内は大丈夫かと少し心配になった。しばらく待っていると、カメラを動かしているのが見えて来たので、安堵した。この人はカメラを抱えている時は、傍に被写体がある限りは別人パワーを発揮するのである。岩など撮ってもしょうがないのではと思ったりしたが、意外性のある写真も彼女の得意分野なので、何か気付いているのかもしれない。

更にに登って行くと少し古びた山門が現れ、その右手彼方の崖の上に朱色に輝くお堂が見えて来た。とんでもない崖の上に建てられており、その危険度は清水寺以上に思えた。少し上り歩いて、ようやくお寺の本堂に達した。布引山釈尊寺である。布引山という掲額が目立った。本堂自体はそれほど古さの感ぜられない建物だったが、その奥にある朱色の建物とその手前にある小さな社には古さを感じさせるものがあった。

     

布引山釈迦寺本堂の奥の方にある観音堂の景観。岸壁に張り付いたように建てられているその様子は独特の雰囲気がある。

何といってもここでは朱色の建物が印象深い。岩をくりぬいた参道を潜ってその朱色の建物に参詣する。これは宮殿(観音堂)というのが呼び名であり、国の重要文化財に指定されているとのこと。この宮殿の脇辺りに老婆の求めた布が引っ掛かっていたのであろうか。如何に信心が薄かったとはいえ、仏さまのいじわるも度を越しているのではないかなどと思ったりした。

宮殿に行く手前に古い小さな社が建っており、これは白山社というもので、室町時代の建立で今日に残るものだという。小さいので見落としがちだが、良く見れば、素朴だけどなかなかの貫禄ある建物だった。本物というのは、存外このような存在を言うのかもしれない。白山信仰のシンボルが何故ここにあるのかは解らない。

参詣を終えた後は、ゆっくりと参道を下って車に戻る。一つ気づいたことがある。それは、この布引山釈迦寺の上方に、御牧ケ原というのがあり、平安時代に朝廷直轄の官牧だったとのこと。朝廷に献上する馬を飼っていたという。そういえば昨日泊った道の駅は「みまき」という名前だった。みまきとは即ち御牧であり、現在の東御市は東部町と北御牧村が合併してできた市であり、それらはこの御牧ケ原に由来した地名なのだと思う。今その御牧ケ原はどうなっているのかは知らない。姿は変わり、名称だけが残っているのであろう。一つ勉強になった。

 小諸宿と小諸城址

 小諸市を訪ねるのは初めてのことである。勿論ここも名前は昔から知っており、何度も街中を通る道を通過しているのだけど、車を止めて町中を散策したことは一度も無かったのである。今回は街道を行くのも一つの目的だったので、北国街道の起点である小諸宿を少し歩いてみようと思った。小諸宿は中山道の追分から別れた北国街道第一番目の宿場町である。今でも多少は往時の姿を残しているのではないかと思った。

ということで、小諸の散策は先ずはJR小諸駅に行き、往古の宿場町の今の様子を訪ねて見ることにした。小諸駅はR小海線の終点だが、そこから先は上田の方に向かって、しなの鉄道が路線を経営している。この関係はよく解らない。

小諸駅の北口前から、上りの坂道通りを少し歩くと荒町という交差点に当り、その信号を左右に行く道が昔の北国街道だったということである。それでしばらく右手の方へ道なりに歩いてみることにした。所々に往時の様子を解説した説明板が設置されていた。しかし、現実の建造物からはその昔の宿場町の面影を偲ぶのは困難だった。車社会となっている今の世では往時の賑わいは消え去り、いわゆるシャッター通りと化しつつある危うさを覚えるのみだった。通りの中に創業300年を超える味噌など醸造業を営む店があり、そこで作られている味噌を購入した。信州味噌は有名だが、どこが本場なのかはよく知らない。あとで小諸宿の味を味わいたいと思った。

     

北国街道小諸宿の現在の様子。往時の面影を残すものはほとんど残っていないように思えた。

 ところで、小諸で思い出すのは、何といっても島崎藤村の、あの千曲川旅情の歌であろう。
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ 
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし 
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る ‥‥‥」

若かりし頃に口ずさんだ詩であり、あの頃は小諸の古城とはどんな所なのだろうかと、想い描いたのを思い出す。藤村がどうして小諸なのかを良く知らなかったのだが、此処へ来て懐古園の脇の駐車場に車を置いて散策を開始して間もなく、公園の傍に「小諸義塾記念館」というのがあるのを知り、若き日の藤村がここへ教師として招かれていたのを知った。建物の脇に「惜別の歌」の石碑が建っていた。我が愛唱歌の一つである。

 懐古園というのは小諸城の跡地に造られた公園である。下方に千曲川を望む急崖があり、上田城に似たかなりスケールの大きな城だったようだ。徳川秀忠が大軍を引き連れて関ヶ原の戦いに参戦するために、上田城に拠る真田勢と戦った際の本隊が滞在したのがこの城だったとのこと。しかし、上田城を攻めた徳川勢は一敗地にまみれ、そのために関ヶ原の戦に遅れた秀忠は、家康の叱りを蒙ることとなった話は有名である。ま、この城が直接の戦場とはならなかったのは幸いだった。

 城に関わる残存の建物としては、門の遺構が二つ残っているだけだった。一つは懐古園の入口近くにある三の門と少し離れた場所にある大手門である。双方共に建物の方はそれほど古いようには思えず、見る目を変えて思いを膨らませないと往時はなかなか描きにくいなと思った。

     

小諸城三の門の景観。これは城址の入口にあって、やや目立つ存在だった。

     

小諸城大手門。これは懐古園からは少し離れた一般民家のの中に残っていた。移築されたのかどうかは分からない。

 懐古園の中に入る前に昼食に蕎麦でも食べようかと店に入って、オーダーをして出来上がるのを待っている時に事件が発生。家内が体調が悪いので食事は止めて休みたいと言い出す。どうやら布引山に続いて宿場町を歩き回ったので、体力の上限まで行ってしまったらしいのである。このようなことは間々起こることであり、致し方なし。蕎麦はキャンセルして、一人車に戻って休んで貰うことにした。最初から別行動であれば彼女もコントロールが出来るのであろうけど、今日の場合は成り行きから行ってやむを得ない。一人で美味い信州の蕎麦を食して、そのあとは懐古園に入るの止めて、一人城跡周辺をぶらぶらと歩き回った。懐古園は今度再訪した時にじっくりと散策するしようと決めた。小諸は半分も見聞していない場所となった。

八ッ場ダム周辺の中秋の表情

 小諸を出た後は、予定では佐久の方を経由して下仁田に抜けて明日には帰宅することにしているのだが、もう一日帰宅予定を延ばして,軽井沢から長野原町の方へ抜けて、新しく出来た道の駅:あがつま峡に泊り、翌日もう一度沼田城跡探訪にチャレンジしてから帰ろうということにした。家内の体調も一眠りした後では、かなり回復したようである。

 国道18号線から軽井沢で国道146号線に入り、山中の道を長野原町の方へ進む。軽井沢は長野県なのか群馬県なのか迷うことがある。いわゆる軽井沢町は長野県なのだが、北軽井沢といわれるエリアは長野原町に属し、これは群馬県なのである。そのようなことはどうでもいいことなのだが、なぜか気になるのは、子どもの頃から地図に関心があるからなのかもしれない。軽井沢の別荘地帯の脇の坂を上って行くと、次第に道脇の樹木たちの表情が変わり出した。途中で見事に高揚している山モミジやカエデの木を見つけて、しばらく車を止めて秋を味わう。尚走り続けてやがて長い下り坂となる。この辺りは高原野菜の産地でもあり、道脇に大根やキャベツなどの店があるのだが、今年は心なしかそれらの店が殆ど見られなかった。やはり天候異変の影響で、野菜類はこの地でも不作だったのであろうか。少しさびしい思いがした。

 間もなく八ッ場ダム建設予定地近くに至る。八ッ場ダムの建設については、いろいろな経緯があって、一時は中止となったかと思っていたのだが、どうやら工事を継続することになったようで、今も何やら作業が行われているようなのだが、その現場がどこにあるのかは知らないのである。それほどスケールの大きいダムなのかもしれない。数年前にこの近くに道の駅:八ッ場ふるさと館というのが造られており、何回か寄ったことがあるのだが、今回もそこを覗いて見ることにした。

 ところで「八ッ場」と書いて「やんば」と読むのは珍しいし、難しい。何故このような読み方、書き方をするのかは解らないけど、地名には今の感覚では不可解な場所に時々お目にかかる。北海道の場合は、殆どがアイヌの人たちが呼んでいた地名に当て字をしているので、これはもういい加減としか言いようがないけど、内地においては八ッ場は珍しい方ではないか。古来その土地では八ッ場に係わる何かがあったに違いないのだが、解らない。ダムの開発が決まって以来おなじみの呼称となっているので、今頃はあまり迷うことも無く読めるようになった。地名とはそのようなものなのかもしれない。

 ところで、この辺りは名勝吾妻渓谷の真ん中辺りに位置する。吾妻川が山々を縫って深い谷をつくって流れているのだが、昔は下から見上げた景色が、今は反対に上から見下ろすという形になっている。道の駅はそのような場所に造られており、景色を俯瞰する場所としても人気があるようだ。今はまだ紅葉が本格化していないので、所々の紅葉の樹木が目立つだけなのだが、もう少し過ぎるとこの辺りは全山紅葉が見事な場所だ。前回訪れた時は丁度その全山紅葉がまっ盛りだった。山全体が燃える色に染まった姿は、この年の一年の最後の締めくくりのような感じがして、何とも言えない感動が伝わってくる。一本の樹木の紅葉も美しいけど、山全体が紅葉している姿は美しさを通り越した大自然のパワーをも感じさせてくれる様な気がするのである。

 それにしても、八ッ場ダム工事を通じて、この辺りの道路環境は一変している。人間の力というのもバカにならないものだなと改めて思った。全山紅葉を味わうためには、もう一度年内にこの地を訪れる必要があるなと思った。

 この後、すぐ近くの、これはずっと下に降りた吾妻川のほとりに新しく造られた道の駅:あがつま峡に向かうことにした。

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越後・信濃路の旅:第6日

2016-11-15 06:57:25 | くるま旅くらしの話

第6日<10月20日:木> 天気: 晴れ

 <行程>

  道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里 →(K57)→ 安曇野IC →(長野道・信越道)→ 須坂長野東IC →(R403他)→ 小布施市街散策 →(K)→ 道の駅:オアシスおぶせ[長野県上高井郡小布施町] →(K・R403・R406・R18)→ 松代城跡探訪[長野市松代町] →(K・R18他)→ 上田城址探訪[上田市二の丸] →(R18・R141他 → 道の駅:みまき[東御市御牧](泊) 走行145km

 <レポート>

 活性化の道の駅(=アルプス安曇野ほりがねの里)

今朝の安曇野の朝は、アルプスの山から下りてくるのか、霧が盆地の全体を覆って、神秘的な雰囲気だった。このような日は、この地ならば、やがて晴れて来るのだろうなと思った。その予想は違わず、8時頃になると次第に霧も雲も少なくなり始めた。

 信州を旅する時には、この道の駅に必ずと言ってよいほど立ち寄ったり泊ったりしている。特に秋の季節は泊ることが多い。その理由は、泊って見れば多くの方が気づくはずなのだが、新鮮な野菜を初め、この地区で作られている様々な農産物を手に入れることができるのである。特に野菜や果物類は新鮮で安価であり、安曇野の豊かさを満喫できるのだ。

 全国には現在1,079箇所もの道の駅が点在しているけど、自分たちはその9割くらいは、立ち寄ったり泊ったり、何らかの形でお世話になっている。くるま旅の人の中には、全国の道の駅巡りをされている人もおられると聞く。自分たちの場合は、他に目的があるので、この後も100%道の駅を訪れるということはないのだと思う。

 さて、その道の駅なのだが、各地を回って様々なその実態に触れていると、どうしても比べてしまうことになって、その良し悪しを感じてしまうのだ。冴えない雰囲気の道の駅もあれば、活気あふれる道の駅もある。道の駅といえば、国交省の旗振りで①車利用者の休憩機能②地域の情報発信機能③地域の連携機能、という3つの働きを目的として市町村が設置するものなのだが、その経営は多くは第3セクターのような機関が担っているようである。

 旅をしていると、これらの道の駅には大きな格差があることに気がつく。来訪者も多く、開店前の売店に列を為す道の駅もあれば、来客の殆どがトイレ休憩に立ち寄るだけというような道の駅もある。それらは地域の立地・環境条件に大きく左右されるのは当然なのだが、経営の在り方が道の駅の活性化に大きく係わることも大きいように思う。前掲の①②の機能の発揮は、基本的にどの道の駅でも同じようなものだが、③については差が大きい様に思う。活性化しているなと感ずる道の駅の多くは、道の駅を設置した自治体が、地域振興のために地元の各種産業の生産物販売の仕組みを巧みに構築しているようだ。生産者の意欲とつながらない物品を販売するだけでは、道の駅に多くの人が集まり賑わう筈がない。特に農産品に関しては、野菜や魚類等の生鮮食材は、生産から納入、販売に至る仕組みが細部を含めてしっかり出来ていないと、腰砕けになってしまう。要するに知恵の働いていない道の駅は、ただの休憩機能と情報発信機能の発揮だけに留まり、地元への利益還元は少ないものとなってしまうというわけである。

 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里は、活性化されている道の駅の一つだと思う。ここは農産物とその加工品が中心なのだが、生産者の意欲が様々な商品に表われているのを感ずるのである。良い商品をリーズナブルな価格で提供するという考え方が、自分たちのような消費購買者にも伝わってくるのである。いつ来ても8時半の販売所の開店時刻前に、10名以上を超える買い手が並んでいる。中に入れば人々は先を争って新鮮な野菜を買い求め、更に気に行った加工品を買い求めている。

     

道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里の朝の風景。8時半の開店前の時刻にはいつも大勢の人たちの行列ができている。

 今回は、自分たちはセロリやレタスなどが欲しいと探したのだが、どの棚にも見ることができず、天候不順の影響の甚大さを感じたのだった。今年の青物野菜の、その被害は相当に深刻だなと思った。

我が守谷市にも道の駅が出来たらいいなと願っている。守谷市は大都市東京をすぐ傍に控えた交通アクセス抜群の優位性を持っており、又何でもできるという農業生産地も豊富に存在している。全国に類のない道の駅の誕生が可能なのだと密かに思っているのだけど、行政に働きかけても未だその動きは皆無である。

 小布施の町並みを歩く 

長野県と青森県はリンゴの2大産地である。長野県にはリンゴ街道というのがあって、これは長野市東部を通る国道18号線がそれに該当するらしいけど、小布施はその入口辺りに位置する町である。小布施といえば、一般的には栗おこわに代表される、栗を使った食品や菓子類のある町として、又葛飾北斎美術館に代表される古い財産の残る町としても人気を博している町である。

 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里を出た後、小布施に向かったのは、今回の旅の大きな目的の一つである、孫たちにリンゴを食べさせたいというジジババの願いを実現させるためなのだ。安曇野の堀金からは少し遠いので、先ずは高速道を利用することにした。今回の旅では2回目であり、長野道の安曇野ICから入り、上信越道の須坂長野東ICで下り、R403を少し走ると小布施の町中に到着した。1時間と少しで着いたのだが、リンゴの前に町中を散策しようと駐車場を探したのだが、平日なのに観光客が多いようで、いつもの場所は満車に近くて、なかなか適当な場所が見つからず留るまでに時間がかかった。

 小布施の町は重伝建指定エリアがあり、僅かながら昔が残っている。何年か前に「セーラーが町にやって来た」という本が評判になり、それを読んだことがある。元々何の変哲もない少し古さの残るこの町にやって来たアメリカからの留学生だったセーラーという若い女性が、地元の古い酒蔵を改築し、新しい風をこの町に吹き込んだという話だった。とてもアイデアに富んだ活発な女性のようだった。長野オリンピックなどのチャンスもあって、彼女を中心にこの町は古さを宝として大きく生まれ変わったのだと聞いている。地元の人間には気づかないものを鋭くとらえ、それをアイデアに替えて、行動に移すというパワーは日本人にはなかなかできないことなのかもしれない。現在セーラーさんがどうなっているのかは知る由もないけど、彼女の残したものは生き続けているよう思う。でも、以前(10年ほど前)と比べて、心なしか小布施の町は特定の場所を除いては少し活気が少なくなっているような感じがした。

 このような観光地を訪れた時は、いつも家内とは別行動となる。お互いに何を見たいかは別々のものなので、一緒の行動は却って不満が溜まるのである。家内は今日の最大の目的が栗おこわを手に入れることなので、その前に主な観光スポットを訪ねていたようだった。自分は、観光地の外枠を歩くのが好きで、少し離れたお寺や農園などを散策しながら、これらのエリアがメインの場所とどのように関わっているのかなどを想ったりした。1時間ほどぶらぶらした後車に戻る。

 そのあとは家内が手に入れた栗おこわで昼食とすることにして、道の駅のある高速道小布施SAの方へ移動する。このSAは道の駅と一緒のハイウエイオアシスとなっており、ここへ行けばリンゴを手に入れることが出来るのである。長野のリンゴ街道は、小布施ではなくもっと北のR18にあり、そこへ行けば道の両側にリンゴ農家の即売場がずらりと並んでいるのだが、行くまでには時間がかかるし、又リンゴ農家が全ての品種を扱っているわけではないので、多くが集まるこのような場所の方が都合が良いのである。

昼食の後、リンゴ売り場を覗く。大小様々な品種のリンゴが数多く並んでいた。この頃はリンゴの品種もかなり増えて、いつの間にか有名品種が消え去ったりしている。何を選ぶか迷いながらも、孫たちが喜びそうなものを何種類か買い入れた。家内はジャム用にと昔からの品種の紅玉を買入れていた。酸味の多い紅玉は、自分の昔からの愛好品であり、あとで1個食べさせて貰おうと思った。リンゴやミカンなどの果糖類は、糖尿病に悪い影響を及ぼすので、この頃は敬遠せざるを得なくなっている。このような機会がなければ普段なかなかリンゴを食べる機会のない老人なのだ。恐らく今年は、その1個が全てとなるのかもしれない。リンゴは食べるよりも香りの方がいいな、などと思いながら、小布施の道の駅を後にした。

 松代城跡を訪ねる

小布施を出た後は、比較的近くにある真田一族で徳川側について生き残った真田信之の2番目の居城で、その後江戸時代を通して真田家の住まいとなった松代城跡を訪ねる。40分ほどで到着。この城は元々は武田信玄と上杉謙信が川中島で数度にわたって闘った時代に、武田側が拠点とした海津城のあった所で、それを藩祖となった信之が松代城として整備したものである。昔から真田一族については興味関心があり、小学生の頃に真田十勇士の話の本を読んだり、そのあとでは池波正太郎先生の大著「真田太平記」を読んだりしている。今年は大河ドラマとして「真田丸」が放映中だが、それに刺激されての今回の城跡巡りとなった。

 信州松代城といえば、恩田木工の「日暮硯」を思い出す。恩田木工は、真田藩の家老で、真田家6代藩主の幸弘に仕えた。真田藩は財政に困窮しており、家臣の知行や俸禄の半知借り上げなどの厳しい状況が続いていた。その中で賄賂が横行するなど、藩内の風紀も乱れて、武士や農民などの反発もあって、一揆などの危うい事態が頻発していた。これを公平を元とした倹約令等により、安定した治世に導いたといわれるのが恩田木工という人物で、その考えや振る舞いを後世の者が記したのが、「日暮硯」である。この本は現代にも通ずるものがあり、自分も仕事の中で活用させて頂いた思い出がある。現地では、この本を「ひぐらしすずり」ではなく「ひもうかがみ」と読んでいると、長野出身の知人から聞いたのを思い出す。

 そのようなこともあって、松代城がどのようなものだったのかを見るのを楽しみにしていた。行ってみた松代城は、他の城とはかなり変わっていた。この辺りの地形が昔はどうだったのかを推測するのは難しいけど、言えるのは千曲川という河川を巧みに利用した、攻めの拠点ではなかったか。防塁などには大して力を入れているとは思えず、恐らく世が落ち着いてから現在の城郭の基盤が固まったのではないかと思った。武田信玄いう人は野心家でもあったから、戦で城に閉じこもるような事態を重視するよりも、攻めることを重視したのではないかと思うのである。

     

信州松代城祉の景観。平地の四辺に堀を掘った中に城郭が造られている。その昔は城のすぐ傍を千曲川が流れていたという。これは太鼓門という入口からの写真だが、建物などは皆新しいもののようだ。

 松代藩というのは、10万石程度の藩であり、恩田木工の倹約令が藩を豊かにしたというのではなく、その後も厳しい経済状態が続いたに違いない。それは今現在のこの辺りの町の様子からも窺える様に思った。山裾に広がる領地はそれほど広いとも思えず、千曲川は氾濫の多い川だったと思うから、米以外に特段の産業がなかったとすれば、なかなかに難しい藩の経営だった様に思う。川の氾濫のため、殿様の住まいは城郭の中ではなく、少し離れた所に設けられていたという。殿様といえども、質素倹約のつましい暮らしをしていたに違いない。城郭の跡地には門くらいしか残っていなかった。大河ドラマに登場していなかったら、この地に観光バスなどがやってくるのは珍しかったのではないかとも思った。

 上田城跡を訪ねる

松代城を出た後は、もう一つの上田城址に向かう。上田城も徳川幕府が誕生した後の初代藩主は真田信之がつとめている。この城はもともと真田家にゆかりの深い城だった。天下分け目の関ヶ原の戦の際に、謀将と言われた真田昌幸と真田幸村がこの城を守って、徳川軍を破り苦い酒を飲ませた場所でもある。結果的には豊臣方が破れて、天下は徳川のものとなった。昌幸と幸村は紀州の高野山近くの九度山に閉塞され、昌幸はそこで逝去。後に大阪夏・冬の陣で幸村がその息子の大助共々活躍し、真田の名を世に轟かせしめたという話である。

真田といえば幸村という名が直ぐに浮かぶほどだが、現実の世の中を見た場合は、自分は真田家の中にあっては、信之こそが正統をしっかり守り切った優れた人物ではないかと思っている。後世の作り話は、弱きを助け強気を挫くという者を贔屓としているけど、それは歴史の結果論であって、現実はかなり異なっていたに違いない。真田信之という人は、やがて上田から松代に移封となるのだけれど、いずれの地においても良き治世に努め、93歳の長寿を全うしている。この時代にあっては、真に優れた人物だったに違いない。

 さて、その上田城だが、訪れて見ると、これはもう先ほどの松代とは違って、数段規模の大きな城だった。松代城は川辺の平地に造られていたが、ここは城の周辺の山や崖、それに川を利用してスケール大きく、巧みに造られているのが判る。名胡桃(なぐるみ)城を数倍大きくして、脇に千曲川を侍らせたかの如き築城だった。これでは倍以上の敵が襲来しても簡単には落されなかったに違いない。様々な仕掛けが工夫されていたのであろう。いざという時は城から外へ逃れる井戸などが残っていて、謀将というか知将というべきなのか、真田昌幸やその子信繁(=幸村)の思いなどが彷彿と湧いてくるのを覚えた。

     

真田のメイン拠点だった上田城本丸の景観。建物はさほど大きくはないけど、この城自体の構築の規模は大きいと思った。築城に当たって様々な仕掛けや策を講ずるには最適の地勢にある様に思った。

 現在の城跡は、信之の後に城主となった仙石秀久に拠るものとの解説資料があったが、自分的にはここに最初に城を築いた真田昌幸や幸村などの野望の大きさを想った。守りにも攻めにも心を砕いているのが良く解る地形の選択であり、又築城だったと思う。明治の城の破却からいろいろな経緯があって、現在は西・南・北の三棟の櫓が残っているけど、当初から移築を逃れて残っているのは西櫓のみだとか。ちょうど今それが公開されており、中に入ったのだが、自分には建築のことは殆ど分からず、興味関心のある家内はかなりの長時間ボランティアの方と何かを話し合っていた。

     

城の下方にある駐車場から見た、上田城本丸の西櫓の景観。この櫓の右手の方に本丸の城郭が建てられている。

     

城内西櫓の手前にある真田神社。真田一族が祀られている。この神社の裏手の方に、いざという時の抜け穴だったという真田井戸などがある。

 メインの駐車場が城の下にあるのを知らず、案内板に従って上部の方にある駐車場に車を入れたのだが、あとで下方にかなり広い駐車場があるのを知り、そこへ寄って見た。下から見上げる上田城址は上に居る時とはまた違った趣があり、より一層厳しい城塞であったとの印象を強めたのだった。

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越後・信濃路の旅:第5日

2016-11-14 03:25:03 | くるま旅くらしの話

第5日<10月19日:水> 天気:曇り後晴れ

 <行程>

道の駅:ぽかぽかランド美麻 →(K31・R147・K306)→ 道の駅:安曇野松川 [長野県北安曇郡松川村]→(R147・R19)→ 松本城散策[松本市丸の内] →(R19他)→ 道の駅:奈良井木曽の大橋[塩尻市奈良井] → 奈良井宿散策 →(R19・R147他)→ 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里[安曇野市堀金烏川](泊)  走行144km

 <レポート>

 信州の山村の情景(元美麻村)

美麻村は合併して今は大町市となっている。しかし、ここはやっぱり美麻村であって、大町市ではない様な気がする。それは戸隠村もそうだし、鬼無里村もやはり同じなのだ。行政の都合上は止むを得ないのかもしれないけど、昔の地名が消えてしまうことだけは是非とも守って欲しいなと思う。合併でわけのわからない名前の市や町が生まれることは、そこに住んで村や町を育てて来たご先祖様に対する重大な冒涜行為のような気がするのだ。新しい土地の名称をつくるのは、現在を生きる者の特権なのかもしれないけど、歴史に係わるものを訪ねて旅をするようになってからは、その思いは強まるばかりである。

 朝少し早く起き出し、道の駅の周辺を1時間ばかり散策した。土尻川という川がすぐ傍を流れており、この川に沿って民家が点在している。民家の庭には色づいた柿の実が鮮やかなのだが、どの柿の木も葉は紅葉などとは無関係の逞しい真っ青な現役色で、此処が奈良ならば、柿の葉寿司用として使えるほどのものなのが不思議に思えた。秋の風物の柿の木といえば、橙色の実をびっしりつけた葉の殆ど残っていない姿を思い浮かべるのだけど、今の信州のこの季節のそれは、全く違っているのである。それは、この地の秋が、間もなく一気に深まるのだということを語っているのかもしれない。そんなことを想いながら歩いていると、民家の庭には何と笊の中に、採って来たばかりの栗の実が干されているのを見つけ、驚かされた。守谷などでは、栗はもう1ヶ月以上も前に収穫が終わって消え去っているのに、この地ではまだ残っているのだ。そういえば、先日信濃の道の駅で見つけたトウキビも同じ感慨に捉われたのを思い出す。この辺りでは季節がゆっくりと動き、時に一気に速まるという時間の流れなのであろうか。

     

民家の軒下に干されていた栗の実。この地の時間はゆっくりと流れていることの証明のように見えた。

しばらく歩いていると、大きな古民家が保存されているのに気づいた。傍に行って見ると、旧中村家住宅二棟とあり、村の文化財として保存されているようだった。母屋は寄せ棟造り茅葺屋根、建坪が84坪(約278㎡)もある堂々たる建物で、その脇の方に移設されたという蔵があった。これも茅葺で24坪(約80㎡)の大きさで、屋根の下が空いているちょっと変わった造りの蔵だった。母屋は元禄11年(1698年)土蔵は安永9年(1780年)というから、いずれも200年以上を経過している建物である。土蔵が少し変わった造りとなっているのは、この地は江戸の昔から麻の栽培が盛んであり、それを貯蔵する蔵として建てられたため、上部が空間となっているらしい。そういえば、この村の名前は美麻であり、往時はこの辺一帯は麻の栽培が盛んだったのであろう。中村家はその中心に居たのかもしれない。しかし、現在はこの地に麻などどこにも見当たらない。それは近年になって麻の栽培が麻薬との係わりがあるため、禁止となったからなのだという。昔は衣類や用具などとして用いられていた麻が、今の時代には危険な薬品として用いられるという。これは、人間の愚かな進歩?の犠牲なのだなと思ったりした。

     

元美麻村の重要文化財指定の旧中村家住宅の偉容。いかにも信州らしさの漂う雰囲気がある。

散歩の途中には、石に刻まれた道祖神や仏様などを随所で見かけることが出来て、ああ、此処には未だ幾つもの信州の山地の姿が素朴な形で残っているのだなあと、何故か安堵したのだった。

 国宝松本城を訪ねる

美麻を出た後は、今日のメインの探訪先の松本城に向かう。しばらく山の中の道を走って、間もなく安曇野の平野に出る。途中大町市の隣にある松川村の道の駅:安曇野松川に寄ったが、ここには「男性長寿日本一の村との看板があった。82.2才だという。アルプスを眺めながら、豊かな気持ちで暮らしていると、長生きが出来るということなのだろうなと納得した。

 松本城は随分昔に一度訪ねたことがある。もう50年近くも前の話であろうか。黒っぽい均整のとれた城だったなという記憶がかすかに残っている。その時も国宝となっていたのか、よく判らないけど、国宝としての評判を高めている今の時代に、もういちどその城を見ておきたいという気持が強まっていたのである。松本市付近は何度も来ているのだけど、何時も通過するばかりだったので、今回の旅では、ちょうどいい機会なので、是非ともと予定に入れたのである。

 松本城は街の中心部に位置している。そのような場所を訪ねる時は、いつも駐車場に悩まされるのだが、行って見るとこれはもう何の心配も無かった。車を駐車場に置き、早速松本城へ。堀の脇の道をしばらく歩いて、入場口のある橋を渡る。ここまでの間の城の姿は、きりっとした惚れ惚れするほど男前の感じがした。妙な言い方だけど、城は女性的ではなく男性的なのだが、それがさすが国宝に相応しい雄姿だった。50年ほど前よりも一段とそれが際立っている感じがしたのは、自分の方がより早いスピードで老化が進んでいるということなのかもしれない。この頃は何かにつけて老化が気になっている。

     

国宝松本城の雄姿。これは城の外側から撮ったもの。この城はどこから撮っても、誰が撮っても絵姿になる貫録を持っている。

入口で入場料を払い、今日は天守閣に上るつもりでいる。外国からの観光客も多く見られて、やはりこの城は姫路城などと並んで、日本を代表する一つなのだというのを実感した。入口の傍にこの城の保存に際して功績のあった二人の人物が紹介されていた。一人は松本中学の校長先生を努められた小林有也という方、もう一人は市川量造という方で、お二人とも壊されるべき運命にあった天守閣の買い戻しと保存に奔走、尽力されたとのこと。明治初めの城の破却は、このような方たちのご尽力がなかったなら、今日は無かったのである。廃仏毀釈も愚行だけど、城の破却も又それに引けを取らないように思われるのは、今に生きるものだからなのであろうか。又、その反対側の方に「宇宙ツツジ」という紹介のある、既に花を終えたツツジの一株があった。女性宇宙飛行士第1号の向井千秋さんと一緒に宇宙を旅したツツジだとのこと。松本市は花いっぱい運動の発祥の地だとも書かれていた。どのような花が咲くのか、春になったら来て、それを見たいものだなと思った、

 中庭からの城閣の眺めも威風堂々と言った感じで、風格を感じさせるものだった。そのあと城の中に入り、幾つもの階段を登って、天守閣まで上がる。城の中というのは、多くの城が住まいとしてあるのではなく、戦のための攻防の拠点としてつくられているので、一種の倉庫(主に武器庫)として使われて何時スペースが多いようで、他の城と比べてそれほど変わった有様ではないように思えた。天守閣の窓からの景観は、高さが30m近くもあるので、これはもう城下の一帯が一望できる良い眺めだった。江戸の昔であれば、際立った高さだったに違いない。西の方角には北アルプスの高い山々が連なり、東の目前には2000m級の美ヶ原高原の山塊が迫っていて、季節を通じて山々の持つ壮大な気宇感を味わうことが出来るのだろうなと思った。そのあとは階段を慎重に下りて再び庭園に出る。この城の中は、市内の小学生の子どもたちが、ボランティアで胡桃(くるみ)の粉を入れた袋で磨いているとかで、ピカピカに光っていて、その分滑りやすいのである。でも、子供たちが郷土を愛する心を養う上では、とても大切なイベントだなと思った。

     

  こちらは城の内苑に入ってから撮った、有料の写真である。外側からのとは少し違った様子が分かる。   

 庭に出た後は、もう一度振り返りながら、城の威容を何度も確認した。やはり城の内部などよりも外からの眺めの方が美しさを感ずることが出来る。その後、近くにある博物館を訪れてこの地方の歴史や暮らしの在り様などについての資料等を観覧したりした。最後にもう一度堀の横道を通りながら城郭の雄姿を目に収めて松本城を後にする。

 奈良井宿のこと

松本城の観覧を終えて車に戻ったのは14時20分頃だった。この日の予定はもう特になく、近くの道の駅に行き泊るだけである。少し早いかなと思っていたら、家内が奈良井の宿まで行きたいという。お六櫛を買いたいとのこと。髪の毛なんぞロクに残っていない自分には、何の興味も無い話なのだが、彼女の場合は女性なので、これはもう別の話なのであろう。中山道奈良井の宿までは、松本からは1時間と少しで到達できる距離である。それじゃあ、行くことにするかとナビを設定する。もし遅くなったら、奈良井に泊っても良いのだ。この宿場町には、ありがたいことに道の駅があるのである。

ということで、松本から塩尻を通って、R19を南下して奈良井の道の駅についたのは、15時半過ぎだった。途中塩尻市内には渋滞があり、少し時間がかかった。もう日が沈む時刻が早やまって来ており、15時半を過ぎると、東西を山の壁に塞がれた中山道の宿場町は、夕暮れが間近いことを予感させる。櫛の販売店が開いているか心配だったが、これは大丈夫だったので安堵した。

お六櫛の方は家内に任せて、久しぶりに宿場町の通りの中をぶらぶらと歩いた。奈良井宿には何度も来ている。ここの宿場の特徴といえば、馬篭や妻籠野宿には無い、水場があるということか。江戸の昔は奈良井千軒と呼ばれるほど賑わった宿場町であり、旅人の喉を潤すために山から湧く水を引いた水場と呼ぶ井戸が用意されているのである。初めて訪れた時は、ああ、優れた宿場町だったのだなと、その美味い水を飲みながら感動したのを思い出す。その水場は、町内ごとなのか何箇所かあって、今日も清冽な水が流れ続けていた。

宿場の通りに櫛比する店々は、今は宿をしているのは少なく、多くは土産物などを販売しているようである。ここは国指定の文化財である重要伝統的建築物保存地区であり、江戸からの面影をそのまま今に残すような雰囲気があり、人出の少ない日の夕方近くには、それが一層強まるのを感じた。あまりにも観光客が多過ぎると、昔がどこかに吹き飛んでしまうような気がして、このような平日の時間帯の方が、より昔を偲べるのだなと思った。

     

早や黄昏が迫りつつある奈良井宿の通りの様子。中山道の宿場町は山に囲まれて、同じような風景が多い。観光客もほとんどなく、ただ静かな時が流れていた。

家内の方は何やらお店の人と話し込んでいるようで、30分を過ぎても終わる様子もない。お六櫛というのは、この地の山に産するミネバリという硬い木質の木を、職人さんが手づくりで作るもので、この地では昔から有名である。その由来というのには、次のような話が伝わっているとか。

「元禄年間(1688年~1704年)、持病の頭痛に悩んでいた村娘のお六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、お告げがあり、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいとのこと。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治ったという。以来、ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになったという。」

ミネバリの木というのはカバノキ科の落葉高木で、日本産の樹木の中ではイスノキの芯材に次いで硬い木で、別名オノオレ(斧折れ)カンバとも呼ばれているとか。家内が頭痛持ちだとは聞いていないけど、その昔から多くの女性に愛され使われてきた櫛には関心があるのであろう。この櫛は皇室などの祭礼にも使われているとか。辺りが暗くなり始めた頃にようやく話が終わって、満足顔が店の外に出て来た。

泊りをどうするかしばし惑ったが、明日のこともあるので、少し遅くなっても予定通り安曇野の道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里に行って泊ることにした。黄昏の迫った宿場町は、人通りも無く既に眠りの準備が終了したかのように静かだった。予定外のはみ出し訪問だったけど、昔を訪ねることが出来たいい時間だった。

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越後・信濃路の旅:第4日(その2)

2016-11-12 02:28:08 | くるま旅くらしの話

戸隠から道の駅:美麻へ(恐怖と不安と発見の喜びの道)

戸隠といえば蕎麦が名物である。ここへ来て蕎麦を食べずに帰ることは許されない。そのような思いがあって、昼食はもう端から蕎麦に決めていたのだけど、道なりにかなり数ある蕎麦の店は、どこも駐車場が満杯で、車を止められないのである。何とかならないかと更に道を下りながら探していたら、ようやく1軒車を止められそうな店があり、ヤレヤレと安堵した。多くの人たちは神社などの参拝よりも蕎麦を食べるのが目的でここにやって来ているのではないか。観光バスを降りた団体さんが、あちこちの店の暖簾を潜って入って行く。我々のような少し大きめの車なのに、たった二人しか乗っていないのは、店の側から見ればあまり嬉しくもない客なのかもしれないなと思いながら、観光バスの団体さんたちの、ざわめきを観察したりした。蕎麦は少し高値の感じがしたけど、確かに美味かった。この地の蕎麦は、かなり細く切って茹で上げられているようだ。香りも歯ごたえも申し分のないものだった。

 名物の蕎麦を堪能した後は、今夜の宿を予定している大町市(と言っても合併する前は美麻村だった)にある道の駅:ぽかぽかランド美麻を目指す。初めて訪ねる場所である。蕎麦を食した後、さてどんなコースを辿れば良いのか、これはもうナビに任せることにした。最初は近道の県道を行くつもりだったのだが、ナビが別の道を選んだので、それに従うことにしたのである。戸隠村(今は、なんと長野市となっている)はかなりの高地にあるので、蕎麦屋を出た後はしばらく坂道を下ることとなる。先ずは県道76号線を行くこととなった。最初はまあまあの道幅の道路だったのが、そのあと県道86号線と進むに従って次第に頼りげのない道になり出した。何よりも離合が出来ないのが困るので、大きなトラックなどが来ないように願うばかりだった。不安を抱えながら所々集落のある坂道を下って行くと、やがて谷に沿って川(花裾川)の流れる国道の408号線に出た。しかし、国道とはいえ400番台の道路である。安心はできない。そこから鬼無里(きなさ)の方に向かうというナビの指示だった。

 鬼無里と書いて「きなさ」と読む。地名は難しいが、この地名も他所者には最初から正解は難しいと思う。鬼無里村は戸隠村の隣にあって、どちらも印象に残る地名だったが、今では双方ともに合併して長野市となっている。鬼無里というのは、実に日本的な地名だと思う。鬼がいない里というのは、平和で安全な暮らしが保てる理想郷といったイメージが強い。尤も、鬼が悪者と想定しての話だが、人間の中にも鬼以上の悪者も混ざっているので、恐らくこの世には鬼無里というような理想郷は未来永劫存在しないのだと思う。

 ま、そのような理屈はともかくとして、実際の鬼無里は谷を流れる川に沿って、山中深くに静かに横たわる山村だった。国道が走っていても、それほど交通量が多いわけでもなく、高低差の大きな道は、道幅も広くなったり狭くなったりして、難所と呼ぶべき場所も多い感じがした。少し走ると、今度は県道の36号線へ行くこととなった。ここからは間もなく小川村に入り、今度は新たな山道をしばらく上り続けることになった。やはり所々道のせまい箇所があって、不安は一向に解消しない、しばらく走り続けて見晴らしの良い丘のような場所に出た。このような山奥でも走れば小さいながら集落があり、人が棲んでいるというのだから、凄いなと思う。どのような暮らしで生計を立てておられるのか。農林業が中心なのかなと思ったりした。

道の脇には何箇所かアルプス展望所のようなものがあり、そこからは北アルプスが望遠できるのだと思う。今日は残念ながら雲が多くてそれらの山は見えなかった。しばらく行くと、県の宝、県宝と書かれたお寺さんがあり、そこの三重塔がその宝なのだという。これは見逃すわけにはゆかない。車を止めて参詣することにした。

真言宗豊山派に属する高山寺というお寺で、創建は1,195年(建久6年)で、現存する三重塔は1,694年(元禄7年)に建てられ、長野県下にある12の塔の内では最古であり、北信では唯一と案内板に説明書きがあった。境内の中に入り、本堂にて般若心経を誦したあと、三重塔を見上げ眺める。小型の塔だが、均斉がとれていて美しい。遠くアルプスを見通す環境の中で、江戸の昔から地域の人たちを見守っているのだなと思った。印象に残るお寺だった。

     

高山寺三重塔。県宝とあって、さすがにそれに相応しい貫録のある建物である。国の宝にしてもおかしくないようにも思えた。

そのあとは再び山を下り、何という名の川なのか、その川に沿った県道を行き、間もなく道の駅:ぽかぽかランド美麻につく。この県道は道幅も広く、運転はぐっと楽になり、大町が近くなったのを感じた。それにしても信州の山奥は深いなと思った。長いこと都会にばかり暮らしていたので、この山の中では今の時代どのような暮らし方がなされているのだろうかと、ふと思った。最近は限界集落などという、村が老衰して消えてゆくという哀しい話を耳にすることが多いが、そのような時に何故か心が痛むのは、自分などもその先鞭をつけた一人なのかもしれないという罪悪感のようなものがどこかに疼いているからなのかもしれない。ふるさとの匂いのする信州の山の中を走りながら、景色などを楽しむこと以上に、少し複雑な気持ちになった。

 美麻の温泉は温(ぬる)めのものだったが、それなりに温まって、又じょんのびの湯とは違った味わいがあった。

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越後・信濃路の旅:第4日(その1)

2016-11-10 17:25:31 | くるま旅くらしの話

第4日<10月18日:火> 天気:曇り時々晴れ

 <行程>

道の駅;あらい →(R18)→ 道の駅:しなの[長野県上水内郡信濃町] →(R18・K36)→ 戸隠神社参拝(奥社・中社・宝光社)[長野市戸隠]→(K76・K86・R406・K36・K31)→ 道の駅:ぽかぽかランド美麻[大町市美麻](泊) 走行84km

 <レポート>

 あらい(新井)の道の駅からは妙高山が見えるはずなのだが、今回も雲の衣装をまとったままその全容を見せてはくれなかった。新井市は、現在は近隣の町村を合わせて妙高市となっている。まさに妙高山が取り持つ縁で一つになった市だとも言えるのだが、肝心の妙高山はいつ来ても機嫌が悪いらしく、すっきりと山頂まで見せてくれるのは少ないのが残念である。もう7合目くらいまで紅葉が進んでいるのではないかと思うけど、今朝は山がそこのあることさえ気づかせてはくれない状態だった。この道の駅には何度もお世話になっている。すぐ傍を上信越道が走り、この道の駅はそのSAと連動したハイウエイオアシスとなっており、構内には数多くの食関係の店が並び、ホテルまでもが備わっている。しかし、くるま旅の者から見ると、給排水の設備は無く、ゴミ処理もしづらくて、買い物だけさせて、その後始末を無視したアンバランスさが目立つ感じがする。道の駅の殆どが同じような状況なので、文句を言うわけにはゆかない。トラックヤードが離れているので、夜間の騒音が少なくて済むのは幸いだった。

旅も4日目となり、早や日程の半分をこなすところまで来ている。今日は戸隠神社の参拝だけを予定している。それが終わったら山の中の道を辿って、大町市にある未だ行ったことのない道の駅:美麻に行き、そこの温泉に浸って疲れを癒すことにしている。

当初は戸隠神社参拝の前に、黒姫山山麓にあるコスモス園を訪ねて、花いっぱいの秋の風情を楽しもうと思っていたのだが、コスモス園の営業は既に終わってしまっている。それでも未だ少しは咲き残っているのではないかと密かに思っていたのだが、ここまで来る途中に、北国の山の方を通る時見たコスモスは、やっぱり枯れかかっていて、僅かに残りの花を咲かせているのが殆どだった。黒姫高原はかなり標高も高いから、恐らくもう行って見てもがっかりするだけだと思って行くのは諦めたのである。

道の駅を出発して30分ほど走って、長野県に入り県境近くにある道の駅:しなのに立ち寄る。地元の野菜売り場を覗いたら、珍しくトウモロコシがあったので、即買い入れる。今の時期にトウモロコシだなんて、関東の守谷辺りでは考えられない話だ。これが今年最後のトウモロコシの味わいとなるなと思いながら、昼にでも茹でることにしようと思った。リンゴも魅力的で、買うのを誘惑してきたが、未だ先があるので、こちらの方は控えることにした。

 戸隠神社(奥社)に参拝する

戸隠神社に行くには、信濃の道の駅を出て、R18を少し走って、県道の36号線を行くことになる。戸隠には随分昔にキャンプに来たこともあり、神社にも参拝しているし、植物公園の鏡池なども散策したことがあって、何となく親近感を覚える場所だ。今日は以前に行った時とは反対方向からの道を行くことになり、これは初めてのことである。こちらから行くと最初に奥社を参拝し、そのあと中社、宝光社という順序になる。

県道36号線は、しばらく民家の点在する中を走っていたが、次第に高度を上げ、山の中へと入って行った。最初は殆ど紅葉も見当たらない山道だったが、その内にかなり登って来たのか、道の両側に鮮やかな漆や蔦などの赤や黄色の紅葉した樹木などが見えるようになった。更に高度を上げて上って行くと、山全体が紅葉している場所に出会った。思わず車を止めてその景色を写真に収める。ここで今年初めて本物の秋に出会った感じがした。一息入れてしばらく走ると、間もなく奥社の入口にある駐車場が見えた。

     

戸隠神社へ向かう途中の県道脇の楢やカエデの紅葉。この辺りはかなりの標高にあるのであろう、紅葉は本格化していた。

 入口から奥社までは2kmほど、と駐車場管理の方から貰った案内書に記されていた。戸隠神社に以前参拝したのは、何年前だったろうか。今の旅車の前の時なので、20年も前のこととなるのだろうか。その時の記憶は曖昧で、印象に残っているのは、鬱蒼とした杉の大木の並ぶ参道だけだった。参道を2kmも歩いたことなどは全くどこかへ飛んでしまっている。

初めは大木の多い雑木林の中を行く参道が続いていた。道の片側には小さな溝が切られていて、きれいな水が流れていた。どこかで何という名の鳥なのか、小さな鳴き声が聞こえてくる。森の空気はすっかり浄化されていて、気持の洗われるような歩きが続いた。まさにここはイヤシロチ(=癒代地)だなと思った。どのような神社やお寺でも、昔の人々はイヤシロチに社を建て祀ったという。お寺や神社に参詣して気分が悪くなるような場所を聞いたことがない。樹木たちが共生していて、そこへ行くと人々は心も身体も浄化されるのである。それがイヤシロチというものである。千年以上の歴史を持つ戸隠神社は、イヤシロチの中でも飛び抜けた存在の一つだったに違いないと思った。

     

戸隠神社参道。このような道が約1kmほど続く。この辺一帯は長野県の天然記念物に指定されているとのこと。

1kmほども歩くと随神門の掲額のある萱葺の赤い門があった。何時頃建てられたのだろうか。20年ほど前に来た時も同じような姿をしていたのであろうけど、記憶には残っていない。

      

戸隠神社随神門。茅葺の屋根が付いており、古来から伝わる雰囲気が漂ってくる。

      

随神門から先はしばらく200本の熊杉が植えられた参道となる。樹齢400年を超える風格のある杉たちである。

この随神門からはしばらく両側に杉の巨木の並ぶ参道となり、やがてそれが途切れる辺りから坂が次第に急になり出した。自分は、この夏毎朝2000段近くの石段の昇降を繰り返しているので、この程度の坂は何ともないのだが、普段あまりこのような道を歩いていない家内にはかなり負担の大きい上りとなるので、大丈夫かと少し心配になった。しばらく待っていると、ふうふういいながら上って来たその人は、近くまで来るとギブアップを宣言した。

     

奥社に近付くにつれて石段となり、傾斜が増してくる。この辺りで息が上がる人が多いようだ。

あと100m足らずという場所なのだが、胸がドキドキして気分が悪くなったという。ここまで来て簡単にギブアップするとは!? でも、家内には大病をしたというハンディがあり、無理を強いるととんでもないことになるという危険もあるので、少々困惑した。とにかく何回か深呼吸をして、落ち着いたらゆっくりと歩ける分だけ歩いて、苦しくなったらそこで再び深呼吸をするという歩き方を繰り返して、もう少しチャレンジしてみるように話した。その結果、無事奥社の社まで到着することが出来た。着いてしまえば、先ほどまでのギブアップの騒ぎはどこへ行ったのやら、何事も無かったように写真を撮りまくっていたのには、さてどうコメントしていいのやら。とにかく奥社に参拝できて目的を果たせたので、先ずは目出度しということにしておこう。

      

戸隠神社奥社。コンクリート造りのようで、何だか現代風の感じがして、やや拍子抜けの感は否めない。

奥社は思ったよりも小さな社だった。何時頃建て替えられたのか、戸隠信仰のシンボルとしては、もっと貫禄があってもいいような気がした。ここは元々はお寺だったと聞くが、明治の廃仏毀釈の悪政のあおりを食って、神社に変更したという歴史があると聞く。明治維新は歴史的には新しい日本をつくる上で多くの価値ある努力がなされたのだと思うが、幾つかの負の部分もあり、廃仏毀釈や城郭の破却などは、後世になって考えれば愚策だったと思わざるを得ない。神社に鞍替えする前の戸隠の信仰は、恐らく現在の奥社のようなレベルではなく、もっと壮大なものだったような気がする。

奥社の脇に九頭龍神社があった。由緒書きによると、天照大神が窟に御隠れになった時に、窟の戸をこじ開けたという怪力の神、天手力雄命を勧請して祀ったものだという。神話の世界は不思議で面白い。高千穂を訪ねた時に、集落の夜神楽で観た手力雄命の勇壮な舞いを思い出したりした。

     

奥社の脇にある九頭龍社。小さな社だけど、それなりに風格のある建物だった。

さすがに名の知れ渡った神社だけあって、参拝の来訪者は後を絶たず、参道はかなりの人の行列が続いていた。観光バスに乗ってやってきた人の中には、既に一杯聞こし召して赤い顔をした人も混ざっており、遊びでいい加減な参拝をするのは不敬な振る舞いだなと思ったりした。尤も、酒の臭いに触発されたのか、一匹のスズメバチらしき奴が、しつこくその肥満した男をつけ狙ってまとわりついていたのは、ちょっと気の毒な感じがした。

参拝の後は、ゆっくりと石段を下りて、参道を戻る。秋が深まる前の参道を包む森の樹木は、紅葉には今一で、それでも既に黄色や赤に色づいたものもあり、間もなく冬が近づいてくるのだなあと思いながらの歩きだった。冬の戸隠は、やはり雪の中なのだろうか。冬には旅の活動を控えることにしているので、雪国の景色は解らない。間もなく入口に到着して参拝を終える。

戸隠神社は奥社だけではなく、中社、宝光社、火之御子社などがある。当初参拝するつもりでいたのだが、そのあと近くまで行っても、残念ながらどこも駐車は満杯で、車を止めることができず、後日に参拝することにせざるを得なかった。でも、奥社に参拝しただけでも戸隠信仰の凡そは察知できるような気がした。

 

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越後・信濃路の旅:第3日(その2)

2016-11-09 17:56:35 | くるま旅くらしの話

衰退の道の駅

全国を車で旅をしていると道の駅にお世話になることが多い。北海道を覗く場所の殆どは、道の駅に泊らせて頂くことになると言ってもいいほどだ。わが国の現状では、くるま旅での宿泊は、皆仮眠で一夜を道の駅か高速道のSAやPAで過ごすことしかできない。宿泊機能を備えた車が泊るという想定で作られた設備のある場所は殆ど無いのが現状だ。車社会の忘却スポットの一つであるような気がしてならない。最近になって、日本RV協会が旗を振って、RVパークというものが生まれ広がっているようで、少し安堵するのだが、その実態は設備の内容も利用料もまちまちで、中にはこれが本当にRVパークなの?と首を傾げたくなるような所もある。車社会なのだから、くるま旅が普及するのは当たり前のことなのに、国も自治体も民間の賢い事業者もそのことに気づかないのは、真に残念である。

さて、端から閑話休題。道の駅のことである。道の駅は現在(2016.4)全国に1,079箇所もある。建設中のものもあるだろうから、年内には更に増えるに違いない。道の駅は、国土交通省が旗を振り、次の機能を有する場所として位置づけられている。①休憩機能②情報発信機能③地域連携機能。この三つの機能である。くるま旅の利用者には、主に①休憩機能と②情報発信機能との係わりが強い。仮眠をさせて貰ったり食事をさせて貰ったり、或いはその地にどんなものがあり、どんなイベントなどが行われようとしているかなど、その地域の情報を得るのは旅の重要事項でもある。普段これらを大いに活用させて頂いている。

ところで、実際に旅をしていて様々な道の駅にお世話になっていると、その実態に大きな格差があることに気がつく。簡単に言うと、活気のある道の駅と今にも息が絶えそうな道の駅とがあるということだ。道の駅の大半は自治体が直接経営しているところは少なく、第3セクターなどに投げて経営を任せているのだと思うけど、自治体も経営者も本気になって取り組もうとしていない場所は、自ずから死に体となってしまうようだ。自治体は箱ものを造って安堵し、経営を第3セクターに丸投げし、第3セクターは自治体から仰せつかったことだけを唯唯諾々とやっているだけでは、先細りとなるのは当然のことかと思う。そのように思える道の駅もかなり多いように思える。

鍵を握ると思うのは、③の地域連携機能だと思う。その地域の人たちが道の駅を如何に活性化させるか、全力を挙げて知恵を出し、行動に移しているかが肝要だ。活性化出来ている道の駅の多くは、この地域連携機能が上手くかみ合っているように思う。例えば、多くの道の駅では、地元の農産物や海産物などを捌く販売所を設けているが、販売に至るまでに地域の生産者や加工者が道の駅とどのような関わりを持つかが重要となる。頼まれて出荷するだけの農家ばかりでは、購買者に魅力は伝わらない。地域を上げて、地域の産物を来訪者に購入してもらうために何をどうすればいいのかを考える仕組みをしっかり構築することが重要なのではないか。あまり元気のなさそうな地元の野菜の中に、遠い地方の産物などが混ざって販売されているのを見たりすると、がっかりするのは自分だけではないように思えるのだ。

今回は出雲崎から上越市に向かう途中にある道の駅:風の丘米山に寄ったのだが、駅舎は無く閉鎖されていた。奥の方にある何やらの施設は営業しているとのことだが、ペンペン草の生える無人の駐車場を見たら、もうその気は無くなりパスすることとなった。何年か前の春の旅でここに寄った時に、シラネアオイの鉢植えの大株に魅せられて購入したのを思い出した。あの時はかなり賑わっていたのに、一体どうしたことなのだろうと、寂しい思いに捉われた。生きものというのは、それが人間であれ人間が造っている組織や建物であれ、創造的なメンテナンスを継続していないと、必ず衰退滅亡に向かうのである。この先、どの道の駅も寂しく消えることのないことを心から願っている。

 高田城址公園を訪ねる

高田城跡公園を訪れたのは、15時少し前だった。途中道の駅:風の丘米山に寄りガッカリし、そのあと上越市にある道の駅:よしかわ杜氏の郷を訪れたのだが、ここは本日定休日で又またガッカリ。期待の酒も不意になり、やや失望のムードで駐車場に車を入れる。

高田城跡を訪ねるのは初めてである。上越市は平成の合併で14もの市町村が合併してできた大都市である。これほど多くの自治体が一緒になったのは全国でも珍しいのではないか。その核となる上越市の求心力が大きかったからなのかもしれない。上越市といえば、自分にとっては何と言っても上杉謙信公の拠点だった春日山城であり、それもようやく何年か前に訪ねるのを実現できただけで、それ以外は何時も通過するばかりの場所だった。

 今回改めて訪ねる気になったのは、この城を造ったという松平忠輝という人物が、予てより気になっており、その人がどんな城をどんな思いで築いたのかを知りたかったからなのである。家康の6男として生まれた忠輝という人物は、小説などでは大へん矜持の高かった人物で、反逆児的な存在として描かれている。その背景には親である家康の差別的な扱いが大きく影を落としていたのであろう。身分の卑しい母とその容貌の醜さを家康が嫌ったというけど、己が勝手にまいた種のくせに、そのような父親としての振る舞いは、今の時代感覚からは、言語道断ともいうべき、まあ随分と酷い親父殿だったと言わざるを得ないように思う。この高田城を築いた頃が、領石高が75万石という忠輝の最盛期だったのに、 その後の反逆的な振る舞いが、とうとう幕府中央として許せぬ事態となり、所領没収の上、配流の身となったのである。悲劇といえば悲劇だけれど、身から出た錆と思われる部分も多く、ま、気の毒な人生を送った人物ということになると思う。

 さて、その高田城だが、なかなかの勇壮な城構えだなと思った。今は復元再築された三重櫓がこの城のシンボルとして掘りの水面に影を映して残るばかりであるが、往時は忠輝の意気込みを示す幾つもの建物が聳えていたのだろうなと思った。尤もその後の城は、忠輝ではなく何人かの城主が入れ替っているので、300年もの歴史の姿を思い浮かべるのは難しいなと思った。

 現在公園となっている城跡は、随所に桜が植えられており、春の花のシーズンともなると、さぞかし多くの花見客で賑わうのだろうと思った。春日城跡と比べると、築城の歴史の違いがはっきりと解って面白い。春日山城は戦のための攻めの拠点であり、高田城は治世のシンボルという位置づけだった様に思う。それぞれ城跡は残り、そこに棲んだ人々は数人を除いては、名前すら残ってはいない。歴史というものは、全てそのようなものなのだなと、改めて思った。

       

高田城跡に残る三重櫓の景観。この城にはこれ以外の建物は見られない。公園のシンボルとして、その果たす役割は大きいように思った。

 

 

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越後・信濃路の旅:第3日(その1)

2016-11-08 00:37:17 | くるま旅くらしの話

第3日<10月17日:月> 天気: 曇り

 <行程>

道の駅:じょんのびの里高柳 →(R252・R8・R116・R352)→ 寺泊魚市場[長岡市寺泊] →道の駅:越後出雲崎天領の里[新潟県三島郡出雲崎町] → 良寛記念館他宿場町散策[新潟県三島郡出雲崎町] →(R352・R8)→ 道の駅:風の丘米山[柏崎市青海川] →(R8・K)→ 道の駅:杜氏の郷よしかわ[上越市吉川区] →(K・R18他)→ 高田城址公園散策[上越市] →(R18他)→ 道の駅:あらい[妙高市猪野山] (泊)  走行176km

 <レポート>

昨夜は夜半から雨になって、断続的に天井が賑やかになった。しかし旅の二日目は結構疲れが出てくるのか、雨音などは気にもせず眠りを貪った。朝までには止んだようで、起き出して外を見るとどんよりと雲が空を覆っていたが、何だか晴れてくる予感がした。一夜のじょんのびを味わった人は少なかったようで、旅車らしき車は2~3台しか見られなかった。ここは柏崎市となっているけど、海の街柏崎のイメージは全くなく、山奥の現実しかない。合併策が進むにつれて今までの地名の持っていた力が雲散霧消するような気がして、どうもすっきりしない気分がある。柏崎市と高柳町は明らかに違うのである。行政の効率化のためには合併は必要なのだろうけど、土地と人間の関係がどこもかしこも都市化の方に向かうのは、本当にいいことなのか疑問は消えない。

 

寺泊魚市場を覗く

新潟県の日本海側に出る時には、どうしても寺泊を訪ねたくなる。旅の行程の中に新潟県が含まれる場合は、何とか寺泊に寄ることを考えてしまう。その理由は、勿論日本海の新鮮な魚を食べたいからである。自分は格別の魚大好き人間である。肉にはあまり関心がない。牛や馬の肉などは、彼らのあの愛すべき瞳が浮かんで来て、どうも罪悪感を拭いきれないのだ。豚だけは、あれはまあ許されるような気がする。魚の中で唯一食べないのは鯉だけである。どうしてかといえば、鯉は大変人懐こい魚だからである。鯉こくや鯉のあらいなどが出てくると旅館に泊ったことを後悔したりすることがある。食べないのに食事代分を不意にするからである。

これはどうもとんだ横道にそれてしまった。そう、寺泊の話だった。寺泊には魚市場があって、それが魅力的なのだ。我が郷土の茨城県にも那珂湊や日立などには魚市場があって、時々買い出しに行ったりしていたのだが、原発事故以来は、家内の厳しい警戒心もあって、すっかり足を向けなくなってしまっている。そのようなこともあって、今回はどうしても寺泊に寄ることにしたのである。尤も、寺泊は三国街道の終点の宿場町でもあったから、街道の昔を訪ねるという目的にも叶った場所なのだった。

朝8時過ぎに高柳を出発して、寺泊に着いたのは9時半を少し回った頃だった。少し道に迷って魚市場の駐車場に着いたのだが、その迷った道がどうやら昔の宿場のあった街道らしく、狭い道の両側にやや古さを残した民家が櫛比していた。その昔はここの宿に泊ってから佐渡に向かう旅人も多かったのであろう。海の向こうに横たわっている佐渡が島を見ながら、旅人はそれぞれの旅の終わりや始まりを想ったに違いない。車を置いて歩けば、更に新たな発見があるのかもしれないけど、先に魚のことが気になって、そのまま魚市場の方へ直行したのだった。

寺泊の魚市場には何度も来ているのだが、どうも最近は少しずつ活気が失われて来ているような気がしてならない。何だか店がスマートになって来てしまって、野性味が失われて来ている感じがする。デパートやスーパーの様な切り身となった魚が増えて来ている感じなのだ。食生活に利便性を求めるとそのような方向へ向かわざるを得ないのだろうけど、切り身というのは、このような場所では活気を損ねるような気がする。ま、これは老人ならではのわがままな感傷なのかもしれない。

自分の今日の関心は、鯖の串焼きをゲットすることである。刺身の方は家内の世界。何といっても日本海の魚市場では鯖の串焼きが最高なのだ。本場は若狭の小浜や丹後の宮津などなのかもしれないけど、何処へ行っても鯖の串焼きは自分のターゲットなのである。どういうわけなのか、太平洋側の関東にはこのような串焼きがない。野性味の雰囲気のある串焼きの類は、都会人を気取った食文化の世界では歓迎されないのかもしれない。寂しくも哀しいことである。

昨年若狭の小浜に寄った時に聞いた話では、近年の串焼き用のサバは、殆どがノルウエー産だとのこと。若狭でとれる鯖は量も少なく、今では熟れずしなどに使われているらしい。寺泊の鯖はどこからやって来たのか判らないけど、恐らくやはり北欧辺りからではないか。少し小型なので、もっと大きいのは無いかと尋ねたら、串焼きを扱っているおばちゃんは、大きいのだと値が張るので小ぶりのものにしているとのこと。1匹千円を超えても大きい方がいいのになあと、心なしか少しやせ気味の一本を買い求めながらそう思った。

家内は正統派の刺身類を買い求めていた。昼食にはご飯を炊いて、自分は鯖の半分を食して、残りは夕べの酒の肴に回すことにした。寺泊に来ると、大体いつもこのパターンとなる。

 良寛さまのふるさと出雲崎を訪ねる

出雲崎は北国街道の陸地の終点である。中山道の追分から小諸宿を最初の宿として丁度30番目が出雲崎の宿となり、そのあとは海を渡って佐渡の小木浜に至り、最終点が相川となる。出雲崎は佐渡からの金銀の搬入路の拠点となっていたため、江戸時代は幕府の直轄地となっていた。いわゆる天領という奴である。天領などとは真に気取った言い方であり、ひねくれ者の自分などには気にいらないことばの一つである。ま、天領を売りにしている場所もあるから、ものは考えようなのかもしれない。

出雲崎といえば何といっても良寛さまである。新潟県の産んだ超有名人のお一人である。出雲崎の良家の長男に生まれ、本来は生家を継ぐ立場だったのが、家事の係争に嫌気がさして出家をされたお人であり、その生きざまはまさに仏の姿そのもの(=生き仏)であったという。この方の生きざまを想う時、もう一人同じような生き方をされた紀州出身の明恵上人のことが浮かんでくる。お二人とも誠心誠意仏に帰依し、仏道の実践に取り組まれた方だけど、良寛さまは、厳しさを優しさで表現された生き方をされたお人の様な気がする。

出雲崎の浜には良寛堂があり、良寛様の銅像などのモニュメントが建てられていた。良寛さまは今良寛堂が建てられている橘屋跡でお生まれになったとのこと。そこには銅像が置かれていたが、見たことも無い方なのに、何だかご本人がそこに坐しておられるような感じがした。

       

良寛さまの誕生の地、橘屋跡には良寛堂があり、これはその場所に海の方を向いて座られている銅像である。

そこに参詣した後、坂を上って丘(というより崖)の上にある良寛記念館を訪ねた。良寛さまの書や、良寛さまについて書かれた資料や塑像・木像などが幾つも展示されていた。優しげな線で描かれた文字は、かなり省略された書き方なので、自分には殆ど読めなかった。それらの中に「天上大風」と書かれたものがあった。これは誰にでも読めるもので、それほど達筆とも思えぬ書きぶりだったが、何とも言えぬ優しさが現れている字だった。解説によると、この文字は良寛さまが子どもたちにせがまれて書いたものだとのこと。子どもたちが凧をつくって上げようとした時に、凧に何も描かれていないので、何か書いておくれと良寛さまにせがんだら、どれどれ、よしよしと筆をとって書かれたのが「天上大風」という四文字だったとのこと。凧が高く上がるためには風が吹いていなければならず、子どもたちの願いが叶うことをこの四文字に籠めて書かれたのであろう。優しい筈の文字だった。

     

良寛堂の上方の崖の上にある良寛記念館。門の左手に見える庵は五合庵に摸してつくられた耐雪庵。この奥に記念館があり、さらにその右手上方が「良寛と夕日の丘公園」となっている。

何年か前に、良寛さまの住まいだった五合庵を訪ねたことがある。今は燕市になっている元分水町にある国上寺(くがみじ)の境内(と言っても崖の様な坂の林の中)にあるその粗末な庵は、雨風を辛うじて凌げるほどのもので、雪の季節などは相当に難儀をされたのではないかと思った。まさに仏道に身を置いた聖人でなければ生きては行けない場所だなと思った。良寛さまの生きざまの凄さを思い知らされた感じがしたのを思い出す。

何年か前に良寛さまについて書かれた全集物を購入していたのだが、まだ手付かずに読まないでいる。もう読むのには遅いタイミングなのかもしれない。でも読まなければならないと思った。

良寛記念館の横にある坂を少し登ると、そこには小さな広場があり、そこからは眼下に出雲崎の街並みと日本海、そしてその向こうに横たわる佐渡ケ島が俯瞰できる、素晴らしい眺望の場所だった。この辺一帯は「良寛と夕日の丘公園」となっているようで、特にこの小さな広場は、「新潟景勝百選第一位当選の地」と書かれた碑が建っている、いわば新潟県第一の景勝地なのだった。確かにその眺めは素晴らしい。夕日の丘とあるのは、日本海側には夕日鑑賞の名所が数多くあるから、この地も佐渡の彼方に沈みゆく夕陽を眺めるには最高の場所の一つなのだろうと思った。ここには道の駅もあるので、今度来た時には道の駅に泊って、この丘に登り新潟県一の夕日の景観を味わってみたいなと思った。

     

出雲崎からは遠く対岸に佐渡ケ島を見ることができる。佐渡で採掘された錦銀は、この天領の地である出雲崎の港に荷揚げされ、運ばれていった。

又この場所からは眼下に出雲崎の町が見下ろせ、遠く佐渡ケ島を望むことが出来る。出雲崎の町は、海岸近くの街道に沿って、妻入りと呼ばれる建築様式の家々が櫛比して並んでいた。妻入りの家は、通りに面して大棟が直角になっており、普通の家は、玄関が家の正面についているのだが、妻入りでは玄関が側面となっているのである。日本海に面した狭い土地では、建物としての家を守るためにこのような建て方を余儀なくされたのであろう。この妻入りの家々が出雲崎では4kmも続いていると、説明板に書かれていた。これはこの丘の上に上がって俯瞰しなければなかなか気づかないことだろうと思った。

     

公園の下には海岸通りに櫛比して建てられている妻入りの家々が俯瞰できる。

 

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越後・信濃路の旅:第2日(その2)

2016-11-06 17:46:28 | くるま旅くらしの話

室島集落の民家

 松代の道の駅を出てから、今日の泊り予定の高柳町(現柏崎市)に向かって、山の中の道R403号線を行くことにした。このような400番台以上の国道を行くには相当の勇気が必要なのだ。国道といっても、中には村道と変わらぬレベルの細道を通ることになり、離合も困難な箇所が多く点在している道が多いからである。大型車が来ないことを切に願いながらの運転となる。結果的に、このR403は思ったよりは難所が少なかったので、先ずは安堵した。

 この道を通ることにしたのには理由があって、雪国の山村の室島という集落を覗きたかったからである。覗くなどというと、集落の方にはお叱りを受けそうだが、お許しを頂きたい。山の中の道を上り下って進んでゆくと、途中に幾つかの集落が点在していた。いずれも戸数が30戸足らずの小さな集落である。その中では室島集落は大きい方なのかもしれない。予めの資料によれば、トタン屋根の集落に特徴があるということだったが、現地に行ってみると確かにそのような家も見られたけど、あまり数は多くはなかった。

 この辺りも豪雪地帯なのであろうか、家の造りが2階から出入りが出来るように工夫されていた。雪の圧力に耐えらるように1階の窓は厚い板木で厳重にカバーされ、2階への梯子も常備されているようである。関東に住む自分たちには想像もつかない雪国の冬の暮らしの在り方を想った。 

     

雪国の民家。皆2階建てとなっており、1階部分には窓が雪の圧力でつぶされるのを防ぐために厚い板をはめ込むようになっている。2階からの出入りのためには梯子は必需品のようだった。

農耕民族の象徴・瀬替えのパワー

R403号線は、室島集落を過ぎると道幅が広くなり、間もなくR252と出会って、左折して直ぐに道の駅:瀬替えの郷せんだがあった。ここは初めて来る道の駅である。でもこの道の駅のことは資料でよく知っており、いつか訪ねて見たいと思っていた。というのも、「瀬替えの郷」というのが何のことなのか気になっていたからである。

道の駅は川がつくり出す渓谷の上の広場のような場所に造られていた。早速駅舎の中に入り、瀬替えというのがどのようなもの何かについて書かれている資料を探した。あった。「川の曲流部を埋め立てて耕地化し、代わりに直線化した新しい川を作り出す新田造成のことです」とあった。そして、この地にはその瀬替えの場所が幾つもあり、先ほど通って来た室島集落もその一つだったのを知った。

     

道の駅に掲出されていた瀬替えについての説明ポスター。先祖からつながる壮大な事業である。

 R403を松代の方から山を上り下って来たのだが、下りに入ってからは道に沿って小さな流れがあり、それが次第に大きくなって渓谷をつくっていた。渋海川というのがその名称らしい。川は大きく小さく蛇行しており、瀬替えというのは、その蛇行している部分をまっ直ぐにすべく掘削や埋め立てをし、出来た土地を耕地にするという、これはもうとんでもないエネルギーを要する大土木工事なのだった。何時頃から始まったのかは知らないけど、一代で完成できる仕事ではないと思うので、何世代も通しての先人たちの知恵と労苦の結晶が現在につながっているのだと思った。凄いなあと感動した。私たちは、このような先人の発想や努力を無にしてはならないと思う。

新しく造られた耕地からは、せんだ米と呼ばれる雪室で管理した美味なる米を生み出している。それを味わうべく、食堂の人におにぎりの製作をお願いした。この方は、あとで聞いたところでは、なんと千葉県の流山から、山村での暮らしにあこがれて移住して来られたとか。今は集落の方たちとも馴染まれて、ここで店を出されているとか。我々よりも少し若い世代かとお見受けしたのだが、まあ、世の火かにはいろいろな方が、いろいろな暮らしを求めて動いているのだなと思った。おにぎりは美味かった。 

荻の島萱葺環状集落の秋祭り

今夜の泊り予定の道の駅:じょんのびの里高柳から少し奥の方に行った所に荻の島集落というのがある。ここは萱葺屋根の環状集落があるというので、行って見ることにした。環状集落というと、縄文や弥生時代の環濠集落をイメージしてしまうけど、萱葺屋根の環状集落とは一体どういうものなのか訪ねて見て見たいと思った。萱葺屋根の集落では京都の美山が一番印象に残っているけど、あそこは環状ではない。

 ということで、その荻の島集落を訪ねたのだった。行って見ると、丁度集落の秋祭りの最中で、綱で引かれた山車が集落の中を巡っているところだった。山車の後ろの方に太鼓が据えられており、神主さんが歩きながら笛を吹き、それに太鼓が加わって、すっかり秋祭りの気分が漂っていた。

駐車場は神社のすぐ傍にあって、境内では祭りの飾りなどの作業をしている人が何人かおられた。その中の一人の方が、もう直ぐ集落を一回りすると、会館の方で直会(なおらい)の様なものがあり、皆で一杯やるので、是非中に一緒に入ってやって下さいと勧められたのに驚いた。こりゃあ、いい時に来たもんだなと思った。しかし、運転する身ではアルコールは厳禁である。お礼だけを言うに止めた。残念。

 環状というのは、神社を起点に集落の中を円形に細い道路がつくられており、その道路の両端に家々が並んでいるといった状況なのだった。一周が300mほどなので、祭りの山車はどこからでも見えるのである。萱葺屋根は?と見たら、数軒ほどとなっていた。年々住む人が高齢化し、家の修復もママにならないまま、萱葺屋根は減っているようである。このままでは限界集落ともなりかねない、山奥の集落の持つ宿命の様なものを感じた。

     

何軒か残っている萱葺屋根の民家。この他にも何軒かの民家が見られたけど、もはや手入れができずに保存が難しい状況のものが多かった。

 せっかく祭りの良いタイミングに訪れることが出来たので、我々もその行列に加わって、一回りしてみようと思った。山車には三俵の米俵が据えられていた。観光客も加わって総勢50名足らずの行列は、祭りの気分を盛り上げるには少し寂しい気もしたが、お神酒もかなり入っているらしき世話人衆は、盛り上がっていて、ワッショイ!と大声を張り上げていた。行列は50mほど行くたびに休憩をしながらの行進なので、何だか気が抜けてしまう感じがした。それでも集落の人たちはこの祭りを観光客の人たちをも巻き込んで大いに盛り上げようと懸命に取り組んでおられる姿に感動した。

     

祭の風景。観光客も入れて総勢50名ほどの小さな祭だったが、集落の人たちには古来よりの伝統を大事に守ろうという意欲が強く感ぜられて、自分たちも祭の気分になった。

 最後に会館の前までやってくると、一同が集まって集合写真の撮影となった。遠慮すべきと思っていたのだが、世話人の方がとにかく皆一緒に中に入ってと急かされるので、図々しくも並ばせて頂くことにした。そのあとは、会館の中に入って、一同での大宴会となるのであろうが、さすがにそこから先は遠慮させて頂き、退却することにした。それでも集落の人たちの温かい心持は自然と伝わって来て、いい所だなあと思った。

 駐車場の脇に集落の戸数の変移が書かれていた。それによると概ね次のようになっていた。

 1790年(寛政2年)  33戸

 1871年(明治4年)  66戸

 1938年(昭和13年)101戸

 1975年(昭和50年) 65戸

 2000年(平成12年) 40戸

昭和の初め頃がこの集落が最高に栄えた時期だったのが判判る。それから70数年が経ち、戸数は半分以下となってしまった。今現在の戸数は判らないけど、共同体としての環状の村づくりは、過去200年あまりの、ここに棲む人たちの大きな力となってきたに違いない。それが薄れ、集落が消えてゆくとすれば、人間どもの営みには何か、どこかが誤っているような気がしてならない。残っている昔を訪ねる度に強まる感慨である。 

じょんのびの里高柳に泊る

道の駅:じょんのびの里高柳に泊るのは2度目である。前回が何時だったかは忘れてしまったが、もう10年くらいは経っているのかもしれない。前回も訪ねたのは休日で、何かのイベントがあったらしく、広い駐車場は車で埋め尽くされており、駐車スペースを探すのに苦労したことを覚えている。今回も日曜休日なのだが、先ほどの祭りを味わったために着くのが遅くなり、駐車場は殆ど空いている状況だった。

名前の「じょんのび」というのは、この地方の方言で、「ゆったり、のんびりして、芯から気持がいい」という意味だそうで、この道の駅はそれを目指して運営されているということである。ここには温泉もあって、ありがたいことに65歳以上は割引きがあり、100円も安くしてくれて450円となっている。多くの日帰り温泉施設では、地元優先策をとっていて、他所者は高い価格が設定されているケースが多いのだが、ここは大らかで地元との差別をしていないのが嬉しい。温泉に入るのは、多くの老人の楽しみであり、それによって疾病の減少が実現できるとすれば、これは大きな福祉政策ともなるように思う。ま、このようなことは老人が調子に乗って言い募ることではないのだけど。ということで、老人夫婦は温泉に浸かってじょんのびの時間をたっぷり堪能したのだった

 

 

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