山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

安達巌鎮魂の旅(2)

2010-02-28 03:27:32 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

第1日 <9月21日()

自宅→(常磐道・首都高速・東名道)→海老名SA→厚木IC→(R246)→道の駅:ふじおやま(静岡県小山町)→(沼津からR1へ) →(静岡・藤枝・掛川・袋井・磐田・浜松・豊橋経由)→道の駅:田原めっくんはうす(愛知県田原市)(泊)348km

今回の旅は、旅くらしではない。只ひたすらに安達巌という人物の一生に思いを馳せ、彼との短いお付き合いの中に得た、重い無限の感動の深さを再確認したいと思っている。

時は恰(あたか)も彼岸である。彼岸というのは、仏教の世界で、此岸(しがん)に対することばなのだが、悟りなどとは無縁の普通の人間のイメージでは、この世(=此岸)とあの世(=彼岸)とがつながるひと時の行事をイメージするようである。この世とあの世とは、間違いなくつながっているように思うが、それを立証すべき科学的な根拠は存在しないようだ。世の中には、何でも証明しようとする人たちが多いが、自分自身は証明とは無縁の世界があっても構わないと思っている。その代表的なのが、この世とあの世のつながりである。

なるべく早く出発したいと思っているのだが、とても早朝の6時や7時出発は不可能で、相棒(=邦子どの)の血液が体中を循環して平常の行動を起こせるまでには、目覚めてから最低2時間は必要なので、最初から諦めている。世の中は、邦子どののような人ばかりなのであろうか?時々疑うことがある。自分の場合は、いきなり早朝に起きて、飯を食っても走っても、何らかの行動を起こすのに何の支障も無い生き方をず~っと続けてきた。(この方が疑問をもたれるべきなのかもしれないが)これは両親から頂戴した真にありがたい身体を自分なりに鍛えてきたおかげなのだと思っている。

今日の予定は、都心を抜けて、可能な限り大阪に近いところまで行くことだけなので、遅い出発でも構わないのだが、それでも都心通過の渋滞に巻きこまれることだけは避けたいと思っている。しかし、相棒の生態は渋滞を必然的に受け入れるものとなっている。今日も、その予想通りの出発となった。

住んでいる守谷市から大阪へ向うには大別して3つのルートがある。一つは東海道を行くコース、二つ目は中山道を行くコース、そしてもう一つは北陸道から入るコースである。いろいろ考えた結果、今回はまともに東海道を行くことにした。しかし、東海道を行くには、どうしても高速道を使わなければならない。安全面、費用面からも高速道は避けたいのだが、そういうわけにも行かず、厚木までは高速道で行くことにした。そこから先は一般道の予定である。常磐道から首都高の入口までは順調な流れだったが、首都高に入った途端、大渋滞で、30m進むのに30分もかかるような状態だった。9時に家を出て、東名の海老名SAに着いたのは丁度12時だった。渋滞が無ければ、この半分の時間で到着できるのにと、急ぐわけでもないのに愚痴が出る。厚木ICからはR246に入ったが、これまた予想外の渋滞で、今日は一体何処まで行けるのか心配になった。

それでも沼津からR1に入った後は、車の流れは順調で、浜松を通過し、だんだん暗くなってきたので、今日の宿を豊橋近くの道の駅:田原めっくんはうすにすることにした。道の駅到着19時20分。軽く夕食を済ませ、2階のベッド(=バンクベッド)に。ところが暑苦しくてなかなか寝つけない。安達さんのことにいろいろ想いを巡らす。

彼の怪我までの少年時代を想った。昭和14年というのは、どういう時代だったのだろう。日中戦争が始まって2年を過ぎ、第2次世界大戦が始まる2年前である。世の中は軍国主義が拡大の一途を辿っていた時代であろう。彼の実家は大阪大正区で鉄工所を経営していたというから、それなりに裕福で恵まれた環境の中に誕生したに違いない。人間の幸せというのは、基本的にその存在を祝福してくれる者が多いほど満たされる様に思うが、彼の場合も若夫婦に長男が誕生したということで、家族初め従業員一同が祝福の声を上げたことであろう。大阪大正区は、運河に沿って小さな造船所や鉄工所が多く数えられる場所だが、往時は今以上にものづくりの基地の一つとして活気があったに違いない。鉄工所では橋に係わる仕事が多かったとか。橋梁の製作に係わっていたのであろうか。詳しいことはよく分らないが、祖父の力は相当なもので、そのボンボンとして少し我がままに育った父親と松竹歌劇団に入っていたという母との新婚生活は、産声を上げた長男を真ん中に順調な滑り出しであったに違いない。

しかし、往時の世の中は戦争の暗雲が立ち込め、日中戦争は次第に泥沼化し、やがては国際社会の中で日本の立場は、抜き差しならぬものとなり、世界大戦へと向っていった。そして遂に2年後の昭和16年12月8日、日本はアメリカに宣戦布告し第2次世界大戦へと突き進んでいったのである。2歳の彼には、それがその後どのような意味を持つことになるのかなど、判るはずもなかった。そして4年半を超える長い戦いの後、日本は降伏し戦争は終わったのだが、この間安達家は跡形も無く破壊し尽くされてしまった。軍需に無縁の工場であっても、敵国から見れば、そのような識別など無用なのだ。戦争というのは元々殺傷と破壊の怨念が籠められた人間の醜悪を極めた行為であり、異常者の行為である。その直接の被害を被った人は、この戦争では無数といっていいほど多かった。広島や長崎の原爆被災地、そして東京大空襲でも一瞬にして家も屋敷もそして全ての家族の生命までも失った人は多い。せめて生き残られたということだけでも、声の無い慰めとして受け止めざるを得なかった人が大勢居たのである。

巌の家族は家や財産の全てを失ったが、両親は無事だった。命からがらという日が何日も続いたに違いない。幼い子を抱えてねぐらも定かでない日々が続く中で、巌の後に誕生した妹はジフテリアという伝染病に罹り幼い命を失ったという。医者も医薬品も不足の貧しく厳しい医療環境の中では、今では耳にすることも無い病気も、抜き差しならぬ大病であって、いのちを保持することが難しかったのである。戦争は、直接の被害の他にも、国と人々の生活の全てに悲惨な爪痕を残し続けたのであった。ジフテリアで亡くなった彼の妹も明らかに戦争の犠牲者である。

昭和21年、巌は国民学校の1年生となる。現在の小学校は、翌昭和22年からの新しい学制であるから、巌たちが最後の国民学校生だったということになる。そのような制度の如何に関わらず、子供にとって初めての学校入学は興奮のできごとであったろう。どんなに貧しくとも、多くの新しい友達とのふれあいの場は、世の中を渡ってゆく第一歩として、全ての子供たちにとって期待と不安の綯()い交ざった大きな大きなできごとに違いない。そして巌にとってもまたそれは嬉しくも楽しい時間であったに違いない。

しかし、戦後の混乱は安達一家にとっては、親戚や知り合いを転々と移り住まざるを得ないような厳しい生活環境だった。学校への通学もままならず、子供にとっては、辛い時期であったに違いない。そんな中でも運動神経抜群の巌は、決してめげることなく幼少年時代の日々を送ったのだと思う。父親のやんちゃはその時でも幾つかのエピソードの記憶となって後の巌の頭の中に残っていると聞いたが、彼の生き様に最大の影響を与えたのは、父ではなく、この時期の母であったに違いない。ともすれば破滅的な行動をとりがちな父に対して、子供の目からは母親の言動はまさに慈母としての影響力を持ったに違いない。この影響は生涯を貫く巌の信念につながっているに違いない。

そして運命の日(昭和23年5月4日)が来るまでは、厳しい環境ではあっても(当時はそのような厳しい生活を強いられた人たちの方がむしろ普通だったといえるほど、貧貪の世の中だったのである)両親の庇護の下に、巌少年はそれなりに充実した毎日を送っていたに違いない。……………

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安達巌鎮魂の旅(1)

2010-02-27 03:50:45 | くるま旅くらしの話

今日から、今から4年前に亡くなった、我が畏友安達巌の鎮魂の旅についての記録を掲載します。最初に簡単に安達巌と私の関係などについて書かせて頂き、旅の概要と旅に出る前の感慨などを紹介させて頂きます。旅の記録内容は明日から掲載することにします。

安達巌のこと:(敬称を略しています)

安達巌は両腕のない画家でした。小学校3年生の時の感電事故で両腕を失った彼は、絵筆を口に咥えてキャンバスに向かう人となりました。しかし、キャンバスに向かうことが出来るまでに、彼の舐めた辛酸は筆舌に尽くし難く、そのことを書くのは到底無理だと私は思っています。逆境のあらゆる難関を乗り越えて、彼は画家になったのです。世に絵描きは多いといえども、彼ほど人間としての可能性を証明した画家を私は知りません。その意味は、絵画の面だけではなく、生身の一人の人間としての可能性の証明ということなのです。彼の絵は優しい。とてつもない優しさです。そして精緻な描き方です。身体のハンディなど微塵も感じさせない絵なのです。大作も多いのですが、100号の大作の殆どは学校などに寄付してしまっています。社会への奉仕、貢献にもその努力を少しも惜しまなかった彼の生き様の証明でもあるのです。

私が彼を知ったのは、20年ほど前のことでした。勤務先の仕事の中で、絵画の購入を思い立った時に、めぐり巡って障害者の方の作品と出会うこととなったのでした。その時、世界身体障害芸術協会を通じて何点かを購入させて頂くこととなったのですが、その絵がかなり溜り出したときに、絵画展を開催したらという企画が提言され、それが実現することとなったのでした。社員のボランティアによる手作りの絵画展だったのですが、これが大きな反響を呼び、その後は会社として全国的に展開することとなりました。(現在でもこの絵画展は継続されています→三菱電機ビルテクノサービス社のホームページをどうぞ)その最初の頃に、協会を通じて実演活動に派遣されて来られたのが安達巌でした。

私はその時初めて彼に会ったのでしたが、会う前からその精緻を極めた絵に驚き、何ともいえぬ感動を味わっていました。実演の場での彼は、来客とのコミュニケーションを大切にしながら、次々と色紙に朱竹や墨竹を描いていました。口に絵筆を咥えた人が一心に絵を描く姿は、来客者に多くの感動を与え、生きる勇気を与えたのでした。少し名の知れかけた絵描きならば、決して人前で見世物風の絵など描くものではないと思っているに違いないと思います。けれども安達巌は、そのことを十分に承知の上で、敢えてこの役割を買って出て、ここに来てくれたのでした。障害者に対する世間一般の誤解を、少しでも少なくしてゆこうという姿勢が、彼をそうさせたのだと思います。私は感動しました。そしてその翌年から、新入社員の入社教育の中に、特別講演として彼に話をして頂くことをお願いしたのですが、彼は快くそれを引き受けてくれ、それに実演までも加えて、若者たちに感動を与えてくれたのでした。以来、私が会社を去った後にも、彼の特別講演は続いていたのでした。

会社での仕事との係わりが安達巌とのお付き合いの始まりだったのですが、その後、私の彼への尊敬心はいや増し、仕事を離れてのお付き合いに発展し、大阪の彼の自宅にも何度かお邪魔をし、我が家にもお越し頂くという間柄となりました。といってもそう頻繁に会えるわけではなく、年に1~2度会ってお互いの近況などを話し合うようなことなどが殆どでした。その中で、彼がさりげなく話す昔話や経験話の中に、私はドキリとさせられるものを何度も感じ、そこから多くを学ぶことが出来たと思っています。大学を出た自分には、多少の躓(つまづ)きや悩みはあったとしても、本当の意味での挫折はなかったように思います。それに対して彼の人生は、事故で両手を失い、その後直ぐに母を失い、父の愛情も得られず、小学校中退という、強烈な逆境から出発しています。

順境に育った者には、本当の喜びや悲しみが解らないのではないかという疑問が、なぜか長いこと私の心の課題だったのですが、安達巌という偉人に会って以来、その意味が次第に解ってきたと思っています。私は嬉しいとか悲しいということばをうっかり使わないように気をつけているつもりですが、それは安達巌と出会ってから一層確信を持つようになりました。安達巌も又嬉しいとか悲しいとかいう言葉を安易に使ってはいませんでした。本当の喜びや悲しみは言葉ではないということを、真に知っているからに違いないと思っています。

いろいろな思いをこめて、私は彼を畏友と呼ぶことにしました。畏友というのは畏(おそ)れ多い友ということですが、それは人間としての生き方に関して、心の深い所で繋がっている友ということでもあろうかと思っています。何でも打ち明けて話せるというのではなく、もっと重い世界で教えを受けるという友なのかも知れません。私には畏友と呼べる人物は安達巌しかいないと思っています。そして彼は私の中では永遠に不滅であり、今も心の中ではっきりと生き続けているのです。

 

故安達巌鎮魂の旅(概要)

期間:2006年 9月21日~9月27日

宿泊日数:6泊7日

総走行距離:1,483km

旅の人:山本拓弘&山本邦子

旅のくるま:SUN号   

<旅に出る前に>

大切な友は、何人か直ぐに顔を思い浮かべることが出来るが、その中で畏友と呼べる友は、たった一人と言ってよい。その安達巌が突然倒れ、回復することも無くあっという間に幽界へ旅立った。愕然とするばかりである。

人の一生は、誰にでもそれなりに劇的な出来事が幾つか用意されているように思うが、安達巌の一生は人間の持つ美醜相克の硲(はざま)をのた打ち回りながら生き抜き、決して浄化への道を忘れなかった、壮絶な世間と自己に対する戦いの連続であったように思う。

その戦いの浄化への道は、まだ志の半ばであったに違いない。しかし、天は人間が運命と名付ける非情な仕打ちをもって、彼を幽界へと誘(いざな)ってしまった。そのことは返すがえすも残念である。私自身に悔いが残る以上に、それは安達巌ご本人にとっても無念の極みであったに違いない。

その意味魂の旅に出ようと思った。彼の歩んだ人生のほんの僅かの部分に過ぎないけど、彼の来し方に思いを馳せ、彼の人生の重さを再確認しようと思った。そして、あらためて彼の冥福を祈ろうと思った。

※ 安達巌について詳しいことをお知りになりたい方は、彼の画集をお求めになれば良いと思います。(1冊2000円送料別)お問い合わせは、TELFAX 072-977-1994安達昌子さんへ。

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予告(安達巌鎮魂の旅)

2010-02-26 02:08:31 | くるま旅くらしの話

昨日は眠り爺の話となり失礼しましたが、毎年春先のこの季節は、私にとっては真に憂鬱な日々が続くときです。思考能力が消え去って、残るのは涙とくしゃみだけといった感じです。そして薬を飲めば眠り姫ならぬ、眠りジジイに成り果てるわけでして、何とも早や救いようがありません。

そのようなこともあって、只今はちょっと心穏やかにものを書くという心境になれないものですから、明日からは過去の旅の記録の中から未発表のものを取り出して何回かに分けて掲載させて頂きたいと思います。

ところで過去の記録の内、どれを何時発表したのかが良く判りません。チエックすれば良いのでしょうが、整理がついておらず、それを実行するのは困難です。今までのブログは書きっ放しなものですから、うっかりすると二重の発表となってしまう心配があります。幾らなんでもそれは避けなければならないと思って、これはずっと発表すまいと思っていたものを、思い切ってその禁を解くことにしました。

私の畏友(いゆう)の洋画家安達巌は、2006年の9月にこの世を去りました。このブログでも何回か書かせて頂きましたし、とくに昨年の10月には、奥様の必死の尽力による遺作展が、大阪の上本町の近鉄デパートで開催され、大反響を呼びましたのでお耳にされている方もいらっしゃるのではないかと思います。奥様は只今亡き夫の自叙伝を書こうと取り組んでおられますが、その完成が楽しみです。遺作展の反響の大きさなどから考えますと、私がこの旅の記録を発表しても特に問題はないのではないかと考え、その気になった次第です。

彼が亡くなった年の秋に、彼の鎮魂の思いを胸に、家内と二人で小さな旅をしました。家を出てから大阪に向かい、彼の位牌の前で冥福を祈った後、彼も縁のあった高野山に参詣しました。この旅の中で、彼の生い立ち、来し方を想い、そのことを書き止めることにしました。よって、この記録は普通の旅の記録とは異質のものだと私自身は思っています。5冊の記録を作成し、3冊を安達家に、2冊を我が家に保管することにし、それ以外は作成も配布もしないということに決めています。それは今も変わらないのですが、旅の内容については、オープンにしても特に困るようなことはないと思いますので、今回思い切って発表することにしたわけです。

人生にはいろいろの出来事がありますが、大切な友を喪うことは、肉親を喪うのと変わらぬほどに悲しみは深いものです。安達巌は絵描きでしたが、その絵は生命(いのち)を削ってのものでした。その絵は、両手を失うという障害を持つ人が描いた絵とは思えぬ、細密で力強さと優しさの溢れる絵でした。しかし、私は絵の出来具合の素晴らしさよりも、彼の人間としての偉大さに心を奪われてきました。辛酸を嘗め尽くして、茲まで大きく人間というものの可能性を証明した人は、私の知り合いの範囲の中では、彼以外には一人もおりません。大きな大きな存在でした。それ故に畏友なのです。

その鎮魂の旅の記録を明日から掲載することにします。4年も前の記録ですので、内容の中には今となっては遠い過去となってしまっていることも含まれています。改めて4年という時間の過ぎる速さを、この記録を読み返しながら気づかされて、驚いています。

記録は、日中は普段のくるま旅、夜間は安達巌の生い立ちや来し方の回想などを記すことにしています。明日から掲載を開始します。

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春眠

2010-02-25 06:25:33 | くるま旅くらしの話

眠い。いやあ、眠いのです。この詩のとおりです。尤も眠いのは明け方ではなく、念のためにと飲んだ鼻炎の薬の所為のようで、日中の後半からでした。今日は朝一番で菜園の耕起を行い、その後は買い物などで午前中を過し、午後は殆ど眠りの中でした。とてもブログの記事を書ける状態ではなく、気分はまだ春眠の中にいます。失礼します。

 

   春曉   

         孟浩然

 春眠不覚暁

 処処聞啼鳥

 夜来風雨声

 花落知多少

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河津桜

2010-02-24 05:13:50 | 宵宵妄話

春になると人は花を見たくなります。花はたくさんありますが、何といっても花といえば桜ということになると思います。野草に関心のある私でさえも、桜の花は別格だと思っています。

今日は久しぶりの春を感ずる暖かな一日でした。先日ネットで桜の開花などの情報を調べていましたら、河津桜のことが書かれており、既に開花しているとのことでした。関東一円で早咲きの桜といえば、何といっても河津桜です。この頃はご本家の河津町だけではなく、他のエリアでも咲いているという声を聞くようになりました。

河津桜は、ご存知のように伊豆の河津町で発見された新品種で、寒緋桜と早咲きの大島桜との自然交配によって生まれたものとのことです。昭和30年(1955)年に発見され、同49年に原木のある町の名を採って河津桜と命名されたと、どなたかのホームページに書かれていました。1月下旬に蕾を持ち、2月の上旬から開花が始まるとのこと。この桜の特徴は、開花期間が長いことで、約1ヶ月も咲き続けるということですから、真に有難い花といわなければならないと思います。

     

満開の河津桜。河津川に沿って植えられた桜は3kmにも及んでいて、真っ青な空の下に紅色の長い花のトンネルをつくっていた。この写真は4年前の様子。

私共も何度か河津のご本家に桜を見に行きましたが、それはそれは見事なものでした。信じられない季節に魔法のように艶やかな花を咲かせて、春を待ち焦がれる私たちを迎えてくれるのです。同じ季節に咲かせた菜の花とのバランスがこれ又見事で、殺風景な冬景色に厭いた人びとの心を心底から慰め、元気づけてくれる感がしました。

   

菜の花はこの季節最高の引き立て役を演じてくれている。むせるような花の色を落ち着かせてくれる黄色である。これも4年前の写真。

その河津桜が、何と守谷市の隣の取手市にもあって見頃を迎えている、というような情報が新聞に書かれていたのを思い出し、ちょっと行ってみることにしました。取手市は人口11万人で人口6万人の守谷市のおよそ2倍の規模の町ですが、利根川に面し、小貝川が市の中を流れているという点では守谷に良く似た地形といえます。違うのは、江戸時代からの宿場町をして栄え、常磐線が通ったことで早くから都心に通う人たちのベッドタウンの一つとして発展してきたということがあります。今は常磐線電車のほかに相互乗り入れの地下鉄もあり、茨城県南のゆるぎない交通拠点の一つとなっています。守谷市は、その取手市からは関東鉄道に乗り換えて20分もかかるロケーションにあり、不便さを託っていましたが、平成17年のTX(つくばエクスプレス)の開通により、現在では浅草まで30分足らずで行けることとなり、取手よりも至便な交通環境を持つこととなりました。

閑話休題。取手の河津桜は、市役所の構内の土手にあると聞き、行ってみたのです。隣町の市役所へ出向くのは初めてのことです。私の家からは車で20分ほど、人口も多いだけあって庁舎の建物も守谷市よりはかなり大きいなと感じましたが、本体の建物はコンクリート剝き出しで汚れており、全体として調和のない実務本意の庁舎群だなと思いました。庁舎を飾り立てない分だけ、市民のために税金を無駄に使っていないことなのかもしれません。でも、もう少し調和と清潔感のある庁舎であってもいいのではないかと思ったのは、私も守谷の市民となって少し愛着を覚え出してきているのかも知れません。守谷の庁舎はよりコンパクトですが、遙かにきれいで清潔です。

ところで、幾ら探してもその名所になりつつあるという河津桜が見当たりません。こりゃあ訊いた方が早いだろうと、交通案内をしている方に尋ねたところ、「旦那さん、今年はね、まだ咲いてないんですよ。去年の今頃は咲いていたんですけどね。今年は寒がったからねえ。」という話でした。俺は旦那なのかな?などと思いながら、教えて頂いた庁舎の西側の土手の方に行ってみると、ありました。

若い桜の木が10本足らず植えられており、その全体が赤紫に膨らんでいて、中には何輪かが花をほころばせていました。数十本もある桜並木かなと予想していただけに、その少なさに少しガッカリしましたが、それは桜たちの所為でも植えた人たちの所為でもなく、私の我がままな欲望の身勝手というものでしょう。このような数少ない桜でも、近隣一番の春を伝える使者として、その存在を認められ出しているということは、やはり賞讃に値することではないかと思いました。小さな苗も何本か植えられていましたが、やがては大きく成長して先輩たちの仲間入りをしてくれるのだと思います。

これらの桜の木を見ていて思いだしたのは、北海道の桜の樹木たちの自然との厳しい闘いの有様でした。北の桜は、勿論品種も異なり千島桜というのが多いようですが、旅をしていてキャンプ場や公園などに寄ると、必ず何本かの桜の木を目にするのですが、内地の桜の木のように大きく成長しているものは少なく、同じ時期に植林されたと見られる、いわゆる同期の桜(?)は、生き残って逞しく成長しているものが少ないように思われました。風雪で枝のみならず幹までが痛めつけられ、それを乗り越えて年輪を重ねるのが難しいのだろうなと思わされるのです。残念ながら北海道の桜の花を見たのは、函館の少し北ぐらいまでで、それ以北は花の季節に訪ねたことがありません。今頃彼らたちは、雪の中でじっと春を待っているのだろうなと思いました。

それに比べると、この地の河津桜は恵まれているなと思いました。春を待ちかねた人間どもがやたらにやってくるのは迷惑かも知れませんが、見られてこそ花でもあるといえますから、ま、少し我慢をして早めに花を咲かせて欲しいものだと思いました。いやはや勝手な話でした。

   

取手市役所構内にある河津桜の開花状況。只今咲き初めというところか。今頃の状態でも良く見ればそれなりの美しさが秘められ、輝いている。

 

拙  著  刊  行  の  ご  案  内

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真壁の雛祭りを見に行く

2010-02-23 00:38:19 | くるま旅くらしの話

今頃になると、毎年真壁の雛祭りを見に行くのが我が家の定例行事になっています。我が家といっても、行くのは家内と私だけの二人で、倅共が行くはずもありません。休日ならば一緒に行けるかもしれませんが、休日は大変な混みようなので、行けば疲れを背負い込みに行くだけになってしまいます。今日は月曜日、混雑も収まっていることでありましょう。と言うわけで、9時半過ぎに出かけたのでした。

我が家からは小1時間ほどの距離にあり、到着したのは10時半を少し過ぎた頃でした。いつもの駐車場は、思ったよりも混んでおり、これは予想を超えていました。地元の車が多いのは当然ですが、県北や県外からの車も結構多くて、観光バスも何台か留っていました。駐車料は200円。リーズナブルです。このようなイベントの場合は、ドサクサに紛れて高額の駐車料金を吹っかける所が多いのですが、ここには町の良心の様なものを感じます。

   

真壁のひなまつりのポスター。この時期は町のいたるところにこのポスターが貼られている。それだけで春めいた華やかさを感じる。

通りを歩く人は結構多く、皆さん思い思いに展示されている雛飾りを楽しみながらの散策です。今年は去年よりも出展された家の数が増えて、去年の178軒から191軒と13軒も増えていました。それほど大きいとも思えない町並みですが、これだけの数のお雛様を出されているというのは、相当に力を入れておられるのを感じます。古い年代のお雛様はさすがに少なくて、これはもうこれからも増えることは考えられませんので、新しく出展された方は、やはり新しいお雛様が多いのだと思います。

   

江戸時代のお雛様。小さくて判りにくいが、雛人形は時代を反映してつくられており、往時の人びとの思いを窺うこともできるようだ。

ここの通りは歩行者天国となっていないため、お雛様に気をとられている通行人の多い状況では、ちょっぴり危険だなと思いました。何しろ来訪者の殆どは高齢者の世代であり、若い世代は皆無といって良いほどです。平日に雛祭りを楽しめる世代は、もう限定されてしまっている様です。お年寄りは、車に対しては意外と危険意識が薄く、基本的に車というのは自分を避けて通るものだと思っている人が多いようです。おしゃべりに気をとられている人も多く、私だけがヒヤヒヤしっ放しという感じでした。

正直言って、私にはお雛様もその飾りのことも良くわかりません。綺麗だとか、可愛いとか、親の愛情だとか、そういうことは勿論感じますが、それ以上のことはさっぱり解らず、何軒かを覗いている内に、皆同じように見えてきてしまいます。そうなるともう写真を撮るのも面倒になり、後は町並みそのものを味わいながら歩き回るだけとなります。今までの雛祭りの見物もいつもそのような調子でしたが、今年もまた同じようなこととなりました。

   

石材に刻まれたお雛様。真壁は石の町でもある。地元から切り出す石材だけではなく、外国からの石材も取り扱われているようである。

雛祭りの町を歩いていて気になったのは、同世代や少し上の世代の男性陣の存在でした。殆どが夫婦や団体で来訪されているようですが、男どもは、雛人形への愛着のようなものは、女性と比べて薄いようで、その見物の様子といえば、ただ女性陣の後ろに付いて、ぶらぶら歩くだけの人が多いようでした。金魚の糞のようなありようです。写真を撮ろうとしても、そのようなことはお構い無しに傍若無人に金魚の糞を履行しています。女性陣の会話の中には入ることもできず、無言で遊弋(ゆうよく)しているという感じの姿には、男の成れの果てのようなものを感じて、ちょっぴり気になりました。私自身も直ぐにそうなる可能性がありますので、要注意だなと心の紐を占めました。このような場所に来た時は、家内と一緒に歩くのはやはり避けるべきだなと思いました。勿論今日も別行動でした。

全国を旅していて、古い町並みの残っている箇所を幾つか訪ねていますが、地元の茨城県の中にも、このような所があるのを知ったのは、守谷市に越してきて以来のことなのです。私の生まれ育った県北の日立や水戸は、戦災で何もかもが破壊されつくしてしまったという状況なので、町並みといえるようなものは何一つ残ってはいませんでした。焼け残った個別の建築物は幾つかあったとしても全体として残っているのは存在しないのです。そのような環境での生い立ちの所為か、県内にこのような古い町並みが残っているというのをまったく知らなかったのです。真壁の他にも幾つか町並みが残っている所があるのかも知れませんが、今のところそれがどこなのか判っていません。もう少し地元を訪ねることも大切だなと思いながらの散策でした。

今日の真壁の散策の中では、一番の発見はサイカチの古木でした。もう4回目なのですが、今まで気づかなかったのは不覚でした。サイカチの古木はこの町一番の大樹のようで、天然記念物に指定されていました。個人の屋敷の中にあり、樹齢も樹高なども説明がなく少し残念でしたが、実物を見る限りでは、あまり保存状態もよくない感じがして心配を覚えました。このような老木は、個人任せではなく町(今は桜川市)が保存に力を貸すべきだなと思いました。古い大樹を眺めていると、自ずからこの木の辿った時間に思いを馳せ、この町の歴史を知りたいという気持ちになれるのです。今は冬で枯れ木のように佇んでいましたが、青葉をつけた頃にもう一度来てその雄姿を見たいなと思いました。

   

本日一番の出会い。町の天然記念物に指定されているサイカチの古木。冬の間は老人の正体を現しているかの感じがした。早く緑の季節が到来するのを願わずにはいられない。

2時間近くの雛祭りに賑わう町並みの散策でしたが、殺風景な冬の季節の中で、このようなイベントに出会えるのは、嬉しいことだなと改めて実感した次第です。そして、今の時代がどうなっているのか見当もつきませんが、展示用の雛祭りだけではなく、ささやかな一体だけの人形であってもいい、幼子たちが両親や家族一同の愛情に包まれて雛祭りを楽しみ喜ぶ、団欒のひと時がある暮らしが続くことを願わずにはいられませんでいた。

 

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どこも大体同じという旅

2010-02-22 01:26:44 | くるま旅くらしの話

先日TVを見ていたら、日本全国を旅して回ったというお婆ちゃんがいて、その方の感想が「大体皆同じ」というものでした。これを聞いていて、少なからず驚きました。大体皆同じという感想の旅とは、一体どのようなものなのだろうか、と。

私どもは毎年夏の北海道を訪れてもう10年以上になりますが、10回行っていても大体同じとはとても思えないからです。毎回似たようなコースを取ったりしているのですが、必ず何か新しい発見や出会いがあり、似たようなものといえば、食べている物と飲んでいる物くらいで、その他は全部違うように感じています。

旅というのは、勿論旅をする人の思いや目的に叶っていればいいことで、その感想が皆同じようなものでも、或いは全く違っているということでも、それは自由であって一向差支えないのですが、くるま旅こそが現代の旅の本命なのではないかと考えている私から見ると、何だか気の毒で可哀想のように思えてしまうのです。もしかしたらこれは私の思い上がりなのかも知れませんが、どこへ行っても同じようなものという旅の仕方は、少なくともくるま旅をされておられる方には、語って欲しくない感想のように思いました。

日本全国を回るという旅を、最短の時間で実現しようと思えば、いろいろな旅行社が企画されているパックツアーを、各エリアごとに1週間程度で回るなら、合計十数回で全国を見て回れるいう計算になるかもしれません。例えば北海道だって5日間で一周するという企画が行なわれているのですから、そのペースならもっと短時間で日本一周が実現できると思います。しかし、それが本当の旅といえるのかどうか、私には疑問が残ります。勿論旅には違いないのですから、文句などいうつもりは全くありません。ただ、疑問があるというのは、私の考えている旅の中身というか、形からはかなり違っているということなのです。

私の亡き父母も、父の退職後は何度か国内の旅に夫婦で出かけておりましたが、その殆どは旅行社の企画したツアーで、忙しない日程の中での観光の旅でした。それまでなかなか夫婦で旅などする余裕のなかった父母の人生の中では、それなりに満足のゆく旅だったと思います。でも恐らくどこへ行ってもスケジュールに追いかけられて、もう少し見たかったとか、ゆっくりしたかったという思いがあったのではないかと思います。決して不満など言うはずもないとは思いますが、もしかしたら父母に感想を聞いたなら、まあ、どこへ行っても大体同じようなもの、というような感想だったのではないかと、ふと思ったのでした。

旅の思い出を強く刻むためには、ただ景色や食べ物や温泉入浴を楽しむというだけでは、足りないものがあるように思うのです。それだけなら、感想は恐らく、大体同じようなものとなってしまうような気がします。では何が必要かといえば、やはり新しい発見や出会いなのです。既存のツアーの旅の中には、残念ながらこれが少ないように思えます。もし、ツアーの旅の企画の中に、最初から参加者のために様々な出会いや発見の材料が組み込まれていたとすれば、恐らく新種のツアーとして脚光を浴びるかも知れません。しかし、今のところそのような旅のメニューは殆ど用意されていない感じがします。

くるま旅は、そしてくるま旅くらしは、このツアーやパック旅行の限界をいとも簡単に突き破り、乗り越えた旅の形だと私は思っています。そしてこの旅を実現できる条件は、現役の方たちよりもリタイア後の世代にこそたっぷり可能性が与えられているのです。私が同世代の方たちに向かってくるま旅くらしを提唱しているのも、旅を通しての人生の確実な喜びを本当に味わえるからと考えるからなのです。

先日のキャンピング&RVショーの中で開催されたフォーラムの中で、旅が健康にもたらす効果というか、健康に大きく寄与するという考えが披瀝されていましたが、まさに我が意を得たりの感じでした。高齢者が元気になれる要素をくるま旅はたっぷり含んでいます。発見や出会いの感動という刺激は、人生を大きく健康化します。それは若者たちだけではなく、高齢者であっても何ら変わることはありません。

TVのお婆ちゃんが、皆どこも同じ、と言われた内容が、私の誤解であって、どこのへの旅も皆素晴らしかった、という意味の同じであれば、何の疑問もないのですが、是非そうであって欲しいと思っています。今日は旅について、ちょっと気になったことを書きました。

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ブログの異常現象

2010-02-21 00:01:12 | 宵宵妄話

普通でないこと、いつもと違う状況を異常というのは、まさに読んで字の如しなのですが、このところ私のブログでは異常現象が続いています。先週あたりからブログへの毎日のアクセス数が急激に増えて、それまでの3~4倍もとなったのです。これに伴い訪問者数も確実に50人くらいは増えて、一体何がどうなったのだろうかと、嬉しいよりも心配の方が先になっています。幾ら世の中は気まぐれだといって、こんな偏屈ジジイのブログに、まさかサイバー攻撃でもないでしょう。

現在gooのブログには、約137万件の加入があり、毎日訪問者数が多い順からその1万番までの順位が発表されるのですが、長いことそれらは自分には無関係なことだと思っていました。それがある時突然そのランク付けに入ったことがあり、びっくりしたのですが、その後も偶にランク入りすることがあったりして、半年ほど前からはランク入りの頻度が少しずつは多くなってきてはいました。それが、このところ一挙に毎日4千番~8千番台くらいになってしまったのです。特にアクセス数の方が異常で、多い日は1400を超えるようなこととなりました。それまではせいぜい500台を超えるのがやっとでしたのに、一体何が起きているのかと気になり出しています。

私のブログは、くるま旅くらしの記録や思いなどを紹介するのをベースとしていますが、そのイメージしている対象は同世代もしくはその前後の世代の方たちです。ネットを自在に使いこなしている世代とは少し違って、ブログを読まれる人の数が、ある程度限定される世代なのだと思っています。ですから、そのような世代の方たちがアクセスを一挙に増やすなどとは到底思えないのです。その上に、私のブログは、時々写真を載せたりはしていますが、概して長文が多く、従って理屈も多く、頑固老人の思い上がりのトーンの書き散らしといった感じがあり、とてもじっくり楽しみながら読んで頂けるような代物ではないと思っています。要するに読みにくい、というのが的確なコメントだと思っています。倅なども、お父さんのブログを最後まで読むのは大変だ、などといっていますので、若い世代の人からは全く振り返ってもらえない現実の中にいると思っています。

これらのことは、委細承知済みなのです。世の中の多くのブログを拝見しますと、短文と画像・映像と記号・絵文字などが多用されていて、面白おかしく、時にちょっぴり哀しみに触れたりしていて、その構成内容がスマート感あふれるものが多いのですが、私にはそのようなことができるはずもなく、チャレンジしてみょうなどという気持ちも全くありません。有名人といわれる方たちのブログの殆どが、みな同じようなスタイルに見えるのは、私が老人である証拠なのかもしれません。

敢えて老人ぶるつもりもないのですが、若者の軽さに合わせて自分も一緒に若返ろうなどと言う気にはなれないのです。老人は老人なりのスタンスで、人生の終わりを全うしたいと思っています。画像は大切だと思いますが、あくまでもメインは文字であり、文章なのだというのが私の考え方なのです。

一昨年あたりから、毎日5千字以上を書くというのが自分に課したノルマなのですが、この中でブログの占める割合が一番大きく、殆どがブログだけで5千字近くになってしまいます。この他に日記と雑文やメモ等を併せると、書かなかった日を含めても目標は概ね達成されたと思っています。そんなに毎日書きまくって、どんなつもりなのかと不思議に思われるかもしれませんが、本当に伝えたいものを伝わるように表現するためには、書くという修練が絶対に必要だと思っています。この修練は終わりのないものだと思っていますが、その修練の先に目指しているのは、エッセーを書くということです。自分で納得のゆくエッセーが100篇も書けたら、それを土産に残してあの世に行くのもいいなと思っています。

ブログの中には、エッセーの卵が幾つか入っていると自分では思っていますが、それを孵化させ育てる力が自分にはまだ不足しており、その力の向上は書くこと以外に道がありません。毎日四苦八苦しながらの取り組みですが、しかしこの苦しみは必ずしもつらいものではなく、喜びなども時々付随しているのです。その喜びの最大のものは、何といってもブログを読んで頂けるということです。なぜなら、書くというのは、ただ自分のためにだけではなく、むしろ誰かに自分の思いを伝えたい、読んで頂きたいという思いの発露でもありますから、直接・間接にその反応を感じた時は、本当に嬉しく思うのです。たとえそのコメントが厳しい批難の内容であっても、何かが伝わっていると思えば、それだけで嬉しいのです。

ですからブログのアクセス数が急増したということは、私の喜びも急増したということになるのですが、ここで生来の天邪鬼が動き出し、まてよ? これは何なんだ、と心配になったわけです。世に「好事魔多し」ということもあります。とかく好いことには邪魔が多いということわざですが、「上手くいっている時が、実は一番危ない状況なのだ」と学生時代恩師から聞いたことばが耳に残っており、それがどんなときでも消え去らないのです。疑い深い性質(たち)なのかもしれません。

でもこの恩師の話されたことばは、真実をついているように思います。脱線しますが、例えば日航の会社更生も、トヨタの今のピンチも、皆絶好調の時の油断から来ているところがかなり見受けられるように思います。ものごとが何ごとも順調に運んでいる時が一番危険な時期なのだという認識が働いておれば、恐らく違う道が続いていたのではないかと思えるからです。ま、これは大変難しいことであり、そう思っていてもなかなか行動にまで移せるものではないようです。とかく人間は良いことがあれば、舞い上がって有頂天になってしまう存在なのですから。

今回のブログの異常現象は、素直に受け止めれば、私にとっての大きな励みになると思っています。とにかく有頂天にならない範囲で、素直にこの現象のパワーを自分への励みとして使わせていただこうと思っています。このような長文だらけのブログを読んで下さる方が、毎日200人以上もいらっしゃるということは、真に有難いことであり、毎日1000回を超すアクセスを頂けるというのも、実に嬉しいことです。心からお礼申し上げます。

新しく訪問された方には、今日のブログだけではなく、過去のブログの中から気に入ったものを掘り起こしてお読み頂ければ、こんなに嬉しいことはありません。

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連理の木

2010-02-20 03:59:17 | くるま旅くらしの話

先日NHKの連続朝ドラを見ていましたら、酢橘(すだち)やみかんを作っているおばあちゃんへのインタビュー場面の中で、おばあちゃんが「連理の枝」という話をしていました。木の枝と枝とがつなぎ合い結び合って、二本の幹を結ぶ共通の枝として存在するように、人と人との結びつきも同じようにそれぞれの一部となるという話でした。亡きおじいさんとの連理の枝の話をされているのが印象的でした。インタビューをした若い女性記者には、初めての言葉だったらしく、彼女もいたく感銘を受けたようでした。

これを見ていて、実際に見た連理の木というのを思い出しました。4年ほど前の5月に佐渡への旅をしたのですが、その時に片田舎の神社の森の中にその樹を見たのです。佐渡は平成の大合併で島全体が一つの市になってしまい、場所の説明が少し難しくなりますが、確かあの神社があったのは、小木の隣町の羽茂(はもち)町という所だったと思います。この町外れ辺りの田んぼの脇に少し小高い丘があり、そこに草刈神社というのの社が建っていました。私たちがそこを訪ねたのは、連理の木を見ようとしたのではなく、農村歌舞伎ならぬ能を上演する舞台を見ようとしたからなのです。

     

佐渡市羽茂町にある草刈神社。さほど大きくはないが古びていて風格のある雰囲気の神社である。

佐渡は観世流能楽の大成者ともいわれる世阿弥が、この島に流されたこともあり、その影響を受けたのか、島内にはたくさんの能舞台が現存しています。私自身は能のことは全く知識も見聞の経験もなく、従って殆ど何も解らないのですが、佐渡に来てその舞台を何回か見れば、何とか理解できるのではないかと密かに思っており、その下地として今回は幾つかの能舞台を見てみようと思ったのでした。何しろ家内の方は、以前から薪能に憧れており、まだしっかり見たという経験がないものですから、大騒ぎ()なのです。佐渡の能は、主に田植えの終った後の6月頃に各地で上演されるということですが、訪ねた時は5月であり、そのような情報を得たのも現地に行ってからでしたので、上演を見ることは出来ず、上演をする舞台しか見られなかったのです。

草刈神社の能舞台は、藁葺き屋根のいかにも農村らしい、素朴な風格のある佇まいをしていました。家内もすっかり魅了されたらしく、ワクワクしながら舞台の見学をしていました。5月の初めは丁度これから田植えの農作業が始まるという時期で、勿論能舞台などを構っている人は誰もおらず、恐らく神主さんも田んぼに入って田植えの準備に勤(いそ)しんでおられたのではないかと思います。神社も無人という感じでした。

   

草刈神社野能舞台。全体をと、少し離れた所から撮ったのだが、上手く写っていないのが残念。ここの能舞台は、茅葺屋根でつくられている。6月の中旬に能が演ぜられるということだった。

さて、その神社に参拝して、その後社の周りを歩いていますと、白い説明板立っているのに気がつきました。行ってみると「連理の木」という見出しで、次のような説明が書かれていました。

「連理の木 樹種:サカキ(本サカキともいい、暖地性で佐渡にはない木である) 

連理:二本の木の幹や枝が一つになっているのをいい、男女の仲のむつまじい様とされる。 

〇白楽天の『長恨歌』の中に『天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん』とある。 

〇また、草刈神社の祭神スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治して、クシイナダヒメを助け、ヒメとの新居を作られるときに詠まれた御歌に、『八雲起つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣つくる その八重垣を』とあって、夫婦相愛の歌、日本最初の和歌といわれる。 

草刈神社社務所

という内容です。後半のこれは古事記だったかの一文だと思いますが、連理の木と直接どう関係するのかが良く解りませんでしたが、まあいいやと思いました。

それで、その案内板に書いてある矢印の方に行きますと、ありました。連理の木というのが在ったのです。いヤア不思議というか、もうそれを通り越して少し不気味な感じがしました。サカキの樹というのは、木の肌が茶色ですが、その茶色の木の半ば中間下辺りの枝が、ぎゅっと突き出してそれが隣の同じ樹の幹に繋がっているのです。決して細い枝ではなく、かなり太いものでした。よくもまあこのような現象が起るものだなあと思いました。

   

草刈神社境内にある連理の木。2本のサカキががっちりと太い枝で繋がっている。相当に強い絆で結ばれている感じがした。

連理というのは、理が連なるということで、理というのはここでは木の木目のことを指すのだそうです。お互いの木目を共有するというのは、もはやこれは一体化したといってもいいのかもしれません。科学的にはどのような説明が出来るのかわかりませんが、植物にはこのような不思議な力が備わっているということなのでしょう。

ところで、私が初めて知った連理の木というのは佐渡の羽茂町の草刈神社のそれだったわけですが、日本全国を見てみれば、幾つかの名木があるのだというのを、後で調べてみて初めて知りました。今までは佐渡のものまでも全く忘れ去っていたのですが、これからはこれら植物自然界の不思議を、旅の間に訪ねてみたいと思っています。

考えてみれば、ドラマのおばあちゃんの、連理の枝という話は、男と女の一組の生き方について、或いは人と人との本物の交わりというか、心の通わせのあり方について、実に含蓄あることを語っていると思います。勿論それはドラマの作者、或いはシナリオライターの方の思いの吐露でもあったのだと思いますが、見事な使い方だったと拍手をしたい感じがしています。

一般論はともかく、私自身の家内との連理の枝はどうなっているのか、子供たちとのそれはどうなのか、又兄弟姉妹たちとの枝はどうなっているのか、思いを巡らせば、もしかしたら枝と枝とが触れ合ってもいない箇所があるように思えて、心に深く反省を覚えるおばあちゃんのセリフなのでした。

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雪が積もった!そして消えた

2010-02-19 00:18:16 | 宵宵妄話

ここ数日底冷えのする日が続いていましたが、とうとう雪らしい雪が降り積もりました。昨日の天気予報では夜遅くから明け方には雪になるという話でしたが、午前2時ごろはまだ降っておらず、又空振りか明け方にちょっぴり降る程度だろうと思いながらの就寝でした。守谷という所は、昔でいえば下総地方に属しており、常陸とは気候風土が少し違って、暖かい感じがします。茨城県の天気予報という場合は、多くは県都の水戸を指していることが多いようですが、県南はどちらかといえば、千葉や東京に近い風土といえるような気がします。

   

我が家のメインツリー(クロガネモチ)の葉の上に降り積もった雪。あまり重さを感じさせないのは、やっぱり春の淡雪だからなのだろうか。

ところが朝起きてみると、真っ白の世界が広がっており、庭の樹木たちの枝葉の上にも綿のような白い雪がうっすらと降り積もっていました。ニュースでは、関東地方の雪は茨城県を中心に降っているとか。珍しいことだなと思いました。普通関東地方の雪といえば、栃木県や群馬県など高山の連なる山沿いの方の話だと思っていましたが、今回は違ったようです。守谷にもしっかり降り積もっているのを見ると、やっぱりここも茨城県だったのだ、などと改めて変な安心感のようなものに抱かれるのは、県北で育った者の潜在意識がなせる業なのかも知れません。

積もる雪を見るのは、何年ぶりかと思うほど久しぶりのことです。守谷に越してきてから6年目になりますが、確か今朝が2度目ではないかと思います。積もらない雪と積もった雪とでは、雪に抱くイメージが全く違います。積もらない雪は寒く、積もった雪はなぜか温かく感じられます。北国の人たちが、安心して雪国に暮らせるのは、降り積もった雪が温かさを感じさせてくれるからではないかと、ふと思ったりします。ま、雪国に住まわれている方からは、何を言ってるのか、とお叱りを頂戴しそうな話ですが、雪が滅多に降らず積もらない地方に住む者には、ある種の憧れというか、雪に対するイメージがあるのです。

   

キャンカー(SUN号)の屋根にも、淡雪が5CMほど積もっていた。早く出番が来る日を待っているのに。

このような雪の世界を、くるま旅をして見たいなという思いがあるのですが、それを実行する勇気がないため、実現していません。そして、これからも行かず仕舞いになると思っています。雪道や凍てついた道路を運転する勇気がどうにも湧いてこないのです。冬の車の運転は、苦手意識が強く、まだ一度もチャレンジしたことがありません。北海道には冬の出張で何度も行っていますが、タクシーに乗るのも恐ろしい感じがします。スリップして停まるのが当たり前というような世界で、車を運転しようとは思いません。

というのも私は小さい頃からウィンタスポーツが全く苦手で、スキーもスケートもする気が起こらないのです。今冬季オリンピックが行なわれていますが、正直言ってさほど関心がありません。そもそも何故そのような苦手意識が生まれたのかといえば、子供の頃に凍った田んぼで遊んでいる時に頭と尻を思いっきり打ち、酷い目にあった経験があり、それ以来もうあのような場所には絶対に行かないぞと決めたのでした。それを古稀を迎えるまで守っているというのですから、吾ながら呆れた話です。北海道や東北など、寒い地方に生まれなくて良かったと思います。(いや、その反対かも知れません。今から50年前の北海道なら、スキーやスケートなどは生活の一部に入っているに違いなかったと思いますから)

もしスキーやスケートに興味・関心があったならば、冬場でも車を駆って雪の世界に出かけて行くのでしょうが、特にこの歳になればそのような蛮勇はどこを探しても出てこないのです。それにもかかわらず、雪の世界に対する憧れはかなりのものがあるというのですから、相当の天邪鬼ということなのでありましょう。車はともかくとして、一冬で良いから雪深い里に一人(家内は絶対同行はしないと思うので)一軒家を借りて住んでみたいなどとも思うのですが、恐らくそのようなことをしたなら、春先になって、布団の中に生きも絶え絶えになって横たわっている老人が発見されたなどというニュースになってしまうかもしれません。ま、思いだけでやめておくのが無難ということでしょう。 

   

街路樹に雪の花咲く。ハナミズキは落葉樹なので、枝に積もった雪は美しい。汚れた花を見るよりもこちらの方が上かも。

閑話休題。久しぶりの雪なので、消えないうちに写真を撮ろうと家の周りを一回りしました。門の前の公道に雪が全く積もっていないのは、路面が温かかったからなのか、それとも時々行き交う車の所為なのか、全面真っ白という景色とはなっていませんでした。車庫や樹木の積雪も3cmほどですから、それが当たり前なのかも知れません。でも道の両側の街路樹(ハナミズキ)の枝には降り積もった雪が花を咲かせており、なかなかの景観でした。我が家の庭のブルーベリーや梅の枝にも、ほんわりと雪が積もって、何ともいえない温かさを覚えました。心なしか樹木たちもこの雪を歓迎しているのではないかと思いました。

 

左はブルベリーの小さな林(5本)の雪。右は梅の枝の雪。開花間近な蕾に淡雪が何ごとかを囁きかけている感じがした。

部屋に戻って、窓の外に降り続ける雪を見ながら、雪見酒でもやろうかなどと家内と話をしていると、庭の隅の方に動く物があるので、目をやると、何と何処かの首輪に鈴をつけた猫が横切って行くところでした。ちょっとびっくりしました。というのも、雪が降れば、普通猫はコタツで丸くなり、犬は喜んで外を駆け回るというのが相場なのに、この猫はいつもの猫道を散歩に出かけてきたようなのです。いやあ、この頃は猫も雪の世界に浮かれ出すのですかねえ。それとも守谷の雪は珍しいので、猫も興味津々で探索に出かけたということなのでしょうか。東北の猫たちはこれをどう見るのかな、などと性もない妄想にしばし吾を忘れたのでした。

その雪は9時くらいには降り止み、午前中には日陰のホンの一部を残して跡形もなく消え去ってしまいました。日差しが回復すると、今朝の出来事は幻だったのではないかと思うほどでした。もし毎日雪が降り続き、根雪の上に更に積もってという世界ならば、このようなノーテンの感想などは決して持てないのだろうなと思いつつ、雪国に住む方々の労苦と我慢強さを思ったのでした。一瞬の幻想のような時間でした。

 

拙 著  刊 行 の ご 案 内

この度、前著の続編として、「山本馬骨のくるま旅くらし読本」(副題~60歳からのくるま旅くらしの楽しみ方という、くるま旅くらしのガイド書を刊行しました。くるま旅くらしの意義、考え方、楽しみ方の理屈や事例などを紹介することにし、又付録にくるま旅くらしに関する何でもQ&Aを付加しました。これから新しく、くるま旅くらしを始めようとされる方には、これ一冊で旅の要領の凡そがお解かり頂けると思います。

初版20冊はすでに無くなり、第2版が出来上がり、15冊を追加しました。手づくりです。少し高額で心苦しいのですが、1冊1000円(送料・振込手数料込み)でお頒けいたします。(送料と振込手数料だけで400円超となるため原価の回収が出来なくなってしまうものですから)

ご希望の方は、メールpdl-taku.9930@themis.ocn.ne.jp)にて〒、住所、氏名、冊数をご記入の上お申し込み下さい。お支払いは、同封の振込用紙にて最寄りの郵便局にてお振込下さい。メールのPdllはLの小文字です。

※より詳しく内容をお知りになりたい方は、私のホームページ「山本馬骨のくるま旅くらし元帳」にアクセスしてご覧下さい。

 

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