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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

いんねの会

2015-07-31 04:14:24 | 宵宵妄話

 我がふるさと、茨城県の北部の方の方言では、「いらない」ということばを、「いんね」と言います。「いんね」というのは、拒否のことばです。最近は、方言は標準語とやらに毒されて、次第に力を失いつつあるようです。尤も、自分など今頃はすっかりその毒の中で暮らしており、「だっぺ」だとか「だっぺよ」などということばをすっかり忘れてしまっています。これは良し悪しの問題ではなく、暮らしと文化の流れの中でそうなってしまうのですから、何ともしようがありません。

 ところで「いんね」という方言は、茨城県限定ではなく、栃木県や群馬県辺りでも同じような意味で用いられているようです。どのように用いられているかといえば、

「おはぎが一つ余っているけど、食べませんか?」

「いいや、私は糖尿病なので、おはぎなどを食べたらダメなのです。残念だけど、要りません」

これを、今から80年ほど前の、我がふるさとのおばあちゃんの会話に置き換えると、多分次のようになると思います。

 「ボダ餅が一つ余ってんだけど、おめえ、食うけ?」

 「うんにゃ、おら糖尿病ちゅって、お医者がら言われでっから、そんなボダ餅なんぞ食ったらだめだっぺ。悔しいけど、いんね」

となると思います。「いんね」という意味は、このような会話の文脈からは想像がつくことで、初めてそれを耳にしてもそれほど戸惑いはないのではないかと思います。しかし、いきなり「いんね」と表示された場合は、何のことか解らないと思います。

 先日栃木県の矢板市に接する塩谷町の道の駅に寄った時に、その途中「いんねの会」と書かれた幟が何本もはためいていました。一体何の集まりなのだろうかと思いました。この地方では、何か「いんね」に特別な意味があって、それを大事にするグループの人たちの活動か、などとも思いました。しかし、道の駅に着いて、改めてそれを見てみると、「いんねの会」というのは、「いらないの会」という意味なのだというということが判りました。何が「いんね」なのかといえば、それは何と「原発事故の放射性物質汚染指定廃棄物最終処分場候補地」はいらないということなのでした。少し前に矢板市がその候補地となっていたことはニュース等で知ってはいましたが、それがいつの間にか隣の塩谷町に変わっていたとは知りませんでした。

今回この道の駅に寄ったのは、一つ目的があってのことで、この町には「尚仁沢湧水」という名水があるからなのです。予てからその水を汲んでみたいと考えており、今日はその下見ができたらいいなと思い、何かその情報はないかと寄ったのです。名水には興味関心大で、旅の途中で気づけば必ず寄って汲むようにしています。塩谷町は我が家からは少し遠いのですが、日帰りができない距離ではなく、隣接するさくら市にある喜連川温泉に出かけた時にでも足を伸ばして是非汲んでみたいと思っていたのです。

そのような名水の湧く町に原発事故の放射能まみれの廃棄物の処分場を造るというのは、一体どういう感覚なのかと驚き呆れました。しかもその担当が環境省というのですから、これは酷いものです。環境省というのは、環境を守るというのが本来の仕事であるはずなのに、よりによってこのような場所を候補地に選ぶとは、驚くべき愚劣さです。この国・環境省と塩谷町とのやり取りを方言に訳すると、次のようになると思います。

 国・環境省:「あのよ、原発事故で出て来た放射性廃棄物を、この町で処理してもらえねえがね。どうせ、山ん中で使えねえ土地が一杯あんだっペ。放射性て言ったって、低レベルだし、処理場は外さ漏れねえように、完璧に造るんだし、安全上は問題はねえんだ。これは内緒だけんど、町の財政にはう~んと協力するからよ。何とか国全体のためにも引き受けてくんねえが?

 塩谷町:「いんね、いんね、そんなもん、絶対にいんね~よ。」

 誰がどう考えたって、塩谷町がこんな提案を受け入れられるはずがないのは明白です。恐らくこの提案の背景には町の財政にとって極めて有利な条件が示されているのでしょうが、そのような目くらまし策に乗るようでは、町の未来は先細りになるのは必定でしょう。日本国のどこかにそれが必要だとしても、それがこの場所だというのは、理に叶わないこと甚だしいように思います。

私はそのようなことを知って、直ちに「いんねの会」に入会した気持になりました。県外の野次馬であっても、我がふるさとと同じ方言を持つこの地に、しかも名水が湧く、大自然の恵み豊かな地に、そのような恐ろしい処分場を造るなどということがあっては、断じてならないと思います。

その後どうなったのかは不明ですが、元々原発を推進してきたのは国であり、電力会社だったのですから、もっともっと全知全力を挙げて候補地を探すべきでありましょう。ロクに現地も見ないで、紙の上で選定するというのは、出来の悪い横着な役人のやりがちなことです。

現在の原発政策には、大事故の反省が活かされてはおらず、目先の利便・効率性を求めることしか視野にないように思われます。馴れ合いの性質を多分に含む規制委員会などは、人道を無視した科学者の自信の無い思い上がりが窺われ、国民のためにその使命を果たしているとは思われません。国は早急に原発の稼働を止め、エネルギー政策を他に転換すべきです。放射能除去装置でも開発されない限りは、放射能を生み出す物質を利用するようなエネルギーの生産は避けるべきです。

「いんねの会」には、「いんね」ということばが不要となるまで、大声で「いんね」を貫いて欲しいと思います。決して目くらまし策などに引き回されたりしないことを心して。

 

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ソースかつ丼の功罪

2015-07-26 10:04:22 | 旅のエッセー

 佐渡への旅の途中に、行きと帰りの二回会津地方を訪ねました。福島県は面積の大きい県で、天気予報などは3つの区域に分けて報道されています。東の太平洋側は浜通り、中央エリアは中通り、そして西のエリアは会津となります。会津といえば会津若松市を中心に西会津、南会津、奥会津などの山岳地帯が続いています。今回訪ねたのは、南会津町の前沢集落(国の重要伝統的建造物群保存地区指定)、下郷町の塔のへつり(国の天然記念物指定)、大内宿(国の重要伝統的建造物群指定)などでしたが、只見町他の奥会津エリアも幾つかの道の駅に寄りながら通ってきましたので、これらのエリアの凡その様子は理解することができたと思います。

 さて、今回の会津訪問の一番の目的は、何度も傍を通っていながら、まだ一度も訪ねたことがなかった会津若松市内の鶴ヶ城をじっくり見て回るということでした。ようやく旅車を留められる駐車場を見つけて、その目的は達成されたのですが、実はもう一つ楽しみの目的がありました。それは会津名物の一つであるソースカツ丼なるものを食べてみたいということなのです。

糖尿君との長いお付き合いのこともあって、ハイカロリーの食べ物は敬遠せざるを得ない状態がずっと続いており、このような目的を掲げるのは、健康管理上真に遺憾であり、且つ危険なことでもあるのです。しかし、残りがさほど長くもない人生ならば、偶には魔が差す振る舞いがあってもいいんじゃないかと、と、まあそう思った次第です。

 会津のソースかつ丼をどうしても食べてみようと思ったのかは、実は自分にはカツ丼に対する思い出とあこがれの様なものがあるからなのです。それは、高校時代のクラブ活動(バスケットボール部)定例の新年会で、毎年それを食べるのが楽しみとなっていたからなのです。何しろ勉強などよりも運動を優先させていたその頃の自分には、育ち盛りということもあって、常に空腹を忘れられない身体状況だったのです。

因みにその頃の毎日といえば、午前中の4時限の授業の内2時限が終わると10分間の休み時間に持参の弁当を食べ終え、お昼には売店でパンを買って大急ぎで食べた後は、体育館に直行して走り回って遊び、午後の授業が終わると部室に入って着替えて、18時半過ぎまで練習するという毎日でした。練習が終わると、帰宅に向かうのですが、通学は水戸駅からJRの単線の列車(水郡線)で、いわゆるSLという奴に乗って約50分間、参考書を開きながら眠りと戦い敗れ続け、家の最寄りの駅で降り、それから山道をひと山越えて30分ほど歩き、家に着くのは21時近くとなります。もはや教科書など開く気にもなれず、夕食を済ませれば後は寝るだけです。

往時の食糧事情は戦後間もない頃(小学生時代)から比べれば、かなり改善されて来てはいたものの、それでも我が家は麦めしが主体で、そのような家は珍しくもない時代でした。今の様に健康のために麦めしを炊くのではなく、米が足りなかったのです。そのような時代でしたから、カツ丼や天丼などという外食は、滅多にお目にかかれるものではなく、何か特別な時でもない限り口にすることは難しかったのです。

高校の部活の新年会では、先輩も何人か来訪されて、後輩との交流戦の後、城跡の下(わが母校は水戸城址の本丸に在りました)にある食堂に注文したカツ丼を取り寄せ、皆で歓談しながら食べるのが定例となっていました。この時に食べるカツ丼は、確か店の名が「ばか盛り食堂」というところが作ってくれるもので、文字通りボリューム大の「ばか盛り」の一品だったのです。一年に一度の大御馳走なのでした。今思い出しても、いやあ、あれは美味かったなあ。世の中にこんなに美味いものがあるんだというのを実感した、人生最初の時間でした。あれから60年になろうとしている今でも、それを超えるカツ丼はまだ現れてはいないのです。

全国には様々なカツ丼があります。西日本(高松・福岡)に計12年暮らしましたが、こちらのカツ丼はどこで食べても馴染めないものでした。メリハリがない味で、カツのうま味を台無しにしている感じがしました。名古屋の味噌カツ丼はそれなりの味があって好きなのですが、自分の遠いイメージのカツ丼とは違ったタイプなので、比較は無意味です。30年ほど前に関東に戻って以降はカツ丼を食べる機会がないまま糖尿病を宣告され、一挙に縁が遠くなってしまったのです。

それがここに来て会津のソースカツ丼というのを食べてみたいと思ったのは、前述のように、残り少ない人生なのだから、もう一度思い切ってあの昔につながるような奴を食べてみたいと、急に思いついたのです。というのも、会津エリアの旅の情報を集める中の「食」の部では、ソースカツ丼が一番の様に喧伝されているのを見て、昔のカツ丼を思い出したのかも知れません。糖尿病と30年近くもつき合っていると、偶には敢えて裏切ってやろうという気持が湧くのを止められなくなったのかもしれません。

ということで、幾つかの店を選び食べてみることにしたのですが、旧市内にある店の殆どは、旅車を置く場所が見つからないのです。いろいろ調べた結果、郊外なら大丈夫だろうと、河東町にある十文字屋という店を選びました。老舗というわけではなさそうでしたが、ネットで見ると、ボリュームの大きいのが自慢のメニューがあって、面白そうだなと思ったのです。

11時半ごろに行ってみると、20台くらいは留められる駐車場は満車近くになっていて、危うくセーフでした。十文字屋はカツ丼の専門店ではなく、ラーメンや餃子などもメニューにある、普通の食堂という感じの店でした。カツ丼には4種類のメニューがあって、磐梯カツ丼、ミニカツ丼、ヒレカツ丼、ミニヒレカツ丼とありました。早速、ヒレカツ丼というのをオーダーすることにしました。出来上がるのを待ちながら、周囲の人の様子を見て驚きました。普通の丼ご飯の上に巨大なカツが聳(そび)え立って4枚も載っているのです。とても一度で完食できるものではありません。どうするのかと見ていたら、食べられなかった分はお皿にとっておいて、後でパックに入れて持ち帰りができるようです。自分も完食の自信は全くありません。

間もなくテーブルの上に注文のヒレカツ丼がやってきました。いやあ、圧倒されるボリュームです。子供の履く草鞋の半分くらいはありそうな、ソースをかけられたカツが3枚載っていました。4枚載っているのは、磐梯カツ丼という奴の様です。2枚くらいなら何とか平らげられそうだと、早速チャレンジです。ソースに秘密があるのか、それがカツと微妙にバランスしていて、美味いものだなと思いました。これほどのボリュームのトンカツなるものを口に入れたのは何年ぶりなのでしょうか。糖尿君との付き合いが始まって25年近くが経ちますから、それを超えているのは間違いありません。

     

会津若松市河東、十文字屋のヒレカツ丼。磐梯カツ丼は、ヒレ肉とは違うけど、これにもう一枚のカツが載って出てくる。

1枚を食べ終えた時、残りを持ちかえりにしようかと迷いましたが、もう少しいけそうなので、さらにチャレンジすることにしました。しかし、全部はとても無理で、1枚は夕食に回すことにしました。家内もふうふういいながらどうにか2枚を収めたようでした。もう、完全に満腹です。そのあと、その日の目的地のある新潟方面へ向かったのですが、途中でどうしても眠くなり、運転に危険を覚えて、西会津の道の駅で1時間ほど熟睡しました。

高校時代のあのカツ丼の味とはやはり違ったものでしたが、それなりにカツ丼の美味さの新しい発見だったように思いました。そのあと佐渡で半月ほど過ごして、帰りに再び会津を通ったのですが、どうやらあのボリュームと味に毒されてしまったようで、再び十文字屋を訪れ、今度は4枚もカツが載っている磐梯カツ丼にチャレンジしたのです。これも2枚止まりで、それ以上一度に食べるのは無理で、夜の部に回したわけですが、何だか今までずっとコントロールされていた枠が消え去った気分で、久しぶりの開放感に浸りました。

さて、それから3週間が過ぎて、糖尿病の定期検診に行ったのですが、前回6.4だったHa1cの数値がなんと7.3%にもなっていたのです。2か月の間にこれほど高くなることは珍しく、医師も首を傾げられていました。自分自身も多少は高くなってるとは思ってはいたのですが、まさかこれほどになるとは、まさに想定外でした。

さすがに糖尿君というのは正直で厳しいなと思いました。魔が差すなどという甘えは断じて許さないようです。残りの人生がさほど長くはないとしても、それをわざわざ縮めることはないわけですから、再び糖尿君の言い分を守ることにしました。ま、たった二回のソースカツ丼喰らいの暴走が、このような結果を招来したわけではなく、その他にも佐渡でのはみ出し暴飲や暴食が起因しているのは間違いありません。これからは早急に元のレベルに戻し、さらに改善できるように努める覚悟です。

ということで、今回はとんだバカな話となりましたが、高校時代のあの頃を思い出させてくれた会津のソースカツ丼に感謝する気持で一杯です。そして、今度また会津を訪ねる機会があったら、敢えて糖尿君に逆らって、もう一度ソースカツ丼にチャレンジしたいと思っています。

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キャンピングカーのタイヤバースト事故に思う(2)

2015-07-17 05:11:52 | くるま旅くらしの話

さて、心得の次は、問題のタイヤについて考えてみます。今回の磐越道での事故は、走行中にタイヤがバーストして、ハンドルをとられて中央分離帯に激突し、反対車線に飛び出して対向車と衝突するという大事故だったとのことですが、何故突然タイヤがバーストしたのか、それに係る原因を考え、予め普段からしっかりしたメンテナンスをしておくことが重要だと思います。

 では普段からどのようなことに気をつけ、取り組む必要があるかを考えてみます。先ずタイヤとはどんなものなのかといえば、これはもう誰でも知っていることで、ゴムを主体とした製品です。この製品を考える場合にユーザーとしては、安全運転のために考えておかなければならないこととして次の三つの事項があると思います。

① 「摩耗

② 「経年劣化

③ 「損傷

この中で日常のチエックで最も基本となるのは③の損傷のチエックでしょう。新品レベルのタイヤでも、何かが原因で傷がついていたり、エアが抜けていたりしている場合があります。車を動かす前の目視点検等は不可欠です。

① の摩耗は、走行距離との関係で見てゆくものだと思いますが、摩耗のレベルはタイヤにある目印でおよその見当をつけることができます。しかし、そんなことよりも旅車の場合は、より早めに交換することが大事だと思います。私の場合は走行3万キロ程度を目安にしています。

② の経年劣化ですが、これは特に旅車を普段滅多に使っていない場合に要注意です。例えば年間5千キロくらいしか走っていない場合、5年間で2万5千キロという走行距離となりますが、一般的にはタイヤの交換は4~5万キロくらいと考えられていますので、まだまだ大丈夫と考えがちです。本当に大丈夫なのかの判断は、難しいと思いますが、私の考えでは、4年以上経ったら無理しても交換するのが肝要と決断します。

 旅車のタイヤ管理の実際では、これら三つの項目をトータルして日常の管理を行っているわけです。私の場合について紹介しますと、損傷のチエックは車を動かす前に毎回必ず行い、タイヤの空気圧も足で押してみて確認するようにしています。又摩耗については、年間の走行距離が1.5~2万キロくらいですので、最長でも3年経過すれば新品へ交換するようにしています。私の車は3トン以上あって重い方ですので、タイヤだけは決してケチったりしないことにしています。経年劣化というケースは、私の場合はあり得ません。

 このように書くと真に当たり前のことと思われるかもしれません。そうなのです、当たり前のことを当たり前のようにきちんとこなすことが大切なのです。それは、いわゆる始業点検ということになりますが、ま、エンジンルームを覗いての点検が毎回必要かどうかは別として、安全走行という観点では、タイヤの入念な点検は不可欠だと思います。頭の中だけで考えて大丈夫だと思いこんでいるケースが、意外と多いような気がします。ご留意ください。

 ところで、毎回きちんとタイヤの始業点検を行っていれば安全かといえば、必ずしもそれだけで絶対安全とはいえません。私の場合は、もう一つ心がけていることですが、「可能な限り高速道は利用しない」という発想です。逆にいえば、できる限り一般道を走って目的地に着く、ということです。何故かといえば、当然のことながら、高速道はスピードを出して走るために、まさかの時には一瞬にして事故に巻き込まれる危険性が高いからです。高速走行は目的地に着くのに時間が少なくて済みますから、短期間で距離のある場所でも多少無理しても到着が可能です。今回の磐越道の事故も、恐らく可愛いお孫さんと一緒の、大阪から福島県方面へ短期間の旅だったのではないかと思いました。500kmを超えるような連続走行の場合は、タイヤにかかる負担は、一般道を走る場合とは大きく違ってきます。摩耗も大きく、熱を持ってきますので、途中の休憩もたっぷり取る必要があります。このような時に、タイヤが劣化していたり、或いは見かけ以上に摩耗していた場合は、突然のバーストに結びつくことになり、高速走行でのバーストが多い原因の一つになっているように思います。これを防ぐには、基本的に高速道は走らないことが第一です。一般道なら仮にバーストしても高速道よりは事故の規模は小さくて済むはずです。

 しかし、決められた期間の中で目的を果たすためには、どうしても高速道の利用が必要な時があると思います。そのような場合は、事前にタイヤの摩耗や空気圧等について専門業者の点検を受け、念には念を入れることが大切ではないでしょうか。私の場合は、毎年夏は北海道の旅を楽しんでいますが、出発前に必ず業者による点検(オイル・空気圧・摩耗度等)を受け、アドバイスを求めることにしています。多少知識があると、安易に大丈夫となりがちですが、遠出の場合は、くれぐれもしっかり事前の点検を行うよう心掛けたいものです。

 昨年だったか、東北道でキャンピングカーが炎上して、これも子供さんが亡くなられるという痛ましい事故がありました。新車だったと聞きましたが、どうして炎上するなどというとんでもない事故になったのか、大いなる疑問でした。後の調査では路上に落下していた金属片が燃料タンクに突き刺さり、そこから漏れた燃料にスパークした火花が引火して燃料タンクが爆発したというような報道を耳にしました。通常では全くあり得ない、信じられない出来事だと思います。これはタイヤなどではなく、悪しき偶然が重なっての事故だったと思いますが、こんなこともあるのか!と驚いたのを記憶しています。同時に、このような事態をどうしたら防げるのだろうかと思いました。夜間の走行でしたから、落下物の発見は困難なことだったのだと思います。しかし、思ったのは、どんな時でも落下物から目を外すような油断は禁物だということ。そして、できるならば夜間の走行は避けて、安全が確認できる時間帯で運転するような計画を立てることだなということです。走行中というのは、ある意味で普通ではない動きの中にあるわけですから、事故の未然防止のためには、旅のプラン、道路(=コース)の選択、時間帯、等など、慎重に決める必要があると思います。

 ま、しかしそうとは言うものの、現実にはどうしても安易になってしまうのが人間としての哀しい性なのかもしれません。「解っていてもそうしない」というのが、多くの事故の真因であることが多いように思えてなりません。「解ったら必ずそうする」という行動のケジメもつことが悲惨な事故を防ぐためにも大切なことではないかと、改めて思いました。

そうそう、タイヤ「冬タイヤを夏は使用しない」ということも、念のため申し上げておきましょう。タイヤのこのような使い方をしている人はあまりいないとは思いますが、中には冬タイヤの方が夏も制動能力が大きいと勘違いされて、敢えて使用している方がおられるかもしれません。これは間違いで、逆効果となります。冬タイヤは、凍結路や氷上などでの制動を良くするために普通タイヤよりはソフトな材質で作られています。これを夏の一般道や高速道で使用すると、逆に制動能力は下がり、摩耗も大きくなってしまいます。年間を通して冬タイヤを使用するようなことは、安全上も絶対に避けるべきです。

以上、自分の経験を通して思いつくことを述べさせて頂きました。くるま旅を楽しもうとする仲間の中から悲惨な事故に巻き込まれる人が絶無となることを心から願っています。また、不幸にして事故に遭遇された皆さまには、お見舞い申し上げますとともに、お亡くなりになられた方々に対して心からご冥福お祈りいたします。

 

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キャンピングカーのタイヤバースト事故に思う (1)

2015-07-16 06:01:03 | くるま旅くらしの話

先日佐渡への旅をした時に、通ったかもしれない磐越道で、キャンピングカーの事故があり、同乗のお孫さんが亡くなり、更に運転者他同乗の方たちも大怪我を負われたとのニュースがありました。真に痛ましい事件で、その原因は後方右輪のバーストということでした。タイヤのバースト事件や事故は報道されているのはほんの一部で、実際には事故にはならないにしても、走行中にバーストしたという話はかなりの数に上るのではないかと思われます。私もくるま旅を始めてから20年近くが経ち、このような事件の話を聞くと他人ごとではないと緊張します。

幸いなことに、私自身はまだ一度もそのような事件に巻き込まれることなく、くるま旅を楽しんできましたが、油断をすれば何時我が身にふりかかる災厄かも知れず、改めて普段の心がけを強化しなければならないと思いました。

そこで、最近くるま旅をはじめられた方やこれから始めようとされている皆様に向けて、このような悲惨な事件に巻き込まれないためにも、私が普段考え心がけていることを紹介し、参考にして頂ければありがたいと思い、以下に記すことにしました。

まず最も重要と思うのは、旅車の運転心得ということだと思います。それは、「普通の車を運転しているのではなく、特別な動く家を運転している」という認識がベースになります。普通車や軽自動車を運転しているのではありません。動く家という特別な車を運転しているのです。うっかりすると、この当たり前の様な事を忘れて、普通の車なのだと勘違いをしてしまうことになりかねません。これが不慮の事故の原因や遠因になっているというケースは結構多いのではないでしょうか。

私がキャンピングカーと呼ばずに「旅車」と敢えて言うのは、旅車はキャンプ(=野外活動・アウトドア活動)用に造られた車ではないということです。本来はモーターホームとかモーターハウスとかいうべきなのに、なぜか日本ではキャンピングカーと呼ばれてしまっています。これはこの車を考える上で大きな誤解を招く要因となっているように思います。というのも、キャンプという場合は野山の中でテントを張っての野営の暮らしをいうのだと思いますが、その代わりにこの車を使えばテントなどを張らないでも済む利便性が強調されることになります。これは本末転倒ともいうべきことで、電子レンジまで積み込んだ車での野営などというのは、何だかインチキな感じがします。キャンピングカーと呼ばれている車は、野営用などではなく、普段家にいる時の暮らしを、違った環境の中でも限りなく可能に出来るようにとの目的で、工夫が凝らされ造られている車なのです。モーターハウス(=動く家)という認識が大切だと思います。

ところで、この特別な車というのは、何が特別なのでしょうか。それは勿論、「家」であるからです。家というのは暮らしの場所ですから、単に建物だけではなく様々な設備が付帯しています。そしてそれらはすべて重量を持っています。重さがあるのです。普通の車には無い重さが加わっているのです。TV、冷蔵庫、電子レンジ、物入れ、水槽、キッチン、テーブル、簡易トイレ、ベッド、オーニング(日除け)等々車によって多少の差はありますが、普通の車には無い装備が付加されており、荷物を積まなくても、元々の重量が大きくなっているのです。このことを当たり前と考えて忘れていると、運転の心得を誤ることになります。

モーターハウスとしての旅車には、基本的に二つの総合的な機能が求められると考えます。その一つはハウスとしての「居住性・快適性」であり、もう一つは車としての「走行性」です。この二つは相矛盾する性質があり、居住性を追求すると重量が増して走行性は悪化することになります。ビルダーはこのバランスを考えながら旅車を造っているわけですが、事故から逃れられる完璧なものなどはあり得ず、最終的にはその車のユーザーの使い方にかかって来るわけです。ユーザーが普通の車と同じ走行性を求めて、居住性による重量のことなど忘れて運転していると、もしこの二つの機能のバランスが崩れた場合、最悪は大きな事故につながることになるわけです。

これはタイヤのバーストという問題だけではなく、その他の部分にも影響を及ぼすことであり要注意です。私の場合は、一度だけ後左輪のベアリングの損傷事件があり、発熱してオイルシールを壊してブレーキが利かなくなり、危うく事故になるところでした。結局真因は不明でしたが、後左輪近くには水槽がありその重量が影響していたのかもしれません。この経験以降は、運転中の異常な現象の察知に努めるようにしています。「大丈夫だろう」という考えや判断は、決して「大丈夫ではない」のです。動く重量物なのですから、常に安全のためのアンテナを全開し、少しでも異常を感じたら無理をせず、専門家の診断を仰ぐなどして早めの処置をとることが大切です。危険というのは、「万が一」以下の「億が一」の確率でも突然やってくるものであり、旅車の運転では、それを忘れてはならないと思います。

もう一つ心得の中で大切なのは、「浮かれ運転をしない」ということです。旅車に乗る時は、これから、いつもとは違う大きな楽しみを期待しているわけですから、普段と違うワクワク感があるに違いありません。それを抑え込んで難しい顔をして運転する必要は全くないことは勿論なのですが、どんなに楽しくても、忘れてはならないのは、前述の「特別な車」を運転しているという現実です。嬉し過ぎて知らず舞い上がり、安全運転の気持が緩んでしまって、同乗の人達との会話などに気をとられて、ハッとしたり、ヒャリとしたりすることが起こり易いものなのです。このような状況を、私は「浮かれ運転」と呼ぶことにしていますが、要注意です。心の油断が、嬉しく楽しい世界から一瞬の間に、これ以上ない地獄の苦しみの世界に突き落とすのです。子供たちと家族揃っての楽しい行楽の場が、或いは孫と一緒の遠出のくるま旅が、悲惨な苦しみの場に一転してしまうのです。運転者は、みんなの嬉しさや楽しさは自分の運転にかかっていると心して、浮かれた気分に酔うのではなく、その分、より慎重に安全運転に努めることが大切だと思います。

 さて、心得の次は、問題のタイヤについて考えてみます。今回の磐越道での事故は、走行中にタイヤがバーストして、ハンドルをとられて中央分離帯に激突し、反対車線に飛び出して対向車と衝突するという大事故だったとのことですが、何故突然タイヤがバーストしたのか、それに係る原因を考え、予め普段からしっかりしたメンテナンスをしておくことが重要だと思います。(以下次回へ)

 

 

 

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佐渡一国を味わう旅を終えて(5)

2015-07-11 05:17:33 | くるま旅くらしの話

◇佐渡の現在と未来を思う

さて、最後に佐渡一国の現状についての印象とこれからの課題と思われる事柄について所感を述べてみたい。市役所を訪ねて頂戴した市政要覧と統計資料、それに幾つかの観光パンフレット、島の新聞などを読み、現地を訪ねたりしての印象などを総合して、一言で佐渡の現状を表わせば、それは「衰微」となるのではないか。R350に沿っての佐和田・金井地区を除けば、佐渡の何処へ行っても活力の漲(みなぎ)りを感ずるのは困難だ。それは日本国の縮図そのままのような感じもする。

日本国は今、止むことなき都市集中と、その裏返しとして地方の高齢化・過疎化というアンバランスの矛盾を抱えており、やがては「衰微」の道を辿っているように思える。現在の大都市の生命を支えているのは、国内の「地方」ではなく、政治も経済も国際関係の中から得るものによって支えられているのだと思う。国際関係が悪化し、大都市を支えるパワー(例えばエネルギーや食糧などの基幹部分)を失った時、日本国は一気に衰微の道を辿る危険性を内包している。もはや国内には大都市を支える力は存在しないのだ。

今の日本国は、大都市と地方という、同じ国の中にあってお互いを支える力を持たないパートナーが同居しているのである。大都市は地方に助けの手を差し伸ばそうとはしないし、地方は大都市から置き去りにされた絶望感のままに為すすべもなく立ちすくんでいる。大都市にはコンクリートの御殿が建ち並び、地方には無人化し朽ちかけた廃屋が増え続けている。このような形で運ばれてゆく国の生命が、未来に向かって成長発展して行くとはとても思えない。

佐渡という一国は、大都市を持たない小国である。現状維持に汲々として、抜本的な打開策を講じないままに過ごしていたなら、衰微のスピードは加速し、やがて自力では生きてゆけないほどの国となり下がるのかもしれない。2013年の統計をみると、市の一般会計予算523億円の内、市税収入は52億円余りで、全体の10.2%に過ぎず、それは市の行政に係る人々に支払う賃金すらも賄うことができないレベルである。財源の大半は国や県からの交付金と市債発行による借金である。この内容からは、既にこの国が自力では生きられない体質となってしまっていることを感じる。

そこで、自分なりに佐渡が活力ある島になるために、どうすればよいかについて考えてみた。たった3週間の滞在からの思いつきを述べるなんて、思い上がりもたいがいにせよという声が聞こえてもいる。でも、ここは図々しく何点かを述べさせていただきたい。

これからの佐渡の活性化のためには、先ず何よりも佐渡は一つとならなければならない。平成の大合併で10市町村が一緒になって佐渡市が生まれたのだが、各地を回っての印象としては、まだ佐渡市とはなっていないなと感じた。観光に関しても、合併前の各自治体の考えがそのまま尾を引いていて、全体がまとまって外部からの来客を受け入れようというような雰囲気が少なく、それぞれの地区が勝手に企画運営を行っている感じがした。

新しい佐渡市がこれから何を柱として、どんな市を創ってゆこうとしているのか、市政要覧や統計データなどを見てみても、見えては来なかった。良さそうなことは書かれていても、それは他のどこの市の言い方と同じような内容で、大した新鮮味はなく、独特の現状打破への勢いの様なものは感ぜられなかった。「佐渡の金銀山跡を世界遺産に」という取り組みが強調されていたけど、仮にそれが登録されたとしても、一時の話題で終わるに過ぎないものであり、佐渡の真の活性化にはつながらないだろうと思った。

思うに佐渡は、やはり観光立国が大きな柱の一つだと思う。しかし、今の様な各地バラバラの、現地任せ中心の観光資源の活用の仕方では、来客を増やすのは不可能と思う。統計によれば、H9年に年間95.3万人だった観光客が、H23年では53.2万人と、42万人も減少している。これは世の中全体の動きや、外国観光客などの影響もあってのことかもしれないけど、年を経るほどに激減しているこの異常な流れは、その抜本に行政と観光に係る関係者の無策と怠慢があるように思える。

佐渡市は多くの観光資源に恵まれている。それを最大に活用する工夫が不足しているのではないか。例えば、佐渡といえば佐渡おけさというイメージがあるが、佐渡に来ても特定の時期に、限られた場所でしかそれらを見られないとしたら、混雑を嫌って佐渡に来るのを諦める人は多いだろう。しかし、例えば「宵乃舞」の様な企画が幾つも生まれて、随時(といっても月に1回くらいか)佐渡に行けば佐渡らしい芸能が楽しめると判れば、佐渡へのリピーターは増えるに違いない。羽茂祭りだけではだめなのである。「宵乃舞」1回だけではだめなのである。

地元が来客を迎え受け入れ、同時に観客も一緒になって楽しみに参加できるような企画が必要なのだ。佐渡にはそれをつくる資源と基盤が備わっている。今のままの、既存の企画の繰り返しだけではなく、新しい企画を打ち込んで行く姿勢が佐渡を活性化するのに不可欠だと思う。観光協会は宿の紹介と道案内だけをしていてはダメなのである。如何にして観光客を呼び込むかの新しい企画を加盟する人たちに示し、彼らの心を動かしてゆかなければならない。そして、市の為政を司る人たちは、それ以上に知恵を働かせ、観光立国のアイデアを打ち出さなければならない。若し自分たちの智恵の限界を感ずるのならば、他所の知恵者を活用すればいいのだ。為政者の無策は、古来より国を滅ぼす根源となっている。

もう一つの佐渡市活性化の柱は、農林漁業等第一次産業の立て直しではないかと思う。佐渡には田んぼが多い。野菜畑などは副業的な生産しかしていない感じがする。田んぼが多いからこそ、かつてトキとの共生が成り立っていたのであろう。一旦絶滅したトキを外国の力を借りて復活させたのだが、このために田んぼの果たす役割は大きく、再度途絶させないための今後の稲作には、厳しい試練が待っているように思う。市政要覧によれば、H23年6月にトキと共生する佐渡の里山が「世界農業遺産」に認定されたとのことだが、この背景には稲作に係る農家の理解と協力が不可欠だったに違いない。無・減農薬の稲作は、トキとの共生には不可欠だが、一方で米の生産者にとっては、過分な負担を強いられるものではないかと思う。トキの住める田んぼから収穫された米に「朱鷺と暮らす郷」の名称をつけて、若干高い価格で販売しているが、気になるのは、生産者にどれだけ還元されているのか。生産者が従来の米づくりからの転換に対して、何の不満も持つ必要が無いほどに、リカバリーがされているのかということである。

JAが米作りに深くかかわっているとすれば、JAは市の当局と力を合わせて、トキとの共生が可能な農法で生産された「朱鷺と暮らす郷」の販売に関して、もっともっと全国的なPR活動を推進すべきであろう。トキへの国民の関心は高いけど、そのトキを養っている田んぼの実態を知らず、関心も薄いのが現状だ。「朱鷺と暮らす郷」のネーミングの米は、世界農業遺産認定の農法で作られているというのが判るようにして、大都会などへ売り込む必要があるのではないか。都会の中に協力してくれる消費者は少なくないと思う。生産者が報われるという環境づくりに、市当局とJAはもっともっと汗を流す必要がある。

又町の中を歩いていると、時々「地産地消」という幟が立っているのを見かけた。シャッター通りとなってしまった両津のアーケード街の中にも、しょんぼりと垂れ下がった「地産地消」の旗があった。まさか地産地消が、掛け声だけで盛り上がり、実現するとは考えてはいないとは思うけど、その旗を見ていると、ここにもJAや当局の無策の姿勢を感じてしまう。地産地消の実現には、それを可能とする仕組みが不可欠だ。佐渡ではいったいどんな仕組みが作られているのだろうか。生産者と消費者をどのようにつなごうとしているのだろうか。そもそも地産地消のコンセプトをどうとらえているのだろうか。うなだれた旗を見る限りでは、只の虚しい掛け声で終わっている感じがする。

どの地においても、JAの農家に対する怠慢は呆れ返るほどだが、市の当局も掛け声だけだとしたら、これは寂しい。米と柿だけで佐渡の農産物の地産地消は成り立たない。作付けの内容を工夫し、消費者のニーズに応える農業が必要なのだ。当局の関係者は、全国各地に点在する、地産地消システムの先進者に多くを学ぶべきではないか。佐渡の中に居て、堂々めぐりの発想では、いい知恵は浮かびにくいのではないか。そんな風にも思った。

 この他にも感じたこと、思ったことは、いろいろあるのだが、もう止めることにしたい。佐渡は衰微の道を辿ってはいるけど、やり方によっては、活力あふれた街づく、国づくりが十二分に可能なのだ。本土からの距離も丁度よい遠さであり、幾つもの観光資源を有している。これらを活かし、更に自然との共生を重視する第一次産業を盛りたてて行けば、衰微などとは無縁の世界が拓けて来るに違いない。出来ない理由など探すのは止めて、市税を20億円以上も上回る人件費を無駄にしないためにも、当局の皆さんにはより一層の奮起を期待したい。

いずれまた佐渡を訪ねることになると思う。今度はもっと老人らしい穏やかな目線で佐渡のいろいろを楽しむことにしたい。一国を味わうことの難しさもあったが、何はともあれ、今回の旅からは、たくさんの宝物を得たように思う。3週間もお世話になった佐渡に心から感謝したい。ありがとうございました。(了)

佐渡への旅の報告はこれで終わりです。この先しばらく旅の予定はありません。お疲れ様でした。

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佐渡一国を味わう旅を終えて(4)

2015-07-10 04:22:19 | くるま旅くらしの話

◇佐渡の大自然の味わい

芸能のことから離れて味わう佐渡の大自然では、一番はやはり大野亀に自生するトビシマカンゾウの花たちだったと思う。ニッコウキスゲやエゾキスゲなどのカンゾウ類の花は、全国の幾つかの群生地を見て来ているが、佐渡のトビシマカンゾウの花を見るのは初めてだった。ニッコウキスゲよりは少し大きめの、そして花の色は同じ鮮やかな橙色の美しい花を咲かせていた。日本海の厳しい寒風や氷雪に晒される、佐渡外海府海岸絶壁の上で生き続けるこの植物には、花の優しさからは想像も出来ない逞しい生命力が潜んでいるのだと思った。最盛期を少し過ぎてはいたけど、彼らが命の花を咲かせてる様を存分に楽しむことができて満足だった。カンゾウたちに混じってミヤマラッキョウの花が見られたのもラッキーだった。

    

    トビシマカンゾウの花。群れ咲くのもいいが、一株の個体の花も逞しく美しい。

それからもう一つは大自然の中で逞しく生き続けている羽吉の大桑との再会の感動がある。9年前に初めて会った時のその巨大な山桑の樹は、まだ若葉をつける前の季節だったこともあって、疲れ果てたよぼよぼの老人のような幹を天に晒したような姿だったので、大丈夫なのかと心配したのだが、今回は実こそつけてはいなかったけど、幹を包んで目一杯茂らせた若葉に、千三百年の生命の輝きを放っていた。この樹は、勿論自分などよりははるかに長く、これからも数百年は生命を長らえるに違いない。又それ以上であって欲しい。そのための条件としては、佐渡の自然環境が悪化せずに維持できなければならないのだと思う。そして、それは人間の暮らしぶりにかかっているのだ。

   

羽吉の大桑。遠くから見ると、とても千三百年の樹齢の木とは思えない若々しさがみなぎっている。

それから樹木では、佐渡市の「市の木」に指定されているアテビを知ったのも嬉しいことだった。市の木に指定されているのに、それが何処にどんな姿であるのかを知らないというのは残念である。アテビが「当桧」と書くことを知って、その姿を想像することができたが、市は、存外不親切だなと思った。市の木の実物を紹介している場所が不明なのだ。それがどんな木なのかを、若い市民たちは知っているのだろうかという疑問もある。樹木は自然環境の守り神だと思う。佐渡の自然環境を支える中心となって来たアテビに、そして一時の住宅建築ブームの犠牲になったままの市の木の再生に、市はもっともっと力を入れて欲しいと思った。

佐渡には豊かな自然が残っている。生き物としての樹木や野草などを取り上げたが、その他にも伝説がらみの自然そのものが随所に点在している。佐渡には幾つもの伝説が伝わっているようだが、次に訪ねる時には、伝説を拾うのも面白いなと思った。今回は初めて小佐渡の海岸を両津から小木まで辿ったが、その途中には如何にも伝説が残りそうな場所が幾つかあった。その中で、赤亀岩というのがあった。比較的最近に説明板が作られたらしく、立派な岩に次のように由来が書かれていた。

「水津の漁師越後屋が漁に出て大時化(しけ)にあい、針路を失った時、大きな亀が現れ、舟はその背に乗り港に入ったという。越後屋はの人達と話し合い、その岩に赤亀と名付け、岩上に祠を建てた。赤亀は、舟を通す洞穴という意味で、別名『あき亀』とも呼ばれ、『佐渡巡村記』にも記されている」

     

赤亀岩の景観。亀の胴体の下が洞穴となっている。天然記念物といってもいいように思った。

何だか判りにくい話だったが、現地にある岩を見てみると、なるほどとうなづける雰囲気があった。大自然の作りだした不思議な景観は、人々の心に想像力を掻き立て、様々な伝説を生みだしているのかもしれない。

 その少し先の松ヶ崎という所では、日蓮上人が幕府の怒りを買って佐渡に流された時に、初めて土を踏んだ場所として、その日の一夜を明かしたというケヤキの大木が残っており、人々は「おけやき」と呼んで敬っているのを知った。このような大木が残っているのも、佐渡の自然の豊かさだなと思った。

     

日蓮上人が佐渡配流の初日にこの欅の下で一夜を過ごされたという大木は、枝の一部を失っていて、痛々しく見えた。

 この他、七浦海岸の夫婦岩をはじめ、佐渡の沿岸部には無数の断崖絶壁、奇岩等が続いており、厳しさも窺える島なのである。まだ、大佐渡の山中や小佐渡の山間部には行っていないので、それらを訪ねたら新しい発見があるのかもしれない。しかし、もはや老人であるため、好奇心はあっても無理は利かないので、可能な範囲の中でこの後も楽しんで行きたいと思っている。

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佐渡一国を味わう旅を終えて(3)

2015-07-09 04:56:35 | くるま旅くらしの話

◇羽茂祭りの二つの感動

次に、これは目的としていたのではなく、偶々出合った出来事としての佐渡の祭りを見て感じたことについて書きたい。その祭りとは、「羽茂(はもち)祭りである。佐渡の6月のお祭りイベントとしては、大きなものとして二つの催しがあった。一つは相川地区の「宵の舞い」という踊りのパレード。それからもう一つは小木の隣町の羽茂(はもち)という所で開催される「羽茂祭り」である。

南佐渡の海岸線を辿って小木まで行き、港の構内にある駐車場に泊った時、近くの商店街などに「羽茂祭り」と書かれたポスターや幟などがたくさんあるのを見かけて、少し関心を持った。

その祭りは、草苅神社での薪能が予定されている15日が開催日なのである。その草苅神社は同じ羽茂地区にある。後で知ったのだが、草苅神社の薪能は、羽茂祭りのイベントの一環として、祭りの締めくくり的に行われるものだった。祭りの前に、一体どんな内容なのか知りたくて、近くにある小木の観光協会へ行って聞いてみたのだが、プログラムの資料はなく、知らないという。羽茂の商工会に訊いて欲しいということだった。観光協会が祭りの名称と開催日だけしか知らないというのは、一体どういうことなのだろうと不思議に思った。祭りの内容は、開催当日までは結局草苅神社の薪能のことだけしか判らなかったのである。

佐渡の地区の祭りの実際を見るのは、初めてのことであり、地区に伝わる伝統文化などを知るには絶好の機会だと思った。自分は元々あまり祭りが好きな方ではなく、大体は祭り好きの相棒に引き連れられて見物するというタイプの人間である。それが割と積極的に羽茂祭りを見る気になったのは、当日の夜の草苅神社の薪能を見るという目的もあったが、やはり佐渡の伝統文化を少しでも理解したいと考えたからでもあった。人間、変われば変わるものではある。

当日は、駐車場を確保するために、下見をしていた場所に着いたのは早朝の6時を少し過ぎた頃だった。ここに終日腰を据えて、夜に行われる草苅神社の薪能が終わるまで、随時祭りの様子を見物することにした。その駐車場は、草苅神社には近いけど、祭りのメイン会場からは少し離れていて、10分ほど歩かなければならなかった。

8時頃からふれ太鼓が町中を歩き回り始め、次第に祭りの気分が盛り上がり出した。9時過ぎにちょいと祭りの見物に出かけることにした。そのとき、ようやく祭りのプログラムを手に入れることができた。それで知ったのだが、このお祭りは地区内にある二つの神社(草苅神社、菅原神社)の神事とも関係があるようで、神輿は勿論、郷土芸能の鬼太鼓やつぶろさし、獅子舞などはみな神社への奉納行事なのである。

祭りのメイン会場は、商工会館前の広場で、そこは歩行者天国となっている県道を含めても、せいぜい100㎡ほどの狭い場所だった。何だか気の毒な感じがしたが、地元の皆が楽しむには、この場所が一番相応しいのだろうと思った。勿論この会場の他にも神社や地区内を練り歩くなどの出し物もあって、地区内全体が祭りのムード一色となるのである。

祭りといえば、太鼓や笛、それに「ワッショイ!」のお神輿は定番である。羽茂祭りでも祭り開始のふれ太鼓が地区内を歩き回り、神輿も大人だけではなく幼稚園児の可愛い神輿から、小学低学年、そして小学高学年の子供神輿が繰り出していた。中学生は集団演技なのか、地元の中学校の生徒たちが佐渡おけさを踊りながら地区内の大通りを流していた。また、大人が10人も入った胴長の獅子が、通りに面した家々を個別に訪問して舞いを奉納したりしていた。他にもいろいろの出し物があって、終日賑やかな祭りとなった。

それらの中で佐渡の風土に根づいた芸能として印象に残ったのが二つある。それは「つぶろさし」と呼ばれる土着の芸能で、神社への奉納行事の一つとして伝わって来たものらしい。もう一つは地元の高校生たちによる「佐渡おけさ」をはじめとする民謡や甚句などの踊りの披露だった。この二つのことについて思ったことを書いてみたい。

まず「つぶろさし」という妙な名前の土着の踊りだが、郷土芸能としてガイド書などにも紹介されていたが、それを見物するまでは、一体何のことなのか見当もつかなかった。後で知ったのだが、「つぶろ」という直径10センチほど、長さが1mほどの筒状の入れ物があり、これは農作物の種を保存するためのものだという。農家にとっては、最も大切な用具の一つとなるものであろう。この「つぶろ」を男性のシンボルに見立てて股に差し込み、その格好のまま、男と女の面を付けた二人の踊り手が、笛太鼓に合わせて、面白おかしく踊るのである。踊りの始まる前には、神妙に神主のお祓いを受けるという場面もあって、神事につながっているのだと思った。この一連の動きを見て、ああ、これは百姓の踊りだなと思った。真にえげつない踊りなのだが、豊作と子孫繁栄を願う百姓の人たちの思いがそこに込められていると思った。若い女性などには顔をそむけたくなるほど刺激的なのだと思うが、祭りとあって周囲の観客は皆楽しげに踊り手の動きを見ていた。

  

「つぶろさし」の踊りが始まる前には、神主さんらしき人によるお祓いのような神事が、獅子と一緒に行われていた。

  

つぶろを肩に担いだ男面の踊り手を、女面の踊り手が後ろの方から付け回すという風情である。滑稽というレベルを超えた動作を見るのはいささか疲れを覚える。

この「つぶろさし」には、地区内に①村山・鬼舞いつぶろさし、②飯岡・妹背神楽つぶろさし ③寺田・太神楽つぶろさし、の三つの保存会があって、それらが広場で順繰りに競演という形で舞いを披露するのである。それらの違いが何処にあるのかなど、さっぱりわからないけど、どの舞も長い間受け継がれてきた百姓魂のような、泥臭いけど逞しい、根性のようなものを感じさせた。しかし、終わり近くなると些か呆れた気分になり、もう結構と思うようになったのは否めない。何しろこちとらは老人なのである。

この「つぶろさし」のあくどい気分を一新してくれたのが、地元の羽茂高校郷土芸能部の皆さんによる、佐渡おけさをはじめとする民謡と踊りだった。佐渡といえば「佐渡おけさ」と言われるほど、歌も踊りも有名なのだが、佐渡に来てその本物を見たことは一度もなかった。あまり音曲に関心のある自分ではないのだが、折角二度も佐渡に来ているのだから、せめて一回くらいは本物の佐渡おけさを聴き、踊りなども見てみたいとは思っていた。しかし、それを見せてくれる場所も機会にも恵まれなかったのである。相棒は9年前に来た時、小木の観光会館かどこかで、夕刻に希望する観光客に佐渡おけさを見せてくれるというので、出掛けて行ったことがある。その時は観客が2~3人で、踊り手の方が多かったりして、さっぱり盛り上がらない雰囲気だったと嘆いていた。今回の旅でも、小木の港のたらい舟観光の箇所では、掛けっ放しの佐渡おけさらしき音楽が流れていたが、ただそれだけで、人は見当たらず、殺風景な景観があるだけだった。

それが、この祭りで初めて活き活きとした佐渡の民謡と踊りを見ることができた。佐渡(市)や観光協会は、観光の重要性を知りながら、郷土芸能の中でも核の一つともいえる、佐渡おけさなどの披露にさっぱり力を入れておらず、幾つかの祭りのほんの一部に組み入れたままで終わらせている感じがした。せめて月に一度くらいは、誰でもが楽しめる場を工夫して用意すべきだと思う。そのような疑念と不満がくすぶるなかで、羽茂高校郷土芸能部の皆さんの活動は、実にすばらしいと思った。踊りは相棒が親しく関わる世界で、自分には殆ど興味のないものだったのだが、今回の羽茂祭りでの地元高校生の皆さんの踊りを見て、珍しく感動した。滅多にないことである。

4~5曲が披露されたのだが、自分には皆おけさ唄と同じように聞こえた。これは自分の無知の所為である。勿論、踊りの方もそれぞれ違っているのだけど、同じ流れとトーンの中にあり、まさにこれは佐渡の郷土芸能だなと思った。踊り手は女子が殆どだったが、男子も何人かが加わっており、それが一層踊りを楽しく華やかなものとしてくれていたように思う。中腰姿勢のままで踊り続けるおけさの踊りは、相当に疲れるのだと思うけど、踊り手の皆さんは、自ら歌を口ずさみながら、真に楽しげに踊りそのものに没頭していた。相当に厳しい練習を積んできたのであろう。その成果が十二分に出ているのが伝わって来た。レコードなどに合わせて踊るのではなく、三味線も唄も全て高校生による手づくりのものなのも嬉しい。本物だなと思った。

  

三人の乙女による唄と踊りの披露。何という曲なのか判らなかったけど、小木か相川の民謡だったと思う。良く揃った洗練された踊りだった。

  

これも何という唄なのか判らなかったが、花笠を持っての踊りだったので、佐渡に所縁のある音頭だったのだと思う。乙女たちの手さばきは鮮やかで、見る者を楽しませていた。

  

これは部外者の自分にでも判る佐渡おけさの踊りである。踊りの始まりのシーンであり、このあと出演のみなさん全員が参加しての踊りとなったようである。

羽茂高校郷土芸能部は、全国高等学校総合文化祭に、新潟県代表として連続出場していて、今年も長崎で行われる大会への出場が決まっているとか。民謡や踊りに疎(うと)い自分などをも、これだけ感動させてくれる力があるのだから、今年は是非とも上位入賞の栄冠を勝ち取って欲しいなと思った。学内の部活に止まらず、現実に郷土の中に根づいた活動をしているこの高校生たちに、最大限のエールを送りたいなと思った。

高校生たちの芸能活動では、薪能の開演前に「仕舞い」が幾つか上演されるのを見たけど、それらは個人的な要素が勝っており、なんとなくとっつきにくい感じがした。羽茂高校の活動はそれとは違った、ずっとダイナミックなものだった。このような活動をもっともっと重視して育てて行くことが大切なのだと思う。授業で学ぶ学問も大切だが、人が現実を生きてゆくための力は、このような活動に打ち込むことによって培われてゆくものなのだと思う。市も観光協会も、この高校生たちに頭を下げて感謝すべきではないか。そして、もっともっと具体的な支援を行うべきだと、そう思った。

羽茂まつりの〆の草苅神社の薪能も味わい深いものだったが、この二つの郷土芸能との出会いも、大きな感動の拾いものだった。

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佐渡一国を味わう旅を終えて(2)

2015-07-08 03:36:42 | くるま旅くらしの話

◇文弥人形の感動

次に文弥人形のことを書かなければならない。自分は今までに一度も人形浄瑠璃というものを観たことがなかった。人形浄瑠璃どころか、文楽も名前しか知らず、浄瑠璃というものが何なのかも知らないというのが本当のところなのだ。義太夫とか、常磐津、清元など、江戸の時代小説を読めば、必ずどこかにそれが登場してくるものなのだが、その謡のお師匠さんがどんな美人なのかは思い描くも、その唄の文句や中身がどんなものかまでには興味を持ったことはなく、無知なのである。それは今でも基本的には変わらない。

そんなことから、人形浄瑠璃などという芸能には、能楽以上に興味を覚えなかった。何でめんどくさい人形などを使って、芝居なんかやるのだと、そう思っていた。阿波の人形浄瑠璃で名を知られた徳島県を何度も訪ねているが、徳島市郊外にある阿波の十郎兵衛屋敷の傍を通りかかった時に、ちょっと覗いてみようかと、一度だけちょっかいを出して寄ったのだが、その時は偶々改築中で休館だったため、一層その気を無くしたのを覚えている。それなのに、今回文弥人形を観る気になったのは、これはもう能の鑑賞が引き金になって、古典芸能というものに心が動いたからに他ならない。

文弥人形は、約300年前に、京都の岡本文弥という人が創始した文弥節を下地として、佐渡に古浄瑠璃の形式を残して伝わるもので、一人で一体の人形を操るものだと、説明書きにあった。文弥節の節回しが佐渡の風土に合ったことで、一時は四十数座を数えるほどの隆盛を見たものが、大正末期の頃になって後継者が減り、終戦の頃には消滅の危機に瀕したとか。このような中で、昭和52年に国の重要無形民俗文化財に指定され、今は十数座を数えるまでになっているとも書かれていた。自分にとっては、これらはすべて初めての情報であり、只鵜呑みに理解するしかない。今回は「常盤座」という、構成メンバーが全員女性というグループの上演だった。

  

常盤座の仮設舞台。佐渡には文弥人形の専用の舞台は無いようで、この日は能楽堂の中にこのような舞台が設えられていた。

さて、その文弥人形だが、演目は「山椒大夫」と「檀風(だんぷう)」。山椒大夫は、森鴎外の小説でもおなじみだが、内容は少し違っていて、姉の安寿が難儀しながらもはるばると佐渡の母を訪ねて、ようやく巡り合ったのだが、盲いてものが見えず、悪戯者の声と誤解した母の打擲(ちょうちゃく)を受けて、瀕死の状態となる。やがて本当の自分の娘と気づいた母は、驚き悔むのだが、娘は母に抱かれたまま、非業な死を遂げるという。その「親子対面の場」が今日のテーマ。そして檀風は初めて聞くことばだったが、これは佐渡に流され処刑された公卿の日野資朝の一子阿新丸(くまわかまる)の仇討ちの物語である。檀風は、阿新丸の父日野資朝郷が島での流人暮らしの中で作った歌「秋たけし 檀(まゆみ)の梢吹く風に 澤田の里は 紅葉しにけり」からの題名である。

  

「山椒大夫」の安寿の人形。舞台の中では、悲しみの中でも、活き活きとその表情が表れていた。

  

「檀風」の一場面。阿新丸が追手と闘う場面は、動きが激しくて、人形を使う人たちは全身汗だくでの熱演だった。

  

「檀風」の一場面。大膳坊(大膳神社に祀られている)の力を得て、阿新丸が佐渡を脱出するところである。

観た後の所感を一言でいえば、「感動した!」に尽きる。何に感動したのかといえば、人形遣いの人々の演技に対する取り組み姿勢の素晴らしさに打たれたのである。最前列に座って観ていたので、人形を使う彼女たちの眼差し、動き、そして迸(ほとばし)る汗が見え、伝わってくるのである。節を語る太夫に合わせて、まさに我を忘れて人形そのものになりきろうとする彼女たちの懸命の姿勢は、結果として表現されている芸のレベルなどに関係なく、はるかに強い迫力を感じた。この頃、これほどものごとに真剣に取り組んでいる人たちを見たのは久しぶりのことだった。

勿論、これだけではなく、文弥人形がどのようなものかも知ることができたし、そこで取り上げられているストーリーのアウトラインもそれなりに理解することができたと思う。同時にここでも能と同じように、古典というものに対する知識の貧しさを思い知らされた。自分は度胸が無いため、近松門左衛門の心中(しんじゅう)ものなどを読むには苦手意識があり、あえて避けて来たようなところがある。情死などというものを正視する勇気がないのだ。しかし、浄瑠璃の世界では、近松門左衛門は作者としては中核的な存在であり、素通りすることはできない。これからは、浄瑠璃話の理解のための基盤として、近松門左衛門作品の悲しみの葛藤の世界を覗き見る必要を感じた。

ま、しかしそれほどややこしく考えなくても、素直に語られているテーマや表現をそのまま受け止めて楽しむだけでもいいのではないか。そう思ったりもしている。今度四国を旅する時は、淡路の人形浄瑠璃や阿波の人形浄瑠璃の世界を訪ねなければならないなとも思った。楽しみの世界がぐっと広がった気分である。

かなり感想が長くなったけど、能を中心とする古典芸能に関しては、今までの自分の偏見へのこだわりが溶け去ったような気がしている。古典芸能と呼ばれるものの中には、日本という国を作って来た人々の魂の源となるものが織り込まれているのだと思う。残り少ない老人ではあっても、それを楽しみながら探るというのも無駄ではあるまい。今回の佐渡での体験は、思っていた以上の成果を自分にもたらしてくれたと感謝している。

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佐渡一国を味わう旅を終えて(1)

2015-07-07 03:59:21 | くるま旅くらしの話

<はじめに>

佐渡の旅から戻り、早くも2週間以上が過ぎました。いつものように後片付けにドタバタした後は、旅の振り返りをしながら、記録をまとめていたのですが、どうやらその出来上がりの見通しもついてきました。 そう、まだ一国を味わったのがどんな味だったかの所感を述べていませんでした。旅の締めくくりとして、それらについて述べてみたいと思います。大へん長いので、5回に分けることにしました。批判もありますが、佐渡一国を愛する気持ちは一層高まっています。

 ◇能と狂言の鑑賞所感

「佐渡一国を味わう旅」などと大げさな名前を付けた旅だった。それは単に佐渡という島国を蔑むなどという気持からではなく、日本国という大和民族支配の国が犯して来た科(とが)が多く残る島に、もしかしたら、そこに最も日本国らしい凝縮された特徴を見出せるのではないかと、そう思ったのである。9年前の2006年にこの島を初めて訪れたのは5月の初めだったが、その時この島の歴史や暮らしぶりについて、幾つか心を惹かれるものがあった。わずか数日の滞在だったので、その時は島の中を駆け巡るだけの旅だったが、海あり、山あり、川あり、平野あり、湖ありのこの島は、これはもう一国に相応しい条件を備えた場所だなと、そう思った。同時に、島流しなどという愚策はナンセンスだったなとも思った。勿論今から千年も昔の状況が現在とは隔絶していることは承知だけど、単に陸続きではないというだけであって、罪人の暮らす環境としてなら、往時は東北の奥地の方が遥かに厳しい環境だったのではないか。佐渡は、海で遮られて簡単に渡航ができないことを除けば、暮らしには豊かな環境が整っている。だからこそ、今の世につながる数々の建造物や遺構、史跡、それに芸能文化などが残っているのだ。そう思ったのである。

 そう思った中で、最も気になっていたのが、島の各地に残る神社の中に設えられた能舞台だった。この時は大膳神社と草苅神社のそれを見ただけだったが、どうしてこんな鄙びた場所の小さな神社に立派な能舞台が備わっているのか、大いなる疑問だった。能といえば、古典芸能の中でも由緒あるものだとの認識はあるのだが、殆ど観たことがなく、舞台も野外などではないように考えていたのである。歌舞伎や浄瑠璃なども含めて、自分にはこの種の芸能には全くと言っていいほど関心がなかった。わけのわからぬ日本の古い言葉をひねくり回して、格好をつけている役者の姿を見ていると、何だかバカバカしい気持になってしまうのである。それらの芸能を愛する人たちから見れば、不謹慎極まるというよりも真に気の毒と蔑まれる愚か者に見えるに違いない。

 そのような自分なのだが、佐渡の古びた神社に備わっている能舞台を見たとき、初めて、ここで上演される能を観てみたい、と思った。そして、能の上演が多いのは6月ということをその時知った。田植えが終わって、村の神社に能楽を奉納するという昔からの習わしなのだとも聞いた。それで、今度佐渡を訪れる時は6月でなければならない、と、その時から決めていたのである。同時に能などの芸能を通してもっと佐渡のことを理解したいとも思った。それが、今回実現することになり、少し調子に乗り過ぎて一国を味わう旅などと大げさな旅のタイトルを付けたのだった。

  

能の開演を待つ人々。佐渡では、だれもが無料(もしくはわずかな協力費程度で)でこのような立派な舞台で薪能や狂言などを楽しむことができる(椎崎諏訪神社:薪能)

 さて、その旅の味はどうだったのか、旅を終えてしばらく経った今、改めて感じたことを述べてみたい。

 まず、第一の目的だった能の鑑賞のことを書いてみたい。今年のこの月は、島内の各所で計6回の能の公演が予定されていた。しかしこのうちの2回は同じ日に別々の場所で上演されたので、観ることができたのは5回だけだった。以下にその5回分の内容を記す。

* 6日:天領佐渡両津薪能:於椎崎諏訪神社能舞台:演目「杜若」

* 7日:大膳神社薪能:於大膳神社能舞台:演目「胡蝶」

            鷺流狂言:演目「柿山伏」

*12日:牛尾神社宵宮奉納:於牛尾神社能舞台:演目「羽衣」

*15日:草苅神社薪能:於草苅神社能舞台:演目「西王母」

*20日:正法寺ろうそく能:於正法寺本堂:演目「井筒」

なお、能に加えて、別途金井能楽堂という所で上演された鷺流狂言と佐渡に伝わる文弥人形という浄瑠璃人形芝居も鑑賞した。狂言は大膳神社の時と同じ「柿山伏」という演目で、文弥人形の演目は、「山椒大夫」と「檀風」の二つだった。これらを合わせての所感も述べてみたい。

まず能楽のことだが、今回は4回が薪能、そしてもう1回はお寺の本堂での、ろうそく能という新しい形の能上演だった。いずれも、自分は初めて身近に見るもので、上演を待つ間も緊張は続いた。薪能は、能舞台の前に篝火を焚いて演ぜられるもので、開始前の神事的な火入れの儀式から始まるのを初めて知った。能という芸能の厳かさのようなものを知ったのだが、それは神に奉げる人々の心の表われなのだと理解した。暗闇の中に燃え続ける篝火は、只それを見ているだけで、人々を神秘の世界に導く力を持っている気がするが、その中で演ぜられる能の世界は、それが極限に煮詰められた表現方法であっても、そこにいる人々の心の深いところまで届く力を有していると思った。自分のようなズブの初心者であっても、解らないなどという頭の働きを無用とする感じがした。

  

巫女さんによる火入れの儀。暗闇の中に浮かぶともし火は、古来からの人間と火との関係を思い起こさせる、厳かな一時である。(椎崎諏訪神社:薪能)

     

篝火に火が灯ると、暗闇の中に突如という感じで、幻想的な世界が現出する。緊張の一瞬である。(椎崎諏訪神社:薪能)

パチパチと撥ねる篝火の火も気にならぬままに、ワキの始まりの所作から、やがてシテが登場して、ストーリーは静々と進行して行く。物語の内容は、幽明の境を往来しながら、人間の生命が輝いている時に味わったものへの亡執であったり、或いは、この世では叶わぬ生命あるものたちの願望の成就であったりして、現実には決してありえぬ、人間の果てしもない夢幻の願望の世界を表現しているのだと思った。それを観る人々は、演ぜられる能の中に、この世とあの世とを行き来する人間の魂の動きを覗き観ているのだと、そう思った。

というのも、能のストーリーは、5回の鑑賞の限りでは、概ねまずワキとしての旅の僧が登場してシテが登場するための場づくりを行い、やがて主役のシテの登場を待つのだが、そのシテは、この世の者ではなく、幽界に身を置く著名人や、或いは美しさを秘めた人間以外のものの「精」なのである。例えば、「胡蝶」という演目では、冬に咲く梅の花には決して止まることの叶わぬ蝶であり、「杜若(かきつばた)」においては、カキツバタ(アヤメの一種)の花の精が、実は在原業平の妻の、紀有常の娘だったというように、この世とあの世とを自在に行き来する、人間の心象の世界を表現しているのである。

   

「杜若(かきつばた)」の上演風景。立っている右がワキの旅の僧。左が杜若の精として現れる紀有常の娘。能の世界では、この世とあの世がつながっている。(椎崎諏訪神社:薪能)

話は変わるが、中国の怪奇小説集に「聊齋志異(りょうさいしい)」というのがある。昔これを読んだとき、この世とあの世を自在につないだ、薄気味悪い内容だなと思ったのだが、能のストーリーも本質的には同じような気がする。しかし、そこに取り上げられている内容は、人間や生き物の悲しみや美しさであり、不気味で怪奇な異臭のようなものは皆無なのだ。そのテーマがたとえ亡執に絡むものであっても、能の場合は、浄化され精華された魂の姿がそこに表現されているのだと思う。それゆえに、能楽というのは、人間の心の深淵を揺さぶる美の表現なのだとも思った。少し理屈の先走りした言い方なのかもしれない。しかし、ズブの素人の自分にでも、それほどに課題を投げかけた鑑賞でもあった。

けれども、これで能の全てが解ったわけではない。むしろ、迷路に入り込んでしまったのかもしれない。この先は能の全体を眺めるだけではなく、その表現の個々の動きに込められたものを、自分の心にバイブレート(=共振)させて受けとめる必要がある。例えば、演者が何をどのように表現しているのか、その基本を知らなければならないし、又謡の文句の内容も理解できなければ、本当に能を知ることは出来ないと思う。そのためには、もう一度佐渡に来なければならないし、より多くの能の上演を見なければならないと思った。ま、生きている間の楽しみとしては、残りの時間が少なくなっているので、どれほど願いが叶うかは分からないけど、チャレンジしてみたいと思った。

能の表現の要素としては、シテやワキの存在の他に音曲がある。太鼓(たいこ)、大鼓(おおつづみ)、小鼓、笛そして謡である。これらの役割にも興味があったが、5回の鑑賞を通して判ったのは、メインは大鼓と小鼓、場面の切り替えが笛、そしてクライマックスの強調が太鼓だなと思った。謡は、主にシテの思いを強調する際に和すという形で謡(うた)われているように思った。いずれも真に簡明な表現であり、しかも全体の進行の上では、それぞれが重要な役割を果たしているなと思った。

今のところ能楽に関してはこの程度の理解である。これからはこの5回の鑑賞体験を振り返って、もう少しこの芸能のことを考えてみたいと思っている。

この他に狂言も2度観る機会を得た。同じ演目を同じ役者でのプログラムだったが、とても同じようには思えず、「柿山伏」という演目を楽しむことができた。狂言は、文字通りややふざけめいた戯言(ざれごと)の表現であり、能と比べると単純である。「柿山伏」は、さして悪げもない柿ドロボーと化した山伏を、柿の木の持ち主が揄(からか)うというストーリーだが、大らかさがあって、緊張無用の笑いを楽しむことができる。今の世の、エゲツない笑いばかりが多いのとは大分レベルが違うなと思った。狂言は、能の幽玄の世界を際立たせるための重要な役割を果たしているのかもしれない。狂言が能の上演とセットになっているが多いのは、そのような狙いがあるのかなと思ったりした。

   

狂言「柿山伏」の一場面。左がアドの柿の木の持ち主。右がシテの山伏。丸い台が柿の木の枝の上という設定となっている。(大膳神社:鷺流狂言)

   

もう一枚追加して、これは牛尾神社宵宮で奉納された薪能の「羽衣」の一場面。右手隅に座っているのがワキの漁師であり、左の立ち姿は、衣の返還を願う天女である。(牛尾神社:薪能)

 

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