山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2回目の試し旅をして来ました

2021-06-29 01:38:56 | くるま旅くらしの話

 6月22日から27日までの6日間。2回目の試し旅は、茨城県城里町にある道の駅:かつらで1週間ほどの雨降り閉じ込められ体験をすることでした。6月22日に家を出たのですが、その日は泊るだけと考えて、15時過ぎの出発でした。

 道の駅:かつらは、水戸市に隣接した城里町にあり、国道123号線の那珂川大橋のたもと近くに位置しています。この道の駅には、直ぐ近くを流れる那珂川の河川敷に繋がる無料のキャンプ場が解放されています。水道の蛇口一つしかない設備のキャンプ場ですが、広い敷地を自在に車で乗り付けてテントを張ったりしてアウトドア暮らしを楽しむことが出来るので、とてもありがたい場所で、休日ならずともコロナ禍の閉塞感のある今では、平日でもアウトドア暮らしを楽しむ人たちがかなり大勢訪れていました。

 初日の今日は17時過ぎに着いて、キャンパーの仲間入りをしたわけですが、軽く夕食を済ませて寝るだけの仕事でした。先の第1回目で寝床の扱いには馴れているので、特に何の問題もなく夜を迎え、眠りに入りました。

 翌日は、少し旅からは外れた草刈り日としました。実はこの道の駅の隣の元御前山村は現在常陸大宮市となっており、この常陸大宮市は自分の育った場所のある所なのです。道の駅からは20分ほど離れた場所に実家があり、そこに自分の管理する畑が300坪ほどあり、夏から秋にかけて2~3回そこの草刈りをしなければならず、旅のついでに、今年2回目を済ませてしまおうということなのです。雨が降ったら止めるつもりでしたが、降らないので少し早めに出掛けて7時から草刈り機を引出しての作業となりました。1か月前に1度刈っているのですが、もうかなり伸びていて、毎度のことながら草たちの生命力の逞しさに圧倒されながらの作業でした。2時間ほどで終了。作業が終ると、いつも近くにある道の駅:常陸大宮川プラザに行って休憩することにしています。ここは畑から15分ほどの至近距離にあり、落ち着くのです。

 休憩の後、午後は再び道の駅:かつらに戻って、旅くらしに入りました。先ずは買って来た新ジャガを茹でて夕食とすることにしたのですが、塩を持参するのを忘れ、それだけではなく、ボウルも皿も無いのに気づいて、細かいことを忘れていることを反省。夜になっても雨は降らず、持参した神道の本を読んで、そのまま眠りに入り、目覚めたのはトイレに急かされて11時過ぎか。トイレまでは50m」ほどあり、明日は夜は近くに止めようと、随分前(20年ほど)のバンコンに乗っていた頃の旅を思い出しました。

 翌日は水戸市在住の大親友の訪問を受けて、互いの不断のご無沙汰を埋めるべく、半日ほど歓談して大満足。3日目も雨は降らず梅雨の合間の晴れの日差しは厳しくて、木陰を探して暑さを凌ぐという状況でした。夜半から待望の雨が降って、朝起きてみたら、那珂川はかなり増水していました。何年か前、この地も大水害に見舞われてかなりの被害を蒙っていますが、今のところ被災再来の心配はなさそうなレベルです。翌日の日中からは再び雨とは無関係の天気に戻りました。雨に閉じ込められた時に、この車ではどのような生活が出来るのかを体験したかったのですが、結局それは今回は叶えられませんでした。夜に降る雨ではただ眠るだけですから、ダメなのです。

 6日目になって、これじゃ仕切り直しだなと滞在するのを諦めて一先ず家に帰ることにしました。

 今回の試し旅は、些か気の抜けた6日間を過ごしただけの感じでした。それでも細かな点での気づきはいろいろあって、不足している小物備品の購入などそれなりに役立ったと思っています。半月くらいの旅なら、大丈夫だなと思いました。

 2回のワクチン接種も終わり、2週間が過ぎた7月の半ばごろから旅の本番の第1弾として、東北北部エリアの縄文遺跡を訪ねるのを目論んでいるのですが、オリンピックから遠ざかっている場所なので、丁度良いタイミングなのかなと思っているところです。半端なレポートとなりましたが、書かなくてもそれなりの出会いがあり、収穫の多い時間だったのです。旅はやっぱりいいなあと改めて思っています。2回目おわり。

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化石世代から異次元世代を見る不安

2021-06-19 03:35:31 | くるま旅くらしの話

 先日、新しい旅車で試し旅をして来ましたが、予定外の地の群馬県東吾妻町にある道の駅:あがつま峡に2泊しました。その二日目の朝に、還暦を迎えられたという青年に出会いました。その名は三川屋幾朗さん。近年出会ったなかでは抜群の面白い、奥行きの深い人物でした。傘寿の自分とは20歳の差、昔の言い方では2世代も離れた世界の方ですが、その活き活きとした話しぶりには若さが漲っていて、圧倒されました。

 私の旅は、日本という国だけで外国には一切関心がないのですが、この方は国際人〈そのような言い方があるのか判りませんが〉で、50歳で仕事をリタイアするまでは、世界を股にかけて仕事を為されていた様で、世界各地に知己をお持ちで、現在もそれらの方たちとの交流を最大限に生かして自由人としての活動をされているようでした。

 私は、今回の旅で初めて今朝ご飯を炊き、それを食べ終えて洗い場に行く途中だったのですが、休憩所のテーブルに一人ラジウスを用いて何やら朝食に取り掛かろうとされているその方に声を掛けられ、気がつけば小一時間近く話込んでしまいました。旅の話から始まって、人間観、縄文やアイヌの歴史などに至るまで、話はどんどん広まり、尽きることがないほどでした。この方はとても聴き上手で又格別の話し上手なのです。

 一体どのような方なのか、名乗られたのは三川屋幾朗でした。たくさんの情報発信をされておられるというので、あとで調べさせて頂くことにして、別れることにした次第です。

 この方と話をしている中で大変気になった言葉がありました。最近溢れている横文字や略字にそれほど関心はなく、いつもざっと調べて、なんだあと思うくらいなのですが、「Z世代」とかいう言葉には引っかかるものがありました。何時の間にそのような呼ばれ方の世代があったのか。いとも当たり前のようにその言葉を駆使しておられるのを不思議に思いながら聴いていました。自分は明らかに化石世代なのだという不動の確信はあるのですが、今頃世代に対してどのような見方や呼び方があるのか、全く関心がなく気づいてもいなかったのです。彼がZ世代の人たちの中にも自然環境や生き方について未来につながる健全な考え方を持つ人がいるなどという話を聴いていてもさっぱり解らないのです。これは後でしっかり調べなければならないなと思いました。

 40年も前の現役の頃、間もなくやって来る高度情報化社会について思いを巡らしたことがあるのですが、当時はパソコンの操作もロクに知らない状況でした(今でもそうなのですが)から、高度情報化などという言葉は解っても、その実態は無知なのでした。それがこの40年の間に、高度情報化の現実が生み出した世代が出現していたということなのです。Z世代とは、1990年後半から現在に至るまでに生まれた世代を呼ぶようで、主に20代半ばまでを言うようです。さらにこれを細分化してα世代というのもあるとか。またZ世代の前にY世代というのもあるとのことですが、化石時代の者には皆初耳のことでした。これらの新世代(?)の特徴は、デジタルネイティブ、SNSネイティブ、スマホネイティブということだそうで、いずれも化石に生きる者には、多くの歪みを孕んだ、ただ利便性だけが貪り取られたツールにしか見えないものなのです。未だツールとしてどう活用すべきなのか、その活用を支える倫理はあるのかも見えない中で、どんどん活用が進んで現在様々な問題や事件を引き起こしているのがこのツールなのではないか。ま、正しく使っている人たちも多いのだとは思うが、自分などは疑問と疑念だらけで、これらのツールを手にしてはいても本気で使おうとは到底思えないのです。Zやα世代の人たちはそれをベースとして育ち生きているというのですから、解ってはいても何だか不信感が拭えないのです。

 例えば、このブログですが、自分のような作文主義の運営は明らかに化石化時代の者の特徴であり、YやZ世代の人ならば、もっともっと言葉を削って、映像や動画などを活用して、説明など余計なのだと考えて作成するに違いないのでは、と思います。しかし、自分はせいぜい写真を掲載するレベルで十分と思っているのです。その最大の理由は、写真や動画などは、所詮本物ではなく見た目に過ぎないと考えられるからです。リアルではなくバーチャルなのです。バーチャルリアリティなのです。その本質は本物ではなく、そっくりさんに過ぎないのです。そっくりさんだけでも人間関係は出来上がっていくとは思うのですが、その場合本物はどこへ行ってしまうのでしょうか。甚だ疑問があり心配です。ついこの間の20世紀まで、人間は本物を主体に生きてきたと思うのですが、いま、それが解体されようとしている。そのようにも思えるのです。化石がどんなに考え語ろうとしても、その声が届くのか。縄文時代の欠片の発する声に気づく人がZ世代の中にいるのか。三川屋さんの話されたZ世代を調べてみて、様々な複雑な思いを膨らませたのでした。

 三川屋さんは、たくさんの情報を発信されておるようですが、その中に「メンター@三川屋幾朗/毎日3時半から超早ズーム朝礼」というのがあり、その中では自分は旅仙人と紹介されておりました。名誉なことです。何処かの旅先で生きている間に再会が叶うことを願っています。

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試し旅をして来ました (その4)

2021-06-18 09:20:49 | くるま旅くらしの話

八ッ場ダムへ2日続けて通った後は、食料も少なくなってきたので、帰ることを考え始めました。何しろ昼間は猛暑、夜は寒さに苛められて、少しもゆったりした気分になどなれないのです。今回は試しの旅なので、計画も杜撰なのです。新しいSUN号でどのような旅が可能なのかを探るのが目的なのですが、一人旅では十分可能なことが判りました。これが二人旅となると、オーダーの多い相棒なので、簡単にはゆかないと思いますが、ま、何とかなるのではないかと思いました。

前の車に比べて居住性は劣るものの、走行性は先ず先ずです。ただ、燃費が悪いのが気になります。以前はディーゼルでしたが、リッター辺りの走行距離は7~8kmでしたので、それに比べると劣っており、燃費は高くつきそうです。とにかく無駄な走りをしない様に、しっかり計画を立てて取り組む必要がある様です。

装備の方は、若干手直しをする必要がある箇所はあるものの、寝床や収納スペース、用具等に問題は無く、二人旅でも対応出来そうです。総じて居住性がかなりダウンしていますが、これは最初から覚悟していたことなので、これからは馴れと工夫で対処してゆくしかありません。

今回の試し旅での一番の失敗は、出発前の猛暑に騙されて我を失い、寒さの準備を全く怠ってしまったことでした。旅先の状況によっては、この季節は寒暖の差がかなり大きいということを見逃してはならないということです。試しなのだという安易な気持ちからすっかり油断をしてしまいましたが、これからはどのような旅であっても慎重に事前準備をしなければならないと深く反省しました。

現在コロナ禍の中にあり、この後どのように状況が変わってゆくのか、未だ見通しは立ちませんが、新車や装備品の臭いなどが消え去るまでは、当分一人旅となるのだと思います。ワクチンの2回目の接種が終ったら、本番の一人旅を実現するのもいいかなと考え出しています。何しろ老人は残されている時間が少ないのです。条件が100%整うのを待ってる内に、いつあの世からの迎えが来るか知れたものではないのです。これは本気の考えです。おわり

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試し旅をして来ました (その3)

2021-06-17 01:45:53 | くるま旅くらしの話

さて、今日(6/10)と明日(6/11)は、この道の駅から吾妻川の上流に位置する八ッ場ダムまで往復したという話です。

時の記念日が6月10日の今日だったのに気がつきました。時などといってもどうってことない話なのですが、傘寿のこの年頃になると、時というのはやたらにスピードが速くなっていて、何だかあの世へ行くのを急かせている感じがするのです。だから、時に乗っかって、今のこの現在を大事に生きることが肝要なのだと思っています。この試し旅もその一つなのです。

さて、今日は吾妻峡というのをじっくり歩いてみたいと思い、9時過ぎ出発しました。ところが案内板に従って渓流脇の森の入口まで来ると、何と「熊出没注意」という看板が出ていたので驚きました。北海道ではこの看板は、出没した実績のある場所に掲出されているので、この地もそうなのかと心配になりました。ここは北海道ではないので、熊はヒグマではなくツキノワグマなのだと思うけど、あれは小型なので、杖を持っていれば追い払えるのではないかと、急ぎ車に戻り持参している2本の杖を使うことにしました。この頃は上半身と腕の強化のために、いわゆるノルディックウオーキング用の特別な杖を自分で作って活用しています。この杖は一本は東北の山中で見つけたクロモジの固い木で作ってあり、もう一本は樫の枝で作った軽いものなのです。熊と対峙するときはクロモジの方が力になるに違いないと思いました。しかし、その後熊の気配は全く無く、猿だけが時々姿を見せていただけでした。

渓流は遊歩道のかなり下の方を奔っており、木が覆っているので、密集している葉の隙間から、時折白濁の流れが見えるだけでした。10分ほど歩くと、駐車場があり、そこの案内板に八ッ場ダムまで2kmと少しと書かれていたので、意外に近いのに驚くと共にならば行ってみようと思いました。猿橋というのを渡り、少し歩くと若葉台という渓流の展望箇所がありました。しかし緑陰に覆われて殆ど展望は利かなかったのが残念。更に上流に向かって歩くと、鹿飛橋というのがあり、これは渓流を鹿が飛び越えて向こうへ渡れるほど、渓流が狭く細くなって迫っている箇所ということらしくて、そこに朱色の橋が架かっていました。それをはるか下に見下ろしながら少し行くと紅葉台という展望箇所ありました。カエデや紅葉の大木があって、秋には紅葉の名所となるらしいです。先ほどの若葉台からこの紅葉台までの間は、八丁暗がりと呼ばれる、吾妻峡の中でも一番の名所なのだと説明板に書かれていました。確かに多くの大木に覆われていて、昼尚暗しの道でした。途中に今は廃線となったJR鉄道に、かつて日本一短いトンネルとして名高かった樽沢トンネルというのを右上方に垣間見ることができました。こんな山の中をJRが走っていたのかと、驚きました。

紅葉台からは八ッ場ダムまであと200m程だという案内板を見て、何だか早く着き過ぎて物足りないなと思いました。100mほど歩くと、前方に八ッ場ダムの巨大なコンクリートの白い壁面が見えてきました。下から見上げるダムは圧倒されるほど巨大です。ここでは水力発電も行われているらしく、発電を済ませた大量の水が、勢いよく轟音を立てて噴出していました。今はこの噴出された水が吾妻川の源流となって下方に流れているようです。その噴出する水の方へ行くのに朱色の鉄橋が架かっており、そちらの方へ行って水の凄まじいエネルギーの発散される様をしばらく眺めました。上方へ行くには100m以上の高さがあるようで、ダムの両端に九十九折りの階段が作られていましたが、上るのは禁止されていたので、諦めることにしました。

戻ることにして、来た道を引き返しました。途中、紅葉台の下方に右岸に渡る橋があり、ハイキングコースが作られているようなので、そこを行くことにしまた。急な階段を下りて橋を渡ると、上り下りの多い山道となっていました。このような道を歩くときは、2本杖歩行は有利です。杖を操りながら、30分ほど歩きを楽しんでいると、鹿飛橋に出ました。それを渡って再び左岸に戻り、猿橋を渡って、緑陰の道を少し歩いて道の駅に戻りました。

翌日も同じコースを八ッ場ダムまで往復する。二度目なので、何とも言えない安心感があります。今日はより吾妻峡の景観を味わおうと決め、ゆっくりと歩きました。昨日は杖を二本使っていたのですが、今日はクロモジの方だけを持参しました。途中吾妻峡と書かれた掲示板があり、その傍にこの地を訪れた若山牧水が詠んだ歌が書かれていたので念のためカメラに収めました。歌詠みの人は旅と強く関わっているんだなと思いっました。以前九州の高千穂峡に行った時、高千穂神社の裏の道を下方から登ったことがあり、その際に目前に突然山頭火の句が書かれた板が現れて驚いたのを思いだしました。皆普通の人ではないのだなと思いました。皆旅人なのです。

今日が昨日と違ったのは、八ッ場ダムまで行ったら、昨日は閉まっていて気付かなかった、上部に上るエレベーター乗り場の入口が開いていて見えたので、行ってみることにしました。今日は土曜日なので、来訪者が多いのを考慮して運行してくれたようで、ありがたいことです。直ぐに最上部に着いて、外に出ると、ダム湖の大きな景観が展望できました。水量は半分以下の様で、岸辺は崖がむき出しになっていました。上部の通路を2往復して左右の景観を楽しみました。湖の反対側はダムの壁を見下ろす景観で、高所恐怖症の自分にはちょっと覗くだけの世界でした。ダムについての紹介資料のある筈の施設は、コロナの所為なのか閉館となっていました。残念。

八ッ場ダムは、一時建設中止の話題があった場所ではなかったかと思います。確か政権が変わった時に、見直しが行われて、全国で幾つかのダムの建設が中止となったことを記憶しています。以前、九州を旅した時、熊本県の五木村を訪れたことがあり、道脇にダム建設までの経緯を示す村人たちの思いが記されてた碑が建っていたのを思い出しました。ダム湖の上部へ転居した集落が出来上がっていたのに、ダムの建設が中止となり、その時の村人たちの心情は如何ばかりのものだったかと、政治のいい加減さに怒りを覚えたのでした。この八ッ場ダムは、そうならなかっただけ幸運だったのではないかと思いました。五木の人たちは、下流の洪水を防ぐためにと村の歴史を犠牲にしてダム建設に協力したのに、結局ダムは建設されなかったのです。先年は人吉や八代など球磨川流域が大水害に見舞われています。ダム建設の中止を決めた政治家共は、一体どう責任をとるのでしょうか。ま、むやみに過去の話を意気込んで思いだす必要もないのですが、政治家は国を誤らせぬよう、もっともっと見識を高めてもらいたいと思うのです。

何枚か写真を撮っているので、折角だから紹介したいと思います。

下から見上げた八ン場ダムの景観。高さは100m以上あるように思いましたが、さて実際は?

エレベーターで上って外に出ると、湖の景観が広がっていた。

ダム湖の水量はどれくらいになるのだろうか。今は梅雨前であり、半分にも至っていない感じがした。

ダムの下方では、発電を終えた水がものすごい勢いで噴出して吾妻川に流れていた。

紅葉台近くにあった牧水の歌の紹介板。秋の頃この地を訪れたのであろうか。

標準的な吾妻峡の景観。今の季節は鮮緑が中心の世界だ。

 

 

 

 

 

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試し旅をして来ました (その2)

2021-06-15 19:34:27 | くるま旅くらしの話

その後は案じていた通りの猛暑となり出した。逃げる場所がないので、しばらく我慢してそのままベッドに横たわることにしました。すると意外なことに、ほんの少しなのだが、風が通るのです。防風ネットの網目は2ミリほどあって大きいので、風が通り易いのかもしれません。何だか嬉しくなりました。じっとその風を待っていると、それに応えてくれるかのように、優しく通り過ぎてゆくのです。外は30度を遥かに超えた暑さなのに、微風はその酷い暑さを宥(なだ)めてくれているのが良く判ったのです。すっかりいい気持になって、しばらく眠りの中にいたようです。2時間近く眠って目覚めたのですが、外は目も眩むほどの暑さとなっていました。近くの小木に木陰があるのを見つけて、しばらく本でも読むことにしようと椅子を持ち出して座りました。今回の旅では隠元と盤桂という二人の禅師の逸話の書かれた2冊を持参しているのですが、先ずは隠元禅師の方から読むことにしました。隠元という方は日本人なのかと思っていたのですが、読んでみると、そうではなく唐招提寺建立の鑑真和尚と同じように中国からやって来られた高僧のお一人なのでした。尤もこちらは時代がずっと新しくて、江戸になってからの人なのです。禅のしきたりにはいろいろあって、読んでもさっぱり解らない箇所が多いのですが、それでもこのお人の生まれてこの方の凡その経歴などを知ることができました。木陰は風通しが良くて、暑さなどあまり気にしなくても良いのを知り、読書が進みました。そのようなことをしている内にやがて日が落ちて涼しくなりだしました。

暗くなり始めた19時過ぎ、夕食を済ませて寝床に入る。今回はTVもラジオも一切無視した暮らしを指向しており、日の出と共に起き出し、日が沈むむのに合わせて眠りに就くという、縄文時代の暮らしに似せた時間を過ごそうと思って来たので、可能な限り電気類を使わないようにしようと考えています。

しかしそう簡単に暮らしのリズムを切り替えることは出来ないようです。昼間にかなり午睡をしているので、眠りに就くまでにかなり時間がかかりました。いつもの暮らしでは昼夜逆転がベースとなっているので、12時を過ぎると益々頭が冴えて来ているのに、本を読むことも音楽を聴くことも抑え込んでしまっているので、どうするか困惑しました。寝禅等をしながら時を過ごしている内にほんの少し眠ったようで、間もなく外が明るくなっているのに気がつきました。

いつもだと4時半になれば歩きに出かけるのだが、今日はそれを止め、日中に吾妻峡を歩くことにしようと思いました。この地は標高が500mほどはあり、高原と言ってよいのではないかと思われます。朝は空気が澄んでいて美味い。それを味わいながらしばらく付近を散策しました。昨日の日中は、30台を超す車の数だったが、昨夜の泊りの車は10台ほどでした。その殆どが県外のナンバーを付したものでした。自分と同じようにコロナ禍の閉塞感にうんざりして出掛けてきた人たちなのだろうなと思った。犬などつれて散歩をしている人もいました。犬は何故コロナと無関係なのだろう、と思ったりしました。又、改めてコロナの攻撃対象が人間に絞られていることに恐怖を覚えたりしました。そう言えば、鳥などもウイルスの標的になっているし、時には豚や牛なども狙われているようですが、人間に対するほどのシビアさではないようです。これはやはり不思議で、どう考えても人間側に標的にされる何か特別な理由があるに違いないと思いました。しかし、人間にもさまざまな種類(?)があり、考えや行いの者がいるから、標的にされなくてもいい者も多く居る筈なのに、コロナのウイルスという奴は無差別であり、その意味では平等なのでしょう。これはやはり人類、ホモサピエンスに対する挑戦なのに違いない。そのようなことを考えながら3日目の朝を迎えました

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試し旅をして来ました(その1)

2021-06-15 03:42:18 | くるま旅くらしの話

 コロナの情勢は一応下火の傾向を見せてはいるものの、その実態は区々で、下火などとは無縁の世界や場所も多いようです。世界中の人びとがワクチンの接種を終えるか、或いは多くの犠牲者を出しながら人類全体が抗体を持つレベルに至るまでは、この感染症は収まらないのかと、半ば絶望的、半ばやけくその気持ちが膨らむこの頃ですが、旅車を庭先に飾っているだけの毎日に耐えられず、とうとう旅に出かけることにしました。

 名づけて試し旅であります。旅というよりも新しい旅車でどんな旅ができるのかを探るというのが目的でした。今回は家内を置いて自分一人の旅となりました。家内は新車の匂いや備品類の臭いに敏感で、それらが消え去るまでは車に乗るのは不可能な状態なので、その時を待っていると、あと半年以上はかかることでしょうから、とても待つわけにはゆかないのでした。

 車の運転にも馴れず、手づくりの装備類なども本当に大丈夫なのか、実際に旅をしてみなければ判らないことが多いので、旅を本格化させるまでには何回かの試し旅が必要だと考えた次第です。今回はその最初の旅というわけです。ざっと、勝手に紹介させて頂きます。

 先ずは、どこへ行くかですが、これは思い付きで、関東エリアの無料のキャンプ場で、涼しさのある場所はないかと調べてみたところ、群馬県の赤城山にそれらしき場所があり、無料なのだけど予約が必要ということでした。この予約という行為が好きではないので迷ったのですが、とにかくぶっつけ本番で行ってみて、ダメな時には近くの道の駅にでもお世話になろうかと、その方面に行ってみることにしました。

 出発は6月9日、行程は不明ですが帰宅は6月14日とする6日間と決めました。決めたといっても、行ってみないと判らないぶっつけ本番の旅ですから、かなりいい加減なものなのです。要するにこれくらいの期間をさ迷っていれば、新しい旅のために何が必要なのか、いろいろな問題点が見つかるだろうという考えなのです。

 6月9日の当日は、梅雨の合間のピカピカの晴天で猛暑日となりました。数日前に採って来た竹の子を茹でて干して乾燥させるのに絶好の日和となったので、出発を一日遅らせようかと考え、干す作業に精を出していたのですが、午前中で略完璧に乾燥が出来上がったので、念を入れて午後も干し続けることにしたのですが、13時を過ぎるともう待つのが我慢できなくなって、やっぱり予定通り今日出掛けることにしよう決めたのでした。

 14時近くの、暑さが最高潮となる時間の出発でした。今日はキャンプ場に向かうのは止めて、近くにある3つの道の駅のどれかにお世話になることにしようという考えでした。群馬県の赤城山といえば、ここからは高速道を使わずに一般道で行くと、凡そ3時間ほどの行程です。17時頃着けば、道の駅も混んでいないだろうから、そのまま泊って、キャンプ場には明日行けばいいという考えでした。

 車の流れは順調で、R50を走ってみどり市に入り、岩宿遺跡の脇を通ってR353を行き、今日はぐりんふらわー牧場・大胡という道の駅に泊めて貰おうと思って行ったのですが、この国道は入組んでいる箇所が多くて道が判りにくく、ナビのガイドに従って行ったのに、何処かで間違ったようで、一向に道の駅が見当たらないのです。かなり遠回りをした挙句着いた道の駅は、駐車場がやたらに多くてどこが宿泊向きなのは見当もつかない場所なのでした。このようなややこしいところは止めにして、近くにある筈のもう一つの道の駅:富士見に行くことに決めました。こちらの方は直ぐに判って、迷いなく駐車をすることが出来ました。

 その後、泊りの準備に取り掛かり夕食の時間となりました。野菜類などは売店で買えばよいと考えていたのですが、店はすでに閉まっており、来る途中どこにも寄らなかったので、夕食に間に合わせる食材が何もないのです。し方ないので、持参した食パンを齧って済ませることにしました。侘しい食事ですが、今回は酒は飲まずカロリー制限を少し厳しくして暮らそうと思っていたので、これでいいのだと思うことにして、寝床に入りました。あとは眠るだけです。

 日中はかなり暑かったので、下着一枚だけで寝床に横になりました。しばらく眠ったらしいのですが、寒くて目が覚めたのです。長袖の下着は持参していないか、何か上に着られる様なものは入っていないかと収納箱の引き出しを開けてみたのですが、日中の暑さ最高の時間帯での出発だったので、寒さのことなどはすっかり忘れて、何も入れて来なかったのです。ですから、なんぼ探してもないのは当たり前のことです。それでも7分袖の下着が1枚紛れ込んでいたのがあり、これに救われました。取り敢えず最低の防寒対策を講じて、そのまま眠りに就いたのでした。

 第2日目の翌朝は、6時起床。お湯を沸かしコーヒーを淹れて昨夕と同じパンを齧って朝食は終わり。キャンプ場に行くべきかしばし迷う。というのも、食材の他に整理整頓用の小物用具などを用意する必要があり、何処かでそれらを買い求める必要があるのです。それで思い当たったのが、確か道の駅:こもちん近くに大きなスーパーがあった筈、あそこへ行けば大丈夫ではないか。しかし、開店までまだかなり時間があるので、一先ず道の駅:こもちへ行って待つことにしよう、と。この道の駅は元の宿場町の白井宿に造られており、久しぶりに散策するのもいいなと思った次第。道の駅には8時前に到着。それから付近の散策などして時間を過ごし、スーパーの開店時刻の9時半に一番先頭の買い物客となる。

 各種の食材の他に持参して来なかったサンダルなどを買う。防寒用の下着はないかと探したが、皆無だったので、諦めるしかない。30分ほどで買い物を終え車に戻り、しばし思案。ここからキャンプ場に向かうのが本当にベターなのか?何しろ予約などしておらず、当てが外れた時は、又行く場所を考えなければならない、と。そこで思いついたのが、ここまで来ているのだから、この先にある八ッ場ダム近くにある道の駅:あがつま峡に行ってみたらどうかということ。あそこには温泉も併設されているし、未だ吾妻峡という名所にも行っていないので、面白いのではないか。というわけで、たちまち予定を変更して道の駅:あがつま峡に向かうことにした。1時間足らずで道の駅:あがつま峡に到着。

 この道の駅には何年か前に一度泊ったことがある。まだ出来たての頃で、温泉もあり敷地内には広場とドックランの設備や足湯などもあって、子供連れの家族でも楽しめそうな場所だったのを思い出す。今回は温泉に入るのは止めにしているのだが、念のためちょっと覗いてみたら、営業しているらしく、注意書きなどがしてあった。昨日の道の駅:富士見にも温泉があるのだが、こちらは現在営業中止となっていた。コロナでいろいろ難しい世の中になってしまっているのを改めて実感する。

 未だ正午前なので、とにかく今日はここに泊めさせて頂くことに決めて、しばらく様子を見ることにしてサイドドアと後部ドアを開け、用意している農業用の防風ネットのすだれを垂らし、寝床に横たわることにした。今日もかなり暑くなるらしく、この分だと午後は相当厳しくなるなと心配しながらの仮眠だった。間もなく正午となったので、お湯を沸かし、先ほど買ってきたカップヌードルを食す。旅に出た時以外は、この種の食べ物を食することはないので、久しぶりに食べて満足した。

      

道の駅:あがつま峡でのSUN2号。クモの巣に引っかかったようで、見栄えは良くないけど、このネットのすだれは風がよく通って大成功だった。

 

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抗菌→滅菌→殺菌のこと

2021-06-05 04:43:06 | 宵宵妄話

コロナ禍の煽りは絶えることなくい続いていて、やっと作り上げた旅車も庭先に只飾っているだけの時間が続いている。真に退屈だ。なので、くるま旅のことから離れて。最近感ずることの一つについて書いてみたい。

 家内が指先を傷めたりして不調なので、時々食後の食器や調理具の洗いを担当している。自分はもともと炊事の洗い場に食器などを溜めておくのが嫌いなので、溜まっているのを見ていると我慢できなくなって直ぐに洗いたくなる性分なのだが、家内は真逆で溜めて置いて一度に洗いあげるというタイプなのである。これはそれぞれの考えがあってやることなので、どうでもいいことなのだが、ここで取り上げる問題は、その洗い方と洗った物の取り扱い方に対する考え方なのだ。

 家内は徹底的な衛生管理信者の様で、洗いの際は洗剤を使って後に寸部の汚れも残らぬようにするべきと考え実行しているようなのだが、自分の衛生に対する考えはかなり違って、酷い汚れがない限りは出来る限り水洗いで済ませるだけでいいのではないかと思っている。一度、洗剤をつけて洗えというのでそうしたら、使う剤が多すぎると文句を言われたので、無視して元に戻したことがある。今は、可能な限り使用洗剤の量を少なくして洗うようにしているが、それでも時々洗いが少ないとか、つべこべ指摘されることが多い。うんざりしているのだが、うるさい! と言っても、家内はめげることなく指摘の理由などをくどくど述べるのである。

 もう一つは洗い終えた後の器具等の取り扱いなのだが、家内はかごに入れて、その後は拭くことなど決してせずに乾くまで水屋などに収納することは無い。ところが自分はせっかちな性分なので、早く片付けるべきと考え、鍋などの類は布巾を使って水分を取り、乾いた布巾があればそれで最後の拭き取りをして所定の場所に収納しようとする。これに気づくと、家内が飛んできて、そのような台布巾などで拭いたらダメだという。バイキンが洗い終わった器具に付いてしまって台無しになるという考えらしい。そこで又云い合いとなる。妖怪ジジババ同士のいつものショウもない茶飯事なのだ。

 世の中の現代の普通の考え方から言えば、その妥当性は家内の考え方の方に軍配が挙がるに違いない。今の世の中には、衛生の基本として、殺菌、滅菌、抗菌などという言葉が溢れており、それを売りにした商品も数多い。現代の人びとの多くは、これら細菌やウイルスの根絶対処こそが衛生の基本なのだと考えているようだ。

 しかし、自分はそう考えないし、考えたくもない。何故なら人間は細菌やウイルスといった微生物に生かされている側面が大きいのではないかと思い、信じているからである。もし、完璧にこれらの微生物や超微生物を駆除してしまったら、人間にもたらされるのは幸福などではなく、破滅や死滅といったものなのではないか。勿論これらの微生物や超微生物の中には時に悪さをするものも多いのだと思う。しかし、それは毒と薬の関係のようなものではないかと自分は思っている。

 自分は、殺菌や滅菌或いは抗菌などという人間の発想は却って危険ではないかと思っている。人間だけが生き残るためには、悪さをするこのような菌類を根絶させてしまえばいいのだという考えは、人間の哀れな思い上がりに過ぎないのではないか。人間にとって必要なのは、あくまでもこれらの細菌や超細菌類に対する共存意識と行動なのではないか。バイキンとの共存、バイキンと仲良くする心構えが大事なのではないかと思うのだ。

 現在は、コロナ禍の最中にある。人間の目一杯の努力にも拘らず、このウイルスは変異という新たな手段を繰り出して、益々感染力を強大なものとしているようだ。真に憎むべき悪魔のウイルスだと思う。こんな悪魔と共存するという道があるのかと思うのが普通だと思う。敵対して徹底的に戦うべきと言えるのかもしれない。科学の力を借りてワクチンが開発され、人工的に身体の抗体を働かせることで、この難敵を退治できるのだという考えの下に今人間の挑戦が始まっているのだが、果たしてこれだけでこの種のウイルスに勝利できるとは自分は思えない。このチャレンジはあくまでも一時的なものに過ぎないのであって、全人類が自然抗体を保有できるまでは、戦いに勝利したなどとは言えるものではないと思う。自然抗体が出来上がった状態というのは、共存の考えが実現した時なのだと自分は思っている。

このような感染症との戦いは、結局は時間をかけた多くの犠牲者の積りの終に、全員が自然抗体を余裕するという形で、共存関係をつくり上げるということで終了するのではないか。戦いが終わったといっても、ウイルスの全てが根絶したわけでもなく、共存関係が破れた時には、必ず次の悪魔が出現するということになるに違いない。これは、全ての動物の持つ宿命であり、人間だからといって、避けては通れない道なのだと思う。

この問題と食器を水洗いだけで済んだと誤魔化したり、洗いものを布巾などで拭いたりする行為は、必ずしも同じ範疇で論ずることではないのかもしれないけど,やたらと科学の力を借りて微生物や超微生物を敵視して根絶することこそが衛生の基本だなどという考えは、危険千万ではないかと思うのである。家内が何とのたまわれようと、自分のこの信念は変わらない。

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